↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『静波の寄せる場所』  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/31

第7章 信頼の一歩

海斗を見送ったあと、水月はしばらく入口の前から動けなかった。

午後の陽を受けた路地には、前夜の雨が残っている。軒先から落ちた雫が水溜まりを揺らし、遠くでは、漁具を片づける音が聞こえていた。

海斗の姿は、もう見えない。

東京へ戻ってからも話したい。

始まった会話を、ここで終わらせたくない。

その言葉だけが、水月の内側に残っていた。

店へ戻り、戸を閉める。

洗い終えた食器を棚へ戻し、濡れた流し台を拭いた。明日の予約を確認し、冷蔵庫の中を整理する。

いつもと同じ作業だった。

手は動いているのに、意識は何度も海斗との会話へ戻った。

連絡先を教えてほしいと頼まれた瞬間、水月の中で最初に生まれたのは恐れだった。

料理を食べに来る客であれば、店の扉を閉めれば関係もそこで終わる。電話が鳴っても、予約や問い合わせとして受ければよい。

個人的な連絡先を渡せば、その境界は曖昧になる。

店にいない時間にも、海斗の言葉が届く。

返事をするかどうか迷うだろう。返さなければ悪いと思い、返せば次の言葉を待つかもしれない。

やり取りが続けば、相手のことをもっと知る。

自分のことも知られる。

その先にあるものを、水月は想像できなかった。

怖いから断る。

それが最も安全な答えだった。

水月はカウンターの端を布巾で拭いた。

海斗が座っていた場所だ。

すでに汚れは残っていない。それでも、同じところを何度も往復させている。

断るなら、理由を説明する必要はないと海斗は言った。

答えなくても構わないとも言った。

相手を急かさず、選択を水月へ返した。

長谷川とは違う。

そう考えた直後、水月は布巾を握りしめた。

まだ数日しか話していない相手を、過去の人物と比べること自体が危うい。

信頼できるように見えたから、長谷川へノートを渡した。彼も最初から、水月の料理を奪おうとして近づいたわけではなかったのかもしれない。

何年も同じ厨房で働き、指導を受け、悩みを聞いてもらった。

それでも裏切られた。

相手を知るために必要なのが時間なら、海斗について判断するには何もかも足りなかった。

けれど、時間を重ねるためには、もう一度会うか、連絡を取る必要がある。

信頼できると分かるまで誰も近づけなければ、永遠に誰も信頼できない。

水月は布巾を流し台へ置いた。

二階へ上がり、居間の椅子に座る。

窓の外には、夕暮れ前の湾が広がっていた。雨雲は東へ流れ、空の一部が明るくなっている。

テーブルの上には古いノートパソコンがあった。

店の予約や仕入れの連絡には、専用のメールアドレスを使っている。観光協会の案内にも掲載されているため、海斗が調べれば簡単に見つけられる。

それを教えるだけなら、新しい意味はほとんどない。

個人的なメールアドレスは別にあった。

家族と、京都時代から付き合いのある数人、それに宮下だけが知っている。伊根へ来てからは、ほとんど使っていなかった。

水月はノートパソコンを開いた。

受信箱には、母親から送られてきた短いメールが一件あった。

〈寒くなってきました。身体に気をつけて。たまには電話してください〉

三日前に届いている。

まだ返事をしていなかった。

海斗から連絡が来ても、自分は同じように返事を後回しにするかもしれない。何を書けばよいのか考えているうちに日が過ぎ、相手を待たせる。

返信しなければならないと思うほど、画面を開くことが苦しくなる。

水月は母親への返信欄を開いた。

〈こちらは元気です。店も変わりありません〉

そこまで入力する。

いつもと同じ文章だった。

母親が知りたいのは、店が続いていることだけではない。水月がどのように暮らし、何を感じているのかを知りたいのだろう。

けれど、詳しく書けば心配される。

秋祭りの料理を町の人と作ることになった。

東京から来た客へ、料亭時代のことを話した。

その人から連絡先を尋ねられ、答えに迷っている。

どれも母親には書けなかった。

水月は文章を消し、短く書き直した。

〈元気にしています。来月、秋祭りの汁物を町の皆さんと作ることになりました。終わったら、また連絡します〉

