第五章 戻る場所
その日は朝から、鏡を見なかった。
*
アレクサンドル・イリイチ・アルセーニエフは、宮廷へ向かう馬車の中で何度も自分に言い聞かせていた。大丈夫だ。あの医者はインチキだった。占いも偶然だ。薬品を吸い込んだ。疲れている。それだけだ。今日の催しが終われば、何もかも元に戻る。そう考える。そのたびに、あの言葉が聞こえた。
医者の声『男性へ近づくと、女性の状態で固定される場合があります』
アレクサンドル「……黙れ」
誰もいない馬車の中で呟く。馬車が止まった。宮廷だった。
*
控室には、すでに何人もの男たちが集まっていた。第一章と同じ。古参。女性役に慣れている者。完全に仕上げれば、宮廷婦人にしか見えなくなる者たち。そして今回も、彼らは順番に別人になっていった。鬘。化粧。シュミーズ。ステイズ。パニエ。ペティコート。ドレス。宝飾。香水。手袋。靴。いつもなら、アレクサンドルにとっては慣れた作業だった。今日は違う。ステイズを締められる。胸元が整えられる。その感触だけで、身体の内側まで変わっているような錯覚がする。
女官「苦しくございませんか?」
アレクサンドル「大丈夫です」
女官「もう少し締めますね」
アレクサンドル「お願いします」
声。女性役の声。自然に出た。自分でぞっとする。鏡は見ない。見ないようにしていた。
女官「では、最後にこちらを」
首元に装飾がつけられる。髪型を整えられる。頬へ最後の色。終わった。
女官「できました」
鏡を向けられた。
アレクサンドル「……」
逃げられない。見る。そこにいたのは、アレクサンドラだった。第一章とほとんど同じ。美しく仕上がった宮廷婦人。何度も見た姿。見慣れたはずの姿。だが。今日は、どこからが化粧なのか分からなかった。頬。顎。首。胸。腰。衣装で作られているだけなのか。それとも、中身まで変わっているのか。鏡の中の女が、こちらを見返している。
女官「アレクサンドラ様?」
アレクサンドル「……何でもありません」
答える。声まで、女。
*
エレーナ・ミハイロヴナ・サブーロワが入ってくる。
エレーナ「皆様、ご準備はよろしいでしょうか」
何人かが頷く。
エレーナ「本日も、前回と同じ規則でございます」
女性役を崩さないこと。大声で怒鳴らないこと。相手役を乱暴に押しのけないこと。舞踏中の距離を勝手に変えないこと。アレクサンドルは黙って聞いた。
エレーナ「アレクサンドラ様」
名前を呼ばれる。
アレクサンドル「はい」
エレーナ「本日のお相手も、レフ・アンドレーエヴィチ様でございます」
分かっている。招待状に書いてあった。それでも、胸の奥が妙に冷たくなる。
エレーナ「何か問題が?」
アレクサンドル「ございません」
即答。エレーナが一瞬だけアレクサンドルを見る。だが、何も言わなかった。
*
大広間。音楽。男たちが待っている。第一章と同じ光景。なのに、全然違う。前回は、ただ恥ずかしかった。距離が近い。本物の男性が相手。その程度だった。今日は。その男へ近づいたら、自分が戻れなくなるかもしれない。馬鹿馬鹿しい。そんなはずはない。分かっている。それでも怖い。リョーヴァがいた。男物。端正な顔。すらりとした身体。アレクサンドルに気づく。微笑む。
リョーヴァ「アレクサンドラ様」
その呼び方。胸がざわつく。
アレクサンドル「……ごきげんよう」
リョーヴァ「またお会いできましたね」
そう言って、手を差し出す。触れなければならない。アレクサンドルは一瞬ためらった。
リョーヴァ「?」
アレクサンドル「失礼」
手を乗せる。何も起きない。当然だ。それだけで少し安心する。
*
音楽が始まる。近づく。手。肩。腰。第一章と同じ位置。リョーヴァの手が背へ回る。アレクサンドルの身体が硬くなる。
リョーヴァ「大丈夫ですか?」
アレクサンドル「ええ」
リョーヴァ「少し顔色が」
アレクサンドル「化粧です」
リョーヴァ「それならよいのですが」
