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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第二章 等級

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23/56

第023話 戸波の家

国立人類保全園 第七園

資料館


職員閲覧簿(抄)


対象 標本番号 一〇四

抄出 令和百九十八年五月から令和二百十二年八月まで

作成 資料館


一、様式


職員が展示室および収蔵室へ入る場合は、本簿に記載することとした。


記載の項目は、日、時刻、所属、氏名、対象、目的の六つである。


目的の欄は空欄のまま受け付けることとした。空欄のまま綴じた例は、開館以来これに限らない。


二、件数


標本番号一〇四に係る記載は、抄出の期間において百七十二件であった。


記載者はいずれも同一である。所属は総務課、氏名は戸波剛であった。


三、間隔


いずれの月にも一件の記載がある。欠は令和二百五年一月の一件であった。


当該の翌月にあたる令和二百五年二月には、二件の記載がある。二件の日は一日と二十八日であった。


四、時刻


時刻は概ね一一時から一一時三〇分の間であった。滞在の時間を記載する欄は本簿に無い。


退出の時刻を記載する取り扱いは、令和二百二年に検討した記録がある。検討の結論は残っていない。


五、目的の欄


百七十二件のうち、記載のあるものは一件のみとなる。


当該の一件は令和百九十八年五月二十一日の記載であった。記載された字数は二字である。


記載された二字は「祖母」であった。


以後の百七十一件は、いずれも空欄であった。空欄の理由は、記載した者に確かめれば足りるものと解している。


なお続柄は本簿の項目の外にある。項目の外の記載は、そのまま残すこととした。


六、承認


職員の閲覧について、事前の承認を要する定めは無い。


観覧券を要しない旨は、資料館の内規に定めがある。内規の制定は開館時であった。


六の二、観覧券


職員の同行者は、当該の職員の側において取り扱うこととした。同行の記載欄は設けていない。


抄出の期間において、同行があった旨の記載は無かった。


七、保存


本簿の保存年限は定めていない。開館以来の分を綴じて保管している。


綴りは十九冊であった。抄出に用いたのは第十四冊から第十九冊までであった。


第十四冊の背は擦れており、冊次の数字が読み取れない。読み取れない冊は、綴りの順により冊次を数えている。


七の二、状態


直近の点検は令和二百十年であった。所見は良好である。


毛の脱落について、右の前肢に軽度の記載があった。補修の要否の判断欄は空欄であった。


八、備考


本簿は集計の対象としていない。集計を要する旨の定めが無かった。


本抄は照会に応じて作成した。照会の元は記録管理室であり、記録管理室の年次の点検によるものと聞いている。


(作成 資料館)


