第三幕 圧力 第八話 300円の壁
年が明けた。
元日だけ店を閉めた。二日から開けた。
理由は単純だった。正月でも働く人間がいる。タクシー運転手も、病院の看護師も、年末年始は関係ない。むしろ普段より疲れている。
真琴は二日の朝四時にシャッターを上げた。
商店街はまだ静かだった。金物屋も煙草屋も閉まっている。アーケードの端の切れた電球は、年を越しても替わっていなかった。
――――――
一月の第二週に、異変が起きた。
坂口たちが来なかった。
火曜日。水曜日。木曜日。
三日続けて来なかった。
真琴は仕入れの量を戻した。増やしていた鶏肉と根菜を、元の量に戻した。
木曜日の昼、坂口から電話があった。
「桐原さん、すみません。現場が止まってて」
「工事ですか」
「資材の入荷が遅れてて。あと一週間くらいかかるかもしれない」
「わかりました」
「落ち着いたらまた行きます」
「待っています」
電話が切れた。
真琴は厨房に戻った。今日の売上を頭の中で計算した。
坂口たちがいない週は、一日の売上が一万円を下回る。
一万円では、仕入れと光熱費を引くと手元に残るものが少ない。
――――――
翌週、別の異変があった。
常連の顔ぶれが、少し変わった。
田中が来なかった。老婆が来なかった。
代わりに、見慣れない客が数人来た。
若い男女だった。入ってきてケースを見て、少し迷って、何も買わずに出て行く者もいた。
一人が出て行き際に言った。
「やっぱり高いな」
小声だったが、真琴には聞こえた。
――――――
その日の夕方、真琴は商店街を歩いた。
入口まで行って、止まった。
『キッチンまつり』ののぼりが、五本から七本に増えていた。
店の前に新しい看板が出ていた。
――新春特別価格 全品二百八十円
真琴はその看板を見た。
弁当の写真が並んでいた。唐揚げ弁当、幕の内弁当、焼き魚弁当。どれも二百八十円。
真琴の店の弁当は、安いもので四百八十円だ。高いものは六百円を超える。
二倍以上の差がある。
――――――
家に帰ると、結衣が宿題をしていた。
「おかえり」
「ただいま」
真琴は夕飯の準備を始めた。
冷蔵庫を開けながら、頭の中で計算した。
二百八十円の弁当に、常連が流れているとしたら。田中と老婆が来なかったのは偶然かもしれない。でも偶然ではないかもしれない。
鍋に湯を沸かしながら、真琴は考えた。
安くすることはできない。仕入れの値段がある。手間がある。一人で作れる数に限りがある。
二百八十円には絶対に勝てない。
では何で勝つか。
答えは最初からわかっていた。
でも、それが本当に通用するかどうか、今夜初めて怖いと思った。
――――――
翌朝、田中が来た。
いつも通り杖をついて、ゆっくり入ってきた。
真琴は何も言わなかった。田中の弁当を用意した。昆布と椎茸の合わせ出汁。醤油は六割。みりんを少し足したもの。
田中はケースの前に立った。
「値段、上げたか」
「上げていません」
「そうか」田中は弁当を取った。「向こうの店、行ってみた」
真琴は黙って聞いた。
「安かった。二百八十円だ」
「はい」
「食べた」
「どうでしたか」
田中は少し間を置いた。
「悪くなかった。でも」
田中は弁当を持ち上げた。
「俺の体のことは知らんだろう、あっちは」
真琴は返事をしなかった。
田中は代金を払った。
「また来週」
杖をついて出て行った。
――――――
老婆は三日後に来た。
入ってくるなり言った。
「向こうの弁当、食べてみた」
「どうでしたか」
「安かった。でも、味が濃かった。喉が渇いた」
老婆は関節の腫れた手で財布を出した。
「こっちの方がいい。少し高くても」
真琴は弁当を袋に入れた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない。旨いから来てるだけだ」
老婆は出て行った。
――――――
でも、全員が戻ってくるわけではなかった。
以前は週に二、三回来ていた顔が、来なくなった。名前を知らない客だった。真琴のメモには顔と来る曜日と好みが書いてあったが、名前はなかった。
その顔が、一月の半ばから消えた。
真琴はメモを開いた。
四人いた。三十代の男。夫婦らしい二人組。パート帰りらしい女性。
全員、特別な事情を持っていなかった。体に気をつかう必要がない。好き嫌いがない。弁当に求めるのは、安くてそれなりに旨いもの。
その人たちには、二百八十円の弁当で十分だ。
真琴はメモを閉じた。
全員に勝つことはできない。最初からできないと思っていた。
でも、今日初めてそれが数字になった。
――――――
その夜、中川が来た。
真琴が出したのは、白菜と豚肉の雑炊だった。今夜は寒かった。
中川は食べながら言った。
「顔色が悪いね」
「そうですか」
「客、減った?」
「少し」
「向こうの値下げか」
真琴は頷いた。
中川は箸を置いた。
「あんた、どうするつもり」
「変えません」
「値段も、やり方も」
「はい」
中川はしばらく真琴を見た。
「根拠はあるの」
「田中さんが来ました。老婆の方も来ました」
「それだけ?」
「それだけです」
中川は少し笑った。笑い方が、最初に来たときより柔らかくなっていた。
「強いね、あなた」
「強くないです。他にやりようがないだけです」
中川はまた箸を取った。
「それが強いってことよ」
真琴は返事をしなかった。
厨房に戻って、仕込みの続きをした。
明日の弁当を頭の中で組んだ。
坂口たちはまだ来ない。でも来週には戻る、と坂口は言っていた。
看護師の村井は明日の朝来る。夜勤明けの曜日だ。
田中は木曜日に来る。
老婆は不定期だが、また来る。
中川は今夜来た。
全員の顔が浮かんだ。
真琴は包丁を動かした。
二百八十円には勝てない。
でも、この顔たちには勝てる。
それだけを考えた。
(第八話・了)




