第10章 三度目の旅路
休暇を取る前日の木曜日、海斗は午後六時に仕事を終えた。
いつもなら、退勤の直前になってから、念のためと資料を開き直す。
自分が休んでいる間に問い合わせが来るかもしれない。西田や佐伯が困るかもしれない。説明の足りない箇所が残っているかもしれない。
心配し始めれば、確認することはいくらでも増えた。
今回は、水曜日までに引き継ぎの文書を作り、木曜日の午前中に西田と佐伯へ説明を済ませていた。
連絡先。
作業の進み具合。
問題が起きた場合の確認手順。
海斗にしか分からなかった作業も、画面の画像を添えて手順にした。
午後五時半、最後の打ち合わせを終える。
席へ戻ると、西田が引き継ぎ資料を開いていた。
「ここまで書かなくても大丈夫ですよ」
「不足があるよりはいいだろ」
「三ページ目までは助かります。四ページ目からは、海斗さんが不安を落ち着かせるために書いた部分だと思います」
海斗は西田の画面をのぞき込んだ。
四ページ目には、障害が起きた場合に調べる箇所を細かく記していた。
可能性の低い原因まで並べてある。
「消した方がいい?」
「消さなくていいです。必要になったら見ます。ただ、これ以上増やさないでください」
「分かった」
「仕事用のパソコンは?」
「持っていかない」
「携帯電話は?」
「個人用だけ」
「仕事のアプリを、個人用にも入れていましたよね」
海斗は答えなかった。
西田が目を細める。
「消していないんですか」
「通知は切ってある」
「見ようと思えば見られる状態ですね」
「緊急の連絡があったら困るだろ」
「緊急連絡の担当から外れているのに?」
海斗は机の端へ置いた携帯電話を見た。
通知を切っても、アプリを開けば会社の連絡を読める。
休日に一度だけ見るつもりで開き、気づけば何時間も仕事をしていたことがある。
「旅行中だけ、削除します」
海斗はアプリのアイコンを長押しした。
削除の確認が表示される。
指が止まる。
「帰ってきたら、また入れられますよ」
西田が言った。
「分かってる」
海斗は削除を選んだ。
画面から仕事用アプリのアイコンが消える。
会社とのつながりが完全になくなったわけではない。
緊急時には電話が来る。
それでも、携帯電話の一角に空いた場所を見て、胸の奥が落ち着かなくなった。
「これでいい?」
「はい」
西田は満足そうにうなずいた。
「伊根で、仕事の通知を待ち続けなくて済みます」
「行き先まで覚えてたんだ」
「休暇申請の前に聞きましたから」
「会社で言わないでくれよ」
「もう何人か知っています」
「どうして」
「海斗さんが休みを取るのが珍しいからです」
隣の席で聞いていた佐伯が、顔を上げた。
「僕は誰にも言ってませんよ」
「聞いていない」
「でも、前回も京都の北へ行ったんですよね」
「そうだけど」
「同じ場所へ三回なら、何かありますよね」
佐伯は意味ありげに笑った。
海斗は鞄へ資料を入れながら答えた。
「会いたい人がいる」
口にしてから、自分でも驚いた。
以前なら、食事をしたい店がある、と答えていただろう。
あるいは、静かな町で休みたいと言ったかもしれない。
今回は違う。
料理も食べたい。
伊根の景色も見たい。
だが、三度目の旅を決めた一番の理由は、水月に会うためだった。
西田と佐伯が顔を見合わせる。
「はっきり言いましたね」
西田が言った。
「自分でも驚いた」
「なら、仕事のことは忘れてください」
「努力する」
「努力ではなく、忘れてください」
「難しい注文だな」
「二泊三日くらい、こちらで何とかします」
西田は手を振った。
「お疲れさまでした。行ってらっしゃい」
「お疲れさま。何かあったら――」
言いかけ、海斗は口を閉じた。
「何かあっても、自分たちで考えます」
西田が続きを引き取った。
海斗はうなずき、会社を出た。
冬の夕方は、すでに暗かった。
ビルの窓から漏れる光が歩道へ落ち、コート姿の人たちが駅へ向かって歩いている。
海斗も、その流れに加わった。
明日の今頃には、伊根にいる。
そう考えると、歩く速度が自然に上がった。
途中で気づき、少し緩める。
急いでも、出発は明日の朝だ。
その夜、海斗は旅行の荷物を用意した。
着替え。
洗面用具。
医師から処方された薬。
携帯電話の充電器。
小さな折り畳み傘。
前回は、出発する朝になってから、必要最低限のものを鞄へ押し込んだ。
今回は、宿も列車も予約してある。
天橋立駅から伊根へ向かうバスの時刻も調べた。
準備をしすぎれば、予定どおりに進まなかったときに疲れる。
だから、一日ごとの細かな計画は立てなかった。
確定しているのは、十三日の午後に伊根へ着くことと、十四日の夜、静波で食事をすることだけだった。
机の上には、細長い紙袋が置いてある。
水月への土産だった。
会社の近くにある文具店で買った、紺色の万年筆だった。
料理人へ贈るなら、食べ物や調理道具の方がよいのではないかと考えた。
だが、食材には好みや保存の問題がある。包丁や器は、料理人が自分で選ぶものだろう。
