↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『静波の寄せる場所』  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/6

第5章 傷跡の物語

翌朝、水月が店の裏口を開けると、細い雨が降っていた。

屋根を叩くほどの強さはない。灰色の空から糸のような雨が落ち、伊根湾の水面に小さな輪を作っている。

天気予報では、午後から回復するはずだった。

水月は軒下から空を見上げ、仕入れに使う箱を厨房へ運び込んだ。

午前五時を少し過ぎた頃、源治と陸が魚を届けに来た。

今日の魚は、アジと小ぶりのカワハギだった。

「昨日のサワラ、どうやった」

陸が尋ねた。

「身に問題はありませんでした。夜は昆布蒸しにしました」

「お客さん、残さんかった?」

「皆さん、きれいに召し上がりました」

陸は安心したように息を吐いた。

隣で源治が魚箱の蓋を閉める。

「魚の心配より、自分の腕の心配をせえ」

「朝からずっと、それ言うとるやないか」

「言われるようなことをしたからや」

二人の言い合いを聞きながら、水月はアジを一尾ずつ確認した。

「今日は、これを六尾いただきます」

「六尾?」

源治が眉を上げた。

「いつもより一尾多いやないか」

「昼は六名ですから」

「台帳では五名やなかったか」

水月は魚から顔を上げた。

「なぜ源治さんが、うちの予約人数を知っているんですか」

「昨日、小林から聞いた」

「町の中で、何人が私の店の予約状況を知っているんでしょう」

「悪いことには使わんから、安心せえ」

「そういう問題ではありません」

源治は笑いながら、もう一尾アジを箱から出した。

「東京の兄ちゃんが来るんやろ」

水月の手が止まった。

「どなたのことですか」

「昨日、小林と一緒におった客や」

「高瀬さんは、小林さんと一緒に来たわけではありません」

答えてから、余計なことまで教えたと気づいた。

源治の口元が緩む。

「高瀬いうんか」

「今の話は忘れてください」

「無理やな」

「源治さん」

水月が睨むと、源治は両手を上げた。

「分かった、分かった。名前は言わん」

すでに聞いた人が言っても意味はない。

陸は二人の顔を交互に見ている。

「東京の人って、この前、じいちゃんが網の直し方を話した人?」

「そうや。昨日また来たらしい」

「一か月で二回来たん?」

「そうらしいな」

陸まで感心したように水月を見た。

「食事が気に入ったと言っていました」

水月はそれだけ答え、魚を厨房へ運んだ。

源治と陸が帰ったあと、アジを捌き始める。

昼は塩焼きにする。

脂はまだそれほど強くない。皮目へ細く包丁目を入れ、塩を振って少し置く。カワハギは肝を裏ごしし、薄造りに添えることにした。

高瀬海斗。

予約台帳へ書いた名前が、頭に浮かぶ。

十一時半に来る。

自分から席が空いていると伝えた。

料理を多めに用意したのも、予約人数が一人増えたからにすぎない。

それでも、いつもより献立を考える時間が長かった。

海斗が魚をきれいに食べることを知っている。薄い味を好むことも、一口ずつ確かめるように食べることも分かっている。

誰が食べるのかを思い浮かべながら料理を作ることは、珍しくない。

吉岡夫妻には骨を外しやすい魚を選び、子どもが来る日は味つけを少し変える。酒を飲む客には、小鉢を一品増やすこともある。

客の顔を思い浮かべるのは、料理人として当然のことだった。

水月はそう考え、アジの腹へ串を通した。

午前七時頃、澄江が野菜を届けに来た。

籠の中には、蓮根、大根、水菜、まだ青い柚子が入っている。

「雨、やまんなあ」

澄江は肩についた水滴を払い、店内へ入った。

「午後にはやむ予報です」

「最近の天気予報は、外れることも多いからなあ」

水月が番茶を出すと、澄江は窓際の席へ座った。

一か月前なら、澄江が湯飲みを運ぼうとしただけで、水月は自分の領域へ入られたように感じていた。

今も、厨房の中まで手伝ってほしいとは思わない。

だが、客席で茶を飲んでいる姿には、もう違和感がなかった。

「昨日、東京の人が来たんやて?」

水月は湯飲みを置く手を止めた。

「源治さんから聞いたんですか」

「美代さんから」

