第10話
その日の夜。カミラは一人になった部屋で、窓の外を見つめていた。ベッド脇に1つ、ろうそくが灯っているだけの部屋は薄暗い。それでもなんとか、月光のおかげでものが見えるくらいであった。
(……とっさにシントレア式が出るなんて、思ってもみなかった)
思い返すと、少しだけ胸が弾む。イェシカの前で大きな失敗をしなかった。クラリスが教えてくれたことを、ちゃんと自分の身体で再現できた。
もちろん、まだわからないことばかりだ。言葉遣いも、立ち位置も、誰にどれだけ頭を下げていいのかも、毎日迷っている。
それでも今日は、ほんの少しだけ前に進めた気がした。
(シントレアのことを覚えるのは、エミリスワンを忘れることじゃないんだよね)
クレールが送ってくれた香草の匂いを、カミラは思い出した。
故郷の味も、父からの手紙も、この部屋にある。ヴィンセントも、エミリスワンのことを笑わなかった。だからカミラは、エミリスワンで育った自分を抱えたまま、この国のことも少しずつ覚えていけばいいのだと思えた。
(明日のランチでも、失礼がないように頑張ろう)
そう考えていると、ドアがノックされた。
(誰……?)
遅い時間に部屋を訪れる人はこれまでいなかった。カミラは息を潜め、さっきのノックの音が聞き間違いではないかと考えた。しかし、すぐにもう一度ノックの音が聞こえる。
カミラはベッド脇のろうそくを手に取り、ドアにそっと近づいた。
(リーサさんが、何か忘れ物でもしたのかも)
そう思いカミラがドアをそっと押し開けると、そこにはヴィンセントが立っていた。
「えっ……? ヴィンセントさん……?」
驚くカミラと同様、ヴィンセントもかすかに驚いた様子であった。
「遅い時間にすまない。少し用があって」
「あ……何でしょうか……?」
「中に入ってもいいか?」
「……はい」
カミラがドアを押し開けるより先に、ヴィンセントがドアを開けてくれる。カミラに重いドアを開けさせないよう配慮してくれたようだった。
「すみません、暗くて。すぐに火をつけますね」
部屋の中ほどまで入ってくると、カミラは慌ててそう言った。ベッド脇のろうそく立てに置いてあるマッチを手に取り、灯りを増やそうとする。
「いや、そのままでいい」
「え?」
「遅い時間に長居するつもりはない。これを届けに来ただけだ」
ヴィンセントが胸元から、一通の手紙を取り出す。それには見覚えのある郵便印が押されていた。
「それ、父からですか……?」
「ああ。だが、俺宛に届いたものだ」
「え……?」
これまで父からの手紙が届くと、たいていリーサが持ってきてくれていた。まだ数は多くないが、貿易商がいくつかの荷と一緒に運んでくれているらしいことは聞いていた。
「あなたの父上に、婚約したことを報告した。それに対する返答だ」
「そう、ですか……」
ヴィンセントからの婚約報告は王家の早馬で届けられ、父からの返書も同じ便で戻されたと話してくれた。
(父様……どう思ったのかな)
カミラは父の反応が想像できない。反対したか、あるいは喜んでくれたか。それほどはっきりしたものでもなく、もっと複雑なものであるかもしれない。しかし、自分を溺愛してくれた父が、いささか早い自分の門出を心から祝福してくれるとはあまり思えなかった。
「それで……父はなんと……?」
カミラが問うと、ヴィンセントは手紙の封を開けて、カミラに手紙を渡してくれた。数枚に渡る手紙を、促されるまま読む。
「……エミリスワンで婚約のお披露目会……?」
「ああ。来月にでも、出向こうかと思っている」
「えっ? それって……」
「エミリスワンに、一度帰れる」
ヴィンセントの言葉に、思わず息が詰まる。
(エミリスワンに、帰れる……? 本当に……?)
