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『静波の寄せる場所』  作者: 久遠 睦


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第2章 旅人

午前二時十二分。

海斗のモニターには、赤い文字で埋め尽くされたログが流れ続けていた。

画面の右上では、社内連絡用アプリの通知が途切れずに増えている。障害対応用のチャンネル、開発チームのチャンネル、顧客との連絡窓口。どの欄にも未読を示す数字がつき、数分ごとに大きくなっていった。

障害の原因は、すでに特定できていた。

新しく追加した機能が、想定より多くの処理を同時に発生させている。負荷が一定の値を超えると、サーバーが応答しなくなる。緊急の修正を入れ、確認環境で試し、本番へ反映する。それだけの作業だった。

以前の海斗なら、手順を頭の中で組み立て、迷わず指を動かしていた。

今夜は違った。

修正するべき箇所が分かっているのに、カーソルが画面の上で点滅しているだけだった。

何度コードを読んでも、文字が意味のあるまとまりとして頭へ入ってこない。行を追っているうちに、どこから読み始めたのか分からなくなる。

目を閉じ、こめかみを指で押した。

冷房の効いたオフィスにいるはずなのに、シャツの背中が汗で湿っていた。胃の奥が固く縮み、喉には薄い膜が張りついている。

机の上には、夕方に買ったおにぎりが一つ残っていた。透明な包装の内側で海苔が湿り、角が潰れている。空腹を感じて買ったはずだが、食べる気にはなれなかった。

通知音が鳴った。

黒田部長からだった。

〈修正、あとどれくらい? 先方には三時までに復旧見込みと伝えています〉

海斗は時計を見た。

三時まで、四十八分。

自分が作った機能ではない。仕様を決めたのも、公開日を前倒ししたのも海斗ではなかった。それでも、夜間の障害対応を任されている以上、直すのは彼の仕事だった。

返信欄に文字を入力する。

〈原因は確認できています。修正作業中です〉

そこまで書き、送信する前に読み返した。

作業中という言葉が嘘に思えた。実際には、十分近く一行も書けていない。

海斗は文章を消した。

もう一度入力する。

〈原因は確認できました。三十分以内に修正版を反映します〉

送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が大きく脈打った。

三十分以内。

自分で新しい期限を作ってしまった。

指先が冷たくなり、呼吸が浅くなる。耳の奥で、低い音が膨らんだ。

海斗は椅子から立ち上がった。

給湯室へ向かおうとしたが、床がわずかに傾いたように感じ、隣の机へ手をついた。

「海斗さん?」

背後から声をかけられた。

振り向くと、西田真帆が立っていた。

同じ開発チームで働く二十八歳のエンジニアだった。肩に届く髪を無造作に束ね、片手に紙コップを持っている。彼女も終電を逃し、障害対応に残っていた。

「顔、真っ白ですよ」

「大丈夫」

反射的に答えた。

大丈夫という言葉は、この数か月で何度使ったか分からない。体調を聞かれたときも、仕事量を心配されたときも、納期に間に合うのかと尋ねられたときも、海斗はそう答えてきた。

