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『静波の寄せる場所』  作者: 久遠 睦


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第8章 距離を越える言葉

新着メールの件名は、〈無事に戻りました〉だった。

水月は厨房の片づけを終えたばかりだった。

洗い終えた器は水切り台に伏せ、出汁を取った鍋も乾いた布で拭いてある。床には一度水を流し、魚の脂が残らないよう、隅までたわしをかけた。

店内に客の姿はなく、窓の外には、夜の海が広がっている。

二日前、この場所で海斗にメールアドレスを渡した。

催促はしないこと。

毎日送らなくてよいこと。

返事ができない日もあること。

嫌になったら、やり取りを終わらせること。

言葉にしてしまえば簡単な条件だった。それでも、紙へ書くまでに何度も迷った。

渡したあとも、自分の判断が正しかったのか確信は持てなかった。

店の住所や予約用の電話番号は、誰に知られても困らない。ただ、紙に書いたのは個人用のメールアドレスだった。

静波の店主としてではなく、水月個人へ届く連絡先だった。

海斗が東京へ戻った日の夜、水月は一度パソコンを開いた。

受信箱に新しいメールはなかった。

翌朝、仕入れから戻ったあとにも確認した。昼の営業が終わったときにも、画面を開いた。

何も届いていなかった。

自分から毎日でなくてよいと言ったのだから、待つのはおかしい。

海斗は東京へ戻ったばかりで、仕事もある。疲れて眠っているのかもしれない。あるいは、伊根を離れたことで気持ちが変わったのかもしれない。

そのどちらでも、自分には何も言う権利がない。

そう考えてパソコンを閉じた。

だが、夜になり、新着を知らせる小さな音が鳴った瞬間、水月は濡れた手を前掛けで拭きながら、厨房から客席へ急いでいた。

椅子へ座り、件名を押す。

画面に文章が表示された。

〈水月さん

昨日の夕方、東京へ戻りました。

すぐに連絡しようか迷いましたが、急いで送ると、返事を求めているように思われるかもしれないと考え、今日まで待ちました。

紙を渡してくれて、ありがとうございました。

帰りのバスでは、何度もポケットを確かめました。なくしたら困ると思って、天橋立駅に着いてから財布へ移しました。

東京へ戻ると、人の歩く速さに驚きました。

前から同じ速さだったはずなのに、自分だけが急に遅くなったような感覚があります。

明日から仕事です。

無理をしない、と書けば簡単ですが、今はまだ、その加減がよく分かりません。

ただ、以前のように何でも引き受けることはしないつもりです。

返事は急がなくて大丈夫です。

高瀬海斗〉

水月は最後まで読み、もう一度、最初へ戻った。

文章は思っていたより長かった。

もっと短く、無事に着きました、ありがとうございました、とだけ書かれているものを想像していた。

何度もポケットを確かめたという一文を読んだとき、バスの窓際で座っている海斗の姿が浮かんだ。

紙切れ一枚をなくさないように財布へ入れる姿まで、ありありと想像できた。

水月は返信のボタンを押した。

白い画面に、カーソルが点滅する。

〈高瀬さん

ご連絡ありがとうございます。

無事に戻られたとのことで、安心しました。〉

そこまで入力し、手を止めた。

安心しました。

嘘ではない。

だが、その言葉を送れば、待っていたことまで知られてしまう気がした。

水月は最後の一文を消した。

〈無事に戻られたとのことで、何よりです。〉

書き換えて読み返す。

今度は、店から客へ送る定型文のように見えた。

これも消した。

最初から書き直す。

〈高瀬さん

ご連絡ありがとうございます。

長い移動、お疲れさまでした。

東京は、こちらよりずっと人が多いのでしょうね。

お仕事は、無理をされませんように。〉

「無理をしない加減が分からない」と書いてきた相手に、「無理をしないように」と返しても役には立たない。

水月は、最後の行を選択して削除した。

時計を見る。

午後十時四十三分。

返信を急がなくてよいと書かれている。今夜送らなくてもいい。

画面を閉じようとしたとき、窓の外で小さな水音がした。

係留されている舟が岸へ触れたらしい。

水月は顔を上げた。

今日は朝から北寄りの風があり、漁に出た舟は少なかった。源治が持ってきたのは、数の少ない鰆と、小ぶりな烏賊だった。

海斗が店にいたなら、献立が変わった理由を尋ねただろう。

魚の名前も、獲れた場所も、知らないままにしない人だった。

水月は再びキーボードへ手を置いた。

〈高瀬さん

ご連絡ありがとうございます。

無事に戻られたようで、安心しました。

今日は風が強く、漁に出た舟が少なかったので、店では鰆を西京焼きにしました。付け合わせは、澄江さんが持ってきてくれた小蕪です。

海は夕方になっても落ち着きませんでした。

東京の人の速さに、すぐ合わせなくてもよいのではないでしょうか。

水月〉

書き終えてから、最後の一文を見つめた。

自分が言えることではないと思った。