送信ボタンを押す。

わずか三行の文章だった。

それでも、「変わりありません」と書くより、今の自分に近かった。

母親からの返事は、すぐには来なかった。

水月は画面を閉じた。

返事が来ないことを、不安には思わない。母親にも生活があり、メールを見られない時間があると知っているからだ。

海斗との間にも、同じような余白を作れるだろうか。

毎日返さなくてもよい。

話したいことがあるときだけ送る。

相手の言葉にすぐ答えられなければ、時間が必要だと伝える。

最初から決めておけば、連絡先を渡すことは、すべてを受け入れることではなくなる。

その考えに至っても、水月はまだ決められなかった。

夜、布団へ入ってからも眠れなかった。

海斗へ過去を話した夜とは違う。

あの夜は、口にしてしまった言葉を何度も思い返し、話しすぎたことを後悔した。

今夜は、まだ選んでいない答えを何度も考えていた。

教える。

教えない。

どちらを選んでも、失うものがある気がした。

教えなければ、今の暮らしは変わらない。

海斗は東京へ戻り、自分もいつもの日々へ戻る。季節が変われば、彼の顔も声も、少しずつ記憶から薄れていく。

それを想像すると、胸の奥が冷えた。

教えれば、何が起きるか分からない。

期待して、失望するかもしれない。また人を信じた自分を責めることになるかもしれない。

その恐れは、消えなかった。

水月は布団から起き上がった。

一階へ下り、厨房の照明をつける。

戸棚の最下段にある引き出しへ鍵を差し込んだ。

中には、料亭時代の試作ノートが入っている。

水月はノートを取り出し、作業台の上へ置いた。

表紙には、濡れた手で触れた跡が薄く残っている。角は擦れ、紙の一部が反っていた。

ページをめくる。

献立の案、出汁の割合、焼き時間、失敗した理由。若い頃の自分が、細かな文字で埋め尽くしている。

甘鯛の料理を記録したページで手を止めた。

白味噌の量に二重線が引かれ、横に新しい数字が書き込まれている。米酢を一滴と書いた部分には、赤い丸がついていた。

長谷川がつけたものではない。

水月自身が、味を確かめたあとで記した印だった。

このノートを貸したことを、何度も後悔した。

誰にも見せなければ、料理は奪われなかった。

だが、見せたことが間違いだったのではない。

借りたものを利用した人がいた。

その違いを、海斗は言葉にしてくれた。

信頼した水月の責任ではない。

そう聞いたとき、すぐには信じられなかった。

今も、完全に受け入れられたわけではない。

それでも、長い間、自分へ向け続けた責める言葉が、一瞬だけ止まった。

水月はノートを閉じた。

再び引き出しへ入れようとして、手を止める。

隠しておかなければならない理由は、もうないのかもしれない。

誰にでも見せたいわけではない。

だが、過去を閉じ込めるための場所として、鍵の中へ置いておく必要もない。

水月はノートを戸棚の中段へ移した。

調理の本と、伊根へ来てから書き始めた献立帳の間に差し込む。

鍵はかけなかった。

午前二時を過ぎていた。

水月は小さな便箋を取り出した。

個人用のメールアドレスを書こうとする。

最初の一文字を書いたところで、ペンを止めた。

紙を丸め、ごみ箱へ入れる。

新しい紙を出す。

今度は最後まで書いた。

メールアドレスだけでは、何を伝えたいのか分からない気がした。

下に一文を加える。

〈返事が遅くなることがあります〉

読み返す。

予防線を張っているように見えた。

紙を破り、三枚目を出す。

〈毎日は返事ができません。それでもよければ〉

書いたあと、違和感があった。

海斗は、毎日連絡すると言っていない。

自分が勝手に恐れていることを、相手の行動として決めつけている。

三枚目も破った。

四枚目には、メールアドレスだけを書いた。

簡潔でよい。

必要なことは、渡すときに言葉で伝えればよい。

水月は便箋を二つ折りにし、前掛けのポケットへ入れた。

まだ、渡すと決めたわけではない。

朝になって気持ちが変われば、捨てればよい。

二階へ戻り、布団へ入る。

今度は、少しだけ眠ることができた。

翌朝、水月は目覚ましが鳴る前に起きた。

午前四時二十分。

窓の外は暗い。

いつものように厨房へ下り、出汁の準備を始める。

前掛けのポケットには、昨夜書いた便箋を入れたままにしていた。

