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夜明け前の弁当屋  作者: 八雲 海


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第九話 うちは貧乏だから

一月の末、結衣の参観日(さんかんび)があった。


 真琴は店を三時間だけ閉めた。


 藤田に電話して許可を取った。藤田は「当たり前だ、行ってこい」と言った。電話口の声が、最初の頃より少し元気になっていた。

――――――

 小学校は商店街から歩いて十五分だった。


 真琴は久しぶりにエプロンを外して、外出用のコートを着た。手袋をして、自転車を押して歩いた。


 校門の前に、何人か親が集まっていた。真琴は挨拶(あいさつ)だけして、中に入った。


 結衣のクラスは二階の端だった。廊下(ろうか)から覗くと、結衣が窓際(まどぎわ)の席にいた。


 気づいていない。真琴は廊下に立ったまま、結衣を見た。


 授業は国語だった。先生が何かを問いかけている。結衣は手を挙げなかった。でも先生の話をまっすぐ聞いていた。


 隣の席の子が結衣に何か囁(ささや)いた。結衣は小さく頷いた。


 普通の顔をしていた。


 真琴はそれを見て、少し息をついた。

――――――

 授業が終わった後、廊下で結衣と会った。


 結衣は真琴を見て、少し驚いた顔をした。驚いた後、すぐに普通の顔に戻った。


「来てたの」

「来た」

「見てた?」

「最後だけ」


 結衣は少し考えた。


「手、挙げなかった」

「知ってる」

「答えわかってたけど」

「なんで挙げなかった」


 結衣はまた少し考えた。


「なんとなく」


 真琴はそれ以上聞かなかった。


 帰り道、二人で並んで歩いた。

――――――

 商店街の近くまで来たとき、結衣が言った。


「ねえ、お母さん」

「うん」

「今日、学校でさ」


 結衣が少し止まった。


「班で発表があって。将来なりたいものとか、今年やりたいこととか」

「うん」

「みんないろいろ言ってた。旅行行きたいとか、ゲームしたいとか」

「結衣は」

「言えなかった」


 真琴は結衣を見た。結衣は前を向いたまま歩いていた。


「なんで言えなかった」

「……うちは貧乏だから」


 真琴は足を止めた。


 結衣も止まった。二人、商店街のアーケードの下に立っていた。切れた電球の下だった。


「誰かに言われたか」

「ううん」結衣は首を振った。「自分でわかってるから」


 真琴は結衣を見た。


 八歳の顔だった。でも言葉は八歳じゃなかった。


「何がやりたかった」

「……遊園地」


 結衣は小さな声で言った。


「お母さんと二人で行きたかった。でも言えなかった」

――――――

 その夜、結衣が寝てから、真琴は台所に座った。


 電気をつけずにいた。


 暗い台所で、膝(ひざ)の上に手を置いた。


 遊園地。


 真琴は最後に遊園地に行ったのがいつか、考えた。思い出せなかった。結衣を連れて行ったことは、一度もない。


 離婚してから二年。その前の三年も、元夫の借金の返済で余裕がなかった。


 結衣は一度も文句を言わなかった。


 ねだったこともなかった。


 それがずっと、真琴には引っかかっていた。子どもは欲しいものを言うものだ。言わない子どもは、言っても無駄だと知っている子どもだ。


 真琴はそれを知っていて、見ないようにしていた。


 目の前の数字を見ていた。仕入れの量を考えていた。明日の弁当を組んでいた。


 それをしている間、結衣は一人で納得していた。


 うちは貧乏だから、と。

――――――

 涙(なみだ)が出た。


 真琴は泣くつもりがなかった。でも出た。


 声は出なかった。暗い台所で、ただ涙が落ちた。


 しばらく、そのままでいた。


 泣き終わってから、顔を拭(ふ)いた。


 立ち上がって、電気をつけた。


 冷蔵庫を開けた。


 明日の仕込みのことを考えた。坂口たちが今週から現場に戻ると言っていた。村井が明日の朝来る。田中は木曜日だ。


 数字を頭の中で並べた。


 今月の売上。来月の見込み。


 遊園地に行けるのは、いつか。


 春になれば、坂口たちの現場が終わる。その後、別の現場に移るかどうかわからない。売上が下がる可能性がある。


 でも春になれば、結衣の学年も上がる。


 春に、一度だけ。


 真琴はメモ帳を出した。


 売上の予測を書いた。支出を書いた。


 遊園地の入場料を調べた。大人一人、子ども一人。交通費。昼食代。


 合計を出した。


 春なら、なんとかなる。


 真琴はメモ帳を閉じた。


 電気を消して、布団に入った。


 結衣はまだ寝ていた。寝顔は、まだ八歳の顔だった。


 真琴はしばらくその顔を見た。


 春になったら言う。


 それだけ決めた。

――――――

 翌朝、四時にシャッターを上げた。


 空はまだ暗かった。息が白くなる。


 厨房に入って、換気扇を回した。出汁を取り始めた。


 昨夜泣いたことは、弁当には出さない。


 でも今日の弁当は、少しだけ丁寧(ていねい)に作ろうと思った。


 理由はない。ただそう思った。


 包丁を取った。


 今日来る顔が、順番に浮かんだ。


 全員分、覚えていた。

(第九話・了)


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