第十一話 見抜いている
弁護士事務所は駅前のビルの四階にあった。
真琴は開店前の時間に予約を入れた。朝八時。担当は三十代の女性弁護士で、名前を岸本といった。
事務所に入ると、岸本はすでに机の前に座っていた。書類が整然と並んでいた。
「桐原さん、離婚時の書類はお持ちですか」
「持ってきました」
真琴は封筒を出した。離婚協議書、親権に関する合意書、養育費の取り決めの書類。全部、コピーを取って別々の場所に保管していた。
岸本は書類を確認した。
「養育費の支払いは」
「一度も来ていません」
「離婚後ずっとですか」
「はい」
岸本はメモを取った。
「相手方の現在の住所は」
「わかりません。こちらに来たとき、聞きませんでした」
「連絡先は」
「以前の番号に電話しても繋がりませんでした。店に来たときは、番号を教えてくれませんでした」
岸本は少し考えた。
「相手方は何と言っていましたか。来た目的は」
「結衣に会いたい、と言いました。それと、借金を返したと言いました」
「それだけですか」
「また来る、とも言いました」
岸本は書類から目を上げた。
「桐原さんの判断では、相手方の目的は何だと思いますか」
「金だと思います」
「根拠は」
「借金を返したと言った。それをわざわざ言う必要がない。言ったのは、何かを正当化するためだと思います。親権を取り戻したい、という話になれば、養育費を払っていなかったことが問題になる。先に借金を返したという実績を作りたかった」
岸本はしばらく真琴を見た。
「よく整理されていますね」
「考えていました」
「では準備しましょう。相手方が正式に動く前に、こちらが先手を打てるよう書類を整えます」
真琴は頷いた。
――――――
事務所を出て、店に向かった。
途中、コンビニの前を通った。
康介と最初に会ったのは、こういう何でもない場所だった。二十五歳のときだった。
真琴は立ち止まらずに歩いた。
――――――
その日の昼過ぎ、康介がまた来た。
今度は一人ではなかった。
女が一緒だった。
三十代、真琴より少し若い。きちんとした格好をしていた。康介の隣に、少し遠慮した様子で立っていた。
康介はカウンターに来た。
「弁当、二つ」
「どれにしますか」
「同じのを二つ」
真琴は鶏の照り焼きを二つ袋に入れた。
康介は代金を払いながら、女の方を見た。
「ここの弁当、旨いんだよ」
女は笑った。真琴には向けなかった笑いだった。
真琴は袋を渡した。
康介は受け取って、少し間を置いた。
「真琴、結衣に会わせてほしい」
「弁護士を通してください」
「そんなに硬くなくていい。ただ会うだけだ」
「弁護士を通してください」
康介は少し困った顔をした。隣の女が康介の袖を引いた。小さな動作だったが、真琴には見えた。
早く行こう、という動作だった。
真琴はその動作を見た。
この女は来たくなかった。康介に連れてこられた。なぜここに来たか、目的を知っているか知らないか、どちらかだ。知っていれば来たくない。知らなければ、康介の様子を見て何かを感じている。
どちらにしても、この女は今日のことを康介に頼まれていない。
「次のお客さんが来ます」
真琴は言った。
康介は袋を持って、出て行った。女が後に続いた。
出て行く前に、女が一度だけ振り返った。
真琴を見た。
一秒も経たずに、前を向いた。
二人は出て行った。
――――――
夕方、坂口が一人で来た。
弁当を受け取りながら言った。
「なんか、今日の桐原さん、雰囲気違いますね」
「そうですか」
「静かすぎる」
「いつも静かです」
「いつもと違う静かさ」
真琴は坂口を見た。
坂口は少し困った顔をした。
「余計なことだったか」
「いいえ」
「何かあった?」
真琴は少し考えた。
「個人的なことです」
「そうか」坂口は弁当の袋を持ち直した。「まあ、なんかあったら言ってください。俺にできることはたかが知れてるけど」
真琴は頷いた。
「ありがとうございます」
坂口は出て行った。
真琴はカウンターの前に立ったまま、少しの間、動かなかった。
坂口の言葉が、思ったより胸に残った。
たかが知れてる、でも言ってください。
そういう言い方をする人間は、少なかった。
――――――
夜、中川が来た。
真琴は今日あったことを話した。弁護士のこと。康介が女を連れてきたこと。
中川は食べながら聞いた。口を挟まなかった。
話し終わると、中川は少し間を置いた。
「その女、どんな人だった」
「三十代。きちんとした格好。康介の隣で遠慮していた」
「関係は」
「わかりません。でも康介に引っ張られてきた感じでした」
「その女が可哀想だと思う?」
真琴は少し考えた。
「思いません」
「なんで」
「自分で選んでいる」
中川は少し笑った。
「あんた、冷たいね」
「そうですか」
「褒めてる」
中川は残りを食べた。
「で、本当のところ、怖い?」
真琴はしばらく黙った。
「……少し」
「親権のこと?」
「はい」
「根拠はあるの。向こうが取れないという」
「あります」
「何」
「結衣が、康介を父親だと思っていない。二年間、一度も会っていない。養育費も来ていない。それを結衣は知っている。知った上で、何も言わない」
中川は真琴を見た。
「それだけじゃないでしょ」
真琴は中川を見た。
「あんたが負けない人間だから」中川は言った。「それが一番の根拠でしょ」
真琴は返事をしなかった。
中川は立ち上がった。
「ごちそうさま。今日も旨かった」
「ありがとうございます」
「弁護士の話、進んだら教えて。私も何か知ってることがあるかもしれないから」
中川はコートを着て、出て行った。
――――――
シャッターを下ろして、厨房を片付けた。
明日の仕込みのメモを書いた。
坂口たちの分。村井の分。田中の分。
書きながら、今日来た顔を思い出した。
康介の顔も浮かんだ。
真琴はメモに書き加えた。
弁護士への連絡。書類の追加確認。
康介のことは、弁当と同じだと思った。
何が来るかわかっていれば、準備できる。
準備できれば、負けない。
電気を消した。
自転車で帰る夜道は、冷たかった。
でも今夜は、寒さがいつもより少し遠かった。
(第十一話・了)
――第三幕 了――




