第0話『プロローグ』
――暗雲に押し潰される。
そう錯覚するほど、悪魔の群れが幾重にも折り重なり、空そのものを黒く塗り潰していた。
骨ばった翼が擦れ合い、焦げた血の臭気が風に混じる。
だが、それ以上に――空気が“重い”。
喉の奥に、鉛の粉を吸い込んだような圧が沈んでいく。
紫紺の眼、逆十字の瞳孔。
人間を狩るために生まれた存在が、街の上空を埋め尽くしている。
この悪魔たちを殲滅する。
それが今の俺の使命だ。
「フェルテ、俺から離れるな」
「……うん。離れない、絶対」
桃色髪の少女が小さく頷く。
その声を背中で受け止めながら、俺は黒金属の柱に囲まれた街の中央へ視線を走らせた。
無数の悪魔が、殺意を抱いて堕ちてくる。
天を貫く支柱が空を封じ、逃げ場はない。
俺は、一度だけ息を吸った。
冷えた空気が肺に刺さり、胸の奥が静まる。
柄を握る。
踵で石畳を踏み締めた瞬間、自分の手が僅かに震えていることに気づいた。
それでも構わず剣を抜く。
息を吐き、抜剣の一閃。
――空気が裂け、群れの前列が糸を切られた人形のように硬直する。
遅れて頭部と翼が落下した。
断面は赤く濡れなかった。
肉は裂け、骨は砕けている。
だが、命の色が外へ流れ出る様子はない。
落下音は鈍く、乾いた衝撃が戦場に広がる。
“死”にあるはずの重さが、そこにはない。
一瞬、戦場から音が抜け落ちた。
「背中を見せるなら、まとめて斬る」
声は低く、冷たく落とす。
列が乱れ、悪魔たちの殺意が恐怖へ裏返る。
その隙を踏み越えて、俺は歩みを進めた。
目指す先はただ一つ。街の支配者が潜む屋敷。
咆哮、地鳴り、断末魔。
戦場が熱と音で膨張する中――。
『パン!』
乾いた拍手が、不自然なほど澄んだ音で響き渡った。
悪魔たちの動きが、糸を切られた操り人形のように止まる。
屋敷の扉前。両手を合わせていた一体の悪魔が、ゆっくりと手を下ろし、薄く笑った。
優雅な所作で一歩踏み出し、俺に向かって頭を下げる。
「これだけの数を仕向けて、なお無傷。息一つ乱れないとは……流石ですね。魔皇と戦い、生き残った男」
その言葉に、胸の奥が僅かに疼く。
生き残った?
違う。
生かされただけだ。
「血の匂いも悲鳴も、もう十分に熟れた。さあ!――あとは貴方が、どんな最期を演じるか」
嗜虐の笑み。
人の死を“色彩”として眺める、異様な目。
「恐怖に泣くか。無様に命乞いをするか。それとも英雄らしく散るか……」
囁くように、悪魔は言葉を続けた。
「どんな色で死を描くのか、見せていただこう。――英雄殿」
刹那、悪魔の姿が掻き消える。
同時に、四方八方から悪魔の波が雪崩れ込んだ。
呼吸を整え、剣を振るう。
肉を裂き、骨を断つ。
悪魔たちの攻撃は、苛烈さを増していた。
乱闘にも似た戦闘の最中、冷たい気配と共に、ソレは現れた。
戦場の音が遠のき、視界の端で世界の輪郭が揺らぐ。
剣を握る感覚だけが、やけに生々しい。
俺の目が捉えたのは、長い黒髪に、氷のように澄んだ蛇眼の男。
その視線が俺を射抜いた瞬間、心臓の奥が、錆びた刃で抉られるように軋んだ。
忘れかけていた記憶が、胸の奥を抉る痛みと共に蘇る。
仲間の断末魔。
無力ゆえに、何も守れなかった自分。
「……やはり、お前か」
フェルテの背中を一瞬だけ確認し、剣を構え直す。
剣先が怒りで微かに震えている。
後悔と憎悪が絡みつき、それらが胸の奥で腐った熱となり、口の中には血の味が広がった。
かつて共に強敵へ挑み、――仲間を見捨てた男。
「――久しいですね。デューク」
懐かしい声を聞いた途端、剣先の揺れが止まる。
どうやら今なお、この男を斬ることに対して躊躇いが残っているらしい。
「貴方は何も変わっていない」
言葉は柔らかい。
その声色は、氷の刃を布で包んだような冷たさを孕んでいた。
鼓膜に触れただけで、胸の奥がざらつく。
感情の表面を撫でながら、内側へ刃を差し込んでくるような声だ。
