第9章 水面に映る面影
診察室の窓から、隣のビルの壁が見えた。
灰色の外壁には四角い窓が等間隔に並び、その一つに、向かいの空が映っている。冬の陽射しは弱く、青というより、薄く水を混ぜた墨のような色だった。
「食事は取れていますか」
医師に尋ねられ、海斗は膝の上で手を組んだ。
「前よりは」
「一日三食?」
「二食の日が多いです。朝は食べないことがあります」
「以前は?」
「一食だけの日もありました。食べないまま夜になって、それからコンビニで何か買うような生活でした」
医師は机の上の記録へ目を落とした。
「眠りはどうですか」
「夜中に目が覚める日は減りました。ただ、仕事が忙しかった日は、寝つくまで時間がかかります」
「休日も仕事のことを考えますか」
「考えます」
海斗は正直に答えた。
「仕事用の連絡アプリを開いてしまうこともあります」
「休みの日にも?」
「はい」
「開いたら、何か対応するんですか」
「対応しなくていい内容でも、見たら気になります。誰かが困っていると、自分が返した方が早いと思ってしまいます」
「実際に返しますか」
海斗は少し迷った。
「先週、一度だけ返しました」
医師は責めるような顔をしなかった。
「一度だけで止められたとも言えますね」
海斗は顔を上げた。
「止められた、ということになるんでしょうか」
「以前は、一度見たらどうしていましたか」
「そのまま何時間も仕事をしていました」
「では、変化はあります。ただし、一度できたから、もう大丈夫ということではありません」
医師はペンを置いた。
「回復は、まっすぐ進むものではありません。調子のよい日が続いたあと、突然、元へ戻ったように感じることがあります。それは、すべてが無駄になったという意味ではありません」
海斗は、数日前の夜を思い出した。
長引いた会議。
遅れた作業。
夕食を抜き、九時を過ぎても会社に残ったこと。
帰りの電車で息苦しくなり、途中の駅で降りたこと。
駅のベンチへ座り、水月へメールを送った。
あの夜、海斗は自分が振り出しへ戻ったように感じていた。
だが、水月から届いたのは、失望でも説教でもなかった。
家に豆腐と味噌はありますか。
作るのが難しければ、温かい飲み物だけでもよいです。
できたら、一言だけ知らせてください。
海斗は帰宅してから、片手鍋へ水を入れた。
包丁を使う力がなかったので、豆腐は手の上で崩した。味噌を少し溶き、椀へ注いだ。
薄い味噌汁だった。
それでも、半分は飲めた。
翌朝、残りを温めて口にしたとき、失敗した翌日にも朝が来ることを、ようやく受け入れられた。
「仕事以外に、気持ちが向くことはありますか」
医師に尋ねられた。
海斗は窓へ目を向けた。
四角い窓に、雲が流れている。
「料理を始めました」
「料理?」
「味噌汁と、雑炊くらいです」
「楽しめていますか」
「上手にはできません。でも、作ったものを写真に撮るようになりました」
誰に送るのかとは聞かれなかった。
「ほかには?」
海斗は少し考えた。
「帰り道で、空を見るようになりました」
言いながら、自分でも不思議に思った。
空を見ることを、趣味と呼ぶつもりはない。
何かを成し遂げるわけでもない。
ただ、会社から駅へ向かう途中で、一度だけ顔を上げる。
雲が厚い日もあれば、ビルの隙間に夕焼けが残っている日もある。その写真を撮り、水月へ送ることがあった。
「いいですね」
医師は言った。
「ただし、それも義務にはしないでください。毎日見なければならない、毎日写真を撮らなければならない、となると、新しい仕事が一つ増えただけになります」
海斗はうなずいた。
診察を終え、会計を済ませる。
クリニックを出ると、冷たい風が頬へ当たった。
十二月最初の土曜日だった。
歩道には、厚い上着を着た人たちが行き交っている。駅前の商業施設には大きなクリスマスツリーが置かれ、金色の飾りが昼の光を反射していた。
海斗は立ち止まり、携帯電話を取り出した。
写真を撮ろうとして、やめた。
水月へ何かを送るために、目に入るものを探している自分に気づいたからだった。
毎日、写真を撮る必要はない。
医師の言葉を思い出し、携帯電話をポケットへ戻す。
そのまま駅へ向かおうとしたが、数歩進んで再び足を止めた。
今度は、水月へ送るためではなかった。
ツリーの根元に、小さな子どもがしゃがみ込んでいる。落ちた飾りを拾おうとしているらしい。父親らしい男性が腰をかがめ、二人で枝へ戻していた。
海斗はその様子をしばらく眺めた。
写真には撮らなかった。
誰にも伝えなくても、見たものは残る。
そう思えた。
午後、海斗は大学時代からの友人である隆也と会った。
約束をしたのは一か月前だったが、互いの予定が合わず、今日まで延びていた。
駅近くの喫茶店へ入ると、隆也は先に来ていた。
「顔色、戻ったな」
海斗が向かい側へ座ると、隆也は開口一番に言った。
「前は、そんなにひどかった?」
「ひどいというか、薄かった」
「薄い?」
