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夜明け前の弁当屋  作者: 八雲 海


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第四幕 転換 第十二話 豪雨

三月の半ばだった。


 朝から空が低かった。


 真琴はシャッターを上げながら空を見た。雲の色が悪い。灰色ではなく、緑がかった灰色だった。


 天気予報では午後から雨と言っていた。


 真琴は仕入れのメモを見直した。今日は多めに仕込む。雨の日は客足が落ちる。でも備えておく。

――――――

 午前中は普通だった。


 坂口たちが来た。村井が来た。田中が来た。


 昼過ぎから風が出てきた。


 アーケードの古い屋根が鳴り始めた。金属が風を受ける音だ。低くて、続く音だった。


 午後二時を過ぎた頃、雨が降り始めた。


 最初は普通の雨だった。


 三十分後、様子が変わった。

――――――

 雨脚あまあしが急に強くなった。


 真琴は店の前に出た。


 商店街のアーケードの外が見えた。道路に水があふれていた。側溝そっこうが追いつかない量の雨だった。


 空が暗くなっていた。昼なのに夕方のような暗さだった。


 スマートフォンに通知が来た。


 大雨警報おおあめけいほう土砂災害警戒情報どしゃさいがいけいかいじょうほう


 真琴は店に戻った。


 ラジオをつけた。藤田の店には古いラジオがあった。


 アナウンサーの声が流れた。市内各所で冠水かんすい幹線道路かんせんどうろが通行止め。物流が止まっている。

――――――

 夕方、坂口から電話があった。


「桐原さん、大丈夫ですか」

「店は大丈夫です。そちらは」

「現場が心配で見に行ったら、周りが冠水してた。帰れなくなりかけた」

「今は」

「近くの公民館こうみんかんにいる。避難してる人が結構いる」


 真琴は少し考えた。


「何人いますか」

「三十人くらいか。子どもも老人もいる。公民館の備蓄びちく食料はあるらしいけど、温かいものがなくて」

「わかりました」

「え」

「場所を教えてください」

――――――

 真琴は厨房に戻った。


 冷蔵庫を開けた。今日の仕込みの残りがある。米が五キロ。野菜が多めにある。昆布と椎茸の出汁が取ってある。


 三十人分。


 一人で作れる量ではない。


 真琴は電話をかけた。


 最初に中川に電話した。


「今夜、手伝えますか」

「何するの」

「炊き出しです。避難してる人が三十人います」


 一秒の間があった。


「行く。何時」

「今すぐ来てもらえれば」

「わかった」


 次に村井に電話した。夜勤ではない日だと把握していた。


「村井さん、今夜」

「聞いてた。中川さんから連絡来た。行きます」

「中川さんから」

「さっき電話があって。桐原さんが炊き出しするから手伝えって」


 真琴は少し止まった。


「……わかりました。来てもらえると助かります」

――――――

 三十分後、中川と村井が来た。


 中川は割烹着かっぽうぎを持ってきた。村井は使い捨ての手袋を持ってきた。


 真琴は二人に指示を出した。


「中川さんは米を炊いてください。五キロ全部。村井さんは野菜を切ってもらえますか。根菜を大きめに」

「出汁は」

「取ってあります。豚汁とんじるにします」


 三人で動いた。


 中川は手際てぎわがよかった。スナックで料理を出しているから当然かもしれない。でも真琴が思っていた以上に早かった。


 村井は包丁を使ったことがないわけではなかった。看護師だから手先が器用だった。根菜を均等きんとうな大きさに切った。


 真琴は出汁に火を入れながら、二人の動きを見た。


 指示を出し直す必要がなかった。

――――――

 一時間後、大鍋二つに豚汁ができた。


 おにぎりを百個作った。三人で分担した。真琴が形を作り、中川が海苔のりを巻き、村井が袋に入れた。


 坂口が軽トラックで迎えに来た。


「まじか」坂口は鍋とおにぎりを見て言った。「一時間でこれ作ったのか」

「三人でやりました」


 坂口と現場の男が二人、鍋を運んだ。


 真琴と中川と村井も軽トラックに乗った。

――――――

 公民館に着くと、避難している人たちがいた。


 老人が多かった。子どもが数人。疲れた顔の大人たち。


 豚汁とおにぎりを配り始めた。


 最初の一人が受け取ったのは、七十代の老婆だった。


 真琴の店に来る老婆とは別の人だった。知らない顔だった。


 老婆は豚汁を一口飲んで、少し目を閉じた。


 それだけだった。


 何も言わなかった。でも真琴にはわかった。


 温かいものが、体に入った瞬間の顔だった。

――――――

 配り終わるまで一時間かかった。


 足りるかどうか、途中で不安になった。でも最後の一人まで届いた。


 坂口が真琴の隣に来た。


「足りましたね」

「ぎりぎりでした」

「計算してたのか」

「だいたい」


 坂口は少し笑った。


「さすがだ」


 真琴は返事をしなかった。


 公民館の外では、まだ雨が降っていた。


 でも少し弱くなっていた。

――――――

 帰り際、公民館の館長かんちょうが真琴に声をかけた。


「あなたが作ってくれたんですか」

「三人でやりました」

「ふじた弁当の方ですか。商店街の」

「預かっています」


 館長は少し考えた。


「明日も、お願いできますか。物流がいつ回復するかわからないので」


 真琴は少し考えた。


「食材が続けば」

「食材は、私の方でも集めます。農家に知り合いがいるので」

「わかりました」

――――――

 夜、店に戻った。


 中川と村井と三人で厨房を片付けた。


 片付けながら、中川が言った。


「明日も来る」

「ありがとうございます」

「礼はいい」中川は鍋を洗いながら言った。「久しぶりに、ちゃんと料理した気がする」


 村井が笑った。


「私も。病院の食堂のご飯しか作らないから」

「作るのか、病院で」

「違う違う、食べるだけ」


 中川が笑った。


 真琴は二人を見た。


 この店で、複数の人間が笑ったのは初めてだった。


 真琴はそれに気づいて、少し不思議な気持ちになった。


 悪くない、と思った。

――――――

 片付けが終わって、二人が帰った後、真琴は一人で厨房に立った。


 明日の食材を確認した。


 米が残り少ない。野菜は館長が手配してくれる。出汁の昆布と椎茸は在庫がある。


 メモを書いた。


 明日の炊き出し用。それとは別に、店の常連への弁当。


 両方、やる。


 どちらかを選ぶ必要はない。


 真琴はメモを畳んだ。


 雨の音が、少し遠くなっていた。

(第十二話・了)


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