第18話
カミラが黙々と作業をしていると、雪を踏む音が一つ、近づいてきた。
(リーサさん?)
そう思い顔を上げると、そこにはヴィンセントの姿があった。
「ヴィンセントさん!? どうしたんですか?」
「いや……あなたが雪かきをしたいと申し出た、とリーサから聞いてな」
「そうだったんですか……」
カミラが納得していると、ヴィンセントがカミラに近づいてきた。そしてその頬に手のひらで優しく触れる。
「かなり冷えたようだな。長い時間やっていたのか?」
「いえ、それほどではないと思いますが……」
カミラの体感ではまだ三時間も経っていない。しかし、女手二つで大きな軍用通路の除雪をしたら、最低でも三時間以上はかかる。そのせいか身体は冷え切って、濡れたブーツの先は足の感覚がなくなるほど冷たくなっていた。
ヴィンセントはそのままカミラの手を取る。
「手も冷えているな」
それだけ言うと、ヴィンセントは温めるようにカミラの両手を包んだ。そして慈しむように、その両手を自分の首に当てる。そして目をつむり、カミラの両手が温まるのを待つようだった。
カミラはヴィンセントのその姿を、息が詰まるような思いで見ていた。恋をした相手が、自分の身体を温めてくれている。これほど幸せな時間はない。雪かきで蓄積された疲労も感じられなくなった。
「部屋に戻ってはどうだ」
「ここだけ、最後にやりたいんです。リーサさんにも、ここで待ってると伝えてしまいましたし……」
「……そうか。なら俺も手伝おう」
「そんな……! ヴィンセントさんはお仕事があると思いますし、慣れない方がやるのは大変ですよ……?」
「あなたの身体が冷えるほうがずっと心配だ。それに、あなたより力だってある」
「そうですけど……」
「このスコップは借りていいか?」
「はい……!」
ヴィンセントはすぐさまスコップを手に取り、雪かきを始めた。その後姿を見て、カミラも同じように黙って雪かきを始める。
それでも、さっきのことが頭の中をほとんど占めていた。厳密に言えば、何かを追加して言うほどの余裕がなかった。自分より大きな手、高い体温。剣をいつも握っているせいか、手の皮は固く、それはヴィンセントがこれまでどう生きてきたかを表しているようだった。
雪かきをする姿を見ていると、ふと顔を上げたヴィンセントと目があった。
「婚約について、だが……」
「はい……」
ヴィンセントはひとつ息をついてから、再び口を開いた。
「あなたに、一つ伝えておかなければならないことがある」
「なんでしょう……?」
「……今の婚約は正式なものだ。だが、あなたの父上から預かったあなたを、この国で守るために結んだものでもある」
「……はい」
「俺は、この婚約を理由にあなたへ結婚を強いるつもりはない。国同士の状況が落ち着き、あなたを安全に帰せるようになれば、エミリスワンへ帰すつもりでいる」
「……帰す、つもり、ですか……?」
「ああ。あなたの人生は、あなたが決めるべきだと思い直した」
常に優しく、カミラのことを考えて行動してくれ、欲しいと思うそれ以上の言葉をくれる。この婚約が自分を守るために結ばれたものだから、ヴィンセントは優しくしてくれているのだと思っていた。
「……そう、だったんですね……」
帰れる。以前なら、その言葉だけで胸がいっぱいになるほど嬉しかったはずだ。今だって、もちろん父に会いたい。クレールのパイを食べたいし、故郷を思う気持ちは変わっていない。
(でも……ヴィンセントさんとは、離れるんだ……)
そう考えた途端、胸の奥が痛んだ。
(私は、いつかエミリスワンに帰る日が来てしまう……)
まだいつかはわからない。シントレアはカミラを手中に収めることで、一旦はエミリスワンへの侵攻を停止している状況だ。父が手紙で、いまだシントレアとの協定の内容を模索しているとも言っていた。父にとっては可愛い娘が人質に取られているようなもので、できるだけシントレアと友好な関係を築きつつ、カミラを返してもらう道を探っているのだろう。ヴィンセントもおそらく、今はその線を探っている。
(私の行動は、国同士のつながりにも影響するんだから……)
カミラは、もう一度自分の恋心を胸の奥に仕舞う。カミラは黙ったまま、手を動かした。
ある日の夕方。
ヴィンセントは謁見の間にいた。これまで書類で取り交わしていたエミリスワンの扱いについて、父であるシントレア王と第一王子であるリキャルド・アーチボルドとの面会に来たのだ。
王座の前に傅いて、父が来るのを待つ。少ししてから、父と長兄が顔を出した。
「なんだヴィンセント、父に文句をつけに来たのか?」
「先日から書類でやり取りをしていた件について、どうも齟齬があるような気がして直接参りました」
「ふん、くだらん。あの小国のだろう」
