第4章 言の葉にのせぬ問い
十月に入ると、伊根湾を渡る朝の風は急に冷たくなった。
夏の間は開けたままにしていた二階の窓も、明け方には閉めて眠るようになった。夜が長くなり、対岸の舟屋に明かりがともる時間も早くなっている。
水月は午前四時半に起き、カーディガンを羽織って階段を下りた。
厨房の照明をつけ、最初に湯を沸かす。
夏の朝には水だけで済ませることもあったが、冷え込むようになると、仕事を始める前に温かい番茶を一杯飲む。湯飲みを両手で包み、身体へ熱が戻ってくるのを待つ時間が、水月は嫌いではなかった。
一口飲んでから、壁に掛けた予定表へ目を向けた。
木曜日。
昼は三組五名、夜は二組四名の予約が入っている。
夜の席には二つ余裕があった。
水月は予約台帳を開き、前日までに聞いた内容を確認した。
昼の一組は、町内の吉岡夫妻。もう一組は京都市内から来る母娘。残る一人は、観光協会の宮下だった。
宮下は予約を入れるとき、「今度は雑誌の話をしないから、安心してください」とわざわざ付け加えた。
水月は、そこまで警戒しているように見えたのかと気になったが、否定はできなかった。
夜は、近くの宿に泊まる夫婦と、町内の漁師二人だった。
客の人数を確認したあと、水月は空いている二席へ指を滑らせた。
埋まらなくても構わない。
そのために予約数を限定している。
そう思いながらも、以前とは違う感覚があった。
一か月前、東京から来たという男性が座った席へ、ふと視線が向く。
カウンターの一番端。
男はひどく疲れた顔をしていた。
店へ入った瞬間に腹を鳴らし、それを恥じたように謝った。冬瓜の含め煮を口にすると、長い間、箸を止めていた。
味が薄いのかと思い、塩を持ってこようとした。
すると男は、掠れた声で「すごく、おいしいです」と言った。
その言葉だけなら、ほかの客からも何度も聞いている。
水月の記憶に残ったのは、言葉よりも、そのときの表情だった。
驚いたような、困ったような顔をしていた。
おいしいものを食べた人の顔ではなく、食事をしてよいことを思い出した人の顔に見えた。
翌朝、開店準備をしているとき、店の外に人の気配を感じた。
顔を上げると、あの男が黒板の献立を見ていた。
目が合う前に立ち去ったが、歩いていく後ろ姿は窓越しに見えた。
昼の営業が始まっても、男は来なかった。
水月は来店を約束したわけでもない相手を、なぜか何度か思い出した。
ただの旅人だった。
この町には多くの観光客が来る。
一度食事をし、写真を撮り、翌日には別の場所へ移っていく。名前を聞かない客も多い。
それでよかった。
店主と客の関係は、料理を出し、食べ終えたところで完結する。その距離なら、水月も戸惑わずにいられた。
それなのに、男が店の前に立っていた姿は、しばらく頭から離れなかった。
また来るかもしれないと思ったわけではない。
来るはずがないと考えたあと、なぜわざわざ否定したのか、自分でも分からなかった。
水月は台帳を閉じた。
一か月前の客を思い出しても、今日の仕事には関係がない。
昆布を水へ浸し、米を研ぐ。煮物用の里芋を洗い、皮へ一周切り込みを入れてから下茹でする。
午前五時を過ぎると、裏手の戸が叩かれた。
「今日は開いとるか」
源治の声だった。
「毎朝、確認しなくても起きています」
戸を開けると、源治が魚箱を抱えていた。
その後ろには、二十代半ばほどの青年が立っている。背が高く、源治と同じ紺色の作業着を着ていた。
「おはようございます」
青年は緊張した様子で頭を下げた。
「孫の陸や。今月から船に乗せとる」
「浜田陸です。よろしくお願いします」
「水月です。こちらこそ、よろしくお願いします」
源治が魚箱を作業台の横へ置く。
中には、銀色のサワラが二本と、小ぶりのアジが数尾入っていた。
「見てみい」
源治に促され、水月はサワラを取り上げた。
身の張りを確かめ、えらを見る。
鮮度に問題はない。
