第022話 におい対策を
国立人類保全園 第七園
施設課
作業指示書
件名 E区画南側の洗浄の実施について
指示日 令和二百十二年九月二日
実施 令和二百十二年九月八日から
一、経緯
広報課からの回付により、来館者の意見のうちにおいに係るものが本年八月に二十二件あることを確認した。
前月は七件、前々月は四件であった。増加の理由については確認していない。
二、措置
E区画南側の廊下の床面および側溝の蓋の上面について、洗浄の回数を増やすこととした。
従前の洗浄は、年度当初および必要と認めた場合に行っていた。本年度の実績は一回であった。
本指示により、週三回とした。実施日は月曜、水曜および金曜である。
三、範囲
洗浄の範囲は、廊下の床面および蓋の上面までである。
蓋を開放しての側溝内部の洗浄は、本指示に含まないこととした。含まない理由の記載は、起案の資料に無い。
四、時刻
開館前に終えることとした。着手は〇五時三〇分、終了は〇七時三〇分を目安とする。
床面の乾燥に要する時間は見込まなかった。乾燥の状態は開館時の巡回により見ることとした。
五、用水
洗濯室の給湯を用いることとした。冷水による実施の可否については定めが無い。
用水の量を計る器具は当区画に無い。使用量は当該月の総量から按分により計上することとした。
六、薬剤
指定の中性洗剤を用いる。希釈は百倍とした。
希釈の確認は従事者の目視による。計量の器具は洗濯室の備品を用いてよいものとした。
七、従事
区画の担当二名および作業班一名を充てることとした。個体については当日の就業の割当による。
従事する個体の人数は当日の就業の割当による。下限および上限は割当の側で決まる。
八、記録
実施の都度、実施の状況を記録することとした。様式は別紙のとおりである。
記録の項目は、実施日、着手および終了の時刻、従事者数、薬剤の使用量の四つとした。
九、効果の確認
効果の確認は、来館者アンケートのにおいに係る記載の件数による。
園内における確認の方法は定めていない。確認の要否は広報課の回付をもって代える。
十、備考
側溝の勾配の是正については、本指示の対象としなかった。
当該の要望は令和百九十四年から令和二百二年までの四年度に提出された記録がある。令和二百五年以後の要望は、集水桝および搬出路に係るものへ替わった。本年度の提出については確認していない。
(施設課/写し E区画担当、広報課)
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五時半に起こされた。
点灯は六時なので、廊下はまだ暗い。非常灯の緑だけが天井の際に並んでいる。
起きるのは私を入れて十一人だ。就業の割当に清掃補助が付いている人が呼ばれた。
来たのは区画の担当で、扉を叩かずに名札の側から声を掛ける。声は小さい。周りが寝ているからだと思う。
床は冷たい。九月の朝は、八月の終わりより下がっている。
足の裏を付けた時に、冷たさが踵から入る。歩き出すと薄れる。足の側が温まるからで、床が温まるわけではない。
腹は空いている。前に食べたのは昨日の五時の分だ。
十二時間半が経つ。この時間だと、空いているというより軽い。それだと動きやすい。手が動くのは初めの三十分だけで、その後は手が遅くなる。
起きてすぐは口の中が渇いている。私は洗面のところで水を一口飲んだ。
飲むと胃の位置が分かる。それから、また消える。二分ほどかかる。
十一人のうち、七人が私より年上だ。その人たちは起きるのが速い。
起こされる前に目が開いているからだと思う。廊下へ出た時、七人はもう並んでいた。列になっているのは、誰かが並べたからではない。
廊下へ出ると匂いがした。
雨は降っていない。それなのに、朝の低いところには少し残っている。腰から下にある。屈むと来る。
この匂いは、雨の翌朝ほど濃くない。薄く、切れ切れだ。
濃いところと薄いところの境目は、廊下の三本目の継ぎ目のあたりにある。境目はいつもそこにある。
私は継ぎ目を跨いだ。そちらは匂いが薄い。
跨ぐ時に足を上げる必要は無い。段は付いておらず、色が変わっているだけだ。