何度も指先で確かめる。

紙はそこにある。

午前五時過ぎ、源治と陸が魚を届けに来た。

水月が戸を開けると、源治はすぐに顔をしかめた。

「寝てへんのか」

「少し寝ました」

「目の下が黒いぞ」

「照明のせいです」

「そういうことにしとくか」

源治は魚箱を下ろした。

今日は、丸々としたツバスと、小さなイカが入っている。

「ツバスを一本ください」

水月は魚の腹とえらを確かめた。

源治が、水月の前掛けを見ている。

正確には、紙の端が少しだけ出ているポケットを見ていた。

「何や、それ」

水月は慌てて紙を押し込んだ。

「何でもありません」

「手紙か」

「違います」

「顔に書いてあるぞ」

「源治さんまで、宮下さんと同じことを言うんですね」

「宮下も何か知っとるんか」

「知りません」

「ほな、誰に渡すんや」

陸が源治の腕を引いた。

「じいちゃん、聞きすぎや」

「気になるやろ」

「水月さん、怒っとるで」

源治は水月の顔を見た。

「まだ怒っていません」

「まだ、か」

「魚を置いたら帰ってください」

水月が代金を差し出すと、源治はおとなしく受け取った。

帰り際、陸が小さく頭を下げた。

「じいちゃんが、すみません」

「陸さんが謝ることではありません」

「でも、何か渡すなら、早い方がええと思います」

陸はそれだけ言い、源治を追って出ていった。

水月は閉まった戸を見つめた。

海斗が乗るバスは午前九時四十分。

それまで、四時間以上ある。

仕込みを進める。

ツバスを三枚に下ろし、骨から出汁を取る。イカの下処理をし、里芋を煮る。

作業に集中しようとしても、時計へ目が向いた。

午前六時。

六時半。

七時。

このまま店にいれば、海斗は町を出る。

連絡先を渡さなかったことになる。

答えないという選択も認めると、海斗は言った。

だから、行かなくても約束を破るわけではない。

午前七時過ぎ、澄江が大根と白菜を持ってきた。

「おはよう。今日は早いな」

「いつもと同じです」

澄江は水月の顔を見ると、籠を置いた。

「何かあった?」

「何もありません」

「何もない顔やないけど」

水月は大根を一本手に取った。

土が薄く残っている。葉は青く、根には張りがあった。

「澄江さん」

「何?」

「誰かに連絡先を聞かれたら、どうしますか」

澄江は一度瞬きをした。

すぐには笑わなかった。

「教えたい人?」

「分かりません」

「教えたくない人なら、迷わんやろ」

水月は大根へ視線を落とした。

澄江は窓際の椅子へ座った。

「怖いん?」

「少し」

「何が?」

「連絡先を教えたら、今までと同じではなくなることです」

「同じでいたい?」

水月は答えられなかった。

澄江は急かさず、待っている。

「分かりません」

水月は正直に言った。

「今の暮らしを変えたいわけではありません。でも、その人との話を、これで終わらせたいわけでもないんです」

「高瀬さんやな」

水月は顔を上げた。

「どうして分かるんですか」

「ほかに誰がおるの」

否定できなかった。

澄江は少し考えた。

「連絡先を教えることと、何でも言うことを聞くのは別やろ」

「分かっています」

「ほんまに?」

問い返され、水月は黙った。

「水月さんは、誰かを店の中へ入れたら、厨房まで全部渡すことになると思っとるんやない?」

澄江の言葉に、胸を突かれた。

「連絡が多かったら、多いと言うたらええ。返事をしたくない日は、せんかったらええ。会いたくないなら、会わんでええ。教えたあとでも、嫌になったらやめられる」

「相手を傷つけませんか」

「傷つくかもしれん。でも、相手が傷つかんように自分が全部我慢したら、今度は水月さんが苦しくなる」

澄江は籠から白菜を取り出した。

「信じるいうても、最初から家の鍵を渡すわけやない。まずは玄関先で話すくらいでええんやないの」

水月は前掛けのポケットへ触れた。

紙の感触が指先に当たる。

「澄江さんなら、教えますか」

「私なら?」

澄江は楽しそうに笑った。

「ええ男なら、すぐ教える」

「聞いた相手が間違っていました」

「でもな」

澄江の声が少し柔らかくなった。

「教えんかったあとで、もう話せんことを残念に思うなら、私は教える。その代わり、嫌なことは嫌と言う」

「それが、簡単にできればいいんですが」

