第6章 真摯な願い
雨音が弱まるまで、海斗は観葉植物を枯らした話を続けた。
水月が過去を語り終えたあと、何を言えばよいのか分からなかった。
軽率な慰めは口にしたくなかった。今の店があるのだから、つらい経験にも意味があったのだとは、決して言えなかった。
水月が受けた仕打ちは、店を開くために必要な試練ではない。
起きる必要のなかったことだった。
信頼していた先輩に料理を奪われ、料理長には訴えを退けられた。声を上げた水月だけが仕事を外され、最後には料理を作れなくなった。
その苦しみを、きれいな言葉で包むべきではないと思った。
海斗は一席分の距離を保ったまま、水月が涙を拭うのを待った。
近づいて背中をさすることも考えた。
だが、それは自分が何かをしていると感じたいだけではないかと思い、動かなかった。
水月は厨房へ立ち、湯を沸かした。
「ただ……お湯が沸くまで、話していてください」
そう言われ、海斗が選んだのが、枯らした観葉植物の話だった。
二年前、会社の同僚から小さな鉢植えをもらった。
机へ置いていたが、仕事が忙しくなるにつれ、水をやることを忘れた。気づいたときには葉が落ち、土も固く乾いていた。
海斗は慌てて大量の水を与えた。
それでも植物は戻らなかった。
西田へ話すと、水を与えなかったあとで一度に注いでも、根が弱っていれば吸えないのだと言われた。
「西田さんという方は、植物にも詳しいんですか」
新しいほうじ茶を淹れながら、水月が尋ねた。
「詳しいわけではないと思います。僕よりは知っていますが」
「今も、植物は置いているんですか」
「置いていません。また枯らしそうなので」
「今なら育てられるかもしれません」
「水月さんが言うと、挑戦してみようという気になりますね」
「私は、植物を育てるのが得意なわけではありません」
水月は壁際の花器を見た。
薄紫色の桔梗が一輪、細い茎を伸ばしている。
「この花も、澄江さんが持ってきてくれたものです」
「では、水月さんが育てたわけではない?」
「私は水を替えているだけです」
「それでも、枯らさずに保っている」
海斗が言うと、水月は少しだけ笑った。
「花器の水は、毎日替えますから」
「僕は鉢植えの水を、何日も忘れました」
「種類によっては、毎日与えると根が腐ります」
「やっぱり、水月さんの方が詳しいじゃないですか」
「それくらいは知っています」
二人分のほうじ茶が、カウンターへ置かれた。
水月は、先ほどと同じように一席空けて座った。
距離は変わっていない。
それでも海斗には、話を聞く前より近く感じられた。
水月は泣いたことを隠すように、顔を伏せて湯飲みを持っている。目元はわずかに赤かった。
「話さなければよかったと思っていますか」
海斗は尋ねた。
水月はしばらく考えた。
「分かりません」
正直な答えだった。
「明日になったら、後悔するかもしれません」
「後悔してもいいと思います」
水月が顔を上げる。
「話してよかったと思わなければいけないわけではありません。話したことで苦しくなることもあると思います」
「それなら、なぜ聞いたんですか」
責める口調ではなかった。
海斗は湯飲みを両手で包んだ。
「知りたかったからです」
言葉にすると、身勝手に聞こえた。
「水月さんが、なぜこの町へ来て、なぜこの店を六席にしたのか。昨日、少しだけ話してもらってから、気になっていました」
「知って、どう思いましたか」
問いかけられ、海斗はすぐに答えられなかった。
かわいそうだと思った。
そう答えるのは違う。
強い人だと思った。
それも、水月が望む言葉ではない気がした。
「腹が立ちました」
海斗は言った。
水月が目を見開く。
「長谷川さんにも、料理長にも。長谷川さんが助言をしたとしても、水月さんが考えて記録していた料理を、自分一人のものとして出していい理由にはならない。店の料理だから個人のものではないと言いながら、評価だけは長谷川さんが受けた。それは、おかしいです」
