第1話『玖廻のライザーク』
深い森を、一人の男が歩いていた。
風が木々を揺らし、遠くでは獣の声が響く。
その静けさの中に、もう一つの足音が紛れ込む。
時は数日遡る――。
荒くれ者が集う探索者ギルドの受付前に、白髪混じりの黒髪を後ろで短く束ねた男が立っていた。
酒と鉄の匂いが混ざる喧騒の中、その周囲だけが異様なほど静かだった。
床を踏み鳴らしていた荒くれ者たちは足を止め、談笑していた者は声を潜める。誰もが無意識のうちに距離を取り、視線だけを男へと向けている。
受付嬢は一瞬だけ喉を鳴らし、背筋を伸ばした。
「ごきげんよう、デューク様。本日はどのようなご要件でしょうか?」
男の名前は、デューク・アルス・ライザーク。
探索者の頂点に君臨する男だ。
「あぁ。今日は依頼を受けに来た。……が、その前に聞きたいことがある」
「なんでしょう」
「俺は、先月依頼を受けたか?」
受付嬢は一瞬だけ言葉に詰まった。
視線を横に逸らし、記録棚へ伸ばしかけた手を止める。わざわざ確認する必要すら無い。
だが、デュークを前にして、即答することに躊躇が生まれる。
この男は十年もの間、探索者の頂に座り続けている。
だがそれを、本人の口から誇る姿を見た者はいない。
依頼を選ぶ基準も、現れる周期も、誰にも読めない。
だからこそ、今ここに立っているという事実だけで、場の空気が変わる。
「――デューク様は、先月依頼を受けておりません」
「そうか……。となると、最後は半年前か」
「仰る通りでございます」
男は小さく息を吐いた。安堵とも落胆とも取れない、曖昧な呼気だった。
「質問は以上だ。依頼書を見せてくれ」
「承知いたしました」
受付嬢は即座に机上へ依頼書を並べた。
重ねられた羊皮紙の束は、どれも赤い封蝋で封じられている。並の探索者なら、手を伸ばす前に覚悟を決める類のものだ。
男は端から流すように視線を走らせ、中央の一枚で止めた。
「……悪魔に占拠された街、か。これにする」
「お一人で向かわれるのですか?こちらの依頼は、これまでに受注者の半数が戻っておりません」
「問題ない。悪魔を殺せばいいんだな?」
男の目は、殺しに躊躇いがないと言わんばかりに無機質だ。
受付嬢は背筋に冷たいものが走る感覚と共に、改めて探索者の頂点に君臨する男の精神性を理解する。
「……えぇ。そうです」
「調査後に出発する」
男はそれだけ言い残し、踵を返した。
背中が扉を抜けるまで、誰一人として声を発する者はいなかった。
―――――
二十年ほど前だ。
あの日の匂いを、俺は今でも覚えている。
焦げた血で湿った土と、焼けた鉄の臭いが混ざり合った、喉の奥に張り付くような匂い。
俺は、そこで全てを失った。
地面に転がる、自分の右腕。
叫ぶ間もなく、戦場に散っていく仲間たち。
倒れ伏す家族の体温が、腕の中で徐々に冷えていく感触。
残ったのは、探索者という肩書きだけだった。
力が足りなかった。
それだけの話だと、頭では理解している。だが、理解と納得は別物だ。
あの日の出来事から逃げるように、無我夢中で剣を振り続け、気づけば分不相応な名声を手にしていた。
探索者として最上級の称号を得た夜も、祝杯の席では水しか喉を通らなかった。
あの日の悪夢から覚めた朝は、胃の奥が裏返るような吐き気と共に始まる。
俺の心は、ずっと乾いたままだ。
「――誰だ」
草木が生茂る薄暗い針葉樹林の中、背後に人間の気配を感じて歩みを止めた。
「隠れても無駄だ。出てこい。出てこない場合、敵意があると見なす」
「…………すごいね。すぐバレた」
振り返ると、そこには桃色髪の少女がいた。
珍しい髪色だ。荷物はなく空身。服装はみすぼらしく丈も合っていない。
魔物が蔓延る危険な森を徘徊するには無謀すぎる身なり――だが、それだけでは片づけられない違和感があった。
視線に迷いがない。
俺を“見ている”というより、俺の先を見通しているような目だった。
「子どもがなぜこの森にいる?どこから来た?」
「この先の街から逃げてきたんだ。あそこは悪魔がいるからね」
