第3章 都会の不協和音
海斗が目を覚ましたとき、障子の向こうはすでに明るくなっていた。
枕元へ置いた携帯電話を見る。
午前七時二十六分。
一度も目を覚まさず、八時間以上眠っていた。
東京では、二時間ほど眠るたびに目が覚めていた。仕事用の携帯電話を確かめ、通知が来ていないことに安堵し、再び目を閉じる。それでも、次に目を開けたときには十分も経っていないことがあった。
身体を起こす。
頭の重さは残っていたが、目の奥へ張りついていた痛みは和らいでいた。
海斗は窓を開けた。
朝の光が、家々の屋根を照らしている。建物の隙間から見える湾では、小舟がゆっくりと移動していた。
船外機の音、海鳥の声、どこかの家から聞こえる掃除機の音。
昨夜と同じように、町には人の暮らす音があった。
携帯電話の電源を入れる。
画面に日付が表示される。
仕事用の携帯電話は東京の部屋へ置いてきた。それでも一瞬、障害が起きていないか、誰かが自分を探していないかと考えた。
確認する手段はない。
海斗は深く息を吐き、携帯電話を布団の上へ伏せた。
顔を洗って一階へ下りると、朝食の用意ができていた。
食堂の窓際に、小さな膳が置かれている。焼いた鯵、出汁巻き卵、冷や奴、味噌汁、炊きたてのご飯。昨夜の食事を思わせる魚の香りに、腹が自然に反応した。
「おはようございます。よく眠れましたか」
帳場の奥から美代が出てきた。
「はい。こんなに眠ったのは、久しぶりです」
「それはよかった。昨日は、ずいぶん疲れた顔をしてはったから」
海斗は席へ着いた。
茶碗から上がる湯気を見ていると、昨夜の「静波」を思い出した。
水月の料理とは違う。
けれど、美代が用意した朝食にも、温かいうちに食べてもらおうとする気遣いがあった。
「ご飯、お代わりありますからね」
「ありがとうございます」
海斗は箸を取った。
鯵の皮は香ばしく、身にはほどよく脂が乗っていた。味噌汁には、薄く切った大根と油揚げが入っている。
昨夜よりはゆっくり食べた。
食べながら、美代が宿の前を掃く音を聞いていた。
食事を終えると、美代がお茶を持ってきた。
「今日は、どこか見て回るんですか」
「まだ決めていません」
「帰りの電車は?」
「それも決めていません」
美代は少し驚いた顔をしたあと、声を立てて笑った。
「ずいぶん自由な旅やね」
海斗もつられて笑ったが、胸の内には別の感情があった。
自由というより、何も決められないだけだった。
休暇が終われば、東京へ戻らなければならない。その日まで何をすればよいのか分からない。
観光地を回りたいわけでもない。写真を撮りたい場所があるわけでもなかった。
「部屋、今日も空いとるよ」
美代が言った。
「もう一泊しますか」
海斗はすぐには答えられなかった。
宿泊費、帰りの交通費、会社へ戻る日。頭の中で予定を組み立てようとする。
だが、今日は帰らなければならない理由がないことに気づいた。
「お願いします」
「はい。では、今夜もゆっくりしてください」
美代は海斗の迷いを気に留めた様子もなく、空いた皿を重ねた。
その自然さに救われた。
午前九時を過ぎてから、海斗は宿を出た。
目的地を決めず、海沿いの道を歩く。
朝の町は、前日とは違う顔を見せていた。
舟屋の前で漁具を洗う人。魚を運ぶ軽トラック。玄関先に椅子を出し、近所の人と話している女性たち。観光客向けの景色の中で、日々の仕事が始まっていた。
道路を一台の軽トラックが通る。
海斗が道の端へ寄ると、運転席の男性が小さく手を上げた。知らない相手に会釈を返され、海斗も遅れて頭を下げた。
東京では、同じマンションに住む人の顔もほとんど知らない。
エレベーターで一緒になれば挨拶はする。だが、どの部屋に誰が住んでいるのか、海斗は知らなかった。自分も知られたくないと思っていた。