だが、腹の辺りに一本、浅い傷があった。網から外すときについたのだろう。料理に支障が出るほどではないが、源治がわざわざ見せた理由は分かった。
「陸さんが上げたんですか」
「はい。外すときに手間取ってしまって」
陸は悔しそうに魚を見た。
「身は傷んでいません。この程度なら、皮を引く料理に使えます」
水月が言うと、陸の表情がわずかに明るくなった。
「買ってもらえますか」
「はい。一本いただきます」
源治が横から口を挟む。
「気を遣わんでもええぞ」
「気を遣っていません。昼は幽庵焼きにして、夜は蒸し物にします」
水月は傷の位置を指で示した。
「こちらの面は焼き物には使いません。皮を引き、昆布と一緒に蒸せば問題ありません」
陸は真剣な顔で話を聞いている。
「魚を傷つけたら、全部駄目になると思っていました」
「扱い方は変えなければなりません。でも、食べられなくなるわけではありません」
「よかったな」
源治が陸の背中を軽く叩いた。
陸は気まずそうにしながらも、安堵したように笑った。
水月は魚を氷の上へ戻した。
「ただし、次からは気をつけてください。傷のある場所から水分が抜けやすくなります」
「はい」
「水月ちゃんは厳しいやろ」
「源治さんが甘いんです」
「俺は褒めて育てる方針や」
「さっきまで船の上で怒鳴ってたやないか」
陸が小声で言った。
「何か言うたか」
「何も」
二人のやり取りに、水月は思わず笑った。
源治はそれを見逃さなかった。
「最近、機嫌がええな」
「普通です」
「この前は秋祭りの相談にも来たそうやないか」
「澄江さんに何度も誘われたので、二十分だけ顔を出しました」
「一時間おったって聞いたぞ」
水月は答えず、魚の代金を数えた。
秋祭りの相談会へ行ったのは、三週間前だった。
行くつもりはなかった。
営業を終え、片づけをしていると、澄江が店まで迎えに来た。顔を出すだけでよいと言われ、断る理由を考えている間に腕を引かれた。
集会所には二十人ほどが集まっていた。
水月が入ると、何人かが意外そうな顔をしたが、誰も大げさに歓迎しなかった。空いている席を勧められ、澄江が持ってきたお茶を飲んだ。
話し合いでは、祭りの当日に出す食事が議題になった。
去年と同じ豚汁でよいという意見と、海の町らしいものを出したいという意見が分かれていた。
水月は黙って聞いていた。
意見を求められたとき、地元の魚のすり身を使った汁物なら、前日から準備できると答えた。
その一言から、必要な量や材料について話が広がった。
気づけば一時間近く座っていた。
帰るとき、来年も頼むと言われ、水月はまだ今年も終わっていないと答えた。
大勢の中にいたことで、特別な何かが変わったわけではない。
疲れなかったと言えば嘘になる。
けれど、帰宅して扉を閉めたとき、後悔はしていなかった。
「祭りの汁物、水月ちゃんが考えるんやろ」
源治が言った。
「私一人では作りません。澄江さんたちと一緒に準備します」
言ってから、水月は自分の言葉に気づいた。
一人では作らない。
以前なら口にしなかった言葉だった。
源治は何も指摘せず、受け取った代金を財布へ入れた。
「陸も手伝わせるから、こき使ってくれ」
「俺、料理はできんで」
「魚を運ぶくらいはできるやろ」
「必要になったらお願いします」
水月が言うと、陸は素直に頭を下げた。
二人が帰ったあと、水月はサワラを作業台へ載せた。
包丁を入れる前に、魚体の傷へもう一度目を向ける。
浅い傷だった。
そこだけを避ければ、十分に使える。
傷があることと、価値がなくなることは同じではない。
先ほど陸へ伝えた言葉が、別の意味を持って自分へ返ってくる気がした。
水月は考えるのをやめ、包丁を握った。
午前七時頃、澄江が野菜を届けに来た。
今日は里芋、春菊、太い白葱が籠に入っている。
「源治さんから聞いたで」
店へ入るなり、澄江が言った。
「何をですか」
「祭りの汁物、一人では作らんって言うたんやろ」
