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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第二章 等級

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24/56

第024話 蹴られた夜

国立人類保全園 第七園

安全衛生委員会


議事要旨(抄)


回次 令和二百十二年度 第一回

開催 令和二百十二年四月十日

作成 総務課


一、出席


委員は九名である。うち出席は七名であった。欠席の二名は代理を立てていない。


代理の可否は、設置の要綱において委員長の判断とされている。


二、前年度の傷害


前年度に届出のあった傷害は十四件であった。うち職員に係るものは三件である。


個体に係るものは十一件であった。原因の内訳は転倒八、接触二、その他一である。


その他一の内容は口頭により付した。届出の様式に当該の欄が無い。


三、呼称


個体に対する呼称は、個体番号によることとした。


氏名または愛称による呼称は、業務の場において用いないこととする。誤認を避けるためである。


本項は令和百八十一年の決定を継続するものであった。継続は毎年度、議題の一に自動で載る取り扱いである。


四、接触


職員は業務上必要な場合を除き、個体に直接手を触れないこととした。


必要な場合の範囲は、獣医室の処置および保定に限ることとした。ふれあいの部門はこの限りでない。


触れた場合は、手指を洗浄することとした。洗浄の記録は要しない。


洗浄を要する理由は衛生上の措置による。理由を記載した資料は、本委員会の綴りに無い。


五、器具の受渡し


個体と職員の間で器具を受け渡す場合は、一方が手を離した後に他方が持つこととした。


同時に持つことを避ける趣旨であった。趣旨を記載したのは令和二百四年の議事である。


六、時間外の作業


時間外に個体を作業へ従事させる場合は、職員一名以上を付けることとした。


一名でよい旨を確認したのは本年度である。前年度までは二名以上としていた。


変更の理由は、要員の配置によるものであった。


七、傷害の届出


傷害が生じた場合は、区画の担当が個体記録票へ追記することとした。


原因の判定は、個体の申立てによることとした。申立てが無い場合は、直近の同種の例による。


判定に係る立会いは求めない。求めない旨を定めたのは令和百九十六年であった。


八、本年度の状況


本要旨の作成の時点において、本年度の個体に係る傷害は十一件であった。


原因の内訳は転倒九、接触二である。前年度の同期は八件であった。


八の二、周知


本要旨は各区画の担当へ写しを配ることとした。個体への周知は行わない。


個体への周知を要する項目の有無について、検討した記録は無い。検討を求める定めも無い。


九、次回


次回は十月に開催する。議題は前年度の総括の続きとした。


本年度の開催の予定は二回であった。前年度は三回である。減は委員の異動に伴うものと聞いている。


十、その他


委員の一名から、傷害の届出の様式に原因の欄を増やしてはどうかとの発言があった。


現行の様式は転倒、接触、その他の三区分である。増やす場合の区分の案は示されなかった。


本件は次回以降の検討とした。検討の時期は次回の議題の調整による。


(作成 総務課/写し 各区画担当、獣医室)


