第二幕 始動 第四話 期間限定の厨房
最初の一週間で、真琴はこの店のことをだいたい把握した。
常連は十二人。そのうち毎日来るのは五人。残りは週に二、三回。
売上の平均は一日八千円前後。藤田が元気だった頃の、およそ半分だった。
理由はわかっていた。
商店街の入口に、三ヶ月前にチェーン系の弁当屋が出来ていた。『キッチンまつり』という名前で、のぼりが五本立っている。弁当は三百円からある。
――――――
火曜日の朝、西田が荷物を下ろしながら言った。
「桐原さん、藤田さんから連絡あった?」
「昨日、病院に寄りました」
「どうだった」
「もう少しかかりそうです」
西田は少し黙った。台車に積んだ箱を一つ下ろして、また乗せた。
「三週間って言ってたけど、実際どうなんだろうな」
「わかりません」
「藤田さん、ああ見えて無理する人だから」
真琴は受け取った食材を確認しながら答えた。
「知っています」
西田が少し驚いた顔をした。
「会ってまだ日が浅いのに」
「病室で、足が痛いのに起き上がろうとしていました。三回」
西田は笑った。短い笑いだった。
「そういう人だよ、あの人は」
――――――
木曜日、田中が来た。
七十代の男で、足が少し不自由だった。杖をついて、ゆっくり入ってくる。毎週木曜と土曜に来る。いつも同じ弁当を頼む。焼き魚と煮物とご飯。
真琴は田中のための弁当を、木曜と土曜の朝だけ別に作るようにしていた。昆布と椎茸の合わせ出汁。醤油は通常の六割。その分、みりんを少し足す。甘みが塩気の代わりに舌に残る。
「今日も焼き魚か」
「はい」
「藤田さんのと、ちょっと違うな」
「減塩にしています」
田中は少し間を置いた。
「誰に聞いた」
「誰にも聞いていません」
田中はじっと真琴を見た。
「……医者にも言われとる。嫌いじゃないが、薄い飯は嫌だと思っとった」
「薄くはしていません。塩を減らしているだけです」
田中はまた黙った。財布を出して、代金を払った。
帰り際に振り返った。
「来週も来る」
それだけ言って、杖をついて出て行った。
――――――
金曜日の午後、藤田から電話があった。
「桐原さん、売上はどうだ」
「今週は一日平均九千二百円です」
少し間があった。
「……上がっとるな」
「少しだけです」
「何かしたか」
「弁当の種類を一つ増やしました。夜勤の方向けに、匂いが残りにくいものを」
「夜勤?」
「病院の看護師さんが何人か来るようになりました。夜勤明けに寄ってくれています」
また間があった。
「桐原さん」
「はい」
「三週間と言ったが、もう少しかかりそうだ」
真琴は答えた。
「わかりました」
「……すまんな」
「謝らなくていいです」
電話が切れた。
真琴はしばらく受話器を持ったまま立っていた。
もう少し、という言葉が何日を指すのか、藤田は言わなかった。真琴も聞かなかった。
――――――
その夜、数字を書いた。
失業給付が出るまであと三十二日。今の貯金で乗り越えられる。ただし予備がほぼ残らない。
給付が出たとして、次の仕事が決まるまでの期間。
数字は正直だった。厳しかった。
真琴はペンを置いて、今日作った弁当のことを考えた。
夜勤明けの看護師が三人来た。一人は外科、一人は内科、もう一人はどこかわからなかった。外科の看護師は毎回ご飯を少なめにしてほしいと言う。内科の看護師は辛いものが苦手だと、最初の日に言っていた。
三人とも、弁当を受け取るとき少しだけ表情が変わった。
仕事が終わった後の顔、と真琴は思った。一日の重さが少し下りる瞬間の顔。
真琴はメモを開いて、三人の名前と好みを書いた。名前はまだ名札で見ただけだ。でも覚えている。
――――――
土曜日の朝、結衣が珍しく早起きをした。
「お母さん、今日お店?」
「そう」
「行っていい?」
真琴は少し考えた。
「宿題は」
「昨日終わらせた」
「……じゃあ来なさい」
結衣は支度をして、真琴の自転車の後ろに乗った。商店街まで二十分。結衣は途中、何も話さなかった。風が少し冷たかった。
店に着くと、結衣はカウンターの端に座って、真琴が厨房で働くのをじっと見ていた。
昼前に田中が来た。
田中は結衣を見た。結衣は田中を見た。
「お嬢ちゃんか」
結衣は頷いた。
「お母さんの弁当、旨いぞ」
結衣はまた頷いた。
田中は弁当を受け取って出て行った。
結衣は田中が出て行った方向をしばらく見ていた。それから厨房の真琴を見た。
「あのおじいさん、杖ついてた」
「うん」
「足、痛いの?」
「悪いんだと思う」
結衣はまた黙った。
少しして言った。
「毎週来てるの?」
「木曜と土曜に」
「……そっか」
それだけだった。
でも結衣は、その後もカウンターの端から厨房をずっと見ていた。
――――――
閉店後、二人で自転車を押して帰った。
結衣が言った。
「ねえ、お母さん」
「うん」
「この店、なくなったらあのおじいさん困るね」
真琴は答えなかった。
しばらく歩いた。
「うん」
と、少しして言った。
結衣はそれ以上何も言わなかった。
夜道を、二人で並んで歩いた。
(第四話・了)