「美代さんまで」

「町の宿に泊まって、同じ店に二日続けて行ったら、そら話にもなるよ」

「まだ二日続けてはいません」

「今日も来るんやろ」

「予約をいただいています」

澄江は水月の顔を見つめた。

「何ですか」

「いや、別に」

「何か言いたそうですね」

「水月さんが、自分から客に次の予約を勧めるなんて珍しいと思って」

「席が空いていたからです」

「そういうことにしとこか」

「本当に、それだけです」

声が少し強くなった。

澄江はそれ以上からかわず、番茶を飲んだ。

「どんな人?」

「東京で、コンピューター関係の仕事をしているそうです」

「年はいくつくらい?」

「知りません」

「結婚は?」

「知りません」

「恋人は?」

「知る必要がありますか」

「ただ聞いただけやないの」

「聞きすぎです」

澄江は楽しそうに笑った。

水月は蓮根を洗い始めた。

海斗について、自分が知っていることは少ない。

東京で働いていること。

仕事を休んだこと。

食べられない時期があったこと。

一人で伊根へ来たこと。

同僚へ仕事を任せられるようになったこと。

それだけだった。

年齢も、家族のことも、東京のどこに住んでいるのかも知らない。

知らないことの多さに気づくと、胸の内に小さな不安が生まれた。

水月は、その不安を押し込めるように蓮根へ包丁を入れた。

「祭りの試作、来週でええ?」

澄江が話題を変えた。

「はい。火曜日なら、店は休みです」

「集会所の台所を使う?」

「まずは、ここで少量を作ります。味が決まってから集会所で量を増やしましょう」

「誰を呼んだらええ?」

水月は少し考えた。

以前なら、一人で試作して、完成したものを皆に食べてもらっただろう。

だが、祭りで作る料理は、店の料理とは違う。

澄江が言ったように、皆で作り、皆で食べるものだ。

「澄江さんと、源治さん。それから、実際に調理を手伝う方を二人呼んでください」

「水月さんが最初から人を呼ぶなんて、やっぱり何かあったんやな」

「祭りの準備です」

「東京の人が来たからやない?」

「帰ってください」

水月が入口を指すと、澄江は笑いながら立ち上がった。

「昼にまた様子を見に来よかな」

「予約で満席です」

「外から見とく」

「見ないでください」

澄江は最後まで笑ったまま帰っていった。

午前十一時二十分。

昼の仕込みを終え、水月は暖簾を出した。

雨は弱くなっていたが、空はまだ灰色だった。

店内の照明をつけ、六つの席を見渡す。

最初に来たのは、町内に住む女性三人だった。

祭りの準備に参加する顔ぶれで、水月を見るなり、汁物を楽しみにしていると言った。

続いて、旅行中の夫婦が入ってきた。

最後の一席が残る。

十一時二十九分。

戸が開いた。

海斗が入ってきた。

「いらっしゃいませ」

水月は時計を見た。

「時間どおりですね」

「早く来すぎないように、近くを二周しました」

「そこまでしなくてもよかったのに」

「昨日、準備の邪魔をしたので」

「邪魔ではありませんでした」

言葉が自然に出た。

海斗は少し驚いたあと、前と同じカウンターの端へ座った。

水月は温かい番茶を置く。

「今朝は、どちらへ行かれたんですか」

「向井酒造の方まで歩きました。雨が強くなって、途中で軒下を借りました」

「濡れませんでしたか」

「少しだけ」

よく見ると、海斗の髪の先が湿っている。

上着の肩にも小さな水滴が残っていた。

「身体が冷えていませんか」

「歩いていたので大丈夫です」

昨日も同じような返事を聞いた。

水月は厨房へ戻り、予定していた小鉢に加えて、温かいすまし汁を先に出した。

大根、水菜、薄く切った柚子。味は控えめにしてある。

海斗は椀を両手で持ち、湯気を吸い込んだ。

「温まります」

「冷えていないと言っていませんでしたか」

「水月さんには、分かるんですね」

「髪が濡れていますから」

水月が答えると、海斗は自分の髪へ触れた。

「見れば分かりますね」

水月は笑いそうになった。

「今日は、アジです」

「昨日とは違う魚ですね」

「同じ魚を続けた方がよかったですか」

「いえ。毎日違う方が楽しみです」

海斗は料理が出るたびに、使われている食材を尋ねた。