「大丈夫な人は、机につかまって立たないです」

「少し立ちくらみがしただけだから」

西田は海斗のモニターを見た。

「修正箇所、分かったんですか」

「ここでリクエストが重複している。制御を追加すれば止まると思う」

「私が書きます。海斗さんは確認してください」

「いや、僕がやる」

「今の状態で本番のコードを触る方が危ないです」

西田の口調は穏やかだったが、譲るつもりはないらしい。

海斗は言い返そうとした。

だが、画面へ視線を戻した途端、再び文字の列が滲んだ。

「……分かった」

ようやくそれだけ答えた。

西田は自分のノートパソコンを持ってきて、海斗の隣へ座った。説明を聞きながら、迷いなく修正を進めていく。

その横顔を見ていると、安堵より先に情けなさが込み上げた。

半年前まで、西田が困ったときには海斗が助けていた。複雑な不具合を解決し、新しい技術を教え、顧客向けの説明まで引き受けた。

チームの中で頼られることが嬉しかった。

自分がいなければ進まない仕事があることを、誇らしく思っていた。

いつから、それが重荷に変わったのだろう。

西田が修正したコードを画面へ表示した。

「これでどうですか」

海斗は一行ずつ確認した。

間違いはない。自分がやろうとしていた修正と同じだった。

「大丈夫。確認環境へ反映しよう」

二人で動作を確かめ、本番環境へ反映した。

午前三時八分。

監視画面の数値が、少しずつ正常な範囲へ戻っていく。顧客からも、サービスが利用できるようになったと連絡が入った。

黒田部長からは、短い返信だけが届いた。

〈復旧確認。報告書は朝九時までにお願いします〉

助かったとも、遅くまでありがとうとも書かれていない。

海斗はその文章をしばらく見つめ、パソコンを閉じた。

「報告書、私が下書きします」

西田が言った。

「そこまでしてもらわなくていい」

「明日の午前中、別の打ち合わせがありますよね」

「九時半から」

「このまま残るつもりですか」

「帰っても、すぐ出てくることになるから」

会社から海斗の部屋までは、電車で四十分ほどかかる。始発を待って帰宅しても、シャワーを浴びれば、また家を出る時間になる。

西田は紙コップを握ったまま、海斗を見た。

「先週も会社に泊まりましたよね」

「先週は公開前だったから」

「その前の週も、二時まで残っていました」

「忙しい時期だから仕方ないよ」

「その忙しい時期、いつ終わるんですか」

海斗は答えられなかった。

春に始まった新規プロジェクトは、当初、七月末に一区切りつく予定だった。だが、顧客からの追加要望が重なり、公開直前に大幅な仕様変更が入った。

納期は変わらなかった。

八月に入れば落ち着くと言われた。八月になると、九月までが山場だと言われた。

九月を迎えた今、黒田は年末までに次の機能を公開すると話している。

終わりは、どこにも見えなかった。

「海斗さん、この前、同じ質問を三回しました」

西田が言った。

「同じ質問?」

「定例会議の日程です。予定表に入っていたのに、三回確認しました」

海斗には記憶がなかった。

「昨日は昼休みにコンビニへ行って、何も買わずに戻ってきました」

「それは……欲しいものがなかっただけだよ」

「財布を机に置いたままでした」

海斗は無意識にズボンのポケットへ手を伸ばした。

財布は入っている。

それを確認してから、自分が何をしているのかに気づいた。

西田は声を落とした。

「一度、休んだ方がいいです」

「今は無理だよ」

「今休まなかったら、いつ休むんですか」

「僕が抜けたら、みんなの負担が増える」

「もう増えています」

西田の言葉が、鋭く胸へ刺さった。

彼女はすぐに首を振った。

「責めているわけじゃありません。海斗さんが無理をして、確認できなくなった仕事を、ほかの人がもう一度確認しています。今日みたいに倒れそうになったら、誰かが代わらないといけない。限界まで働くことが、チームのためになるとは思えません」