水月がメールアドレスを渡してくれた夜、紙に何度も書き直した跡があった。
店の献立も、毎日、小さな黒板へ手書きしている。
だから、仕事で使えるものを選んだ。
高価すぎず、受け取る負担にならない品を探した。
それでも、買ったあとで不安になった。
贈り物を用意するほどの関係だろうか。
水月は困らないだろうか。
海斗は紙袋を鞄へ入れ、すぐに取り出した。
机の上へ戻す。
数分後、もう一度鞄へ入れた。
「何をやってるんだ」
誰もいない部屋で、自分に言った。
土産を渡して、受け取れないと言われたら持ち帰ればよい。
その程度のことだった。
寝る前に、母親から電話があった。
前回の会話以来、海斗は以前より正直に体調を伝えるようにしていた。
すべてを話しているわけではない。
眠れなかった日や、電車を途中で降りたことを、毎回伝えてはいない。
だが、仕事が普通だと嘘をつくことはやめた。
「明日、休みなの?」
「月曜日まで三連休にした」
「珍しいわね。どこかへ行くの?」
「京都の北」
「前に行ったところ?」
「うん。伊根」
電話の向こうで、母親が少し黙った。
「前も行ったわよね」
「今回で三回目」
「そんなに気に入ったの」
海斗はベッドの端へ座った。
「会いたい人がいる」
今日は、同じ言葉を二度も口にした。
一度目より、声は落ち着いていた。
「女性?」
「そう」
「お付き合いしているの?」
「していない」
「これから?」
「それも、まだ分からない」
母親は、さらに尋ねようとしたようだった。
だが、途中でやめた。
「その人は、海斗が体調を崩したことを知っているの?」
「知ってる」
「だから優しくしてくれたの?」
問いかけに、隆也の言葉が重なった。
その人に人生を救ってもらおうとはするな。
「最初は、何も聞かずに食事を出してくれた」
海斗は答えた。
「それで助かった。でも、今会いたいのは、それだけが理由じゃない」
「どんな人?」
「料理人。一人で小さな店をやってる。強そうに見えるけど、無理をするところがある。人に頼るのが苦手で、言葉を選びすぎる」
説明しているうちに、自分のことを話しているような気がした。
だが、水月と海斗は同じではない。
それは前章のメールで、互いに確かめた。
似ている部分だけを見て、分かったつもりにならない。
「海斗は、その人といると元気になるの?」
母親が尋ねた。
海斗は少し考えた。
「元気になる、とは違うかもしれない」
「違うの?」
「調子が悪い日は、悪いと言ってもいいと思える」
電話の向こうが静かになった。
「それは、大事な人ね」
母親は言った。
海斗は返事をしなかった。
否定する必要はなかった。
「気をつけて行ってきなさい」
「うん」
「薬は持った?」
「持った」
「ちゃんと食べるのよ」
「分かってる」
電話を切ったあと、海斗は冷蔵庫を開けた。
明日の朝、残り物を処分しようとしていたが、豆腐も野菜も残っていない。前日までに使い切っていた。
以前のように、賞味期限の切れたものを置いたまま旅へ出ることはなかった。
窓際のポトスを見る。
土へ指を入れると、少し湿っている。
水はやらなくてよい。
カーテンを閉め、目覚ましを設定する。
眠れないかもしれないと思ったが、ベッドへ入ると、予想より早く瞼が重くなった。
翌朝、海斗は六時に起きた。
シャワーを浴び、鞄を持って部屋を出る。
鍵をかけたあと、一度だけ戻りかけた。
火元は確認した。
窓も閉めた。
薬も入れた。
仕事用のパソコンは持っていない。
海斗はドアノブから手を離した。
東京駅には、発車時刻より一時間近く早く着いた。
通勤客と旅行者が混ざり合う構内を歩く。
最初に伊根へ向かった朝、海斗は人の流れに押されるだけで息苦しくなった。
今日は人の多さを感じながらも、自分の足で進めた。
土産物店の前で立ち止まる。
弁当売り場には、焼き魚、肉、寿司、煮物など、さまざまな商品が並んでいた。
初めての旅では、選ぶことができなかった。
どれを見ても食欲が湧かず、結局、水だけを買った。
海斗は一つずつ眺めた。
華やかな盛りつけの弁当より、白いご飯と焼き鮭、卵焼き、煮物の入ったものに目が止まった。
水月の料理とは似ていない。
駅で売られる弁当と、静波で出される料理を比べる必要もない。
今、自分が食べたいものを選べばよい。
海斗は焼き鮭の弁当と水を買った。
新幹線へ乗り、窓際の席へ座る。
鞄を荷物棚へ置こうとしたが、万年筆の入った紙袋が気になり、足元へ置いた。
列車が動き出す。
東京の建物が、窓の外を後ろへ流れていった。
海斗はすぐに弁当を開けなかった。
朝が早かったため、まだ空腹を感じていない。
食べなければならない、と義務にするのも違う。
新横浜を過ぎた頃、隣の席の女性が小さなサンドイッチを食べ始めた。
その匂いで、海斗も腹が減っていることに気づいた。
弁当の蓋を開ける。
焼き鮭の皮は少し冷えていた。卵焼きは甘く、煮物の味は濃い。
海斗は一口ずつ食べた。
