第1章 水辺のレストラン
夜明け前の伊根湾は、深い藍色の布を広げたように、空との境目を隠していた。
対岸に並ぶ舟屋の窓には、まだほとんど明かりがない。係留された小舟が、寄せては戻る水に合わせて身を揺らし、船腹を岸壁へそっと触れさせている。ときおり遠くで船外機の低い音が生まれ、しばらく水面を渡ったあと、また夜の名残に吸い込まれていった。
水月は、床下から伝わるかすかな振動で目を覚ました。
枕元の時計に手を伸ばす。午前四時三十八分。目覚ましが鳴るまで、あと七分あった。
舟屋の土台に水が当たる音は、日によって違う。風のない朝は、掌で古い木材を撫でるように柔らかい。北から風が入る日は、誰かが扉を叩いているようにせわしない。
今朝の音は穏やかだった。
水月は目覚ましを止め、布団から起き上がった。
肩の下まで伸びた髪を後ろで束ね、薄手のカーディガンを羽織る。二階の小窓を開けると、潮と湿った木の匂いが流れ込んできた。八月の盛りを過ぎたとはいえ、日中にはまだ夏の熱が残る。それでも、日の出前の風には、ごくわずかに秋の気配が混じっていた。
窓の下には、海へ張り出すように設けられた小さなデッキがある。その向こうに伊根湾が広がっていた。
三年前、この部屋で初めて朝を迎えたとき、水月は波の音をうるさいと感じた。
京都市内の借り上げマンションでは、車の音や隣室の生活音を気にしながら眠っていたはずなのに、規則のない水音にはなかなか慣れなかった。眠れないまま朝を迎え、窓辺に座って、少しずつ明るくなる湾を眺めた。
あの朝、自分が寂しかったのか、ほっとしていたのか、水月には今でも分からない。
ただ、もう戻らなくてよいのだと思った瞬間、身体の奥に張りつめていたものが、ほんの少し緩んだことだけは覚えていた。
窓を閉め、急な階段を下りる。
一階の奥に設けた厨房は、水月がこの舟屋で最も時間をかけて整えた場所だった。
作業台、流し台、三口のガス台、業務用の冷蔵庫。壁際の棚には鍋とボウルを大きさの順に収め、引き出しには用途の異なる包丁を並べている。布巾は台拭き、食器用、手拭きで色を分けた。
どこに何があるのか、照明をつけなくても手を伸ばせば分かる。
三年前、この舟屋を借りたとき、一階には古い漁具と使われなくなった木箱が積み上げられていた。潮を吸った柱は黒ずみ、床の一部は踏むたびに沈んだ。地元の大工に相談し、舟を引き入れていた空間を厨房と客席へ改装した。
予算は限られていた。
客席の椅子は古道具店で見つけ、自分で磨いた。窓際の二人掛けのテーブルは、使われなくなった船板を大工に加工してもらった。壁は何度も塗り直し、厨房機器は新品と中古を組み合わせた。
開店前日、水月は誰もいない客席に立ち、六つの椅子を見渡した。
もっと置けるのではないかと大工には言われた。詰めれば十席にはできたし、窓際にもう一卓設ける余裕もあった。
それでも、水月は六席で十分だと答えた。
自分一人の目と手が届く数にしたかった。
今朝も照明をつけると、磨いたステンレスの表面に白い光が走った。
水月は大鍋に水を張り、昆布を沈めた。米を研ぎ、昨夜のうちに作っておいた漬物の状態を確かめる。糠床から胡瓜と茄子を取り出し、表面を洗って端を切った。
包丁を入れると、胡瓜の瑞々しい香りが立った。
炊飯器の蓋を閉じたところで、裏手の戸を三度叩く音がした。
「水月ちゃん、起きとるか」
返事を待たずに聞こえてくる太い声に、水月はわずかに口元を緩めた。
戸を開けると、浜田源治が青い魚箱を両手で抱えて立っていた。
六十二歳になる漁師で、日に焼けた顔には、笑っていなくても笑っているような深い皺が刻まれている。紺色の帽子のつばから、短く刈った白髪がのぞいていた。
「おはようございます。今日は早いですね」
「魚が待ってくれんかったからな」
「源治さんがせっかちなだけでしょう」
「朝から言うようになったやないか」
源治は長靴の底についた水を落としてから、魚箱を作業台の脇に置いた。蓋を開けると、砕いた氷の下から銀色の魚体が現れた。
「カマス。よう肥えとる。こっちは小さいけど、アオリイカや」
水月はカマスを一本取り上げた。
腹には張りがあり、目も澄んでいる。えらを確かめると、鮮やかな赤色をしていた。指先に伝わる身の弾力も申し分ない。
「カマスを五本ください。アオリイカは二杯」
「全部持っていかんのか。今日はええぞ」