海斗は何も言えなかった。

西田の言うことは正しかった。

正しいからこそ、苦しかった。

自分は人より多く仕事を引き受け、遅くまで残り、何度もチームを助けてきた。それだけは間違いないと思っていた。

だが、いつの間にか助ける側ではなく、見守られる側になっていた。

「ごめん」

「謝ってほしいんじゃないです」

西田は紙コップを机へ置いた。

「ちゃんと眠って、ちゃんと食べてください。海斗さんがいない間のことは、残った人たちで考えます」

窓の外では、夜が薄くなり始めていた。

周囲のビルの輪郭が、黒から灰色へ変わっている。朝が来ることを、海斗は嬉しいと思えなかった。

また一日が始まってしまう。

そう感じた自分に、彼は怯えた。

翌朝、海斗は黒田との面談を申し込んだ。

障害報告書を提出したあと、小さな会議室へ入る。ガラス張りの壁の外では、社員たちがパソコンを抱えて行き交っていた。

黒田は腕時計を見ながら椅子へ座った。

「十五分しか取れないけど、何の話?」

海斗は向かい側へ座った。

何度も頭の中で繰り返した言葉が、喉の手前で止まった。

休みたいです。

たったそれだけのことが言えない。

黒田は机の上で指を組み、続きを待っている。

「最近、体調がよくありません」

ようやく言葉が出た。

「昨日の障害対応で遅くなったから?」

「昨日だけではありません。眠れない日が続いています。仕事中に、考えがまとまらなくなることもあります」

「今のプロジェクトは、確かに負荷が高い。でも、ここを越えれば少し楽になる」

何度も聞いた言葉だった。

海斗は膝の上で拳を握った。

「その話を、六月にも聞きました」

黒田の眉がわずかに動いた。

「何が言いたい?」

「休暇を取りたいです」

「何日?」

「まず、一週間」

「来週は顧客への中間報告がある。君が説明する予定だったよね」

「資料は今日中に整理します。西田さんと佐伯さんにも共有します」

「引き継ぎができるなら休んでも構わないけど、時期はずらせないか」

まただ、と海斗は思った。

休んでも構わないと言いながら、実際には休めない理由を並べられる。自分も、その言葉に従って何度も先延ばしにしてきた。

机の下で、自分の足が細かく震えていることに気づいた。

「ずらせません」

海斗は答えた。

自分でも驚くほど乾いた声だった。

「今日の午後、会社の健康相談室に行きます。その結果にかかわらず、来週は休ませてください」

黒田は海斗の顔を見た。

ようやく、いつもと様子が違うことに気づいたらしい。

「そこまで悪いのか」

「自分でも分かりません」

「分からない?」

「何が普通だったのか、分からなくなっています」

会議室の外を、数人の社員が笑いながら通り過ぎた。

黒田は腕時計を見るのをやめた。

「分かった。中間報告は日程を調整する。引き継ぎは今日中じゃなくていい。必要なことだけまとめて、終わったら帰ってくれ」

海斗は頭を下げた。

安堵するはずだった。

けれど、身体の力が抜けると同時に、涙が出そうになった。泣く理由などないと思うほど、余計に目の奥が熱くなった。

顔を上げられないまま、もう一度だけ頭を下げた。

その日の午後、健康相談室の担当者から、医療機関を受診するよう勧められた。

翌日、海斗は自宅近くのクリニックへ行った。

診察室で、眠れないこと、食欲がないこと、仕事の文章が頭へ入らなくなったことを話した。

医師は質問を重ねた。

いつから眠れないのか。

休日は休めているのか。

以前楽しめていたことを、今も楽しめるか。

仕事をしていないときも、不安が続いているか。

海斗は一つずつ答えた。

休日について尋ねられたとき、最後に一日何もしなかった日がいつなのか思い出せなかった。映画を見ることも、友人と会うことも、以前ほど楽しいと感じなくなっていた。

休日でも仕事用の携帯電話を手元に置き、通知が鳴るたびに画面を確認した。鳴っていないときでさえ、振動したように感じることがあった。

「しばらく仕事から離れた方がいいでしょう」

医師はそう言った。

「まずは眠ることです。休んでいる間に何かを成し遂げようとしなくていい。回復することを予定表に入れる必要もありません」