水月も、周囲の速さについていこうとして、京都の料亭で自分を追い詰めた。誰かに遅れまいとすることと、目の前の料理へ集中することの違いに、気づけなかった。

だからこそ、書いてもよいのかもしれない。

送信ボタンを押す。

画面の上から文章が消え、送信済みの表示へ移った。

取り戻すことはできない。

胸の奥が落ち着かず、水月は立ち上がった。確認する必要のない戸締まりをもう一度確かめ、厨房の火元を見て回った。

その途中で、新着を知らせる音が鳴った。

早すぎる。

水月は足を止めた。

すぐに返事をしないよう伝えたのは、自分だった。海斗にも同じように求めるべきではない。

そう思いながら、身体は客席へ戻っていた。

〈安心してもらえてよかったです。

鰆の西京焼きと聞いたら、急にお腹が空きました。今日は駅前で蕎麦を食べました。以前なら、食事を抜いていた時間です。

東京の速さに、すぐ合わせなくてもよい。

その言葉を覚えておきます。

おやすみなさい。〉

水月は文面を読み、ゆっくり息を吐いた。

返信はしなかった。

ただ、パソコンを閉じる前に、受信したメールを保存するための新しいフォルダを作った。

名前を入力する欄で少し迷い、〈高瀬さん〉とだけ打った。

翌朝、水月はいつもより早く目を覚ました。

雨戸を開けると、空は薄い灰色だった。風は夜のうちに弱まり、湾内の水面には細かな皺だけが残っている。

厨房へ降り、昆布を水から引き上げる。

前夜のメールについて考えないよう、包丁を研ぎ、器を並べ、米を研いだ。

それでも、鰆へ味噌を塗ると、海斗の「お腹が空きました」という言葉を思い出した。

以前なら食事を抜いていた時間に、蕎麦を食べた。

それは小さな出来事だった。

仕事を辞めたわけでも、疲れが消えたわけでもない。ただ、駅前の店へ入り、一食分の蕎麦を食べただけだ。

けれど水月には、その一食が軽く思えなかった。

午前七時を過ぎた頃、裏口が開き、源治が発泡スチロールの箱を抱えて入ってきた。

「今日は鯵や。昨日よりはましやけど、大漁いうほどでもない」

「十分です。八尾あれば足ります」

「八尾しか使わんのか」

「予約は六名ですから」

「昼に飛び込みが来るかもしれんで」

「そのときは、あるもので作ります」

水月が箱の蓋を開けると、銀色の鯵が氷の上に並んでいた。まだ身体に張りがあり、黒い目が澄んでいる。

源治は水月の横顔を見た。

「なんや、機嫌ええな」

「普通です」

「そうか。なら、いつもより普通や」

「意味が分かりません」

「分からんでええ」

源治は笑い、空になった前日の箱を拾い上げた。

帰りかけたところで振り向く。

「東京の兄ちゃん、無事に帰ったか」

水月の手が一瞬止まった。

「帰られたそうです」

「連絡あったんか」

「はい」

「そうか」

源治はそれ以上何も言わなかった。

だが、口元に残った笑いを隠そうともしなかった。

「鯵、三尾は刺身がええ。脂がある」

「見れば分かります」

「そら失礼しました」

源治が裏口を出ていく。

水月は鯵を一尾ずつ持ち上げ、状態を確かめた。

三尾どころか、五尾は刺身にできる。

それを伝えようと戸口へ向かったが、源治の姿はもう路地の向こうへ消えていた。

海斗から次のメールが届いたのは、三日後だった。

水月はその間、一度も自分から送らなかった。

最初に決めた距離を崩したくなかったからでもあり、何を書けばよいのか分からなかったからでもある。

店では毎日、何かが起きていた。

源治が立派な鯵を持ってきた。

澄江の里芋に、小さな傷がついていた。

観光客の子どもが初めて食べた岩牡蠣に顔をしかめ、しばらくしてから、もう一つ食べたいと言った。

書こうと思えば、いくらでも書けた。

だが、どれも海斗へ知らせるほどのことではないように思えた。

三日目の夜、閉店後に受信箱を開くと、〈断る練習〉という件名が届いていた。

〈水月さん

今日、取引先から、来週までに追加機能を入れられないかと相談されました。

以前の僕なら、チームへ確認する前に「何とかします」と答えていたと思います。

今日は、その場では引き受けませんでした。

持ち帰って確認すると伝え、必要な日数を調べてから、来週にはできないと返しました。

代わりに、範囲を半分にすれば再来週に出せると提案しました。

先方は少し不満そうでしたが、最終的には納得してくれました。

断ったあと、しばらく手が震えました。

何か大きな失敗をしたような気がして、社内の連絡画面を何度も確認しました。けれど、今のところ誰からも叱られていません。

西田さんからは、「やっと普通の相談になりましたね」と言われました。

その言い方がおかしくて、少し笑いました。

水月さんは、店でできないことを頼まれたとき、どうしていますか。〉

水月は、質問の一文を見つめた。

どうしていますか。

答えは決まっていた。

できないと伝える。

材料がなければ作らない。席が埋まっていれば断る。営業時間を過ぎれば、翌日来てもらう。

静波では、そうしてきた。

だが最初から、できていたわけではない。

開店したばかりの頃、予約のない十人の団体客を受け入れたことがある。店内の席だけでは足りず、知人から折り畳みの椅子を借り、仕込み直しをして、予定していなかった料理まで出した。

