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第9話

 その日の夕方。カミラの部屋に、焼き上がったミートパイが運ばれてきた。


 リーサがワゴンを押して入ってくると、その後ろには料理長のオルドも控えていた。銀の蓋がかぶせられた皿からは、すでに温かな香りが漂っている。


「カミラ様、お待たせいたしました」


「できましたか……!?」


「はい。エミリスワンのミートパイでございます」


 リーサがそっと銀の蓋を上げる。その瞬間、肉と香草の香りがふわりと広がった。


「……わぁ」


 思わず声がこぼれる。見た目は、クレールの作るものよりずっと整っていた。焼き色は均一で、縁には細かな飾りが入っている。王宮料理人が作っただけあって、見た目も立派なものになっていた。


 それでも、クレールが送ってくれた小包のおかげで、香草の匂いがする。エミリスワンの山の匂いが、確かにそこにあった。


「……すごい。クレールおばさんの作ってくれたミートパイと同じような匂いがします!」


「それはよかった。お口に合うとよいのですが」


 オルドが丁寧に頭を下げる。


 カミラは椅子に座り、リーサが切り分けてくれた一切れを見つめた。さくりとナイフが生地に入る音がして、中から肉汁を含んだ具が見える。


(お腹空かせておいてよかった……!)


「いただきます」


 カミラは小さく言って、ゆっくりと一口食べた。香ばしい生地。やわらかい肉。鼻に抜ける、懐かしい香草の香り。その瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような気がした。


「……美味しい」


 つぶやくその声が、かすかに震えた。クレールのミートパイとは確かに違う。生地も、肉も、焼き加減も、どこか上品で、洗練されている。それでも、いろんな人の思いがそこに乗っている気がして、嬉しい。


「とっても美味しいです。本当にありがとうございます、料理長さんのおかげです」


 カミラがそう言うと、オルドは深く頭を下げた。


「お口に合いましたなら、何よりでございます」


「全部、大切に食べますね。リーサさん、これお夜食に半分とっておいてもいいですか? 今は全部食べきれないと思うんですけど、あとで絶対また食べたくなるので……」


「ええ、もちろんです」


「あと、ヴィンセントさんにお礼を言わないとですね」


「きっとお喜びになりますよ」


 リーサがそう言って微笑んだ。リーサは、カミラが一口ずつ大事そうに食べる姿を、自分のことのように嬉しそうに見守ってくれている。


「ヴィンセントさんも、食べますかね……? 少しだけ、取り分けておいてください。全部出されたら食べてしまいそうで……」


「ふふ、かしこまりました」


 リーサとカミラが楽しそうに話すのを見て、なんとも言えない表情のままオルドは深く礼をし、その場を去った。






 その後、王宮の厨房では、オルドが使い終えた調理台を見つめていた。レシピの写しには、確かに玉ねぎと書かれていた。だが、オルドはそれを入れなかった。


 シントレアでは、かぶや玉ねぎのように土の中で育つ野菜は、不浄に近いものとされている。日を浴びず、泥にまみれて肥えるもの。貧しい者たちが飢えをしのぐために口にするにはよくても、王侯貴族の食卓、とりわけ婚姻を控えた女性の皿に載せてよいものではない。


 もちろん、近頃ではそこまで厳しく考えない者もいる。下町では根菜を使った煮込みを食べる者も多いし、兵士や下働きの食事に出されることもある。


 しかし、王宮は違う。


 まして、カミラはヴィンセントの婚約者としてこの城にいる。根菜など出せば、彼女自身の評判にも、ヴィンセントの顔にも傷がつく。そう考えれば、玉ねぎを抜くことは、オルドにとって当然の配慮だった。たとえヴィンセントが「できる限り忠実に」と命じていたとしても。あのようなものを、王子殿下の婚約者の口に入れるわけにはいかない。


「まったく、北の小国というのは恐ろしいな」


 誰に聞かせるでもないような声だった。しかし、そばで皿を拭いていた若い料理人が顔を上げる。


「何かあったんですか?」


「さっき作ったエミリスワンのミートパイだ。レシピには玉ねぎを入れると書いてあった」


「玉ねぎを、ですか?」


 若い料理人は思わず声をひそめた。


「ああ。肉に混ぜて炒めるとあった。王子殿下の婚約者様にお出しする料理に、あのようなものを入れるなど、正気とは思えん。北の小国では、あれを貴人の口に入れるのかもしれんがな」


