エピローグ 夢のあと
事件から二日後。マーシャが帰ってきた。
*
マーシャ「ただいま」
聞き慣れた声だった。アレクサンドルは玄関まで出ていった。
アレクサンドル「おかえり」
マーシャ「お母様、もうだいぶ良くなったわ」
アレクサンドル「それはよかった」
マーシャ「大げさだったのよ。本人はもう庭まで歩いてるもの」
アレクサンドル「なら安心だな」
マーシャが荷物を使用人へ渡す。そして、アレクサンドルの顔を見る。
マーシャ「……何?」
アレクサンドル「何が」
マーシャ「妙な顔」
アレクサンドル「普通だ」
マーシャ「私がいない間に、何かあった?」
アレクサンドルは一瞬黙った。ありすぎる。
*
国家機密が盗まれた。変装の名人を追った。自分の身体が女性になって見えた。インチキ医者に、男へ近づくと女性として固定される、などと言われた。コローヴィンが完全な宮廷婦人姿に仕立てられて発見された。リョーヴァに正体がばれた。そして。数日間、毎日。女物のシュミーズとステイズを、男物の服の下へ身につけていた。
*
アレクサンドル「……まあ」
マーシャ「まあ?」
アレクサンドル「少し」
マーシャ「少し?」
アレクサンドル「仕事が忙しかった」
嘘ではない。
マーシャ「ふうん」
疑っている。かなり。だが、マーシャはそれ以上追及しなかった。
マーシャ「疲れてる?」
アレクサンドル「少し」
マーシャ「じゃあ今日は早く休んだ方がいいわね」
アレクサンドル「ああ」
ありがたかった。本当に。
*
夕食。普通の食事。普通の会話。母親の話。親戚の話。マーシャの実家で起きた小さな騒動。何でもない話。それが、妙に嬉しかった。誰も仮面をつけていない。誰も別人へ化けない。鏡を見ても、男が映る。それだけでよかった。
*
マーシャ「そういえば」
アレクサンドル「ん?」
マーシャ「変な噂を聞いたわ」
アレクサンドル「どんな?」
マーシャ「宮廷の辺りで、すごい変装の名人が騒ぎを起こしたとか」
アレクサンドルの手が止まる。
マーシャ「知ってる?」
アレクサンドル「……まあ」
マーシャ「やっぱり」
アレクサンドル「どこまで聞いた?」
マーシャ「男にも女にも化けるとか」
アレクサンドル「そこまでは本当だ」
マーシャ「女帝陛下にも化けたとか」
アレクサンドルが咳き込んだ。
マーシャ「本当なの?」
アレクサンドル「……噂は早いな」
マーシャ「それで、その人は捕まったの?」
アレクサンドル「いや」
マーシャ「逃げた?」
アレクサンドル「ああ」
マーシャ「怖いわね」
アレクサンドル「本当に」
マーシャが少し考える。
マーシャ「今どこにいるのかしら」
アレクサンドルは苦笑した。
アレクサンドル「知りたくない」
マーシャ「そう?」
アレクサンドル「ああ」
心から。
*
その夜。久しぶりによく眠れた。
*
夢を見なかった。
*
少なくとも、そう思っていた。
*
朝。アレクサンドルは目を覚ました。最初に感じたのは、首が重い、だった。
アレクサンドル「……?」
頭も妙に重い。寝返りを打とうとする。身体の左右に、何か大きなものがある。布。大量の布。
アレクサンドル「…………」
目を開く。天井。自分の部屋。ここまでは普通。次に、視界の端へ、髪が落ちた。長い。巻かれている。
アレクサンドル「…………」
ゆっくり。身体を起こす。しゃら。小さな装飾が鳴る。自分の腕。白い袖。手首。レース。その先。広大なスカート。濃い青。銀糸。刺繍。アレクサンドルは完全に停止した。
*
アレクサンドル「…………何だこれは」
声。男。そこだけが救いだった。
*
寝台から立つ。重い。パニエ。ペティコート。ドレス。足元まで全部揃っている。胸元。ステイズ。その下。シュミーズ。頭には鬘。髪飾り。顔。触る。化粧。
アレクサンドル「…………」
鏡を見る。知らない貴婦人がいた。いや。知っている。自分だ。ただし、過去最高と言っていいほど完璧に仕上がっている。寝ている間に。
*
縛られていない。手も自由。足も。薬の痕跡も、少なくとも今のところはない。ただ、完璧に。女性装させられている。
*
アレクサンドル「……チェーニ」
答えはない。当然。部屋には誰もいない。ただ。鏡台の上に、一枚の紙があった。
*
アレクサンドルは歩く。ドレスの裾がついてくる。紙を取る。短い。
*
――今回はとても楽しかった。――また会いましょう。
*
アレクサンドル「…………」
紙を握る。
アレクサンドル「ふざけるな……!」
怒鳴る。男の声。宮廷貴婦人の姿。最悪だった。
*
だが。さらに。最悪なことがあった。
*
扉が開いた。