客たちは喜んだ。

会計のときには、何度も礼を言われた。

水月は一人になったあと、厨房の床へ座り込んだ。片づける力が残っておらず、翌朝まで洗い物を残した。

それでも、客に喜んでもらえたのだから成功だったと思おうとした。

翌日、予約客へ出す予定だった魚が足りなくなった。

献立を変え、事情を説明して謝った。

そのとき初めて、目の前の頼みを断らなかったために、先に約束していた客を裏切ったのだと分かった。

水月は返信を書いた。

〈高瀬さん

断ることができて、よかったと思います。

私も、開店したばかりの頃は、頼まれると断れませんでした。

一度、予約のない十人のお客様を受け入れ、翌日の分まで材料を使ってしまったことがあります。

その場のお客様には喜ばれましたが、次の日に予約されていた方へ、予定の料理を出せませんでした。

それからは、できないことは断るようにしています。

断ることは、相手を拒むこととは違います。

守らなければならない約束を選ぶことだと、今は考えています。

ただ、断ったあとに不安になることは、今でもあります。〉

最後の一文は書く予定がなかった。

水月は、送信する前に何度も読み返した。

断ったあとに不安になる。

それを海斗へ知らせる必要があるのか。

もっと揺るがない人間だと思われていた方が、楽なのではないか。

水月は自分の指先を見た。

右手の人差し指に、小さな切り傷があった。昼の仕込みで鯵の骨が当たった痕だった。

料理をするときも、迷うことはある。

味を決めたあとで、塩が強かったのではないかと思う。新しい料理を出した夜には、客の反応を何度も思い返す。

迷わないから店を守れるのではない。

迷っても、最後には自分で決めるしかないのだ。

水月は文章を消さずに送った。

海斗からの返信は、翌朝に届いた。

〈守らなければならない約束を選ぶ。

手帳に書きました。

水月さんも不安になると知って、少し安心しました。

何でも迷わず決められる人だと思っていたので。〉

水月は厨房の作業台で、そのメールを読んだ。

何でも迷わず決められる人。

自分が海斗にそう見えていたことが、意外だった。

迷いを見せれば、そこから入り込まれる。

弱さを知られれば、利用される。

料亭を辞めてから、水月はそう考えるようになっていた。

だから、店では迷わない人間として振る舞った。客にも仕入れ先にも、できることとできないことをはっきり伝えた。

その姿が自分を守ってくれた。

だが、同時に、誰かが近づく余地までなくしていたのかもしれない。

水月は携帯電話で、朝の海を一枚撮った。

空の雲が切れ、山の向こうから光が差し込んでいる。水面の一部だけが明るく、その手前には源治の小さな舟が見えた。

撮った写真を添付し、短い文章を送った。

〈今朝の伊根です。

こちらは晴れそうです。〉

送信したあとで、写真まで送るのは近づきすぎだったのではないかと思った。

だが、取り消すことはできなかった。

昼の営業中、水月は携帯電話を厨房の棚へ置いたままにした。

通知が鳴っても見なかった。

客の前で、海斗からの返事を待っている自分を意識したくなかった。

その日は、女性の常連客である中村文子が一人で店へ来た。

六十代の文子は、町内で小さな理髪店を営んでいる。髪を切るだけでなく、町の出来事や人間関係まで整えているような女性だった。

「今日は一人ですか」

水月が尋ねると、文子はカウンターへ座りながら首を振った。

「佳代ちゃんと来るつもりやったんやけど、孫が熱出してな。今頃、家で子守りや」

「では、一人前で用意します」

「お願い。祭りの汁物、順調なんやって?」

「試作は終わりました。あとは当日の人数を見ながら作ります」

「澄江さんが褒めとったで。水月ちゃん、人に任せられるようになったって」

「褒めているのでしょうか」

「褒めとる、褒めとる。あの人は言い方が少しきついだけや」

水月は鯵のつみれを椀へ入れ、熱い出汁を注いだ。

祭りで出す予定の汁物とは別の味付けだった。今日は白味噌を使わず、薄口醤油と塩だけで仕上げている。

文子は一口すすり、目を細めた。

「ええ味や」

「ありがとうございます」

「東京の人にも食べさせたいくらいやな」

水月の手が止まった。

文子は椀を持ったまま、何でもない顔をしている。

「源治さんから聞いたんですか」

「何を?」

「高瀬さんのことです」

「ああ、海斗君か」

名前まで知られている。

水月は眉を寄せた。

「源治さんですね」

「宿の美代さんかもしれんし、澄江さんかもしれん。あんた、この町で秘密を持とういうのが無理やで」

「別に、秘密ではありません」

「そやろ。なら、ええやない」

文子は、つみれを箸で半分に割った。

「連絡、来たんか」

「皆さん、どうしてそれを気にするんですか」

「水月ちゃんが、誰かの連絡を待つ顔をしとるから」

「していません」

「そうか。なら、うちの見間違いや」

文子はそれ以上追及しなかった。

だが、会計を済ませて立ち上がるとき、厨房の棚に置かれた携帯電話へ目を向けた。

「食事中、一回も見んかったな」

「お客様の前ですから」

「それでええ。待つもんができても、目の前のもんを忘れたらあかん」

水月は返事をしなかった。

文子が帰ったあと、棚から携帯電話を取る。

海斗から返信が届いていた。

〈写真をありがとうございます。

こちらはビルの間から、少しだけ空が見えます。

