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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第二章 等級

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25/58

第025話 嘘の診断書

国立人類保全園 第七園

記録管理室


個体診療に係る様式の改正について(通知)


通知日 令和百七十九年二月十日

宛先 獣医室、各区画担当


一、趣旨


個体の診療に係る様式について、記載の項目を整理することとした。


整理の趣旨は様式間の記載の統一による。統一を要すると判断した経緯の資料は、保存年限を超えている。


二、廃止する様式


第十四号様式(所見票)を廃止する。第十六号様式(処置記録)についても同様とした。


廃止の効力は令和百七十九年四月一日から生じる。


三、新たに用いる様式


第二十号様式(個体診療記録)によることとした。


記載の項目は九である。番号と日と部位と種別と範囲のほか、経過、就業、原因、記入者を置いた。


項目の順序は上記のとおりとした。順序は旧様式の並びを引き継いだ。


四、項目の異同


旧第十四号様式の項目は七であった。番号と日と部位と種別と範囲のほか、辺縁と記入者を置いていた。


新様式において「辺縁」の項目は設けなかった。設けない理由の記載は無い。


新様式において「原因」の項目を新たに設けた。設けた旨は改正の要旨の一行目にある。


五、原因の記載


原因は個体の申立てによることとした。申立てが無い場合は直近の同種の例による。


判定に係る立会いは求めない。本項は安全衛生委員会の決定によるものであった。


なお申立てと所見が一致しない場合の取り扱いについて、本通知に定めは無い。


六、旧様式の取り扱い


旧様式の在庫は廃棄することとした。廃棄の記録は求めない。


各室における在庫の数量は把握していない。把握を要する旨の定めが無かったためである。


回収の担当も定めなかった。回収は各室の判断により行うこととした。


七、経過措置


令和百七十九年三月三十一日までは旧様式によることが出来るものとした。


同年四月一日以降の取り扱いについて、本通知に定めは無い。


用いた場合の効力についても記載していない。


八、周知


本通知は獣医室および各区画担当へ配付した。個体への周知は行わない。


配付の部数は十四部であった。受領は配付の際の口頭による。


八の二、すでに作成した票


改正の日より前に旧様式で作成した票は、そのまま保存する。新様式へ書き写すことは要しない。


書き写した場合の取り扱いについて、本通知に定めは無い。


九、備考


本通知の起案の資料のうち、残っているのは決裁の欄のみである。


改正の理由を記載した箇所は「記載の統一による」の一行であった。


起案者の氏名の欄は空欄であった。空欄のまま決裁を経ている。


(記録管理室)