声が強くなっていた。
水月は黙って聞いている。
「でも、僕が怒っても何も変わりません。水月さんが受けたことを、僕が分かったとも言えません」
海斗は一度息を吐いた。
「ただ、水月さんのせいではないと思いました」
水月の指が、湯飲みの縁で止まった。
「ノートを貸したからでも、先輩を信じたからでもありません。信頼した相手のものを奪った人が悪い。訴えを聞かなかった料理長にも責任があります」
「私も、そう思おうとしました」
水月の声は小さかった。
「でも、何度も言われると分からなくなるんです。厨房の料理は店のものだ。先輩に助言をもらった。私の料理はまだ完成していなかった。そう言われ続けると、本当に私が大げさに騒いだだけなのではないかと思いました」
「違います」
海斗は言い切った。
水月の視線を受け、少しだけ声を抑える。
「僕は料理の世界を知りません。それでも、話を聞いた限りでは、違うと思います」
水月は何も答えなかった。
湯飲みを持ち上げ、ほうじ茶を一口飲む。
雨はさらに弱まっていた。
激しく窓を打っていた音が、細かな水滴の音へ変わっている。
水月は入口の外を確かめた。
「これなら、歩けると思います」
「長居して、すみませんでした」
「私が待っていてくださいと言ったんです」
海斗は席を立った。
水月も立ち上がり、預かっていた上着を取りに行く。袖に触れて、乾いていることを確かめてから海斗へ渡した。
「ありがとうございます」
上着を着る。
濡れていた肩の辺りには、わずかに水分が残っていた。
水月は戸棚から小さな手拭いを取り出した。
「傘を差しても、風があると濡れます。使ってください」
「宿で返します」
「店のものではありません。差し上げます」
白い布に、藍色の魚が一匹だけ染められている。
土産物として売られているものではなく、普段使いの手拭いだった。
海斗は受け取った。
「大切に使います」
「使うものなので、大切にしまわないでください」
「分かりました」
海斗は笑った。
水月も、ほんの少し笑った。
扉を開ける。
雨は小降りになっていた。
路地にはいくつもの水溜まりができ、舟屋の軒先から雨水が落ちている。
「足元に気をつけてください」
「はい」
「美代さんに、遅くなったことを謝っておいてください」
「水月さんの店にいたと言えば、分かってくれると思います」
海斗は傘を開いた。
数歩進み、振り返る。
水月はまだ戸口に立っていた。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
前日と同じ言葉だった。
けれど、声の響きは違って聞こえた。
海斗が角を曲がるまで、水月は店の前に立っていた。
「潮路」へ戻ると、美代が帳場で待っていた。
「遅かったね」
叱る口調ではなかった。
「雨が強かったので、店で待たせてもらいました」
「水月さんのところ?」
「はい」
美代は海斗の上着と、手にしている傘を見た。
「濡れたでしょう。タオルを出そうか」
「水月さんから手拭いをもらいました」
海斗が見せると、美代の眉がわずかに上がった。
「へえ」
「何ですか」
「別に」
美代はそれ以上聞かなかった。
海斗は、水月が過去を話したことを誰にも言うつもりはなかった。
美代が水月とどれほど親しいのかは分からない。知っている話かもしれないし、知らないかもしれない。
どちらにしても、海斗が伝えることではなかった。
「もう風呂は沸いていますよ」
「ありがとうございます」
「温まって、早く休んだ方がええ」
美代は帳場の時計を見た。
「明日の朝は、少し遅くしても大丈夫やからね」
「いつもどおりでお願いします」
「無理に起きんでもええよ」
「目覚ましは、かけません」
海斗が答えると、美代は満足そうにうなずいた。
部屋へ戻り、上着を脱ぐ。
水月からもらった手拭いを、鞄の上へ置いた。