ここでは、旅行者である自分の存在まで町の中に見えているようだった。
居心地が悪いわけではない。
ただ、自分が輪郭を持っていることに慣れなかった。
海へ張り出した場所で、一人の男が網を修理していた。
昨日、「静波」で見かけた覚えがある。カウンターの中央に座り、水月と魚の話をしていた男だった。
海斗が通り過ぎようとすると、男が顔を上げた。
「昨日、水月ちゃんの店におった人やな」
突然声をかけられ、海斗は足を止めた。
「はい」
「東京から来たんやて?」
「どうして知っているんですか」
「水月ちゃんと話しとるのが聞こえた」
男は悪びれずに答えた。
「浜田源治。漁師や」
「海斗です」
「名字は?」
「海斗で大丈夫です」
源治は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
「昨日の甘鯛、俺が獲ったんや」
「とてもおいしかったです」
「そうやろ」
源治は自分が料理したような顔でうなずいた。
足元の籠には、補修中の網が入っている。太い指が細い糸を迷いなく扱い、切れた部分をつないでいた。
「難しそうですね」
海斗が言うと、源治は手元へ目を落とした。
「慣れや。切れたところだけ見とったらあかん。周りの目をたどって、どこでつなぐか決める」
源治は海斗へ網を見せた。
「ここだけ縛っても、力がかかったらまた切れる。弱っとるところを少し広く直すんや」
海斗は、組み上げられたコードを思い浮かべた。
目の前の不具合だけを直しても、全体の設計が無理をしていれば、別の場所に問題が出る。昨日まで自分がしていた仕事と、どこか似ていた。
「魚を獲るだけじゃないんですね」
「獲るより、準備と片づけの方が長いくらいや」
源治は鼻で笑った。
「どんな仕事も同じやろ。外から見えるところだけが仕事やない」
海斗は返事をせず、網を見つめた。
外からは見えない仕事。
障害が起きないように事前に確認すること。誰かが書いたコードを読み、問題を見つけること。利用者が気づかないところで、システムを保つこと。
以前は、そういう仕事が好きだった。
目立たなくても、誰かの生活を支えていると思えた。
いつから、納期に追われることだけが仕事になったのだろう。
「もう一度、静波へ行くんか」
源治に聞かれた。
「まだ決めていません」
「今日は昼だけやぞ」
「知っています」
「十一時半からや」
「それも聞きました」
源治は網を持つ手を止め、海斗を見た。
「行きたいなら行ったらええ。行きたくないなら、行かんでええ」
あまりにも当然のことを言われ、海斗は戸惑った。
「そんな顔するようなことか」
「いえ」
「東京の人は、飯を食う店を決めるのも大変なんやな」
源治はまた手を動かし始めた。
海斗は会釈をして、その場を離れた。
行きたいなら行く。
行きたくないなら行かない。
簡単なことのはずだった。
だが海斗は、いつからか自分の希望より先に、相手にどう思われるかを考えるようになっていた。
昨日に続いて店へ行けば、水月に不審に思われるのではないか。客の少ない時間に一人で行けば、会話を求めていると思われるのではないか。
理由を探している自分に気づく。
本当は、もう一度あの料理を食べてみたかった。
昨日は極端に空腹だった。疲れ切った状態で口にしたから、特別に感じただけかもしれない。
確かめたいという気持ちがあった。
同時に、水月が料理をする姿をもう一度見たいとも思った。
海斗は海沿いを歩き、店の前まで来た。
暖簾はまだ出ていない。
入口脇の黒板には、昼の献立が書かれていた。
鰆の幽庵焼き。
里芋の煮物。
小松菜と揚げの炊いたん。
茸のすまし汁。
昨日とは違う料理だった。
店内では、水月が一人で開店準備をしている。
窓越しに姿が見えた。
