第四章 鏡の中
最初の異変は、ほんの一瞬だった。
*
第三章の仮面舞踏会から二日後。アレクサンドル・イリイチ・アルセーニエフは、コローヴィンとともに押収品の確認に立ち会っていた。第二章で見つけた薬瓶。乾燥した植物。鉱物の粉。意味不明の図。そして、Rebis。その言葉が書かれた紙。専門家も呼ばれていた。薬師。医師。古い書物に詳しい学者。しかし、答えはなかなか出なかった。
学者「レビス、という言葉そのものは、錬金術の文献にございます」
コローヴィン「どういう意味です?」
学者「簡単に申しますと……二つのものが一つになった存在、とでも申しましょうか」
アレクサンドル「二つ?」
学者「太陽と月。硫黄と水銀。男と女」
アレクサンドルの眉がわずかに動く。
学者「ただし、象徴です」
コローヴィン「象徴?」
学者「文字通り人間の性別をどうこうする薬、などという意味ではございません」
アレクサンドル「当然でしょう」
即答した。学者が少し驚いた顔をする。
アレクサンドル「続けてください」
学者「錬金術では、相反するものが一つになることを完全性の象徴として扱うことがあります。その図の一つが、男女両方の特徴を持つ存在として描かれるのです」
コローヴィン「では、この薬瓶とは関係ない?」
学者「そこまでは分かりません」
分からない。最近、その言葉ばかり聞いている気がした。
*
薬師が一本の瓶を持ち上げる。
薬師「こちらは植物性の抽出物でしょう」
コローヴィン「毒ですか?」
薬師「量によります」
アレクサンドル「飲んだら?」
薬師「吐き気、眩暈。幻覚を起こすものもあります」
アレクサンドルが顔を上げる。
アレクサンドル「幻覚?」
薬師「可能性の話です」
その時。机の端に置いてあった小瓶が倒れた。
コローヴィン「あっ」
床へ落ちる。割れた。ほんのわずかな液体。強い匂い。
アレクサンドル「窓を!」
全員が動く。アレクサンドルも一歩下がった。鼻の奥に、甘いような、苦いような妙な匂いが残った。
薬師「触らないでください!」
コローヴィン「大丈夫ですか?」
アレクサンドル「ああ」
少し頭が重い。だが、それだけだった。
*
その日の夕方。最初の異変が起きた。宿の洗面台で顔を洗っていた時だった。水をすくう。手を見る。細い。アレクサンドルは動きを止めた。見慣れた自分の手ではない。指が長い。骨張った感じが薄い。皮膚まで妙に滑らかに見える。
アレクサンドル「……何だ?」
手を裏返す。掌。そこはいつもの手。いや。違う。どちらだ。鏡を見る。息が止まった。知らない女が立っていた。いや。知らないわけではない。自分だ。自分の顔。だが。顎の線が細い。頬が柔らかい。首も。肩も。昨日までとは違う。まるで――アレクサンドラ。だが化粧はしていない。鬘もない。それなのに、素の顔そのものが女性になっている。
アレクサンドル「……嘘だろ」
鏡へ近づく。瞬きをする。まだ女。頬を触る。鏡の中の女も触る。皮膚の感触まで違う気がする。扉が叩かれた。
コローヴィン「アレクサンドル?」
振り返る。
アレクサンドル「待て!」
コローヴィン「どうしました?」
アレクサンドル「入るな!」
間。
コローヴィン「……何かありました?」
アレクサンドルは鏡を見る。男がいた。いつもの自分。顎。肩。手。全部元通り。
アレクサンドル「…………」
コローヴィン「本当に大丈夫ですか?」
アレクサンドル「……ああ」
扉を開ける。コローヴィンが怪訝そうな顔をする。
コローヴィン「顔色が悪いですよ」
アレクサンドル「薬の匂いを嗅いだせいだ」
コローヴィン「医者を呼びますか?」
アレクサンドル「必要ない」
そう答えた。まだ、この時は。
*
翌朝。アレクサンドルは目を覚ました。身体が重い。妙な感覚がある。胸元。何かがある。布団の中へ手を入れかけて、止めた。
アレクサンドル「……いや」
ゆっくり起きる。見る。何もない。男の身体。いつもの自分。
アレクサンドル「夢だ」
