第一幕 解雇 第一話 4時の始まり
アラームは三時四十五分に鳴る。
真琴はそれより先に目が覚める。いつからかそういう体になった。暗い天井を三秒見て、布団を出る。
台所で結衣の分の朝食を作る。冷蔵庫の残りもので作れるものを作る。今日は卵とじゃこの混ぜご飯。ラップをかけて、テーブルの真ん中に置く。隣にメモを一枚。
――学校行く前に食べること。鍵は忘れずに。
毎朝同じ内容のメモだ。でも書かないと不安になる。
暗い中を自転車で走る。十一月の風が耳に刺さる。工場まで二十分。
桐原真琴、三十二歳。
弁当工場のパート勤務。時給九百三十円。朝四時から昼の十二時まで。週五日。
工場に入ると蛍光灯の白さが目に痛い。ロッカーで着替えて、ラインに入る。今日の担当は唐揚げ弁当のトレー詰め。右手で唐揚げ、左手でご飯のトレーを引き寄せる。三個、間を空けて並べる。次。また三個。次。
隣のラインの田辺さんが小声で話しかけてくる。
「真琴ちゃん、昨日の件聞いた?」
「聞いてません」
「買収だって。来月から本社が変わるんだって」
真琴は手を止めずに答える。唐揚げ三個。トレー。次。
「ふうん」
「ふうんじゃないよ。パートは全員面談だって」
――――――
面談は午前十時だった。
呼ばれたのは真琴一人だった。
事務所に入ると、見知らぬスーツの男が二人と、パートリーダーの森川がいた。森川は真琴と目を合わせなかった。
スーツの男が書類を出した。
「桐原さん、今月末でご契約終了という形に――」
「理由を教えてください」
男が少し止まった。
「業務効率化の観点から、ご担当のラインを――」
「私のラインの一日あたりの処理数は工場内で三番目です。ミスの記録もありません」
沈黙。
森川が口を開いた。
「真琴さんはチームワークの面で、少し……融通が利かないところがありまして」
真琴は森川を見た。
六ヶ月前、森川が指示したトレーの並べ方は衛生基準を満たしていなかった。真琴はそれを指摘した。森川は渋々直した。それだけの話だった。
真琴は何も言わなかった。
言っても変わらないことを、真琴はよく知っていた。
――――――
帰り道、自転車を漕ぎながら計算する。
今月の残り。来月からの収入。結衣の給食費。国民健康保険。家賃。
数字が頭の中を走る。
信号で止まった。
古い建物が目に入った。
間口の狭い、昔ながらの弁当屋だった。看板は色あせて、『ふじた弁当』と読める。シャッターが半分だけ開いている。
ずっと前からそこにあった店だ。真琴は毎日この道を通っている。でも入ったことはなかった。
シャッターの隙間から、音がした。
何かが倒れる音だった。
――――――
真琴は自転車を止めた。
半分開いたシャッターをくぐった。
薄暗い店内。ガラスケースの向こう、厨房の床に老人が倒れていた。七十代か、それ以上か。エプロンをつけたまま、鍋の傍らで膝をついていた。
「大丈夫ですか」
老人は顔を上げた。
「……足が、いかんくなった」
真琴はすぐに救急車を呼んだ。
待つ間、老人はしきりに厨房を気にした。
「今日の分、まだ作れてない。常連さんが……昼に来る」
「何人分ですか」
「七つ……いや、今日は田中さんが来ないから六つか」
救急車のサイレンが近づいてきた。
真琴は立ち上がり、厨房に入った。
――――――
エプロンを借りた。
鍋の中を確認した。出汁が取ってある。具材が下ごしらえされている。メモが貼ってあった。老人の字で、今日の献立が書いてあった。
真琴は読んだ。全部、一度で覚えた。
昼の十二時まで、二時間あった。
――――――
六つの弁当が並んだ。
真琴はエプロンを畳んで、厨房の隅に置いた。
最初の客が来たのは十一時半だった。タクシー会社のステッカーが貼ったジャンパーを着た、五十代の男だった。名前は知らない。でも真琴はこの男が毎週火曜と木曜にここに来ることを、通りすがりに見ていて知っていた。
「藤田さんは?」
「入院されました。今日は私が作りました」
男は黙ってレジで金を払い、弁当を持って出て行った。
十五分後、男が戻ってきた。
「……今日の味、なんか違うな」
真琴は答えなかった。
男は少し間を置いた。
「でも、こっちの方がいい」
そのまま出て行った。
真琴は厨房の入口に立ったまま、男が行った方向をしばらく見ていた。
何かが、動いた気がした。
うまく言葉にならない何かが。
――――――
自転車で帰る途中、また計算した。
今月の残り。来月からの収入。結衣の給食費。
でも今日は、数字の隙間に別の何かが混じっていた。
(第一話・了)