「予約は四組です。余らせたくありませんから」
「明日でも使えるやろ」
「明日は明日の魚を使います」
源治は、やはりそう言うか、とでも言いたげに鼻を鳴らした。
水月が必要以上に仕入れないことを、彼は知っている。予約を詰め込まないことも、一日に用意する料理の数を決め、それがなくなれば暖簾を下ろすことも、開店当初から変わっていない。
「観光協会の宮下が言うとったぞ。雑誌の取材、また断ったんやて?」
「まだ正式にはお断りしていません。今日、電話をいただくことになっています」
「受けるんか」
「お断りするための電話です」
「出たら客が増えるのに。雑誌の人が向こうから来てくれるなんて、ありがたい話やろ」
「増えすぎたら、今の料理が出せなくなります」
「人を雇うたらええ」
源治の口調は軽かった。
だが、水月の指先は止まった。
ほんの一瞬だった。
魚箱の縁をつかんだ手に力が入る。爪の先が青い樹脂へ食い込んだ。
源治がそれに気づいたかどうかは分からない。彼はそれ以上勧めず、腰に下げたタオルで額を拭った。
「まあ、自分の店や。自分の好きにしたらええ」
「そうします」
「そういうところだけは、返事が早いな」
源治は空になった魚箱を持ち上げようとして、ふと思い出したように水月を見た。
「昨日、大阪から来た夫婦が船着き場で店を探しとったぞ。場所を教えたけど、来たか?」
「一時頃に来てくださいました」
「料理、うまい言うとった」
「それならよかったです」
「それだけか」
「ほかに何と言えばいいんですか」
「嬉しいですとか、源治さんのおかげですとか」
「魚のおかげです」
「俺やないんか」
「源治さんが獲ってくださった魚のおかげです」
「回りくどいなあ」
源治は声を立てて笑った。
水月も、今度ははっきりと笑った。
それを見た源治が一瞬黙り、目尻の皺をさらに深くした。
「最初に会うた頃よりは、よう笑うようになった」
水月から表情が消えた。
源治はしまったという顔をしたが、もう言葉は戻せない。
彼と初めて会ったのは、店を開く半年ほど前だった。
移住して間もない水月は、地元の魚を仕入れる方法さえ知らなかった。漁港で誰に声をかければよいのか分からず、荷揚げの邪魔にならない場所に立って、漁師たちの仕事を見ていた。
声をかけてきたのが源治だった。
何が欲しいと聞かれ、「この町で獲れる魚を知りたい」と答えた。料理人なら魚の名前くらい分かるだろうと笑われたが、水月が「京都の厨房で見ていた魚と、ここで揚がったばかりの魚は違います」と言うと、源治はしばらく彼女の顔を見た。
翌朝、午前五時に来いと言われた。
水月は四時半に港へ着いた。
それから源治は、季節ごとの魚、天候と漁の関係、脂の乗り方、地元での食べ方を少しずつ教えてくれた。水月も、魚を持ち帰るたびに試作し、翌日には感想を伝えた。
頼んだ以上の魚を押しつけず、料理の方法へ過度に口を出さない。水月にとって、それは信頼できる相手の条件になった。
「もう三年ですから」
水月はカマスを氷の上へ戻した。
「三年たっても、困ったときくらいは人を頼ってええんやぞ」
「困ったときには相談します」
「困ってからでは遅いこともある」
「朝から説教ですか」
「説教やない。年寄りのお節介や」
源治は魚箱を抱え直した。
戸口を出る前に振り返り、水月の顔をまっすぐに見る。
「一人でできることと、一人でせんでもええことは、別やからな」
水月は答えなかった。
源治も返事を求めなかった。
「ほな、また明日」
片手を上げ、細い路地を港の方へ戻っていく。濡れた長靴が石畳を踏む音は、角を曲がると聞こえなくなった。
水月は戸を閉めた。
厨房に一人分の気配だけが残る。
一人でできることと、一人でしなくてもよいことは別だ。
源治の言葉が、耳の奥に残っていた。
正しいのだろうと思う。
だが、正しさに従えば安全だとは限らない。
頼った相手が、差し出したものを大切に扱ってくれるとは限らない。教えてほしいと言われて渡したものが、自分の名前を失って戻ってくることもある。
水月は小さく息を吐き、魚を流し台へ運んだ。
カマスの鱗を引き、腹を開く。包丁の刃先を滑らせると、身から骨がきれいに離れた。迷いのない動きだった。
魚に向き合っている間は、余計なことを考えずに済む。
カマスは塩焼きにする。皮目に細かく包丁目を入れ、少量の酒を振る。アオリイカはさっと炙り、肝を加えた酢味噌と合わせることにした。