海斗は曖昧にうなずいた。

休むことにまで予定を立てようとしていた自分を、見透かされたようだった。

クリニックを出ると、午後の陽射しが眩しかった。

通りには、昼休みを終えた会社員たちが歩いている。誰もが目的地を知っているように見えた。

海斗だけが、どこへ行けばよいのか分からなかった。

部屋へ戻り、鞄を床へ置いた。

ワンルームの室内には、脱いだ服と通販の段ボールが積まれていた。テーブルの上には、飲み終えたペットボトルが三本並んでいる。

冷蔵庫を開ける。

水、缶ビール、賞味期限の切れたヨーグルト。野菜室には何も入っていなかった。

三十歳になった春、海斗は今より少し広い部屋へ引っ越そうと考えていた。

仕事にも慣れ、収入も増えた。休日には料理をし、友人を呼べるような部屋に住みたいと思っていた。

しかし、物件を探す時間がないまま半年が過ぎた。

料理をするどころか、家で食事を取ることさえ減っていた。

海斗はベッドへ横になった。

カーテンの隙間から、午後の光が細く床へ落ちている。

目を閉じても眠れなかった。

仕事用の携帯電話は電源を切っている。それなのに、何度も通知音が聞こえた気がして目を開けた。

翌日も、その次の日も、海斗はほとんど部屋から出なかった。

眠っては目を覚まし、空腹に気づいてコンビニへ行く。何を買えばよいのか決められず、菓子パンと水だけを持ってレジに並ぶ。

休暇の三日目、西田から短いメッセージが届いた。

〈こちらは大丈夫です。返信はいりません。仕事用のアプリは見ないでください〉

海斗は、ありがとうと入力しかけて消した。

返信はいらないと書かれている。返さない方がよいのだろう。

だが、何も返さないことが失礼に思えた。

数分迷い、結局、ありがとうとだけ送った。

その夜、母親からも電話があった。

連絡していなかったが、西田が家族へ知らせたわけではない。月に一度かかってくる、いつもの電話だった。

「仕事、忙しいの?」

母親に聞かれ、海斗は「普通」と答えた。

「声が疲れているけど」

「昨日、少し遅かったから」

嘘ではなかった。

ただ、昨日だけではないことを言わなかった。

母親は実家へ帰ってくればよいと言った。海斗は仕事があるから無理だと答えた。休暇中であることも、医師に休むよう言われたことも話さなかった。

心配をかけたくない。

説明するのが面倒だった。

そして何より、心配される自分を認めたくなかった。

電話を切ったあと、部屋の狭さが息苦しく感じられた。

壁の向こうから洗濯機の音が聞こえる。道路を走る車の音、上の階で椅子を引く音、廊下を歩く足音。普段なら気にならない生活音が、一つずつ耳へ刺さった。

この部屋にいても休めない。

そう思った。

どこかへ行きたいのではなかった。

ここではない場所へ移りたかった。

海斗はノートパソコンを開き、旅行予約の画面を表示した。

行き先の欄へ文字を入力しようとして、手が止まる。

海、山、温泉。

何を見たいのか分からない。

有名な観光地へ行けば、人の多さに疲れるような気がした。かといって、人のいない場所を自分で探す余力もない。

画面を閉じ、翌朝、必要最低限の着替えだけを鞄へ詰めた。

計画を立てれば、また正しい順番や効率を考えてしまう。

駅へ行ってから決めよう。

東京駅の構内は、平日の朝から人で溢れていた。

スーツケースを引く旅行者、早足で改札へ向かう会社員、土産物の紙袋を抱えた家族。行き先を示す電光掲示板には、列車名と発車時刻が次々に表示されている。

海斗は少し離れた場所から、その文字を眺めた。

仙台、新潟、金沢、名古屋、京都、新大阪。

京都という地名を見たとき、学生時代に一度だけ訪れたことを思い出した。

寺院を巡り、友人たちと安い宿に泊まった。夜遅くまで歩き、何を話したのかは覚えていない。それでも、疲れながら笑っていた感覚だけは残っている。

海斗は券売機で京都までの切符を買った。

午前九時台の新幹線に乗り、窓際の席へ座る。

発車すると、ビルの並ぶ景色が後ろへ流れていった。

仕事を休んで旅をしている。

その事実に、罪悪感があった。

同僚たちは今も働いている。西田は海斗が担当していた作業を引き受けているだろう。中間報告の資料も、誰かが仕上げているはずだった。

