第二話 潰れかけの店
翌朝、真琴は寄り道をした。
『ふじた弁当』の前で自転車を止めた。シャッターは完全に閉まっている。貼り紙が一枚。
――都合により、しばらく休業いたします。
手書きだった。急いで書いたのか、文字が少し傾いていた。
真琴はしばらくそれを見ていた。
それから病院に行った。
――――――
受付で藤田という老人の病室を聞いた。面会できる状態かどうかも。
老人は四階の内科病棟にいた。足の血管が詰まりかけていたらしい。手術はしていない。安静にしていれば動けるようになる、と看護師が言った。
病室に入ると、老人はベッドの上で天井を見ていた。
「昨日の者です」
老人が真琴を見た。目が細くなった。
「……弁当、作ってくれた人か」
「はい」
「常連さんに届いたか」
「六つ、全部出ました」
老人は少し安堵したような顔をした。それからまた天井を見た。
「どのくらい入院しますか」
「三週間、と言われた。もしかしたら、もっと」
真琴は窓の外を見た。駐車場と、その向こうにシャッター商店街の屋根が見えた。
「店、どうするつもりですか」
老人は答えなかった。
しばらく間があった。
「どうもできん」
それだけ言った。
――――――
真琴は帰り道に商店街を歩いた。
シャッターの閉まった店が多い。八つ並んで、開いているのは三つだけだった。金物屋、煙草屋、それと小さな食料品店。食料品店のガラスには「閉店セール」の紙が貼ってあった。
『ふじた弁当』は商店街の端にあった。シャッターの前に、花が一束置いてあった。誰かが持ってきたものだ。
真琴はその花を見た。
買ってきた人間の顔が、なんとなくわかった。あのタクシー運転手だ。毎週火曜と木曜に来て、いつも釣り銭を受け取る前に弁当の袋を確認する男。几帳面な人間がやることだった。
――――――
家に帰ると結衣がランドセルを背負ったまま台所に立っていた。
「おかえり」
「ただいま。ランドセル置いてきなさい」
結衣は黙って部屋に戻った。
真琴は夕飯の準備を始めた。冷蔵庫を開ける。卵、豆腐、もやし。今週はこれで乗り切る。
結衣が戻ってきて、テーブルの椅子に座った。宿題を広げた。
しばらく、包丁の音だけが続いた。
「お母さん、仕事は」
「今月で終わりになった」
結衣は宿題から目を上げなかった。
「そっか」
それだけだった。
八歳の子どもの返事じゃない、と真琴は思った。でも何も言わなかった。
――――――
夜、結衣が寝てから真琴は紙に数字を書いた。
貯金の残り。失業給付が出るまでの期間。家賃。光熱費。給食費。
数字を足したり引いたりした。
三ヶ月、なんとかなる。四ヶ月目が怖い。
ペンを置いて、天井を見た。
頭の中に、あの厨房が浮かんだ。
出汁の色。下ごしらえされた具材。老人のメモ。
あの弁当を作っているとき、頭の中の計算が止まっていた。
真琴はそれに気づいて、少し驚いた。
――――――
翌日、また病院に行った。
老人は昨日より顔色が良かった。
「店のことですが」
真琴は椅子を引いて座った。
「三週間、私が開けます」
老人が真琴を見た。
「あんた、料理できるのか」
「弁当工場に四年いました。それと、昨日作りました」
「あれは……」老人は少し口ごもった。「味付けが違った」
「藤田さんのメモ通りには作っていません。常連さんの顔を見て、変えました」
老人は黙った。
「田中さんという方が来なかった日でしたね。田中さんは血圧が高いと、以前常連さんが話しているのを聞いたことがありました。メモの味付けは、田中さんに合わせて薄めになっていた。だから残りの五人分は少し濃くしました」
老人がゆっくりと瞬きをした。
「……よう見とるな」
「ただ見ていただけです」
窓の外で風が木の枝を揺らした。
「給料は出せん」
「三週間だけです。その後のことはその後に考えます」
老人はしばらく天井を見ていた。
「冷蔵庫の中のものは好きに使っていい。仕入れ先の電話番号は厨房の壁に貼ってある。シャッターの鍵は――」
「昨日、受付に預けてありました。もらってきました」
老人はまた黙った。
それから小さく笑った。初めて見る顔だった。
「名前は」
「桐原真琴です」
「藤田誠二」
老人はそれだけ言って、また天井を見た。
――――――
真琴は病院を出て、商店街に向かった。
『ふじた弁当』の前に立った。鍵を出した。
シャッターを上げると、昨日と同じ薄暗い店内が現れた。
真琴はエプロンをつけて、厨房に入った。
明日の仕入れのメモを書き始めた。
頭の中で、常連客の顔が並んだ。タクシー運転手。花を置いていった几帳面な男。他に誰が来るか。何を好むか。体の具合はどうか。
全部、通りすがりに見ていて、覚えていた。
真琴はペンを走らせた。
外では風が、閉まったシャッターを小さく叩いていた。
(第二話・了)