白い器を一枚ずつ確認し、布で拭いている。作業を終えた器を重ね、向きを揃える。水月は外にいる海斗に気づいていない。
海斗は声をかけようとした。
だが、戸に手を伸ばす前にやめた。
開店まで、まだ一時間以上ある。
準備の邪魔をする理由はなかった。
もう一度来たいと思ったことだけを、自分の中で認める。
それで十分だった。
海斗は店の前を離れた。
午前中は湾を一周する遊覧船に乗り、その後、海の見える高台まで歩いた。
船上から見る舟屋は、道路側から見たときとは違っていた。
海に面した一階の開口部。その奥に収められた舟や道具。二階の窓に干された洗濯物。観光案内の写真では分からなかった暮らしが見える。
船の周りへ海鳥が集まり、乗客たちが餌を投げていた。
海斗は手すりにつかまり、潮風を受けた。
仕事のことを考えない時間が、少しずつ長くなっていた。
完全に忘れることはできない。
ふとした瞬間に、進捗確認の時間や未処理の課題を思い出す。それでも、思い出すたびに携帯電話を開くことはなくなった。
午後、海斗は宿の近くにある小さな食堂で昼食を取った。
焼き鯖の定食だった。
脂の乗った魚と味噌汁、ご飯。十分においしかった。
それでも、昨日の料理とは違った。
味の優劣ではない。
「静波」では、水月が食材の状態を確かめ、火を調整し、客の食べる速度を見ていた。その一つひとつを目の前で見たことが、料理の記憶と結びついている。
海斗は食事を終え、店を出た。
水月の店へ行かなかったことを、少し後悔していた。
夕方、宿へ戻ると、美代が玄関先で洗濯物を取り込んでいた。
「町は見られましたか」
「はい。遊覧船に乗りました」
「鳥に餌を取られんかった?」
「餌は買いませんでした」
「正解や。あの鳥たち、勢いがすごいからね」
美代は笑い、白いシーツを腕へ掛けた。
海斗は一枚を受け取ろうとしたが、美代は「お客さんは休んどき」と首を振った。
「静波には行かんかったの?」
「店の前までは行きました」
「入らんかったんか」
「開店前だったので」
「水月さんなら、声をかけても怒らんと思うけど」
「忙しそうでしたから」
美代は海斗の顔を見て、何かを察したように笑った。
「また来たらええ」
昨日、バスで隣に座った老婦人も同じようなことを言っていた。
ゆっくりしていけばよい。
また来ればよい。
誰も、いつまでに決めろとは言わない。
そのことが、海斗には不思議だった。
二泊目の夜も、海斗はよく眠った。
翌朝、東京へ戻ることにした。
休暇はまだ数日残っていたが、これ以上ここにいると、帰ることが難しくなる気がした。
宿代を支払うと、美代が小さな紙袋を差し出した。
「電車で食べて」
中には、梅干しの入ったおにぎりが二つ包まれていた。
「朝ご飯もいただいたのに」
「昼まで時間がかかるやろ」
「ありがとうございます」
海斗は紙袋を鞄へ入れた。
「今度は、夕食も用意できる日に来てください」
今度。
その言葉に、胸の内がわずかに動いた。
「はい」
海斗は初めて、迷わず答えた。
バス停へ向かう途中、「静波」の前を通った。
暖簾は出ていない。
窓も閉じている。
それでも、厨房の奥には明かりがついていた。
水月はもう仕事を始めているのだろう。
戸を叩くことはしなかった。
店の前を通り過ぎ、数歩進んでから一度だけ振り返る。
水月の姿は見えなかった。
天橋立へ向かうバスが走り出すと、舟屋の町は少しずつ後ろへ遠ざかった。
窓の外に海が見えなくなるまで、海斗は顔を上げていた。
東京へ戻った日の夕方、海斗は駅から部屋まで歩いた。
最寄り駅の改札を出ると、人の流れが急に速くなった。立ち止まれば、後ろから来る人の邪魔になる。海斗は周囲に合わせて歩いた。
信号が変わる。
一斉に人が動く。
自転車のベル、車のエンジン、店頭から流れる音楽。さまざまな音が重なり、耳の中へ押し寄せてきた。
