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『静波の寄せる場所』  作者: 久遠 睦


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11/31

第11章 告白

水月は午前五時半に目を覚ました。

雨戸を開けると、空はまだ暗かった。

対岸の家々には、ところどころ明かりが点いている。漁へ出る家では、すでに人が動き始めていた。

水月は厚手の上着を羽織り、厨房へ下りた。

日曜日の昼は、五名の予約が入っている。

鰤の幽庵焼き。

里芋と烏賊の煮物。

白菜のすり流し。

蕪の浅漬け。

前日のうちに、下ごしらえは済ませてある。朝の散歩から九時半までに戻れば、開店には十分間に合う。

分かっているのに、水月は何度も時計を見た。

午前八時に、海斗と会う。

昨夜、自分から名前を呼んだ。

美代や源治たちが、いつも海斗と呼んでいるから、つられただけだと言い訳した。

だが、本当は違った。

高瀬さんと呼ぶたび、客との間に置くものと同じ距離が残った。

海斗さん、と呼べば、その距離を自分から縮めることになる。

怖かった。

それでも、昨夜は呼び止めたかった。

また明日と、伝えたかった。

水月は湯を沸かし、朝の茶を淹れた。

作業台には、海斗から贈られた万年筆が置いてある。

紺色の軸は、静波の暖簾より少し明るい。手に取ると見た目より軽く、指へなじんだ。

水月は帳面を開き、その日の仕入れを書き込んだ。

鰤、半身。

烏賊、三杯。

里芋、二キロ。

白菜、二玉。

インクは、途切れず滑らかに出た。

いつも使っているボールペンより、少し太い線になる。書いたばかりの文字へ指が触れないよう、注意しなければならない。

帳面の端に、試し書きをする。

静波。

十二月十五日。

そこまで書き、手が止まった。

次の行へ、無意識に文字を書いた。

海斗さん。

書き終えた瞬間、水月は万年筆を置いた。

誰に見せるものでもない。

それでも、自分の内側を、そのまま紙へ置いてしまったような恥ずかしさがあった。

線を引いて消そうとしたが、やめた。

水月は帳面を閉じ、棚の中へしまった。

茶を飲み終え、身支度を整える。

調理着ではなく、昨日と同じ灰色のコートを着た。

鏡の前で髪を結ぶ。

いつもと変わらないはずなのに、何度やっても位置が気になった。

一度ほどき、結び直す。

三度目で、自分が何をしているのか嫌になり、そのままにした。

午前七時四十五分。

水月は静波を出た。

空は明るくなり始めている。

夜の間に雪は降らなかった。道路は乾き、海から吹く風だけが冷たい。

潮路へ向かって歩く。

途中で、源治の舟屋の前を通った。

戸口に置かれた籠の中で、猫が丸くなっている。

起こさないよう静かに通り過ぎようとしたが、背後から源治の声がした。

「えらい早うから、どこ行くんや」

水月は足を止めた。

源治が、網を抱えて舟屋から出てくる。

「少し歩いてきます」

「一人で?」

「それを聞いて、どうするんですか」

「いや、別に」

源治は海の方を見ながら、口元を緩めた。

「東京の兄ちゃん、今日帰るんやろ」

「午後のバスです」

「よう知っとるな」

「本人から聞きました」

「そらそうやな」

源治は、わざとらしく何度もうなずいた。

「足元、気いつけてな」

「道路は乾いています」

「昨日、神社で滑ったいう話、陸から聞いたで」

水月は眉を寄せた。

「どうして陸君が知っているんですか」

「水月さんと東京の人が二人で神社へ行ったらしい、いうのは、昨日のうちに広まっとった」

「誰が広めたんですか」

「さあな」

源治は網を肩へ掛け直した。

「狭い町やから」

水月は返事をせず、歩き出した。

背後で源治が笑っている。

この町では、誰かと車へ乗っただけでも、すぐに知られる。

以前なら、それが煩わしかった。

静波を開いたばかりの頃は、店へ来る客の数も、仕入れた魚も、帰宅した時刻も、誰かに見られているような気がした。

