幕間 エレーナ・サブーロワの宮廷実務講座 ――仮面舞踏会って、何が楽しいの?
ごきげんよう。
エレーナ・ミハイロヴナ・サブーロワでございます。
先ほど第三章では、仮面舞踏会が開かれておりましたね。
ここで、
「あれ? またメタモルフォーゼ舞踏会なの?」
と思われた方もいらっしゃるかもしれません。
違います。
まったく別の催しでございます。
今回のものは、もっと普通の――
いわゆる、
仮面舞踏会。
男性は基本的に男性の服。
女性は基本的に女性の服。
その上で仮面をつけたり、いつもとは違う衣装をまとったりして、正体を曖昧にしたまま踊ったり、話したりする催しでございます。
ですから、第一章でアレクサンドル様がアレクサンドラ様になっていたような男女逆転の催しとは違います。
こちらはこちらで、当時の宮廷社会では大変人気のある娯楽でした。
実際、エリザヴェータ陛下の治世でも仮面舞踏会は盛んに開かれております。
一七四六年の冬には、陛下の命により高位者の邸宅で「カーニヴァルと仮面舞踏の娯楽」が催され、一度に三百人から四百人ほどの仮面をつけた客が集まったという記録まで残っています。
ですので、一七四七年のサンクトペテルブルクで仮面舞踏会が開かれていること自体は、少しも珍しいことではございません。
では。
そもそも、
顔を隠して何が楽しいのでしょう?
……よく考えると、不思議ですよね。
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顔を隠すと、少しだけ別人になれる
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仮面というものは、もちろん完全な透明人間になれる道具ではございません。
背丈。
声。
服装。
歩き方。
体格。
よく知っている相手なら、それだけで正体を見抜くこともあります。
ですが、それでも顔の一部を隠すだけで、人はずいぶん大胆になります。
十八世紀ヨーロッパでは、仮面と外套によって顔や衣服を隠し、普段なら身分を示す装いまで分かりにくくする仮装が広く親しまれていました。
いつもなら、
「あの方は伯爵夫人だから」
「あちらは将軍閣下だから」
「あの方とは家柄が違うから」
と考えるところを、
仮面をつけてしまえば、
「さて、私は誰でしょう?」
という遊びが成立する。
もちろん身分そのものが消えてなくなるわけではございません。
翌朝になれば伯爵は伯爵ですし、将軍は将軍です。
ですが、その数時間だけ、
いつもの人間関係を少しぼかすことができる。
そこが面白かったのでしょう。
普段なら真正面から話しかけにくい人へ近づく。
知っている相手なのに、知らないふりをして会話する。
誰だか分からない相手と踊る。
わざと声を変える。
正体を当て合う。
そして最後に、
「あなただったのですか!」
となる。
……大の大人が何をしているのだろう、と思われました?
私も時々そう思います。
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宮廷人は、なぜそんな遊びが好きなの?
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これは私個人の感想も入りますが。
宮廷という場所は、
普段、相手が誰なのかを非常に気にする場所
です。
身分。
役職。
家柄。
誰と親しいか。
誰の派閥に近いか。
誰の前で何を言ってよいか。
そうしたことを、いつも考えなければなりません。
なのに仮面舞踏会になると、
皆様そろって顔を隠し、
「今夜くらいは誰だか分からない方が面白い」
と仰る。
不思議なものです。
普段あれほど肩書きを大切になさっている方々が、
自分から肩書きを見えにくくして遊ぶのですから。
ただ、だからこそ面白いのかもしれません。
決まり事の多い社会では、
ほんの少しだけ決まり事から外れる遊び
が、とても刺激的になるのでしょう。
もちろん、
「仮面をつけた瞬間、何をしても許された」
という意味ではございません。
そこは誤解なさらないでください。
法律もございます。
宮廷の規則もございます。
警備の者もおります。
ですが、
普段より少しだけ、
誰と誰が話しているのか。
誰が誰へ近づいているのか。
誰がどんな意図を持っているのか。
それが見えにくくなる。
そこに遊びの面白さと、
同時に危うさもございました。
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実は、とても警備泣かせです
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ここまでお話しすれば、
第三章で警備の皆様が嫌そうなお顔をしていた理由もお分かりになるでしょう。
三百人。
四百人。
皆様、仮面をつけています。
普段とは違う衣装です。
違う声を出している方までいる。
しかも、
そうすること自体が催しの趣旨
なのです。
普通の夜なら、
警備兵「顔を隠さないでください」
と言えば済みます。
仮面舞踏会でそれを言ったら、
催しそのものが終わってしまいます。
変わった服装の人間がいても、
不審者とは限りません。
普段と違う話し方をしていても、
ただ遊んでいるだけかもしれません。
正体を隠そうとしていても、
それが普通です。
つまり警備する側から見ますと、
不審者が行いそうなことを、全員が合法的にやっている
ような場所なのです。
……嫌でしょう?
私なら嫌です。
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そして、変装の達人にとっては
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もっと困ったことがあります。
もし、
大勢の人間の中へ紛れ込むことが非常に上手な人物がいたとしましょう。
普段であれば、
顔。
服。
声。
歩き方。
そういうものを一つずつ偽らなければなりません。
ところが仮面舞踏会なら。
顔を隠していてもよい。
普段と違う服でもよい。
声を変えていても、
「今夜はそういう趣向なのだろう」
と思ってもらえる。
そして何百人もの参加者が、
自分から正体を分かりにくくして集まってくださる。
変装して潜り込もうという者にとって、
これほどありがたい催しも、なかなかございません。
第三章でアレクサンドル様が、
使用人を疑い、
貴婦人を疑い、
老女を疑い、
とうとう相棒のコローヴィン様まで少し疑い始めたのも、無理はないのでございます。
なにしろ、
誰が誰だか分からないことを楽しむための宴なのですから。
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ところで、メタモルフォーゼ会とは何が違うの?
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最後に、ここだけははっきりさせておきましょう。
普通の仮面舞踏会は、
「正体を一時的に曖昧にして遊ぶ催し」
です。
一方、これまで本作で何度も登場してきたメタモルフォーゼ会は、
「男女の服装や役割そのものを意図的に逆転させる催し」
です。
似ているところはあります。
どちらも、
「普段の自分とは違う姿になる」
という遊びだからです。
ですが同じものではありません。
仮面舞踏会だからといって、男性が全員ドレスを着せられるわけではございません。
その点だけは、どうかご安心くださいませ。
……もっとも。
エリザヴェータ陛下の場合、
普通の仮面舞踏会へ来たはずなのに、
途中から別の趣向が始まる可能性まで完全に否定できないところが困りますけれど。
私は何も申し上げておりませんよ。
一般論でございます。
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というわけで。
第三章の仮面舞踏会は、
この物語のために突然用意された奇妙な催しではございません。
十八世紀ヨーロッパ、そしてエリザヴェータ陛下のサンクトペテルブルクでも十分に存在し得た、華やかで人気のある娯楽でした。
華やかで。
少し悪趣味で。
少し危険で。
そして、
誰が誰なのか分からないこと自体を楽しむ宴。
だからこそ、
正体を隠したい人間にとっても、
たいへん都合のよい場所なのでございます。
では皆様。
次のお話へ参りましょう。
今度誰かが、
「仮面舞踏会へ行きましょう」
と誘ってきましたら、
まずその方が本当にお知り合いなのか、
確かめてからついて行かれることをおすすめいたします。
……最近のサンクトペテルブルクでは、特に。