「最初から上手にせんでもええ」

澄江は立ち上がった。

「今日は九時四十分のバスやったな」

「なぜ知っているんですか」

「美代さんから聞いた」

「町中に知られているじゃないですか」

「急がんと、仕込みをしとる間に出るよ」

澄江は籠を抱え、入口へ向かった。

「行くとは言っていません」

「はいはい」

返事だけを残し、出ていった。

午前八時を過ぎた。

水月は昼の仕込みをほぼ終えていた。

まだ時間はある。

九時を過ぎてから店を出ても、停留所には間に合う。

そう考える一方で、海斗が早く宿を出たら会えないかもしれないと思った。

水月は手を洗い、調理着の上へカーディガンを羽織った。

ガスの元栓を確認する。

冷蔵庫の扉を閉め、仕込み途中の食材がすべて適切に収まっていることを確かめた。

前掛けのポケットへ手を入れる。

二つ折りの便箋を取り出し、皺がないことを確認した。

午前八時四十五分。

店を出る。

戸へ「仕込み中」と書いた札を掛け、鍵をかけた。

歩き始めてから、足が速くなっていることに気づいた。

走る必要はない。

まだ時間はある。

それでも、海斗が先に宿を出る場面を想像すると、自然に歩幅が広がった。

路地で源治とすれ違った。

「どこ行くんや」

「少し出てきます」

「店は?」

「鍵をかけました」

「そうやなくて」

源治は水月の顔を見て、何かに気づいたように口元を緩めた。

「走ったら転ぶぞ」

「走っていません」

「はいはい」

皆、同じ返事をする。

水月は速度を落とさず、源治の横を通り過ぎた。

「潮路」が見えてくる。

玄関先には、海斗の旅行鞄が置かれていた。

まだ出発していない。

安堵した途端、足が止まりそうになった。

間に合ったのだから、もう急ぐ必要はない。

だが、ここまで来ても、紙を渡すかどうかは決めきれていなかった。

戸口の前で息を整える。

中から、美代の声がした。

「海斗さん、忘れ物はない?」

「確認しました」

「手拭いも持った?」

「鞄に入れました」

「あれ、水月さんにもろたんやろ」

「どうして知っているんですか」

「見たら分かるよ」

水月は戸を叩こうとした手を止めた。

帰ろうかと思った。

そのとき、引き戸が開いた。

美代が立っていた。

水月を見ると、驚くより先に笑った。

「おはよう。珍しいね、こんな時間に」

「海斗さんは、まだいらっしゃいますか」

「今、出るところや」

美代は後ろを振り返った。

海斗が旅行鞄を持って現れる。

水月の姿を見ると、立ち止まった。

「水月さん」

「おはようございます」

「おはようございます。どうしたんですか」

海斗は、期待を表情へ出さないようにしているようだった。

連絡先の答えを求めず、ただ水月の用件を待っている。

「お見送りしてくる?」

美代が尋ねた。

「いえ、私は」

水月が答える前に、美代は海斗の鞄を玄関の外へ出した。

「停留所まで一緒に行ったらええ。まだ時間はあるから」

「美代さん」

「私は部屋を片づけるから」

美代は水月の返事を待たず、奥へ戻ってしまった。

二人だけが玄関先に残る。

海斗が鞄の持ち手を握った。

「店の仕込みは、大丈夫ですか」

「途中で火は止めました」

「わざわざ来てくれたんですか」

「少し、伝えたいことがあったので」

水月は海斗の目を見られなかった。

二人で停留所へ向かう。

朝の空気は冷たかった。

海斗は濃い色の上着を着ている。水月からもらった手拭いは鞄の中に入れたと、先ほど美代へ話していた。

路地を歩く間、どちらも連絡先の話をしなかった。

水月は前掛けのポケットへ手を入れたまま歩いた。便箋の端が、指先へ触れている。

停留所へ着く。

バスの到着までは、まだ十五分ほどあった。

屋根のある待合スペースには、旅行者らしい夫婦が一組座っている。

海斗は水月のためにベンチの端を空けた。

二人で腰を下ろす。

目の前の道路の向こうには、朝の海が見えた。

「昨日のお願いですが」

水月から切り出した。

海斗は姿勢を正した。

「はい」

水月はポケットから便箋を取り出した。

二つ折りにした紙を、両手で持つ。

「これは、店の予約に使っているものとは別のメールアドレスです」

海斗は紙へ手を伸ばさなかった。

「本当に、いいんですか」

「まだ、全部はよくありません」