「顔から、人間らしいものが全部抜けてた」
隆也はメニューを海斗へ渡した。
「食べるだろ」
「さっき昼を食べた」
「本当に?」
「本当。定食を食べた」
「なら、合格」
西田と同じ言葉を使われ、海斗は笑った。
「みんな、僕を何だと思ってるんだ」
「食事を忘れる生き物」
「否定できない」
コーヒーを注文すると、隆也は椅子へ深く座り直した。
「仕事、どうなんだ」
「勤務は続けてる。遅い時間の会議からは外してもらった。夜間の障害対応も、しばらく担当しない」
「会社が認めたのか」
「医師の意見もあったから」
「お前が言えたのが意外だよ」
「僕もそう思う」
隆也は運ばれてきた水へ口をつけた。
「京都の人とは?」
海斗は一瞬、聞き返しそうになった。
だが、誰のことか分かっていた。
「京都の人じゃない。伊根に住んでる」
「細かいな」
「京都市内から、かなり遠いから」
「それで、その伊根の人とは?」
「メールをしてる」
「どのくらい?」
「数日に一度」
「健全だな」
「何が?」
「お前、付き合い始めは毎晩電話したがる方だっただろ」
海斗は眉を寄せた。
「いつの話だよ」
「真由と付き合い始めた頃」
思いがけず名前を出され、海斗の指が止まった。
真由と別れてから一年半が過ぎている。
最後の頃は、毎晩どころか、一週間連絡しないこともあった。電話が来ても仕事中だと切り、あとでかけ直すと言いながら忘れた。
「最初だけだったよ」
「そう。最初だけな」
隆也は責めるようには言わなかった。
「水月さんには、急がないようにしてる」
「水月さんっていうのか」
「そう」
「料理人?」
「店を一人でやってる」
「一人で?」
「六席だけの店だけど、仕入れも仕込みも接客も、ほとんど一人でやってる」
説明しながら、海斗は水月の働く姿を思い出した。
魚を焼き台へ載せる。
鍋の蓋を開ける。
器を温め、客の湯飲みへ茶を足す。
無駄なく動きながら、どこかに焦りを隠しているようには見えなかった。
だが、祭りの日に届いたメールには、一人で作るより形は不揃いだった、と書かれていた。
その言葉から、水月がこれまで何でも一人で揃えようとしてきたことが伝わった。
「その人に会うために、また行くのか」
隆也に尋ねられ、海斗はコーヒーカップへ手を伸ばした。
「来月、もう一度行ってもいいかと聞いた」
「来月って、今月だろ」
「そうだった」
「日程は?」
「まだ決めてない」
「有給を取ればいいじゃないか」
「簡単に言うなよ」
「簡単だろ。有給を申請して、宿を予約して、切符を買う」
「仕事の予定もある」
「その人の店にも予約がいるんじゃないのか」
「いる」
「なら、早く決めた方がいい」
隆也の言葉は正しかった。
海斗自身も分かっていた。
だが、予定表を開くと、空いている日より、仕事が入っている日の方が目についた。
顧客との会議。
社内の報告会。
月末までに仕上げる資料。
海斗が出席しなくても進むものはある。日程を動かせるものもある。
それでも、休暇を申請することには抵抗があった。
一度長く休み、今も仕事を減らしてもらっている。そのうえ、旅行のために休むと言えば、周囲にどう思われるだろう。
「前に会ったとき、お前、自分がいないと仕事が回らないって言ってたよな」
隆也が言った。
「言ったかもしれない」
「それで休んだら、どうなった?」
「回ってた」
「じゃあ、今度も回るだろ」
「誰かの負担は増える」
「お前が休まず倒れたときも、増えたんじゃないのか」
海斗は答えられなかった。
隆也はコーヒーを一口飲んだ。
「会いたいなら、会いに行けばいい。ただ、その人に人生を救ってもらおうとはするなよ」
「そんなつもりはない」
海斗は少し強く答えた。
隆也は目をそらさなかった。
「ないならいい」
「水月さんは、僕を救うために店をやってるわけじゃない。僕が食べられたのも、眠れたのも、あの人が僕を治したからじゃない」
「分かってるじゃないか」
「分かってるよ」
言い切ったあと、海斗は息を吐いた。
隆也が警戒する理由も理解できた。
疲れ切っていた海斗が、旅先で出会った女性へ急速に惹かれている。外から見れば、弱っている自分を受け止めてくれた相手へ依存しているように見えるだろう。
海斗自身、そうではないと断言できるだけの時間を重ねたわけではない。
ただ、水月からメールが来ない日にも、仕事へ行き、食事をし、眠るよう努めている。
水月へ弱さを伝えることはあっても、判断を委ねてはいない。
水月も、海斗の生活すべてを引き受けようとはしなかった。
「次に会ったら、何をするんだ」
隆也が尋ねた。
「食事をする」
「それだけ?」
「町を歩くかもしれない」
「告白は?」
海斗はカップを置いた。
「まだ考えてない」
「会いたいんだろ」
「会いたい。でも、会いたいからすぐに気持ちを伝える、ということでもないと思う」
「慎重だな」
「水月さんは、人に近づかれることを怖がってる」
「お前は?」
「僕も怖いよ」
隆也は少し驚いた顔をした。