今も、余計な噂は好きではない。

だが、源治や澄江たちが自分の変化を気にしていることを、すべて監視だとは思わなくなった。

おそらく彼らは、水月が一人で閉じこもらないか、確かめている。

潮路が見えてきた。

玄関の前に、海斗が立っている。

紺色のコートに、黒いパンツ。両手はポケットへ入れず、身体の前で重ねていた。

水月より先に来て、待っていたらしい。

海斗が顔を上げる。

「おはようございます」

「おはようございます」

水月は時計を見た。

午前七時五十七分。

「まだ三分前です」

「部屋で待つより、外へ出たくなりました」

「寒くありませんでしたか」

「今、出たところです」

海斗はそう答えたが、鼻の先が少し赤かった。

しばらく外にいたのだろう。

水月は指摘しなかった。

「どこへ行きますか」

海斗が尋ねた。

「湾の奥に、小さな船着き場があります。観光客は、あまり来ません」

「遠いですか」

「歩いて二十分ほどです」

「行きましょう」

二人は並んで歩き始めた。

朝の道路には、人も車も少ない。

舟屋の間を抜け、海沿いの細い道を進む。

水月は普段、一人で歩くときより少し速度を落とした。

海斗に合わせているつもりだった。

だが、隣を見ると、海斗もゆっくり歩いている。

「僕に合わせていますか」

海斗に尋ねられた。

水月は前を向いたまま答えた。

「海斗さんこそ、私に合わせていませんか」

名前で呼んだあと、少しだけ声が硬くなった。

海斗が笑う。

「呼んでくれましたね」

「昨夜も呼びました」

「今朝は、もう呼ばないかと思っていました」

「呼ばない方がよかったですか」

「いいえ」

海斗はすぐに答えた。

「嬉しいです」

水月は返事をせず、歩き続けた。

耳が熱くなる。

冷たい風の中で、その部分だけが自分のものではないようだった。

店の前を離れるにつれ、家々の間隔が広くなった。

道路の片側には山が迫り、反対側には海が見える。

係留された小舟が、かすかに上下していた。風はあるが、水面は大きく荒れていない。

「万年筆、使いましたか」

海斗が尋ねた。

「今朝、帳面に使いました」

「書きにくくありませんでしたか」

「少し太いですが、使いやすいです」

「よかった」

「なぜ、万年筆にしたのですか」

「メールアドレスを渡してくれた紙を覚えていたからです」

海斗は答えた。

「何度も書き直した跡がありました」

水月の足が一瞬止まりかけた。

「あれを見たんですか」

「見えました」

「見ないでほしかったです」

「渡された紙なので、見ます」

「アドレスだけを見ればよかったでしょう」

「何を書こうとして消したのか、少し気になりました」

「何も書いていません」

「嘘ですね」

水月は海斗を見た。

責めている顔ではない。

ただ、答えを知りたそうにしている。

「最初は、店の予約用アドレスを書こうとしました」

水月は言った。

「でも、それでは店への連絡と同じになります」

「それで、個人用を?」

「はい」

「ほかには?」

「返事を急がなくてよいと、書こうとしました」

「実際にも言いましたね」

「文字にすると、かえって意識させると思って消しました」

水月は少し迷った。

「最後に、また来てくださいと書きました」

海斗の歩みが止まった。

水月も立ち止まる。

「でも、消したんですね」

「はい」

「どうして?」

「来てほしいと書けば、来なければならないと思わせるかもしれないからです」

「僕は、書いてほしかったです」

「今だから言えるのでしょう」

「そうですね」

海斗は苦く笑った。

「そのとき書かれていたら、どう受け取ればいいか、考えすぎたかもしれません」

二人は再び歩き始めた。

海斗は、水月の気遣いを簡単に正しいとは言わなかった。

自分なら嬉しかったとも言い切らない。

そのときの自分がどう感じたか、正直に考えている。

水月は、その返事に安堵した。