「話が早すぎませんか」
「源治さん、魚を届けた帰りに畑へ寄ったから」
「仕事をしているんでしょうか」
「人の話を運ぶのも仕事なんやろ」
澄江は笑いながら、里芋を作業台へ並べた。
土のついた里芋は、大きさがまちまちだった。水月は一つずつ手に取り、重さを確かめる。
「祭りのこと、引き受けてくれてありがとう」
「まだ試作もしていません」
「水月さんが一緒に作ってくれるだけで、みんな喜んどるよ」
水月は里芋を置いた。
「私は、誰かと一緒に作るのが得意ではありません」
「知っとる」
あっさり答えられ、水月は顔を上げた。
「知っているんですか」
「見とったら分かるよ」
澄江は春菊の葉を整えながら続けた。
「水月さんは、一人でできんと思われるのが嫌なんやろ」
「そういうわけでは」
「それに、自分のやり方を変えられるのも嫌い」
否定しようとしたが、できなかった。
「せやけど、祭りの料理は店の料理と違う。みんなで作って、みんなで食べるもんや。少しくらい形が揃わんでも、味が薄くても、それはそれでええ」
「私は、出すならきちんとしたものを作りたいです」
「そう言うと思った」
澄江は楽しそうに笑った。
「だから、水月さんに頼んだんや。うちらだけやと、本当に適当になるから」
頼られることへの緊張と、必要とされることへの喜び。
どちらも水月の中にあった。
以前は、その二つを分けることができなかった。頼られれば、すべてを引き受けなければならないと思っていた。期待に応えられなければ、自分に価値がないように感じた。
「役割を決めましょう」
水月は言った。
「魚のすり身と出汁は、私が用意します。野菜を切るのと、当日に汁を温めるのは、ほかの方にお願いします」
澄江は目を丸くした。
「水月さんが、人に仕事を振った」
「私一人で百人分は作れません」
「成長したなあ」
「子ども扱いしないでください」
水月が睨むと、澄江はますます嬉しそうに笑った。
昼の営業は、予定どおりに始まった。
最初に来たのは吉岡夫妻だった。
正志は席へ着くなり、サワラの幽庵焼きがあることを喜んだ。佳代は、夫が朝から献立を予想していたと話した。
「源治さんが今日の魚を言いふらしているんでしょう」
水月が言うと、正志は気まずそうに茶を飲んだ。
「魚は聞いたけど、料理までは聞いてへん」
「水月さんがサワラを焼くなら、幽庵焼きやろって、この人が勝手に言うてたんよ」
佳代が笑う。
「当たったんやからええやないか」
「外れたら文句を言うくせに」
いつものやり取りだった。
その声を聞きながら、水月は厨房で魚を焼いた。
京都から来た母娘は、母親の誕生日を祝う旅行だという。
娘は三十代後半、母親は六十代ほどに見えた。娘が料理の説明を熱心に聞き、母親は窓の外を眺めていた。
「娘が全部決めてくれたんです」
母親が言った。
「私は、どこへ行くのかも昨日まで知らなくて」
「言ったら、いろいろ調べ始めるでしょう」
娘が返した。
「だって、準備せんと落ち着かんやないの」
「今回は私に任せてって言ったでしょ」
二人の会話を聞きながら、水月は料理を並べた。
誰かに予定を委ねることを、母親は不安に感じている。それでも娘と一緒にこの町まで来た。
任せることは、自分で選ぶことをやめることではない。
水月は、澄江との会話を思い出した。
宮下が来たのは、午後一時を過ぎてからだった。
「今日は本当に、取材の話ではありません」
席へ着く前から念を押す。
「まだ何も聞いていません」
「顔に書いてありました」
「書いてありません」
「水月さんの顔は、付き合いが長くなると少し読めます」
水月は返事をせず、茶を置いた。
「秋祭りの汁物を担当してくれるそうですね」
「担当ではありません。皆さんと一緒に作ります」
「それはよかった」
宮下の言葉には、からかう響きがなかった。
「町の人も、水月さんとどう付き合えばいいか、少し迷っていたんです」
「私とですか」
