第五話 夜勤の匂い
十一月の終わりになると、朝四時の空気が変わった。
息が白くなる。自転車のハンドルが冷たい。信号待ちのたびに手袋の中で指を動かす。
真琴はそれでも四時にシャッターを上げた。
体が慣れていた。工場の頃と同じ時間だ。違うのは、着く場所だけだった。
――――――
夜勤明けの看護師が来るようになったのは、開けて四日目だった。
最初に来たのは一人だった。外科病棟の看護師で、名札に「村井」とあった。三十代前半、目の下に薄く隈がある。白衣の上にコートを羽織って、少し急いだ様子で入ってきた。
「あの、弁当ってまだありますか」
「あります」
「夜勤明けで……病院の食堂がまだ開いてなくて」
真琴はケースを示した。
「どれでも」
村井は少し迷って、鶏の塩焼き弁当を選んだ。
代金を払うとき、村井が言った。
「ここ、前から気になってたんですけど。シャッター閉まってることが多くて」
「先代が入院中です。しばらく私が開けています」
「そうなんですか」
村井は弁当を受け取って、出て行った。
翌日も来た。今度は二人だった。
――――――
真琴は村井のことを観察した。
毎朝来るわけではない。夜勤のある日だけ来る。週に三回か四回。
いつも急いでいる。ゆっくり選ぶ時間がない。だから選びやすい配置にした。夜勤明け向けの弁当を、ケースの一番手前に置くようにした。
中身も変えた。
匂いが残らないこと、が最初の条件だった。夜勤明けの看護師は、弁当を食べてから帰宅する前に患者と接することもある。にんにく、ねぎ、生姜の類は避ける。
次に、胃に重くないこと。長時間立ちっぱなしで働いた後の体は、脂っこいものを受け付けにくい。豆腐、白身魚、卵。消化がいいものを中心にする。
最後に、見た目の色。
夜勤明けは目が疲れている。色が多いと混乱する。白、淡い黄、薄い緑。落ち着いた色だけで弁当を組んだ。
――――――
一週間後、村井が珍しくゆっくり入ってきた。非番の日らしく、私服だった。
「あの、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「最近、前と違う弁当が置いてありますよね。白っぽい」
「夜勤明けの方向けに変えました」
村井が少し止まった。
「誰かに聞いたんですか」
「いいえ」
「じゃあなんで」
「見ていたので」
村井はしばらく真琴を見た。
「……私のこと見てたんですか」
「あなただけじゃないです。来る人全員」
村井は少し考えた。それからまた真琴を見た。
「それ、すごいですね」
「ただ見ているだけです」
「すごいですよ」
村井は夜勤明け向けの弁当を一つ取った。それから少し迷って、もう一つ取った。
「一つは同僚に。同じ夜勤だったので」
「わかりました」
代金を払いながら村井が言った。
「他の病棟の子にも言っておきます。ここのこと」
真琴は頷いた。
「ありがとうございます」
――――――
村井が言った通りになった。
翌週から、朝の客が増えた。病院の名札をつけたまま来る人間が多かった。内科、外科、整形外科。それぞれ勤務時間が違う。来る時間もばらばらだった。
真琴は全員の顔を覚えた。
名前は名札で見る。来る曜日と時間を把握する。選ぶ弁当の傾向を見る。
外科の若い男性看護師は、いつもご飯を大盛りにしてほしいと言う。体が大きい。消耗が激しい仕事だ。
内科の中年女性は、甘いものを弁当に入れてほしいと言った。「デザートがわりに」と笑った。小さな卵焼きを少し甘めに作って、端に置くようにした。
整形外科の看護師は三人組で来る。毎回同じ顔ぶれで、同じ時間に来て、同じ弁当を選ぶ。変化を好まない人間たちだ。だから真琴は彼女たちの弁当は変えなかった。
――――――
ある朝、村井が一人で来た。夜勤明けではなく、早朝出勤の前らしかった。
「これ」
村井が小さな袋を差し出した。
「なんですか」
「ハンドクリーム。冬、手荒れするかと思って。厨房仕事だと余計」
真琴は袋を受け取った。
「……ありがとうございます」
「あ、いらなければ」
「いります」
村井は少し笑った。
「じゃあ、いつもの」
真琴は夜勤明け向けの弁当を袋に入れた。
村井が出て行った後、真琴はカウンターの下にハンドクリームをしまった。
自分のためにそういうものを買ったのはいつが最後だったか、少し考えて、思い出せなかった。
――――――
その夜、売上を計算した。
今週の一日平均は一万二千円を超えていた。
開けた当初の、ほぼ一・五倍だった。
真琴は数字を見た。
嬉しい、という感情が来るかと思った。来なかった。
ただ、次のことを考えた。
現場仕事の男たちがもう少し来るようになれば、昼の売上が伸びる。タクシー運転手の男が誰かに話してくれれば、同業者が来るかもしれない。
夜の時間帯に需要があるかどうか、まだ見えていない。
メモを書いた。
結衣はもう寝ていた。
真琴は電気を消して、布団に入った。
目を閉じると、今日来た顔が順番に浮かんだ。
全部、覚えていた。
(第五話・了)