伊根にも音はあった。
漁船の音、話し声、水が土台へ触れる音。
違うのは、音の大きさではない。
東京の音は、すべてが海斗を急かしているように聞こえた。
部屋の扉を開ける。
二日前まで暮らしていた場所なのに、空気がよどんで感じられた。
カーテンを閉め切っていたため、室内は薄暗い。脱いだ服、空のペットボトル、積み上げた段ボール。出発前と何も変わっていなかった。
海斗は鞄を置き、窓を開けた。
入ってきたのは潮風ではなく、道路の排気を含んだ生ぬるい空気だった。
美代からもらったおにぎりを取り出す。
少し形が崩れていた。
海斗は電子レンジで温めず、そのまま食べた。
海苔は巻かれていない。塩の加減も不揃いだった。中央の梅干しは酸っぱく、一口かじると唾液が出た。
二つとも食べ終えた。
食べられたことが嬉しかった。
翌日、海斗はクリニックを再び受診した。
医師に、二泊だけ旅へ出たことを話した。
「眠れましたか」
「向こうでは眠れました。東京へ戻った昨日は、夜中に二度起きました」
「食事は?」
「旅先では食べられました」
「それなら、環境が変わったことで緊張が一時的に和らいだのでしょう。ただ、眠れたからといって、すぐ元の働き方へ戻ってよいわけではありません」
医師は診察記録へ目を落とした。
「職場復帰後もしばらく残業を減らすことはできますか」
「会社と相談します」
「できるかどうかではなく、相談してください。以前と同じ負荷へ戻れば、同じ状態になる可能性があります」
海斗はうなずいた。
分かっているつもりだった。
けれど、仕事へ戻れば、必要とされるままに引き受けてしまう自分も想像できた。
休暇の最終日、西田から連絡が来た。
〈月曜日、出社できそうですか。難しければ、黒田部長に伝えます〉
海斗はしばらく考えてから返信した。
〈出社する。ただし、しばらく残業を減らしたい。月曜日に黒田部長へ相談する〉
送ったあと、これでよかったのか不安になった。
残業を減らしたい。
以前なら、「可能であれば」や「迷惑でなければ」と書き加えていただろう。
だが、医師は相談してくださいと言った。
海斗は文章を送り直さなかった。
月曜日の朝、オフィスの入口で足が止まった。
社員証を読み取り機へかざせば、扉が開く。
それだけのことができない。
ガラスの向こうには、見慣れた机が並んでいる。頭上からは白い照明が降り注ぎ、キーボードを打つ音と話し声が絶えず響いていた。
伊根へ行く前まで、自分もその中にいた。
ほんの数日離れただけなのに、別の場所に見えた。
後ろから社員が近づいてきた。
海斗は通路を塞いでいたことに気づき、社員証をかざした。
短い電子音が鳴る。
その音だけで、肩に力が入った。
自分の席へ向かうと、西田が先に出社していた。
「おはようございます」
彼女は普段と変わらない声で言った。
「おはよう」
「旅行、どうでした?」
「二泊しただけだけど、眠れた」
「よかったです」
西田は海斗の顔を見て、少し首を傾けた。
「でも、まだ疲れていますね」
「自分では、前よりいいと思っていたんだけど」
「前が悪すぎたんです」
西田は机の横に置いた資料を海斗へ渡した。
「休んでいた間の変更点です。今日中に全部見なくていいです。急ぎのものには印をつけています」
資料は十枚ほどにまとめられていた。
以前なら、海斗は席に着くなり、すべてを読み始めただろう。分からないことがあれば、すぐに質問し、自分が担当していた仕事を取り戻そうとしたはずだ。
一枚目を開く。
文字は読めた。
だが、三枚目まで進むと、頭の中に薄い霧がかかった。
海斗は資料を閉じた。
「少し休む」
西田は驚いた顔をしなかった。
「はい。コーヒー、買ってきましょうか」
「水でいい」
給湯室へ行き、自分で水を入れた。
誰かに頼ることと、自分でできることをするのは、矛盾しない。