──────────────────


 九月十六日。木曜だ。

 就業の割当に、清掃補助と書いてある。行き先の欄には資料館外周とある。


 行き先の欄が埋まっている日は少ない。埋まっているのは区画の外へ出る日だけだ。

 今年になって四度目だ。そのうち三度は資料館の外で、残りの一度は正門の脇だった。

 朝の給餌は普通に出た。四三〇の皿だ。

 食べる速さは普通にした。速く食べても出る時刻は変わらない。それなのに、外へ出る日は早く食べ終わる人が多い。


 資料館はE区画から離れている。正門の内側にあるので、園の中では一番上に近い。

 歩くと二十分かかる。前に行った時は坂の途中でやめた。今日は最後まで数えた。千七百歩ある。


 千七百のうち、上りが千百ほどだ。残りは平らだ。

 二つで足の裏の疲れ方が違う。上りは指の付け根に来て、平らは踵に来る。


 千七百歩は、帰りも同じ数になるはずだと思う。

 ただそれだけで、帰りは数えたことがない。下りなので歩幅が伸びる。そうすると数が減る。消えた分が何処へ行くのかは、足の側の話だ。


 朝の空気は八日前より冷たい。坂の上ではっきりする。

 汗が乾く場所が変わる。E区画では首の後ろで、上では腕の外側だ。


 道は区画の脇を順に上がる。下からDで、その後にCとBが来る。一番上がAだ。

 区画ごとに建物の形が同じで、屋根の色だけが違う。灰色と薄い緑と薄い茶があって、あと一つは白に近い。それが一番上だ。


 朝の時間なので、どの区画の前庭にも人がいない。

 いないのに、洗濯物は干してある。その数は上へ行くほど多い。数えるとDが十四で、Cが二十二だ。Bは三十一あった。Aは見えない位置にある。


 係員が一人、前を歩いている。私は五歩ぶん後ろを歩く。

 五歩は決められた数ではない。近づくと係員が歩く速さを上げるので、そのうちこの距離だ。


 途中で一度、係員が止まった。履物の紐を直している。

 私も止まった。そこで、待つ。その間、正門のほうから車の音がした。開館の前に荷が入る時刻だ。


 資料館の前に着いた。扉は閉まっている。

 開館は九時なので、まだ人はいない。扉の下の隙間から、冷えた空気が出ている。

 この空気には匂いがある。というより、何も無いところの匂いだ。

 園の中のどの部屋とも違う。乾いていて、少し冷たい。鼻の奥に入ると、そこで止まる。

 資料館の壁は白い。継ぎ目が縦に走っていて、間隔は九十センチほどある。正面だけで十二本あった。塗ってあるからで、下の材は灰色だ。

 欠けたところから灰色が見える。欠けは低いところに多い。高いところは欠けていない。手の届く高さまでが欠ける。


 建物は正面が高くて、裏へ行くほど低い。斜面に合わせて建ててあるからだと思う。

 屋根は一枚に見えて、途中で段になっている。数は三つある。数えたのは今日が初めてだ。


 私は屈んで、隙間の前に手を出した。

 手の甲に当たる。当たっているところだけが冷たい。手の平を返すと、こちらにも届く。幅は指三本ぶんだ。


「触るなよ、そこ」

 声がした。作業班の若い人だった。

「はい」

「触るなってのは冗談。埃が付くから」


 この人は笑っている。笑ってから、道具の袋を下ろした。

 袋は二つある。私は片方を持たされた。持つと肩が下がる。金属の音が中でする。


 作業班は三人だ。年配の人と、若い人と、戸波さんだ。

 年配の人は坂を上がった時の人で、洗浄の朝の人でもある。今日は巻き尺を腰に下げている。


 作業帽は三人とも被っていた。濃い青で、庇のところが白く擦れている。

 減り方は三人で違う。年配の人のは真ん中が擦れて、若い人のは端が擦れている。戸波さんのは全体に薄い。


 戸波さんは先に来ていた。壁のところに立って、上を見ている。

 目の先は樋だ。それは屋根の縁から下りていて、途中で一度折れる。曲がったところに葉が溜まっている。


 この人は私のほうを見ない。そのままで若い人へ言った。


「上、要るぞ」

「脚立ですね」


 声は低い。それでも通る。廊下で聞いた時と同じだ。

 言葉は短い。というより、要るものだけを言う。要らないものが付いていない。


 今日の作業は外壁の汚れ落としと、樋の掃除と、通用口まわりの片付けだ。

 私の仕事は道具を持つことだ。抱えて、言われたら渡す。返ってきたら受け取って、また抱える。


 九時に開館した。来館者が正面から入る。

 私たちは横にいる。そこは順路の外なので、来館者はこちらを見ない。目を向ける人はいる。そちらは少しだけ歩く速さを落とす。


 落としてから、また戻す。その時に一度だけ連れの人のほうを向く。それから何か言う。