今まで、会社へ着くまで空を見たことがなかった気がします。

伊根の朝を見たら、今すぐそちらへ行きたくなりました。〉

最後の一文を読み、水月の胸が強く鳴った。

今すぐそちらへ行きたくなりました。

それが伊根へ向けられた言葉なのか、自分へ向けられた言葉なのか、判別できなかった。

水月は携帯電話を伏せた。

すぐには返信しなかった。

文子の言葉が耳に残っていた。

待つものができても、目の前のものを忘れてはならない。

まず、文子が使った椀を洗った。

客席を掃き、売上を帳面につけ、翌日の予約を確認した。仕込みに使う乾物を量り、昆布を水へ浸した。

一つずつ終えてから、もう一度メールを開いた。

〈伊根へ来られるときは、先に宿を予約してください。

次も美代さんが部屋を用意できるとは限りません。〉

それだけ書き、送った。

海斗からは、十分ほどして返事が来た。

〈分かりました。

店の予約もします。〉

水月は画面を見ながら、わずかに笑った。

自分の文面が、「来ないでください」という意味ではないことを、海斗は正しく受け取ったらしい。

それから、二人は数日に一度、メールを送り合うようになった。

水月が先に送る日もあれば、海斗から届く日もあった。

朝に届いたメールを、水月が夜まで開かないこともある。水月が夜中に送った文章へ、海斗が翌々日に返すこともあった。

返事が遅れた理由を、互いに尋ねることはなかった。

それでも、水月は受信箱を開く回数が増えていることに気づいていた。

海斗は、仕事の内容を詳しく書かなかった。

専門的なことを説明しても分かりにくいと思ったのか、最初は、会議が長かった、予定が変更になった、今日は早く帰れた、とだけ書いてきた。

水月も、店が忙しかった、魚が少なかった、祭りの準備をした、と短く返した。

ある夜、海斗から、こんなメールが届いた。

〈水月さん

今日は、書くほどの出来事がありませんでした。

朝、会社へ行き、会議をして、昼に定食を食べ、七時に帰りました。

帰りにスーパーへ寄り、豆腐と納豆と味噌を買いました。

自分で味噌汁を作ろうと思ったのですが、家に鍋がないことに気づきました。

正確には、鍋はあったのですが、去年、焦げつかせたまま捨てていました。

新しい鍋を買うべきでしょうか。〉

水月は、思わず声を出して笑った。

店内には誰もいなかったが、自分の笑い声が思ったより大きく響き、慌てて口元を押さえた。

鍋を買うべきかどうかを、料理人へ相談してくる人は珍しくない。

だが、三十歳の男が、味噌と豆腐を買ってから鍋がないことに気づく姿は、少し可笑しかった。

水月は返信した。

〈味噌汁を作るのであれば、鍋は必要です。

一人分なら、直径十八センチほどの小さなもので十分です。

高価なものでなくて構いません。

ただし、買う前に流し台の下をもう一度確認してください。

忘れている鍋が、もう一つあるかもしれません。〉

翌日、写真つきのメールが届いた。

流し台の下に、蓋だけが置かれている写真だった。

〈鍋はありませんでした。

蓋だけありました。

何の蓋なのかは分かりません。〉

水月はしばらく写真を見つめた。

笑ってよいのか迷った末、短く返した。

〈それは捨ててもよいと思います。〉

海斗は、その週末に小さな片手鍋を買った。

最初に作った味噌汁は、味噌を入れすぎて塩辛くなったという。

〈味見をしたのですが、何が正しい味なのか分かりませんでした〉

そう書かれていた。

水月は、味噌の量を数字で教えることもできた。

だが、味噌の種類や具材、煮詰まり方で味は変わる。

〈最初は少なめに入れてください。

薄ければ足せますが、濃くしたものを戻すのは大変です。

味見をして、もう少し飲みたいと思うところで止めるとよいです。〉

送信してから、自分の書いた文章を読み返した。

もう少し飲みたいと思うところで止める。

静波で出す料理についても、水月は同じように考えていた。

一口目から強く印象へ残る味は、食べ進めるうちに疲れることがある。すべてを説明するような味ではなく、客がもう一口確かめたくなる余地を残したかった。

海斗からは、翌朝、〈次は少しずつ入れます〉と返ってきた。

短い文章だった。

それでも水月は、そのメールを閉じたあと、昼の味噌汁へ味噌を溶きながら、東京の小さな台所を想像した。

知らない部屋だった。

広さも、窓の位置も、流し台の色も分からない。

その中で海斗が鍋の前に立ち、味噌を少しずつ溶いている。

想像の中の海斗は、店のカウンターへ座っていたときより不器用だった。

だが、どこか穏やかに見えた。

十一月の初め、町の祭りの日が来た。

早朝から、港近くの広場へ長机とテントが運び込まれた。漁協の男たちが魚を並べ、農家の女性たちは野菜や餅を販売する。

水月たちは、試作を重ねた魚のつみれ汁を出すことになっていた。

鍋は三つ。

百五十食分を用意する。

以前の水月なら、出汁を取るところから盛りつけまで、自分一人で管理しようとしただろう。

今回は違った。

前日に源治と陸が魚を処理し、澄江と佳代が野菜を切った。文子は会計と客の列を担当する。水月は出汁とつみれの状態を見ながら、全体を調整する役へ回った。

「水月さん、こっちの鍋、味見お願いします」

陸に呼ばれ、水月は柄杓で汁をすくった。

少し冷まし、口へ含む。

「塩を足す前に、もう五分煮てください。野菜から味が出ます」

「分かりました」

陸は素直にうなずいた。