全部を食べ切る必要はないと思っていたが、気づけば、弁当箱は空になっていた。
初めて伊根へ向かった日の自分が、遠いところにいるように感じた。
しかし、あの日の苦しさが消えたわけではない。
仕事が忙しくなれば、食事を抜くことがある。
眠れない夜もある。
回復した自分と、回復していない自分が、別々に存在するわけではなかった。
弁当を食べられる今日も、電車を途中で降りた夜も、どちらも海斗だった。
名古屋を過ぎた頃、携帯電話にメールが届いた。
水月からだった。
〈今日は午後から雨になる予報です。
伊根へ向かうバスが遅れるかもしれません。
急がなくて構いませんので、お気をつけて。〉
海斗は窓の外を見た。
空は薄く曇り、遠くの山に灰色の雲がかかっている。
〈分かりました。
東京駅で弁当を買い、全部食べました。
今のところ、予定どおりです。〉
送信してから、弁当を食べたことまで知らせる必要があったのかと思った。
水月は海斗の母親ではない。
食事の報告を義務にすれば、彼女へ見守る役割を押しつけることになる。
数分後、返事が届いた。
〈それは、よかったです。
夜の料理は控えめにした方がよいでしょうか。〉
海斗は、思わず笑った。
〈控えめにしなくて大丈夫です。
今夜、静波は営業していませんよね。〉
〈営業はしていません。
夕食の話ではなく、明日の夜のことです。〉
海斗は読み直した。
水月は、今日ではなく、明日出す料理の量を尋ねていた。
〈明日は、しっかり食べます。〉
〈分かりました。〉
短いやり取りを終え、携帯電話を伏せた。
明日の夜、自分のために水月が料理を考える。
それだけで、胸の奥が温かくなった。
京都駅で特急へ乗り換える。
市街地を抜ける頃には、窓へ細かな雨粒がつき始めた。
北へ進むにつれ、空は暗くなった。
山あいでは、雨に白いものが混じっている。
雪かと思ったが、地面へ触れる前に溶けていた。
天橋立駅へ着くと、冷たい風が吹いていた。
海斗はコートの襟を立て、伊根方面のバス停へ向かった。
バスは十五分ほど遅れて到着した。
乗客は七人。
海斗は後方の窓際へ座る。
最初の旅で隣り合わせた老婦人の姿を、ふと思い出した。
今日は海がきれいですよ。
何もないところやけど、ゆっくりしていったらええ。
名前も知らない人だった。
あの一言がなければ、伊根の印象は少し違っていたかもしれない。
バスが海沿いの道へ出る。
海は、初めて見た日より暗かった。
鉛色の水面へ雨が落ち、遠くの景色が白く霞んでいる。
晴れた写真のような美しさではない。
それでも海斗は、目をそらさなかった。
季節が変われば、同じ場所も違って見える。
冬の伊根を、水月は毎日見ている。
バスが町へ近づくにつれ、胸の鼓動が速くなった。
携帯電話の画面を確認する。
水月へ、到着時刻は知らせてある。
迎えを頼んではいない。
潮路までは歩いて行ける。
停留所で降りると、細い雨が顔へ当たった。
海斗は傘を開いた。
潮の匂いがする。
初めてここへ来た日と同じ匂いのはずなのに、今日は懐かしく感じられた。
鞄を肩へ掛け、潮路へ向かって歩き始める。
舟屋の軒下には、濡れた網が吊るされていた。道路沿いの家から、夕食の支度をする匂いが漂ってくる。
角を曲がったところで、小型トラックが止まっているのが見えた。
荷台には、発泡スチロールの箱が積まれている。
その脇で、陸が一つずつ箱を下ろしていた。
反対側には、紺色の防水上着を着た女性がいる。
水月だった。
髪は後ろで束ねているが、雨で濡れた数本が頬へ張りついている。白い調理着ではなく、長靴を履き、両手で魚箱を抱えていた。
海斗は足を止めた。
水月が顔を上げる。
視線が重なった。
メールでは何度も言葉を交わした。
写真も送り合った。
だが、実際に会うのは一か月ぶりだった。
水月の顔は、写真より少し痩せて見えた。寒さのためか、頬が赤い。
海斗は何と声をかければよいのか分からなくなった。
会いたかった。
ようやく来られた。
そのどちらも、最初の言葉には重すぎる気がした。
「こんにちは」
口から出たのは、平凡な挨拶だった。
「こんにちは」
水月も同じように答えた。
雨が二人の傘と防水上着へ落ちている。
陸が箱を抱えたまま、海斗を見た。
「あ、東京の人」
「高瀬です」
海斗が名乗ると、陸は笑った。
「覚えてます。源治じいちゃんが、そろそろ来る頃やって言ってました」
「どうして知っているんですか」
海斗は水月へ尋ねた。
「私が話したからです」
水月は隠さず答えた。
その一言だけで、海斗の胸が軽くなった。
自分が来ることを、水月は源治たちへ話していた。
水月は海斗の鞄へ目を向けた。
「予定より少し遅れましたね」
「バスが遅れました。でも、問題ありません」
「宿へ向かうところですか」
「はい」
「ここからなら、もう少しです」
「この魚は、明日の分ですか」
「一部はそうです。鰤と平目が入っています」
海斗はトラックの荷台を見た。
箱はあと三つある。
「手伝いましょうか」
「お客様にさせることではありません」