ほんの一時でも、父に会える。クレールにも会える。城下へ続く石段を歩ける。雪の匂いのする風を、もう一度吸える。もう二度と踏むこともないのだろうと思っていたエミリスワンの大地を踏むことができるというそのことが、何よりも嬉しかった。
「本当に……帰ってもいいんですか……?」
「ああ。あなたの父上も、それを望んでいる」
「……ありがとうございます」
今度は悲しみではなかった。嬉しくて、胸がいっぱいになった。
「ヴィンセントさん、本当にありがとうございます。私……もう、しばらく帰れないものだと思っていました」
「もっと早く考えるべきだった。あなたを故郷から切り離したままにするつもりはない」
「そんな……十分すぎるくらい、よくしていただいています」
「それでも、あなたが帰りたいと思う場所があるなら、それを無視したくはない」
その言葉に、また胸が熱くなった。
ヴィンセントは、カミラの故郷を取り上げたままにしないでいてくれる。エミリスワンを忘れろとは言わない。シントレアで生きるために新しい作法を覚えても、カミラがカミラであることを、否定しないでいてくれる。
「あの……今日、少し嬉しいことがあったんです」
「嬉しいこと?」
「はい。今日、イェシカ様という方が来てくださったんです。オーストレームのご令嬢だそうで……」
「イェシカ?」
ヴィンセントの眉が、わずかに動いた。
「はい。明日、ランチに誘っていただきました。婚約のお祝いをしたいと」
「……そうか」
「とても綺麗な方でした。シントレア式のカーテシーも、本当に美しくて。私、少し緊張したんですけど、なんとか失礼なくご挨拶できたと思います」
「あなたがそう言うなら、問題はなかったのだろう」
「はい。クラリス先生にも褒めていただけました」
そう言うと、ヴィンセントは少しだけ目元を和らげた。
「それはよかったな」
「はい。少しずつですけど、この国のことを覚えられている気がして……嬉しかったんです」
「……そうか」
ヴィンセントは短く答えた。けれど、イェシカの名前を聞いてから、どこか考え込んでいるようにも見える。
「あの、ヴィンセントさん?」
「イェシカは、少し気位の高いところがある」
「そうなんですか?」
「悪い相手ではない。だが、無理に合わせる必要はない。困ったことがあれば、リーサに言え」
「はい。ありがとうございます」
「……俺にも言っていい」
「え?」
「何かあれば、俺に言え」
まっすぐな声だった。カミラは思わず、手元の手紙を握りしめる。
「……はい。覚えておきます」
「ああ」
ヴィンセントはそれだけ言うと、静かに立ち上がった。
「遅くに邪魔をしたな。明日のランチもあるなら、早く休め」
「はい。でも、来てくださって嬉しかったです。お披露目会のこと、本当にありがとうございました」
「礼を言うことではない」
「でも、嬉しかったので」
カミラがそう言うと、ヴィンセントは少しだけ困ったように目を伏せた。
「……なら、受け取っておく」
「はい」
自然とドアの方へと歩き出す。ヴィンセントもそのカミラのあとについて来た。
「おやすみなさい、ヴィンセントさん」
「ああ。おやすみ」
ヴィンセントの背中を見送ってから、ドアをそっと閉める。
「……エミリスワンに、帰れる」
小さくつぶやいた途端、頬が緩んだ。父に会える。クレールに会える。まだ先の話だとわかっていても、それだけで胸の奥が明るくなる。
それに、今日クラリスに褒められたことも、ヴィンセントが「それはよかったな」と言ってくれたことも、カミラにとっては大切な出来事だった。
(私、ちゃんと頑張れてるんだ)
エミリスワンを忘れずに、シントレアのことも覚えていく。どちらか一つを選ぶのではなく、どちらも大切にできるようになりたい。そう思いながら、カミラはろうそくの火を消し、ベッドに入った。
(明日のランチも、失礼がないように頑張ろう)
緊張はまだ残っている。けれど、それ以上に、少しだけ楽しみだった。カミラは父からの手紙を胸に抱いたまま、ゆっくりと目を閉じた。