その隣で、澄江がつみれを丸めている。

形は水月が作るものほど揃っていなかった。大きいものも、小さいものもある。

以前なら、すべて同じ重さに直したかもしれない。

水月は何も言わず、澄江が作ったつみれを鍋へ入れた。

「ええんか。大きさ、ばらばらやで」

澄江が自分から言った。

「火が通れば大丈夫です。大きいものから先に入れてください」

「水月ちゃん、丸うなったなあ」

「つみれの話ですか」

「両方や」

澄江が声を上げて笑う。

午前十時に販売を始めると、テントの前にはすぐ列ができた。

湯気の立つ椀を受け取った客が、近くの長椅子へ座って食べている。

子どもが熱そうに息を吹きかけ、年配の夫婦が一つの椀を分け合う。観光客らしい若い女性たちは、具材について陸へ質問していた。

水月は鍋を見ながら、必要な指示を出した。

忙しかった。

だが、静波で一人きりで六人の客へ料理を出すときとは違う。

隣に人がいる。

水月が椀を並べれば、佳代が汁を注ぐ。澄江がつみれを入れ、陸が客へ渡す。

一人が少し遅れても、別の誰かが手を伸ばした。

正午を過ぎた頃、一つ目の鍋が空になった。

「写真、撮ろうや」

佳代が言った。

「まだ列があります」

「今撮らんと、みんな顔が疲れ切るで」

文子が近くにいた観光協会の宮下を呼び止め、携帯電話を渡した。

水月は断ろうとしたが、澄江に腕を引かれ、テントの前へ立たされた。

源治、陸、澄江、佳代、文子。

全員が前掛けをつけ、湯気の向こうで並んだ。

「水月ちゃん、もうちょっと真ん中」

「私は端でいいです」

「店主が端へ逃げてどうするん」

背中を押され、水月は中央へ移った。

宮下が携帯電話を構える。

「撮りますよ。もう少し寄ってください」

源治の肩が、水月の肩へ触れた。

反対側では、澄江が腕を組んでくる。

水月は身体を固くしたが、離れなかった。

「はい、笑って」

宮下が言う。

水月は笑おうとした。

うまくできたかどうかは分からない。

撮影が終わると、すぐ持ち場へ戻った。

午後二時過ぎ、用意した百五十食はすべてなくなった。

鍋の底に残った一杯分を、六人で少しずつ味見した。

長く煮たため、朝より野菜の甘みが濃くなっている。つみれは形こそ揃っていなかったが、どれも硬くならず、出汁を吸っていた。

「売り切れや」

陸が空の鍋をのぞき込み、嬉しそうに言った。

「足りなかったくらいですね」

佳代が売上を数える。

「来年は二百食やな」

源治が言うと、水月は首を振った。

「来年の人数を見てから決めます」

「出た。水月ちゃんの慎重な返事」

文子が笑った。

片づけを終えて静波へ戻った頃には、陽が山へ隠れ始めていた。

身体は疲れていたが、不快な疲れではなかった。

一人で全部を抱え込んだ夜のように、指先まで動かなくなることもない。

水月は調理着へ着替え、店のパソコンを開いた。

海斗へ、祭りのことを知らせようと思った。

写真を探すと、文子から届いた集合写真があった。

中央で、水月はわずかに笑っている。

自分の両側には、人がいる。

肩が触れ、腕が重なり、誰も水月を一人にしていなかった。

水月は写真を添付した。

〈今日は町の祭りでした。

試作していたつみれ汁を、百五十食出しました。

魚は源治さんと陸君、野菜は澄江さん、会計は佳代さんと文子さんが担当しました。

一人で作るより、形は不揃いでした。

けれど、最後の一杯まで、きちんとお客様へ渡せました。〉

最後に、〈よい一日でした〉と書き加えた。

送信したのは午後六時二十分だった。

海斗から返信が来たのは、午後十一時を過ぎてからだった。

〈写真を何度も見ました。

水月さんが笑っているので、安心しました。

つみれの形が不揃いでも、最後まで出せたという話を読んで、今日の自分の仕事を思い出しました。

僕は今日、また失敗しました。

午後の打ち合わせが長引き、別の作業が遅れました。

焦って取り戻そうとして、夕食を抜き、九時過ぎまで会社に残りました。

帰りの電車で気分が悪くなり、途中の駅で降りました。

今は家にいます。水は飲みました。

以前ほどひどくはありません。

ただ、できていたつもりになっていたので、少し落ち込んでいます。

せっかく祭りの日なのに、暗い話を書いてすみません。〉

水月は、文章を二度読んだ。

写真へ触れた最初の二行を嬉しいと感じた直後、胸の奥が冷えた。

夕食を抜いた。

電車を途中で降りた。

以前ほどひどくないという言葉も、安心の材料にはならなかった。

電話番号を知っていれば、すぐに電話をかけていたかもしれない。

だが、二人が交換したのはメールアドレスだけだった。

水月は返信欄を開いた。

〈何か食べてください。〉

それだけ書き、すぐに消した。

食欲がないとき、食べろと言われることが負担になる場合がある。海斗が初めて静波へ来た夜の顔を、水月は覚えていた。

もう一度、入力する。

〈暗い話ではありません。

書いてくださってよかったです。

家に、豆腐と味噌は残っていますか。

鍋に水を入れ、豆腐だけで味噌汁を作ってください。

出汁はなくても構いません。味噌は少しずつ入れてください。

作るのが難しければ、温かい飲み物だけでもよいです。

できたら、一言だけ知らせてください。

返事がなければ、眠ったのだと思います。〉

送信する。

水月はパソコンの前から動けなかった。

海斗に、返事を急がなくてよいと伝えてきた。