海斗は自分の言葉を聞き直した。
怖い。
水月に近づくことではない。
近づいたあとで、自分がまた以前と同じことをするのが怖かった。
相手がそばにいることへ慣れ、仕事を理由に後回しにする。
連絡を返さなくなり、約束を守らなくなる。
失ってから、自分にも事情があったと言い訳する。
真由との関係で、自分がしたことだった。
「怖いなら、急がなくていいんじゃないか」
隆也は言った。
「でも、怖いことを理由に何もしなかったら、結局、会えないままだぞ」
喫茶店を出たあと、海斗は駅まで歩いた。
ポケットの中で携帯電話が震えた。
水月からではなく、西田からだった。
〈月曜日の打ち合わせ、開始が十時に変わりました。予定表を更新しています〉
仕事の連絡だった。
返信しようとして、今日は休日であることに気づいた。
緊急ではない。
月曜日に確認すればよい内容だった。
海斗は通知だけを読み、アプリを閉じた。
その下に、個人用メールの通知が一件あった。
差出人は水月だった。
件名は、〈少し忙しくなります〉。
〈高瀬さん
観光協会から、来週の視察会で出す弁当を頼まれました。
二十四人分です。
店の営業もあるため、数日は返事が遅くなると思います。
連絡がなくても、何かあったわけではありません。
寒くなりましたので、体調に気をつけてください。〉
海斗は駅前で立ち止まった。
二十四人分。
六席の店を一人で切り盛りする水月にとって、少なくない数だった。
祭りの百五十食は、源治や澄江たちと分担していた。
今度の弁当は誰が手伝うのだろう。
海斗は返信欄を開いた。
〈分かりました。返事は気にしないでください。
二十四人分を、一人で作るのですか。〉
送信しようとして、指を止めた。
返事が遅くなると伝えている相手へ、質問を返せば、結局は返答を求めることになる。
質問を削除した。
〈分かりました。
返事は気にしないでください。
こちらも冷え込んできました。水月さんも、身体に気をつけてください。〉
送信する。
その日の夜、海斗は水月から届いた祭りの写真を開いた。
中央にいる水月は、両側の人と肩を寄せている。
一人ではなかった。
今回も、必要なら誰かへ頼るだろう。
そう思おうとした。
だが、写真の中で笑う水月の姿と、厨房で無言のまま動く姿が、交互に浮かんだ。
水月は、人へ任せることを覚え始めた。
だからといって、いつでも頼れるわけではない。
それは海斗自身も同じだった。
数日、メールは来なかった。
海斗は約束どおり、催促しなかった。
朝、ポトスの土へ指を入れる。
まだ湿っている。
水はやらなかった。
会社へ行き、仕事をする。
昼には、西田と佐伯と三人で定食屋へ入った。以前なら、注文してから料理が来るまでの時間にも携帯電話で仕事の連絡を確認していた。
その日は鞄へ入れたままにした。
「海斗さん、何かありました?」
西田が不思議そうに尋ねた。
「何が?」
「携帯を見ていないから」
「そんなに珍しい?」
「珍しいです」
佐伯が運ばれてきた水を配りながら笑った。
「前は片手で食べながら、もう片方で返信してましたからね」
海斗は返す言葉がなかった。
注文した鯖の塩焼き定食が運ばれてくる。
皮に焦げ目がつき、大根おろしが添えられていた。
一口食べる。
水月の料理とは違う。
魚の焼き方も、塩の加減も違った。
だが、比べて優劣をつける気にはならなかった。
目の前の定食は温かく、自分の昼食として十分においしかった。
「年末の休み、どうします?」
西田が尋ねた。
「まだ決めてない」
「取るなら、早めに予定表へ入れてください。全員が直前に言い出すと調整できないので」
「そうだね」
「どこか行くんですか」
海斗は箸を止めた。
「京都の北へ」
「前に行ったところ?」
「うん」
西田は何かを察したように眉を上げたが、何も尋ねなかった。
「何日くらいですか」
「二泊か三泊」
「なら、申請してください。月末の報告資料は私と佐伯さんで分けられます」
「まだ日程が決まってない」
「決めてから言うと、また遅くなります」
「僕が抜けても大丈夫?」
「大丈夫です」
西田は即答した。
「ただし、引き継ぎをせずに急に消えられたら困ります」
「それはしない」
「では、大丈夫です」
海斗は味噌汁を飲んだ。
自分がいなければ困る、と言われたかった時期があった。
必要とされることと、休めないことを、同じ意味にしていた。
西田の言葉は違う。
いなくても進められるよう、事前に知らせてほしい。
海斗の仕事を軽く見ているわけではない。誰か一人が欠けても進められることを、チームの強さとして考えている。
「今日の午後、黒田部長に相談するよ」
海斗が言うと、西田はうなずいた。
「早い方がいいです」
午後、海斗は黒田の予定表を開いた。
面談を入れようとして、手を止める。
月末には顧客向けの報告がある。海斗は資料の取りまとめを担当していた。
二泊三日で伊根へ行くなら、金曜日か月曜日を休む必要がある。
予定を調整し、引き継ぎを書き出す。