「明日までは客ではないですよね」
水月の眉がわずかに動いた。
「それでも、旅行で来た方に魚箱を運ばせる店はありません」
「運ぶくらいならできます」
海斗は傘を閉じ、トラックの軒側へ置いた。
鞄も濡れない場所へ下ろす。
水月が止める前に、荷台の箱へ手をかけた。
思っていたより重い。
腕に力を入れると、箱の底から冷たい水が落ち、ズボンへかかった。
「持ち方が逆です」
水月が言った。
「逆?」
「水抜きの穴がそちらにあります。傾けると濡れます」
「早く言ってください」
「止めました」
「運ぶな、とは言いましたけど、持ち方は教えてくれなかったでしょう」
水月は一瞬、黙った。
それから、口元を緩めた。
「こちらを少し上げてください」
箱の反対側へ手を添える。
海斗と水月は、二人で魚箱を持ち上げた。
透明な蓋の下に、氷と大きな鰤が見える。
魚の重さが、両腕へかかった。
二人で静波の裏口まで運ぶ。
厨房では、陸が先に運んだ箱を開けていた。
「高瀬さん、働かされてますね」
「自分からやりました」
「水月さん、客にも厳しいから」
「陸君」
水月が低い声で呼ぶ。
陸は笑いながら、次の箱を取りに戻った。
海斗もあとへ続こうとしたが、水月が止めた。
「もう大丈夫です。服が濡れています」
「少しだけです」
「潮路で着替えてください。風邪をひきます」
水月は厨房の布巾を取り、海斗の袖についた水を拭いた。
その手が近づいた瞬間、海斗は身体を動かせなくなった。
水月も、自分の動作に気づいたらしい。
一度手を止め、それから、残った水滴を静かに拭った。
「ありがとうございます」
海斗が言うと、水月は布巾を畳んだ。
「宿へ着いたら、連絡してください」
「分かりました」
「それと、明日は午前中、時間がありますか」
「あります」
「行きたい場所があると言っていましたね」
以前のメールで、海斗は伊根の中で水月が好きな場所を見たいと書いた。
観光案内に載っている場所ではなく、彼女が自分の足で行く場所を知りたかった。
「はい」
「浦嶋神社へ行きませんか」
海斗はその名を聞いたことがあった。
伊根町に、浦島太郎の伝承と関わる神社がある。
京都駅で見た観光案内にも、小さく紹介されていた。
「水月さんも行くんですか」
「私が車を出します。明日は夜だけの営業ですから」
「店の準備は?」
「午後からで間に合います」
水月はそう答えたあと、少し視線をそらした。
「嫌でなければ、ですが」
「行きたいです」
海斗はすぐに答えた。
水月が顔を上げる。
「では、九時に潮路へ迎えに行きます」
「お願いします」
外から、陸が二人を呼んだ。
「水月さん、最後の箱、どこへ置きます?」
「冷蔵庫の前へお願いします」
水月は裏口へ向かいかけ、振り返った。
「高瀬さん」
「はい」
「来てくださって、ありがとうございます」
声は小さかった。
それでも、雨音の中ではっきり聞こえた。
海斗は何か返そうとした。
しかし、水月は陸のところへ戻っていた。
海斗は濡れた袖へ触れた。
冷たいはずなのに、水月が布巾を当てた部分だけ、熱が残っているように感じられた。
潮路へ着くと、美代が玄関から出てきた。
「海斗さん、おかえり」
言ってから、あら、と口元へ手を当てる。
「いらっしゃいやったね」
海斗は靴を脱ぎながら笑った。
「おかえりで、嬉しいです」
「そうか。なら、おかえり」
美代は海斗の鞄を見た。
「雨の中、大変やったでしょう」
「バスが少し遅れただけです」
「水月さんに会えた?」
「魚を運んでいました」
「あの子らしいわ。待っとるなら、店で待てばええのに」
「待っていたんですか」
「知らんよ。私が勝手に言うただけ」
美代は楽しそうに笑い、海斗を二階の部屋へ案内した。
前回と同じ六畳の和室だった。
窓を開けると、屋根越しに海が見える。
雨に煙り、対岸の輪郭は薄い。
海斗は鞄を置き、濡れたズボンを着替えた。
水月へ、宿へ着いたとメールを送る。
すぐに、〈分かりました。今夜はゆっくり休んでください〉と返ってきた。
夕食は潮路で用意してもらっていた。
焼いた鯖と、白菜の煮物、味噌汁。
美代と話しながら、一人で膳を食べた。
「前に来たときより、食べるようになったね」
美代が言った。
「初めて来た日は、そんなにひどかったですか」
「宿へ入ってきたとき、倒れるんやないかと思ったよ。夕食なしいうたこと、あとで後悔した」
「静波が開いていたので、助かりました」
「水月さんも、あの日のこと覚えとるよ」
「聞いたんですか」
「聞かんでも分かる。あの子、覚えてない人のことを、二度も三度も話さんもの」
海斗は箸を止めた。
「僕のことを話したんですか」
「源治さんらが勝手に聞くだけや。水月さんは、困った顔しながら少し答える」
美代は空いた皿を盆へ載せた。
「でも、無理に近づいたらあかんよ」
海斗は美代を見た。
彼女の表情は穏やかだったが、声には真剣さがあった。
「分かっています」
「水月さんは、強い子や。店も一人で続けてきた。でも、強いから傷つかんわけやない」