冷蔵庫から白味噌を取り出したとき、指が止まった。
京都の料亭にいた頃、水月は白味噌と柑橘を使った一皿を何度も試作した。甘さを抑え、焼いた魚の香ばしさを残すため、配合を一グラムずつ変えた。営業が終わり、ほかの料理人たちが帰ったあとも、一人で厨房へ残った。
ようやく納得できる味になった朝、水月はその配合を書いたノートを先輩に見せた。
信頼していた。
だから見せた。
まさか、その数日後に別の名前を与えられ、自分とは関係のない料理として客前へ出されるとは思わなかった。
記憶の中で、拍手が聞こえた。
料理長の前に置かれた皿。胸を張って説明する先輩。その周囲に集まった料理人たち。そして、輪の外側に立ち尽くしていた自分。
水月は白味噌の容器を作業台に置いた。
それ以上は思い出さない。
戸棚の最下段には、あの頃のノートが今も入っている。捨てようとしたことは何度もあった。それでも捨てられず、鍵のかかる引き出しの奥へ押し込んだ。
ここで作る料理は、もう誰にも奪われない。
誰かの許可を得る必要もない。自分が考えた料理を、別の人間の名前で客に出されることもない。
水月は酢味噌を練り始めた。
白味噌に米酢を少しずつ加え、味を確かめる。甘みのあとに酸味が残り、最後にイカの香りが立つ。その順番が崩れないところで手を止めた。
午前六時を回った頃、今度は表の戸から遠慮がちな声がした。
「水月さん、開けてもええ?」
片山澄江だった。
近くで小さな畑を営んでいる澄江は、籠いっぱいの野菜を抱えていた。六十八歳になるが、背筋は伸び、足取りも軽い。灰色の髪を後ろでまとめ、薄紫色の手拭いを首に巻いている。
「おはようございます。重かったでしょう」
「これくらい、なんともないよ」
水月は籠を受け取った。
茄子、万願寺唐辛子、かぼちゃ。どれも形や大きさは揃っていないが、朝露をまとい、皮には張りがある。
「かぼちゃ、味見してみて。見た目は悪いけど、今年のは甘いで」
「見た目で料理するわけではありませんから」
「水月さんなら、そう言うと思った」
澄江は履物を脱いで店内に入り、窓際の椅子へ腰を下ろした。
水月はかぼちゃを切り、端の一片を蒸し器に入れた。その間に番茶を淹れ、澄江の前へ置く。
「相変わらず、きれいにしとるなあ」
澄江は湯飲みを両手で包み、客席を見回した。
カウンターが四席。海を望む窓際に、二人掛けのテーブルが一つ。壁には装飾品をほとんど置かず、小さな花器に季節の草花を一輪だけ挿している。
今日の花は、澄江が前日に持ってきた桔梗だった。
「狭い店ですから」
「狭い店でも散らかす人は散らかすよ。うちの人なんて、自分が座っとる周りだけで、ようあれだけ物を広げられるもんや」
「片づけてあげないんですか」
「片づけたら、どこへやったって怒るんや。自分で置いた場所も忘れとるくせに」
澄江は呆れた顔をしながらも、どこか楽しそうだった。
夫婦で暮らすとは、そういうものなのだろうかと水月は思った。
相手が残した湯飲みや読みかけの新聞を邪魔だと思いながら、それがなくなれば落ち着かなくなる。水月には経験のない暮らしだった。
三十三歳になるまで、誰かと長く生活を共にしたことはない。
両親と暮らしていた頃も、料理の道へ進んでからは家にいる時間が少なかった。料亭に勤めていた時期は、早朝に出て深夜に帰り、眠るためだけに部屋へ戻る日が続いた。
伊根へ来てからは、朝も夜も一人だった。
不自由を感じたことはない。
そう言い切るたび、わざわざ言葉にする必要があるのだろうかという疑問が、どこかに残った。
蒸し器から甘い香りが立ち上った。
水月は竹串を刺して火の通りを確かめ、小皿へ二切れ載せた。一つを澄江に渡し、もう一つを自分の口へ運ぶ。
舌の上で、かぼちゃがほくりと崩れた。余分な水分がなく、後から素直な甘みが広がる。
「スープにします」
「ほら、ええ味やろ」
「はい。出汁を薄くして、塩だけで仕上げようと思います」
「水月さんにそう言うてもらえたら、この子も喜ぶわ」
澄江は残りのかぼちゃを愛おしそうに撫でた。
野菜を「この子」と呼ぶ澄江のことを、水月は好ましく思っていた。収穫したものを自慢はしても、どう料理するべきかまでは口を出さない。相手の仕事へ踏み込みすぎない距離を、澄江は自然に知っていた。
「そうや。来週の日曜、集会所で秋祭りの相談をするんやけど、水月さんも来ん?」