 中身は届かない。距離は十メートルほどある。届かないのは風の向きのせいだと思う。


 一時間で、こちらを見た人は十九人だった。入った人の数は数えていない。

 十九人のうち、二度見た人が四人いる。二度目は建物の壁を見ている。壁と私が同じ視野に入っているだけかも知れない。


 正面の扉は自動で開く。開く時に音が鳴る。

 四点鐘に似ている。ただし高い。そのぶん、遠くまで来る。


 十時ごろ、搬入口に車が来た。

 車は正面ではなく裏へ回る。裏には低い庇があって、その下で荷を下ろす。


 下ろしたのは板だった。三枚ある。

 板は薄い。厚みは二センチほどで、幅は私の肩より少し広い。長さは腕を伸ばしたくらいだ。


「持ってくれるか」

 年配の人がそう言った。私は一枚を持った。

 手に取ると重い。木は石とは違って、片側へ寄らない。全体で同じだけ重い。


 板からは匂いがした。挽いたばかりの木の粉の匂いだ。

 乾いていて、鼻の先で消える。奥まで来ない。手に持っていると、腕の内側にも移る。


 三枚のうち二枚には字が彫ってある。

 入っているのは名前だ。ひらがなで三文字と、二文字だ。彫りは深い。指を入れると、第一関節まで入る。


 名前の下に数字がある。四桁と、その下にもう二つ。

 数字の彫りは浅い。大きさが違うからだと思う。彫る道具が違うのかも知れない。


 数字の頭には字が一つ付いている。私の番号の頭にあるのと同じ形になる。

 それは二枚で違っていた。片方はSで、もう片方はCだ。私のはJだ。


 彫りの底には粉が残っている。払っても全部は落ちない。

 残るのは角のところで、指では届かない。そこに溜まった粉は、そのまま白く見える。おかげで、字がよく読める。


 三枚目には何も彫っていない。白木のままだ。

 表面が滑らかで、光が当たると木目が見える。木目は端で詰まっている。


 私は三枚とも見た。それから、若い人に聞いた。

「これ、名前ですか」


「そう。板は外で彫るんだよ」

「外ですか」

「業者。園には彫る機械が無いんだ」


 この人は板の端を指でなぞった。なぞってから、指の粉を払う。

「でも名前は渡さないんだ」


「渡さない」


「字だけ送るの。名前そのものは園のものだから」


 私はその言い方を頭に置いた。名前が園のものになっている。

 なっているというのは、そう書いてある紙が何処かにあるということだと思う。私はその紙を見たことがない。


「じゃあ、この人の名前は」

「園のだよ」

「ずっとですか」

「ずっとだって」


 この人はそう言って、板を庇の下へ立てかけた。そうすると三枚が並ぶ。

 白木の一枚が一番明るい。二枚は少し飴色になっている。木の色が違うのではなく、置いてあった時間が違うのだと思う。


 白木の一枚については、誰も何も言わなかった。

 それで、私も訊かなかった。聞く形が出てこない。


 板は資料館の人が受け取りに来た。伝票は複写で、上が白、下が薄い黄だ。

 女の人で、三枚を数えて、伝票に何か書いた。それから、二枚だけを持っていった。

 伝票は複写になっている。書くと下の紙にも移る。

 この人は上の一枚を剥がして、若い人へ渡した。受け取った紙は薄い。それで、庇の下でも風で動く。


 若い人はそれを畳んで、胸のところへ入れた。

 その時に一度、折り目を指でなぞる。それから押し込む。すると、上着の胸が少しだけ厚くなった。


 白木の一枚は庇の下に残る。

 そのままで、昼を過ぎても夕方になっても、そこにあった。


 十時半ごろから、私は道具を渡す仕事に戻った。

 戸波さんは脚立の上にいる。上から手だけを下ろす。下ろした手のところへ道具を上げる。

 そこで、この人は指の先で摘まむ。

 摘まんでから、手を引く。そこで持ち直す。私の手が柄から離れるより先に、この人の手が先に動く。


 これは前にもあった。あの時と同じ順になっている。

 それで、私は待ち方を覚えた。差し出して、そのまま止めておく。すると、この人は自分で取る。


 止めておく時間は、道具によって違う。長さは三つ数えるほどから、一つ数えるほどまである。細いものは短くて、重いものは長い。

 重いものの時は、この人はもう一方の手を添える。その手は柄の下へ回った。そこで水平にしてから引き取る。


 水平にする間、柄はまだ私の手にある。その間だけ、二人で一つのものを持っていることになる。

 一番長かったのは、金属の先が付いたものだった。三つ数える間、二人で持っていた。


 午前のうちに、この人は私の番号を十一回口にする。

 どれも同じ言い方だった。抑揚が付かない。前に数えた時は九回で、その時も同じだった。


「J-0037」

「はい」

「下の袋」