蓮根の歯触りを残すために火を入れすぎないこと。大根は一度下茹でしてから出汁で炊いていること。アジには焼く直前ではなく、少し前に塩を振っていること。

水月は、聞かれたことに一つずつ答えた。

料理の説明をするのは嫌いではない。

客が食材や調理法に興味を持ってくれることは嬉しかった。

料亭にいた頃は、客へ料理の意図を説明するのは料理長か仲居の役目だった。厨房にいる水月の言葉が、そのまま客へ届くことはなかった。

「水月さんは、料理のことを話すとき、少し早口になりますね」

海斗が言った。

水月は手を止めた。

「そうですか」

「普段より言葉が増えるので」

「説明が長すぎましたか」

「いいえ。もっと聞きたいくらいです」

水月は返事をせず、次の器を用意した。

顔が熱くなっている。

厨房の火のせいだと思うことにした。

食事を終えた海斗は、ほかの客と同じ頃に店を出た。

帰り際、明日も来てよいかとは聞かなかった。

水月も、次の予約を勧めなかった。

それでも海斗は、翌日の夕方に店の前へ現れた。

その日は夜の予約に空きがなかった。

水月が断ると、海斗は残念そうな顔をしたが、すぐに頭を下げた。

「急に来た僕が悪いので、気にしないでください」

「明日の夜でしたら、一席あります」

また水月から言っていた。

「では、お願いします」

海斗は笑った。

「明日は、予約をした客として来ます」

その翌朝、源治が店へ来るなり言った。

「東京の兄ちゃん、昨日は美代さんのところで飯を食うたらしいぞ」

「それがどうかしましたか」

「水月ちゃんの店が満席やったからやろ」

「宿で夕食を取るのは普通です」

「美代さんが、よう食べるようになったって喜んどった」

水月も、少し嬉しかった。

それを源治に知られたくなくて、魚の確認へ視線を落とした。

海斗は、滞在中に町の人たちとも顔見知りになっていた。

源治が港で網を直していると、隣に座って話を聞いた。陸が魚箱を運んでいると、頼まれて一つを一緒に持った。

澄江とは、道端で出会っただけのはずが、気づけば畑まで案内されていた。

夕方、澄江が店へ来て、水月へ話した。

「高瀬さん、ええ人やな」

「もう名字まで聞いたんですか」

「聞いたんやない。向こうから名乗ってくれた」

「そうですか」

「東京で機械の仕事をしとるって。うちの古い携帯電話も見てもらったわ」

「旅行中の人に何を頼んでいるんですか」

「写真が消えたと思って。結局、別の場所に入っとっただけやけど」

「今度から宮下さんに聞いてください」

「高瀬さんは嫌な顔せずに見てくれたよ」

澄江の言葉に、水月は複雑な気持ちになった。

海斗が町の人に親切にしたことは嬉しい。

同時に、水月の知らないところで彼が誰かと親しくなることに、落ち着かない感覚があった。

自分には関係のないことだ。

海斗は客であり、町を訪れた旅行者である。誰と話し、何をするかは彼の自由だった。

それでも、水月は夕食の仕込みをしながら、澄江と海斗がどのような話をしたのか気になっていた。

三日目の夕方、海斗は約束した時間に「静波」へ来た。

朝から降ったりやんだりしていた雨は、日が落ちる頃から強くなっていた。

戸を開けるたび、冷たい風と細かな雨粒が店内へ吹き込む。

海斗は傘を閉じ、入口脇へ立てた。

「かなり降っていますね」

「夜中まで続くそうです」

「帰る頃には、少し弱くなるといいんですが」

水月は海斗の濡れた上着を預かった。

厨房から離れた場所へ掛け、乾いた布を渡す。

「ありがとうございます」

「風邪をひかれると、宿の美代さんが心配します」

「水月さんは?」

尋ねられ、水月は布を持つ手を止めた。

海斗はすぐに言葉を足した。

「すみません。困らせるつもりでは」

「心配します」

水月は答えた。

自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。

海斗は何も言わず、少しだけ目を伏せた。

その表情に喜びが浮かんだように見え、水月は厨房へ逃げるように戻った。

その夜の客は、海斗を含めて五人だった。

窓際には、丹後半島を旅行している中年の姉妹が座った。カウンターの中央には、町内の夫婦がいる。

水月は順に料理を出した。

先付けはカワハギの肝和え。

椀物は、焼いた白葱と茸のすまし汁。