仕事用の携帯電話は部屋へ置いてきた。

それでも、鞄の中を何度も確かめた。手元にないと分かるたびに不安になり、同時に、わずかな安堵を覚えた。

東京駅で弁当を買おうと売り場の前まで行ったが、色とりどりの商品を見ても、食べたいものを選べなかった。結局、海斗は水だけを買って新幹線へ乗った。

隣の席の男性が広げた弁当から、醤油と焼き魚の匂いが漂ってくる。その匂いを感じた瞬間だけ、海斗は空腹を思い出した。

京都駅へ着いたのは昼前だった。

改札を出ると、大勢の観光客が行き交っていた。案内板の前には人だかりができ、路線バスを待つ列は駅前まで伸びている。

ここも違う。

海斗は直感的にそう思った。

人が嫌いなわけではない。だが、人の流れに合わせて歩くだけで身体が疲れた。

駅構内の案内所で、京都府北部の観光パンフレットが目に入った。

天橋立。

海の京都。

舟屋の町、伊根。

海へ向かって家々が並ぶ写真に、海斗の視線が止まった。

建物の一階が海へ開き、すぐ前に舟が浮かんでいる。道路と玄関の間に海があるような、不思議な景色だった。

「そちらへ行かれるんですか」

案内所の女性に声をかけられた。

「いえ、まだ決めていなくて」

「天橋立まででしたら、京都駅から特急があります。伊根へは、天橋立から路線バスです」

今日中に行けますか、と海斗は尋ねた。

女性は時刻表を確認し、今からなら夕方前に着けると教えてくれた。

「宿は予約されていますか」

「していません」

「伊根は宿の数が多くないので、先に確認した方がいいですよ」

渡された宿泊案内を見ながら、海斗は何軒か電話をかけた。

三軒目で、空いている部屋が見つかった。

「夕食は用意できませんが、それでもよろしければ」

電話の向こうで、年配の女性が言った。

「大丈夫です」

本当に大丈夫なのか分からなかったが、海斗はそう答えた。

京都駅から特急へ乗り換え、北へ向かった。

市街地を抜けると、窓の外に山が増えていく。民家と田畑が現れては消え、列車は長いトンネルをいくつも通った。

海斗は座席へ深くもたれた。

パソコンを開く必要がない。

次の駅までに何かを終わらせる必要もない。

それなのに身体は緊張したままだった。肩が上がり、歯を食いしばっている。意識して息を吐き、窓の外を眺めた。

向かいの座席では、小さな姉妹が菓子を分け合っていた。母親が何度も声を潜めるよう注意するが、二人はすぐに笑い出す。

以前なら、その声を微笑ましいと思ったかもしれない。

今は、音が頭の中で反響した。

海斗は目を閉じた。

眠れないまま、列車は天橋立駅へ到着した。

駅前には観光案内の看板が並び、土産物店から焼いた魚の匂いが漂っていた。海斗は何も見ず、伊根方面のバス停を探した。

発車まで三十分ほどある。

ベンチへ座り、自動販売機で買った水を飲む。

何も食べていないことを思い出し、近くの店で小さなパンを買った。一口食べたが、口の中の水分を奪われるだけで、味がほとんど分からなかった。

半分を袋へ戻したところで、バスが到着した。

乗客は十人ほどだった。

海斗が後方の窓際へ座ると、次の停留所から乗ってきた老婦人が隣へ腰を下ろした。手には布製の買い物袋を提げている。

バスが走り出すと、老婦人が海斗の鞄を見た。

「旅行ですか」

「はい」

「伊根まで?」

「そうです」

「初めて?」

海斗がうなずくと、老婦人は嬉しそうに笑った。

「今日は海がきれいですよ。風もないし」

何と返せばよいのか分からず、海斗は「そうなんですね」と答えた。

老婦人は気にせず、窓の外へ顔を向けた。

バスは海沿いの道を進んでいく。

右手に山が迫り、左手には海が広がっていた。陽を受けた水面が、白く細かく光っている。

東京を出てから初めて、海斗は携帯電話を取り出すことを忘れていた。

老婦人は途中の停留所で降りた。席を立つ前に、海斗へ声をかけた。

「何もないところやけど、ゆっくりしていったらええ」

バスを降りたあとも、その言葉が残った。

何もない。

今の海斗には、それが魅力的に聞こえた。

午後四時前、バスは伊根へ着いた。

停留所で降りると、まず潮の匂いがした。