昨日も。夢の続きのようなものだ。薬品。疲労。チェーニ。仮面舞踏会。女帝への変装。全部重なっただけだ。そう決めた。そして。シュミーズを着た。ステイズを締める。前側の紐を引く。昨日より自然にできる。その瞬間。胸に妙な重みが生まれた。アレクサンドルの手が止まる。ステイズの中で、何かが押し上げられている。昨日まで、そこには何もなかった。
アレクサンドル「…………」
怖くなった。鏡を見ない。そのまま男物を着る。上着。剣。全部隠す。鏡を避けて部屋を出た。
*
調査は続いていた。ある情報提供者に会うため、二人は市内の外れへ向かった。途中。小さな市場。コローヴィンが足を止める。
コローヴィン「少し待ってください」
アレクサンドル「どうした?」
コローヴィン「向こうです」
一人の老婆が座っている。札。小さな石。カードのようなもの。占い師らしい。
アレクサンドル「まさか」
コローヴィン「情報屋です」
アレクサンドル「占い師でしょう」
コローヴィン「両方です」
仕方なく近づく。
老婆「おや」
老婆がアレクサンドルを見る。
老婆「面白い相が出ているね」
アレクサンドル「仕事の話だけ聞きたい」
老婆「女難だ」
コローヴィンが少し笑った。
アレクサンドル「笑うな」
老婆「いや」
老婆が首を傾げる。
老婆「女に困らされる、という感じでもない」
アレクサンドル「では何だ」
老婆「女が降りてくる」
アレクサンドルの顔から表情が消えた。
老婆「いや」
さらに見る。
老婆「女が来るんじゃないな」
老婆が笑った。
老婆「お前さんの中から出てくる」
アレクサンドルは立ち上がった。
アレクサンドル「行くぞ」
コローヴィン「まだ何も聞いてませんよ」
アレクサンドル「別の情報屋を探せ」
老婆「三日だよ」
背中から声が飛んでくる。
老婆「三日気をつけな」
アレクサンドルは振り返らなかった。
*
コローヴィン「怒りました?」
アレクサンドル「くだらない」
コローヴィン「占いですよ」
アレクサンドル「分かってる」
コローヴィン「では」
アレクサンドル「分かってると言ってる」
声が強くなる。コローヴィンは黙った。しばらくして。
コローヴィン「……本当に何かあったんですか?」
アレクサンドルは答えなかった。
*
その日の午後。とうとう医者へ行った。正式な宮廷医ではない。あまり大ごとにしたくなかったからだ。街中で評判だという医者。部屋は薬臭かった。
医者「なるほど」
医者が腕を組む。
医者「身体が女性になっているように感じる」
アレクサンドル「感じるだけだ」
医者「鏡では?」
アレクサンドル「……見える時がある」
医者「ほう」
アレクサンドル「何だその顔は」
医者「珍しい」
アレクサンドル「治るのか?」
医者「三日です」
アレクサンドルが固まる。
アレクサンドル「何?」
医者「だいたい三日」
占い師。三日。偶然だ。
医者「ただし」
アレクサンドル「ただし?」
医者が妙に真剣な顔になる。
医者「男性には近づかない方がよろしい」
アレクサンドル「…………」
医者「症状が安定する前に男性へ接近すると、女性の状態で固定される場合があります」
数秒。
アレクサンドル「何を根拠に言っている」
医者「医学です」
アレクサンドル「どこの医学だ」
医者「東方の」
アレクサンドル「どこの東方だ」
医者「……かなり東です」
怪しい。ものすごく怪しい。
アレクサンドル「帰る」
医者「薬を!」
アレクサンドル「いらん!」
*
夕方。コローヴィンが宿へ戻ってきた。紙を一枚持っている。
コローヴィン「面白いことが分かりました」
アレクサンドル「何だ」
コローヴィン「さっきの医者」
アレクサンドル「…………」
コローヴィン「医師免許に相当する正式な認可がありません」
アレクサンドル「やっぱりか」
コローヴィン「しかも以前、歯痛の患者へ磁石を飲ませようとして追い出されています」
アレクサンドル「…………」
コローヴィン「さらに」