次の瞬間、男の手が伸びる。
反応が遅れた俺の左肩に、その指先が触れた。
「――幻想世界」
「ノクシオ――――」
名を呼び切る前に、指先に展開されていた魔法陣が音もなく爆ぜる。
光が奔流となり、俺と奴を包み込んだ。
視界が焼き潰される直前、振り返る。
泣きそうな表情のフェルテが、小さな手を必死に伸ばし、俺の袖を掴もうと宙を掻いていた。
「フェルテ、絶対に生きろ!お前なら――」
直後、閃光が視界を焼き潰し、光が言葉を呑み込んだ。
―――――
標的を失った悪魔たちの視線が、一斉にボクへ突き刺さる。
背中に冷たい針を打ち込まれたようだった。
逃げ場は、もうない。
鉤爪と魔法が煌めいた、その刹那。
屋敷の扉前から、鋭い声が空気を裂いた。
「――止めよ」
空気が凍りつく。
振り上げられた鉤爪が、宙で止まった。
さっきまで満ちていた殺意が、霧が引くように消えていく。
命じたのは、先ほどの高位の悪魔だった。
「戦いは終わった。我らの勝ちだ。そいつは牢にでも入れておけ」
言葉が落ちると同時に、戦場の音が途切れた。
剣戟も、咆哮も、呼吸さえ遠のく。
「やだ……!放、して……!」
さっきまでボクを殺そうとしていた手が、今は拘束のために腕を掴んでいる。
デュークはいない。
この場で、覆せるものは何もなかった。
それでも、黙ることだけはできなかった。
喉が張り付き、心音が耳の奥で暴れる。
肺いっぱいに空気を溜め、震えを押し殺して口を開いた。
「……後悔、するよ」
悪魔が足を止める。
氷のような瞳で、振り返った。
「私がか?何を後悔すると?」
「全部さ」
「ハッ。戯言だ。連れて行け」
背中が、屋敷の闇へ溶けた。
「いや……!」
引きずられるまま、ボクは石牢へ放り込まれた。
鉄錆の臭いが喉に絡みつく。
濡れた藁が肌に貼りつき、カビの湿気が肺の奥に沈んでいく。
「……デューク」
膝を抱え、目を閉じる。
剣を振るう背中が、瞼の裏に滲んだ。
――きっと来てくれる。
それだけを支えに、耳を澄ませ続けた。
呼吸の回数を数え、天井を見つめ、時間をやり過ごした。
鉄扉が軋むたび、胸が跳ねる。
だが訪れるのは、粗末な食事と水を投げ捨てる悪魔だけだった。
「痛たた……」
ボクは指の皮を噛み千切り、滲む血で床に日数を刻んだ。
足音は次第に遠ざかり、やがて完全に消えた。
指の傷は塞がり、赤黒い痕だけが残る。
静寂が、骨に染み込んでいく。
食事も止まり、時間の輪郭が崩れ始めた。
何も起きない。
何も来ない。
「……失敗した」
声は、壁にすら届かなかった。
胸の奥で、何かが折れる音がした。
内臓を焼くような熱が、ゆっくりと広がる。
「あ……」
涙が一粒、零れ落ちた。
その瞬間、抑え込んでいた感情が堤防を破った。
「――ぁ……ハハ……アハハ!」
気づけば嗤いながら、泣き叫んでいた。
裂けた唇から血の味が滲み、喉が焼ける。
「アハハ……っ……はぁ……」
声が尽きたあと、残ったのは小さな熱だけだった。
石牢は、異様なほど静かだ。
耳鳴りの中で、心臓の音だけがやけに大きい。
「……こんな結末、ボクは許さない」
執念だけで立ち上がる。
体内に抑え込んでいた魔力が、皮膚の内側で暴れ出す。
赤い魔力痕が、血管のように全身へ走った。
床が軋み、亀裂が走る。
光の線が絡み合い、巨大な魔法陣が浮かび上がった。
白光が膨張し、空間を呑み込む。
――世界の“境目”が、裂ける。
音が消えた世界で、鼓動だけが残る。
その中心で、ボクは小さく息を吸った。
「――次だ」
口の中に、鉄の味が広がる。
次の瞬間、光がすべてを呑み込んだ。
―――――
「……ここは」
冷たい土の匂いがした。
背に食い込んでいた樹皮から、身を剥がすようにしてボクは目を開けた。
身体の芯まで、酷く重い。
肌の上で砕けた光が散り、湿った土に溶けていく。
大木に手をつき、ふらつく足でどうにか立ち上がった。
「行こう」