「……そうか」
親が決死の覚悟で子を逃がしたか。
それにしては声色に陰りがない。怒りがない。悲しみがない。
それが逆に不気味だ。
少女の言うとおり、森の先にはジガルドという街がある。
悪魔に占拠されし街だ。俺が受けた依頼の行き先でもある。
森に一人残すより連れていくべき。
「ここは危険だ。俺についてこい」
――そう判断したのは事実だが、それ以上に、目を離すのが危うい気がしてならない。
この少女は、ただの“迷子”ではないと、直感が告げている。
「でもそっちは悪魔がいるから危ないよ?」
少女一人を庇いながらでも悪魔は殲滅できる。
俺は不敵な笑みを顔に貼り付けた。
「安心しろ。ジガルドに巣食う悪魔は俺が殲滅する」
「おじさん――」
直後、木々の隙間から夕日が俺の顔を照らす。
「笑うの下手っぴだね」
少女は翡翠の瞳を細めて小さく笑った。
だがその笑みは、子どもの無邪気さとは違う。どこか、答え合わせをしたような笑みだった。
―――――
日が沈み、森は底なしの闇に沈んだ。
湿った土の匂いと、腐葉の甘い臭気が喉に絡みつく。
俺と少女は巨木の根元に背を預け、焚火を挟んで座っている。
剣は鞘から抜き、胸の前で抱えた。今夜眠るつもりはない。
夜の森は、魔物の領域だ。
少女をより安全に守るため、大木に背中を預け、背後の不安を断った。
「おじさん、さっきの笑顔?……子供に向けていい顔じゃないと思う」
「何故だ。俺が笑えば大抵の子供は黙る」
「それ、怖くて泣き止んでるだけだよ」
焚火が弾ける。
俺は無意識に頬へ指を伸ばした。
笑顔が怖い。
そう指摘されたのは初めてだった。
「……お前は笑っただろう」
「呆れて、ね」
少女は肩を竦め――その動きが、途中で止まった。
焚火の向こう、闇の一点を見据えている。
次の瞬間、どこかで枝が折れた。
反射で立ち上がり、闇を睨んで呼吸を殺す。
耳を澄ませば、森のあちこちから遠吠えが重なって聞こえた。
少女は動かない。怖がる素振りすらない。
見た目の割に、肝が据わっているのか。それとも――。
数秒後、遠吠えは闇の奥へ溶けるように遠ざかり、森は何事もなかったかのような沈黙を取り戻した。
「……行ったか」
「警戒しすぎじゃない? おじさんなら奇襲でも平気でしょ」
「お前を守るために必要なことだ」
座り直すと、少女が膝を抱えてこちらを睨んだ。
「お前って呼ばれ方、好きじゃない」
「……なに?」
「だ、か、ら!お前って呼ばれるの嫌だって言ってるの」
少女はそう言って唇を尖らせた。
そういえばまだ、名前を聞いていない。
「そうか。名前は?」
「……フェルテ。隠し事が多い以外は普通の女の子」
焚火の揺らめきが、少女の頬を橙に染める。
薪を一本くべながら、俺は視線を向けた。
「俺はデューク。右腕は無いが剣士だ。隠し事なら俺も多い」
「じゃあ一つ隠し事交換しようよ」
「……いいだろう」
炎が大きく揺れた。
その瞬間、場の温度が僅かに下がる。
「ボクは人の未来が少しだけ分かるんだ。関心を向けた相手の“行き先”がぼんやり見える、とでも言えばいいかな?」
焚火の爆ぜる音が、やけに大きく耳に残った。
フェルテは瞬きもせず、こちらを見ている。
「……俺の未来も分かるのか?」
フェルテの唇が、ほんの僅かに動く。
言葉を探しているというより、一度浮かんだものを選び直しているように見えた。
やがて俺から視線を外し、しばらく夜空を仰ぐ。
「おじさんは……暗闇を歩いてる」
胸の奥を、冷たい指でなぞられたような感触が走る。
「その暗闇に、行き先はあるのか?」
「うーん……分からない」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
聞いたところで、何かが変わるとも思えない。
「はい、次はおじさんの番」
夜風が吹き抜け、木々が低く唸った。
焚火の炎が横へ流れ、影が歪む。
「俺は――――」
声は、夜風に攫われた。
その瞬間、フェルテの表情が凍りつく。