アレクサンドル「もういい」
コローヴィン「牛乳に銀貨を入れて飲めば梅毒が治ると」
アレクサンドル「もういいと言った!」
アレクサンドルは頭を抱えた。馬鹿馬鹿しい。完全な偽医者。ならば、男性へ近づくと女性として固定される。そんな話も当然でたらめだ。安心した。はずだった。その夜。鏡を見るまでは。
*
鏡の中の自分は、また女だった。今度は昨日よりはっきりしている。顔だけではない。肩幅。首。胸。腰。全身の輪郭が変わっている。男物のシャツを脱いだ時、シュミーズの下にある身体が、明らかに女性の形に見えた。
アレクサンドル「……違う」
目を閉じる。十数える。開く。女。
アレクサンドル「違う」
頬を叩く。痛い。夢ではない。だが、薬による幻覚なら痛みは関係ない。そう自分に言い聞かせる。胸元へ手を置く。感触。ある。いや。ない。どちらだ。分からない。触っている手まで細く見える。鏡の中の女が、自分と同じ顔で怯えている。
アレクサンドル「俺は……」
声。男の声。少し安心する。
アレクサンドル「俺は男だ」
鏡の中の女も、男の声でそう言った。それが逆に恐ろしかった。扉が開いた。
コローヴィン「アレクサンドル!」
アレクサンドルが振り返る。
コローヴィン「大丈夫ですか?」
見る。コローヴィンの目。驚いていない。自分の身体を見る。男。いつもの身体。
アレクサンドル「…………」
コローヴィン「どうしました?」
アレクサンドル「鏡を見ろ」
コローヴィン「鏡?」
見る。
コローヴィン「あなたが映ってます」
アレクサンドル「どう見える」
コローヴィン「どうって……」
困る。
コローヴィン「いつものあなたです」
アレクサンドルは鏡を見る。男。戻っている。
*
翌朝。アレクサンドルは宮廷へ向かった。目的は一つ。確かめる。今度こそ、本物のエリザヴェータ本人に。
*
簡単には会えなかった。当然だった。女帝である。ようやく短い時間が取れた。アレクサンドルは部屋へ入る。今度は違う。女官がいる。護衛もいる。エレーナも少し離れた場所にいた。これなら、さすがに本人だろう。
エリザヴェータ「何?」
女帝は少し機嫌が悪そうだった。
アレクサンドル「陛下に、一つ確認したいことがございます」
エリザヴェータ「珍しいわね」
アレクサンドル「先日の命令についてです」
エリザヴェータ「先日?」
アレクサンドル「次の会まで、毎日シュミーズとステイズを身につけろと」
エリザヴェータが止まった。数秒。
エリザヴェータ「何の話?」
背中が冷たくなる。
アレクサンドル「……陛下が」
エリザヴェータ「私はそんな命令してないわよ」
あっさり。あまりにもあっさり。アレクサンドルは言葉を失った。
エリザヴェータ「誰から聞いたの?」
アレクサンドル「陛下からです」
エリザヴェータ「私?」
アレクサンドル「陛下のお姿をした人物から」
エリザヴェータの顔から笑みが消えた。完全に。
エリザヴェータ「どこで?」
説明する。小部屋。護衛が少なかった。女官もいなかった。数日間。毎日。仕事中も。全部。エリザヴェータは黙って聞いた。やがて。
エリザヴェータ「……なるほど」
怒っている。アレクサンドルへの怒りではない。
エリザヴェータ「私の顔で遊んだのね」
声が低い。今まで見たことのない種類の表情だった。
アレクサンドル「おそらく」
エリザヴェータ「それで」
アレクサンドルを見る。
エリザヴェータ「あなた、本当に毎日着ていたの?」
アレクサンドル「…………」
エレーナが少しだけ視線を逸らした。
アレクサンドル「命令だと思いましたので」
女帝の口元がわずかに動く。笑いそうになった。だが今回は我慢したらしい。
エリザヴェータ「……ご苦労さま」
アレクサンドル「それだけですか」
エリザヴェータ「だって私が命じたんじゃないもの」
アレクサンドル「…………」
最悪だった。チェーニの言葉。本当に着るとは思わなかった。完全に。からかわれていた。
エリザヴェータ「ただ」
