第七話 スナックのママ
その女が初めて店に入ってきたのは、十二月の半ばだった。
夜の十時を過ぎていた。
真琴は翌日の仕込みをしていた。閉店は夕方六時だが、仕込みはその後も続く。厨房の電気だけつけて、一人で作業していた。
シャッターを叩く音がした。
真琴は手を止めて、店に出た。
ガラス越しに女が立っていた。
四十代か、五十代か。コートの襟を立てて、少し背を丸めていた。派手ではないが、手入れをしている顔だった。目元に疲れがある。
真琴はシャッターを少し上げた。
「営業は終わっています」
「わかってる」女が言った。「ちょっとだけいいですか」
真琴は少し考えた。
「どうぞ」
――――――
女は店に入って、カウンターの前に立った。
名前を聞かなかった。女も名乗らなかった。
「弁当、一つもらえますか。残り物でいい」
「残り物はないです。残ったものは持ち帰ります」
「そうか」女は少し困った顔をした。「じゃあ、作ってもらえますか。お金は払う」
真琴は女を見た。
コートの下はスーツに近い格好だった。ヒールの高い靴。バッグは小さくて、仕事用に見えた。夜の仕事だ、と真琴は思った。商店街の並びに、スナックが二軒ある。どちらかのママか、従業員だろう。
「少し待ってください」
真琴は厨房に戻った。
――――――
冷蔵庫を開けた。
仕込みの途中のものがある。明日の弁当用に切った野菜。出汁を取った後の昆布。豆腐が半丁。卵が三つ。
女の顔を思い出した。
目元の疲れ。コートの下の格好。夜遅い時間。
夜の仕事は酒の匂いの中にいる。帰宅前に何か食べたいが、脂っこいものは胃に来る。でも何も食べないと、明日の朝がつらい。
真琴は手を動かした。
豆腐を切る。出汁を温める。卵を溶く。
豆腐と卵の雑炊を作った。米は少なめ。出汁を多めにして、薄く塩をした。仕上げに三つ葉を少し乗せる。
弁当箱には入らない。丼に盛って、蓋をした。
――――――
カウンターに出すと、女は少し驚いた顔をした。
「弁当じゃないですね」
「この時間に食べるなら、こちらの方がいいと思いました」
「なんで」
「胃に軽いです。夜遅い食事向きです」
女はしばらく丼を見た。
「……酒の匂いの中にいたの、わかりましたか」
「わかりました」
「そうか」
女は丼を受け取った。カウンターの椅子に座って、その場で食べた。
真琴は厨房に戻って、仕込みを続けた。
しばらくして、女が言った。
「旨い」
真琴は返事をしなかった。
「素直に旨い。この時間にこれが食べたかった」
真琴は手を動かしながら答えた。
「よかったです」
――――――
女が食べ終わった頃、真琴は厨房から出た。
女は丼を両手で持ったまま、少しぼんやりしていた。
「いくらですか」
「五百円でいいです」
「安いですね」
「弁当じゃないので」
女は財布から千円札を出した。釣りを受け取って、立ち上がった。
帰り際に振り返った。
「名前、なんていうんですか」
「桐原です」
「私は中川。二軒隣のスナック、やってます」
真琴は頷いた。
「昼間は来られないんです」中川が言った。「仕事の準備とか、いろいろあって」
「夜来てもらえれば、作ります」
中川は少し真琴を見た。
「毎晩は無理ですよ。こっちも仕事があるから」
「来られるときでいいです」
中川はまた少し真琴を見た。それからコートの襟を直した。
「また来ます」
シャッターをくぐって出て行った。
――――――
中川はそれから週に二回か三回、夜に来るようになった。
時間は毎回違った。十時のときもあれば、十一時を過ぎることもあった。
真琴はその時間に合わせて、厨房にいた。
中川が来るとわかっていたわけではない。ただ仕込みで遅くなる日が多かった。それだけだった。
中川はいつも、真琴が出したものを黙って食べた。文句を言ったことがない。
残したこともなかった。
――――――
ある夜、中川が珍しく話した。
「最近、客が減ってる」
真琴は仕込みの手を動かしながら聞いた。
「景気ですか」
「それもある。でもうちの近くに、カラオケ付きの安い店が出来たから」
「そちらに流れている」
「そう」中川は箸を置いた。「スナックって、酒飲みながら話すだけの店でしょ。カラオケがあって安ければ、そっちに行くのは当たり前よ」
真琴は中川を見た。
「それでも続けますか」
「続けるよ」中川は迷わず言った。「うちに来る常連は、話したいだけだから。カラオケじゃなくて、聞いてもらいたい人が来てる。そういう人は、安い店には行かない」
真琴は少し考えた。
「それはこの店と同じですね」
「弁当屋と一緒にしないでよ」中川が笑った。
真琴は笑わなかった。
「安さでは勝てない。でも、来る人のことを知っていれば勝てる。同じだと思います」
中川はしばらく真琴を見た。
「……あなた、変わってるね」
「よく言われます」
「褒めてるのよ」
中川は残りを食べた。
今夜は二日酔い(ふつかよい)対策に、梅干しと大根おろしを添えた雑炊にしていた。昨夜、中川が少し飲みすぎた様子だったからだ。
中川は気づいていないかもしれない。気づいていても、何も言わなかった。
ただ、今夜は全部食べ終わった後、少しだけ表情が柔らかくなっていた。
――――――
中川が帰った後、真琴はシャッターを下ろした。
厨房を片付けながら、今日来た人間の顔を順番に思い出した。
坂口と現場の男たち。看護師の村井。田中。老婆。中川。
全員、この街で生きている人間だった。
大型チェーンの弁当は、この街のことを知らない。誰が来るかも、何を好むかも、体の具合も、仕事の疲れも。
真琴はそれを知っていた。
ただ見ていただけだが、知っていた。
それだけが、今のところの武器だった。
シャッターを完全に下ろして、鍵をかけた。
自転車で帰る途中、空を見た。
星が出ていた。
十二月の空は、高くて、冷たかった。
(第七話・了)
――第二幕 了――