踊る。足を運ぶ。身体が覚えている。女性役として。驚くほど自然に。それがまた怖い。今までなら、自分が上手くなっただけだと思えた。今日は、身体そのものが女になっているから自然なのではないかという考えが浮かぶ。振り払う。馬鹿だ。ありえない。リョーヴァが少し近づく。医者の声。
医者の声『男性へ近づくと――』
アレクサンドル「……っ」
リョーヴァ「アレクサンドラ様?」
足が止まりかける。
アレクサンドル「何でも」
その瞬間。鏡が見えた。大広間の壁。巨大な鏡。そこに、男女の組が映っている。男。女。完璧な一組。リョーヴァと、女。アレクサンドルではない。完全な女。肩。胸。腰。顔。全部。アレクサンドルは息を呑んだ。目を逸らす。
リョーヴァ「本当に大丈夫ですか?」
アレクサンドル「大丈夫です」
嘘。
*
曲が終わる。アレクサンドルは距離を取った。ほっとする。その時だった。広間の端。一人の男が、給仕から小さな包みを受け取った。ほんの一瞬。普通なら見逃す。だが。包みを渡した給仕の右手。指。傷。アレクサンドルの目が止まる。
アレクサンドル「……」
給仕がこちらを見る。笑った。チェーニ。アレクサンドルは動いた。
リョーヴァ「アレクサンドラ様?」
走る。ドレス。裾。パニエ。最悪の服装。
アレクサンドル「待て!」
男の声。出た。完全に。周囲が振り返る。リョーヴァも。
リョーヴァ「……え?」
構っていられない。アレクサンドルは裾を持ち上げて走る。チェーニも動く。廊下。階段。人混み。コローヴィンが現れる。
コローヴィン「どこだ!」
アレクサンドル「あの給仕!」
コローヴィン「いたのか!」
二人で追う。後ろから、
リョーヴァ「待ってください!」
来る。
アレクサンドル「来るな!」
リョーヴァ「いや、今の声――」
アレクサンドル「説明は後だ!」
完全にアレクサンドルの声だった。もう隠せない。
*
チェーニは宮殿の裏手へ抜けた。廊下の途中。別の服を脱ぎ捨てる。下から男物。髪型も変わる。数秒で、給仕が若い男になる。
コローヴィン「止まれ!」
チェーニが振り返る。
チェーニ「今日は随分お綺麗ですね」
アレクサンドル「黙れ!」
チェーニ「女性言葉は?」
アレクサンドル「もう知るか!」
走る。ドレスが邪魔。裾を上げる。コローヴィンが先へ。チェーニが何かを投げる。小瓶。
コローヴィン「伏せろ!」
床へ落ちる。割れる。煙。甘い匂い。
アレクサンドル「またそれか!」
避ける。視界が霞む。その中で、チェーニの姿が二つに見えた。男。女。重なる。アレクサンドルは目を擦る。また幻覚。その時。足を取られた。長い裾。
アレクサンドル「っ!」
倒れる。階段の上。身体が傾く。落ちる。そう思った瞬間。腕を掴まれた。
リョーヴァ「危ない!」
強く引かれる。胸元へ抱き込まれる。完全に。男の腕。力。体温。アレクサンドルの心臓が、跳ねた。恐怖。驚き。それだけではない何か。ほんの一瞬。自分でも嫌になるくらい、男に守られたという感覚があった。医者の言葉が蘇る。近づいたら。固定される。身体を見る。ドレス。胸。腰。女。息が止まる。
リョーヴァ「大丈夫ですか!」
顔を上げる。リョーヴァ。心配そう。アレクサンドルは、自分でも分からない表情をした。
アレクサンドル「……離してくれ」
男の声。リョーヴァの顔が固まる。
リョーヴァ「…………」
アレクサンドル「後で説明する!」
離れる。走る。
*
裏庭。コローヴィンがチェーニを追い詰める。門。閉じている。左右。兵。今回こそ。
コローヴィン「終わりだ」
チェーニが笑う。
チェーニ「そうでしょうか」
手には小さな包み。国家機密。おそらく。
アレクサンドル「それを置け」
チェーニ「ずいぶん怖いご婦人ですこと」
アレクサンドル「今それを言うな」
チェーニ「似合っているのに」
コローヴィン「黙って両手を上げろ」
コローヴィンの声。冷たい。第四章の一件以来、明らかに本気で怒っている。
チェーニ「先日はお似合いでしたよ」