──────────────────


 夕方の給餌の時、手からまだ木の匂いがした。

 昼に板を持った分だ。洗っても落ちない。手の皺の中に粉が入っているからだと思う。


 匂いは指を鼻の近くへ持っていくと分かる。離すと消える。

 分かる距離は五センチほどだ。それより離すと、食堂の匂いが勝つ。


 食堂の匂いは完全栄養食の蒸れた甘さだ。夕方が一番濃い。

 濃いのは三度目だからだと思う。朝と昼の分が、まだ部屋に残っている。


 皿は四三〇だ。私は普通に食べた。

 資料館から帰ってきたのは五時前で、下りは千七百歩より少なかった。数えたら千五百二十歩ある。


 三八〇の人が隣に来た。この人は今日も洗濯の当番だった。

「外、行ったんだって」

「行きました」


「遠かった?」


「千七百歩でした」


「帰りは」

「千五百二十歩です」

「減るのね」

「下りだからです」


 この人は匙を止めた。止めてから、少し考える。

「じゃあ、上がると増えるのね」

「増えます」

「私、上がりたくないわ」


 この人はそう言って笑った。私も口の端を上げた。

 それから、この人は三口分を私の皿へ移した。音は今日も出ない。

 食堂は明るい。天井の灯が六つ点いていて、六つとも明るさが揃っている。

 窓の外はもう暗くなり始めている。九月の半ばだと、五時半で外が暗い。

 明るいところから暗いところを見ると、硝子に部屋が映る。

 そうすると外が見えない。それで、外が暗くなったことは硝子の映り方で分かる。映りが濃くなるほど外が暗い。


 私の席は硝子から三つ目だ。そこからだと、自分は映らない。

 入るのは天井の灯と、卓の縁と、向かいの人の肩までになる。それより上は映らない。角度の話だ。


 皿を空にするのに十二分かかった。いつもより長い。

 坂を下りてきた後だからだと思う。歩いた後は、噛む速さが落ちる。その分だけ長くなる。

 六時前に、区画の担当が食堂へ来た。

 紙を持っている。紙を見ながら番号を読み上げた。出たのは二つで、そのうちの一つが私だった。


「J-0037。搬出が残ってる」

「はい」

「資料館の袋。裏へ下ろす」


 資料館の袋は三つある。樋から落とした樹脂の葉が入っている。

 搬入口に置いたままで、今日中にE区画の裏の空地へ運ぶことになっていた。


 もう一つ読み上げられた番号の人は、来なかった。

 理由は言われない。担当はもう一度だけ番号を読んで、それから紙を畳んだ。


「一人でいい。作業班が一人付く」

「はい」


 私は皿を返しに行った。返却の口は食堂の奥にある。

 返す時、皿を重ねる向きが決まっている。四三〇と三八〇は別の山にする。数が違うと洗う時間が違うからだと聞いた。


 山はすでに高い。私のが一番上だ。

 上に乗せると、少しだけ傾いた。傾いたまま置いておくと崩れるので、私は下の一枚を押して揃えた。


 外へ出ると、風があった。

 昼より冷たい。腕の外側から来る。上着はまだ出ていない。九月の支給は十月からになる。

 搬入口は資料館の裏だが、袋はすでに下ろされていた。

 台車で運んだらしい。台車は坂の途中の詰所に置いてある。そこから先は台車が使えない。段があるからだ。


 段は五つある。踏み面の幅は靴一足ぶんで、端が丸くなっている。上の二段だけ縁に金具が入っていた。どれも高さが違う。

 造られた年で分かれるのだと思う。上の二つは低くて、下の三つは高い。


 袋は詰所の脇に三つ並んでいた。

 誰かが揃えたのではなく、下ろした順にそうなったのだと思う。三つとも口が上を向いている。


 私は袋の一つに触った。表は冷たい。中は軽い。

 冷たいのは外に置いてあったからで、触ってすぐは冷たさが手のひら全体に来る。手を離すと、離した側から戻る。


 作業班の一人が先に来ていた。戸波さんだった。


 この人は昼と同じ作業着を着ている。帽子もそのままで、庇は深い。

 手袋はしていない。道具も持っていない。運ぶものが袋しかないからだと思う。


 照明は詰所の壁に一つある。

 その灯は下向きに付いていて、光は足元までしか来ない。腰から上は暗い。


「持て」

「はい」


 私は一つを持った。持つと軽い。樹脂の葉は乾いていると軽い。

 それでいて嵩がある。抱えると腕が広がる。そうなると、段を下りる時に足元が見えない。


 段を下りる。一つ目で足を探した。探すのに二秒かかる。

 二つ目からは覚えた。覚えると速い。五つ目で平らだ。

 平らになってからは坂だ。そこは舗装してあって、下りは足の指に来る。

 指の付け根がまだ昼の分で張っていた。そこへ下りの分が乗る。