主菜は、鯛の酒蒸しだった。

外の雨音は次第に強くなった。

窓ガラスを雨粒が流れ、湾の景色は暗闇の中へ消えている。舟屋の土台へ当たる水の音も、昼間より激しくなっていた。

客たちは天気を気にしながら食事を終えた。

姉妹は宿から迎えの車が来ることになり、先に店を出た。町内の夫婦は、雨の弱まったわずかな間に傘を差して帰っていった。

午後八時を過ぎると、店に残ったのは海斗だけになった。

彼は食後の茶を飲みながら、窓の外を見ている。

「雨、ひどくなりましたね」

「今、外へ出るのは危ないです」

水月は入口の様子を確かめた。

路地には水が流れ、風が暖簾を大きく揺らしている。

「少し待っていてください。弱くなってから帰った方がいいです」

「閉店の邪魔になりませんか」

「片づけをしていますから、大丈夫です」

水月は暖簾を外し、入口の札を「本日終了」に替えた。

海斗は席に座ったまま、使い終えた器を一か所へ寄せた。

「そのままで結構です」

「せめて、まとめるくらいは」

「では、落とさないようにしてください」

「信用がないですね」

「器は簡単に替えがきかないものもあります」

海斗は慎重に皿を重ねた。

水月はそれを受け取り、厨房へ運んだ。

洗い物をしている間も、海斗は急かさなかった。

携帯電話を見ることもなく、窓の外へ目を向けたり、店内に飾られた桔梗を眺めたりしている。

「その花、前に来たときもありましたね」

「澄江さんが持ってきてくれます」

「今日も畑で会いました」

「携帯電話を直してくださったそうですね」

海斗が苦笑した。

「直したというほどではありません。写真を保存している場所が変わっていただけです」

「旅行中の人に頼むことではありません」

「困っているようだったので」

「澄江さんは、誰にでも頼みます」

「頼める人がいるのは、いいことだと思います」

水月は皿を洗う手を止めた。

「海斗さんは、人に頼るのが苦手だと話していませんでしたか」

「だから、分かるようになったんです。自分ができないことを誰かに頼んでも、相手ができないことまで全部引き受ける必要はないんだと」

水月は再び皿を洗い始めた。

海斗の言葉が、自分へ向けられているように聞こえた。

「水月さんは、全部一人でやっていますよね」

「六席の店ですから」

「仕入れも、仕込みも、調理も、接客も、片づけも?」

「帳簿も予約管理も自分でしています」

「休めていますか」

「週に一日は休んでいます」

「一日だけ?」

「飲食店なら珍しくありません」

「身体を壊したことは?」

水月は蛇口を閉めた。

質問が少しずつ、自分の奥へ近づいてくる。

海斗は、水月の表情に気づいたらしい。

「すみません。また聞きすぎました」

「いえ」

水月は布巾で手を拭いた。

窓の外で風が鳴った。

雨は弱まる気配がない。

海斗が帰れるようになるまで、まだ時間がかかるだろう。

水月は湯を沸かし直した。

番茶ではなく、戸棚からほうじ茶を出す。自分の分と海斗の分、二つの湯飲みを用意した。

カウンターの内側ではなく、海斗から一席空けた場所へ座る。

営業中に客席へ座ることはなかった。

海斗は何も言わず、水月が茶を置くのを待った。

湯気の向こうに、彼の顔がある。

この数日、水月は海斗の多くを見た。

町の人に話しかけられても、面倒そうな顔をしない。知らないことは知らないと言い、できることだけを手伝う。

質問をしても、水月が答えたくない様子を見せれば、それ以上は追わない。

知っていることは少ない。

それでも、一か月前よりは少しだけ、海斗がどのような人なのか分かり始めていた。

「なぜ、ここで店をしているのか、聞きたいですか」

水月から尋ねた。

海斗はすぐには答えなかった。

「聞きたいです」

慎重に言葉を選んでいる。

「でも、水月さんが話したいなら」

「話したくないことを、無理に聞かないんですね」

「聞かれたくないことを聞かれるのは、苦しいですから」

「海斗さんにも、ありますか」

「あります」

「仕事のこと?」

海斗はうなずいた。

「説明しようとすると、相手が納得できる理由に整えなければならない気がします。忙しかったから、体調を崩したから、医師に言われたから。どれも間違ってはいません。でも、自分でも分からないことがあります」