──────────────────


 朝の廊下が濡れていた。金曜は洗う日だ。

 濡れている側を歩くと、履物の音が鳴らない。今朝はその側を選んで歩いた。右で先に出す歩き方が音で分かるからだと思う。


 左は昨日より分かる。

 寝ている間は何も無かった。起きて、床に足を付けた時に来た。場所は外側の一か所だ。

 給餌の前に、上着を捲って見た。

 色が出ている。昨日の夜は無かった。というより、まだ出ていなかったのだと思う。


 色は赤ではない。青でもない。その間の色だ。

 真ん中が濃くて、周りが薄い。外側は皮膚の色と続いている。それで、端の場所が決められない。


 朝の給餌は普通に出た。四三〇の皿だ。

 三八〇の人が向かいに座った。この人は何も聞かない。黙って三口分を移した。


 私は右の手で匙を持つ。右の手のひらの擦れたところは、匙の柄に当たらない位置にある。

 当たらないので、食べる分には困らない。来るのは水を汲む時だ。器の縁を握ると当たる。


 座る時は右に体重を掛ける。掛けると右の腰が当たる。

 両方を避ける座り方は、浅く座って前に傾くやり方だ。ただし皿が遠い。そうなると匙が長く動く。


「行くの、これから」

「行きます」

「朝のうちって言われたのね」

「はい」


 この人は匙を置いた。置いてから、私の顔を見た。

「頬、昨日より赤いわね」

「そうですか」


 食堂を出て、獣医室へ行った。

 獣医室は本館の一階にある。E区画からは廊下を二本と、渡りを一つ通る。


 渡りのところで、洗濯室の歌が聞こえた。

 金曜の朝は床が濡れているので届く。今日は三行目が「なる」で歌われていた。四行目で揃うところは変わらない。


 本館へ入ると床が変わる。E区画は樹脂で、本館は石に近いものになる。

 石は硬い。そうすると足の裏に来る。場所は踵で、左が強い。

 本館の廊下は洗わない。水を入れるのはE区画の南側だけだ。

 それで乾いている。そこを歩くと、履物の音が戻る。そうなると、片方だけ強いのが自分でも分かる。

 獣医室の前室に人はいなかった。

 前の月に並んだ時は、ここから廊下の端まで列があった。今日は椅子が六脚とも空いている。


 前室は静かだ。椅子が四脚あって、二脚は壁を向いている。座面はどれも硬い。脚に樹脂の滑り止めが付いていて、一つだけ外れていた。人がいないと、換気の音が残る。

 音は低い。それは聞いているうちに消える。少し経つと、扉が開いてまた来る。


 椅子は硬い。座ると腰の擦れたところが当たる。

 それで、私は手前に浅く座った。そうすると背中が付かない。支えが無いので、少しずつ前へずれる。


 前室の壁に掲示がある。手を洗う手順が絵で描いてある。

 数は六つあった。上から順に見ると、最後の一つだけ人が笑っている。ほかの五つは口を描いていない。


 掲示の下の隅に日付がある。令和二百六年だ。六年前の紙だ。

 角が丸くなっている。画鋲は四つ刺してあって、そのうちの一つは穴だけが残っている。落ちた分だと思う。


 二分ほどで、奥の扉が開いた。


「J-0037」

「はい」

「入って。そこに座って。今日は私しかいないから」


 香月獣医師だった。白衣を着ている。袖は捲っていない。

 首の札は下げていない。机の上に置いてある。裏返してあるので、書いてある側は見えない。

 診察室にはほかに誰もいなかった。

 係員もいない。前の月に採取をした時は二人いた。今日は一人だ。


 部屋の匂いは次亜塩素酸だ。強くはない。

 朝のうちに拭いたのだと思う。拭いた直後より、少し経つと匂いが立つ。


 診察室は前の月に入った前室より広い。机が一つと、椅子が二つある。

 奥にもう一つ台がある。処置台だ。今日は白い布が掛かっていない。それで、表面が見える。


 壁に棚があった。奥行きは腕の半分ほどになる。上の段は目の高さより少し上だ。手を伸ばせば届く。踏み台は置いていない。三段で、上の段に箱が並んでいる。

 箱の側面に字が刷ってある。字は小さくて、この距離では読めない。取れるのは大きさの違いになる。


 棚の一番下の段は空だ。それなのに埃が無い。

 最近まで何か置いてあったからだと思う。置いてあった跡は残っていない。


 私は椅子に座った。この人は机を向かないで、体をこちらへ向けている。

 そのままで、机の上の紙を一枚取った。その時に手だけを伸ばす。目はこちらを見ている。


「昨日の分ね。区画から回ってきてる。もう読んだわ」

「はい」


「読むんですか」

「回ってきたものは読むわね。読まないと確かめようが無いから」

「全部ですか」

「全部じゃないの。獣医室に係るものだけになるわ」


 この人はその紙を膝の上に置いた。それから、指で押さえる。