やがて、道路から少し外れた場所に、小さな船着き場が見えた。

コンクリートの段差が海へ向かって続き、その脇に古い係留柱が立っている。

今朝は舟がなく、誰の姿もなかった。

水月は段差の手前で足を止めた。

「ここです」

「よく来るんですか」

「店を開く前は、よく来ました」

二人は海へ近い段へ腰を下ろした。

コンクリートは冷たかったが、コート越しなら耐えられた。

足元の水が、段差へ触れて小さな音を立てる。

正面には湾が広がり、遠くに舟屋の屋根が並んでいる。

海斗はしばらく何も言わなかった。

水月も、話し始めるきっかけを探さなかった。

メールでは、沈黙は存在しない。

送信するまでの時間を、相手は見ることができない。文章が届いたときには、迷った跡も、消した言葉も隠れている。

今は違う。

海斗が何かを言おうとして息を吸い、やめたことが分かる。

水月が手袋をした指を組み直したことも、彼には見えている。

「前に、聞きたいことがあると書きました」

海斗が言った。

「覚えています」

「弁当を作ったあと、連絡をやめようと思ったのに、どうして返事をくれたんですか」

水月は足元を見た。

透明な水の下に、黒い石が並んでいる。

「海斗さんの二通目のメールを読んだからです」

「謝ったメール?」

「はい。最初のメールを読んだときは、また誰かに自分のやり方を否定されたと思いました」

「すみません」

「今は謝らないでください」

海斗は口を閉じた。

「料理長に、私の料理ではないと言われたときと同じように感じたんです。私のことを知らない人が、何が正しいかを決めているように思えました」

水月は手袋の指先を見つめた。

「でも、二通目には、海斗さん自身が怖くなったと書いてありました。私のためだと言いながら、自分を安心させようとしていた、と」

「はい」

「そこまで書く人は、あまりいません」

水月は海斗へ顔を向けた。

「多くの人は、心配して言ったのだから、悪く受け取る方がおかしいと言います」

「昔の僕なら、そう言ったかもしれません」

「今も、少しは思いましたか」

海斗はすぐには否定しなかった。

「思いました」

水月は驚いた。

「正直ですね」

「送った直後は、なぜあんなに冷たい返事しか来ないんだと思いました。僕は水月さんを心配しているのに、と」

「やはり、そう思ったんですね」

「はい。でも、そのあとで、自分のメールを読み直しました」

海斗は両手を膝の上へ置いた。

「心配という言葉を使えば、どんな言い方でも許されるわけではないと思いました」

水月は海へ目を戻した。

「だから、返事をしました」

「連絡をやめなくて、よかったです」

「私もです」

水月は、はっきり答えた。

海斗が少し息を吐く。

その音が、安堵のように聞こえた。

「もう一つ、聞いていいですか」

「はい」

「僕が来ることを、店主としてだけではなく待っていた、と言ってくれました」

「言いました」

「どういう気持ちで、待っていたんですか」

水月は答えられなかった。

聞かれる可能性は考えていた。

それでも、実際に海斗の声で尋ねられると、用意していた言葉はどれも役に立たなかった。

「困る質問でしたか」

「困ります」

「すみません」

「だから、すぐに引かないでください」

海斗は黙った。

水月は、自分の呼吸を整えた。

逃げようとすれば、何も言わずに立ち上がれる。

昼の仕込みを理由に、店へ戻ることもできる。

だが、水月がここへ海斗を連れてきたのは、人に聞かれずに話すためだった。

「メールが来るのを、待っていました」

水月は言った。

「最初は、返事をしなければならないと思うことが負担でした」

海斗の顔がわずかに曇る。

「でも、返事を急がなくてよいと分かってから、少し変わりました」

水月は続けた。

「朝の海や、魚や、店で起きたことを見たとき、海斗さんへ知らせようと思いました。東京の空の写真が届くと、私が見たことのない場所で、海斗さんが立ち止まった時間を受け取ったように感じました」