 私は下の袋から出した。取り違えていて、もう一度言われた。


「その隣」

「これですか」

「それだ」


 言い直しは一度だけだ。二度は言わない。

 二度言わないので、私は袋の中の並びを覚えた。覚えると、次からは一度で出る。


 袋の中は上から順に決まっている。金属のものが四つ、木の柄が三つ入る。並べたのは私ではない。前に持っていた人の並べ方が残っている。

 それを覚えるのが、並べ直すより速い。並べ直すと、次に持つ人がまた覚え直すことになる。


 道具には印が付いている。柄の端に色の糸が巻いてある。


 結び目は一つにつき二回巻く。巻いた後で端を引くと、輪が締まって動かなくなる。

 糸の色は三種類で、班の三人に対応しているらしい。戸波さんのは黒だった。それは汚れても色が変わらない。


 十一時が近くなった。

 戸波さんは脚立から下りた。下りて、手袋を外す。それを道具の布の上へ置く。


 置き方が丁寧だった。二つを揃えて、指の向きを合わせる。

 それから、上着の埃を払った。手が行くのは肩と、袖の外側と、腿の前だ。三か所とも二度ずつ払う。


 払ってから、通用口へ歩いた。

 通用口は正面ではない。裏の、庇のもう一つ向こうにある。扉は灰色で、把手が縦に付いている。


 この人は帽子を被ったまま入った。

 その時、扉は音を立てない。押すのではなく引く扉で、引くと下が擦れる。擦れる音は洗濯室の扉に似ている。


 扉が閉まった。閉まってから、私は樋の下へ戻った。


「毎月あるんですか」

 私は若い人に聞いた。

「あるよ。月に一度」

「何をしに行くんですか」

「聞いたことない」


 この人は脚立を畳んでいる。畳む時に指を挟まないよう、途中で持ち替える。


「聞かないんですか」

「聞かないな」

「どうしてですか」

「聞くことじゃないだろ」


 この人はそう言って、脚立を壁へ寄せた。

 それから、こちらを見た。口の端だけを上げる。少し置いて戻す。


「俺が入った時からああだから」

「何年ですか」

「六年。六年ずっと同じ日だよ」


 同じ日というのは、月の何日かが同じという意味だと思う。

 ただそれだけで、訊かなかった。この人がもう次の道具を出していたからだ。

 私は待つことになった。

 その間、外壁の下のほうを布で拭いた。拭くと布が黒くなる。汚れ方は場所で違う。


 樋の落ち口の近くが一番黒い。落ち口から一メートルほど離れると、急に薄くなる。

 急にというのは、二十センチほどの間でということになる。境目は横に真っ直ぐ走っている。


 拭いていると、扉の下から出る冷えた空気が足首に来た。

 朝より弱い。開館して人が出入りするので、中の空気が動いているからだと思う。


 十一時二十分に、来館者の子どもが庇の下まで来た。

 連れの人が呼んで、すぐ戻る。その前に、その子は白木の板を見た。見て、何も言わずに行った。


 十一時半を過ぎると、庇の下に日が入る。

 幅は狭い。壁から三十センチほどで、そこだけ床の色が変わる。板の立てかけてあるところまでは来ない。


 待っている間に、私は扉を四度見た。

 どれも同じ形をしている。灰色で、把手が縦に付いていて、下の縁だけが少し明るい。擦れて塗りが薄くなっている。


 擦れているのは下の縁の右寄りだ。押す扉ではないので、足が当たるはずはない。

 触れるとすれば道具の先だ。道具を持って入る人がいるということだと思う。


 時計は無い。時刻は係員に聞くか、鐘で分かる。

 時計は持っていない。園の中で数字の出る時計を見るのは、控室の壁だけになる。

 私は自分で数えた。三十までを繰り返して、その回数を覚えておく。四十回を過ぎたところで、若い人が「そろそろだ」と言った。


「分かるんですか」

「だいたい同じだから」

「何分ですか」

「四十分くらいかな。長くて五十分」


 この人は腕の時計を見ていない。見ないで言った。

 六年ぶん見てきたからだと思う。六年は七十二回になる。そのうち、この人が外で待った回数は数えていない。


 十一時四十分ごろ、扉が開いた。

 出てきた時、帽子は手にあった。


 この人は扉を後ろ手で閉めた。閉めてから、帽子を被り直す。

 その前に、髪を一度だけ手で撫でた。向きは前から後ろだ。


 被り直した帽子は、前より深い。庇が眉の近くまで来ている。

 深くすると、庇の裏の汗の跡が外から見えなくなる。跡は白い線で、庇の内側に横に走っている。

 深いと、下から見上げても目のところが見えない。私は見上げない位置にいた。


 この人は道具の布のところへ来て、手袋をはめた。

 はめる時に、指を一本ずつ入れる。それから、手首のところを押さえる。回数は右が二回、左が一回だった。