水月は湯飲みを両手で包んだ。

「分からないままでは、話してはいけないと思っていました」

「僕も、そう思っていました」

雨が窓を打つ。

厨房の換気扇は止めてある。店内には、雨と水の音だけが残っていた。

水月は湯飲みの中を見つめた。

話せば、何かが変わる。

海斗が自分を見る目も、この店で料理を食べる気持ちも、変わるかもしれない。

同情されることが怖かった。

弱い人間だと思われることも、過去にこだわっていると責められることも怖かった。

だが、話さなければ、海斗は水月が引いた線の外側に立ち続ける。

そのことを残念に思う自分がいた。

水月は顔を上げた。

「京都の料亭で働いていました」

海斗は黙って聞いている。

「祇園にある〈佳月〉という店です。二十二歳で入り、八年ほどいました」

最初の一年、水月は包丁をほとんど握らせてもらえなかった。

掃除、洗い物、器の準備、先輩たちが使う食材の下処理。誰より早く厨房へ入り、最後に出る日が続いた。

技術を学びたいなら、それが当然だと思っていた。

女性の料理人は水月を含めて二人だけだった。もう一人は菓子場を担当しており、焼き場や煮方には男性しかいなかった。

重い鍋を持てるのか。

長く続かないのではないか。

いずれ結婚して辞めるのだろう。

面と向かって言われることもあれば、聞こえるように話されることもあった。

水月は何も言い返さなかった。

仕事で認めさせればよいと思っていた。

魚の名前と旬を覚え、桂剥きを繰り返し、出汁の違いを舌へ刻んだ。先輩たちが帰ったあと、一人で包丁を研いだ。

三年目に刺し場の補助へ入り、五年目には焼き物の一部を任されるようになった。

自分の料理を献立へ加えてもらいたい。

その目標だけを見て働いた。

「長谷川さんという先輩がいました」

水月は続けた。

長谷川修司は、水月より八歳年上だった。

厨房の中では珍しく、水月を女性だからという理由で扱いを変えなかった。包丁の使い方が悪ければ叱り、料理がよければ認めた。

水月が初めて焼き物を任されたときも、失敗した部分を具体的に教えてくれた。

「お前の魚は、火を怖がっとる」

そう言われた。

水月には意味が分からなかった。

長谷川は焼き台の前に立ち、火を弱めすぎると皮が乾き、身から水分が抜けることを見せた。強い火を使うことと、乱暴に扱うことは違うのだと教えた。

水月は彼を信頼するようになった。

ほかの料理人には言えない悩みも相談した。

七年目の夏、料理長から、秋の献立に使える料理を一品考えるよう言われた。

若手全員に与えられた課題だった。

採用されれば、初めて自分の料理が店の献立へ載る。

水月は甘鯛を使うことにした。

鱗を立たせて焼いた甘鯛に、白味噌と青柚子を合わせた温かいすり流しを添える。皮の香ばしさと白味噌の甘みをつなぐため、焼いた骨から取った出汁を少し加えた。

最初の試作は甘すぎた。

二度目は青柚子の香りが強く、魚の風味を消した。

配合を変え、火の入れ方を変え、器も選び直した。

営業が終わったあとの厨房で、一人で試作を続けた。

何度目かの夜、長谷川が残っていた。

「まだやっとるんか」

「今日中に、すり流しの濃さを決めたいんです」

長谷川は完成した料理を一口食べた。

しばらく黙ってから、もう一口食べた。

「うまいな」

水月は、その短い言葉が嬉しかった。

「でも、白味噌の後味が少し重い。昆布出汁を増やしたらどうや」

「そうすると、甘鯛の骨から取った出汁が弱くなりませんか」

「なら、酢を一滴入れてみろ。酸っぱくするんやない。甘みを切るためや」

水月は言われたとおり、米酢をわずかに加えた。

味が変わった。

白味噌の甘みが口の中へ残らず、甘鯛の香りが後から戻ってくる。

「ありがとうございます」

水月は何度も頭を下げた。

長谷川は、まだ何か足りないと言った。

盛りつけを変えればもっとよくなる。木の芽ではなく、細く削った青柚子を使った方がよい。器は浅いものより、少し深さのあるものがよい。

一緒に考えてくれている。

水月はそう思った。

「配合、書いてあるんか」

長谷川に尋ねられ、水月は試作用のノートを見せた。

白味噌、出汁、酒、米酢。それぞれの量と、試すたびに変えた数字が記されている。

長谷川はページを見ながら言った。

「明日、もう一度試したい。ノートを貸してくれへんか」

迷いはなかった。

水月はノートを渡した。

翌日、長谷川は朝一番に返してくれた。

「昨日の配合でいける。自信を持って出したらええ」

水月は、その言葉を信じた。

料理長へ提出する試食会は、三日後に行われる予定だった。

当日、水月は誰より早く厨房へ入った。

甘鯛を捌き、骨から出汁を取る。白味噌を丁寧に溶き、米酢を一滴だけ加えた。