休暇申請の画面まで進んだところで、海斗は閉じた。
まだ、日を決めていない。
水月の店の営業日も分からない。
まず、水月へ尋ねなければならない。
そう考えたが、弁当の準備で忙しいと聞いている。今は連絡を控えるべきだった。
海斗は予定表へ仮の印だけをつけた。
その夜も、翌日も、水月からメールは来なかった。
視察会の前日になった。
仕事を終えた海斗は、七時過ぎに会社を出た。
空には雲があり、月は見えない。駅へ向かう人の流れに入りながら、携帯電話を取り出す。
受信箱に新着はない。
海斗は画面を閉じた。
二十四人分の弁当を作る前夜だ。
今頃、仕込みをしているのだろう。
魚を下ろし、野菜を切り、出汁を取る。弁当箱へ詰める料理なら、冷めても味が崩れないよう調整する必要がある。
詳しいことは分からない。
ただ、水月が眠っていないのではないかという不安があった。
メールを送るべきか迷った。
応援しています。
無理をしないでください。
どちらも、水月の手を止めるだけの言葉に思えた。
海斗は何も送らず、電車へ乗った。
翌日の午後五時十二分。
仕事中の海斗の携帯電話へ、個人用メールの通知が届いた。
差出人を見て、胸の力が抜けた。
水月だった。
すぐに開きたかったが、海斗は会議の途中だった。
机の下へ携帯電話を伏せ、目の前の説明へ意識を戻す。
会議が終わったのは、午後六時前だった。
席へ戻らず、休憩スペースへ向かう。
窓際の椅子へ座り、メールを開いた。
〈高瀬さん
今日、弁当を二十四人分、無事に渡しました。
予定していた時間には間に合いました。
ただ、昨日からほとんど眠っていません。
途中で手が動かなくなり、澄江さんと佳代さんに来てもらいました。
最後の盛りつけは、二人に任せました。
私は大丈夫です。
少し休んでから、片づけます。〉
最後の一文まで読んだ瞬間、海斗の胸に熱いものが込み上げた。
私は大丈夫です。
自分が何度も使ってきた言葉だった。
机につかまって立っていた夜にも、海斗は西田へ「大丈夫」と答えた。
倒れそうになっていることを認めず、助けを断ろうとした。
水月も同じ言葉を使っている。
昨日から、ほとんど眠っていない。
手が動かなくなった。
それでも、少し休んでから片づけるという。
海斗は返信を打った。
〈片づけは明日にしてください。
今すぐ休んでください。
眠れていない状態で刃物や火を使うのは危険です。
一人で二十四人分を引き受けるべきではなかったと思います。〉
一気に書き、送信ボタンを押した。
送った直後、強すぎたと気づいた。
だが、取り消せなかった。
数分後、水月から返信が届いた。
〈ご心配をおかけして、すみません。
片づけは終わっています。
今から休みます。〉
短い文章だった。
海斗は画面を見つめた。
水月が何を感じているのか、文面からは分からない。
怒っているのかもしれない。
一人で引き受けるべきではなかった。
海斗はそう書いた。
事情も知らずに。
観光協会との関係や、店の経営、水月が引き受けた理由を何も聞かずに、間違いだったと決めつけた。
心配したのは本当だった。
だが、自分が不安になったために、水月へ命令するような文章を送ってしまった。
海斗はすぐに返信しようとした。
〈言い方が強くなって、すみません。〉
そこまで入力する。
今から休むと書いている相手へ、さらにメールを送れば、また返事を求めることになる。
海斗は下書きへ保存し、携帯電話を閉じた。
席へ戻ると、西田が海斗の顔を見た。
「何かありましたか」
「知り合いが、昨日から眠らずに仕事をしていたみたいで」
「大丈夫なんですか」
「手伝ってもらって、終わったらしい」
「それなら、今は休んでもらうしかないですね」
「心配になって、きついメールを送った」
西田はキーボードから手を離した。
「どんなメールですか」
海斗は文面をそのまま見せることはしなかった。
「今すぐ休んでほしいとか、一人で引き受けるべきじゃなかったとか」
「相手は部下ですか」
「違う」
「家族?」
「違う」
「では、決めるのは相手ですね」
「分かってる」
答えながら、胸が痛んだ。
分かっていたつもりだった。
水月を救う役割を引き受けない。
水月にも、海斗の人生を救わせない。
そう考えてきた。
だが、水月が倒れそうだと知った途端、自分の正しさを押しつけた。
「謝った方がいいかな」
「謝るなら、何について謝るかを考えた方がいいです」
西田は言った。
「心配したことまで謝ったら、相手も困ると思います」
「何について」
「言い方なのか、決めつけたことなのか、返信を急かしたことなのか。私はメールを見ていないので分かりませんけど」
「一人で引き受けるべきじゃなかった、と書いた」
「事情を知ってるんですか」
「知らない」
「なら、そこじゃないですか」
海斗は自分の席へ座った。
仕事へ戻ろうとしたが、画面の文字が頭へ入ってこない。
以前なら、そのまま残業して遅れを取り戻そうとしただろう。
海斗は作業を保存した。