マーシャ「おはよう――」
止まった。
*
長い沈黙。
*
マーシャ。寝間着。髪もまだ整えていない。完全に朝。そして目の前には、完璧に着飾った宮廷貴婦人。
*
マーシャ「…………」
アレクサンドル「…………」
マーシャ「…………誰?」
アレクサンドル「俺だ」
*
さらに沈黙。
*
マーシャ「…………アレクサンドル?」
アレクサンドル「ああ」
マーシャ「なんで?」
アレクサンドル「俺が聞きたい」
*
マーシャが部屋へ入る。近づく。顔を見る。横。後ろ。ドレス。
マーシャ「……すごいわね」
アレクサンドル「感心するな」
マーシャ「だって」
裾を見る。
マーシャ「本当に綺麗」
アレクサンドル「そこじゃない」
マーシャ「化粧も」
アレクサンドル「そこでもない」
マーシャ「髪も」
アレクサンドル「マーシャ」
マーシャ「分かったわよ」
もう一度見る。そして。マーシャの顔が変わった。
マーシャ「……ちょっと待って」
アレクサンドル「何だ」
マーシャ「そのドレス」
アレクサンドルが見る。濃い青。銀糸。裾。独特の刺繍。
マーシャ「それ……」
近づく。裾の模様を確認する。
マーシャ「まさか」
アレクサンドル「何だ」
マーシャ「この前盗まれたドレスじゃない?」
*
アレクサンドルの顔から、完全に表情が消えた。
*
アレクサンドル「…………何?」
マーシャ「伯爵夫人の」
第三章。警備官の話。高価な一点物。濃い青の絹。銀糸。独特の裾模様。
*
アレクサンドル「…………」
もう一度、自分を見る。
*
合っている。
*
マーシャ「これ、かなり有名なドレスよ」
アレクサンドル「…………」
マーシャ「盗まれたって、すごい騒ぎになってた」
アレクサンドル「…………」
マーシャ「どうしてあなたが着てるの?」
アレクサンドル「だから俺が聞きたい!」
*
マーシャがしばらく黙る。
マーシャ「ということは」
アレクサンドル「言うな」
マーシャ「警備に関わっていたあなたの部屋から」
アレクサンドル「言うな」
マーシャ「盗難品が出てきて」
アレクサンドル「やめろ」
マーシャ「しかも」
見上げる。
マーシャ「あなたが着てる」
アレクサンドル「頼むからやめてくれ」
*
さらに。マーシャが気づく。
マーシャ「……待って」
アレクサンドル「今度は何だ」
マーシャ「これ」
腰回り。背中。少し触る。
アレクサンドル「何だ」
マーシャ「あなたに合ってる」
*
沈黙。
*
マーシャ「伯爵夫人って、あなたより小柄よね」
アレクサンドル「…………」
マーシャ「直してある」
アレクサンドル「…………」
マーシャ「たぶん」
アレクサンドルは目を閉じた。
*
盗む。持ち去る。仕立て直す。自分の体格に合わせる。そして、寝ている間に完全に着せる。鬘。化粧。全部。
*
そこまでして。
*
ただ。
*
嫌がらせのために。
*
アレクサンドル「……あいつ」
声が震える。怒りで。
マーシャ「チェーニ?」
アレクサンドル「ああ」
マーシャ「これ全部?」
アレクサンドル「ああ」
マーシャ「いつ入ったの?」
アレクサンドル「知らん」
マーシャ「どうやって?」
アレクサンドル「知らん!」
*
マーシャは、怒っているアレクサンドルを見た。次に。その格好を見る。
*
口元が動く。
*
アレクサンドル「笑うな」
マーシャ「笑ってないわ」
アレクサンドル「絶対笑うな」
マーシャ「笑ってないって」
肩が震えている。
アレクサンドル「マーシャ」
マーシャ「だって」
とうとう。
マーシャ「ごめんなさい」
笑った。
*
マーシャ「でも本当に」
涙まで出ている。
マーシャ「なんでこんなに似合うのよ!」
アレクサンドル「俺に聞くな!」
*
朝。静かな屋敷。久しぶりに戻ってきた日常。
*
その中で。
*
アレクサンドル・イリイチ・アルセーニエフは、盗まれた伯爵夫人のドレスを着たまま、どうやって警備側へ説明すればよいのか、まったく分からず立ち尽くしていた。
*
そして。
*
それ以上に、一つだけ。考えたくないことがあった。
*
チェーニは、昨夜。自分が眠っている部屋へ入り。何時間もかけて。これだけの支度をして。何も盗まず。何も傷つけず。誰にも見つからず。帰っていった。
*
つまり。
*
捕まえられなかったのではない。
*
向こうが、いつでもこちらへ来られるのだ。
*
鏡の前。完璧な宮廷貴婦人姿のアレクサンドルが、深い溜息をついた。
アレクサンドル「……次に会ったら絶対捕まえる」
マーシャ「その格好で?」
アレクサンドル「着替えてからだ!」
*
――第六巻 了。