藍色の魚は、尾を少し曲げた姿で泳いでいる。豪華なものではない。何度か洗われ、布は柔らかくなっていた。
水月が自分で使うために持っていたものだろう。
海斗は、その布を丁寧に広げた。
大切にしまわないでください。
水月の声を思い出す。
海斗は手拭いで、濡れた髪を拭いた。
風呂に入ったあと、布団へ横になった。
外では、屋根から雨水の落ちる音が続いている。
眠気はあった。
それでも、すぐには眠れなかった。
水月が話した一つひとつの場面が、頭に浮かんだ。
深夜の厨房で試作を続ける姿。
信頼した先輩へノートを渡す手。
自分の料理が別の名前で出されるのを、焼き台の前から見ていた時間。
証拠を持って訴えても、感情的になるなと言われたこと。
水月は、それらを淡々と話した。
だが、平気だったはずはない。
何年たっても、言葉にするだけで涙が出るほど残っている。
海斗は天井を見つめた。
自分は裏切られたわけではない。
仕事を奪われたわけでも、成果を他人のものにされたわけでもなかった。
水月の経験と、自分の状況を同じものとして考えることはできない。
それでも、好きだった仕事を続けられなくなる感覚には、思い当たるところがあった。
海斗がプログラミングを始めたのは、大学一年の頃だった。
最初に作ったのは、講義の予定と課題の締め切りを管理する小さなアプリだった。
市販の予定管理アプリを使えば済むことだったが、自分で作ったものが画面の中で動くことに夢中になった。
書いた命令に間違いがあれば動かない。
直せば、正しく動く。
人間関係のように、相手の機嫌や立場を読み取る必要はなかった。分からないことを調べ、試し、結果を確かめる。その積み重ねが楽しかった。
就職して最初の二年ほどは、毎日のように新しいことを覚えた。
自分が書いた機能が公開され、利用者から便利になったという声が届いたときは嬉しかった。
障害が起き、夜遅くまで対応した日もあった。
復旧した画面を見た瞬間には、仲間たちと喜んだ。
大変でも、意味のある仕事だと思っていた。
変わり始めたのは、入社四年目だった。
経験のある先輩が相次いで退職し、海斗の担当が増えた。
最初は、頼られることが誇らしかった。
黒田から、海斗に任せれば安心だと言われた。後輩からも質問が集まり、顧客との打ち合わせにも呼ばれるようになった。
断らなかった。
自分ならできると思った。
できなければ、期待を裏切ることになると感じた。
毎日少しずつ帰宅が遅くなった。
休日にも仕事用の携帯電話を確認し、連絡が来れば返した。
当時付き合っていた女性から、仕事の話しかしていないと言われたことがある。
真由という、大学時代からの友人だった。
社会人になってから交際を始め、二年ほど付き合った。
真由は、海斗が忙しいことを理解していた。
約束の時間に遅れても、急に会えなくなっても、最初は何も言わなかった。
ある冬、真由の誕生日に食事へ行く約束をしていた。
店も予約していた。
その日の夕方、会社のシステムに不具合が見つかった。
海斗が担当していない機能だったが、原因を調べられる人が少なかった。黒田に残れるかと聞かれ、海斗は迷わず了承した。
真由へ、遅くなると連絡した。
一時間後、今日は無理だと伝えた。
彼女から返ってきたのは、〈分かった〉という短い文章だった。
数日後、真由から別れを告げられた。
「誕生日に会えなかったからじゃない」
彼女は言った。
「海斗の中で、私との約束は、いつでも動かしていいものになってる。仕事の予定は守るのに、私との予定は守らなくても許されると思ってる」
海斗は否定しようとした。
だが、言葉が出なかった。
実際、そのとおりだった。
真由なら分かってくれる。
事情を説明すれば許してくれる。
心のどこかで、そう思っていた。
「仕事を辞めてほしいわけじゃない。私を選んでほしいとも言ってない」
真由は続けた。
「でも、私が寂しいと言うたびに、仕方がないって顔をする海斗と一緒にいるのは、もう疲れた」