「店を大切にしていることは分かる。でも、どこまで手伝っていいのか分からない。声をかけすぎれば嫌がられるし、放っておけば冷たいと思われるかもしれない」
水月は手にしていた盆を見た。
自分だけが、他人との距離に迷っていたのではない。
水月が引いた線の前で、町の人たちも立ち止まっていた。
「私は、冷たいとは思っていません」
「それなら、たまには言葉にした方がいいですよ」
宮下は笑った。
「僕も、雑誌の話を断られたときは嫌われたかと思いましたから」
「取材を受けないことと、宮下さんを嫌うことは別です」
「今、そう言ってもらえたので分かりました」
言わなくても分かると思っていた。
自分の行動を見れば、相手も理解するはずだと思っていた。
だが、相手の側から見れば、水月が何を考えているのか分からないこともある。
言葉にしなければ伝わらない。
分かっているはずのことを、水月は料理以外の場面で避け続けていた。
午後二時、最後の客を見送った。
食器を洗い、夜の営業に向けて仕込みを再開する。
傷のあるサワラは皮を引き、薄く塩を当てた。昆布の上へ載せ、白葱と茸を添えて蒸す。仕上げには、澄江が持ってきた柚子を使うつもりだった。
夜の予約は四人。
余裕を持って六人分を用意する。
料理を作りながら、昼に宮下から言われたことを考えた。
たまには言葉にした方がいい。
澄江へも、源治へも、感謝していないわけではない。
一人にしてほしいと思う日がある一方で、朝になって誰かが戸を叩く音に安心することもあった。
矛盾している。
けれど、人と関わる気持ちは、白か黒のどちらかではないのだろう。
午後四時を少し過ぎた頃、表の戸を叩く音がした。
仕入れ業者には遅く、客には早い時間だった。
水月は手を洗い、布巾で拭いてから入口へ向かった。
戸を開ける。
一人の男性が立っていた。
黒い旅行鞄を足元へ置き、薄手の紺色の上着を着ている。前に会ったときより顔色はよくなっていたが、目の下にはまだ薄い影が残っていた。
水月は声を失った。
名前は知らない。
それでも、誰なのかはすぐに分かった。
一か月前、冬瓜の含め煮を食べ、食事を終えた皿に魚の骨だけを残した男だった。
男性も、すぐには何も言わなかった。
水月が覚えているか確かめるように、顔を見ている。
先に口を開いたのは水月だった。
「以前、いらしてくださいましたね」
男性の表情が和らいだ。
「覚えていてくださったんですね」
「魚を、とてもきれいに召し上がっていたので」
それが理由のすべてではなかった。
けれど、ほかの言い方はできなかった。
男性は店内を見た。
「まだ、営業時間ではありませんよね」
「夜は五時半からです」
「すみません。宿へ行く前に、店の前を通ったので」
「今日、伊根へ着かれたんですか」
「はい」
「東京から?」
水月が尋ねると、男性は少し驚いた。
「それも覚えていたんですか」
「前にお聞きしましたから」
水月は、自分の声がわずかに硬くなるのを感じた。
覚えていたことを知られるのが、なぜか恥ずかしかった。
「お食事ですか」
「できれば、お願いしたいと思って来ました。ただ、予約をしていなくて」
水月は夜の予約台帳を思い浮かべた。
二席は空いている。料理も六人分用意している。
断る理由はなかった。
それなのに、すぐに返事ができなかった。
この男は、わざわざ東京から再び伊根へ来た。
水月の店だけが目的ではないだろう。
そう考えながら、もしそうだったらどうするのかという疑問が浮かぶ。
「お一人でしたら、ご用意できます」
ようやく答えた。
「ありがとうございます」
「開店まで一時間以上ありますが」
「宿へ荷物を置いてきます」
男性は足元の鞄を持ち上げた。
「五時半に来てもいいですか」
「はい」
「今度は、ちゃんと時間を守ります」
水月はわずかに首を傾げた。
「前回も、遅刻されたわけではありません」
「そうでした」
男性は困ったように笑った。
前に来たときには見なかった表情だった。