「日曜日は営業があります」
「夜からやで」
「片づけと翌日の仕込みがありますから」
「毎年、それを言うとるな」
澄江は困ったように笑った。
水月は包丁を取り、かぼちゃの皮を削ぎ始めた。
「店を始めてから、まだ一度も顔を出してないやろ」
「祭りの日は、お弁当を頼んでくださっているので」
「弁当やのうて、水月さん本人に来てほしいんや」
「私が行っても、何を話せばいいのか分かりません」
「黙って座っとってもええ。食べて、飲んで、人の話を聞いとったら、そのうち終わる」
「それなら家にいるのと同じです」
「家では一人やろ」
澄江の言葉に、水月の手が止まった。
包丁の下で、かぼちゃの皮が途中まで細くつながっている。
澄江に悪気がないことは分かっていた。それでも、自分が丁寧に閉じている扉の隙間へ、指を差し込まれたように感じた。
「一人の方が気楽ですから」
水月は皮を切り落とした。
澄江は湯飲みに視線を落とした。
「そうやな。気楽なのはええことや」
その返事が、水月にはかえって申し訳なく聞こえた。
店を理由にすれば、たいていの誘いは断ることができた。祭りの相談も、漁師たちの飲み会も、近所の人たちが集まる花見も。
この町で暮らし始めて三年になる。
名前を知っている人は増えた。食材を届けてくれる人も、店へ通ってくれる人もいる。道ですれ違えば挨拶を交わし、体調を崩せば誰かが食べ物を持ってきてくれる。
それでも水月は、誰かの輪の中へ入ろうとはしなかった。
親切を受け取れば、いつか何かを返さなければならない。近づけば、期待される。期待に応えられなければ、失望される。
それなら最初から、近づきすぎない方がよい。
「無理にとは言わんけどな」
澄江は湯飲みを持って立ち上がった。
「置いておいてください。私が洗います」
「これくらいできるよ」
「客席は私の仕事です」
思ったより強い声が出た。
澄江の手が止まる。
厨房と客席の間に、硬い沈黙が落ちた。
「……そうやったね」
澄江は湯飲みをテーブルへ戻した。
水月はすぐに言葉を続けようとしたが、適切なものが見つからない。
謝ればよいだけだった。
わずか四文字の言葉が、喉につかえて出てこなかった。
澄江は怒らなかった。野菜の代金を受け取り、籠を腕にかける。
「かぼちゃ、足らんかったら言うて。まだ畑にあるから」
「ありがとうございます」
「桔梗も、しおれたら替えを持ってくるわ」
澄江は壁際の花器を見て笑った。
水月は戸口まで見送った。
澄江が路地の角を曲がってからも、しばらくその場に立っていた。潮を含んだ風が暖簾を揺らし、乾いた布が肩へ触れる。
客席は私の仕事です。
間違ったことは言っていない。けれど、正しい言葉が人を遠ざけることもある。
水月は店内へ戻り、澄江が使った湯飲みを手に取った。
まだ温かかった。
午前七時半を過ぎると、湾の向こうから陽が差し始めた。
水月は仕込みへ戻った。
かぼちゃを蒸し、丁寧に裏ごしする。昆布と鰹節で取った薄い出汁を少しずつ加え、弱火にかけた。塩をひとつまみ入れて味を見る。
かぼちゃの甘みが先に立ち、出汁は後ろから支えている。もうひとつまみ加えたい衝動を抑え、火を止めた。
味を足すことより、足さないことの方が難しい。
料亭にいた頃は、一皿の中へ多くの技術を詰め込むことを求められた。季節を示し、驚きを与え、客の記憶へ残るものを作れと言われた。包丁の細工、盛りつけ、器の選び方。どれも必要な技術だったが、評価されることを意識するほど、食材の味が遠くなるように感じた。
伊根へ来てから、水月は料理を一つずつほどいていった。
朝に揚がった魚は、その日のうちに焼く。
採れたばかりの野菜には、必要以上の味を重ねない。
温かいものは温かいうちに出し、客の食べる速度を見る。
当たり前のことを、当たり前に続ける。
それが「静波」の料理だった。
店名を決めたのは、開店届を出す前日の夜だった。
候補を書いた紙を何枚も並べたが、どれもしっくりこなかった。窓の外へ目を向けると、風のない湾に小さな波が重なっていた。
凪ではない。
まったく動かないわけではなく、揺れながらも荒れてはいない。
その様子を見て、「静波」という二文字が浮かんだ。
荒れたくないという願いと、止まっていたくないという気持ち。その両方を込めた名前だった。
午前十時、厨房の壁に掛けた電話が鳴った。
予約の問い合わせだった。