源治が修理していた網を思い出した。
切れた部分だけを縛っても、また別の場所が切れる。
休暇を一週間取っただけでは、何もかも元には戻らない。
午前十時、黒田との面談があった。
前回と同じ会議室だったが、黒田は腕時計を机へ置かなかった。
「体調はどうだ」
「旅先では眠れました。まだ集中できない時間があります」
「医師からは?」
「しばらく残業を減らすよう言われています」
黒田は小さく息を吐いた。
「今月いっぱい、夜間の障害対応からは外す。担当していた新機能も、西田と佐伯に分ける」
海斗は予想していなかった。
「そこまでしてもらわなくても」
言いかけて、口を閉じる。
ここで遠慮すれば、何も変わらない。
「ありがとうございます」
そう言い直した。
黒田は机の上で指を組んだ。
「この前は悪かった」
海斗は顔を上げた。
「あの状態の君に、時期をずらせないかと聞くべきじゃなかった。忙しいのは全員同じだと思っていた。だから、誰か一人だけを特別に休ませるのは難しいと考えた」
「部長も、ほとんど休んでいませんよね」
「管理職だから仕方ないと思っていた」
黒田は苦い表情を浮かべた。
「でも、管理職が休まなければ、部下も休めない。君が倒れかけて、初めて気づいた」
黒田もまた、追い詰められていたのかもしれない。
経営側から納期を求められ、顧客から追加要望を受け、現場へ仕事を振り分ける。黒田が海斗たちを苦しめようとしていたわけではない。
悪意がなくても、人は人を追い詰める。
誰も止まらなければ、無理だけが次の人へ渡されていく。
「プロジェクトの進め方も見直したい。ただ、すぐに全部は変えられない」
黒田は言った。
「今月末の公開予定も残っている。君の経験が必要な場面はある」
「分かっています」
「ただし、無理なときは言ってくれ」
海斗は返事をしかけて、ためらった。
無理なときに言ってくれ。
これまでにも何度か聞いた言葉だった。
問題は、言える雰囲気がなかったことだけではない。海斗自身が、無理だと認めたくなかったことにもある。
「無理になる前に相談します」
海斗が答えると、黒田はゆっくりうなずいた。
職場へ戻った最初の一週間、海斗は午後七時までに退社した。
以前なら、午後七時は一日の後半だった。周囲の席に人が残っている状態で立ち上がると、仕事を途中で放り出すような後ろめたさがあった。
初日、パソコンを閉じたあとも、十分ほど席を立てなかった。
西田が横から言った。
「帰らないんですか」
「これだけ確認してから」
「明日でいいです」
「五分で終わる」
「五分で終わる仕事を、海斗さんはいくつ持っていますか」
答えられず、海斗は鞄を持った。
「お先に失礼します」
周囲の何人かが顔を上げ、挨拶を返した。
誰も責めなかった。
エレベーターへ乗ると、膝から力が抜けそうになった。
会社を出た時刻は午後七時十五分。
空には、まだわずかに明るさが残っていた。
平日の夕方に外の空を見るのは、久しぶりだった。
帰り道、駅前の定食屋へ入った。
焼き魚定食を注文する。
料理が運ばれてくるまで、携帯電話を見ないようにした。周囲には、一人で食事をする会社員が何人もいる。皆、料理を待ちながら画面を眺めていた。
海斗も何度か手を伸ばしかけたが、鞄の中へ入れたままにした。
焼き鯖は脂が乗り、ご飯も温かかった。
けれど、食べながら「静波」のカウンターを思い出した。
水月が焼き台の前に立つ姿。
器を温める手。
料理について尋ねたとき、必要なことだけを答えた声。
海斗は、自分が伊根の景色だけを思い出しているのではないことに気づいた。
あの店で過ごした時間を思い出している。
さらに言えば、水月の存在を思い出していた。
顔立ちを細かく覚えているわけではない。