コローヴィン「殺すぞ」
アレクサンドル「生け捕りです」
コローヴィン「分かってる!」
チェーニが笑う。次の瞬間。包みを投げた。アレクサンドルの方へ。
アレクサンドル「!」
受け取る。同時にチェーニが横へ走る。兵が動く。だが。チェーニは一人の兵へぶつかった。外套。帽子。一瞬の混乱。兵が倒れる。立ち上がった人物。どちらだ?同じような外套。同じ帽子。
コローヴィン「右だ!」
追う。アレクサンドルも。だが、包みを持っている。国家機密。これを落とせない。数秒。その差。チェーニは壁際まで走った。そこで。ほんの一瞬だけ、こちらを振り返った。右手を上げる。あの指。何度も追跡の手掛かりになった、細い傷跡。チェーニはその傷へ爪をかけた。そして。ぺり、と。薄い皮膜のようなものを剥がした。下から現れた指には、傷一つない。
アレクサンドル「……!」
コローヴィン「傷まで……!」
チェーニは剥がした小さな偽物の傷跡を指先で揺らした。
チェーニ「皆様、あまりにもここばかりご覧になるものですから」
いたずらっぽく。片目をつぶる。そして。壁の向こうへ消えた。
*
捕まえられなかった。また。だが。今回は、手元に包みが残った。開く。封。中身。確認。盗まれた文書。間違いない。
コローヴィン「……取り戻した」
アレクサンドル「ああ」
国家としては、勝った。最低限。最も重要なものは戻った。チェーニは逃げた。だが文書は渡らなかった。それでいい。そう思うしかない。
*
その後。チェーニが一時使っていたらしい場所が、もう一つ見つかった。小さな部屋。借名。偽の身分。中には、男物。女物。鬘。化粧。複数の国の文字で書かれた紙。暗号。薬瓶。Rebisの図。そして。壁の裏。箱。紙片。封蝋。そこに、見覚えのある印があった。黒い外套のようなもの。白い空洞。円。奇妙な、幽霊のような印。
コローヴィン「またこれか」
アレクサンドル「前にも?」
コローヴィン「別の押収品にもありました」
アレクサンドル「チェーニの印ですか?」
コローヴィン「分かりません」
それ以上は、誰にも分からなかった。チェーニ自身の印なのか。誰か別の人間との連絡印なのか。ただの悪趣味な紋章なのか。意味は不明。だから、名前もつけなかった。今は。ただ、同じ印が何度か現れている。それだけだった。
*
Rebisの紙も残っていた。薬も。何が本物で、何がチェーニの悪戯なのか。それも分からない。だが。少なくとも今回の事件については、盗まれた国家機密は戻った。これ以上、大きな組織だ何だと話を広げる材料はなかった。捜査対象として残ったのは、ただ一人。チェーニ。男なのか。女なのか。何歳なのか。どこの人間なのか。何者なのか。それさえ分からない。
*
夜。アレクサンドルはようやく着替えた。鬘。外す。化粧。落とす。ドレス。脱ぐ。パニエ。ステイズ。シュミーズ。最後に、鏡を見る。男がいた。いつもの自分。アレクサンドル。頬。顎。肩。胸。腰。全部。男。何度見ても。変わらない。手で触る。いつもの感触。アレクサンドルは長く息を吐いた。
アレクサンドル「……戻った」
何から戻ったのか。それは分からない。幻覚から。薬から。恐怖から。それとも。本当に何かから。分からない。ただ、鏡の中には男がいた。それで十分だった。
*
扉が叩かれる。
リョーヴァ「……入っても?」
アレクサンドルは固まった。忘れていた。完全に。
アレクサンドル「どうぞ」
入ってくる。リョーヴァ。アレクサンドルを見る。男。完全に男。しばらく無言。
リョーヴァ「……アレクサンドラ様は?」
アレクサンドル「俺だ」
沈黙。
リョーヴァ「…………」
アレクサンドル「俺だった」
さらに沈黙。
リョーヴァ「…………」
アレクサンドル「何か言ってくれ」
リョーヴァ「少し待ってください」
椅子へ座る。頭を抱える。
リョーヴァ「私は」
アレクサンドル「ああ」
リョーヴァ「あなたと」
アレクサンドル「ああ」
リョーヴァ「踊っていた?」