出た側で一度、深く息を吸った。それから、また戻ると濃い。二度やって、やめた。
洗濯室の前に道具が出してある。
柄の長い刷毛が六本、桶が四つ、それにホースが一本だ。ホースは巻いてあって、巻いた形のまま床に置いてある。
年配の作業員が先に来ていた。この人は坂を上がった時の人だ。
今日は長靴を履いている。私たちは履物のままでいいと言われた。濡れると乾かないが、乾くまでの間だけだ。
「これ、持てるか」
「持てます」
「重いぞ。水が入ると倍だ」
ホースは巻いたままで五キロくらいある。伸ばすと軽くなる。
重さが分かれるからで、全体の重さは変わらない。私は端を持って、廊下の奥へ引いた。
洗濯室の給湯栓は流しの左にある。把手が二つ並んでいて、片方だけ塗りが剥げている。剥げた側は指が滑らない。
右が水で、左が湯だ。そちらを回すと、最初は冷たいものが出る。管に残っていた分だ。
冷たいのが十秒ほど続いて、それから温かくなる。
その時、湯気が先に出る。白いものは上へ行って、洗濯室の窓の下を白くした。
私は手を入れた。熱い。
「四十度くらいだ」
年配の人がそう言った。
「計るんですか」
「計らない。手で分かる」
「分かりますか」
「三十年やってりゃな」
この人は自分の手を桶に入れて、すぐ出した。その手を振る。
振ってから、もう一度入れて、今度は入れたままにした。入れたままに出来る温度が、この人の四十度だ。
私も入れたままにしてみた。最初は熱いが、十数えると熱くなくなる。
湯が冷めたからではない。私の手が慣れた。
H-0009が桶を運んできた。この人は壁のあるところにいるので、廊下の作業は端から始める。
「そっち行く」
「はい」
この人は壁側を持って、私が内側を持った。桶は満杯にしない。八分目にする。満杯にすると、歩く度にこぼれる。
六時に点灯した。廊下が明るくなる。
そうなると、床の色が見える。E区画の廊下の床は灰色で、真ん中だけ色が薄い。人が通るところが薄くなっている。
「薄いところから洗うと分かんなくなる」
年配の人はそう言って、端から始めた。
「端からですか」
「端だ。端が一番溜まる」
洗剤は百倍に薄める。桶に湯を入れて、蓋の裏の目盛のところまで洗剤を入れる。
目盛は洗濯室の計量の器のもので、洗剤の器には目盛が無い。だから洗濯室のを持ってきて使う。
薄めた湯の匂いは、洗濯の時と同じだ。居室の寝具の匂いだ。
ただし濃い。それで、鼻の奥まで来る。そうなると、さっきまでの匂いが消えた。
消えたのではなく、上に乗ったのだと思う。
ただそれだけで、確かめる方法は無い。二つの匂いを別々に嗅ぎ分ける道具を、私は持っていない。
刷毛で床を擦る。
擦ると音が出る。低い音で、廊下の端から端まで届く。十一人が同時に擦ると、音が重なって一つだ。
重なった音は、揃わない。
それで、聞いていると誰かが遅れているのが分かる。落ちているのは一番端の人で、その人は擦る幅が広い。そのぶん一往復が長くなる。
湯は床の上を薄く広がる。
向きは廊下の南側へ落ちた。廊下も勾配が付いている。目では分からないが、湯が教える。
私は湯の先を見ていた。先は真っ直ぐには行かない。
床の窪んだところで一度溜まって、溜まってから溢れる。溢れると、また薄く広がる。
溜まる場所は三か所ある。どれも継ぎ目の手前だ。
継ぎ目のところで床が少し上がっている。貼り替えた年が違うからだと思う。
「そこ、水たまるだろ」
「たまります」
「毎年言ってるんだ、そこ」
年配の人はそう言って、刷毛の先で継ぎ目を叩いた。乾いた音がする。
三か所のうち、真ん中の一つが一番大きい。
大きいのは幅で、深さはどれも同じくらいだ。深さは指の腹が沈むところまでで、爪までは行かない。
窪みの深さは一センチに足りない。
私は真ん中の窪みへ刷毛を入れた。入れると溜まった分が押し出される。
それは前の人の足元へ行く。前の人が声を上げて、片足を上げた。上げてから、こちらを見る。
「来た」
「すみません」
「いいよ。温かいから」
この人は上げた足を下ろした。下ろす時に少し滑る。
腰が落ちかけて、壁に手を付いて止まった。それから、自分で笑う。周りの三人も声を出した。
「転ぶなよ」
年配の人がそう言った。
「転びません」