髪を低い位置で束ねていたこと。包丁を持つ指が細かったこと。笑顔をほとんど見せなかったこと。
記憶に残っているのは、それだけだった。
それでも、彼女が作った料理を食べている間、自分は何かを求められなかった。
元気になれとも、前向きに考えろとも言われなかった。
その距離が忘れられなかった。
帰宅後、海斗は「静波」をインターネットで検索した。
公式のウェブサイトは見つからなかった。
観光協会の飲食店一覧に、店名、住所、電話番号、営業時間が簡単に掲載されているだけだった。予約を受け付ける仕組みもなく、献立の情報もない。
個人が投稿した写真が数枚見つかった。
紺色の暖簾。
窓際の席から見える海。
季節ごとに異なる焼き魚や煮物。
料理の写真の端に、水月の腕が写り込んでいるものがあった。白い調理着と、器を支える指先だけだった。
海斗は画面を閉じた。
自分が何を探していたのか分からなくなった。
店の情報が知りたかっただけだ。
そう言い聞かせたが、営業時間も住所も、すでに知っている。
一週間後、顧客との打ち合わせが行われた。
海斗は黒田、西田とともに会議室へ入った。壁の大型画面には、顧客側の担当者たちが映っている。
議題は、次回公開する機能の範囲だった。
顧客側から、予定になかった機能を追加したいと要望が出た。
「操作画面へ検索条件を二つ増やすだけです。来週の公開に間に合いますよね」
担当者は簡単な変更のように言った。
海斗は手元の資料を見た。
画面に条件を増やすだけではない。保存するデータを追加し、検索処理を変え、既存の機能に影響がないか確認する必要がある。
以前の海斗なら、難しいと分かっていても「調整します」と答えただろう。
会議室の中に沈黙が流れた。
黒田が口を開こうとする。
その前に、海斗は声を出した。
「来週の公開には間に合いません」
画面の向こうで、担当者が眉をひそめた。
「そんなに大きな変更ですか」
「画面上は条件を二つ増やすだけに見えます。ただ、内部の検索処理と保存形式にも変更が必要です。確認まで含めると、最低でも三週間は必要です」
「前回は、同じくらいの変更を一週間で対応してもらいましたよね」
「前回は、確認作業の一部を公開後へ回しました。その結果、先日の障害につながりました」
黒田が海斗を見た。
責める表情ではなかった。
顧客側の担当者が腕を組む。
「では、どうすればいいですか」
「今回の公開では、既存機能の改善だけを行います。追加の検索条件は次回へ分けるのが安全です。どうしても来週必要であれば、条件を一つに絞り、対象データも限定する方法があります」
海斗は画面へ資料を映した。
昨日のうちに考えていた代替案だった。
顧客側で短い相談が行われ、最終的に追加機能は次回へ回されることになった。
打ち合わせが終わる。
画面が消えると、黒田が椅子へ深くもたれた。
「前なら、持ち帰って検討しますと言っていたな」
「はい」
「言い切るのは怖くなかったか」
「怖かったです」
海斗は正直に答えた。
実際、説明している間も手のひらには汗をかいていた。相手を怒らせるのではないか、能力がないと思われるのではないかという不安があった。
「でも、できないものをできると言えば、誰かが夜中に直すことになります」
西田が小さく笑った。
「成長しましたね」
「年下に言われると、複雑だな」
「倒れそうな先輩を助けたので、言う権利はあります」
「それは否定できない」
海斗も笑った。
黒田は二人を見てから、資料を閉じた。
「次から、要望を受ける前に現場へ確認する。営業にも伝える」
一度の打ち合わせで、会社が変わるわけではない。
翌日には別の案件で急な依頼が入り、午後七時を過ぎても帰れない社員がいた。管理職同士の会議では、相変わらず売上と納期が優先された。
それでも、海斗の中では小さな変化が始まっていた。