今のメールも、返事を強制するつもりはない。

それでも、知らせてほしかった。

海斗が台所へ立てたのか。

何か口にできたのか。

画面右下の時計が、十一時半を過ぎた。

水月は待ちながら、祭りで使った前掛けを畳んだ。

洗い終えた布巾を干し、翌朝の米を量った。

何度もパソコンへ目を向けた。

十一時四十七分。

新着メールが届いた。

写真が一枚添付されていた。

白い椀の中に、形の崩れた豆腐と薄い味噌汁が入っている。小口切りの葱も、乾燥わかめもない。

〈作りました。

薄いですが、今日はこのくらいでよい気がします。

半分飲みました。

ありがとうございます。〉

水月は椅子の背へ身体を預けた。

張っていた肩から、力が抜ける。

海斗は食べた。

ほんの半杯の味噌汁だった。

それで何もかもよくなるわけではない。明日になれば、また仕事がある。体調が戻らない日も、断れない日もあるだろう。

水月は返信を書いた。

〈今日は、それで十分です。

残りは無理に飲まなくて構いません。

おやすみなさい。〉

送信したあとも、しばらく写真を見ていた。

欠けたところのない白い椀。

薄い色の汁。

不揃いに切られた豆腐。

祭りで作った百五十人分のつみれ汁とは違う。

料理と呼ぶには、あまりにも簡単なものだった。

それでも海斗が自分のために作った一杯を、水月は粗末だと思わなかった。

翌日、海斗から昼過ぎにメールが届いた。

〈昨夜は眠れました。

朝、残っていた味噌汁を温めて飲みました。

今朝、上司へ昨日のことを話しました。

しばらく遅い時間の会議から外してもらうことになりました。

西田さんにも、無理をしていたら言ってほしいと頼みました。

自分で気づけなかったときに、人に止めてもらうのは、まだ少し怖いです。

でも、水月さんが祭りで人に任せた話を読んだあとだったので、言えました。〉

水月は、祭りの写真をもう一度開いた。

自分が中央に立っている。

海斗は昨夜、この写真を何度も見たと書いていた。

自分が誰かに支えられている姿が、遠くにいる海斗の選択へつながった。

そのことが、嬉しかった。

同時に、怖くもあった。

自分の言葉が、誰かの行動を変える。

それは、責任を背負うことではない。海斗がどうするかは、海斗自身が決める。

分かっていても、自分の発した言葉が遠い場所へ残り続けることに、水月は慣れていなかった。

料亭にいた頃、水月の言葉や料理は、別の人間のものとして使われた。

それ以来、自分の内側にあるものを外へ出すことが怖くなった。

だが海斗は、水月の言葉を奪わなかった。

「水月さんが言ったから、そうした」と責任を預けることもしない。

自分で上司へ話し、自分で西田へ頼み、その結果だけを知らせてくる。

水月は短く返信した。

〈話すことができて、よかったです。

止めてくれる人がいることは、弱さではないと思います。

私も昨日は、五人に止められたり、急かされたりしながら働きました。〉

少し考え、最後に一文を加えた。

〈写真は、何度も見なくて大丈夫です。〉

海斗からの返事はすぐに来た。

〈それは約束できません。〉

水月は画面を見つめた。

やがて、頬が緩んだ。

「何を見て笑っとるん?」

突然、背後から声がした。

振り向くと、開店前の戸口から澄江が顔を出していた。両腕に、大きな白菜を抱えている。

「入る前に声をかけてください」

「かけたで。二回も」

「聞こえませんでした」

「そら、えらい集中しとったんやな」

澄江は白菜を作業台へ置いた。

葉の先まで張りがあり、持ち上げるとずっしり重い。

「ええ白菜でしょう」

「立派ですね」

「東京へ写真、送ったらどうや」

水月はパソコンを閉じた。

「どうして皆さん、何でも知っているんですか」

「水月ちゃんが、分かりやすくなったんや」

「前と変わりません」

「変わったで。前は嬉しいことがあっても、困ったことがあっても、同じ顔しとった」

澄江は白菜の外葉を一枚めくった。

「今は、ちょっとだけ違う」

「どのようにですか」

「それを本人に教えたら、また隠すやろ」

澄江は答えず、土のついた葉を水で洗い始めた。

水月は閉じたパソコンへ手を置いた。

隠すつもりはなかった。

ただ、まだ自分でも、この変化をどう扱えばよいのか分からない。

海斗からメールが届くと嬉しい。

返事がない日は、少し気になる。

食事を取れたと知れば安心し、無理をしたと読めば腹が立つ。

祭りの写真を何度も見たと言われると、困る。

困るのに、その言葉を消してほしいとは思わない。

そんな感情を、何と呼べばよいのか分からなかった。

十一月半ばになると、伊根の朝は急に冷え込むようになった。

水月は厨房へ小さな石油ストーブを出し、客席の座布団を厚いものへ替えた。

海斗とのメールは続いていた。

彼は味噌汁の次に、米を炊いた。

最初は水を入れすぎ、柔らかくなったという。

水月が「雑炊にすればよい」と返すと、翌日、本当に卵を入れて雑炊を作った。

〈見た目はよくありませんが、食べられました〉

写真の中の雑炊は、卵が固まりすぎていた。

水月は、〈次は火を止めてから卵を入れてください〉と返した。

海斗は仕事だけでなく、帰り道で見つけたものを書くようになった。

駅前の銀杏が黄色くなったこと。

朝の電車で、子どもが窓の外へ手を振っていたこと。

昼休みに会社の近くを歩き、古い小さな神社を見つけたこと。