 坂の左に側溝がある。蓋は一枚おきに継ぎ目が入った。坂と同じ勾配で下りている。

 夜は中が見えない。それでも、水の音がすれば分かる。今日は音がしなかった。


 途中で二度、色の変わるところを越えた。舗装した年が違うところだ。

 夜だと色は分からない。取れるのは足の裏で、継ぎ目のところだけ少し硬い。


 戸波さんは二つを持っていた。片方ずつ、両手に下げている。

 下げると膝の横に当たる。当たる度に袋が鳴る。乾いた葉の音で、一定の間隔だ。


 私は一つしか持っていない。空いた手が一本ある。

 それは振れる。動かせば歩きやすい。それでも、私は振らなかった。音の間隔が乱れる。


 前を歩く人の袋の音は、二つで一つの拍だ。

 右が鳴って、少し置いて左が鳴る。置く間は毎回変わらない。それで、聞いていると数えられる。


 坂の下まで、私は三百十二まで数えた。

 三百十二は袋の鳴った回数で、歩数ではない。それはこの人の歩幅で決まるので、私の歩数とは合わない。


 坂を下りきると、E区画の裏だ。

 空地は暗い。土が剥き出しで、踵が沈む。歩くと足跡が残った。照明は一つあって、袋のところまでは届かない。明かりの端に、泥の袋が積んである。


 泥の袋は八日前より増えていた。四段の上にもう一段ある。

 一つの段で十二袋になる。洗浄の日に側溝から出た分だと思う。洗う回数が増えたので、出る分も増えた。

 その向こうに、灰色の四つがある。

 輪郭だけが見える。結び目の形が違う四つだ。今日も昨日の場所にある。


 空地には匂いがある。泥の袋から来る。

 昼より弱い。温度が下がったからだと思う。匂いは温度が上がるとよく出る。


 弱いぶん、遠くまでは来ない。三歩離れると分からなくなる。

 そうなってから戻ると、また来る。二度目が強い。鼻が忘れているからだ。


 私は段の数を数えた。五段ある。一段目が一番下で、四段目までは前に見た。

 五段目は上に乗っているぶん、風で動く。動くと袋が擦れる。擦れる音は乾いた音だ。


 積み方は下ほど詰まっている。上へ行くほど隙間がある。

 高く持ち上げると置く位置が雑になるからだと思う。持ち上げる高さは肩より上だ。


 樹脂の葉の袋は、泥の袋とは別のところへ置くことになった。

 場所は決めていない。それで、私は泥の山の脇へ下ろした。


「そこじゃない」

 戸波さんがそう言った。


「何処ですか」


「壁側」


 私は持ち上げて、壁側へ移した。

 壁側は照明から遠い。移すと、袋の色が分からなくなる。それで、置いた場所を足で覚えた。


 三つを並べた。並べてから、一つの口が開いているのに気がついた。

 結んでいない。そのまま下ろしたのだと思う。


 開いたままにすると、風で葉が出る。出た分は明日の朝に散っている。

 拾うのは朝の当番だ。それは私ではない。それでも結ぶことになっている。


 私は屈んで、口を閉じようとした。

 二重にして、端を下へ入れる。今日の昼に教わったやり方だ。


 戸波さんも同じ袋の口へ手を伸ばした。

 私の指の横に、この人の指が来た。


 当たった。今日で二度目だ。


 この人は手を離した。袋の口が開いて、葉が少し出る。

 落ちたのは五枚か六枚だ。地面に落ちて、乾いた音を立てる。


 私は葉を拾おうとした。屈んだままで、手だけを伸ばした。


 最初に分かったのは音だった。

 袋を蹴った時と同じ音がする。低くて、短い。布と何かが当たる音だ。

 次に、体が横へ動いた。

 自分の力ではない。左の腿の外側に、押されたものがある。


 地面が来た。手を出す暇は無い。

 右の肩から落ちて、その後で頬が付いた。地面は乾いている。細かい石が敷いてあって、石は顔の下で動かない。


 息が入らなかった。二度、入らない。

 三度目で入った。その時に音が出た。自分の喉から出た音だ。


 私は目を開けていた。開けていたので、地面が見えた。

 石の一つが目のすぐ前にある。石には角がある。そこだけ光っていた。照明を向いているからだと思う。

 石の向こうに、葉が二枚落ちている。さっき出た分だ。

 二枚とも表を上にしている。樹脂の葉は表と裏で色が違う。表は濃くて、裏は白っぽい。


 二枚が同じ向きなのは、落ち方が揃ったからだと思う。

 残りの三枚か四枚は、この位置からは見えない。そこにあるものは、明日の朝に誰かが拾うことになる。

 戸波さんは袋を積んだ。

 三つとも積んだ。積む音は私が置いた時より速い。


 積んでから、この人は動かない。

 その時間は長くない。十を数えるより短かったと思う。測っていないので出せない。