水月は正直に答えた。

「教えたあとで、怖くなるかもしれません。返事ができなくなることもあると思います」

「分かりました」

「毎日、連絡することはできません」

「僕も、毎日送るつもりはありません」

「返事が遅くても、催促しないでください」

「しません」

「電話番号は、まだ教えられません」

「メールだけで十分です」

海斗は一つずつ受け止めた。

水月は便箋を持ったまま、最後に尋ねた。

「私が、やめたいと言ったら?」

「そのときは、連絡をやめます」

前日と同じ答えだった。

迷いがなかった。

水月は便箋を差し出した。

海斗が両手で受け取る。

小さな紙が、水月の手から離れた。

その瞬間、身体の内側を冷たいものが走った。

取り戻したい衝動が生まれる。

水月は膝の上で両手を握った。

海斗は紙を開かず、上着の内ポケットへ入れた。

「今、確認しなくていいんですか」

「あとで見ます」

「書き間違えているかもしれません」

「では、宿へ戻ってから確認します。今ここで開くと、水月さんが返してほしくなったときに困るので」

見抜かれていた。

水月は海斗を見た。

「返してほしいと言ったら、返してくれますか」

「もちろんです」

海斗は内ポケットへ手を入れた。

水月は首を振った。

「いいえ。渡します」

言葉にして、自分の選択を確かめた。

「ありがとうございます」

海斗は頭を下げた。

感謝されると、大きなものを預けたように感じる。

「お礼を言うほどのことではありません」

「僕にとっては、あります」

海斗は上着の内ポケットを軽く押さえた。

「大切にします」

「メールアドレスは、使うものです」

水月が言うと、海斗は笑った。

「手拭いと同じですね」

「しまったままにしないでください」

「分かりました」

二人の間の緊張が、少し和らいだ。

道路の先にバスはまだ見えない。

海斗は海へ目を向けた。

「一つ、聞いてもいいですか」

水月が言った。

「はい」

「なぜ、二度目も伊根へ来たんですか」

前章から残っていた問いだった。

聞かずにおこうと思っていた。

だが、連絡先を渡した今、曖昧なままにしたくなかった。

海斗はすぐには答えなかった。

「最初は、確かめたかったんです」

「何を?」

「最初にここで眠れたことや、食事がおいしいと思えたことが、たまたまだったのかどうか」

水月は黙って続きを待った。

「東京へ戻ってからも、伊根のことを思い出しました。海の景色も、宿の朝ご飯も、源治さんが直していた網も」

海斗は一度言葉を切った。

「それから、静波で食べた料理と、水月さんのことも」

水月の指に力が入った。

「料理を、もう一度食べたかったんです」

海斗は水月を見た。

「それだけなら、予約の電話を入れればよかった。でも、店の前に立ったとき、水月さんに会えることが嬉しいと思いました」

朝の風が二人の間を通り抜けた。

「会いたかったということですか」

水月が尋ねる。

「はい」

海斗は視線をそらさなかった。

「そのときは、なぜ会いたいのか分かりませんでした。今も、全部説明できるわけではありません。でも、食事だけが目的ではなかったと思います」

水月は海へ目を向けた。

胸の奥で、何かが大きく動いている。

怖さは消えていない。

それでも、聞かなければよかったとは思わなかった。

「私は、海斗さんが来ると思っていませんでした」

「そうですよね」

「でも、一か月前、店の外に立っている姿を覚えていました」

「僕が入らずに帰った朝ですか」

水月はうなずいた。

「昼の営業中に、来るかもしれないと思いました」

「行けばよかったです」

「来なかったので、少しだけ気になりました」

「少しだけ?」

海斗が尋ねる。

水月は答えなかった。

その沈黙を、海斗は無理に埋めなかった。

遠くからバスのエンジン音が聞こえてきた。

待合スペースにいた夫婦が立ち上がる。

海斗も鞄を持った。

「最初のメールは、東京へ着いてから送ります」

「急がなくて構いません」

「返事も、急がなくて大丈夫です」

「分かっています」

「同じことを何度も言うと、催促になりますね」

「少しだけ」

水月が答えると、海斗は苦笑した。

バスが停留所へ入ってくる。

扉が開く。

海斗は乗り込む前に、水月へ向き直った。

「来てくれて、ありがとうございました」