「はい」
「それと、あんたも無理したらあかん」
「僕も?」
「水月さんに会うために元気なふりしたら、前と同じやろ」
海斗は何も言えなかった。
水月へ会う日までに、もっと回復していなければならないと思っていた。
調子が悪い姿を見せれば、心配させる。
弱ったまま会いに行けば、彼女に頼るために来たように見える。
だから、食事を取り、仕事を調整し、医師の診察を受けた。
それ自体は必要なことだった。
だが、水月に会う資格を得るために回復しようとすれば、また自分を追い立てることになる。
「元気な日は、元気でいいんですよね」
海斗は言った。
「そうや」
「疲れた日は、疲れたと言ってもいい」
「そういうことや」
美代は笑った。
「難しく考えると、また疲れるで」
夕食後、海斗は部屋へ戻った。
窓を少し開ける。
雨は弱くなっていた。
水音と、遠くの舟のエンジンが聞こえる。
仕事用のアプリはない。
会社で何が起きているのか、確認する方法はなかった。
携帯電話には、西田から個人用の短いメッセージが届いていた。
〈こちらは問題ありません。返信不要です〉
海斗は、ありがとうと打ちかけた。
返信不要と書いてある。
今回は、その言葉を信じることにした。
メッセージを閉じ、携帯電話を枕元へ置く。
明日の朝、水月が迎えに来る。
そう考えると眠れないかもしれないと思ったが、移動の疲れもあり、海斗は早く眠りについた。
翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
午前七時。
雨は上がっていた。
空には厚い雲が残っているが、その隙間から薄い光が差している。
朝食を食べ、身支度を整える。
八時五十分。
玄関で靴を履いていると、外で車の音がした。
戸を開ける。
小さな白い軽自動車が停まり、運転席から水月が降りてきた。
今日は調理着ではなかった。
濃い灰色のコートに、黒いパンツ。髪はいつもより低い位置で束ねられている。
店以外で見る水月の姿は、新鮮だった。
「おはようございます」
水月が言った。
「おはようございます」
海斗は答えた。
互いに少し黙る。
美代が後ろから顔を出した。
「水月さん、海斗さんを頼むね」
「子どもではありません」
「分かっとるよ」
美代は海斗へ小さな折り畳み傘を差し出した。
「山の方は降るかもしれんから、持っていき」
「僕も傘を持っています」
「なら、忘れんようにな」
海斗と水月は車へ乗った。
水月が運転席、海斗が助手席だった。
車内には、柚子に似た香りが残っている。後部座席には空の野菜籠と、折り畳まれた前掛けが置かれていた。
「店の車ですか」
「仕入れに使っています」
「いつも運転するんですね」
「伊根では、車がないと不便ですから」
水月がエンジンをかける。
車は海沿いの道を北へ進んだ。
二人きりになると、メールのようには言葉が出なかった。
海斗は窓の外を見た。
海面は昨日より明るく、雲の切れ間から光が落ちている。集落を抜けると、家が少なくなり、山が近づいた。
「肩は、もう痛くないですか」
海斗は尋ねた。
「ほとんど治りました」
「そうですか」
「本当です」
水月は前を見たまま付け加えた。
海斗は笑った。
「疑っていません」
「顔が疑っていました」
「どんな顔ですか」
「メールで、今すぐ休んでくださいと書いたときと同じ顔です」
「見ていないでしょう」
「想像できます」
「そんなに怖い文章でしたか」
水月は少し考えた。
「怖いというより、腹が立つ文章でした」
「すみません」
「もう謝っていただきました」
「それでも、思い出すと恥ずかしいです」
「忘れなくてよいと思います」
海斗は水月へ顔を向けた。
「同じ言い方をしないために、です」
水月の声は穏やかだった。
「私も、大丈夫という言葉だけで終わらせないようにします」
「それは助かります」
「でも、何でも話すという意味ではありません」
「分かっています」
「分からないときは、尋ねてください」
「はい」
メールで交わした言葉を、今度は互いの声で確かめる。
文章だけで読んだときより、柔らかく聞こえた。
浦嶋神社へ着く頃、空から細かな雪が落ち始めた。
地面へ触れるとすぐ消える、湿った雪だった。
駐車場に車を止め、水月と海斗は石段へ向かった。
木々に囲まれた境内は、海辺の町よりさらに静かだった。湿った土と杉の匂いがする。
鳥居の前で、水月が一礼する。
海斗も同じように頭を下げた。
石段には、雨と雪が混じった水が残っている。
「滑りますから、気をつけてください」
水月が言った。
「水月さんも」
「私は何度も来ています」
「慣れていても滑ります」
水月は振り返り、少し笑った。
「先に言われましたね」
二人は並んで石段を上った。
境内にはほかに、年配の夫婦が一組いるだけだった。
拝殿の前で足を止める。
海斗は賽銭を入れ、手を合わせた。
何を願えばよいのか、すぐには決まらなかった。
仕事が楽になりますように。
体調が戻りますように。