明日の予定表へ、続きの時間を入れる。
午後七時、会社を出た。
帰宅後、ポトスの鉢へ指を入れた。
土は乾いていた。
流し台で水差しへ水をくみ、鉢底から少し流れ出るまで注ぐ。
葉の表面に落ちた水滴を、指で拭った。
世話をすることと、相手の動きを自分で決めることは違う。
植物は言葉を返さない。
だが、水月は、自分で何を引き受け、誰に助けを求めるかを決められる人だった。
海斗はパソコンを開き、昼に保存した下書きを書き直した。
〈水月さん
先ほどは、一方的な言い方をして、すみませんでした。
眠っていないことや、手が動かなくなったと読んで、怖くなりました。
ただ、事情を知らないまま、「引き受けるべきではなかった」と決めつけたのは間違いでした。
心配していることを伝えるのと、水月さんの選択へ口を出すことを、混同しました。
返事は必要ありません。
今夜は休めていることを願っています。〉
何度も読み返した。
言い訳になっていないか。
許してほしいと迫っていないか。
完全には分からなかった。
それでも、送らないままにする方がよくないと思った。
午後八時四十八分。
送信する。
その夜、水月から返事はなかった。
翌朝も、昼になっても届かなかった。
海斗は連絡しなかった。
仕事へ行き、昼食を取り、予定していた作業を進めた。
受信箱を開きたい衝動に駆られるたび、別の画面へ戻った。
返事を待つことと、返事を催促することは違う。
自分に言い聞かせた。
一方、水月は、店の二階で昼過ぎまで眠っていた。
目を覚ましたとき、身体の節々が重かった。
布団の中で腕を動かすと、右肩に鈍い痛みがあった。長時間、包丁を握り、弁当箱を持ち上げたためだろう。
階下から、人の声がする。
水月は上体を起こした。
時計は午後一時を過ぎている。
慌てて立ち上がり、階段を下りる。
店内では、澄江と佳代が片づけをしていた。
「起きたんか」
澄江が振り向いた。
「どうして店にいるんですか」
「昨日の洗いもん、残っとったからや」
「片づけは終わったと思っていました」
「作業台と床はな。弁当箱を運んだ籠やら、布巾やら、裏に山ほどあったで」
水月は裏口へ向かおうとした。
「座っとき」
佳代に腕をつかまれた。
「もう終わりますから」
「自分の店です」
「昨日も同じこと言うて、立てんようになったでしょう」
佳代の言葉に、水月は口を閉じた。
弁当を詰めている途中、手から箸が落ちた。
拾おうとしても指が曲がらず、膝から力が抜けた。
澄江が椅子を持ってきて、水月を座らせた。
水月は大丈夫だと言った。
あと五つで終わる。
盛りつけの位置は決まっている。
自分がやった方が早い。
そう言い続けた。
けれど、澄江は水月から前掛けを外し、佳代が残りの弁当を詰めた。
二人の作った弁当は、水月が詰めたものと少し違った。
人参の向きが揃っておらず、魚の位置にもわずかな差があった。
それでも、約束の時間には間に合った。
観光協会の宮下は、弁当を一つずつ確認し、礼を言って持っていった。
苦情の連絡は来ていない。
「お茶、入れます」
水月が言うと、澄江が眉を上げた。
「座れ言うとるやろ」
「お二人に働いていただいて、何もしないわけにはいきません」
「またそれや」
澄江は布巾を流しへ置いた。
「何かしてもらったら、すぐ返さんとあかんと思っとる」
「そういう意味ではありません」
「同じや。借りを作りたないんやろ」
水月は反論できなかった。
澄江は戸棚から湯飲みを三つ出した。
「茶くらい、うちが入れる」
「場所が分かるんですか」
「何年、この店へ野菜を持ってきとると思うとるん」
澄江はやかんへ水を入れた。
佳代がカウンターの椅子を引き、水月へ座るよう促す。
「今回の弁当、どうして一人でやろうと思ったんですか」
佳代に尋ねられ、水月は視線を落とした。
「二十四人分なら、できると思いました」
「祭りでは百五十食出したから?」
「それとは違います」
「何が違うんですか」
「祭りは、皆さんが最初から手伝う前提でした。今回は、静波へ依頼された仕事です」
「だから、自分一人で?」
「私の店ですから」
佳代はしばらく黙っていた。
「水月さん、この町で商売を始めたとき、いろいろ言う人がいたでしょう」
水月の肩がわずかに固くなった。
京都から来た若い女。
一人で店を続けられるのか。
地元の魚を、本当に扱えるのか。
観光客向けに高い料理を売るだけではないのか。
直接言われたこともあれば、人づてに聞いたこともある。
そのたびに、水月は料理で示そうとした。
魚を無駄にしない。
仕入れ代を値切らない。
地元の客にも、観光客にも、同じ料理を出す。
誰の力も借りず、店を続ける。
「今回の視察会、町の外から人が来ると聞いていたから、失敗できないと思ったんです」
水月は答えた。
「静波へ頼んでよかったと思ってもらいたかった」
「誰に?」
佳代の問いに、水月は答えられなかった。
宮下か。
観光協会か。
弁当を食べる視察客か。
町の人たちか。