「それで、入れたのですか?」


「まさか」


 オルドは不快そうに鼻を鳴らした。


「王宮料理人が、王子殿下の婚約者様に穢れたものを出せるか。玉ねぎは抜いた。味は変わっただろうが、あの方はお気づきにならなかったようだ」


「では、エミリスワンでは本当に……」


「ああ。根菜を食べるのだろう。玉ねぎを肉に混ぜるなど、少なくともこちらでは考えられん」


 厨房の片隅で、数人が顔を見合わせた。誰かが小さく笑い、誰かが眉をひそめる。誰かは、ただ好奇心に目を輝かせた。


『北の小国から来た姫は、玉ねぎを食べるらしい』


『王子殿下はそれを、婚約者のために作らせたらしい』


『料理長は玉ねぎを抜いたが、レシピには確かにそう書かれていたらしい』


 そんな噂は、湯気のように厨房の隅から立ち上った。そしてその噂が、オーストレーム家の令嬢の耳に届くまで、そう時間はかからなかった。 






 それから数日後。カミラはこの日もクラリスの講義を受けていた。


「……ですから、当時のシントレア国王陛下は、税を廃止し、経済の流動化を図ることにしました」


 クラリスの話を聞きながら、参考となる本に目を通す。他国の歴史など学んだことのないカミラにとっては、一つひとつが新しい発見であり、自国との違いをまざまざと見せつけられる瞬間でもあった。


 クラリスの教えを聞いていると、ドアがノックされた。


「おや、お客様でしょうか。どなたですか?」


 講師が代わりに尋ねてくれる。


「オーストレームの娘ですわ」


「オーストレーム……? ご貴族の……?」


 講師も予想していなかった来客に多少混乱しているようだった。そのまま講師がカミラに尋ねてくる。


「どういたしますか、相手は貴族のご令嬢です。お会いしますか?」


「ご貴族の方が私に何の用でしょうか……?」


「わかりません。ですが……婚約の話を聞いたのではないでしょうか。お祝いに来てくれたのかもしれませんね」


 クラリスが優しくほほえみ、カミラに結論を促す。


「では、お会いします」


「どうぞ、お入りください」


 それだけ言うと、クラリスは一礼して下がっていった。


 カミラが立ち上がり、ドアの方を振り返ると、美しいブロンドの女性とその執事がこちらに歩いてきていた。


(きれいな人……)


「はじめまして、カミラ嬢。わたくし、イェシカ・オーストレームと申します」


 美しいシントレア式カーテシーを見て、カミラもとっさにシントレア式のカーテシーで返す。


「は、はじめまして、わたくしはカミラ・アップルトンと申します」


「まぁ……とても可愛らしい人ですのね。北の小国からいらっしゃったと聞きましたから、どんな人かと思っていましたの」


 無邪気な笑顔を向けてくるイェシカに、カミラも思わず笑顔になる。


「それに、ヴィンセント様の婚約者になったって聞きましたわ。どういう経緯でそういうお話になりましたの?」


「それは……」


 ヴィンセントの真意は、なんとなく話さないほうがいい気がする。しかし、代わりになるような話も思いつかない。


「ちょっとしたなりゆきがありまして。詳しくは、お話できないのです」


「……そうですの。では、今度ランチでもいかがです? 国の話も聞きたいわ。婚約のお祝いもしたいし」


「ありがとうございます。私でよければ、ぜひご一緒させていただきたいです」


「本当? 嬉しい。いつがいいかしら」


 自分の予定に関する裁量権がどのくらいあるのかわからず、カミラは戸惑ってしまう。それを見ていたのか、部屋の隅に下がっていたクラリスが近づいてきた。


「いつでも、授業はお休みできますので」


「そうなんですか、ありがとうございます」


「あら。ねえ爺、明日なんかはどうかしら」


 イェシカに爺、と呼ばれた執事は手帳をめくりながら頷いた。


「なら明日にしましょう。料理は私の方で用意させますわ。明日、12時にリネアの間でいいかしら」


 この城では、食堂から舞踏場まであらゆる部屋に花の名前をつけている。この城を築城した際に皇后が決めたらしい。


(リネアの間は、ここから少し遠かったはず……)


 広い城だから、目的の場所へ向かうのも一苦労である。


「では、私は御暇しますわ。また明日」


「はい、明日はよろしくお願いします」


 イェシカは嵐のように去っていった。


「さっきのカーテシー、とてもお上手でしたよ」


 イェシカの去ったドアの方を見ていると、クラリスが横からそう言ってくれる。


「本当ですか? ありがとうございます。いつも……熱心に教えてくれるので、とっさに出てしまいました」


「それはよかった。明日も礼儀作法の授業が活かせそうですね」


「はい」


 カミラは自分の手元を見下ろした。


(私、イェシカさんの前で……とっさに、シントレア式のカーテシーができたんだ)


 エミリスワン式の作法を忘れたわけではない。父に教わった礼儀も、城下の人たちと過ごした日々も、カミラの中から消えたわけではない。


 けれど、シントレアで生きていくための振る舞いも、少しずつ覚えられている。


 それが、素直に嬉しかった。


(私、この国でもちゃんとやっていけるかもしれない)


 再び授業に戻る準備をするクラリスを見ながら、カミラはほんの少しだけ胸を弾ませていた。


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