「では、あとで」
頭を下げ、路地を歩いていく。
その後ろ姿を、水月は戸口に立ったまま見送った。
前回より歩く速度が遅い。
急ぐ必要がないことを確かめるような足取りだった。
男性が角を曲がると、水月は店内へ戻った。
包丁を持つ。
サワラを切り分けようとして、厚みが揃っていないことに気づいた。
こんなことは滅多にない。
水月は包丁を置き、切った身を見比べた。
使えないほどの違いではない。
それでも、自分の意識が料理から外れていたことに腹が立った。
一か月前に一度会っただけの客が、戻ってきた。
それだけのことだった。
観光地なのだから、再訪する客は珍しくない。実際、季節を変えて何度も来てくれる人もいる。
だが、一か月という短い間隔で、東京から訪れた人はいなかった。
なぜ戻ってきたのか。
聞いてみたいと思った。
同時に、聞いてはいけない気もした。
客がどこから来て、何を目的にしているのかは、その人の自由だった。料理を出すために必要なことではない。
水月は一度目を閉じ、呼吸を整えた。
サワラを切り直し、器へ並べる。
五時二十五分。
紺色の暖簾を出す。
ほぼ同時に、最初の予約客である漁師二人がやって来た。
一人は源治と同じ船団に所属する小林、もう一人は隣町から来る中川だった。二人はカウンターの中央へ座り、今年の漁について話し始めた。
五時半を少し過ぎると、宿泊客の夫婦が入ってきた。
最後に、東京から来た男性が戸を開けた。
約束した時刻から五分も過ぎていない。
先ほどの旅行鞄は持っていなかった。上着も脱ぎ、白いシャツの袖を肘までまくっている。
「いらっしゃいませ」
水月が言うと、男性は小さく頭を下げた。
案内したのは、前回と同じカウンターの端だった。
偶然、そこだけが空いていた。
男性も気づいたらしく、椅子を見てから水月へ目を向けた。
「前と同じ席ですね」
「そうですね」
「ここが、僕の席みたいです」
冗談なのか、本気なのか分からなかった。
水月は返事をせず、温かい番茶を置いた。
男性は両手で湯飲みを包んだ。
その仕草を見て、外の冷え込みに気づく。
「寒くありませんでしたか」
「東京より冷えますね。でも、歩いていたので大丈夫です」
「この辺りは、日が落ちると急に気温が下がります」
「一か月前は、まだ暑かったのに」
「秋は短いです。すぐに風が強くなります」
水月は先付けを用意した。
里芋を小さく切り、薄い衣をつけて揚げたものに、茸の餡をかける。仕上げに柚子の皮を削った。
男性の前へ置く。
「熱いので、お気をつけください」
男は箸で里芋を割り、湯気を逃がしてから口へ運んだ。
目を閉じる。
前回と同じだった。
味を探すように、すぐには言葉を出さない。
水月は自分が返事を待っていることに気づき、焼き台へ向き直った。
「おいしいです」
背後から声が聞こえた。
「前にも思いましたが、味が一つずつ分かるのに、ばらばらではないんですね」
水月は振り返った。
料理について、そう言われたのは初めてだった。
「茸の餡に、里芋を煮た出汁を使っています」
説明するつもりはなかったのに、言葉が続いた。
「里芋に含ませた味と、上からかける餡がつながるようにしています」
「だからですか」
男性はもう一口食べた。
「東京へ戻ってから、何度か焼き魚を食べました」
「そうですか」
「でも、ここで食べたものとは違いました」
水月の手が止まる。
「魚の種類が違えば、味も変わります」
「そういう意味ではなくて」
男性は言葉を探していた。
水月は待った。
「食べる時間が違いました」
「時間?」
「東京では、食べながら仕事の連絡を見たり、次にすることを考えたりしていました。料理の味を覚えていないことも多かった。でも、ここでは、食べることだけをしていました」
水月は黙って聞いた。
「それで、戻ってからも、食事のときは携帯電話を見ないようにしています。毎回はできませんけど」