自分が何を話しているのか、途中から分からなくなった。

それでも、止めたくなかった。

「味噌汁を作ったと聞けば、きちんと食べられたのか気になりました。仕事を断れたと聞けば、安心しました。電車を途中で降りたときは、腹が立ちました」

「怒っていたんですか」

「はい」

「心配ではなく?」

「両方です」

水月は海斗を見た。

「何度も無理をしないように言われたのに、なぜまた夕食を抜くのかと思いました」

「すみません」

「謝ってほしいわけではありません」

「西田さんにも、よく言われます」

水月は少し笑った。

「海斗さんが伊根へ来る日が決まってから、献立を何度も考えました。どの魚が獲れるか分からないのに、前もって考えても仕方がないのに」

「昨日の料理は、僕のために?」

「ほかのお客様にも、同じものを出しました」

「鰤は、僕のだけ厚かったらしいですが」

「個体差です」

「文子さんが言っていました」

「文子さんは、余計なところをよく見ています」

水月は口元を緩めた。

それから、逃げずに言った。

「海斗さんが来るのを待っていました。会いたかったからです」

言葉にした瞬間、胸の奥が大きく脈打った。

海斗は、水月を見つめている。

嬉しそうに見えた。

だが、すぐには何も言わない。

水月は、その沈黙に耐えられなくなった。

「何か言ってください」

「少しだけにしようと思って」

「昨日の話ですか」

「はい。言いたいことが多すぎるので」

海斗は一度、海へ視線を向けた。

それから水月へ戻す。

「僕は、水月さんが好きです」

遠回しな言葉ではなかった。

水月は息を止めた。

「初めて店へ入った夜、料理を食べられたことは、今でも忘れていません」

海斗は続けた。

「でも、食事を出してもらったから好きになった、ということではありません」

水月が最も不安に感じていた部分を、海斗は先に言葉にした。

「最初は、水月さんのことを、迷わず自分の店を守れる人だと思っていました。僕にはできない生き方をしている人だと」

海斗は少し笑った。

「実際は、何でも一人でやろうとして、二十四人分の弁当で動けなくなる人でした」

「それを、今言うんですか」

「すみません」

「続けてください」

「言葉が足りなくて、冷たく見えることもあります。でも、本当は、言いすぎて誰かを傷つけないよう、何度も考えている。自分が傷つくことも怖がっている」

海斗の声は穏やかだった。

「怒ったときには、怒ったと書いてくれました。心配したことは受け取ると書いてくれました。僕が失敗しても、全部が無駄になったようには扱わなかった」

海斗は、膝の上で指を組み直した。

「もっと知りたいと思いました。料理をしていないときの水月さんも、迷っているときの水月さんも。メールでは書かなかったことも、聞きたい」

水月は視線を落とした。

嬉しかった。

同時に、怖かった。

「海斗さんは、伊根へ休むために来ました」

「はい」

「私の店で食べて、眠れるようになった」

「そうです」

「だから、私を好きだと思っているのではありませんか」

海斗はすぐに否定しなかった。

そのことに、水月はわずかに安心した。

軽い言葉で「違う」と言われれば、信じられなかったかもしれない。

「自分でも考えました」

海斗は答えた。

「弱っているときに助けてくれた人へ、気持ちが向いているだけではないか、と」

「答えは出たんですか」

「完全には分かりません」

水月の胸に、冷たいものが落ちた。

だが海斗は、言葉を続けた。

「気持ちの始まりには、あの夜の食事があります。それを切り離すことはできません」

海斗は水月から目をそらさなかった。

「でも、それだけなら、東京へ戻ったあとも、水月さんの考えを知りたいとは思わなかったはずです。怒らせたとき、関係を失うのが怖いとも思わなかった。料理の写真だけではなく、水月さんが笑っている写真を何度も見たりしなかったと思います」