女帝がアレクサンドルを見る。
エリザヴェータ「面白いことを考えるわね」
アレクサンドル「採用しないでください」
エリザヴェータ「まだ何も言ってないわ」
アレクサンドル「顔に書いてあります」
エレーナが咳払いした。さすがに女帝へ言いすぎたと思った。
アレクサンドル「……失礼いたしました」
エリザヴェータ「今回は許すわ」
女帝の表情が再び厳しくなる。
エリザヴェータ「それより、私に化けられる人間が宮廷内にいる方が問題ね」
その通りだった。
*
宮廷を出る。少し安心した。一つだけ。少なくとも、あの下着命令は偽物だった。今日から着なくていい。それだけでも大きい。なのに。身体の違和感は消えなかった。シュミーズもステイズも外した。完全にいつもの男物。それでも歩いていると、身体が軽すぎる。何かが足りない。それが逆に気持ち悪い。
アレクサンドル「……何なんだよ」
*
夕方。コローヴィンが来なかった。約束の時間。来ない。三十分。一時間。おかしい。アレクサンドルは宿を出た。コローヴィンが使っている部屋へ向かう。扉。返事なし。
アレクサンドル「コローヴィン?」
叩く。なし。鍵がかかっている。嫌な予感。体当たり。一度。二度。開いた。
*
部屋の中に、女がいた。
*
最初、本当にそう思った。窓際の椅子。豪華な宮廷婦人。淡い銀色のドレス。広いパニエ。胸元には装飾。鬘。化粧。顔まで完全に仕上がっている。両手は後ろで縛られていた。女がこちらを見る。
???「おい!」
男の声。アレクサンドルが固まった。
???「俺だ!」
数秒。
アレクサンドル「…………コローヴィン?」
コローヴィン「そうだ!」
近づく。見る。本当に。コローヴィン。だが、知らなければまず分からない。化粧。鬘。眉。頬。唇。肩。胸元。全部別人。
アレクサンドル「……何があった」
コローヴィン「それを俺が聞きたい!」
完全に男口調へ戻っている。当然だ。アレクサンドルは縄を解く。
コローヴィン「目が覚めたらこうなってた」
アレクサンドル「覚えてない?」
コローヴィン「宿へ戻って、酒を一杯飲んで」
止まる。
コローヴィン「そこからない」
薬。おそらく。アレクサンドルはドレスを見る。仕上げが異常に丁寧だ。即興ではない。シュミーズ。ステイズ。パニエ。ペティコート。ドレス。鬘。化粧。全部。完璧。
コローヴィン「見るな」
アレクサンドル「見ないと外せない」
コローヴィン「分かってる!」
屈辱なのだ。当然。アレクサンドルには分かる。自分なら、まだ慣れている。コローヴィンは違う。こんな格好をした経験などない。目を覚ましたら、別人の女になっていた。笑える状況ではない。
アレクサンドル「まず鬘から外します」
コローヴィン「頼む」
声が低い。アレクサンドルは淡々と作業する。鬘。髪留め。装飾。次にドレス。背中。留め具。紐。構造を知っているから早い。
コローヴィン「……手慣れてるな」
アレクサンドル「今それを言います?」
コローヴィン「悪かった」
パニエ。ペティコート。ステイズ。最後にシュミーズ。そこまで外して、ようやく普通の男へ戻っていく。アレクサンドルは自分の上着を貸した。
アレクサンドル「男物は持ってきます」
コローヴィン「誰にも言うな」
アレクサンドル「言いません」
コローヴィン「絶対に」
アレクサンドル「分かっています」
扉へ向かう。
コローヴィン「アレクサンドル」
振り返る。
コローヴィン「……ありがとう」
アレクサンドルは少しだけ頷いた。
*
男物を調達して戻る。コローヴィンは化粧を落とそうとしていた。うまくいっていない。
アレクサンドル「貸してください」
コローヴィン「自分でやる」
アレクサンドル「余計広がってます」
コローヴィン「…………」
アレクサンドル「目を閉じて」
コローヴィン「……分かった」
静かに落とす。頬。目元。唇。男の顔が戻ってくる。コローヴィンが鏡を見る。長い間黙った。
コローヴィン「……あいつ」