 指の下に折り目がある。折って持ってきたものを開いたのだと思う。


「上着、脱げる? 無理ならそのままでいいのよ」

「脱げます」


 私は脱いだ。そうすると右の肩が上がらない。擦れたところが引っ張るからで、痛いのとは別だ。

 脱いだ上着は膝に載せた。載せると、膝の上が温かくなる。


「まず右ね。これは擦り傷で、深くはないわ」


 この人は右の肩を見た。触りはしない。

 見る時、少し屈む。そうすると目の高さが肩と揃う。そこから見ると、擦れたところの浅い深いが分かるらしい。


 次に触った。指の先だけを当てる。当てて、少し動かす。

「はい」

「痕は残らないと思う。残っても分からなくなるくらいね」


 この人は定規を取った。金属の定規で、目盛が黒い。

 当てると冷たい。金属だからで、部屋が寒いわけではない。


「四センチ。肩のほうは、これで測れるわね」

 この人はそう言って、紙に書いた。それは膝の上のものとは別だ。


 腰も見た。こちらが広い。

 定規を当てる。その時に、私は少しだけ体を捻った。そうすると縁が見えなくなる。


「動かないで。痛かったら言って。我慢しても意味ないから」

「はい」


 七センチと書いた。

 それから、この人は頬を見た。そこは近づかないと分からない。この人は近づいて、二センチと言った。


 定規は目盛の側を下にして当てる。その後、この人は指で端を押さえる。

 動かないようにするためだ。私が止まっていても、そうする。それから読む。


 読む時、この人は一度だけ目を近づける。幅は少ない。

 それから、また離す。もう一度見る。二度見てから言う。三か所ともこの順になる。


「ここまでは昨日の紙のとおりね。三つとも右になってる」

「はい」


 この人はそこで一度、手を止めた。

 それから、膝の紙をもう一度見た。時間は長くない。三つ数えるくらいだ。


 この人は書いた紙を一度持ち上げて、目の高さで見た。

 短い。それから、机へ戻す。その時に角を揃える。相手は下にある別の紙だ。


 揃えると縁が一本の線だ。ならないところは指で押す。

 回数は二度だ。それで揃う。そこで、この人はこちらへ向き直った。


「左の腿、見せて。裾は上げられるところまででいいわ」


 言われてから、私は少し待った。

 上着をどける手順を決めていなかったからだ。膝の上に置いてあるものを、何処へ置くかが決まらない。


 椅子の背に掛けると落ちる。床に置くと濡れる。床は拭いたばかりで、まだ乾いていない。

 私は結局、膝の横に挟んだ。そうすると片手が使えなくなる。塞がるのは右だ。


 私は上着を膝からどけた。作業着の裾を上げる。

 そうすると外の空気が当たる。触れるところと触れないところの境が、腿の真ん中にできた。

 この人は屈んだ。屈んで、見た。

 時間が長い。さっきの三つよりずっと長い。私は数えなかったが、二十を数えるより長かったと思う。


 それから、指で触った。

 やり方が違う。押すのではなく、なぞる。輪郭の上を、指の腹で一周する。


 なぞった指が、途中から真っ直ぐだ。


 私は自分の腿を見た。指はまだ動いている。

 真っ直ぐな部分の長さは、指の三本ぶんほどある。そこを過ぎると、また曲がった。

 この人は同じところをもう一度なぞった。二度目もそこで真っ直ぐだ。

 二度目の後、指を離した。その指を、この人は少しの間そのままにしていた。


 色は真ん中が濃い。そこから外へ行くほど薄くなる。

 落ち方は場所で違う。上は少しずつで、下は急に切れる。その側が指の真っ直ぐだった側になる。


 すると、遅れてくる。幅は今朝より広い。

 押した後に来るものは、押している間には出ない。離してから来る。少し経つと引く。そこまでの時間は数えられない。


「触るわね。押すと分かることがあるの。見るだけじゃ足りないから」

「はい」


「定規、当てるわね。冷たいけれど、じっとしていて」

「はい」


 九・二センチと言った。それから五・八センチと言った。

 それから、この人は定規を持ち替えて、真っ直ぐな部分にも当てた。


「六」

 この数は声が小さかった。私に言ったのではないのだと思う。


 この人は立って、机へ行った。

 机の上には紙が何枚か重ねてある。上の一枚を取ろうとして、取らなかった。


 取らないで、机の下の引き出しを開けた。

 下から二段目だ。開ける時、この人は中を探さない。手を入れて、そのまま出した。


 出したのは紙だった。今までのものとは違う。

 色が違う。少し黄色い。寸法も別で、一回り大きい。机の上に置くと、下の紙からはみ出す。


 はみ出したところだけ、色が濃い。

 重ねてある紙の下で日に当たらなかったからだと思う。上に出ている分は薄くなっている。