男性の携帯電話は、鞄の中に入ったままだった。
「前より食べられるようになりましたか」
水月は尋ねた。
言ってから、自分が一歩踏み込みすぎたことに気づいた。
男も、少し驚いた顔をした。
「前は、食べられないように見えましたか」
「店へ入ったとき、お腹が鳴っていました」
「あれは忘れてください」
「忘れていません」
水月の口元から、わずかに笑みがこぼれた。
男も笑った。
「今は、前より食べています。仕事も、少し減らしました」
「それなら、よかったです」
言葉は自然に出た。
社交辞令ではなかった。
男が前より眠れていることも、食べられていることも、水月には関係のないことだ。それでも、よかったと思った。
焼き上がったサワラを皿へ盛る。
夜の主菜は、サワラと茸の昆布蒸しだった。白葱を添え、柚子を搾る。
男性は料理を見てから、水月へ尋ねた。
「この魚も、今朝獲れたんですか」
「はい。地元では、源治さんたちの船が揚げたものです」
「源治さんに会いました」
「いつですか」
「前に来た翌朝です。網を直していました」
水月は少し驚いた。
「話しかけられたでしょう」
「東京から来たことまで知られていました」
「すみません」
「水月さんが謝ることではありません」
男の口から自分の名前が出た。
水月は顔を上げた。
「名前を、いつ聞かれたんですか」
「宿の美代さんからです。勝手に聞いて、すみません」
「秘密にしているわけではありません」
「そうですよね」
男は気まずそうに箸を置いた。
水月は、彼の名前を知らない。
そのことが急に不公平に思えた。
「お名前を伺ってもいいですか」
男は姿勢を正した。
「海斗です」
「海斗さん」
声に出してみる。
名前と顔が、ようやく一つになった。
「名字もお伝えした方がいいですか」
「予約台帳には、名字をいただいています」
「では、今は海斗だけで」
水月はうなずいた。
自分も名字を名乗っていない。
互いに名前だけを知っている距離が、今はちょうどよいように思えた。
ほかの客の料理を出すため、会話はいったん途切れた。
水月は厨房の中を動きながら、ときおり海斗の様子を見た。
彼は食べるのが遅いわけではない。
一口ごとに箸を置くことがある。窓の外へ目を向け、また料理へ戻る。
周囲の漁師たちの会話にも、無理に加わろうとはしなかった。
小林が海斗へ声をかけた。
「兄ちゃん、観光か」
「はい」
「一人で?」
「そうです」
「寂しないか」
海斗は少し考えた。
「今のところは、大丈夫です」
「今のところって何や」
中川が笑う。
「そのうち寂しくなる予定なんやろ」
「予定はしていません」
海斗が答えると、漁師たちは声を立てて笑った。
水月も焼き台の前で笑いそうになったが、俯いて隠した。
「東京から来たんやろ。仕事は何しとる」
小林が尋ねた。
「コンピューター関係です」
「魚は獲らんのか」
「獲ったことはありません」
「機械ばっかり触っとったら肩凝るやろ」
「凝ります」
「海へ出たら治るぞ」
「船酔いするかもしれません」
「吐いたら、そのうち慣れる」
勝手なことを言いながら、小林は酒を飲んだ。
海斗は嫌がる様子を見せず、聞かれたことに答えていた。
だが、仕事の詳しい内容を話すときだけ、表情が少し硬くなった。
水月はそれに気づいた。
かつての自分も、料亭について尋ねられると同じ顔をしていたのだろうか。
店を開く前、料理人としての経歴を聞かれるたびに、どこまで話せばよいか迷った。有名な料亭に勤めていたと答えれば、なぜ辞めたのかと聞かれる。
人間関係に疲れた。
自分の料理を奪われた。
誰も自分の言葉を信じなかった。
事実を並べれば、相手は同情するか、もっと詳しく知ろうとする。
どちらも苦しかった。
水月は話題を変えるように、漁師たちへ追加の小鉢を出した。
「明日も海へ出るなら、お酒はほどほどにしてください」
「水月ちゃんは、うちの嫁より厳しいな」
「奥様から頼まれています」