できないと言う。
分からないと認める。
誰かへ助けを求める。
どれも以前の海斗には、仕事のできない人間の行動に思えていた。
今は、それを言わないまま限界を越えることの方が、周囲へ大きな負担を残すと分かる。
分かったからといって、すぐにできるわけではない。
夜中に目を覚ます日は続いた。
通知音が聞こえた気がして、何度も携帯電話へ手を伸ばした。休日に何も予定がないと、不安になって仕事の資料を開きかけることもあった。
食欲が戻らない日もあった。
コンビニで弁当を手に取り、棚へ戻す。結局、飲み物だけを買って帰る。
そんなとき、海斗は美代にもらったおにぎりを思い出した。
形は揃っていなかった。
特別な具材が入っていたわけでもない。
それでも、二つとも食べることができた。
ある土曜日、大学時代の友人である隆也から連絡が来た。
〈生きてるか。三か月くらい顔を見てないぞ〉
海斗は返信をためらった。
忙しいと答えれば、また会わずに済む。
これまでは、そうして誘いを断ってきた。
〈少し仕事を休んでいた。今夜なら会える〉
送信すると、すぐに電話がかかってきた。
「休んでたって、どうしたんだよ」
隆也の大きな声に、海斗は携帯電話を耳から少し離した。
「説明すると長い」
「じゃあ、飯を食いながら聞く。七時にいつもの店でいいか」
学生時代によく通った居酒屋で待ち合わせた。
隆也は不動産会社で営業をしている。大学を卒業してからも、年に数回は会っていたが、今年に入ってから海斗が誘いを断り続けていた。
席へ着くなり、隆也は海斗の顔を見た。
「痩せたな」
「みんなに言われる」
「みんなに言われるなら、本当に痩せたんだろ」
隆也は料理を多めに注文した。
海斗は、仕事中に文字が読めなくなったこと、休暇を取ったこと、行き先を決めずに京都まで行ったことを話した。
「そこから伊根まで行ったのか」
「京都駅で写真を見て」
「相変わらず、行動するときだけ極端だな」
隆也は呆れたように笑った。
「それで、何か変わった?」
海斗は考えた。
「少し眠れるようになった」
「それだけ?」
「食べられるようにもなった」
「十分じゃないか」
隆也は焼き鳥を一本、海斗の皿へ置いた。
「三十歳で倒れるまで働いても、会社は一生面倒を見てくれないぞ」
「分かっている」
「分かってなかったから、こうなったんだろ」
返す言葉がなかった。
隆也はビールを一口飲んだ。
「伊根で、何を食べたんだ」
「甘鯛の塩焼き。冬瓜の含め煮と、出汁巻き卵もあった」
「よく覚えてるな」
「目の前で作ってくれたから」
「女性が?」
海斗は箸を止めた。
「どうして女性だと思ったんだ」
「今の言い方」
隆也が笑う。
「その人に会いたくて、また行こうとしてるんじゃないのか」
「一度、食事をしただけだよ」
「なら、店の名前は?」
「静波」
答えたあと、隆也の笑みが深くなった。
「ちゃんと覚えてるじゃないか」
「店名くらい覚えるだろ」
「名前は?」
「水月さん」
「店主の名前まで聞いたのか」
「宿の女将さんが話していたんだ」
海斗は説明しながら、自分が言い訳をしているように感じた。
隆也はそれ以上からかわなかった。
「また行けばいいじゃないか」
「東京から遠い」
「遠くても、行きたいなら行けばいい。仕事で呼ばれたら、北海道でも沖縄でも行くくせに」
源治と同じことを言われた。
行きたいなら、行けばよい。
その夜、海斗は帰宅してから予定表を開いた。
伊根から戻って、三週間が過ぎていた。
医師からは、睡眠と食事の記録をつけるよう勧められている。
眠れた日は丸。途中で目が覚めた日は三角。一時間以上眠れなかった日は印をつけない。
丸は少しずつ増えていた。
それでも、仕事が立て込んだ翌日は空白になっている。
海斗は翌月の予定を確認した。