同じ海でも、東京湾で感じる匂いとは違う。油や排気ガスの混じらない、湿った風が頬へ触れた。

道路の片側には家々が並び、その隙間から海が見える。建物の一階には舟を収める空間があり、軒先には漁網や浮きが干されていた。

観光写真で見た風景が、生活の場所として目の前にあった。

海斗は宿へ向かって歩いた。

車が一台通れるほどの道を、地元の人たちは慣れた足取りで行き交っている。玄関先で魚を干している家があり、軒下で猫が眠っている。

都会のような無音ではない。

水の音、舟のエンジン、家の中から聞こえる食器の音。どれも誰かの暮らしにつながっていた。

宿は、停留所から十分ほど歩いた場所にあった。

「潮路」と書かれた木の看板が掛けられている。

戸を開けると、電話で話した女性が出迎えた。

「海斗さんですね。遠いところ、お疲れさまでした」

宿帳へ書いた名前を見て、彼女はそう呼んだ。

安藤美代と名乗った女将は、六十代半ばほどに見えた。柔らかな声と、きびきびした動きをしている。

「夕食なしで申し訳ないね。急なお客さんやったから、材料が足りなくて」

「こちらこそ、急に電話をしてすみません」

「近くに食べられるところはあるけど、夜は早く閉まる店が多いよ。少し休んだら、明るいうちに探した方がええ」

案内された部屋は六畳ほどの和室だった。

窓を開けると、家々の屋根越しに海が見えた。

海斗は畳へ鞄を置き、そのまま横になった。

身体は疲れているのに、眠気はなかった。

天井の木目を眺めながら、東京の部屋を思い出した。今頃、会社では夕方の進捗確認が始まっている。誰が何を終え、何が遅れているのかを報告する時間だ。

海斗がいなくても会議は行われる。

仕事も進む。

その当たり前の事実に、寂しさと安堵の両方を覚えた。

窓の外から、子どもたちの声が聞こえた。

海斗は上体を起こした。

このまま部屋にいると、また仕事のことを考え続ける気がした。

美代の言葉を思い出し、外へ出る。

空はまだ明るい。陽は山の方へ傾き、路地の一部が長い影に覆われていた。

食事のできる店を探して歩き始めたが、地図を見る気にはならなかった。

海の見える方へ進み、気になった路地へ曲がる。

何軒かの飲食店はすでに準備中の札を出していた。観光客向けの店は、昼の営業を終えているらしい。

コンビニで何か買えばよい。

そう思いながら歩いていると、一軒の舟屋の前で足が止まった。

紺色の暖簾が出ていた。

白い文字で、「静波」と染め抜かれている。

大きな看板も、料理の写真もない。入口脇に小さな黒板が置かれ、夕食の献立が手書きされていた。

甘鯛の塩焼き。

焼き茄子と胡瓜の胡麻酢和え。

冬瓜の含め煮。

出汁巻き卵。

店内の窓から、温かな光が漏れていた。

人の気配はあるが、賑やかな話し声は聞こえない。

海斗はしばらく入口の前に立っていた。

予約が必要な店かもしれない。

一人で入れば迷惑ではないか。

考えている間に、帰る理由ばかりが増えていく。

そのとき、戸が内側から開いた。

水月が立っていた。

白い調理着の上に濃紺の前掛けを締め、髪を低い位置で一つに束ねている。化粧はほとんどしていないように見えた。

「ご予約のお客様ですか」

落ち着いた声だった。

海斗は首を振った。

「予約はしていません。食事ができる店を探していて」

水月は店内を振り返った。

カウンターには三人の客が座り、窓際のテーブルには年配の夫婦がいる。一席だけ空いていた。

「本日は日替わりの献立だけですが、それでもよろしければご案内できます」

「お願いします」

水月は戸を大きく開けた。

「どうぞ」

店へ入ると、焼いた魚と出汁の香りがした。

その匂いを吸い込んだ瞬間、海斗の腹が鳴った。

自分でも驚くほど大きな音だった。

水月が一度だけ目を瞬かせた。

「すみません」

海斗は顔が熱くなるのを感じた。

水月は笑わなかった。

「お食事をお出しするまで、少しだけお待ちください」

そう言って、カウンターの端の席を示した。

からかわれなかったことに安堵しながら、海斗は腰を下ろした。

目の前には、小さな厨房がある。

水月が魚を焼き台へ載せ、鍋の蓋を開けた。料理人の動きを間近で見るのは初めてだった。

忙しそうには見えない。