「いつの間に」
「先週です」
小林は観念したように徳利を置いた。
海斗が笑っている。
水月と目が合うと、笑みを残したまま小さく会釈した。
その表情に、水月の胸のあたりが落ち着かなくなった。
嫌ではない。
むしろ、海斗が前より笑うようになったことを嬉しく感じた。
その気持ちをどう扱えばよいのか分からなかった。
午後七時半を過ぎると、客が一組ずつ帰り始めた。
宿泊客の夫婦を見送り、続いて漁師たちが店を出た。
「明日の昼、源治さんが来るぞ」
小林が帰り際に言った。
「予約は聞いていません」
「今、俺が聞いた」
「本人から連絡するように伝えてください」
「一人くらい増えてもええやろ」
「予約してください」
水月が言い切ると、小林は笑いながら出ていった。
店に残った客は海斗だけになった。
彼の前には、食後の番茶が置かれている。
水月はほかの席の器を下げ、音を立てないように洗い始めた。
二人きりになったことで、店内の空気が変わった気がした。
海斗は窓の外を眺めている。
水月は、なぜ戻ってきたのか聞きたかった。
東京から伊根までは近くない。
列車とバスを乗り継ぎ、一日の多くを移動に使わなければならない。
休息だけが目的なら、もっと近い場所がある。
海が見たいだけなら、東京から行きやすい町はいくつもある。
それでも海斗は、この町へ戻ってきた。
問いかけようとして、やめた。
水月が聞けば、海斗は答えなければならなくなる。
知る覚悟もないのに、相手へ説明を求めるべきではないと思った。
代わりに、滞在期間を尋ねた。
「今回は、何日いらっしゃるんですか」
「月曜日までです。三泊します」
「前より長いんですね」
「前は、何も決めずに来ましたから。今回は休暇を取って、宿も予約しました」
「お仕事は、大丈夫なんですか」
「同僚に任せました」
海斗は少し照れたように笑った。
「前の僕には、難しいことでした」
「誰かに任せることが?」
「はい。自分がやった方が早いと思っていました。自分がいなければ進まないとも思っていた。でも、休んでいる間も仕事は進んでいました」
水月は布巾を絞る手を止めた。
「寂しくありませんでしたか」
海斗が顔を上げる。
水月は、自分がなぜそんな質問をしたのか分からなかった。
必要とされなくても仕事が進むことを、寂しいと感じないのか。
それは、かつての自分へ向けた問いでもあった。
料亭を辞めたあとも、厨房は変わらず動いた。
水月のいない場所で、同じ献立が作られ、客へ出された。自分が何年も捧げた場所から、自分だけがきれいに抜け落ちた。
「少し、寂しかったです」
海斗は答えた。
「自分がいなくても大丈夫だと分かって、安心しました。でも、自分は何のために、あれほど無理をしていたんだろうとも思いました」
水月は布巾を置いた。
海斗は湯飲みに目を落としている。
「仕事が嫌いだったわけではありません。昔は、できなかったことができるようになるのが楽しかった。作ったものを誰かが使ってくれることも嬉しかった。でも、いつからか、遅れないことと失敗しないことしか考えなくなっていました」
声は落ち着いていた。
それでも、言葉の奥に残っている疲れを、水月は感じた。
「水月さんは、この店の仕事を嫌になることはありませんか」
不意に尋ねられ、水月は答えに詰まった。
料理が嫌いになったことはある。
厨房へ入ることが怖かった時期もあった。
だが、それを話せば、次の問いにつながる。
なぜ嫌いになったのか。
何があったのか。
水月はまだ、そこまで扉を開くことができなかった。
「疲れることはあります」
慎重に答えた。
「でも、今は自分で仕事の量を決めています。続けられなくなる前に休みます」
「今は?」
海斗は、その言葉を聞き逃さなかった。
水月の身体が強張る。
「以前は、違ったんですか」
声に追及する響きはなかった。
ただ、知りたいという気持ちがあった。
水月は海斗を見た。
彼なら、話してもよいのではないか。