それとも、過去に水月を認めなかった料理長や長谷川へ向けて、自分は一人でも店を続けられると証明したかったのか。
「誰にでしょうね」
水月は小さく言った。
澄江が湯飲みを置く。
「水月ちゃん。あんたが一人で作ろうが、三人で作ろうが、静波の弁当や」
「でも、最後に詰めたのは佳代さんです」
「献立を決めたんは誰や。魚を選んだんは。出汁を取ったんは」
「私です」
「なら、あんたの仕事や。その仕事に、うちらが手を貸した。それだけやろ」
湯飲みから湯気が上がっていた。
水月は両手で包み込んだ。
温かさが、冷えた指へ移ってくる。
「昨日、高瀬さんにも言われました」
「何を?」
「一人で引き受けるべきではなかったと」
澄江と佳代が顔を見合わせた。
「それで?」
佳代が尋ねる。
「腹が立ちました」
水月は正直に答えた。
「何も知らないのに、決めつけられたと思いました。私は助けてほしいと頼んでいません」
「でも、うちらは呼ばれたで」
澄江が言った。
「それは、手が動かなくなったからです」
「なら、助けが要ったんやろ」
「そうですが……」
「東京の兄ちゃん、心配したんやないか」
「心配すれば、何を言ってもよいわけではありません」
「そらそうや」
澄江はあっさり認めた。
「腹立ったなら、腹立ったと言えばええ」
「言う必要はありません」
「なんで」
「距離を置けば済みます」
答えた瞬間、水月は自分の言葉に冷たさを感じた。
気に入らないことを言われた。
だから離れる。
もう二度と、内側へ入れない。
それは、これまで水月が自分を守るために使ってきた方法だった。
料亭を辞めたあと、小川奈緒から何度か連絡があった。
水月は一度も返さなかった。
奈緒は盗用を止めなかった。
その場で声を上げず、あとから謝った。
許せなかった。
今でも、許すべきだったとは思わない。
だが、海斗は長谷川ではない。
水月の言葉を盗んだわけでも、自分の利益のために沈黙したわけでもない。
不安から、言い方を誤った。
それだけかもしれない。
「その人、謝ってきたんですか」
佳代が尋ねた。
水月は、前夜に届いたメールを思い出した。
一方的な言い方をして、すみませんでした。
事情を知らないまま、決めつけたのは間違いでした。
「謝られました」
「なら、返事すればええやない」
「まだ何と返せばよいか分かりません」
澄江は茶をすすった。
「分からんなら、分からんと書いたらええ」
「それだけですか」
「それ以上、何が要るん」
水月は湯飲みの中を見た。
茶の表面に、自分の顔がぼんやり映っている。
少し動くだけで形が崩れ、すぐに戻った。
夕方、二人が帰ったあと、水月は店のパソコンを開いた。
海斗のメールを、もう一度読む。
最初に読んだときは、「引き受けるべきではなかった」という言葉だけが残った。
責められたと思った。
選択を否定されたと感じた。
だが、そのあとのメールには、海斗自身が怖くなったと書かれている。
眠っていないこと。
手が動かなくなったこと。
その二つを読み、海斗は自分が倒れかけた夜を思い出したのかもしれない。
水月は返信欄を開いた。
〈高瀬さん
昨日のメールを読んだとき、腹が立ちました。
事情を知らないまま、私の仕事のやり方を決められたように感じたからです。
心配されることにも、慣れていません。
心配されると、相手に弱い部分を握られたように感じることがあります。
そのため、返事をせず、このまま連絡をやめようかとも考えました。〉
そこまで書き、水月は手を止めた。
連絡をやめようとした。
それを知らせれば、海斗を不安にさせる。
だが、書かなければ、自分が何に傷ついたのか伝わらない。
水月は続きを打った。
〈でも、高瀬さんの二通目のメールを読み、決めつけたことを謝ってくださったのだと分かりました。
私も、自分でできることと、一人でしなければならないことを、同じにしていたようです。
今回の仕事を引き受けたのは、町の人たちに、静波へ頼んでよかったと思ってもらいたかったからです。
誰かの助けを借りたら、自分の仕事ではなくなるような気がしていました。
澄江さんから、三人で作っても静波の弁当だと言われました。
今は、その通りだと思います。
ただ、次に同じことがあっても、すぐに人へ頼れるかは分かりません。
昨日の言い方には腹が立ちました。
心配してくださったことには、感謝しています。〉
最後の二行を読み返す。
怒りと感謝を、同時に書いてよいのか迷った。
どちらか一つへ整理した方が、相手には分かりやすい。
だが、水月の中には両方があった。
海斗の言葉に傷ついた。
海斗が自分の状態を案じたことは、嬉しかった。
片方を消せば、嘘になる。
水月は送信した。
返事は十分ほどで届いた。
〈水月さん
正直に書いてくれて、ありがとうございます。
昨日の言い方については、もう一度謝ります。
すみませんでした。
心配したことを受け取ってもらえたのは、嬉しいです。
連絡をやめようと考えたことも、書いてくれてありがとうございます。