 それから、行った。

 坂を上がる音がする。踵から落ちて、爪先で少し引きずる音だ。音は途中で聞こえなくなった。


 私はしばらく地面にいた。

 いた時間は分からない。数えていない。そこまで頭が戻っていなかった。


 戻ってから、最初にしたのは息を数えることだった。

 四つのうちに、息は普通に戻る。それからは、地面が冷たいことが先に立った。


 地面は昼のうちに温まって、夜に冷める。

 まだ熱が残っている。頬の下だけが少し温かい。私がそこにいたからかも知れない。

 私は自分で立った。

 立つ時に、右手を地面に付いた。付いた手のところに石の跡が残る。跡は白い点になっていて、払うと落ちた。

 左の腿は立ってから分かる。

 屈んでいた時は来なかった。伸ばすと、外側の一か所だけが遅れて伸びる。


 歩けた。速さは普通より少し落ちる。

 左の足が先に出ないからで、右で先に出すと歩幅が揃わない。そのまま坂を上がった。


 上りは下りより左に来る。踏み込む側が左になるからだ。

 来る度に、一度だけ動きが止まる。それは短い。外から見て分かるかどうかは分からない。


 途中で二度、休んだ。場所は坂の途中の壁のところだ。

 そこは昼のうちに日が当たる側で、夜でもまだ少し温かい。背中を付けると、上だけが温かい。


 休んでいる間、上を見た。詰所の灯があった。

 球は一つだけだ。その周りに虫が回っている。速さは一定で、離れると見えなくなる。


 上がりきると、廊下がある。

 灯は半分だけ点いていた。六時を過ぎるとそうなる。落ちている側は南で、点いているのは北だ。


 半分にする決まりは掲示に無い。それでも毎日そうなる。

 誰が消しているのかを、私は見たことがない。消える時刻は毎日同じで、六時ちょうどではない。少し後だ。


 点いている側を歩くと、影が前に出る。消えている側を歩くと、影は無い。

 私は消えている側を歩いた。歩幅が揃わないのは、影が無いと分かりにくい。

 廊下には誰もいない。六時台の廊下は人が少ない。

 この時刻が食堂と居室の間になるからだ。食べ終わった人は居室へ戻って、そこから出てこない。


 誰もいないと、自分の履物の音だけが残る。

 今日の音は普段と違った。片方だけ強い。右で、そちらに体重を掛けているからだ。


 南は暗い。そちらに洗い場がある。

 私はそちらへ行った。行ったのは、手に石の粉が付いていたからだ。


 洗い場は屋根が無い。上を見ると空だけになる。今夜は星が二つ見えた。雲は東の端にだけあった。数は二つになる。

 洗い場の水は冷たい。指の先から冷たくなる。

 右の手のひらに擦れたところがあった。血は出ていない。皮が薄くなっているだけだ。


 水を当てると、そこだけ痛い。当てなければ痛くない。

 私は当てないように洗った。当てないように流すと、そこだけ落ちない。


 頬に付いた砂も落とした。落とすと、指に細かいものが残る。

 それを流す。水の音は夜に大きく聞こえる。廊下に人がいないからだと思う。

 顔を洗うと、木の匂いが薄くなった。

 昼から残っていた分だ。夕方まで残って、夜に消えた。水のせいなのか、時間のせいなのかは分けられない。


 手を見た。両方の手のひらに、まだ粉が入っている。

 残るのは皺の中で、そこは石鹸でも落ちない。抜けるのは何日かかけてだ。


 三八〇の人が洗い場に来た。

「まだ起きてたの」


「はい」


「搬出だったの」

「終わりました」


 この人は私の顔を見た。見てから、少し近づいた。

「頬、赤いわよ」

「そうですか」


「擦ったの」


 私は「転びました」と言った。

 この人はそれ以上聞かない。聞かないで、自分の手を洗い始めた。


「暗いものね、あそこ」

「暗いです」

「灯が一つしか無いのよ。前から言ってるんだけどね」


 この人は蛇口を閉めた。閉めてから、手を振らずに袖で拭いた。

 そして、私の腕を一度だけ叩いた。右の腕で、力は入っていない。


「明日、洗濯替わろうか」

「大丈夫です」

「無理しなさんな」

「はい」


 この人は行った。その時、廊下の点いている側を歩く。

 影が前に出る。影は歩く度に短くなって、灯の真下で一度消える。消えてから、また後ろへ伸びた。


 この人が行ってから、私は控室へ行った。


 ふれあい広場は夜に通ると広く見える。

 昼は人がいるので、広さが分かりにくい。夜は端まで見える。そうすると、思っていたより狭い。


 合成マットは片付けてある。壁際に重ねて立ててあって、重ねた数は十二枚だ。

 立てておくと乾く。敷いたままだと下が乾かない。そうなると匂うと聞いた。