「エミリスワンの件です」
「なんだ、やけに反抗的な態度だな。あの娘が気に入ったか?」
「いえ……今回は軍事の件です。余計な話は避けていただきたい」
「ふん。なんだ、言ってみろ」
「父上はエミリスワンを落とした勢いでウォルトレスにも進軍しようとお考えだと思いますが、あの山脈はかつてのウォルトレスさえ、抜けられなかった。それに対し、昔からあの山脈とともに育ってきたエミリスワンは、あの山脈を越えていける騎士団を持っている。それはご存知でしたか」
「……だから何だというのだ。多勢に無勢、あのような小国であれば大した騎士団も持っていないだろう。期待をするだけ無駄だ」
「あの山の険しさをご存じないからです。我々は彼らしか知らない抜け穴や、水分補給ができる川の位置、積雪のある中での野営の方法も知りません。だからウォルトレスはエミリスワンを一国と認め、山脈を隔てた隣国として付き合い続けてきたのです」
「何が言いたいんだ」
ヴィンセントの言葉を受けて、王が苛立った様子を見せる。今回、エミリスワンのことを侮っていたばかりに、むやみに侵攻を仕掛けた。カミラの父であるエミリスワン国王との手紙のやり取りで、エミリスワンがいかに今の地位を確立し、どのようにして大国ウォルトレスから攻められずに文化を築いていたのかがヴィンセントにもよくわかった。エミリスワンが、どうして大国ウォルトレスに睨まれながらも、自由を謳歌できたのかということが。
「ウォルトレスを刺激して戦争が始まれば、我々の軍事力ではさすがに勝てません。緊密にエミリスワン国王と連絡を取り、ウォルトレスの様子を探ってもらう。ウォルトレスの出方を見てからでも、南征は遅くないはずです」
王はヴィンセントの話を聞きながら、顎をこすった。父が考え事をするときに、何度も見た光景だった。
「……唾棄すべきことだが、その話には一理ある。南征中にウォルトレスに攻め入られては敵わんからな」
「はい」
「……」
「……」
王はヴィンセントの真意をその目をまじまじと見て計っているようだった。ヴィンセントも胸の内はさとられないよう、強い眼差しで見つめ返す。
「……だが、時を見て南征には行ってもらうぞ」
「ええ。私もそこで成果をあげたいと思っていますので」
結局のところ、騎士団に入隊して周囲の信頼を勝ち得、副団長にまで自分の腕で上り詰めたヴィンセントがいつクーデターを起こすか、その一点が不安で仕方がないのだ。それでヴィンセントを戦時の混乱の中で殺して厄介払いをし、そのついでに南へと領土を広げられれば一挙両得と考えているらしい。ヴィンセントもそれはよくわかっている。彼らの眼差しの奥にある殺意。第一王子を後継者には指名したものの、まだ老いぼれきっていないのが父である。まだ状況をある程度理性的に判別する能力は衰えていないようだった。ここで父がウォルトレスにも仕掛けるということであれば、エミリスワンにも火の粉が飛びかねない。それだけは今すぐクーデターを起こしてでも阻止しなければと、実際ヴィンセントは考えていたくらいだ。
「では、私からエミリスワンの国王に文を送ろう」
「いえ、私が──」
そう言いかけたところで、父の疑いの眼差しが自分に向けられているのを悟り言葉尻を濁した。率直に言えば、カミラの近況なども報告したいし、自分が連絡をとっておきたい。しかし、ここで自我を通せば、ありもしない嫌疑で疑われてしまうのも目に見えている。
(あの方なら、私よりうまく立ち回ってくださるはずだ)
カミラの父を信頼する気持ちのほうが勝る。ここはカミラの父を信頼して引いたほうがいいと判断した。
「……だが、ウォルトレスのことは警戒したほうがいいな」
父がぽつりとつぶやいた言葉に、胸騒ぎがする。ヴィンセントが言葉を発しようとした瞬間、隣から長兄が父に言った。
「では、私が文も手配しましょうか」
「ああ、そうしてくれ」
重要な国家間のやりとりを長兄には即座に明け渡せるところを見ていると、やはり二人は馬が合うようだ。自分への信頼のなさに落胆する日々はもう過去のもの。
「僭越ですが父上」
「なんだ、まだ何かあるのか」
「ウォルトレスの脅威を、今以上に軽んじないでください。今思えばエミリスワンへの侵攻も情勢を悪くする一手だったのだと思います。それを覚えておいてくださいますよう」
「一人前に舐めた口を叩く。用件はそれだけか?」
「……はい」
ヴィンセントは深く一礼して、父たちに背を向ける。周囲の近衛兵たちからも、どこか哀れみの眼差しを感じるようだった。だが、ヴィンセントは顔を上げて歩いた。できる手は打った。時間稼ぎができれば次の手を熟考することができる。
(……必ず、父を止めなくては)
すでにヴィンセントの中では、次の行動が見えているのだった。