「今日は、私が来たいと思ったので来ました」

「はい」

海斗の笑顔が、前に会ったときより自然になっていた。

「また、連絡します」

「待っています」

口にしてから、水月は自分の言葉に驚いた。

海斗も一瞬目を見開いた。

水月は言い直さなかった。

海斗は小さく頭を下げ、バスへ乗った。

窓際の席へ座る。

発車するとき、水月は片手を上げた。

海斗も窓越しに手を上げる。

バスが道路を進み、角を曲がって見えなくなる。

水月は誰もいなくなった停留所に立っていた。

連絡先を渡した。

海斗の手に、自分へつながる道を一つ預けた。

不安は残っている。

それでも、取り返したいとは思わなかった。

店へ戻ると、午前十時を過ぎていた。

昼の開店までは、一時間半ある。

水月は調理着を整え、止めていた仕込みを再開した。

ツバスへ塩を振り、大根を炊く。いつもより作業が遅れているが、慌てるほどではない。

十一時半、予定どおり暖簾を出した。

吉岡夫妻が来て、観光客の女性二人が入り、最後に源治と陸が現れた。

「予約したぞ」

源治が得意そうに言った。

「昨夜、電話をいただきました」

「忘れてへんかったやろ」

「予約をしていただければ、席は用意します」

源治はカウンターへ座り、水月の顔を見た。

「間に合ったんか」

「何のことですか」

「散歩や」

「仕込みの途中で、少し歩いただけです」

「そういうことにしとくわ」

陸が横から源治を止めた。

「じいちゃん、黙って飯を食べよう」

「何や。お前まで水月ちゃんの味方か」

「誰の味方でもない。腹が減っとるだけや」

水月は二人の前へ料理を置いた。

ツバスの照り焼き、大根と里芋の煮物、イカと水菜の酢味噌和え。

源治は照り焼きを一口食べ、何度もうなずいた。

「今日の魚はええな」

「陸さんが選んだそうです」

水月が言うと、陸の表情が明るくなった。

「ほんまですか」

「源治さんから聞きました。脂の乗り方を見て、陸さんが一本選んだと」

「じいちゃん、そんなことまで話したん?」

「ええことは言いふらすんや」

源治は平然と答えた。

「傷をつけたことも言いふらしたやないか」

「あれも勉強や」

陸は不満そうにしながらも、照り焼きを食べた。

「うまい」

水月は厨房から二人を見た。

源治は、失敗した陸を叱った。

同時に、陸が選んだ魚を水月へ伝えた。

失敗も成果も、一人のものとして扱っている。

〈佳月〉では、違った。

失敗は下の者の責任になり、成果は上の者へ集められた。

同じ厨房でも、人と人との関係は一つではない。

過去に裏切られたからといって、すべての信頼が同じ結末へ向かうわけではない。

昼の営業を終えたあと、水月は前掛けのポケットへ手を入れた。

そこに便箋はない。

一瞬だけ、何かを落としたような感覚があった。

すぐに思い出す。

紙は海斗へ渡した。

空になったポケットへ手を入れたまま、水月は小さく息を吐いた。

火曜日、秋祭りで出す汁物の試作を行った。

店の休業日に、澄江、源治、陸、吉岡佳代、近所に住む中村文子が「静波」へ集まった。

厨房へ全員が入ることはできないため、客席にも作業台を出した。

野菜を切る担当、魚のすり身を練る担当、出汁を取る担当。水月は事前に役割を紙へ書いていた。

「学校の調理実習みたいやな」

源治が言う。

「源治さんは、魚の骨を処理してください」

「俺も包丁を使うんか」

「漁師でしょう」

「獲るのと料理するのは違う」

「骨を適当な大きさに切るだけです」

水月は、それぞれの作業を説明した。

佳代と文子が大根と人参を切る。

大きさを揃えてほしいと伝えたが、二人の切った野菜には少し差があった。

水月は並べ直そうとして、手を止めた。

祭りで出す汁物だ。

多少大きさが違っても、火の通りを確かめながら煮ればよい。

「これくらいでええ?」

佳代が尋ねた。

水月は一つを手に取った。

「はい。ただ、大きいものはもう半分にしてください」

「全部やり直しやなくてよかった」

佳代は笑った。

陸は魚のすり身を練っていた。

力を入れすぎ、ボウルが何度も動く。

水月は横から手を出しかけた。

代われば早い。

自分で練れば、粘りの状態も間違えない。

だが、祭りの当日も水月一人では作れない。

「陸さん、ボウルの下へ濡れ布巾を敷いてください」

水月は口頭で伝えた。