だが、動きが止まることもなかった。

魚を見て火を調整し、その間に器を温め、小鉢を盛る。一つの作業が終わってから次へ移るのではなく、いくつもの時間を同時に見ているようだった。

水月は客席にも目を配っていた。

湯飲みが空けば茶を足し、食べる速度に合わせて次の料理を出す。必要な言葉だけを交わし、会話を妨げない距離へ戻る。

海斗の会社にも、仕事の速い人間は大勢いた。

複数の案件を同時に抱え、絶えず連絡を取りながら処理する。だが、その動きには焦りが混じっていた。誰かに追われ、何かに遅れまいとしている速さだった。

水月の動きからは、急かされている気配を感じなかった。

最初に、冬瓜の含め煮が運ばれてきた。

薄い琥珀色の出汁の中に、透き通った冬瓜が浮かんでいる。上には細く切った生姜が載っていた。

「お熱いうちにどうぞ」

海斗は箸を入れた。

冬瓜は形を保っていたが、口へ入れると抵抗なくほどけた。出汁の味は薄い。それなのに物足りなくはなかった。

舌の上へ、温かさがゆっくり広がる。

一口目を飲み込んだあと、海斗はしばらく箸を動かせなかった。

自分がどれほど空腹だったのか、初めて気づいた。

二口、三口と食べる。

胃が食べ物を受け入れ、縮んでいた身体が内側から緩んでいく。

「味が薄ければ、お塩をお持ちします」

水月が言った。

海斗が黙っていたため、口に合わないと思ったらしい。

「いえ、おいしいです」

声が少し掠れた。

「すごく、おいしいです」

水月は短く頭を下げ、厨房へ戻った。

次に、甘鯛の塩焼きと小鉢、ご飯、味噌汁が盆に載せられてきた。

魚の皮には細かな焼き目がつき、尾まで形を崩さずに盛られている。酢橘を搾ると、湯気と一緒に香りが立った。

箸を入れる。

白い身は柔らかく、噛むほどに甘みが出た。

海斗は夢中で食べた。

コンビニのおにぎりを半分残したことも、新幹線で弁当を買えなかったことも、今は遠く感じられた。

食事とは、空腹を埋めるためだけのものではなかった。

子どもの頃、風邪をひいた日に母親が作ってくれた雑炊を思い出した。大学の試験が終わった夜、友人たちと食べた鍋を思い出した。

誰かが自分のために用意した温かいものを、座って食べる。

それだけのことを、長い間していなかった。

「この魚は、ここで獲れたものですか」

海斗は水月に尋ねた。

「はい。今朝、湾の外で揚がった甘鯛です」

「毎日、魚が変わるんですか」

「漁と天候によります。同じ魚が続くこともありますが、献立は仕入れを見てから決めています」

「メニューを先に決めないんですね」

「海の都合は、こちらでは決められませんから」

水月はそう答え、焼き台へ視線を戻した。

海斗はその言葉を頭の中でもう一度繰り返した。

海の都合は、こちらでは決められない。

自分の職場では、すべてが人間の決めた予定に従うことを求められていた。現場がどれほど疲れていても、問題が起きても、公開日は変わらない。

できない理由を説明するより、できる方法を考えろと言われる。

海斗自身も、何度も同じ言葉を後輩へ伝えた。

「どうかされましたか」

水月の声に、海斗は顔を上げた。

また箸が止まっていた。

「いえ。少し、仕事のことを思い出していました」

「ご旅行ではないんですか」

「旅行のつもりです。たぶん」

水月の眉が、わずかに動いた。

「たぶん、ですか」

「今朝、東京駅へ行くまで、どこへ行くか決めていませんでした」

「それで伊根まで?」

「京都駅で写真を見ました。家のすぐ前に海があるのが、不思議だと思って」

水月は窓の外へ目を向けた。

「住んでいると、不思議ではなくなります」

「ここで生まれたんですか」

質問したあと、踏み込みすぎたかもしれないと思った。

水月は少し間を置いた。

「いいえ。三年前に京都市内から移ってきました」

「お店を開くために?」

「そうです」

それ以上は話さなかった。

海斗も続けて尋ねることはしなかった。

水月の返事は冷たいわけではない。ただ、話す範囲を自分で決めていることが伝わった。

海斗には、その距離が心地よかった。

東京では、少し顔色が悪いだけで理由を聞かれた。忙しいと答えれば、誰もが自分の経験を話し始めた。休んだ方がいい、運動をした方がいい、考えすぎない方がいい。