料理が完成する直前、料理長から呼ばれた。

「水月、お前は焼き場に入れ。長谷川の試作を先に見る」

自分の試作は後になったのだと思った。

水月は焼き場に立ち、通常の仕込みを続けた。

厨房の中央へ、長谷川の料理が運ばれてくる。

白い深皿。

鱗を立たせて焼いた甘鯛。

その周りに注がれた、白味噌と青柚子のすり流し。

水月の手から、菜箸が落ちた。

同じ料理だった。

器も、柚子の切り方も、米酢で甘みを切る方法も。

長谷川は料理長の前に立ち、料理の意図を説明している。

「甘鯛の骨から取った出汁を白味噌へ加えています。甘さが残らないよう、米酢を一滴だけ使いました」

水月がノートへ書いた言葉まで、そのままだった。

料理長は何度もうなずいた。

「面白いな。甘鯛の香りが消えてへん」

「ありがとうございます」

「秋の献立に使える。客の反応を見て、少し調整しよう」

周囲の料理人たちも皿を囲んだ。

長谷川の肩を叩き、よい料理だと褒めている。

水月は焼き台の前から動けなかった。

何か言わなければならない。

自分が考えた料理だと伝えなければならない。

だが、声が出なかった。

頭の中で、何度も自分へ問いかけた。

偶然ではないのか。

長谷川も同じ料理を考えていたのではないか。

相談したのだから、二人で作った料理と考えるべきなのか。

それでも、配合も説明も同じだった。

試食会が終わったあと、水月は長谷川を追った。

裏口へ続く廊下で呼び止める。

「さっきの料理、どういうことですか」

長谷川は振り返った。

驚いた様子はなかった。

「何がや」

「私が考えた料理です」

「お前の試作を見て、俺が仕上げた」

「配合も、器も同じです」

「酢を入れろと言うたのは俺やろ」

「それ以外は、私が何週間も試作しました」

長谷川は周囲を確かめるように目を動かした。

「声を落とせ」

「料理長に話します」

「好きにしたらええ。でも、誰が信じると思う?」

水月は言葉を失った。

長谷川は声を低くした。

「お前の料理は、まだ献立に出せる段階やなかった。俺が形にしたから、料理長に認められたんや」

「ノートを返してください」

「もう返したやろ」

「写したんですか」

長谷川は答えなかった。

その沈黙が、答えだった。

「信頼していたのに」

水月が言うと、長谷川は眉をひそめた。

「大げさに考えるな。厨房で出た料理は、店の料理や。誰か一人のもんやない」

「それなら、なぜ長谷川さんの料理として出したんですか」

長谷川の顔から表情が消えた。

「この業界で生きていきたいなら、あまり面倒なことを言わん方がええぞ」

水月は、その場から動けなかった。

尊敬していた人の顔が、知らない人のものに見えた。

翌朝、水月は料理長へ時間を取ってほしいと頼んだ。

料理長室へ入り、試作ノートを見せた。

日付の入った記録。

失敗した配合。

長谷川へ相談する前から書いていた料理の構成。

「昨日の料理は、私が考えたものです」

水月は声が震えないよう、ゆっくり説明した。

料理長はノートをめくった。

最後まで見ると、机へ置いた。

「長谷川にも聞いた」

「何と言っていましたか」

「お前の案を一緒に直したと言うとった」

「違います。相談はしました。でも、料理そのものを考えたのは私です」

「証明できるんか」

「このノートがあります」

「長谷川の助言も書いてあるやないか」

「米酢を使うことは教えてもらいました。でも、それ以外は」

料理長は水月の言葉を手で遮った。

「料理は、一人で作るもんやない」

長谷川と同じことを言われた。

「先輩から教わり、皆で意見を出して完成させる。厨房で生まれた料理は店のもんや。誰が最初に考えたかで揉める話やない」

「では、長谷川さんの料理として評価したのは、なぜですか」

料理長の表情が変わった。

「言い方に気をつけろ」

「私も試作を命じられました。何週間も考えました。それを、何もなかったことにはできません」

「何もなかったとは言うてへん。長谷川がお前の案を使える形にした。それだけや」

水月は唇を噛んだ。

「私が女だからですか」

口にした瞬間、部屋の空気が変わった。

料理長は深く息を吐いた。

「すぐに、そういう話にするな」

「では、私と長谷川さんが逆でも、同じことを言いましたか」

「感情的になるな」

その言葉が、水月から最後の力を奪った。

怒ってはいけない。

傷ついてはいけない。

事実を伝えても、それは感情として片づけられる。

「お前には期待しとる」

料理長は、諭すような声で続けた。

「ここで騒げば、厨房に居づらくなるのはお前や。料理を続けたいなら、今回は飲み込め」