木曜日と金曜日には、大きな会議が入っていない。土日と合わせれば、四日間休むことができる。
休暇の申請画面を開く。
理由の欄には「私用」と入力した。
送信ボタンへ指を置く。
旅行をするために、また同僚へ仕事を任せる。
そんな考えが浮かんだ。
だが、休むことは誰かに迷惑をかける行為ではない。予定を伝え、仕事を整理し、必要な人に引き継げばよい。
西田の顔を思い出す。
海斗は申請を送信した。
翌日、黒田から承認の通知が届いた。
理由を聞かれることも、時期をずらせないかと言われることもなかった。
昼休み、海斗は「潮路」へ電話をかけた。
美代が出た。
「来月の木曜日から、三泊お願いしたいんですが」
名前を告げると、美代の声が明るくなった。
「この前の東京の海斗さん?」
「はい」
「また来てくれるんやね」
その言葉に、海斗は自分が歓迎されたように感じた。
「今度は夕食も用意できますよ」
海斗は少し迷った。
美代の料理も食べたい。
だが、「静波」にも行きたかった。
「一日目だけ、夕食なしでもいいですか」
電話の向こうで、美代が小さく笑った。
「静波へ行くんやね」
「まだ、決めていません」
「そういうことにしておきます」
通話を終えたあと、海斗は観光協会のページを開いた。
「静波」の営業時間を確かめる。
一か月前と変わっていない。
店へ予約の電話を入れることも考えた。
だが、水月に何と名乗ればよいのか分からなかった。
一度食事をした、東京から来た男です。
それだけで思い出してもらえるとは思えない。
予約を入れるなら、名前と日時を伝えればよい。思い出してもらう必要などない。
それでも海斗は、電話番号を押せなかった。
店が休みなら、そのときは別の場所で食事をすればよい。
自分へそう言い聞かせ、画面を閉じた。
旅行の日が近づくにつれ、海斗は何度も予定を確認した。
天気予報、列車の時刻、バスの乗り継ぎ。
前回は何も決めずに出発したが、今度は宿も切符も予約した。伊根で見たい場所もいくつか調べた。
気づけば、仕事の予定より丁寧に旅程を組んでいた。
それでも、「静波」へ行く時間だけは決めなかった。
予約も入れなかった。
約束にしてしまうと、何かが変わる気がした。
出発前日、西田が海斗の机へ来た。
「明日から休みですよね」
「うん。月曜日まで」
「仕事用の携帯電話は?」
「持っていかない」
「行き先は?」
「京都の北」
西田はすぐに気づいた。
「前と同じところですか」
「そう」
「気に入ったんですね」
「海が近いから」
海斗は答えた。
嘘ではない。
ただ、それだけでもなかった。
「今度こそ、ゆっくりしてきてください」
西田は資料を一冊、海斗の机から持ち上げた。
「これは私が見ておきます」
「月曜日に僕がやる」
「休みの間に締め切りが来ます」
「それなら、お願いする」
以前なら、申し訳ないと何度も付け加えただろう。
西田は何も言わず、うなずいた。
「お土産はいりませんから」
「まだ何も言ってないけど」
「気を遣って買いそうなので、先に言いました」
「じゃあ、何も買わない」
「それでいいです」
西田は笑い、自分の席へ戻った。
翌朝、海斗は東京駅のホームに立っていた。
一か月前とは違い、行き先は決まっている。
京都で特急へ乗り換え、天橋立からバスで伊根へ向かう。宿には部屋が用意されている。
その先に、約束のない場所が一つだけあった。
新幹線がホームへ入ってくる。
風が起こり、海斗の前髪を揺らした。
ポケットの中には、美代が前回くれた宿の案内カードが入っている。裏面には、自分で書き留めた「静波」の営業時間があった。
海斗は鞄を持ち直した。
仕事から逃げるためではない。
眠るためだけでもない。
もう一度、自分の意思であの町へ行く。
列車の扉が開いた。
海斗は迷わず乗り込んだ。