祭りの集合写真を思い出し、水月は頬が熱くなるのを感じた。

「何度も見なくてよいと言いました」

「約束できないと答えました」

「覚えています」

「今も、ときどき見ています」

「もう言わなくて結構です」

水月は海へ顔を向けた。

海斗が少し笑った。

「僕は、まだ体調が完全に戻っていません」

「はい」

「これから仕事がどうなるかも分かりません。東京に住んでいて、水月さんは伊根にいる。会おうと思えば、何時間もかかります」

現実を並べる海斗の声は、先ほどより慎重だった。

「それでも、僕は水月さんと、店主と客ではない関係になりたいです」

水月は手袋の中で、指を握った。

海斗が息を吸う。

「僕と、付き合ってもらえませんか」

告白されれば、ただ嬉しいと思うはずだった。

これまで何度も、海斗のメールを待った。

次に会える日を考えた。

昨夜、名前を呼んだ。

今朝、万年筆でその名を書いた。

それでも「はい」と答える前に、不安がいくつも浮かんだ。

「付き合うというのは、どういうことですか」

水月は尋ねた。

海斗は少し驚いた顔をした。

「どういうこと、とは?」

「海斗さんは東京で、私はここにいます。毎週会うことはできません。私は店を休めない日があります。返事ができないこともあります」

「分かっています」

「今は、伊根へ来ることが特別に感じられているだけかもしれません」

「そうかもしれません」

海斗は認めた。

「海斗さんが元気になれば、ここへ来る必要はなくなります」

「必要がなくなっても、来たいと思っています」

「今は、そう思っているだけではありませんか」

水月の声が強くなった。

自分でも、海斗を試すような言い方になっていると分かった。

だが、止められなかった。

「東京へ戻れば、仕事があります。友人も、家族もいる。忙しくなれば、私への連絡は後になります」

真由との話を思い出した。

海斗が、仕事を優先して約束を守れなかった相手。

水月は真由ではない。

それでも、同じことが起きない保証はない。

「そうなる可能性はあります」

海斗は答えた。

「否定しないんですね」

「絶対に変わらないとは、約束できません」

水月の胸が痛んだ。

聞きたかった答えではなかった。

だが海斗は、近くへ座り直した。

「忙しくなることも、体調が悪くなることもあると思います。気持ちが今と同じままかどうかも、未来のことは分かりません」

海斗はゆっくり言葉を選んだ。

「でも、連絡できないときに、黙って消えないことは約束できます。仕事を理由に約束を破りそうになったら、先に話す。気持ちが変わったなら、変わっていないふりをしない」

水月は何も言えなかった。

永遠に変わらないという言葉より、ずっと現実的だった。

同時に、それだけに重かった。

「水月さんにも、僕の気持ちを守るために、何かを我慢してほしくありません」

「私が、連絡をやめたいと思ったら?」

「理由を聞きたいです。でも、最後に決めるのは水月さんです」

「引き止めないんですか」

「引き止めます」

海斗はすぐに答えた。

水月は顔を上げた。

「今、最後に決めるのは私だと」

「決めるのは水月さんです。でも、僕はやめたくないと伝えます」

海斗は困ったように笑った。

「黙って受け入れられるほど、きれいにはできません」

水月も、わずかに笑った。

「それなら、分かります」

二人の間に、短い沈黙が落ちた。

水月は足元の水を見る。

水面に、二人の影が揺れている。

隣に座っていても、影は重ならない。

風が吹くたびに形を変え、それでも同じ水の上に残っている。

「一つ、約束してください」

水月は言った。

「何ですか」

「私のために、仕事を辞めたり、伊根へ移ったりしないでください」

海斗の表情が変わった。

「今すぐ、という意味ですか」

「今すぐでも、あとでもです」

水月は続けた。

「少なくとも、今の気持ちだけで決めないでください。私を、東京から逃げる理由にしないでほしいんです」

海斗は、すぐに答えなかった。

水月はその沈黙を待った。

「分かりました」

やがて海斗が言った。

「僕も、今ここで人生の全部を決めるつもりはありません」

「本当に?」

「はい」

「私の店を手伝いたいとも、まだ言わないでください」

「まだ、何もできません。魚箱の持ち方も間違えました」

「そうですね」

「それに、料理も味噌汁しか作れません」

「雑炊も作ったでしょう」

