第三話 違うな、でもいい
翌朝四時、真琴はシャッターを上げた。
工場に通っていた頃と同じ時間だ。体が勝手に動いた。
厨房に入って、まず換気扇を回した。昨日確認した冷蔵庫の中身を頭の中で並べた。仕入れは午前八時に業者が来る。それまでに出汁を取って、下ごしらえを済ませる。
藤田のメモは参考にする。でもそのまま使わない。
真琴には自分のメモがあった。昨夜、結衣が寝てから書いたものだ。
――――――
常連客のことを書き出した。
通りすがりに見ていた顔。交わした言葉ではない。見ていただけのことだ。
タクシー運転手の男――五十代、中肉中背、左手に日焼けの跡。長距離を走る。昼に食べる時間が不規則のはずだ。冷めても味が落ちないものがいい。胃腸が丈夫そうに見えない。脂っこいものを避けている素振りがあった。
田中という常連――血圧が高い。減塩が必要。ただし薄いだけでは満足しない。味を濃く感じさせる工夫がいる。昆布と椎茸の出汁を重ねれば、塩を減らしても旨味で補える。
他に何人来るか、まだわからない。
来た顔を見て、そこから考える。
――――――
八時に業者が来た。
四十代の男で、名前を西田といった。藤田の入院を知っていて、少し驚いた顔をした。
「桐原さんが店を?」
「三週間だけです」
「……まあ、藤田さんが頼んだなら」
西田は特に疑わず、荷物を下ろして帰った。
真琴は受け取った食材を確認した。全部メモ通りだった。一つだけ追加で頼んだものがある。干し椎茸だ。藤田のメモにはなかった。
――――――
十一時になると、シャッターの前に人影が見えた。
老婆だった。七十代か八十代か。小さな体で、買い物袋を両手に提げていた。シャッターが開いているのを見て、足を止めた。
「……開いとる」
「いらっしゃいませ」
老婆は店に入ってきた。ガラスケースの中の弁当をじっと見た。
「藤田さんは」
「入院されています。私が代わりに作っています」
「そうか」
老婆は一番手前の弁当を指した。鯖の味噌煮と根菜の煮物、ご飯は少なめにしてある。
「これ、もらおうか」
真琴はそれを袋に入れながら老婆の手元を見た。指の関節が太く腫れている。長年、手を使う仕事をしてきた人の手だ。
「温めますか」
「いや、家で食べるから」
老婆は代金を払った。財布の中から小銭を一枚一枚出した。時間がかかった。真琴は待った。
老婆が出て行く前に振り返った。
「藤田さんによろしゅう言っといて」
「伝えます」
――――――
昼前に、タクシー運転手が来た。
男は店に入ってきて、ガラスケースを見た。それから真琴を見た。
「あんたが作ったのか」
「はい」
男は黙ってケースを見た。今日の弁当は三種類ある。鶏の塩焼き、豚の生姜焼き、それと昨日と同じ鯖の味噌煮。
男は鶏の塩焼きを取った。
「昨日のは誰が作った」
「私です」
「そうか」
男はレジで金を払った。釣り銭を受け取る前に袋の中を確認した。やはり几帳面な人間だった。
出て行く前に、男が言った。
「花、置いといた」
「見ました」
「藤田さんに、早く戻ってくるよう言っといてくれ」
「はい」
――――――
男が出て行ってから十五分ほどして、また戻ってきた。
昨日と同じだった。
男はカウンターに立って、真琴を見た。
「……昨日と違う味だな」
「昨日は藤田さんのレシピで作りました。今日は変えました」
「何を」
「鶏を焼く前に、少し時間を置きました。それと塩の振り方を変えました」
男は少し考えるような顔をした。
「なんで」
「あなたは昼に食べる時間が不規則だと思いました。冷めてから食べることも多いはずです。温かいうちに食べることを前提にした焼き方だと、冷めたときに締まりすぎる」
男が真琴を見た。
真琴は続けた。
「外れていたらすみません。ただそう見えたので」
男はしばらく黙っていた。
「……外れてない」
それから少し間を置いた。
「昨日も言ったか。こっちの方がいいって」
「言っていました」
「今日もそう思う」
男はそのまま出て行った。
名前をまだ知らなかった。でも真琴は、この男がまた来ることを知っていた。
――――――
閉店後、厨房を片付けながら今日の売上を数えた。
十一食。藤田の平均を西田に聞いたところ、調子のいい日で十五食だという。まだ足りない。
でも、減ってはいない。
真琴はエプロンを外して、メモに今日来た客の顔を書き加えた。老婆の手の具合。タクシー運転手の食べ方の癖。新しく来た工事現場の男二人。病院帰りらしい中年女性。
全部、見ていただけのことだった。
でもそれが、弁当の形になる。
真琴はメモを畳んで、エプロンのポケットに入れた。
明日も四時に来る。
――――――
家に帰ると結衣がテーブルで絵を描いていた。
「おかえり」
「ただいま。手、洗った?」
「洗った」
真琴は夕飯の準備を始めた。今日は豆腐と卵の炒め物と、もやしの味噌汁。
結衣が絵から顔を上げた。
「お母さん、今日なんか違う顔してる」
「そうか」
「うん。怖い顔じゃない」
真琴は返事をしなかった。
でも鍋に向かったまま、少しだけ口元が動いた。
結衣はそれを見ていたかもしれないし、見ていなかったかもしれない。
(第三話・了)