水月との関係が進みますように。
どれも、自分の望みではあった。
だが、誰かにかなえてもらう形へすると、少し違う気がした。
海斗は、伊根へ来られたことへの礼だけを、胸の内で伝えた。
横では、水月が目を閉じている。
どんな願いをしているのかは尋ねなかった。
参拝を終え、境内を歩く。
古い絵巻や伝承についての案内があり、海斗は足を止めた。
「浦島太郎の話と、少し違うんですね」
「子どもの頃に聞く話とは、細かなところが違います」
「水月さんは、ここへよく来るんですか」
「伊根へ移ってきたばかりの頃に、何度か」
「どうして?」
水月は社殿の屋根へ目を向けた。
雪が薄く積もり始めている。
「長い時間が経ってから、戻る話だからです」
「戻る話」
「元の場所へ戻っても、同じ暮らしは残っていない」
水月はそこで言葉を切った。
「京都を離れたばかりの頃、自分も、いつか元の店へ戻りたくなるのではないかと思っていました」
海斗は黙って続きを待った。
「料理を続けるなら、京都へ戻るべきだと言う人もいました。伊根で小さな店を開くのは、逃げたことになるのではないか、と自分でも考えました」
「今は?」
「戻りたいとは思いません」
水月ははっきり答えた。
「京都を嫌いになったわけではありません。料亭で覚えたこともあります。包丁の使い方も、出汁の取り方も、器の扱いも、あそこで身につけました」
水月は手袋をした両手を、コートの前で重ねた。
「でも、戻って、あの人たちに認め直してもらいたいとは思わなくなりました」
「弁当を一人で作ろうとしたときも?」
海斗は慎重に尋ねた。
水月はしばらく答えなかった。
「少し、残っていたのかもしれません」
やがて言った。
「誰にも認めてもらう必要はないと言いながら、失敗すれば、やはりあの店を辞めた料理人には無理だったと思われる気がしました」
「誰にですか」
「分かりません」
水月は自嘲するように笑った。
「長谷川さんも料理長も、私が今どこで何をしているか、知らないはずです」
「それでも、見られているように感じる?」
「はい」
海斗には、その感覚が分かる気がした。
会社を休んでいる間も、誰にも責められていないのに、働いている同僚の視線を想像した。
早く帰るたび、怠けていると思われるのではないかと不安になった。
実際に言われた言葉と、自分の中に残っている声は、同じではない。
「僕も、誰にも言われていないのに、働かない自分には価値がないと思うことがあります」
海斗は言った。
「今も?」
「今もあります。休暇の申請ボタンを押すだけで、手が止まりました」
「それでも、押したんですね」
「水月さんが、十四日の夜に一席空けると書いてくれたから」
水月は海斗を見た。
雪が髪に落ち、すぐに溶けた。
「私のために休んだのですか」
その声には、わずかな緊張があった。
海斗は答えを急がなかった。
水月のためだと言えば、負担を背負わせるかもしれない。
だが、自分だけのためだと言えば、嘘になる。
「水月さんに会いたくて、休みました」
海斗は言った。
「でも、休むと決めたのは僕です。水月さんに責任はありません」
水月は視線を落とした。
「そういう言い方を、いつ覚えたんですか」
「西田さんに、何度も注意されました」
水月が小さく笑った。
「よい同僚ですね」
「はい。前は、助けられるのが恥ずかしかったです」
「今は?」
「恥ずかしいときもあります。でも、助けてもらったことまで否定したくないと思うようになりました」
二人は境内の端にある屋根の下へ移った。
雪が少し強くなっている。
海斗は持ってきた傘を開こうとしたが、屋根の下なら必要なかった。
水月が、拝殿の方を見ながら言った。
「高瀬さんが、また来ると言ってくださったとき、嬉しかったです」
海斗は隣に立つ水月を見た。
彼女は正面を向いたままだった。
「メールには、書きませんでしたね」
「書けませんでした」
「どうして?」
「書けば、待っていることが分かるからです」
「待っていると書いてくれたでしょう」
「それは、店主としても言える言葉です」
「今のは?」
水月は海斗へ顔を向けた。
答えに迷っていることが、その表情から分かった。
海斗は続きを求めなかった。
「すみません。今、答えなくて大丈夫です」
「すぐ、そうやって引きますね」
「急がせたくないので」
「急がせないことと、何も聞かないことは違います」
水月の言葉に、海斗は口を閉じた。
彼女の目は、逃げていなかった。
「店主としてだけではありません」
水月は言った。
「高瀬さんが来るのを、私が待っていました」
雪が屋根を打つ、小さな音がした。
海斗は返事をしようとしたが、喉が詰まった。
「ありがとうございます」
ようやく出たのは、それだけだった。
水月の眉がわずかに下がる。
「もっと別の言葉はないんですか」
「あります。でも、今言うと、たぶん多すぎます」
「では、少しだけにしてください」
海斗は息を吸った。
「会えて、嬉しいです」
水月は目を伏せた。
「私もです」