 控室はふれあい広場の脇にある。夕方は誰もいない。

 扉に鍵は掛かっていなかった。ふれあいの部門の扉は、日中しか鍵を使わない。


 控室には鏡がある。縦が七十センチほどで、横は半分になる。枠は木で、下の縁だけ塗りが剥げている。園の中でそれがあるのはここだけだ。

 壁に一枚、縦に付いている。高さは私の頭の上まであって、幅は肩より少し広い。


 鏡があるのは、展示に出る前に身なりを見るためになる。

 髪と、襟と、爪を見ることになっている。その結果を書く欄は無い。


 私は灯を点けなかった。そうすると外から分かる。

 廊下の灯が扉の隙間から入る。その分だけで、鏡の中は形が分かる。


 上着を捲って、左の腿を見た。

 鏡の中には何も無い。皮膚の色は周りと同じだ。暗いから分からないのではなく、明るくても同じだと思う。

 触ると分かる。押すと、押した後に遅れてくる。

 その幅は指二本ぶんある。周りより少し硬い。中で何かが起きているからだと思う。


 右の腰も見た。こちらは擦れている。

 その場所は鏡でも分かった。色ではなく光り方が違うからだ。


 鏡を見るのは久しぶりだった。展示の日にしか見ない。

 今年は四度出て、四度とも朝にここへ来た。四度とも髪と襟と爪を調べた。腿を見たことは無い。


 鏡の下に曇りがある。曇りは拭いても取れない。

 裏の側が傷んでいるからだと聞いた。去年で、言ったのが誰かは出てこない。


 曇りのところに立つと、体が二つに切れて見える。

 上と下でずれる。ずれる幅は指一本ぶんもない。それでも、続いていないことは分かる。


 鏡の横の壁に、高さの線が引いてある。

 床から順に線があって、線の脇に数字が刷ってある。百四十から百八十まで、十ずつだ。何のための線かは書いていない。


 私は壁に背を付けてみた。そうすると、頭の上が百六十のところに来る。

 自分で見えないので、手を頭に当てて、その手の位置を横から見た。そうすると少しずれる。その分は測れない。


 上着の裾に土が付いている。指で払っても筋が残る。膝から下に三本ある。一番長いものは十センチほどだ。

 私は上着を下ろした。下ろして、鏡から離れた。

 その時に、鏡の中の自分が一緒に動く。遠くなると、形だけになる。


 控室の石鹸の匂いがした。固形のもので、朝より薄い。

 一日で減った分だと思う。その分は明日の朝に足される。


 廊下へ出ると、係員が一人立っていた。

 消灯前の見回りだ。番号を確かめる係員で、名札を見ないで顔で確かめる。

 この人は私を見る。それから、何か言おうとした。


 私は「転びました」と言った。


 係員が紙を出す。出して、書いた。

「何処で」

「裏です」

「時刻」

「六時ごろです」


「一人だったのか」

「作業班の人がいました」

「名前は」

「知りません」


 私は名前を知っている。昼から頭にあった。

 それなのに出てこない。それで、そのまま言った。

 係員は書き足した。その時に、紙の上を一度見る。

 見てから、私を見た。


 紙は縦に長い。厚みは一枚で、下に複写は付いていない。上に刷ってある欄があって、下が空いている。

 そこへ書いている。量が多いと、下の縁まで来る。今日は半分ほどで止まった。


「痛むか」

「歩けます」


「そういうことじゃない」

「はい」


 この人はもう一度書いた。今度は短い。二字か三字だと思う。

 書いてから、鉛筆の先を紙で拭いた。すると紙に黒い線が付く。それは欄の外に出た。


「明日、獣医室へ行け」

「はい」

「朝のうちだ」


 係員は紙を畳んで、胸のところへ入れた。

 その時に、折り目を指でなぞる。昼に伝票を入れた人と同じ動きだ。

 同じ動きをする人が二人いる。この二人は別の課だ。

 それでも揃うのは、紙の畳み方が決まっているからだと思う。決まりは掲示に無い。


「戻れ。消灯まで二十分だ」

「はい」


 この人は廊下の先へ行った。行く先で、また番号を確かめている。

 声は聞こえない。届くのは返事だけだ。それは短いので、番号までは取れない。


 居室へ戻った。

 寝台に座ると、左が当たる。それで、右に体重を掛けて座った。


 枕の下は百二十七枚のままだ。

 九月の展示はまだ来ていない。順位表は貼られたが、私はまだ見ていない。


 見に行くのは明日でいい。後へ回せるものが、今日は二つある。

 もう一つは獣医室だ。朝のうちだと言われた。朝のうちというのは、給餌の後から十時までを指す。

 横だ。左を下にすると当たる。