「転んだら書かれるぞ」
「何処にですか」
「何処だろうな」
この人は言ってから、少し考える顔をした。そのまま刷毛を動かす。
動かしながらも考えていて、それきり答えは出なかった。出なかったが、誰も待っていない。
湯は南の壁の際まで行く。
際には細い溝が切ってあって、そこから外へ出る。外は側溝の蓋の上だ。
私は一度外へ出て、湯が出てくるところを見た。
出てくるのは細い。糸のような太さで、蓋の上へ落ちる。落ちてから、蓋の傾きに沿って手前へ来る。
蓋の上を洗うのは外の組だ。三人でやっている。
刷毛ではなく箒を使う。蓋の上の泥は乾いていて、掃いたほうが早い。
掃いた分は隙間から落ちる。
音はしない。届いたことは、隙間の色が変わるので分かる。それから、また戻る。
「開けたほうが早いんだけどな」
年配の人がそう言った。私は聞き返した。
「開けないんですか」
「上までだ、って書いてある」
この人は蓋の一枚に足を掛けた。それだけで、外さない。
そのままで少し体重を乗せる。乗せると蓋が鳴る。それから、足を下ろした。
外の組の一人が、端の一枚を持ち上げた。
掃いた分を落とすためだ。二十センチほど浮かせて、また戻す。浮いている間、下から匂いが出た。
誰も何も言わない。年配の人は見ていた。それでいて、何も言わない。
その人は蓋を戻して、上を掃き続けた。掃き終わってから、二枚先へ移る。
七時を過ぎた。給餌の四点鐘が鳴る。
それでも私たちは行かない。清掃補助の組は後で食べることになっている。
七時半の目安は過ぎた。終わったのは七時五十分だ。
二十分の超過だ。初回で手順を決めながらやったからだと思う。
道具を戻す。刷毛は十一本、束ねて棚へ立てる。柄の先が一列にそろう。ホースを巻く。向きは決まっていて、始めの形と同じでないと箱に入らない。
私は逆に巻いて、一度ほどいた。ほどいてから巻き直した。二度目は入った。
廊下は濡れている。
その床は色が濃い。乾いているところは灰色で、濡れているところは黒に近い。境目がゆっくり動く。
道具を片付けている間に、居室の側から人が出てきた。給餌へ行く人たちだ。
廊下へ入ると一度足を止める。それから、下を見る。見てから、また歩き出す。
止めるのは十人のうち三人ほどだ。残りは止めずに通る。
止まった人のうちの一人は年寄りで、その場に立ったまま二度息を吸った。吸ってから、私たちのほうを見る。何も言わずに行った。
その人が行くのを、私は見ていた。歩く速さがいつもと同じだ。
それなのに、履物の音だけが違う。濡れた床では鳴らない。音の消えた人が廊下の端まで行って、そこで音が戻る。
匂いが変わっていた。
洗剤の匂いだけになっている。低いところに屈んでも、洗剤の匂いだ。腰から下も同じだ。
食堂へ行った。皿は四三〇だ。
食べていると、三八〇の人が向かいに来た。この人は今日の朝、洗濯の当番になっている。
「今日、いい匂いね」
「はい」
「廊下、ぬるぬるしないの」
「しません」
「そう。前に一度、洗ったあとで転んだ人がいたのよ」
この人は匙で皿の表面を平らにならした。ならしてから、三口分を私の皿へ移す。
匙の腹の滑らせ方は、いつもと同じだ。音が出ない。
「湯だったんだって」
「はい。四十度でした」
「手、温かかったでしょう」
「温かかったです」
「いいわね。私は水よ、洗濯は」
この人は自分の手を見た。指の関節のところが少し赤い。
水のせいなのか、洗剤のせいなのかを、この人は言わなかった。
食堂の入口に、七番が立っていた。
この人は紙を持っている。紙は指示書の写しで、上の端に穴が二つ開いている。綴じてあったものを外してきたのだと思う。
「J-0037」
「はい」
「時刻を教えてください」
「七時五十分です」
七番は書いた。鉛筆を使う。その時に紙を持ち替えない。
「終了は二十分の超過です」
「はい」
私は聞いた。
「におい、書きますか」
「書く欄はありません」
「無いんですか」
「様式に設けてありません」
この人はそれだけ言って、紙を折った。位置は真ん中ではない。三分の一のところで折る。
それを胸のところへ入れる。動作は速い。それでいて音がしない。
「来館者の紙で数えます」