海斗は謝った。
これからは変わると言った。
だが、真由は首を振った。
「変わるなら、私のためじゃなくて、自分のために変わった方がいいよ」
その言葉の意味を、海斗は理解しなかった。
別れたあと、仕事へ戻った。
悲しさを感じないほど忙しくしていれば、時間が解決すると思った。
結果として、真由のいない生活に慣れただけだった。
水月が大切なものを奪われたのに対し、海斗は、自分で大切なものを後回しにした。
同じではない。
けれど、仕事の中で自分を見失ったことには変わりなかった。
気づいたときには、何を食べたいのかも、どこへ行きたいのかも分からなくなっていた。
伊根へ来た最初の日も、目的はなかった。
ここではない場所へ行きたい。
それだけだった。
そこで、水月の料理を食べた。
海斗は枕元の携帯電話を取った。
画面を開き、メモアプリへ文字を入力する。
水月さんへ何を伝えたいのか。
何度も書いては消した。
自分も仕事で苦しんだ。
そう書けば、水月の経験を自分と同じものにしてしまう気がした。
あなたは悪くない。
それは店で伝えた。
今度は、自分のことも話したい。
そう書いてから、手を止めた。
なぜ話したいのか。
水月に理解してもらいたいからか。
同情してほしいからか。
それとも、自分だけが彼女の過去を知ったままでいることが不公平に感じられるからか。
どれも少しずつ当てはまっていた。
それ以上に、海斗は水月との会話を、今夜だけで終わらせたくなかった。
東京へ戻っても、彼女がどのような一日を過ごしたのか知りたい。
今日、どんな魚が揚がったのか。
祭りの料理はうまくできたのか。
水月が疲れた日は、誰かに頼ることができたのか。
自分の仕事が少しずつ変わっていることも、伝えたいと思った。
それが恋愛感情なのか、海斗にはまだ分からなかった。
水月の容姿に惹かれていないわけではない。
調理着の袖から伸びる細い手首や、料理の説明をするときだけ速くなる言葉。笑うのを隠すように俯く姿を、何度も思い出している。
だが、それだけで東京と伊根の距離を越えられるとは思わなかった。
自分はまだ、生活を立て直している途中だった。
誰かとの関係を始めれば、すべてがよくなると考えるのは危うい。
水月にも、水月が守っている暮らしがある。
海斗はメモをすべて消した。
今夜、答えを出す必要はない。
そう考え、携帯電話を伏せた。
翌朝、雨は上がっていた。
窓の外には青空が広がり、濡れた屋根が朝日に光っている。
朝食の席へ着くと、美代が海斗の顔を見た。
「眠れた?」
「少し考え事をしていました」
「仕事?」
「仕事のことも」
美代は味噌汁を置いた。
「考えたら答えが出ること?」
海斗は首を振った。
「たぶん、すぐには出ません」
「なら、朝ご飯を食べてから考えたらええ」
簡単な言葉だった。
だが、空腹のまま深刻なことを考えるより、先に食事を取る方がよい。
海斗は箸を持った。
朝食は、鯖の塩焼きと卵焼き、ほうれん草のお浸しだった。
食べながら、美代へ尋ねる。
「水月さんが、この町へ来た頃をご存じですか」
美代は少し考えた。
「知っとるよ。うちにも何日か泊まっていたから」
「そうなんですか」
「住む場所が決まるまでね。宮下さんと舟屋を見て回っとった」
美代は海斗の顔を見た。
「本人から聞いたの?」
「少しだけ」
「なら、私からは何も言わん方がええね」
美代はそれ以上話さなかった。
町の中では、何でもすぐに伝わるように見える。
だが、守るべきことは口にしない。その線を、美代は理解していた。
海斗も質問を続けなかった。
午前中、海斗は町の北側まで歩いた。
雨上がりの空気は澄み、遠くの山の稜線まではっきり見えた。
港では陸が魚箱を洗っていた。
「おはようございます」
陸から先に声をかけてきた。
「おはよう。今日は船に乗らなかったんですか」
「帰ってきたところです。朝は三時から出とったんで」