 右を下にすると、右の腰の擦れたところが当たる。仰向けにすると、両方とも当たらない。


 仰向けは眠りにくい。私は普段、左を下にして寝る。

 左を下にするのは、天井の線が右にあるからだと思う。右を向いていると線が見える。


 寝台に座り直した。座り直すと、脚が一度鳴る。

 鳴るのは右の後ろの脚で、床との間に紙が挟んである。入れたのは私ではない。前に使っていた人だと思う。


 寝台の合成繊維のマットは、朝は冷たい。夜は体の分だけ温まる。

 速さは乗っている面積で決まる。仰向けだと面積が広い。そのぶん速く温まって、その代わり一か所が熱くならない。


 私は膝を立てた。立てると左の腿が浮く。浮くと当たらない。

 ただし、立てたままでは眠れない。眠れば何処かで倒れる。そうなると当たって、そこで一度目が開く。

 今日は線が見えない。仰向けだと、線は視野の端にある。

 端にあるものは形が分からない。白いということだけが分かる。


 九時半に消灯前の放送が鳴った。

 鳴っている間、頭に先に来たのは洗濯室の言葉だった。八日前と同じだ。


 消灯した。天井の灯が落ちて、非常灯だけが残る。

 非常灯は緑で、扉の上に一つある。緑の光は物の色を消す。手を出しても、手の色は分からない。


 私は左の腿を押した。

 すると、遅れてくる。幅は洗い場で押した時より狭い。時間が経ったからだと思う。


 もう一度押した。同じだった。

 三度目は押さなかった。やっても同じだと分かったからだ。


 緑の中で、私は自分の手を見た。

 形は見える。色は無い。指の間に木の粉が残っているかどうかは、この光では分からない。


 緑の光は天井の線も消す。

 昼の間は右が白い線が、夜になると全部同じ色だ。そうなっても、線があることは覚えている。

 覚えているものは、見えなくても位置が出る。

 私は目を閉じて、線の位置を指で示してみた。開けて確かめると、指は線から少しずれていた。ずれた幅は手のひらの半分ほどだ。


──────────────────


国立人類保全園 第七園

個体記録票 追記(抄)


対象 J-0037

追記 令和二百十二年九月十七日

記入 E区画担当


一、発生


発生の日時 九月十六日 一八時ごろ


発生の場所 E区画裏(空地)


届出は同日二一時ごろであった。届出を受けたのは消灯前の見回りの係員である。


二、所見


一 右の肩関節部および右の腸骨部に擦過を認めた。範囲は肩が約四センチ、腰が約七センチである。


二 左の大腿部外側に打撲を認めた。範囲は約九センチ掛ける六センチであった。


三 右の頬部に擦過を認めた。範囲は約二センチである。


所見の一および三は当日の届出の時点で認めた。所見の二は翌朝の確認によるものであった。


三、原因


転倒による。個体の申立てによる。


申立ての文言は「転びました」であった。申立ての時刻は届出と同時である。


原因の判定に係る立会いは求めていない。安全衛生委員会の議事要旨 七のとおりであった。


四、同行者


作業班の職員一名が同行していた。氏名の記載を求める欄は本様式に無い。


個体は職員の氏名を承知していない旨を申し立てた。承知の有無は申立てのとおり受けることとした。


五、時間外


当該の作業は時間外の搬出であった。職員一名を付している。本年度の取り扱いに適合する。


作業の時間は一七時五〇分から一八時二〇分までであった。三十分である。


六、措置


翌朝、獣医室において確認を行うこととした。確認の結果は別葉による。


冷罨法を実施した。実施の時刻の記載欄は本様式に無い。


七、就業


翌日以降の就業の制限は付していない。制限の要否は獣医室の判断による。


七の二、聴取


本件について、同行の職員からの聴取は行っていない。聴取を求める定めが無い。


個体の申立てと職員の説明が異なる場合の取り扱いについても、定めは無い。本件は異なっていない。


八、備考


所見の二について、右側からの転倒との関係を確認していない。確認を求める定めが無い。


本追記は獣医室へ写しを送付した。送付は翌朝であった。


九、件数


本件は本年度の個体に係る傷害の十二件目である。


原因の内訳は転倒十、接触二となった。


十、裏の空地


本月において、側溝からの泥の搬出は行っていない。裏の空地に増えた十二袋は、集水桝の清掃によるものであった。


集水桝の清掃の実施日を記載した文書は、当区画において確認できていない。実施の記録を要する旨の定めが無かった。

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