「来館者ですか」
「そう決まっています」
「ここでは数えませんか」
「数える様式がありません」
「はい」
七番は行った。行く時、濡れた床の上を歩く。足音が違う。
乾いたところでは硬い音が鳴って、濡れたところでは鳴らない。音の消える区間の長さで、何処まで濡れているかが分かる。
私は椅子に座ったままでその音を聞いていた。
音が消えるところが、さっきの継ぎ目より向こうへ移っている。乾き始めている。
その時、歌が来た。
洗濯室の歌だ。干す時に出るもので、私はずっと前から知っている。歌詞は四行ある。
知っているのは、あるということだけだ。食堂まで届いたことは今まで無い。
届いたのに驚いたのは私だけではなかった。三八〇の人が匙を止めた。
「聞こえるわね」
「聞こえます」
声は三人分ある。洗濯室の当番は三人だ。
声は揃っていない。合うのは終わりの一語だけだ。
濡れている間だけ、歌詞が届く。
いちまいめは えりから
にまいめは そでから
さんまいめで こしが いたい
よんまいめ
最後の一語で三人が揃う。
そこは前から分かっていた。形が付いたのは今日だ。私はそれを、音の塊としてだけ持っていた。
塊のままでも困らない。それで、私は今日まで一度も近づかなかった。洗濯室はこの廊下にある。
塊に切れ目が入ると、四つに分かれた。
一度そうなると、もう塊には戻らない。元へ返そうとして、私は二度聞き直した。どちらも四つに割れて聞こえる。
「知ってた?」
「知りませんでした」
「私は知ってるわよ。歌ったことあるもの」
この人は小さい声で繰り返した。繰り返す時、三行目のところが違った。
「さんまいめで こしが なる」
「いたい、じゃないんですか」
「なる、よ。骨が鳴るの」
「向こうはいたいでした」
「あら」
この人は少し考えた。考えてから、匙を置いた。
「どっちでもいいのよ。三枚目で腰に来るのは同じだから」
私は笑った。この人も口を開ける。
笑ってから、この人はもう一度小さく歌った。今度は三行目を「いたい」で歌う。歌ってから、自分で首を振る。
「やっぱりなる、だわ」
「はい」
「習ったほうが正しいの」
「誰に習ったんですか」
この人は答えを持っていない。少し黙って、それから言った。
「洗濯室の人よ。前の」
「前の人は」
「もういないわ」
私はそれ以上聞かなかった。
聞かなかったのは、この人が匙をまた持ったからだ。そうなると食べる。その間に話は途切れる。
八時半に、廊下の乾き方を見に行った。
濡れているところは南側に残っている。北側は乾いた。北側は日が入らないのに、先に乾く。
乾く順が日の当たり方と合わない。
南側が低いからだと思う。低いところへ水が集まる。そこが最後まで濡れている。
私は継ぎ目のところに立った。乾いた側と濡れた側の境が、ちょうど足の下にある。
境は動いている。見ている間にも動く。速さは目盛が無いので出せない。
そこで歌を聞いた。まだ届く。
三歩下がって、乾いた側へ行った。聞こえ方が変わる。声はあるが、切れ目が無くなる。
もう三歩下がる。塊に戻った。
それから、また前へ出た。濡れた側に入ると、また四つに分かれる。
私は五度往復した。どれも同じところで変わる。
その場所は継ぎ目ではない。そこより一歩ぶん南だ。濡れている縁のところだ。
九時に開館した。
そうすると、来館者の声が入ってくる。E区画の南側は順路から遠いので、声は薄い。
薄いというのは数の話ではない。壁を二枚か三枚越えてくるので、高いところだけが残る。
それは子どもの声だ。大人のものは途中で落ちる。切れる場所は毎日だいたい同じで、中庭の手前あたりだと思う。
順路は北を通る。南側へ来る人はいない。
いないのに、においの紙は二十二枚あった。二十二人は北にいて、こちらの匂いを嗅いだことになる。
午前中は展示の当番が三人出た。私は入っていない。
九月の順位表はまだ貼られていない。掲示板の右半分が空いたままだ。画鋲だけが四つ刺さっている。前の月の紙は先週剥がされた。出るのは十日ごろだ。
私は洗濯室の手伝いに回った。当番は三人で、今日は袋が九枚ある。
これは多い。洗浄に使った布が入っているからだ。
布は洗剤の匂いがする。洗う前から洗剤の匂いがしている。