アレクサンドル「二回」
リョーヴァ「…………」
アレクサンドル「悪かった」
リョーヴァ「いや」
顔を上げる。
リョーヴァ「あなたが謝ることですか?」
アレクサンドル「一応」
リョーヴァ「私は女性だと聞かされていました」
アレクサンドル「俺も、そう聞かされているとは知らなかった」
お互い黙る。
リョーヴァ「……では」
アレクサンドル「何だ」
リョーヴァ「この前、あなたに」
少し言いにくそう。
リョーヴァ「綺麗な方でした、と」
アレクサンドル「言ったな」
リョーヴァ「本人に」
アレクサンドル「そうなる」
リョーヴァが顔を覆った。
リョーヴァ「忘れてください」
アレクサンドル「努力する」
リョーヴァ「絶対に」
アレクサンドル「無理かもしれない」
リョーヴァ「アレクサンドル!」
初めて名前で呼ばれた。アレクサンドルは少し笑った。久しぶりに。本当に笑った。
*
少しして。
リョーヴァ「でも」
アレクサンドル「ん?」
リョーヴァ「一つだけ言っておきます」
アレクサンドル「何だ」
リョーヴァ「私は騙されたとは思っていません」
アレクサンドルが見る。
リョーヴァ「何も知らされていなかったのは事実ですが」
少し笑う。
リョーヴァ「踊っていた時のあなたが、全部嘘だったとも思いません」
アレクサンドル「…………」
リョーヴァ「踊り方も」
リョーヴァ「困っていた顔も」
リョーヴァ「嫌そうな顔も」
アレクサンドル「最後のは忘れろ」
リョーヴァ「無理です」
今度はリョーヴァが笑った。アレクサンドルも、少しだけ笑った。
*
リョーヴァが帰る。扉の前。
リョーヴァ「では」
アレクサンドル「ああ」
リョーヴァ「次にお会いする時は」
少し考える。
リョーヴァ「どちらの格好でしょうね」
アレクサンドル「男であってほしい」
リョーヴァ「私はどちらでも」
アレクサンドル「やめろ」
リョーヴァが笑って出ていった。
*
静かになる。アレクサンドルは鏡を見る。男。まだ男。今度は笑った。
アレクサンドル「俺だ」
鏡の中の男も、同じように笑った。
*
翌日。コローヴィンと最後の整理をした。
コローヴィン「国家機密は無事戻った」
アレクサンドル「はい」
コローヴィン「チェーニは逃げた」
アレクサンドル「はい」
コローヴィン「正体不明」
アレクサンドル「はい」
コローヴィン「薬も正体不明」
アレクサンドル「はい」
コローヴィン「Rebisも、今回の事件とどこまで関係があるか不明」
アレクサンドル「はい」
コローヴィン「幽霊みたいな印も不明」
アレクサンドル「はい」
コローヴィンが紙を置く。
コローヴィン「何にも分かってないな」
アレクサンドル「文書は戻りました」
コローヴィン「それだけが救いか」
アレクサンドル「十分でしょう」
少し間。
コローヴィン「そうですね」
今回は。それで終わり。無理に全部を説明する必要はない。分からないものは、分からないまま残る。
*
部屋を出る前。コローヴィンが言った。
コローヴィン「暑いですか?」
アレクサンドルは一瞬考えた。第三章で決めた合言葉。
アレクサンドル「仕事をしてください」
コローヴィンが笑う。
コローヴィン「本人ですね」
アレクサンドル「そちらも」
扉を開ける。廊下。普通の宮廷。普通の人々。誰も仮面をつけていない。誰も別人には見えない。少なくとも、今は。
*
アレクサンドルは外へ出た。風。冷たい。深く息を吸う。数日前まで、この街そのものが夢の中のように思えた。知っている人間がいない。誰が誰なのか分からない。自分の身体さえ信用できない。だが。終わった。少なくとも、そう思った。マーシャも、もうすぐ戻ってくる。いつもの生活へ戻れる。もうシュミーズを軍服の下へ着る必要もない。ステイズもない。鏡を怖がる必要もない。チェーニも、今頃はサンクトペテルブルクから逃げているかもしれない。アレクサンドルは、久しぶりに心から安心した。この時はまだ、そうしてよいと思っていた。