「本日の昼は、あとお一人でしたらご案内できます」
電話の向こうで、女性が三人だと答えた。
水月は台帳を見た。すでに四組五名の予約が入っている。詰めれば席を作ることはできる。窓際の二人席へ椅子を一脚足せば、全員を案内できるだろう。
けれど、予約ごとの料理を最もよい状態で出すことを考えれば、余裕はなかった。
「申し訳ありません。本日はご用意できる数に達しています」
女性は残念そうだったが、翌日の予約を入れてくれた。
電話を切ったあと、水月は台帳に三名と書き込んだ。断ることへの罪悪感がなくなったわけではない。それでも、無理に受け入れて料理を乱すより、正直に断る方がよいと思えるようになった。
午前十一時半、水月は紺色の暖簾を出した。
白く染め抜かれた「静波」の文字が、海から吹く風に揺れる。
最初の客は、町内に住む吉岡夫妻だった。
夫の正志は七十歳、妻の佳代は六十七歳。月に二、三度は昼食を食べに来る。二人はいつも窓際の席を選んだ。
「今日はカマスか」
正志が焼き台の方へ鼻を向けた。
「まだ焼いていないのに、分かるんですか」
「漁師の家に生まれたんや。匂いで分かる」
「この人、朝に源治さんから聞いとったんよ」
佳代がすぐに種を明かした。
「言わんでもええやないか」
「知ったかぶりするからや」
言い合いながら、二人は向かい合って座った。
水月がお茶を置くと、佳代が顔を見上げた。
「少し痩せたんやない?」
「変わっていません」
「ちゃんと食べとる?」
「料理人が食べなかったら仕事になりません」
「味見を食事に数えたらあかんよ」
「数えていません」
答えながら、水月は自分が昨夜何を食べたのか思い出そうとした。
残ったご飯に冷たい出汁をかけ、立ったまま食べた。それを食事と呼んでよいのか、自信はなかった。
「一人やと、つい適当になるからな」
正志が言った。
また一人という言葉が出た。
水月は聞こえなかったふりをし、厨房へ戻った。
かぼちゃのスープを温め、器へ注ぐ。仕上げに細く切った青柚子の皮を一片だけ浮かべた。
佳代は一口飲み、目を細めた。
「甘いなあ」
「澄江さんのかぼちゃです」
「あの人、今年は虫に食われたって嘆いとったけど、味はええんやな」
「皮に傷があっても、中身には関係ありませんから」
水月が答えると、佳代はしばらく器を見つめた。
「人もそうやったらええけどな」
水月は返事をせず、空になった盆を持って下がった。
次に入ってきたのは、二十代半ばほどの女性二人だった。
大きな旅行鞄を入口脇へ置き、窓の外を見て歓声を上げる。
「本当に海の上にあるみたい」
「写真、撮ってもいいですか」
水月は一瞬ためらった。
「ほかのお客様が写らなければ、店内を撮っていただいても構いません。ただ、料理は温かいうちに召し上がってください」
「もちろんです」
二人は素直にうなずいた。
料理が出ると、スマートフォンを向け、何枚か写真を撮った。水月は焼き台の前に立ちながら、その様子を視界の端で見ていた。
以前なら、落ち着かなかった。
自分の料理が知らない場所へ運ばれ、知らない言葉で評価されることが怖かった。誰が見るのかも、どのように紹介されるのかも、自分には制御できない。
だが、目の前の二人は写真を撮り終えると、スマートフォンを伏せ、料理を食べ始めた。
「おいしい」
一人が小声で言った。
もう一人は答えず、何度もうなずいている。
水月の肩から、わずかに力が抜けた。
正午を過ぎると、予約していた家族連れが入ってきた。
父親と母親、小学校低学年ほどの少年の三人だった。少年は店に入るなり、床下から聞こえる水音に気づいた。
「下に海があるの?」
「そうだよ。ここは舟屋だから」
父親が答えた。
「落ちない?」
少年が不安そうに床を見つめる。
水月は少年のそばへ行き、窓の外を指した。
「この床の下には丈夫な土台があります。海へ出る扉には鍵もかかっているから、落ちませんよ」
「魚はいる?」
「運がよければ、小さな魚が見えることもあります」
少年は窓へ駆け寄った。母親が慌てて腕をつかむ。
「走らないの」
「申し訳ありません」
「大丈夫です。段差だけ気をつけてください」
水月は子どもへの接し方が得意ではなかった。
何を話せばよいのか分からず、必要以上に丁寧な言葉になる。それでも、少年は気にした様子もなく、水面を見下ろしていた。
カマスの塩焼きを運ぶと、少年は皿を見て目を丸くした。