水月は返事をしなかった。

ノートを持ち、料理長室を出た。

廊下には、仲居の小川奈緒が立っていた。

奈緒は試作の時期、水月が何度も甘鯛を焼いていたことを知っていた。味見を頼んだこともある。

目が合う。

奈緒は何か言おうとしたが、料理長室の扉を見て、口を閉じた。

「何も聞いていません」

奈緒は小さな声で言った。

水月が何も尋ねる前だった。

その一言で、彼女が話を聞いていたことが分かった。

「そう」

水月はそれだけ答えた。

奈緒を責める気にはなれなかった。

彼女にも生活があり、立場がある。水月のために職場で声を上げる義務はない。

分かっていた。

それでも、誰にも信じてもらえない場所へ一人で残されたように感じた。

その後、長谷川の料理は秋の献立へ採用された。

料理長は常連客へ、「うちの長谷川が考えた新しい料理です」と紹介した。

客からの評判はよかった。

雑誌の取材でも取り上げられ、長谷川は次の役職へ昇進する候補になった。

水月は焼き場から外され、再び下処理の仕事を増やされた。

罰だとは言われなかった。

人員配置の都合だと説明された。

だが、それまで任されていた料理が、一つずつ別の料理人へ渡っていった。

長谷川は、水月と目を合わせなくなった。

厨房の中でも、必要な指示だけを出した。ほかの料理人たちも、二人の間に何かあったと気づいていたが、誰も尋ねなかった。

自分が騒ぎを起こした人間として見られている。

水月はそう感じた。

事実とは違っていても、何度も同じ視線を受けるうち、自分に問題があったのではないかと思い始めた。

相談したことが間違いだった。

ノートを貸した自分が悪かった。

もっと早く料理長へ見せるべきだった。

完成するまで誰にも話さなければよかった。

頭の中で、自分を責める言葉が増えていった。

「それから、料理ができなくなりました」

水月は現在へ戻るように言った。

海斗は、途中で一度も口を挟まなかった。

湯飲みの茶は、もう冷めている。

「味が分からなくなったんです」

正確には、味そのものが消えたわけではない。

塩辛い。甘い。酸っぱい。

それは分かる。

だが、自分が作ったものをおいしいと思えなかった。

何を口にしても、先に長谷川や料理長の言葉が浮かんだ。

自分の判断を信じられなくなった。

ある夜、焼き物を任された若い料理人が体調を崩し、水月が代わりに入った。

魚を焼き台へ載せる。

火を見ているうちに、長谷川の声を思い出した。

お前の魚は、火を怖がっとる。

手が震えた。

火を弱めすぎ、皮から水分が抜けた。

気づいて火を強くすると、今度は表面を焦がした。

使えなくなった魚を見て、呼吸ができなくなった。

厨房を出て、裏口の壁へ手をついた。

誰かが背中をさすろうとしたが、触れられた瞬間に身体が強張った。

「もう無理でした」

水月は言った。

事件から三か月後、退職願を出した。

料理長は驚かなかった。

「ここで辞めたら、逃げたと思われるぞ」

最後まで、水月を守る言葉はなかった。

「ここにいたら、料理そのものを嫌いになります」

水月は答えた。

「もう、魚を見るのも怖いんです」

料理長は何も言わなかった。

長谷川とは、退職まで一度も二人で話さなかった。

最終日、奈緒が駅まで見送りに来た。

「ごめんなさい」

改札の前で、奈緒は泣いた。

「私、水月さんがずっと試作していたことを知ってた。あの料理を先に食べたことも、言おうと思えば言えた」

水月は奈緒を責めなかった。

責めれば、奈緒まで失う気がした。

「もういいよ」

そう答えた。

本当は、よくなかった。

何も終わっていなかった。

その夜、水月は自宅の浴室で、試作ノートを捨てようとした。

ごみ袋へ入れ、一度は口を縛った。

それでも翌朝、袋から取り出した。

濡れた手で触れたため、表紙に指の跡が残った。

そのノートは今も、厨房の戸棚に入っている。

「退職してから、半年くらいは料理をしませんでした」

水月は続けた。

自宅の台所に立つことさえ避けた。

包丁を見ると、あの厨房を思い出した。外食をしても料理の欠点ばかり探し、何を食べても疲れた。

貯金を切り崩しながら、一人で過ごした。

両親には、体調を崩したとだけ話した。実家へ戻るよう言われたが、誰かと暮らす気にはなれなかった。

ある日、京都駅で伊根の写真を見た。

海と舟屋が写った、小さな観光ポスターだった。

海月は、その写真を何日も覚えていた。

一週間後、日帰りで伊根を訪れた。

港で揚がったばかりの魚を見た。

料理人としてではなく、ただ一人の人間として魚を見たのは久しぶりだった。

魚には、誰の名前もついていなかった。