陸は水道を止め、腰を伸ばした。
「東京の仕事って、朝は何時からですか」
「会社は九時からです」
「終わるのは?」
海斗は答えに迷った。
「決まっているはずなんですが、遅くなることが多いです」
「海の仕事より大変やな」
「朝の三時から働く人に言われたくないですね」
陸が笑う。
「でも、海は暗くなったら終わることが多いから。天気が悪かったら出られんし」
海の都合は、こちらでは決められない。
水月の言葉が浮かんだ。
海斗の仕事にも、本当は限界がある。
人の集中力にも、使える時間にも、システムへ加えられる変更にも限りがある。それを無視して予定だけを先に決めれば、どこかに無理が生まれる。
「高瀬さん、明日帰るんですか」
陸が尋ねた。
「はい。朝のバスで」
「また来ます?」
「まだ決めていません」
「来たら、今度は船に乗りますか」
「酔わない船なら」
「それは海に聞かんと分からんな」
陸は源治に似た笑い方をした。
海斗も笑った。
宿へ戻る途中、母親から電話がかかってきた。
前回、仕事は普通だと嘘をついた。
画面に表示された名前を見ながら、海斗はしばらく立ち止まった。
通話ボタンを押す。
「もしもし」
「今、大丈夫?」
「大丈夫」
「外にいるの? 風の音がするけど」
海斗は海沿いの道を見た。
「京都に来ている」
「出張?」
「違う。休暇を取っている」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
「この前、仕事があるって言ってたでしょう」
「嘘をついた」
「何かあったの?」
海斗は、どこまで話すか迷った。
心配をかけたくない。
だが、心配させないためについた嘘は、自分を一人にしただけだった。
「仕事中に、考えられなくなった。眠れない日も続いて、医師から休むように言われた」
母親はすぐに言葉を返さなかった。
海斗は、責められることを予想した。
なぜ早く言わなかったのか。
実家へ戻ってこい。
仕事を辞めた方がいい。
だが、母親が最初に尋ねたのは別のことだった。
「今は、眠れているの?」
「ここでは眠れている」
「食べてる?」
「食べてる。前よりは」
「そう」
母親の息を吐く音が聞こえた。
「話してくれて、ありがとう」
海斗は海を見た。
昨夜、自分が水月へ伝えたのと同じ言葉だった。
「今まで言わなくて、ごめん」
「言えないときもあるでしょう」
母親の声も、少し震えていた。
「帰ってきなさいとは言わない。でも、一人でどうにもならなくなったら、連絡して」
「分かった」
「本当に?」
「今度は、ちゃんと言う」
約束できるか分からなかった。
それでも、言おうと思った。
通話を終えたあと、海斗はしばらくその場に立っていた。
話したことで、母親の心配が消えたわけではない。
海斗の仕事の問題も解決していない。
それでも、嘘をつき続ける重さは減った。
昼過ぎ、海斗は「静波」の前を通った。
暖簾が出ている。
店内には客の姿が見えた。
今日は予約をしていない。
入るつもりはなかった。
水月が自分の過去を話した翌日に、何事もなかったように客席へ座るのも違う気がした。
海斗は店の前を通り過ぎた。
近くの食堂で昼食を取り、午後は宿の部屋で過ごした。
本を開いても、同じ行を何度か読み返した。
仕事で文字が頭へ入らなかったときとは違う。
水月へ何を伝えるかを考えていたため、集中できなかった。
午後二時半を過ぎる。
海斗は本を閉じた。
明日の朝には伊根を出る。
水月へ何も言わないまま帰れば、連絡する方法はなくなる。
店の電話番号は分かる。
だが、客として予約を入れる以外の用件で店へ電話することはためらわれた。
海斗は宿を出た。
「静波」の暖簾は外されていた。
昼の営業を終えたらしい。
戸の前で足を止める。
片づけの邪魔になるかもしれない。
昨日、長い時間話したことで、水月は疲れているかもしれない。
帰った方がよい理由がいくつも浮かんだ。