「魚、頭がついてる」
母親が困ったように笑った。
「いつも切り身しか食べないから」
少年は箸で魚をつついたが、どこから食べればよいのか分からないらしい。
水月は膝を折り、少年と同じ高さに目線を合わせた。
「ここに箸を入れると、身が外れます」
背の部分へ箸を入れ、骨に沿って身を開くところを見せる。
「頬にも、おいしい身があります。骨が細いから、ゆっくり食べてくださいね」
「魚にも、ほっぺたがあるの?」
「あります」
「どこ?」
水月が場所を示すと、少年は父親に手伝ってもらいながら、小さな身を取り出した。
口へ入れ、しばらく噛む。
「おいしい」
少年は驚いたように水月を見た。
「ここが一番おいしいかも」
その言葉は、水月の内側へまっすぐ届いた。
京都の料亭では、客の顔を見ることはほとんどなかった。厨房と客席は厚い壁で隔てられ、料理への反応は仲居や料理長を通して伝えられた。
誰がどのような表情で食べたのか、どの一口で箸を止めたのか、水月には分からなかった。
「静波」では、六人全員の食べる速度が見える。
塩焼きの皮を残す人。最初に小鉢を空にする人。出汁を最後まで飲む人。食べ終えた皿に残るものから、次に変えるべきことが分かる。
それが水月の欲しかった厨房だった。
午後一時を過ぎた頃、最後の一人が入ってきた。
観光協会の宮下航平だった。
四十三歳になる宮下は、伊根の観光案内や移住相談を担当している。水月がこの町へ来たとき、空いている舟屋を探し、所有者との話し合いを手伝ってくれた人物でもある。
「予約していませんけど、まだ大丈夫ですか」
「宮下さんの分で最後です」
「よかった。朝から何も食べてなくて」
「忙しいのは分かりますが、食事はしてください」
「水月さんに言われると、説得力があるような、ないような」
「どういう意味ですか」
「水月さんも、忙しいと昼を抜くでしょう」
「抜きません」
昨夜の出汁茶漬けを思い出し、水月は視線をそらした。
宮下はカウンターの端へ座った。
料理を運ぶと、すぐには箸をつけず、申し訳なさそうに両手を合わせた。
「雑誌の件、勝手に話を進めたみたいになって、すみません」
「まだ進んではいません」
「編集の人が舟屋の店を探していて、静波の話をしたら、ぜひ取材したいと。水月さんが嫌なら、もちろん断ってください」
「今日、電話をいただくことになっています」
「取材を受ければ町のためになる、なんて言うつもりはありません」
水月は宮下を見た。
先回りして釘を刺そうとしていたことを見抜かれたようだった。
「宮下さんは、受けてほしいんじゃないんですか」
「観光協会の立場なら、受けてもらえればありがたいです。でも、ここを紹介したのは、客を一度に増やしたかったからじゃありません」
「では、なぜですか」
「水月さんの料理を、町の外の人にも知ってほしかった。それだけです」
水月は何も言えなかった。
善意ほど扱いに困るものはない。
拒めば相手を傷つける。受け入れれば、自分の領域を明け渡すことになる気がする。
宮下は箸を取り、カマスの身をほぐした。
「でも、源治さんから聞きました。人を雇えと言われて、固まったそうですね」
「源治さんは、余計なことばかり話しますね」
「心配しているんですよ」
「私は困っていません」
「そう言うと思いました」
宮下は笑い、魚を口へ運んだ。
それ以上、取材の話はしなかった。
無理に説得されなかったことに、水月は安堵した。同時に、ほんの少しだけ申し訳なさも覚えた。
午後二時、最後の客を見送った。
水月は暖簾を外し、戸を半分閉めた。客席へ戻ると、料理の匂いと人の話し声の余韻が残っている。
吉岡夫妻の席には、正志が落とした爪楊枝の袋があった。若い女性たちが座っていたカウンターには、水滴でできた小さな輪が残っている。家族連れの席の下には、少年が使った紙ナプキンが一枚落ちていた。
一人ずつの痕跡を拾い、元の状態へ戻していく。
食器を洗い、調理器具を片づける。売上を記録し、翌日の予約を手書きの台帳で確認した。
三組、五名。
それで十分だった。
片づけを終えた頃、壁の電話が鳴った。
予想していた相手だった。
旅行雑誌の編集者は、明るく丁寧な声で企画の内容を説明した。伊根の舟屋を特集すること。その中で、移住した女性料理人が営む店として「静波」を紹介したいこと。店内と料理を撮影し、水月にもこれまでの経歴を聞きたいこと。