そんな考えが一瞬だけ浮かんだ。
すぐに、過去の記憶がそれを押し戻した。
信頼は、最初から壊れた形で現れるわけではない。
親切な顔で近づき、話を聞き、安心させる。その後で、預けたものを持ち去る。
目の前の海斗が同じだとは思わない。
だが、違うと判断するには、まだ何も知らなかった。
「長くなりますから」
水月は視線を外した。
海斗は、すぐに問いを引いた。
「すみません。無理に聞くつもりはありませんでした」
「謝らないでください」
「でも、聞かれたくないこともありますよね」
水月はうなずいた。
それ以上、海斗は尋ねなかった。
分かりました、とも、いつか話してください、とも言わなかった。
ただ、残っていた番茶を飲んだ。
そのことが、水月には意外だった。
多くの人は、相手が話したくないと言えば、「自分は味方だから」と伝えようとする。信じてほしいと願い、話しても大丈夫だと説得する。
海斗は、閉じた扉の前で止まった。
開けるよう求めなかった。
「ごちそうさまでした」
海斗が席を立った。
皿は、前回と同じようにきれいに空になっていた。
会計を済ませる。
水月は明日の台帳を思い出した。
昼は二組四名。席には余裕がある。
「明日のご予定は決まっていますか」
自分から尋ねていた。
海斗は少し驚いた。
「午前中は歩こうと思っています。その後は、まだ」
「昼でしたら、席があります」
言った途端、顔が熱くなった。
客へ予約を勧めることは、これまでにもあった。珍しいことではない。
それでも今回は、単なる案内とは違う気がした。
海斗の目元が和らいだ。
「伺ってもいいですか」
「もちろんです。お一人でよろしいですね」
「はい」
水月は予約台帳を開いた。
「お名前をお願いします」
「海斗です」
「名字ではなく?」
「水月さんと同じです」
海斗は冗談めかして答えた。
水月はペンを持ったまま、彼を見た。
「予約台帳には名字をいただくと言いました」
「高瀬です。高い、低いの高に、瀬戸内海の瀬」
水月は「高瀬海斗」と書いた。
その四文字を見つめる。
旅人だった男に、名字が加わった。
「十一時半にお待ちしています」
「今度は開店前に来ないようにします」
「少しくらい早くても構いません」
海斗は意外そうな顔をした。
水月自身も、自分の言葉に驚いた。
「準備の邪魔にならない場所で待ちます」
「そうしてください」
海斗は頭を下げ、入口へ向かった。
戸を開けると、夜の冷たい風が入り込んだ。
「おやすみなさい」
海斗が言った。
水月は、一瞬だけ返事に迷った。
客を見送るときは、ありがとうございましたと言う。それがいつもの言葉だった。
「おやすみなさい」
水月は答えた。
海斗が路地を歩いていく。
角を曲がり、姿が見えなくなるまで、水月は戸口に立っていた。
店内へ戻り、扉を閉める。
客席には、海斗が座っていた椅子が残っている。
水月は湯飲みを片づけ、布巾でカウンターを拭いた。
きれいになった場所を、もう一度拭く。
なぜ戻ってきたのですか。
結局、聞けなかった。
海斗も、水月の過去を無理に聞かなかった。
二人の間には、口にしなかった問いが残っている。
聞かなかったからこそ、次に会う約束ができたのかもしれない。
水月は予約台帳を開いた。
明日の欄に書かれた「高瀬海斗」の文字を確かめる。
一度書いた名前が間違っていないか確認しただけだ。
そう思いながら、指先で文字の上をなぞった。
二階へ上がる前に、明日の献立を考えた。
源治が何を持ってくるかは、朝にならなければ分からない。
魚が決まってから考えればよい。
それでも水月は、海斗がどのような顔で食べるのかを想像していた。
そのことに気づき、台帳を閉じる。
階下では、夜の水が舟屋の土台へ届いていた。
一定ではない音が、暗い店内へ繰り返し響いている。
水月は照明を落とした。
明日、もう一度会える。
その事実を、嬉しいと思っている自分がいた。