 この人はその紙に書き始めた。

 書く前に、上から順に見ない。いきなり三つ目のあたりから書いた。


 私は欄の数を数えた。横の線が七本ある。

 昨日、係員が書いていた紙は九本だった。廊下で見た時に数えた。


 七と九の違いが何処にあるのかは、この位置からは分からない。

 紙は裏返しにこちらを向いている。線の数は透けて見えるが、刷ってある字は読めない。

 書く速さは項目で違う。上の三つは速い。四つ目で止まる。

 止まっている間、ペンの先は紙に付いたままだ。そうしていると、そこに丸い染みが出来る。その上から書き始めた。

 書く字は小さい。欄の高さの半分も使わない。

 半分しか使わないのは、書く量が決まっていないからだと思う。分からないと、余る側へ寄せる。


 途中で一度、この人は紙を回した。

 下の欄に書くためだ。そうすると、こちらから見える線の向きが縦になる。そこで、数えた七本が消える。


「これ、何の紙ですか」

「所見の紙。昨日のとは別のものになるわ」


「昨日のとは違いますか」

「違うわね。こっちはもう使わないことになってる紙なの」


 この人は書きながら答える。その間も手が止まらない。

「古いと駄目ですか」


「駄目じゃないでしょうね。廃止の通知は出ているけれど」


 書き終わって、この人はペンを置いた。

 それから、指を一度だけ握る。そして、開いた。それから、その手をもう一方の手の上に載せた。


「聞いてもいい? 昨日、何を持って歩いてたの」

「袋です」


「重かった? 地面は何だったの」

「軽かったです」

「地面のほうは」

「石です。細かいのが敷いてあります」


 この人は書き足した。量は少ない。

「暗かった? 灯はいくつあったの」

「一つでした」


 この人はそれ以上聞かない。

 聞かないので、私から言った。


「転びました」


「うん」

 この人はそう言って、紙へ目を落とした。こちらは見ない。

「そう書いてあるわね、昨日の紙のほうにも」


 この人は膝に置いてあった紙を机へ戻した。その時に裏返した。

 それで、書いてある側が下になる。伏せた紙は、ほかと変わらない厚さの一枚だ。


「私が書くのは所見だけよ。それ以上のことは書かないの」

「所見」


「見えたもの。見えたものしか書かないわ」

「原因は書かないんですか」


「この紙に、原因を書く欄が無いのよ」


「新しいほうにはあるんですか」

「あるわね。新しいほうの九つ目に付いてるの」

「九つ目」

「一番下よ。一番下にあるものは、たいてい後から足したものなの」


 私は昨日の紙のことを思い出した。廊下で見た時、線は九本あった。

 九本目が何処にあったかは覚えていない。残っているのは本数になる。


「先生、辺縁って何ですか」


「へり。傷のへりがどんな形をしているかということ」


「それは新しいほうに書けますか」

「あっちには書く欄が無いのよ。整理した時に消えたの」


 この人はそう言って、紙の縁を指でなぞった。

 なぞる向きは上から下だ。端まで行って、そこで止まる。その場所に何か刷ってあった。


「冷やしましょう。十分ね。その間は動かないで」


 この人は棚から袋を出した。中に冷たいものが入っている。

 布に包んで、左の腿に当てた。当てると、触れたところだけが遅れて冷たくなる。


「はい」

「明日のほうが痛いから。今日じゃなくてね」


 私は十分を数えた。時計は壁に無い。診察室にも無かった。数える道具は自分の頭しかない。三十までを二十回だ。

 途中で二度、数が分からなくなった。その時は次の三十から数え直した。


 冷たさは三つの段になってくる。

 最初は表面だけだ。次に、当たっているところ全体が冷たくなる。三つ目で、冷たいのか痛いのか分けられなくなる。

 三つ目まで来るのに、二分ほどかかった。

 そこから先は変わらない。そのまま八分が過ぎる。その間、私は数えることのほかに何もしなかった。


 布は途中で位置が動く。そうすると、触れていなかったところが冷たくなる。

 冷たくなったところと、さっきまで冷たかったところの境が分かる。それは動く。速さは私が布を直す間合いで決まる。


 部屋には音が三つある。ペンの音と、換気の音と、外の音だ。

 外の音は磨り硝子の向こうから来る。人の声ではない。台車のようなものが動く音で、間隔が空いている。

 ペンの音は続かない。書いて、止まって、また書く。

 止まっている時間が長い。それなのに、紙の上の字は増えていく。速さは音の数と合わない。


 私は椅子の上で足の位置を変えた。変えると布がずれる。

 ずれたら当て直す。それには片手が要る。右で、その手のひらの擦れたところが布に触れる。それでも、冷たさが先に来る。