「突拍子もない話だ。信じる必要はない」
「ううん。信じる」
迷いのない即答だった。
返す言葉を探したが、喉の奥で引っかかり、声にならない。
「ずっと、ひとりで戦ってきたんだね」
その一言が、胸の奥へ静かに沈み込んだ。
大抵の者は笑うか、疑うか、距離を取る。
だがフェルテは、拒まず、逃げず、ただ受け止めた。
それが、ひどく予想外だった。
「はーぁ。運命って残酷だね」
「あぁ」
短く返すと、フェルテは夜空に向かって拳を握り締めた。
「でもさ」
星は見えない。
それでも、何かを掴もうとする仕草だった。
「ボクは諦めない。壊すよ、未来ごと」
「なら、足掻くしかない。何度でも立ち上がれ」
それは彼女への言葉であり、同時に自分への戒めだ。
俺は静かに目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、掴めなかった理想。
届かなかった手。
それでも捨てきれなかった希望。
胸の奥では黒い熱が燻っている。
「へへ。おじさんがそう言うなら、信じる」
その笑みは、どこか無理をしているようだった。
「俺は過去に縛られているだけだ。……辛くなったら誰かを頼れ」
「おじさんが言うと、なんだか説得力があるね」
少しだけ空気が緩む。
そのまましばらく沈黙が続き、焚火の炎が弱くなる。
「ねぇ。右腕っていつからないの?」
過去の記憶が薄く蘇り、火の音が一瞬遠のいた。
「……二十年くらい前だ。戦いの中で失った」
「へぇ。死ななくてよかったね」
「そうだな」
死んだ方が楽だったと、何度思ったことか。
だが最近は、生きていて良かったと思えるようになった。
「そろそろ寝ろ。日が昇ったら動く」
収納袋から取り出した寝袋を投げる。
「これを使え」
「いいの?やったぁ」
フェルテは寝袋に潜り込むと、すぐに寝息を立てた。疲れていたのだろう。
「…………寝たな」
俺は夜の闇に意識を向けた。
その瞬間だった。
正面の闇が、僅かに軋む。
魔物の気配。
数は八。四足歩行。
息を殺して静かに立ち上がり、剣を胸の前に構えた。
「ガルルル……」
低く濁った唸り声。
焚火の赤が闇を押し返し、黒い狼たちの輪郭を浮かび上がらせた。
腰ほどの背丈に、黄色い瞳。
長く垂れた黒毛と、灰色の牙。
――シャドウウルフ。
影に潜み、夜に獲物を狩る魔物。
嗅覚と聴覚に優れ、視力は弱い。
「……グルルルルル」
低く唸る口許から垂れる涎が、飢えを物語っていた。
飢えた個体は、恐怖より食欲が勝る。
威圧は通じない。
(ならば、こちらから終わらせる)
既に、俺の間合いだ。
奴らが影に潜るには、更に距離を詰める必要があるだろう。
俺にとって有利な今が好機。
目を閉じる。
森の匂い、湿った土、踏み荒らした腐葉の感触。
二日前に通り過ぎた、森の中でひと際目立つ巨大な水辺。
記憶を座標に変え、意識を剣へ沈める。
剣身が、脈打つように薄闇へ染まった。
目を開く。
狼たちは、じわりと包囲を狭めている。
腰を落とし、剣を水平に構え、右耳の後ろで引き絞った。
肺から全ての息を吐き出すのと同時、木々のざわめきが止まる。
(対象はシャドウウルフ)
「――移界斬」
振り抜きの一閃。
剣先から溢れた黒い魔力が、夜を裂くように放射状へ広がる。
狼たちは悲鳴すら上げず、歪む空間に呑み込まれた。
次の瞬間。
そこには何もない。シャドウウルフは静かに消えた。
風も、気配も、存在の重みすら削り取られた闇だけが残っている。
再び訪れた静寂が耳を刺した。
俺はゆっくりと剣を下ろし、地面へ腰を落とす。
まもなくして焚火は完全に消え、夜空が姿を現した。
星々が、冷たく、それでも澄んだ光を落としている。
人は死ぬと星になる。
そんな言い伝えを、ふと思い出す。
ならば今も、死んでいった仲間たちは、空から俺を見守ってくれているのだろうか。
「……待っていてくれ」
喉の奥から、小さく言葉が零れる。
全てを失ったあの日から、俺の決意は揺るがない。
「必ず――魔皇を倒す」
夜空に向けて、静かに誓った。