陸が布巾を敷く。

ボウルが動かなくなると、作業は安定した。

「このくらい?」

陸がすり身を持ち上げる。

「もう少しです。指で持ち上げて、落ちるまでに少し間ができるところまで」

水月は見本を見せ、再び陸へ任せた。

すべてを自分で行うのではなく、必要なところだけを伝える。

思っていたより難しかった。

誰かの手元が気になり、自分ならもっと速くできると思う。それでも、相手が失敗する前にすべて取り上げれば、任せたことにはならない。

一時間ほどかけ、汁物が完成した。

魚のすり身へ生姜と葱を混ぜ、団子にして出汁へ落とす。大根、人参、白菜を加え、塩と薄口醤油で味を整えた。

全員で客席へ座り、試食する。

「うまいな」

源治が最初に言った。

「少し薄くない?」

文子が尋ねる。

「祭りでは、作ってから時間がたつので、煮詰まります。最初は、このくらいでいいと思います」

水月は答えた。

澄江が魚の団子を食べる。

「陸くんが練ったんやろ。柔らかくできとるよ」

陸は嬉しそうに源治を見た。

「俺でも料理できたな」

「水月ちゃんが横で見とったからや」

「でも、じいちゃんは骨を切っただけやろ」

「出汁の大事な仕事や」

皆が笑った。

水月も、その中で笑った。

自分以外の人が切った野菜。

陸が練ったすり身。

源治が処理した骨から取った出汁。

水月が一人で作る料理とは、少し違う。

大根の厚みは揃っておらず、魚の団子も一つずつ形が違った。

それでも、おいしかった。

「当日も、この役割でやりましょう」

水月が言うと、皆がうなずいた。

「水月さん」

澄江が向かい側から声をかけた。

「何ですか」

「今日は、ちゃんと任せられたな」

水月は汁物の椀へ目を落とした。

「何度か、代わりたくなりました」

「顔に出とった」

「分かりましたか」

「分かりやすかったよ」

「次は気をつけます」

「顔に出てもええ。手を出さんかったら十分や」

澄江は満足そうに汁を飲んだ。

皆が帰ったあと、水月は片づけを始めた。

作業台の上には、切り落とした野菜の端や、使い終えた布巾が残っている。

一人で試作すれば、もっと早く終わっただろう。

洗い物も少なくて済んだ。

だが、一人では分からなかったことがあった。

陸には、口頭で状態を説明すれば伝わる。

佳代と文子の切り方には癖があるため、当日は火の通りを見て、鍋へ入れる順番を変えた方がよい。

源治は料理の作業には慣れていないが、骨や魚の扱いは誰より速い。

誰かへ任せるとは、完成を諦めることではない。

相手の手を見て、自分とは違うやり方を知り、必要な部分だけ調整することだった。

水月は洗い終えた椀を拭いた。

海斗へメールアドレスを渡したことも、同じなのかもしれない。

連絡先を教えたからといって、相手へ自分の時間をすべて渡したわけではない。

返信する時刻も、話す内容も、自分で決められる。

海斗の言葉を受け取りたくない日には、画面を閉じてもよい。

それでもつながりは消えない。

夜、二階へ上がり、ノートパソコンを開いた。

個人用の受信箱を確認する。

母親から返信が届いていた。

〈町の皆さんと作るなんて、楽しそうですね。無理をしすぎないでください。祭りが終わったら、写真を見せてください〉

水月はその文章を読み、返信した。

〈分かりました。写真を撮って送ります〉

海斗からのメールは、まだ届いていなかった。

東京へ着いたら送ると言っていた。

もう二日が過ぎている。

仕事が忙しいのかもしれない。

水月が返事を急がなくてよいと言ったため、海斗も送る時期を考えているのかもしれない。

受信箱を閉じようとして、手を止める。

来ていないことを残念に思っている。

自分の気持ちを認めると、不安より先に、わずかな笑みがこぼれた。

水月はパソコンを閉じた。

待つと伝えたのは自分だった。

ならば、待てばよい。

窓の外では、夜の湾に漁船の明かりが揺れている。

水月は椅子へ座り、明日の献立帳を開いた。

文字を書き始めたとき、閉じたパソコンから、新着メールを知らせる短い音が聞こえた。

水月の手が止まる。

すぐには画面を開かなかった。

一度息を整え、献立帳のペンを置く。

それから、ゆっくりとノートパソコンの蓋を開いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。