 その間、この人は机で書いていた。

 書いているのは別の紙だ。旧いものは、机の端に寄せてある。


 途中で、この人は一度だけ立った。

 立って、窓へ行った。そこは磨り硝子で、外は見えない。明るさが入る。


 この人は窓の前に立って、外を見ようとはしなかった。

 立っていた時間は短い。四つか五つ数えるくらいで、机へ戻った。


「就業、どうするんですか」

 私は聞いた。

「制限は付けないわ。付けても洗濯と清掃は変わらないもの」

「付けないんですか」

「付ける意味があるなら付けるけれど、無いのよ」


 この人は書き終えた紙を二枚に分けた。

 一枚は上の重ねへ。もう一枚は、机の端に寄せたままにした。


「これは何処へ行くんですか」

「綴じるところが書いてないのよ、この紙には」


「書いてない」

「昔の紙だから。今の綴りの決まりに入ってないの」


 この人は寄せた紙を、引き出しへ戻した。

 戻したのは、出したのと変わらない段だった。その時も探さない。


「先生」

「なに。まだ何か聞きたいことがあるの」

「その紙、何処にあったんですか」


 この人は引き出しを閉めた。閉めてから答えた。

「前の先生のよ。捨てなかったみたい」

「先生も使うんですか」

「使わないわね、普通は。使う理由が無いもの」


 十分が過ぎた。この人は袋を外した。

 外したところは冷たくなっている。表面だけで、押すと下は変わらない。


「終わりね。上着を着ていいわ。ゆっくりでいいから」

「はい」


 私は上着を着た。その時に右の肩が引っ張る。

 そこを避けて袖を通すと、時間がかかる。この人はそれを見ていた。それでいて、手は出さない。


「明日、腫れが引かなかったら来て。来なくていいと思うけれどね」

「はい」


「先生」

「なに」


「これ、何日で消えますか」

「二週間くらいかしらね。色は先に変わるけど」


「変わると消えるんですか」

「消えないわ。色が変わってから消えるの」

「順番があるんですか」

「順番はあるわね。人によって速さが違うだけで」


「先生はいつからここに」


「そういうことは聞かないの。聞いても仕方がないから」

「はい」

「聞かれても答えないわ。私が決めたことじゃないから」


 この人は棚を向いた。向いてから、袋を戻す。

 場所は取ったところに戻っている。棚の中で、その一つだけが手前に出ている。次に取る人のためだと思う。

 私は立った。立って、扉へ行った。

 途中で、処置台の脇を通る。それは診察室の奥にあって、今日は使っていない。


 台の上に輪が残っていた。


 円い跡だ。直径は十センチほどある。

 中は乾いていて、縁のところだけ色が違う。消毒液が乾いた跡だ。


 輪は一つではなかった。少しずらして、もう一つある。

 二つ目が薄い。前に付いたもので、その上を拭いた時に外側だけ残ったのだと思う。


 台は金属だ。光が斜めから当たると、輪がよく見える。

 正面からでは分からない。私は台の脇に立っていたので見えた。座っていた位置からは見えなかったと思う。


 輪の内側に、細かい傷が何本もある。傷は一つの向きに揃っている。

 揃っているのは、拭く向きが決まっているからだと思う。人が替わっても変わらないのは、そう習うからだ。

 拭くのは布でやる。それは円く動かす。そうすると、真ん中は拭けて、縁が残る。

 その縁が輪になる。輪の数は拭いた回数ではない。拭ききれなかった回数だ。

 私は数えた。二つだった。


 二つのうち、新しい輪の縁には小さい泡の跡がある。

 泡が乾いてから割れたのだと思う。割れた跡は円が並んでいて、数は五つか六つある。


 台の脚のところに、床の色が違う四角がある。

 台を動かした跡だ。動かした後に元へ戻して、少しずれた。ずれた幅は指一本ぶんだ。


 扉を開けて、廊下へ出た。

 廊下はさっきより乾いている。乾いた側が広い。


 歌はもう聞こえない。

 干し終わったからだと思う。終わる時刻は毎日だいたい変わらない。

 乾いた側と濡れた側の境は、三本目の継ぎ目より南にある。

 朝より南へ寄っている。速さは日によって違う。今日は昨日より速い気がする。ただそれだけで、比べる目盛は無い。


 私は境の上に立ってみた。片足が濡れた側で、片足が乾いた側だ。

 濡れた側の履物は音が出ない。乾いた側は鳴る。歩かなくても、体重を移すだけで違いが分かる。


 廊下の途中で、係員が二人すれ違った。二人とも書類を持っている。

 持ち方はいつもと変わらない。胸のところで抱える。そうすると縁が上を向く。そこだけが、こちらから見える。


 食堂の前を通ると、掲示板があった。