誰が考えた料理になるのかも、誰が評価されるのかも関係なく、銀色の身を光らせていた。

水月は、その日初めて、自分で魚を買った。

京都の部屋へ持ち帰り、塩を振って焼いた。

料理と呼べるほどのものではない。

盛りつけもせず、皿へ置いただけだった。

一口食べる。

味がした。

涙が出た。

悲しいのか、嬉しいのか分からなかった。

ただ、もう一度料理を作れるかもしれないと思った。

「それで、伊根へ移ったんですか」

海斗が初めて尋ねた。

「すぐにではありません。何度か通いました」

水月はうなずいた。

「この舟屋が空いていることを、宮下さんに教えてもらいました。最初は、店を開くつもりまではなかったんです。住む場所だけ変えたかった」

「でも、ここを店にした」

「源治さんの魚や、澄江さんの野菜を見ているうちに、作りたいと思うようになりました」

誰かに評価されるためではない。

有名になるためでもない。

目の前にある食材を、その日に来た客のために料理する。

それだけなら、もう一度できるかもしれないと思った。

客席を六つにした。

従業員を雇わず、自分一人で切り盛りできる店にした。

取材を断り、予約数を限定した。

そうすれば、誰かに店を変えられることはない。

自分の料理を奪われることもない。

「ここなら、すべて自分で決められます」

水月は言った。

「誰にも頼らずに済むと思いました」

言い終えたあと、源治、澄江、宮下の顔が浮かんだ。

本当は、誰にも頼らずに店を作ったわけではない。

改装を手伝ってもらい、魚と野菜を届けてもらい、客を紹介してもらった。

それでも、料理の中心だけは誰にも触れさせなかった。

厨房は、水月にとって仕事場であると同時に、最後に残った境界だった。

話し終えると、身体から力が抜けた。

これほど長く過去を語ったのは、退職して以来初めてだった。

両親にも、源治にも、澄江にも、詳しいことは話していない。

信頼していた先輩に料理を取られた。

その一言で終わらせてきた。

海斗は黙っていた。

何か言ってほしいと思う一方で、何も言ってほしくなかった。

かわいそうだったと言われたくない。

過去を忘れた方がよいとも、今は成功しているからよかったとも言われたくない。

今の店があるから、あの出来事にも意味があった。

そうまとめられることが、最も怖かった。

あの出来事に意味などなかった。

必要な苦しみではなかった。

ただ、傷つけられた。

その事実を、きれいな言葉で包まれたくなかった。

海斗は湯飲みへ手を伸ばしたが、茶が冷めていることに気づき、手を止めた。

「水月さん」

低い声だった。

水月は顔を上げた。

「聞かせてくれて、ありがとうございます」

それだけだった。

同情も、助言もなかった。

水月の選択を褒めることも、過去を乗り越えたと言うこともなかった。

海斗は、ゆっくりと息を吐いた。

「話すのは、苦しかったですよね」

水月はうなずいた。

目の奥が熱くなった。

泣くつもりはなかった。

泣けば、海斗が困る。自分も、何を話せばよいのか分からなくなる。

水月は顔を背けた。

「すみません」

「謝らないでください」

海斗は席を立たなかった。

近づいてもこなかった。

一席分の距離を保ったまま、そこにいた。

それがありがたかった。

水月は目元を手で押さえた。

涙は一度だけ頬を伝い、指先へ落ちた。

雨の音が、店内を満たしている。

しばらくして、水月は立ち上がった。

「お茶を淹れ直します」

声は少し震えていた。

「僕が」

海斗も立とうとした。

「座っていてください」

「でも」

「ここは、私の厨房です」

強い言葉になった。

海斗の動きが止まる。

水月はすぐに続けた。

「ただ……お湯が沸くまで、話していてください」

海斗は静かに座り直した。

「何を話せばいいですか」

「何でも構いません」

「それが一番難しいですね」

水月は、わずかに笑った。

やかんへ水を入れ、火にかける。

背後から海斗の声が聞こえた。

東京の部屋で、観葉植物を枯らした話だった。

世話が簡単だと勧められて買ったのに、水をやることを忘れ、気づいたときには葉がすべて落ちていた。西田に話すと、植物にも向き不向きがあると言われたという。

大した話ではなかった。

水月はそれを聞きながら、新しい茶葉を急須へ入れた。

湯が沸く。

二人分のほうじ茶を淹れる。

今度は同じ席へ戻らず、海斗の隣へ一つ空けて座った。

さきほどと同じ距離だった。

それでも、水月には少しだけ近くなったように感じられた。

窓の外では、雨脚がようやく弱まり始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。