「卵が固まりすぎました」

「覚えています」

二人は笑った。

緊張が、少しだけほどけた。

海斗は改めて水月を見た。

「返事を聞いてもいいですか」

水月は息を整えた。

迷いがなくなったわけではない。

海斗が東京へ戻れば、寂しくなるだろう。

メールが届かない日には、不安になるかもしれない。

いつか、傷つく可能性もある。

だが、傷つかないことだけを選べば、海斗と出会う前の場所へ戻る。

誰にも入られず、誰も待たない場所。

そこは安全だった。

同時に、とても狭かった。

「私も、海斗さんが好きです」

水月は言った。

口にした瞬間、声が震えた。

海斗の目が、わずかに見開かれる。

「料理を食べてくださったからだけではありません」

水月は続けた。

「最初に来た夜、海斗さんは、私が話したくないことを尋ねませんでした。過去を話した夜も、きれいな言葉で慰めようとしなかった」

海斗は黙って聞いている。

「何度か失敗もしました」

「はい」

「そこは、否定しないんですね」

「否定できません」

水月は笑った。

「でも、間違えたあとに、考え直してくれました。私が怒ったことを、面倒だと言いませんでした」

水月は手袋をした手を、膝の上へ置いた。

「次のメールが来るのを待つようになりました。店で何かがあれば、知らせたいと思いました。伊根へ来ると聞いて、嬉しかった。昨日、実際に姿を見たときは……」

「どうしました?」

「安心しました」

水月は正直に答えた。

「写真でも、文章でもなく、海斗さんがここにいることに」

海斗の表情が柔らかくなった。

「それが、私の返事です」

「では」

「はい」

水月は、海斗の目を見た。

「お付き合いしてください」

海斗が息を吐いた。

それまで呼吸を止めていたようだった。

「ありがとうございます」

「また、それですか」

「すみません。嬉しくて、ほかの言葉が出ません」

海斗は笑っている。

水月も、頬が緩むのを止められなかった。

「水月さん」

「はい」

「手をつないでもいいですか」

尋ねられた途端、水月の身体が固くなった。

昨日、神社の石段で支えられたときには、考える暇がなかった。

今は、触れる前に、選ぶ時間を渡されている。

水月は手袋を外した。

冷たい空気へ、右手がさらされる。

「はい」

海斗も右手の手袋を外した。

掌が触れる。

海斗の手は、水月より大きく、少し冷たかった。

指をどう重ねればよいのか分からず、最初は互いの掌を合わせただけになった。

海斗が、水月の指をゆっくり包む。

力は強くない。

離そうと思えば、いつでも離せる。

水月は自分から指を曲げ、海斗の手を握った。

言葉より先に、熱が伝わった。

「冷たいですね」

水月が言った。

「待っていたので」

「今、出たところだと言いました」

「少し前からいました」

「やはり、嘘だったんですね」

「三分くらいです」

「鼻が赤くなるほど?」

「十分かもしれません」

水月は笑った。

つないだ手は、そのままだった。

遠くから、軽トラックのエンジン音が近づいてきた。

二人は同時に道路の方を見る。

見覚えのある青い軽トラックが、ゆっくり走ってくる。

運転しているのは陸だった。

助手席には源治が座っている。

水月は反射的に手を離そうとした。

だが、海斗の指がわずかに動き、完全には離れなかった。

逃げるように離す必要はない。

水月はそう思い直し、そのままにした。

軽トラックが船着き場の前で速度を落とす。

陸が窓を開けた。

「おはようございます」

「おはようございます」

海斗が答える。

源治は二人の手へ目を向けた。

驚いた様子もなく、満足そうにうなずく。

「足元、気いつけてな」

「もう滑りません」

水月が答えると、陸が笑った。

「じいちゃん、戻れって言うなよ」

「言わんわ。空気くらい読める」

「読めないから止まったんやろ」

二人の声を残し、軽トラックは走り去った。

水月は額へ手を当てたくなったが、片手は海斗とつながったままだった。

「今日中に、町の人全員へ知られます」

「困りますか」

「少し」

「手を離しますか」

水月は海斗の手を見た。

「いいえ」

そう答えると、海斗の指に少し力が入った。

二人は船着き場を離れ、静波へ戻ることにした。

行きより、歩く速度はさらに遅かった。

人家が見えてくる前に、水月は手を離した。

「町の中では、まだ」

「分かりました」

