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夜明け前の弁当屋  作者: 八雲 海


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第十話 男が戻る

二月の初めだった。


 店を閉めて、自転車で帰る途中だった。


 商店街を出て、住宅街に入ったところで、前から男が歩いてきた。


 真琴は最初、知らない男だと思った。


 一秒後に、わかった。


 桐原(きりはら)康介(こうすけ)。


 結衣の父親。真琴の元夫。

――――――

 男は真琴に気づいて、止まった。


 真琴も止まった。


 自転車を挟んで、三メートルほどの距離で向き合った。


 康介は三十五歳のはずだった。真琴より三つ上だ。以前より少し痩せていた。コートは安そうだったが、新しかった。靴は綺麗(きれい)だった。


 真琴は靴を見た。


 金に困っていない、ということはない。でも今すぐ切羽詰(せっぱつ)まっているわけでもない。どこかに落ち着いた先がある。そこからここへ来た。


「久しぶり」


 康介が言った。


 真琴は返事をしなかった。


「探したよ。引っ越してたんだな」

「用件を言ってください」


 康介は少し苦笑(くしょう)した。


「相変わらずだな」

「用件を」

「結衣に会いたい」


 真琴は康介を見た。


「それだけですか」

「それだけじゃない」康介は少し間を置いた。「ちゃんと話したい。どこかで」

「話すことはないです」

「真琴」

「桐原さんと呼んでください」


 康介はまた苦笑した。今度は少し困った顔が混じっていた。


「そんなに警戒しなくても」

「用件が結衣に会うことだけなら、弁護士を通してください。それ以外の話なら、聞きません」


 真琴は自転車を動かした。


 康介が言った。


「借金、返したよ」


 真琴は止まらなかった。


「全部。ちゃんと返した。だから」

「関係ないです」


 そのまま走った。


 康介の声が後ろから聞こえた。


「また来る」


 真琴は振り返らなかった。

――――――

 家に帰ると、結衣はもう寝ていた。


 真琴は台所で湯を沸かした。


 頭の中が静かだった。


 怒りがあるかと思った。なかった。怖いという感情もなかった。


 ただ、やるべきことを考えた。


 まず確認する。康介が本当に借金を返したかどうか。返したとして、今どこに住んでいるか。仕事は何か。


 次に、弁護士に連絡する。離婚のとき世話になった弁護士が、相談窓口(そうだんまどぐち)を紹介してくれたはずだ。


 メモを探した。古いノートの後ろに挟(はさ)んであった。


 電話番号を確認した。


 明日の朝、店に行く前に電話する。


 それだけ決めた。


 湯が沸いた。お茶を入れた。


 飲みながら、康介の靴を思い出した。


 新しくて、綺麗だった。


 どこかで誰かに買ってもらったか、自分で買えるだけの金ができたか。


 どちらでもよかった。


 真琴には関係がなかった。

――――――

 翌朝、弁護士事務所に電話した。


 担当は変わっていたが、事情を話すと引き継いでくれると言った。まず状況を整理して、相手が正式に動いてきたときに備えて準備しておきましょう、と言われた。


 費用を聞いた。


 答えを聞いて、少し考えた。


「わかりました。お願いします」


 電話を切って、シャッターを上げた。


 四時十分だった。いつもより十分遅かった。


 厨房に入って、換気扇を回した。


 頭の中で今日の弁当を組んだ。


 坂口たちが来る。村井が来る。田中は木曜だから今日は来ない。中川は夜だ。


 出汁を取り始めた。


 康介のことは、今日の弁当には関係がない。


 そう決めた。

――――――

 三日後、康介がまた来た。


 今度は店に来た。


 昼過ぎ、客が途切れた時間だった。


 コートを着て、手ぶらで入ってきた。カウンターの前に立って、ケースの中を見た。


「弁当、一つもらえる?」


 真琴はケースを見た。


「どれにしますか」

「適当に選んでくれ」

「四百八十円です」

「いいよ」


 真琴は鶏の照り焼き弁当を袋に入れた。


 康介は代金を払った。受け取り際に言った。


「この店、やってるの?」

「見ればわかります」

「いや、自分で。雇われじゃなくて」

「預かっています」

「そうか」康介は店内を見回した。「繁盛(はんじょう)してる?」

「普通です」

「真琴らしいな。嘘はつかない」


 真琴は返事をしなかった。


「結衣は元気か」

「弁護士を通してください」

「そんなに構えなくても」

「構えていません。手順の話をしています」


 康介はしばらく真琴を見た。


「変わらないな」

「用件が終わったなら、次のお客さんが来ます」


 康介は少し笑って、出て行った。

――――――

 その日の夜、中川が来た。


 真琴が出したのは、根菜の煮物と白飯の定食風の一皿だった。今夜は丼ではなく、皿に分けて出した。


 中川は食べながら、真琴の顔を見た。


「何かあった」

「顔に出ていますか」

「出てないけど、なんとなく」


 真琴は少し考えた。


「元夫が来ました」


 中川は箸を止めた。


「子どもに会いたいって?」

「そう言っています」

「本当のところは」

「金だと思います」


 中川は少し間を置いた。


「根拠は」

「借金を返したと言っていました。急いで伝える必要のないことです。それをわざわざ言った」


 中川はまた食べ始めた。


「弁護士は」

「明後日、相談に行きます」

「そう」中川は頷いた。「一人でやるの?」

「やります」


 中川はしばらく真琴を見た。


「友達とかいないの」

「いません」

「頼れる人」

「いないです」


 中川は皿を見た。少し考えているようだった。


「私でよければ、話くらい聞く」


 真琴は中川を見た。


「スナックのママが得意なことでしょ、話を聞くのは」中川は少し笑った。「商売抜きで」


 真琴はしばらく何も言わなかった。


「……ありがとうございます」

「礼はいらない。あんたの飯が旨いから聞くだけ」


 中川は残りを食べた。


 真琴は厨房に戻った。


 仕込みをしながら、中川の言葉を思い返した。


 頼れる人。


 真琴はそういうものを、最初から期待しない人間だった。期待しなければ、失望しない。


 でも今夜は、少しだけ違う気がした。


 違う、とはうまく言えなかった。


 ただ、仕込みをする手が、いつもより少し軽かった。

(第十話・了)


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