これまでの経歴という言葉に、水月の背中が強張った。
「申し訳ありません。取材はお受けしていないんです」
編集者は、すぐには引き下がらなかった。
宣伝になる。予約が増える。水月と同じように地方で店を始めたい女性の励みにもなる。顔写真を掲載したくなければ、料理と店内だけでも構わない。
水月は相手の話が終わるまで待った。
「お気持ちはありがたいのですが、今の形を変える予定はありません」
声が硬くなっていることを、自分でも感じた。
編集者は残念そうにしながらも、最後には了承した。機会があればまた連絡したいと言われ、水月は曖昧に返事をして受話器を置いた。
店内が急に広く感じられた。
取材を受けるだけで、何もかも変わるわけではない。
一度雑誌に載ったからといって、客が押し寄せるとは限らない。宮下も編集者も、水月の店を奪おうとしているわけではなかった。
頭では分かっている。
それでも、知らない誰かの期待が店の中へ入り込んでくることが怖かった。
もっと多く。もっと新しく。もっと目立つものを。
そうした声に応え続けるうち、自分が何を作りたかったのか分からなくなる。その感覚を、水月はすでに知っていた。
六席だけの店なら、一人ひとりの顔を見ることができる。自分の手が届く範囲で料理を作り、無理な日は休める。
誰にも奪われず、誰にも決められない。
それが水月の望んだ暮らしだった。
午後三時を過ぎてから、遅い昼食を取ることにした。
残ったかぼちゃのスープを小鍋で温め、形の崩れたカマスの身をご飯に載せる。客席ではなく、厨房の隅に置いた丸椅子へ腰掛けた。
一人で食べることには慣れている。
けれど、料理を口へ運んだとき、佳代の言葉を思い出した。
味見を食事に数えたらあかんよ。
スープは少し冷めていた。
温め直せばよかったと思ったが、立ち上がる気にはなれなかった。そのまま食べ続ける。
食事を終える頃、表の戸を叩く音がした。
客かと思って立ち上がると、扉の前に澄江がいた。
「忘れ物ですか」
水月が尋ねると、澄江は小さな紙袋を差し出した。
「これ、うちで炊いた豆。今夜にでも食べて」
「お代を払います」
「売り物やないよ。鍋いっぱい作りすぎただけ」
水月は紙袋を受け取れずにいた。
朝のやり取りが頭をよぎる。
「今朝は、すみませんでした」
ようやく言えた。
澄江は目を瞬かせたあと、表情を緩めた。
「何のこと?」
「湯飲みを洗おうとしてくださったのに、強い言い方をしてしまって」
「ああ。そんなこと、もう忘れた」
「私は忘れていません」
「水月さんは真面目やなあ」
澄江は水月の手を取り、紙袋を握らせた。
「自分の店を大事にしとるんやろ。分かっとるよ」
「でも、澄江さんを責めたかったわけではありません」
「それも分かっとる」
澄江の手には、畑仕事でできた硬い節があった。土を洗い落としたばかりなのか、指先は冷たく湿っている。
誰かに手を握られたのは、いつ以来だろう。
水月の身体は一瞬だけ強張ったが、手を引くことはしなかった。
「祭りの相談、気が向いたらおいで。顔を出して、嫌になったら帰ったらええ」
「考えておきます」
「その返事は、たいてい来ん人の返事や」
澄江は笑った。
「でも、今日はそれでええわ」
澄江を見送ったあと、水月は紙袋を開けた。
小さな保存容器に、艶のある金時豆が詰められていた。蓋には油性ペンで、「甘さ控えめ」と書いてある。
水月は一粒だけ口に入れた。
柔らかな甘みが、舌の上へゆっくり広がった。
その味を確かめながら、伊根へ来た最初の冬を思い出した。
開店準備が思うように進まず、改装費も当初の見積もりを超えていた。知らない土地で店を開くことを無謀だと言う人もいた。
京都へ戻った方がよいのではないか。
料理人を辞めて、別の仕事を探した方がよいのではないか。
水月自身、何度もそう考えた。
十二月のある夜、舟屋の水道管が凍結した。
水が出なくなり、翌朝の仕込みができない。どうすればよいのか分からず、暗い厨房で立ち尽くしていたとき、外から声をかけてきたのが澄江だった。
水月の部屋に明かりがついているのを見て、様子を見に来たのだという。事情を知ると、澄江は源治へ電話をかけた。
一時間もしないうちに源治と近所の男たちが集まり、凍った管を調べ、応急処置をしてくれた。澄江はその間、石油ストーブの上で粕汁を温めていた。
水月は、助けを求めていなかった。