どれも間違っていない。

だが、何も説明したくない日もあった。

水月は、海斗が一人で旅をしている理由を尋ねなかった。東京で何をしているのかも、なぜ行き先を決めずに来たのかも聞かなかった。

ただ、料理を出し、必要なときに茶を足した。

食べ終える頃には、皿の上には魚の骨だけが残っていた。

これほどきれいに食べたのは久しぶりだった。

「ごちそうさまでした」

海斗が言うと、水月は皿を見た。

「ありがとうございます」

声に、初めて柔らかさが混じった。

会計を済ませると、外は薄暗くなっていた。

戸口を出る前に、海斗は振り返った。

「お店は、明日も開いていますか」

「明日は昼だけ営業します。十一時半からです」

「分かりました」

また来るとは言わなかった。

明日、自分が何をしたいと思うのか分からなかった。

水月も、来店を勧めなかった。

「お気をつけて」

その一言に送られ、海斗は店を出た。

路地へ出ると、日中より潮の匂いが濃くなっていた。

家々の明かりが水面に映り、揺れるたびに細長く形を変えている。

海斗は宿へ向かって歩いた。

足取りは重かったが、東京駅を出たときとは違う重さだった。身体に食べ物が入り、自分の重さが戻ってきたように感じられた。

宿へ戻ると、美代が帳場から顔を出した。

「食べられましたか」

「はい。静波という店で」

「ああ、水月さんのところ」

「知っているんですか」

「この町で知らん人はおらんよ。口数は少ないけど、料理は間違いない」

美代は海斗の顔を見て、満足そうにうなずいた。

「少し顔色がよくなったね」

海斗は自分の頬へ触れた。

食事を一度取っただけで、顔色が変わるとは思えない。

けれど、宿へ着いたときより呼吸が深くなっていることには気づいていた。

部屋へ戻り、布団へ横になる。

窓の外から水の音が聞こえた。

東京の部屋で感じたような圧迫感はなかった。

携帯電話を取り出す。

画面には、西田からの新しいメッセージが届いていた。

〈仕事のことは気にしなくて大丈夫です。今日は定時で帰れました〉

海斗はその文章を何度も読んだ。

自分がいなければ仕事が回らないと思っていた。

だが、西田は定時で帰ったという。

肩の力が抜けた。

〈ありがとう。今、京都の北にいます〉

それだけ返信した。

すぐに既読がついた。

〈ずいぶん遠くまで行きましたね。仕事用のパソコン、持っていってないですよね〉

海斗は思わず笑った。

声を立てて笑ったのが、いつ以来なのか分からなかった。

〈持ってきていません〉

〈合格です。ゆっくりしてください〉

短いやり取りを終え、携帯電話を伏せた。

水月の料理を思い出した。

冬瓜の出汁。焼いた甘鯛の香り。目の前の作業だけを見つめる横顔。

彼女の動きには、誰かへ自分の価値を証明しようとする必死さがなかった。

自分が作るものを知り、出せる数を知り、それを越えない。

海斗にはできなかった生き方だった。

自分に任された仕事を断れば、必要とされなくなる気がした。期待へ応え続けなければ、自分の居場所を失うと思っていた。

引き受けるたびに仕事は増えた。

できていた頃の自分に追いつこうとして、さらに無理を重ねた。

その先で、文字を読むことさえできなくなった。

「海の都合は、こちらでは決められませんから」

水月の声が蘇った。

決められないものを、決められないまま受け入れる。

それは諦めとは違うのかもしれない。

海斗は窓を少し開けた。

夜気が入り、水音がはっきり聞こえるようになった。

波は一定の間隔では寄せてこない。強く届く音もあれば、耳を澄まさなければ分からないほど小さな音もある。

その不揃いな響きを聞いているうちに、瞼が重くなった。

眠らなければならないと思わなくていい。

明日までに回復する必要もない。

何かを決めるのは、朝になってからでいい。

海斗は携帯電話の電源を切り、枕元へ置いた。

その夜、彼は目覚ましを設定しなかった。

それでも朝まで、一度も目を覚まさなかった。


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