 九月の順位表が貼ってある。私はまだ見ていなかった。


 見た。九十七番目に私の番号がある。八月と変わらない場所だった。

 上の人が誰も動かなかったからだ。


 順位表の紙は前の月のものより白い。刷り直したのだと思う。

 白いので、番号の字が濃く見える。それだけで、字の大きさは変わらない。


 私の番号の上には九十六人いる。下には六十五人いる。

 合わせて百六十二だ。八月と変わらない。乙の人数が動いていないからだ。


 紙の右下に日付がある。九月十日と刷ってある。

 貼られたのはその日で、私が見たのは今日だ。七日ぶん、私は自分の場所を知らずにいた。

 掲示板の脇に、もう一枚の紙がある。就業の割当の変更で、今月は二人分だけ載っている。

 二人とも私の知らない番号だった。番号の頭の字はどちらもEだ。一つの区画の人になる。


 変更の理由の欄は無い。あるのは番号と、前の割当と、新しい割当の三つだ。

 三つあれば足りるのだと思う。そう思わない人がいるかどうかは、この紙からは出てこない。


 私は自分の腿を上着の上から押した。

 押すと、遅れてくる。幅は朝より広い。色が出たからだと思う。


 午前の当番は洗濯だった。

 袋は六枚ある。持つ時に右で抱えた。そうすると、左に体重が乗る。乗せている間だけ分かる。


 洗濯室の三人は、もう歌っていなかった。

 干し終わった後は歌わない。声が出るのは持ち上げる時だけだ。上げるものが無ければ、合図も要らない。

 一人が私の歩き方を見た。それから、何も言わない。

 袋を一枚こちらから取った。その分だけ私の持つ数が減る。それについても、この人は何も言わなかった。


 干し場は洗濯室の外にある。物干しは三列で、一列に十四本の竿が渡してある。

 濡れた布は洗濯洗剤の匂いがする。竿へ掛けると、匂いは上へ動いた。乾くと薄くなって、畳む頃には指へ移る。

 竿の高さは私の額くらいだ。掛ける時は腕を上げる。上げると右の肩が引っ張る。


 そこを避けると、腕が上がりきらない。伸びきらないと竿に届かない。

 その分は爪先で足す。すると左に体重が乗る。そこで一度止まることになる。

 止まる回数は数えた。午前のうちに十九回あった。

 十九回のうち、誰かが見ていたのは最初の一回だけだと思う。あとは誰も見ていない。それで、数えたのは私だけだ。


──────────────────


国立人類保全園 第七園

獣医室


所見票(第十四号様式)


対象 J-0037

日 令和二百十二年九月十七日

記入 獣医室 香月


一、部位および種別


一 右肩関節部 擦過


二 右腸骨部 擦過


三 右頬部 擦過


四 左大腿部外側 打撲


二、範囲


一 約四センチ


二 約七センチ


三 約二センチ


四 九・二センチ 掛ける 五・八センチ


一から三は当日朝に測定した。四についても同時に測定している。


三、辺縁


一から三 不整であった。周囲との移行は緩やかであった。


四 一部が直線状であった。直線部の長さは約六センチである。


四 直線部の両端において、周囲との移行は急であった。急である旨を記載する欄は、本項のほかに無い。


四、経過


四については、当日朝の時点で色調の変化を認めた。前夜の届出の時点では認めていない。


前夜の届出の時点における記載は「発赤なし」であった。当日朝の記載は「暗紫色」である。二つの記載の間は九時間であった。


冷罨法を十分行った。実施は本票の記入と同時であった。


五、就業


制限は付さないこととした。洗濯および清掃の作業に支障を認めなかったためである。


六、記入者


獣医室 香月


五の二、指示


翌日以降の受診は要しないこととした。腫脹が残る場合は再度の受診を指示している。


指示は口頭によった。口頭による指示を記載する欄は、本様式に無かった。


六の二、写し


本票の写しは作成していない。写しを要する旨の定めが本様式に無い。


区画担当への通知も行っていない。通知の相手は獣医室および資料館の二つとした。


六の三、辺縁の記載について


辺縁の項目は新様式に無い。本票を用いたのはこのためである。


他の様式による代替の可否は確認していない。確認の照会も行っていない。


七、備考


本票は旧様式によった。旧様式の在庫は令和百七十九年に廃棄することとされていた。


廃棄の記録は求められていないため、在庫の有無は確認出来ない。


本票の綴込先の指定は、本様式に無かった。本票は書いた者の手元の綴りに入っている。


本様式は令和百七十九年三月をもって使用しない。

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