それでも、今日は立ち去らなかった。
戸を二度叩く。
しばらくして、水月が扉を開けた。
調理着の袖を肘までまくり、手には布巾を持っている。
海斗を見ると、少し驚いた。
「どうされましたか」
「片づけ中ですよね」
「もう少しで終わります」
「あとで出直します」
海斗が一歩下がると、水月は扉を開けたままにした。
「明日の朝、帰られるんですよね」
「はい」
「少し待っていただけるなら、入ってください」
店内には、洗い終えた器が伏せられていた。
海斗はいつもの端の席へ座った。
水月は厨房へ戻り、残っていた皿を洗う。
「昨日は、眠れましたか」
海斗が尋ねた。
「少しだけ」
「話したことを、後悔していますか」
水月は蛇口を止めた。
「少しだけ」
正直な返事だった。
海斗は胸が痛んだ。
自分が聞いたことで、水月を苦しませた。
「すみません」
「でも、話さなければよかったとは思っていません」
水月は振り返った。
「まだ、どちらなのか分からないだけです」
「分からないままで大丈夫です」
「海斗さんは、すぐにそう言いますね」
「僕も、分からないことが多いので」
水月は布巾で手を拭き、カウンターの内側へ立った。
「今日は、何をしに?」
海斗は姿勢を正した。
昨夜から考えていたことを、飾らずに伝える。
「僕のことも、少し話したいと思って来ました」
水月は何も言わず、待った。
海斗は、プログラミングを始めた頃のことを話した。
書いたものが動くことが楽しかったこと。
誰かの役に立つものを作ることが嬉しかったこと。
経験を積むほど仕事が増え、頼られることを断れなくなったこと。
交際していた真由との約束を後回しにし、別れることになったこと。
話しているうちに、自分の過去を正当化したくなる瞬間があった。
仕事が忙しかった。
自分しか対応できる人がいなかった。
真由も最初は理解してくれていた。
だが、どれも相手との約束を軽く扱ってよい理由にはならない。
海斗は言い訳を加えずに話した。
水月は途中で口を挟まなかった。
話し終えると、海斗は指を組んだ。
「水月さんとは、同じではありません」
「同じではない?」
「水月さんは、信じた相手に大切なものを奪われた。僕は、自分で大切なものを後回しにしました」
水月はしばらく考えた。
「自分で選んだつもりでも、本当に選べたのかは分かりません」
海斗は顔を上げた。
「選べた?」
「断れば評価が下がる。周りに迷惑をかける。自分がいなければ仕事が進まない。そう思わされていたなら、自由に選んだとは言えない気がします」
「でも、真由との約束を破ったのは僕です」
「それは、海斗さんの責任だと思います」
水月ははっきり言った。
海斗は胸の奥を突かれたように感じた。
だが、不快ではなかった。
「ただ、すべてを海斗さん一人の責任にしたら、また同じ働き方へ戻るかもしれません」
水月は続けた。
「会社の問題と、海斗さん自身の選び方。両方を見ないといけないのではありませんか」
海斗はうなずいた。
慰めではなかった。
海斗の責任を消さず、同時に、彼一人の弱さへ問題を押し込めない。
水月は、海斗が聞きたかった言葉ではなく、自分が感じたことを話している。
そのことが嬉しかった。
「水月さんに話してよかったです」
「私は、厳しいことを言ったと思います」
「だからです」
海斗は一度息を整えた。
ここから先を伝えるために来た。
逃げずに言葉にしなければならない。
「もう一つ、お願いがあります」
水月の表情に、わずかな警戒が戻った。
「何でしょう」
「連絡先を教えてもらえませんか」
店内の空気が止まったように感じた。
水月の指が、布巾の端をつかむ。
海斗は急いで言葉を続けなかった。
彼女が考える時間を奪いたくなかった。
「予約なら、店へ電話をいただければ」
「予約のためではありません」
「では、何のためですか」
水月の声が硬くなった。
当然の反応だった。
海斗は両手をカウンターの上へ置いた。