その声は、雪の音に消えそうなほど小さかった。
境内を出る頃には、雪は再び弱くなっていた。
石段を下りる。
途中、水月の右足が濡れた石の上で滑った。
海斗は反射的に腕を伸ばした。
水月の手首をつかみ、もう片方の手で肩を支える。
「水月さん」
呼びかけた声が、思ったより大きくなった。
水月は海斗の腕につかまった。
身体が近い。
コート越しに、彼女の肩の細さが伝わる。
「大丈夫ですか」
「はい」
水月はそう答えたあと、自分で言い直した。
「少し驚いただけです。足は痛くありません」
海斗は、水月が姿勢を戻したのを確認してから手を離した。
「慣れていても滑りましたね」
「言わなくていいです」
「最初に注意したのは水月さんです」
「だからです」
水月は濡れた石段を見下ろした。
頬が少し赤くなっている。
寒さのためか、海斗には分からなかった。
車へ戻り、暖房を入れる。
水月は両手を吹き出し口へ近づけた。
海斗も手を温める。
さきほどつかんだ手首の感触が、まだ指に残っていた。
「このあと、店へ戻るんですか」
「はい。午後から仕込みです」
「手伝えることはありますか」
「魚箱を濡らさず持てるようになってからお願いします」
「一度失敗しただけです」
「厨房で一度の失敗は、大きいです」
「厳しいですね」
「客に魚を運ばせる店ですから」
水月が言い、二人は笑った。
帰り道、雪は雨へ変わった。
車内には、先ほどまでより自然な沈黙があった。
言葉を探して焦る必要がなかった。
海斗は窓の外を見た。
冬の田畑と低い家々が通り過ぎる。
道路脇には、葉を落とした木が並んでいる。
「水月さん」
「はい」
「一つ、渡したいものがあります」
「今ですか」
「宿に置いてきました」
「では、明日で構いません」
「今日、店へ持っていきます」
「夜は予約の日ですよ」
「食事が終わってから」
水月は何を持ってきたのか尋ねなかった。
海斗も、まだ説明しなかった。
午後、海斗は一度、潮路へ戻った。
水月は静波で仕込みをする。
夜の予約は六名。
海斗のほかに、源治と陸、文子、町内の夫婦が一組来るという。
自分のためだけに空けられた店ではない。
そのことが、海斗には嬉しかった。
水月の普段の場所に、客の一人として加わる。
彼女と二人きりでなければ話せないこともある。
だが、水月が町の人たちとどう接し、どんなふうに暮らしているのかも見たかった。
部屋で少し休み、午後五時半に潮路を出た。
外は暗くなり始めていた。
万年筆の紙袋を鞄へ入れてある。
静波へ着くと、紺色の暖簾が出ていた。
黒板には、その日の献立が書かれている。
鰤大根。
平目の昆布締め。
蕪の柚子味噌がけ。
海老芋の揚げ出し。
粕汁。
一つずつ読んでいると、戸が内側から開いた。
水月が立っていた。
白い調理着に濃紺の前掛け。
朝のコート姿とは違い、見慣れた服装だった。
それでも、初めて会った夜とは違って見えた。
「まだ、開店前ですか」
海斗が尋ねる。
「ちょうど開けるところです」
「早く来すぎましたね」
「いいえ」
水月は戸を大きく開けた。
「お待ちしていました」
店へ入る。
カウンターの端に、一席だけ箸と湯飲みが用意されていた。
初めて来た夜と同じ場所だった。
海斗が腰を下ろすと、水月が茶を注ぐ。
「今日は、お腹が鳴りませんね」
「東京駅で弁当を食べましたから」
「全部食べたと、聞きました」
「報告しすぎました」
「構いません」
水月は湯飲みを置いた。
「食べられないときまで、食べたと報告しなくてよいなら」
「約束します」
「約束するほどのことではありません」
「でも、大事なことです」
水月は一度だけうなずき、厨房へ戻った。
まもなく、源治と陸が店へ入ってきた。
「おお、東京の兄ちゃん。ほんまに来たな」
源治が海斗の隣へ座る。
「お久しぶりです」
「水月さん、朝から浮き足立っとったで」
「源治さん」
厨房から低い声が飛ぶ。
「魚の下処理に時間がかかっていたのは、源治さんの鰤が大きすぎたからです」
「立派な鰤やったやろ」
「大きければよいとは限りません」
「でも、使うたんやろ」
水月は答えず、平目の昆布締めを皿へ盛った。
文子と町内の夫婦も到着し、六席が埋まった。
料理が一つずつ出される。
平目は、舌へ載せると昆布の香りが広がった。鰤大根の大根には、魚の脂と出汁が染みている。
海老芋は外側が薄く揚がり、箸を入れると中から湯気が出た。
海斗は食べるたび、水月へ感想を伝えたくなった。
だが、厨房の彼女はほかの客にも気を配っている。
言葉にせず、一口ずつ味わった。
水月が海斗の皿を見る。
きれいに食べ終えていることを確認すると、わずかに口元を緩め、次の料理を出した。
「水月ちゃん、海斗さんだけ量が多ない?」
文子が言った。
「同じです」
「鰤、あの人のだけ厚かったで」
「切り身には個体差があります」
「便利な言葉やなあ」
「文子さんにも、お代わりを出します」
「なら、黙っとく」
客席に笑いが広がる。
海斗も笑った。