〈毎日通っていた道から一本外れただけなのに、知りませんでした〉

そのメールには、ビルの間に挟まれた鳥居の写真が添えられていた。

水月も、伊根で見たものを返した。

店の軒先で眠る猫。

源治が網から外した小さな蟹。

澄江が持ってきた柚子。

夕方、漁から戻る陸の舟。

特別な景色を探す必要はなかった。

一日の中で、自分の目が止まったものを、そのまま送った。

ある朝、海斗から鉢植えの写真が届いた。

白い鉢から、つやのある緑色の葉が数枚伸びている。

〈部屋に何も生きているものがないのが寂しくなり、観葉植物を買いました。

店員さんから、ポトスは育てやすいと聞きました。

一週間に一度、水をやればよいそうです。〉

水月はすぐ返信した。

〈一週間に一度と決めない方がよいです。

土を触って、乾いてから水をあげてください。

部屋の温度や日当たりで変わります。〉

しばらくして、海斗から返事が届いた。

〈予定表ではなく、土を見るということですね。〉

水月はその言葉に、少し考え込んだ。

海斗は何でも予定へ入れる。

起床時刻、会議、締め切り、通院日。休むことまで予定として管理しようとしていた。

植物は、その通りには育たない。

晴れた日が続けば土は早く乾き、曇りが続けば湿ったままになる。葉の様子を見て、鉢の重さを確かめなければならない。

人間も同じだと書きかけ、水月はやめた。

たとえとして説明すれば、また誰かを導くような文章になる。

水月が伝えたいのは、もっと単純なことだった。

〈そうです。

日にちではなく、土を見てください。

水をあげすぎると、根が傷みます。〉

海斗からは、〈気をつけます〉と返ってきた。

その三日後、再びポトスの写真が送られてきた。

置き場所が変わり、窓際の小さな棚に載せられている。

〈今日は土が湿っていたので、水をやりませんでした。

何もしないことが、世話になる日もあるのですね。〉

水月はその文章を読み、長い間、返信欄を開いたままにしていた。

何もしないことが、世話になる日もある。

自分は店を守るために、動き続けてきた。

魚を仕入れ、料理を作り、客を迎え、掃除をし、帳面をつける。何かが足りなければ、自分が補った。

人に頼めば迷惑をかける。

休めば誰かに追い越される。

そんな考えを、今も完全には捨てられていない。

海斗も似たところで立ち止まっている。

だからといって、二人が同じ人間というわけではない。

水月は料理を奪われ、自分の感覚を疑うようになった。

海斗は仕事を引き受け続け、自分の限界を見失った。

傷ついた理由も、逃げてきた場所も違う。

ただ、何かをし続けなければ居場所を失うと思っていたところだけは、似ているのかもしれない。

水月は短く返した。

〈そういう日もあります。

ポトスだけでなく、人にも。〉

送信してから、説明しすぎたような気がした。

しかし海斗から返ってきたのは、〈覚えておきます〉という一言だけだった。

それ以上、意味を問い返さなかった。

十一月最後の金曜日。

静波は、珍しく夜の予約がなかった。

水月は午後六時に暖簾を下ろし、厨房で一人分の夕食を作った。

普段は余った料理を立ったまま口へ入れることが多い。その日は膳を用意し、客席のカウンターへ座った。

鯖の味噌煮。

大根の葉の炒め物。

豆腐のすまし汁。

炊きたてのご飯。

自分の料理を、自分で客席に座って食べる。

開店以来、ほとんどしたことがなかった。

最初の一口を食べたところで、パソコンから新着音が鳴った。

水月は立ち上がりかけた。

だが、文子の言葉を思い出した。

待つものができても、目の前のものを忘れてはならない。

水月は座り直した。

鯖を食べ、ご飯を食べ、汁を飲んだ。

急がず、最後まで食べた。

食器を厨房へ運んでから、ようやくパソコンを開く。

海斗からだった。

件名は、〈今日の空〉。

添付された写真には、高い建物の向こうに夕焼けが写っていた。

空のほとんどは灰色の雲に覆われている。地平に近い一部分だけが赤く、ビルの窓にも同じ色が映っていた。

〈今日は六時半に会社を出ました。

駅へ向かう途中、人が立ち止まって写真を撮っていたので、僕も振り返りました。

東京にも、こんな空があることを忘れていました。

伊根では、今日は何が見えましたか。〉

水月は窓の外へ目を向けた。

こちらでは、すでに夕焼けは消えている。

海も山も暗く、対岸の家々に灯りが点いていた。静波の窓ガラスには、店内の自分だけが映っている。

今日は何を見ただろう。

源治が持ってきた鯖。

澄江の大根。

昼に来た夫婦が、一つの料理を半分ずつ分けていたこと。

夕方、店の前を通った陸が、舟の上から手を振ったこと。

自分のために作った夕食。

どれも海斗の写真のように、美しい景色ではない。

水月は携帯電話を持ち、外へ出た。

夜の空気は冷たく、息が白くなった。

店の前から、対岸の灯りを撮る。

暗いため、写真は少しぶれた。肉眼で見るより灯りが滲み、水面に細長く伸びている。

撮り直そうとしたが、やめた。

そのまま添付する。

〈今日は、夜の海が見えます。

写真は少しぶれました。

店に予約がなかったので、早く閉めました。

自分のために鯖の味噌煮を作り、客席で食べました。

高瀬さんの空を見られて、よかったです。〉

最後の行を打ったあと、水月の指が止まった。

〈高瀬さんの空〉

東京の空は、海斗だけのものではない。