それでも彼らは来た。
何を返せばよいのかと尋ねると、源治は「店が開いたら飯を食わせてくれ」と答えた。澄江は「野菜を使ってくれたら、それでええ」と笑った。
翌年の春、「静波」は開店した。
最初の客は源治で、二番目が澄江だった。二人とも代金をきちんと置いていった。
思い出しているうちに、金時豆をもう一粒食べていた。
甘さは本当に控えめだった。
水月は容器の蓋を閉め、冷蔵庫へ入れた。
誰にも頼らずに生きてきたつもりだった。
けれど実際には、この店の柱も床も、魚も野菜も、一人では用意できなかった。目に見えるところにも、見えないところにも、誰かの手が加わっている。
それを認めることと、自分を明け渡すことは、同じではないのかもしれない。
そう考えた途端、落ち着かない気持ちになった。
水月は布巾を手に取り、すでに拭き終えた作業台をもう一度拭いた。
夕方、厨房の仕事を終えると、二階へ上がった。
狭い居間には、低いテーブルと一人掛けの椅子がある。壁際の本棚には料理の本、小説、伊根へ来てから買い集めた魚や野草の図鑑が並んでいた。
テレビは置いていない。
必要な情報は、古いノートパソコンで確認する。店の予約は電話かメールで受けていたが、メールを確認するのは一日に二度と決めている。
画面を開くと、新しいメールが三件届いていた。
一件目は明日の予約確認。二件目は食材業者からの請求書。三件目は、先週店を訪れた客からだった。
水月は三件目を開いた。
夫婦で結婚二十周年の旅行へ来たこと。伊根で食べた夕食が旅の中で最も記憶に残ったこと。特に、鯛と冬瓜の椀物をもう一度食べたいこと。夫が普段は料理の感想をほとんど言わないのに、店を出てから何度も「うまかった」と話していたことが記されていた。
最後に、また二人で伺います、と書かれていた。
水月は画面を見つめた。
返事を書くために新しいメールを開く。
先日はご来店いただき、ありがとうございました。
そこまで入力し、指が止まった。
型どおりの文章なら、すぐに書ける。
ご満足いただけて幸いです。またのお越しをお待ちしております。
それで十分なはずだった。
けれど、夫婦が窓際の席で料理を食べていた姿を思い出した。夫は口数が少なく、妻が話すのを何度もうなずきながら聞いていた。椀物を口にしたときだけ、箸を止めて水月を見た。
水月は文章を消し、書き直した。
先日は大切なご旅行の途中にお立ち寄りいただき、ありがとうございました。鯛と冬瓜の椀物を覚えていてくださり、嬉しく思います。季節が変われば、伊根の魚も野菜も違う表情を見せます。次にお越しいただける日にも、その日に一番おいしいものをご用意します。
最後まで読み返し、送信ボタンを押した。
自分から差し出した言葉が、画面の向こうへ送られていく。
わずかな緊張と、温かさに似たものが残った。
午後六時半を過ぎると、西日が湾を黄金色に染め始めた。
水月はデッキへ出た。
昼間の暑さは薄れ、風が頬を撫でる。港へ戻る小舟の音が聞こえ、対岸の家々には一つずつ明かりがともっていく。
路地の方から、町営バスの到着を知らせる音がした。
しばらくすると、旅行鞄の車輪が石畳を転がる音が聞こえた。観光客らしい男女の話し声が近づき、やがて遠ざかっていく。
水月は手すりに両手を置いた。
この場所に来てから、眠れない夜は減った。突然息が苦しくなることも、背後で誰かが自分の噂をしているように感じることもなくなった。
自分の暮らしを自分で決めることができる。
作りたい料理を作り、出したい数だけ用意する。扉を開ける時間も、閉じる時間も自分で決められる。
そのことに不満はなかった。
それでも、ごくまれに思うことがある。
誰にも踏み込まれない場所を作り、守りたいものをすべて守ったあと、そこには何が残るのだろう。
六つの席が埋まれば、店には話し声と食器の触れ合う音が満ちる。
客が帰れば、それらは跡形もなく消える。
夜の舟屋に残るのは、水月一人だった。
寂しいわけではない。
そう思おうとしたが、言葉は以前ほど確かな形を持たなかった。
水月は店内へ戻り、一階の窓を一つずつ閉めた。
戸締まりを確かめ、入口の鍵をかける。
階下では、満ち始めた海が舟屋の土台へ触れていた。
寄せては離れ、また寄せる。
同じ場所にとどまりながら、水は一度として同じ形にはならなかった。
水月はしばらく耳を澄ませたあと、二階へ続く階段を上った。