水月は困った顔をしていたが、本気で嫌がってはいないようだった。
初めて店へ来た夜、水月は必要な言葉だけを交わし、客との間に一定の距離を置いていた。
今も、話しすぎる人ではない。
だが、源治や文子の軽口に言い返し、陸が魚の処理について尋ねれば手を止めて答える。
水月が一人で作った店の中に、いつの間にか多くの人の居場所ができていた。
食事の終わりに、粕汁が出された。
白い汁の中に、鮭、大根、人参、蒟蒻が入っている。
一口飲むと、身体の内側から温まった。
「前に味噌汁を作ったとき、こんな味にはなりませんでした」
海斗が言うと、水月は答えた。
「これは酒粕が入っていますから、味噌汁とは違います」
「そういう問題ではなくて」
「何度か作れば、少しずつ分かります」
「何度作っても、水月さんの味にはならないと思います」
「同じにする必要はありません」
水月は海斗の椀へ視線を落とした。
「高瀬さんが飲むものですから」
その言葉が、海斗の中へ静かに残った。
食事が終わると、源治たちは先に店を出た。
文子は帰り際、水月へ耳打ちをした。
小声のつもりらしいが、海斗にも聞こえた。
「片づけ、急がんでええからな」
「いつもと同じです」
「そういうことにしとくわ」
文子は笑い、戸を閉めた。
店内に、水月と海斗だけが残った。
海斗は椅子から立ち上がった。
「洗い物を手伝いましょうか」
「お客様にはさせません」
「魚箱より簡単です」
「器を割られると困ります」
「信用がないですね」
「店の器を洗う人としては、まだありません」
水月は使い終えた器を厨房へ運んだ。
海斗も盆を一枚持つ。
「高瀬さん」
「盆なら割れません」
水月は止めようとしたが、やがて諦めた。
「では、その上の器には触らないでください」
「はい」
二人で、カウンターの上を片づける。
水月が器を洗い、海斗は空いた盆を拭いた。
作業は三十分ほどで終わった。
海斗は鞄から紙袋を取り出した。
「これを」
水月は受け取らず、袋を見た。
「何ですか」
「土産です。東京らしいものではありません」
「お気遣いは不要です」
「そう言うと思いました」
「では、持って帰ってください」
「中を見てから決めてください」
水月は少し迷い、紙袋を受け取った。
箱を開ける。
紺色の万年筆が現れる。
水月は言葉を発さず、しばらく見つめた。
「高価なものではありません」
海斗が言った。
「水月さんが、献立や仕入れのことを手書きしているので、使えるかと思いました」
「私が最初に渡した紙も、覚えていたんですか」
「財布へ入れて、何度も確認しましたから」
水月は万年筆を箱から取り出した。
光へ向け、軸の色を見る。
「きれいな色ですね」
「静波の暖簾に似ていると思って」
「受け取ってもよいのですか」
「はい」
「何かお返しをしなければならなくなります」
「返さなくて大丈夫です」
「私は、そう思えません」
海斗は少し考えた。
「では、明日の朝、少しだけ一緒に歩いてください」
水月が顔を上げた。
「それがお返しですか」
「はい」
「私の時間と万年筆を、交換するんですか」
「そう言われると、あまりよい頼み方ではありませんね」
海斗は困って笑った。
「贈り物は、返さなくていいです。ただ、明日も会いたいです」
水月の指が、万年筆の軸をなぞった。
「明日は、昼の営業があります」
「その前で構いません」
「何時ですか」
「水月さんの都合のよい時間に」
「八時なら」
「大丈夫です」
「宿へ迎えには行けません」
「静波へ来ます」
水月は箱へ万年筆を戻した。
「分かりました。八時に」
海斗はうなずいた。
「ありがとうございます」
店を出ようとすると、背後から呼び止められた。
「海斗さん」
海斗は足を止めた。
水月自身も、言ったあとで気づいたらしい。
これまで、ずっと高瀬さんと呼ばれていた。
「今、名前で呼びましたね」
海斗が言うと、水月は目をそらした。
「美代さんたちが、そう呼ぶので」
「嫌ではありません」
「そうですか」
「もう一度呼んでください」
「嫌です」
水月ははっきり答えた。
だが、声は少し笑っていた。
「では、明日まで待ちます」
「待たなくて構いません」
「僕は待ちたいです」
水月は何も返さなかった。
万年筆の箱を両手で持ち、カウンターの中に立っている。
海斗は戸を開けた。
冷たい夜気が店内へ入る。
「おやすみなさい、水月さん」
「おやすみなさい」
少し間を置き、水月は続けた。
「海斗さん」
海斗は振り返った。
水月は今度こそ目をそらさなかった。
「また明日」
「はい。また明日」
店を出る。
道路の向こうには、暗い海がある。
雨も雪もやみ、水面に舟屋の灯りが映っていた。
海斗は潮路へ向かって歩いた。
明日の朝、何を話すかは決めていない。
聞きたいことは多かった。
伝えたいこともある。
だが、すべてを一度に言う必要はなかった。
今夜は、水月が自分の名前を呼んだ。
明日も会う約束をした。
それだけで十分だと思いながら、海斗は何度も、耳に残る声を思い返していた。