それでも、海斗が立ち止まらなければ、水月が見ることはなかった空だった。

水月は文章を直さず、送信した。

しばらくして、返信が届いた。

〈水月さんの海も見られて、よかったです。

写真がぶれているのは、寒かったからですか。〉

水月は手を見た。

外へ出たとき、確かに指がかじかんでいた。

だが、ぶれた理由は、それだけではない気がした。

〈たぶん、そうです。〉

そう返すと、海斗からもう一通届いた。

〈風邪をひかないうちに、店へ戻ってください。〉

水月は小さく笑い、戸を閉めた。

鍵をかけ、窓辺の照明を落とす。

海斗が見た東京の空と、水月が見た伊根の海。

二つの景色の間には、何百キロもの距離がある。

同じ時刻でも、見えるものは違う。

海斗が疲れている日に、水月が代わって眠ることはできない。水月が忙しい日に、海斗が厨房へ立つこともできない。

それでも、一日の終わりに、自分が見たものを知らせることはできた。

水月はパソコンを閉じる前に、受信箱の〈高瀬さん〉というフォルダを開いた。

メールは、いつの間にか二十通を超えていた。

最初の頃の文章は、互いに硬かった。

〈ご連絡ありがとうございます〉

〈お疲れさまでした〉

〈無理をされませんように〉

今も丁寧な言葉遣いは変わっていない。

だが、その中には、焦げた鍋の蓋や、薄すぎた味噌汁や、祭りの写真が残っている。

誰にも見せてこなかった迷いも、失敗も、少しずつ増えていた。

水月はフォルダを閉じた。

海斗から次のメールが届くのが明日でも、一週間後でも構わない。

そう思おうとした。

しかし本当は、あまり長く待ちたくなかった。

水月は電源を切る前に、新しいメールを作成した。

宛先へ海斗のアドレスを入れる。

件名を考え、〈次に来るとき〉と打った。

本文には、まだ何も書かなかった。

海斗が次に伊根へ来るとき、何を食べたいか尋ねようと思った。

魚か、野菜か。

最初の夜に出した冬瓜を、もう一度作ることもできる。

だが、冬瓜の季節は終わっている。

季節が変われば、同じ料理は出せない。

同じ場所へ戻ってきても、前と同じ時間を繰り返すことはできない。

水月は件名を消した。

まだ、次に来る約束をしたわけではなかった。

代わりに、短い文章だけを書いた。

〈高瀬さん

次に伊根へ来られるとしたら、食べたいものはありますか。〉

送信するか迷った。

店主が客へ希望を尋ねることは、不自然ではない。

しかし海斗は、次に来る日を決めていない。

このメールは、店の予約を確認するためのものではなかった。

また会いたい。

その言葉の代わりなのだと、自分でも分かっていた。

水月は目を閉じた。

バス停で、海斗へ「待っています」と言ったときのことを思い出す。

あのときは、バスがすぐに出ると分かっていた。返事を聞く時間がないから、言えたのかもしれない。

今は、送信すれば返事が来る。

来ない可能性もある。

水月は目を開け、送信ボタンを押した。

数秒後、送信済みの表示へ変わる。

胸の奥が大きく鳴った。

すぐには返ってこない。

海斗はもう眠っているかもしれない。

水月はパソコンを閉じ、店の照明を消した。

二階へ上がり、寝る支度をする。

布団へ入っても、しばらく眠れなかった。

返事を待っている自分を認めると、不思議に苦しさは減った。

期待しないふりをするより、待っていると分かっている方がよかった。

翌朝、水月は新着音ではなく、舟のエンジン音で目を覚ました。

窓の外はまだ暗い。

源治たちが漁へ出る時刻だった。

水月は布団から起き上がり、上着を羽織った。

厨房へ降り、湯を沸かす。

パソコンの電源を入れると、一通のメールが届いていた。

件名は、〈食べたいもの〉。

水月は椅子へ座り、本文を開いた。

〈水月さん

食べたいものを考えました。

甘鯛も、冬瓜も、つみれ汁も食べたいです。

でも、季節が違えば同じものはないのだと思います。

その日に水月さんが作ろうと思ったものを、食べたいです。

来月、もう一度そちらへ行ってもよいでしょうか。

今度は先に、宿と店を予約します。〉

水月は最後の二行を、何度も読んだ。

窓の外から、遠ざかっていく舟の音が聞こえる。

湯が沸き、やかんの蓋が小さく鳴った。

水月は立ち上がらなかった。

すぐに返事をしてもよいのか迷ったが、今回は待たせる理由が見つからなかった。

返信欄へ文字を入力する。

〈はい。

日が決まったら、知らせてください。

その日の魚を見て、料理を決めます。〉

そこまで書き、最後に一文を加えた。

〈お待ちしています。〉

送信ボタンを押す。

今度は、送ったあとで言葉を取り戻したいとは思わなかった。

やかんから立つ湯気が、冷えた厨房へ広がっている。

水月は火を止め、二つある湯飲みのうち、一つだけを棚から下ろした。

海斗が来るのは、まだ先だった。

今朝、ここにいるのは自分一人だ。

それでも、もう一つの湯飲みを見ても、以前のような空虚さは感じなかった。

使う日が来ることを知っているものは、ただ置き忘れられているのではない。

水月は一人分の茶を淹れ、窓辺に立った。

夜が明け始めていた。

沖へ向かった舟が、暗い水面に小さな航跡を残している。

その先に何が獲れるのかは、まだ誰にも分からなかった。


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