 午前に見た時は、右も左も一回だった。

 私は数え間違えていないと思う。ただそれだけで、確かめる方法は無い。数えたことを書く場所も無い。


 若い人と年配の人は、この人が出てくる前と後で同じように動いている。

 それなのに、話しかける回数だけが減った。そのことは、二人とも言わない。


「上、やる」

「はい」

 若い人が脚立を戻す。戻す音がして、この人は上がった。


 正午に給餌の分が届いた。係員が箱で運んでくる。

 箱の中に皿が一つ入っている。四三〇の皿だ。外へ出る日でも量は同じだ。


 作業班の三人は自分の分を持ってきている。布の袋に入っていて、中身は見えない。

 年配の人と若い人は、庇の下に並んで食べた。口を動かしながら喋る。中身は道具の話ではない。


 戸波さんは食べなかった。

 袋を出さない。そのままで脚立の脇に立っている。その間、両手は下ろしたままだ。


「毎月だよ、それも」

 若い人が小さい声でそう言った。私は聞き返さなかった。


 午後は同じことが続いた。

 外壁の下のほうを拭いて、樋の葉を落として、落ちた葉を袋へ入れる。袋は三つになった。


 布は途中で二度替えた。替えるのは、黒くなると滑るからだ。

 そうなると力が要る。すると、手首の内側が張る。右だけで、左は何もない。持ち方が違うのだと思う。


 三時前に、指の付け根の皮が一か所めくれた。血は出ない。

 めくれたところは白い。乾いているからで、水を付けると色が戻る。戻ってから、また白くなる。


 葉は樹脂だ。四月に交換した分が、まだ樋の中から出てくる。

 乾いたものは軽い。濡れたものは重い。一つの葉なのに、三倍ほど違う。袋の底に濡れたものを入れると、上の分が潰れない。


 午後、この人は私の番号を言わなかった。

 一度もない。道具は自分で取りに来る。そういう時は、私が持っていない側から取る。


 午前は十一回で、午後は零回だ。

 零というのは数えなかったということではない。私は最後まで数えた。それで、零だった。


 番号を言わないと、渡す仕事が減る。減った分、私は拭く仕事に回った。

 拭く場所は下しかない。上は脚立の人がやる。下は屈むので、腰が先に来る。


 屈んでいると、足元に来館者の靴が見える。

 靴は順路の外までは来ない。それで、見えるのは通りかかる時の一瞬だ。それだけでも、底の減り方は分かる。外側から減っている。


 三時ごろ、年配の人が休みを取った。

 休みの間、私は袋の口を縛る仕事をした。縛るのは二重にして、端を下へ入れる。洗浄の朝に袋を縛ったのと同じやり方だ。


「あんた、上まで来るの久しぶりだろ」

 戻ってきた年配の人がそう言った。

「久しぶりです」

「前は照明の時だな」

「はい」

「あの時は座らせたよな。今日は座らせない。今日は仕事があるから」


 この人は笑う。私も口の端を上げた。

 笑ってから、この人は袋の口を見て、縛り直した。私の縛り方は緩かったらしい。


「二重にしてから、こう」

「はい」

「端は下。上に出すと引っかかる」


「引っかかると、どうなりますか」

「破れる。破れると入れ直しだ」


「入れ直しですか」

「二回やったことがある。二回とも自分の袋だよ」


 この人は自分の指で結び目を押さえた。押さえると形が決まる。

 決まってから手を離す。それでも崩れない。そうならないのが正しい結び方になるらしい。


 教わって、もう一つ縛った。今度は直されなかった。

 手が出ないと、合っているのかどうかが分かる。そこまでに二回かかった。


 四時半に片付けが始まった。

 道具を布へ戻す。置き場は元のところだ。持ち上げた跡が布に残るので、合っているかどうかは見れば分かる。

 私は最後の一本を持っていた。柄の長いもので、先が金属になっている。

 これは戸波さんの道具だ。今日、この人が一番長く持っていた。


 柄には黒い糸が巻いてある。巻いたところだけ太い。

 その部分を握ると滑らない。だから持つ場所はそこなのだと思う。私は端を持っていた。


 先の金属は先端が曲がっている。使ううちにそうなったので、初めからではない。

 曲がった向きは内側だ。そちらへ向くと、樋の中の葉が掛かりやすい。だから直さないのだと思う。


 この人は手を出した。

 私の手のほうへ来る。来て、途中で止まる。止まってから、指の先で柄の端を摘まむ。


 今日は引かなかった。


 摘まんだところが、私の指の上だ。手袋を外した後だった。

 指の腹が私の指の背に当たる。触れている時間は短い。一秒に足りない。


 温かい。私の手より熱を持っている。