読んだときは怖くなりましたが、何も言われないまま連絡が途絶えるより、ずっとよかったです。
僕も、誰かが無理をしていると、自分が止めなければならないと思ってしまうことがあります。
助けたいというより、何もしなかった自分を責めたくないのかもしれません。
水月さんのためだと思いながら、自分を安心させようとしていました。
次に同じことがあったら、まず何が必要か尋ねます。
今、身体の具合はどうですか。
答えたくなければ、返事は不要です。〉
水月は最後の質問を読んだ。
昨日から眠っていないと伝えれば、海斗は休めと言う。
それが嫌だった。
だから、私は大丈夫です、と書いた。
大丈夫という言葉で、会話を終わらせようとした。
海斗も、以前は同じ言葉を使っていたと聞いた。
水月は返信した。
〈肩が少し痛みます。
食欲はあります。
今日は昼過ぎまで眠りました。
澄江さんと佳代さんが、残っていた片づけをしてくれました。
今夜の営業は休みます。〉
事実だけを書いた。
心配させないために、よく見せることもしなかった。
弱く見せるために、大げさにすることもしない。
海斗から届いた返事は短かった。
〈教えてくれて、ありがとうございます。
今夜は、僕も早く休みます。〉
命令も、助言もなかった。
水月は、その一文に安堵した。
数日後、海斗のもとへ、水月から写真が届いた。
弁当の写真ではなかった。
店の前の海だった。
晴れた朝で、舟屋の影が水面へ映っている。
風が弱いため、家々の形はほとんど崩れず、水の中にもう一つ町があるように見えた。
〈今朝は、水面に家がよく映っています。
弁当を作った日のことを考えていました。
高瀬さんが仕事を引き受け続けた話を聞いたとき、私は、自分とは違うと思っていました。
私は、誰かに必要とされたくて店をしているわけではない、と。
でも、今回、静波へ頼んでよかったと思ってもらうために、一人でやろうとしました。
少し似ているのかもしれません。〉
海斗は写真を拡大した。
水面に映った家々は、本物と同じ形をしているようで、細部は違っていた。
軒の線がわずかに曲がり、窓の形が揺れている。
似ていても、同じではない。
海斗は返信を書いた。
〈僕も、水月さんは自分と違うと思っていました。
自分の限界を知り、できないことを断れる人だと。
今も、その点では僕よりずっとできていると思います。
ただ、できることを増やし続けなければ、自分の場所を守れないと思っていたところは、似ているのかもしれません。
でも、水月さんと僕が同じだとは思いません。
傷ついた理由も、守ろうとしているものも違います。
似ているところがあるから、全部分かると思わないようにします。〉
送信したあと、海斗は窓の外を見た。
東京の夜には、海はない。
向かいのビルの窓へ、自分の部屋の照明が映っていた。
机の上には、ノートパソコンと、飲み終えた湯飲みがある。
窓際の棚にはポトスが置かれ、葉が室内の光を受けている。
以前の部屋にはなかった景色だった。
その夜、水月から返信が届いた。
〈全部分からなくても、構いません。
分からないときに、尋ねてもらえればよいです。
私も、高瀬さんのことを、自分と同じだと決めつけないようにします。〉
海斗はその文章を読み、肩の力を抜いた。
分からないことを、分からないままにしない。
だが、すぐに答えを出そうともしない。
それは仕事で覚えた問題解決とは違っていた。
仕事では、原因を特定し、修正し、再発を防ぐ。
人と人の間では、一つの言葉に原因を決められないことがある。
同じ失敗でも、その日の疲れや、過去の記憶や、相手との距離によって意味が変わる。
解決したと思ったあとで、また傷つけることもある。
それでも、やり直すための言葉を交わせる。
海斗は受信箱を閉じた。
予定表を開く。
十二月の中旬に、三日間の空きを見つけた。
金曜日だけ休暇を取れば、土曜日と日曜日を合わせて二泊三日にできる。
月末の報告会より前で、顧客との会議も入っていない。
海斗は休暇申請の画面を開いた。
理由の欄には、〈私用〉と入力した。
申請ボタンの上で、指が止まる。
西田の顔が浮かんだ。
黒田の反応も気になった。
一日休めば、誰かが海斗の仕事を引き受ける。
だが、引き継ぐことと、押しつけることは違う。
事前に伝え、必要な資料を揃えることはできる。
水月が作った弁当は、澄江と佳代が最後を手伝っても、水月の仕事だった。
海斗の担当も、誰かへ一時的に預けたからといって、価値がなくなるわけではない。
申請ボタンを押そうとしたとき、携帯電話にメールが届いた。
水月からだった。
〈高瀬さん
店の十二月の営業日が決まりました。
十四日と十五日は、夜も開けます。
その翌週は、仕入れの都合で休む可能性があります。
まだ日程を決めていなければ、参考にしてください。〉
海斗は予定表を確認した。
十四日は土曜日だった。
前日の金曜日を休めば、十三日の昼に東京を出られる。