「東京へ戻ってからも、話をしたいと思いました」
「なぜですか」
水月は海斗をまっすぐ見た。
曖昧な答えを許さない目だった。
「水月さんと話して、自分のことを考えられたからです」
「それなら、海斗さんのためですか」
「はい。それもあります」
海斗は否定しなかった。
「でも、それだけではありません」
水月は黙っている。
「今日、どんな魚が揚がったのか。祭りの料理はどうなったのか。水月さんが、ちゃんと休めたのか。そういうことを知りたいと思いました」
自分の声が震えている。
「僕の仕事がどうなったのかも、話したいです。元気になったときだけではなく、うまくいかなかった日にも」
水月は視線を落とした。
「昨日のことを話したから、私を放っておけなくなったんですか」
「違います」
海斗は答えた。
「水月さんを助けられるとは思っていません。助けてほしいとも思っていません」
言葉を選ぶ。
「ただ、始まった会話を、ここで終わらせたくないんです」
水月の表情は変わらなかった。
「電話番号でなくて構いません。メールでも、手紙でも。水月さんが負担に感じない方法で」
「連絡先を教えたら、どのくらい連絡するつもりですか」
「分かりません」
「毎日ですか」
「水月さんが望まないなら、しません」
「返事をしなかったら?」
「待ちます。ただ、返事を待っていると何度も伝えることはしません」
「私が、もう連絡しないでほしいと言ったら?」
「やめます」
海斗は一つずつ答えた。
自分に都合のよい答えを求めているわけではない。
断られる可能性は考えていた。
むしろ、水月がすぐに承諾するとは思っていなかった。
「今、答えなくて大丈夫です」
海斗は言った。
「明日の朝、九時台のバスで帰ります。それまでに決めてほしいという意味でもありません」
「では、いつ答えればいいんですか」
「答えなくても構いません」
水月の眉が寄った。
「それでは、お願いした意味がないでしょう」
「僕が伝えたかったんです」
海斗は水月を見た。
「また話したいと思っていることを、言わないまま帰りたくありませんでした」
長い沈黙が流れた。
店の外を、軽トラックが通り過ぎる。エンジン音が遠ざかると、床下から水の音が聞こえた。
水月はカウンターに置いた布巾を畳んだ。
一度広げ、端を揃えて、もう一度畳む。
「少し、考えさせてください」
ようやく答えた。
海斗はうなずいた。
「はい」
「断るかもしれません」
「分かっています」
「理由を説明しないかもしれません」
「それでも構いません」
水月は海斗の顔を見た。
確かめるような視線だった。
「本当に、明日の朝に帰るんですね」
「九時四十分のバスです」
「潮路から乗るんですか」
「宿に近い停留所から乗ります」
水月は小さくうなずいた。
それ以上は何も言わなかった。
海斗は席を立った。
「片づけ中に、すみませんでした」
「今日は、話しに来てくださったんでしょう」
「はい」
「それなら、謝らないでください」
水月は入口まで見送った。
空は晴れていた。
雨に洗われた路地へ、午後の陽が差している。
「明日の朝は冷えるそうです」
水月が言った。
「上着を着ていきます」
「忘れ物をしないでください」
「気をつけます」
海斗は頭を下げた。
戸口を離れ、宿へ向かう。
歩き始めても、水月から呼び止められることはなかった。
振り返らなかった。
答えを急かさないと伝えた以上、彼女がどのような顔で見送っているのかを確かめるべきではないと思った。
ポケットの中には、水月からもらった手拭いが入っている。
宿へ戻ったら、帰りの荷物をまとめる。
明日の朝には、この町を離れる。
連絡先を教えてもらえなければ、次にいつ会えるかは分からない。
それでも海斗は、頼んだことを後悔していなかった。
相手の答えを決めることはできない。
自分にできるのは、望んでいることを隠さず伝え、答えを待つことだけだった。