アレクサンドル「チェーニ?」
コローヴィン「絶対に捕まえる」
今までとは違った。仕事ではない。完全に個人的な恨みが加わった。
*
机の上に紙があった。短い文。綺麗な字。――お似合いでした。それだけ。コローヴィンが紙を破りかける。
アレクサンドル「待って」
コローヴィン「証拠か」
アレクサンドル「そうです」
コローヴィン「……くそ」
紙を置く。その時。アレクサンドルは急に眩暈を感じた。
アレクサンドル「……っ」
コローヴィン「どうした?」
壁へ手をつく。見る。自分の手。女。また。今度は、はっきり。指。手首。袖から覗く腕まで細い。胸元。男物の服の下なのに、身体の輪郭が違う。
アレクサンドル「…………」
コローヴィン「アレクサンドル?」
顔を上げる。コローヴィンの目には、何も起きていない。分かる。
アレクサンドル「……何でもない」
コローヴィン「今度は私が言いますよ。本当に?」
アレクサンドル「本当に」
嘘だった。
*
その夜。招待状が届いた。宮廷から。次の特別会。数日後。参加者。アレクサンドル。そして、相手役についての名前が添えられていた。レフ・アンドレーエヴィチ。リョーヴァ。アレクサンドルは紙を見た。次に、昼間の偽医者の言葉を思い出す。
医者の声『男性には近づかない方がよろしい』
医者の声『女性の状態で固定される場合があります』
馬鹿馬鹿しい。完全なインチキ医者だ。証明済みだ。信じる理由など一つもない。それでも。鏡を見る。そこには、また女がいた。今度は、こちらを見て、ほんの少し笑ったように見えた。アレクサンドルは鏡を布で覆った。
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寝台に入る。灯りを消す。目を閉じる。眠れない。ようやく眠った。そして。
*
夢の中。アレクサンドルは走っていた。どこか分からない宮殿。長い廊下。鏡。鏡。鏡。すべての鏡に、女が映っている。走る。女も走る。自分だ。違う。自分ではない。身体を見る。完全に女性になっている。服ではない。化粧でもない。肉体そのもの。
アレクサンドル「違う!」
声まで女。後ろから足音。誰かが追ってくる。男。顔が見えない。走る。逃げる。角。階段。また鏡。全部女。追いつかれる。
アレクサンドル「来るな!」
手。肩を掴まれる。振り向く。顔。チェーニ。いや。エリザヴェータ。いや。リョーヴァ。いや。自分。顔が次々変わる。
???「もう遅い」
男の声。女の声。両方。鏡の中の自分が笑う。
???「もう戻れない」
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アレクサンドルは跳ね起きた。息が荒い。汗。暗い部屋。自分の胸へ手を当てる。平ら。男。いつもの身体。何度も確かめる。
アレクサンドル「……夢だ」
声。男。
アレクサンドル「夢だ」
もう一度言う。だが。部屋の隅。布をかけた鏡の向こうから、誰かが見ているような気がした。もちろん、誰もいない。はずだった。
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翌朝。アレクサンドルは招待状をもう一度開いた。特別会。リョーヴァ。そして日付。偽医者が言った、三日目。アレクサンドルは長く紙を見つめた。科学的な根拠などない。くだらない迷信。幻覚。偶然。全部分かっている。分かっているのに。心のどこかが囁く。もし。本当に。あの男へ近づいた時、戻れなくなったら?アレクサンドルは招待状を閉じた。
アレクサンドル「……最悪の組み合わせだ」
そして。その日の夕方。宮廷から、もう一通の伝言が届いた。参加は必須。欠席不可。相手変更不可。アレクサンドルは紙を読み終えた。静かに机へ置いた。
アレクサンドル「分かりましたよ」
誰もいない部屋で言う。
アレクサンドル「行けばいいんでしょう」
鏡は、まだ布をかけたままだった。