指先がわずかに震えた。
以前、期限を約束したときの震えとは違う。
できるか分からない仕事を引き受けたときではない。
自分が望んでいる予定を、自分のために選ぶ緊張だった。
海斗は休暇申請のボタンを押した。
画面に、〈申請しました〉と表示される。
続けて、水月へ返信を打つ。
〈十三日から十五日まで、休みを申請しました。
許可が出たら、宿を予約します。〉
すぐに返事が届いた。
〈分かりました。
十四日の夜は、一席空けておきます。〉
海斗は、その文章を何度も読んだ。
一席空けておく。
たったそれだけの言葉だった。
特別な約束でも、気持ちを確かめる言葉でもない。
それでも、伊根の小さな店に、自分が座る場所が用意される。
誰かの都合で与えられた場所ではなく、海斗が行きたいと伝え、水月が待つと答えた場所だった。
窓際のポトスを見る。
鉢の土はまだ湿っている。
今日は水をやらなくてよい。
海斗は携帯電話を机へ置き、台所に立った。
冷蔵庫には、豆腐と長葱と卵がある。
鍋へ水を入れ、火にかける。
味噌は少しずつ溶く。
もう一口飲みたいと思うところで、止める。
沸騰させないよう火を弱めながら、海斗は十三日までの日数を数えそうになった。
途中でやめた。
毎日を、待つためだけの日にしたくなかった。
明日には明日の仕事があり、食事があり、眠る時間がある。
それを一つずつ終えた先に、伊根へ向かう朝が来る。
鍋から湯気が上がる。
海斗は味見をした。
少し薄い。
味噌をもう少し足そうとして、手を止める。
二口目を飲む。
最初より、出汁の味が分かった。
海斗は味噌を足さず、火を消した。
窓の外には、向かいの建物の灯りが並んでいた。
ガラスへ映った自分の姿は、数か月前と同じ顔をしている。
急に別の人間になったわけではない。
仕事を断れない日もある。
不安から、誰かへ強い言葉を向けることもある。
休むことに罪悪感を覚え、予定表の前で指が止まる。
それでも、間違えたあとで謝ることができた。
相手が傷ついた理由を聞くことができた。
自分が怖かったことも、言葉にできた。
海斗は味噌汁を椀へ注いだ。
机へ運び、椅子へ座る。
水月から届いた水面の写真を、もう一度開いた。
水の中に映る家々は、実際の町より輪郭が柔らかい。
よく似ている。
だが、同じではない。
風が吹けば形を変え、舟が通れば大きく崩れる。
とはいえ、水面が落ち着けば、また別の姿を映し始める。
海斗は写真を閉じた。
今度、実際の景色を見たとき、水月に尋ねたいことがあった。
弁当を渡したあと、どんな気持ちだったのか。
連絡をやめようと考えた夜、なぜ最後には返事をくれたのか。
そして、自分が伊根へ戻ることを、彼女は本当に嬉しいと思っているのか。
メールでは聞けなかった。
文章にすれば、水月は時間をかけて、整った答えを返すだろう。
今度は、同じ場所で顔を見て聞きたかった。
言葉に詰まる時間も、目をそらす仕草も、返事をする前の呼吸も含めて受け取りたかった。
海斗は味噌汁を飲んだ。
薄いままでも、物足りなくはなかった。
十四日の夜、静波のカウンターには一席が用意されている。
そこへ座る自分を思い浮かべる。
厨房には水月が立っている。
前と同じ店。
前と同じ六席。
けれど、二人とも、最初に出会ったときと同じではなかった。
海斗は空になった椀を流しへ運んだ。
明日、休暇の申請が承認されるとは限らない。
もし難しいと言われれば、理由を聞き、別の日を提案する。
最初から諦めることはしない。
パソコンを開くと、仕事用の予定表に新しい通知が表示されていた。
黒田が、海斗の休暇申請を確認したらしい。
承認か、差し戻しか。
海斗は通知を押した。
画面には、短い文字が表示された。
〈承認済み〉
海斗は椅子へ座ったまま、しばらく動かなかった。
それから水月へ、新しいメールを書いた。
〈休暇が取れました。
十三日の午後、伊根へ着く予定です。〉
送信して数分後、返信が届いた。
〈潮路は、まだ部屋が空いているそうです。
美代さんには、私からも伝えておきました。〉
海斗は思わず笑った。
先に宿を予約するよう言ったのは水月だった。
その水月が、すでに美代へ確認している。
〈ありがとうございます。
明日、自分で予約します。〉
そう返すと、水月から、もう一通届いた。
〈はい。
お気をつけてお越しください。
お待ちしています。〉
海斗は最後の一文を読み、携帯電話を胸元へ置いた。
数か月前、初めて伊根へ向かったとき、彼は行き先さえ決めていなかった。
誰にも待たれていなかった。
自分でも、どこへ着きたいのか分からなかった。
今は違う。
東京から遠く離れた海辺の町に、自分のために空けられた一席がある。
海斗は窓を開けた。
冬の空気が部屋へ入り、ポトスの葉が小さく揺れた。
遠い潮の匂いはしなかった。
聞こえるのは、道路を走る車と、隣の建物の室外機の音だけだった。
それでも海斗には、暗い水面に舟屋の灯りが映る景色が、はっきり見えていた。