それでも洗う。そうしないと次に使えないと言われた。誰がそう言ったかは聞かなかった。
干す時に、三人が歌った。
近くで聞くと、切れ目は最初から分かる。取れないのは遠くにいる時だけだ。
節は前から知っていた。夜に鳴るものと同じになる。
それでも、昼に人の声で鳴ると別のものに聞こえる。二つあると思っていたので、今日まで並べたことが無かった。
「一緒に歌う?」
「歌えません」
「覚えたでしょう」
「三行目が二つあります」
三人のうち二人が笑った。手は止めない。もう一人は口を開けない。「二つあるのよ」と言う。
言ってから、その人は「なる」で歌った。ほかの二人は「いたい」で歌う。三行目だけが二つに割れて、四行目でまた揃う。
揃うところは同じだった。
それで、干す時の持ち上げも揃う。合図はその一語になる。合図は割れない。
私は袋の角を持つ側に付いた。角は四つあって、二人で持つと一人が二つ持つ。
そうすると、袋が斜めだ。そのまま上げると、水が片側へ寄って重くなる。だから上げる前に一度、水平に戻す。
戻すのは合図の一語の前だ。三行の間に水平にして、四行目で上げる。
三行あるのは、戻す時間が要るからだと思う。ただそれだけで、そう作ったかどうかは分からない。
「歌が無いと合わないんですか」
「合うわよ。合うけど遅い」
「遅いと駄目ですか」
「駄目じゃないの。ただ、九枚あるから」
この人は九枚と言ってから、指を折って数え直した。折った指は八本で止まる。
止まってから、もう一本折った。「九枚ね」と言って、笑った。
私も数えた。床に残っているのは四袋で、干し終わったのが五袋だ。
合わせて九だ。数が合うと、この人は満足そうに手を叩いた。その音は濡れた手だと低い。
昼を過ぎて、廊下は乾いた。
終わるまでに四時間半かかった。着手から数えると七時間だ。次に洗うのは二日後だ。
その間で、濡れているのは四時間半になる。残りは乾いている。
乾くと色が戻る。真ん中の薄い帯も元へ返った。歩く人が同じところを歩くので、また薄くなっていく。
匂いも戻った。というより、洗剤が薄れた。
そうなると、下から出てくる。腰から下にあった。屈むと来る。朝と同じ場所にある。
三時ごろ、私は裏へ回った。
用は無い。それなのに行ったのは、朝の湯が何処まで行ったかを見たかったからだ。
側溝の蓋は元の位置に戻っている。百七十一枚ある。
蓋の上は乾いていた。継ぎ目の砂が指の先に付く。数えると七つあった。掃いた跡が残っていて、跡は端へ向かって細い。
跡の細くなり方は、箒の当て方で決まる。強く当てたところは幅が広い。
太いところと細いところが交互に来る。掃く人が腕を返すからだと思う。その度に力が抜ける。
隙間を覗くと、落ちた分が縁に残っている。全部は落ちていない。
縁に残った分は乾いて、色が薄くなる。そこへ次の水が来ると、また濡れて濃くなる。元へ戻るまでに何日かかるかは、百七十一枚とも同じだと思う。
私は南の端まで歩いた。南の端は一番低い。
端の蓋を覗くと、下に水があった。雨は降っていない。最後に落ちたのは八月の終わりだ。
水は動いていない。表面に膜が張っている。
膜は薄い。光が当たると色が付く。指を入れる用は無いので、見ただけにした。
壁を見た。
水の跡が横に走っている。前に見た時は三本と、その上に薄いものが二本あった。私は五本と数えた。
今日は一番下にもう一本ある。
新しい。灰色に近い。古いものほど白くなる。
六本目は五本目より下にある。上へ増えていない。
そうなるのは雨の時だ。下へ増えるのは、少ない水が浅く溜まって、そこで止まる時だ。
私は数え直した。二度とも六本だった。
数えたことは誰にも言わない。持っていく場所が無い。
言う場所が無いものを、私は指で確かめる癖がついている。
壁に触ると、跡のところだけ手触りが違う。ざらつく。ざらつく幅は、一番下が一番狭い。狭いのは新しいからだと思う。
夕方の給餌で、三八〇の人の隣に座った。
「今日、二回目はいつ」
「金曜です」
「週三回だって」
「はい」
「毎日じゃないのね」
この人は皿の縁を指でなぞった。三八〇の八のところで止まる。
「毎日だと、乾く暇が無いのよ」