 外で働いている人の手だからだと思う。私は屋根の下にいる。


 この人は手を引いた。引く時、柄が少し傾いた。

 その分を、この人はもう一方の手で直す。それから、道具を布の上へ置いた。


 置いてから、この人は立ったままでいた。

 その間、何も言わない。若いほうも年配の人も、袋のほうを見ている。


 私は自分の手を見た。手の背に何も付いていない。

 それなのに、当たったところが分かる。そこだけ温度が違うからだと思う。違いは十秒ほどで消えた。


「手を洗え」


 この人はそう言った。

 私は「はい」と返した。その時には、この人はもう歩いている。


 歩いていく先に洗い場がある。搬入口の脇の、外に付いた洗い場だ。

 この人はそこで止まった。止まって、蛇口をひねった。


 水が出る。湯は来ない。外の洗い場は夏も冬も水だけになる。外の洗い場に給湯は付いていない。

 この人は手を洗っている。指の間を開いて、一本ずつ洗う。洗ってから、手首まで行く。


 私も洗い場へ行った。蛇口は一つしか付いていない。

 空くのを待った。待つ間、この人の背中を見ていた。背中は動かない。動くのは腕だけだ。


 水の音がしている。私の分はまだ出ていない。

 この人が洗い終わるまで、私は数えた。二百まで行く。それでも終わらなかったので、そこでやめた。


 やめた頃に、この人は蛇口を閉めた。閉めて、手を振らずに歩いていく。

 濡れたままの手を体の脇に下ろしている。触れたところの布が、二か所だけ色が濃くなった。


 私は蛇口の前に立った。取っ手が金属で、朝より冷たい。回すと途中で一度、固いところがある。水は冷たい。指の先から来る。

 洗い終わって、手を振る。振ると水が飛ぶ。落ちた分は地面で、色の濃い点になる。数は五つあった。


 濃い点は見ている間に薄くなる。速さは五つとも違う。

 大きい点ほど長く残る。一番大きい一つは、私が歩き出すまで消えなかった。

 洗い場の下を見た。水が地面へ落ちている。

 その先に溝がある。坂の向きに沿って下りていた。行き着く先は見えない。

 溝の縁に白い筋が付いている。乾いた跡で、幅は指の半分ほどだ。

 筋は下へ行くほど太い。その先は塀の下で切れていて、そこから先は見えない。


──────────────────


国立人類保全園 第七園

資料館


標本台帳(抄)


抄出 標本番号 一〇四

作成 資料館

作成日 令和二百十二年九月十六日


一、標本


標本番号 一〇四


種別 剥製


名称 板に彫る。彫りは外部の事業者による。


二、個体


収容番号 N-0126


収容 令和百三十四年 死亡 令和百七十三年


在園年数 三十九年 死亡時の年齢 五十一


死因の欄 記載無し(当時の様式に死因の欄が無い)


三、標本化


標本化 令和百七十四年


標本化に係る本人の申出の有無は記載していない。申出を要する旨の定めが、当時も現在も無かった。


四、名称


名称に係る権利は園に帰属するものとした。譲渡および使用の許諾は園長の決裁によることとした。


板の製作に際しては、事業者へ字体および文字数のみを送付することとした。名称そのものは送付していない。


当該の取り扱いは令和百六十六年に定めたものであった。定めた経緯の資料は保存年限を超えている。


五、繁殖


産子数 二


産子の番号および現況の記載は本台帳に無い。産子に係る記録は繁殖台帳の所管とした。


繁殖台帳との突合は行っていない。突合を要する旨の定めが無かった。


六、展示


展示の位置は順路の第三室とした。開館以来、位置の変更は一度であった。


変更は令和百八十九年であった。順路の改修に合わせたものであった。


七、閲覧


閲覧の申出は開館以来無い。


なお職員の閲覧は申出に当たらないものとした。職員閲覧簿の記載件数は本台帳に反映していない。


反映を要する旨の定めは、双方の様式のいずれにも無かった。


八、備考


板の更新は概ね二十年に一度であった。前回の更新は令和百九十三年であった。


更新に際して旧板は事業者へ引き渡すこととした。引き渡した後の取り扱いは事業者による。


本年度の更新の対象に本標本は含めていない。含めない理由の記載は無い。


本標本の板は、令和二百四年十二月に事業者へ送付した。送付の理由の記載は無い。


返送は令和二百五年一月三十一日であった。送付の間、展示の位置に板は無かった。板を欠く間の取り扱いを定めた文書は無い。


本抄は照会に応じて作成した。照会の元は記録管理室である。


(作成 資料館)

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