「乾かないと駄目ですか」
「駄目じゃないけど。濡れてると転ぶわ」
H-0009も同じ卓にいた。この人は端の席にいる。壁が近いからだ。
「腰、大丈夫ですか」
「大丈夫」
「三枚目です」
「四枚目までは平気だ」
この人は歌のことを言っている。言ってから、自分でも少し可笑しかったらしい。
口の形が変わる。声は出ない。音を立てずに笑う人がいることを、私は今日知った。
匙の男が向かいに来た。この人は私より二つ年上だ。
「聞いたぞ、朝の」
「はい」
「湯だったんだって」
「四十度でした」
「俺、手を入れに行きたかった」
「行けばよかったです」
「就業に付いてないんだよ」
この人は自分の手を出した。両手を広げて、それから桶に入れる真似をする。
それから熱がっている顔をして、手を引いた。少し置いて、もう一度同じことをした。
「二回目で慣れるんだろ」
「慣れます」
「じゃあ最初の一回が損だな」
この人はそう言って笑う。私も声を出した。三八〇の人が「損じゃないでしょ」と言って、三人で笑う。
笑っている間、廊下から音がしない。
乾いているので、歩く音が硬い。それは食堂までは届かない。届いたのは今朝だけになる。
居室へ戻る前に、もう一度廊下の継ぎ目を跨いだ。
何も変わらない。濃いほうと薄いほうがあって、境目は朝と同じところにある。
夜、天井の線を見た。線は右が白い。
枕の下は百二十七枚のままだ。九月の展示はまだ来ていない。
九時半に消灯前の放送が鳴った。
放送は毎晩同じものが鳴る。前の人も、その前の人も、同じものを聞いている。
鳴った時、私の頭に先に来たのは洗濯室の言葉だった。
いちまいめは、えりから。にまいめは、そでから。
放送は別の言葉を言っている。それは分かる。
分かるのに、私の中では洗濯の言葉が先に来る。放送の言葉は、その後から追いつく。
追いついても、もう先には来ない。
私は二度、放送を先にしようとした。二度とも、洗濯の言葉が先に出た。
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国立人類保全園 第七園
洗浄作業 実施状況報告(第一回)
作成 施設課
作成日 令和二百十二年九月八日
写し 広報課、E区画担当
一、実施
実施日 令和二百十二年九月八日(水)
着手 〇五時三五分 終了 〇七時五〇分
指示書の目安は〇五時三〇分着手、〇七時三〇分終了であった。終了において二十分の超過があった。超過の理由の記載欄は、本様式に無い。
二、従事者
区画の担当二名、作業班一名、個体十一名であった。
個体の内訳は、就業の割当に清掃補助を含む者からとした。人選の記録は作成していない。
三、範囲
E区画南側の廊下の床面および側溝の蓋の上面について実施した。
蓋の開放は行っていない。指示書 三のとおりであった。
四、用水および薬剤
洗濯室の給湯を用いた。使用量は計測していない。当該月の総量から按分することとした。
中性洗剤の使用は概ね一・五リットルであった。希釈は百倍とした。計量は洗濯室の器具によった。
五、床面
終了後、床面は湿潤の状態であった。乾燥に要した時間は記録していない。
作業中および作業後に、転倒その他の申し出は無かった。
六、側溝
蓋の上面の掃出を行った。掃き出した分は蓋の隙間から側溝内へ落下している。
同日一五時における側溝南端部の滞留の深さは二・一センチメートルであった。営繕係への報告の線は五センチメートルであるため、報告を要しないものとした。
七、効果
本報告の様式に、においに係る欄は無い。
効果の確認は指示書 九により来館者アンケートのにおいに係る記載の件数によることとされている。九月分の集計は十月一日である。
八、次回
次回は九月十日(金)とする。以後、月曜、水曜および金曜に実施する。
手順は本回により定めた。手順は従事者の間で口頭により引き継ぐ。
九、備考
本回により、E区画南側廊下の床面の洗浄は本年度において二回目となった。前回は本年四月であった。
指示書 五により用水は洗濯室の給湯によることとしたが、当日の洗濯の開始は本作業の終了後となった。作業と洗濯が重ならないよう調整した記録は無い。