海斗は残念そうな顔をしたが、無理には求めなかった。

「電話番号を交換しませんか」

海斗が言った。

水月は少し考えた。

これまで連絡手段をメールだけにしていたのは、いつでも返せる距離を保つためだった。

電話は、相手の時間へ直接入ってくる。

声が聞こえれば、切り上げることも難しくなるかもしれない。

「突然は、かけないでください」

水月は言った。

「先にメールをします」

「出られない日もあります」

「分かっています」

「毎日話すとは、約束できません」

「僕も、毎日は難しいと思います」

海斗は携帯電話を取り出した。

互いの番号を登録する。

水月の画面には、〈高瀬海斗〉と表示された。

海斗の画面には、〈水月〉とだけ入っている。

「名字は?」

海斗が尋ねた。

「必要ですか」

「登録するために」

「今まで、水月だけで困らなかったでしょう」

「そうですが」

水月は少し笑った。

「そのままで構いません」

海斗は画面を見つめ、うなずいた。

「僕の方も、海斗だけでいいです」

水月は登録名を直した。

〈高瀬海斗〉から、名字を消す。

画面には、〈海斗〉と表示された。

たった二文字にするだけで、距離が変わったように感じた。

静波へ着いたのは、午前九時四十分だった。

「仕込みに間に合いますか」

海斗が尋ねる。

「はい」

「手伝うことは?」

「ありません」

水月は店の鍵を開けた。

「宿へ戻って、出発の支度をしてください」

「昼も、ここで食べていいですか」

「予約は五名です」

「一席空いていますよね」

海斗が言う。

水月は、昨日と同じ言葉を使った。

「本日は日替わりの献立だけですが、それでもよろしければ」

「お願いします」

海斗が笑った。

水月は戸を開け、彼を中へ入れた。

「開店は十一時半です。それまでは、客席で待たないでください」

「分かりました。宿へ戻ります」

「海斗さん」

水月は呼び止めた。

今度は、名前が自然に出た。

「何ですか」

「先ほどの返事を、東京へ戻ってから後悔しないでください」

言ったあと、自分の弱さを見せすぎたと思った。

だが、海斗は簡単に否定しなかった。

「後悔しないと、未来のことまでは約束できません」

水月の胸が痛んだ。

海斗は続けた。

「でも、迷ったときに黙って離れないことは約束します。水月さんにも、同じようにしてほしいです」

水月はうなずいた。

「分かりました」

「それと」

「まだありますか」

「今は、後悔していません」

海斗ははっきり言った。

「すごく嬉しいです」

水月は顔をそらした。

「早く宿へ戻ってください」

「はい」

海斗が店を出る。

戸が閉じたあと、水月はその場に立ったまま、両手で頬を押さえた。

冷えていた指が、熱くなった顔に気持ちよかった。

午前十一時半。

静波は通常どおり暖簾を出した。

予約の五名に加え、海斗がカウンターの端へ座る。

客の中には文子もいた。

陸から聞いたのか、水月と海斗を交互に見ている。

「文子さん」

水月は料理を出しながら言った。

「何も聞かないでください」

「まだ何も言うとらんで」

「顔が聞いています」

「そうか。うちの顔、ようしゃべるからな」

文子は笑い、鰤の幽庵焼きへ箸を入れた。

「今日は、ええ味や」

「いつもと同じです」

「いや、少しやわらかい」

「焼き加減の話ですか」

「両方や」

海斗が隣で笑いをこらえている。

水月は、彼の前へ白菜のすり流しを置いた。

「熱いので、気をつけてください」

「はい」

「今日は腹が鳴らないんやな」

文子が言った。

海斗の顔が赤くなる。

「どうして、それを知っているんですか」

「美代さんから聞いた」

「初めて来た日の話ですよね」

「この町では、三年前の話でも昨日の話みたいに残るで」

「水月さんも大変ですね」

海斗が言うと、文子は笑った。

「これから海斗さんも大変や」

「文子さん」

水月が呼ぶ。

「何も言うてへん」

文子は澄ました顔で料理を食べ続けた。

海斗は、その日も皿の上をきれいにした。

料理を食べ終えたあと、会計を済ませる。

「バスは何時ですか」

水月が尋ねた。

「二時四十分です」

時計は午後一時を過ぎている。

「潮路へ戻り、荷物を取ってきます」

「停留所まで行きます」

「店の片づけは?」

「間に合います」

水月は、初めから見送りへ行くつもりだった。

それを隠す必要はなかった。

午後二時半。

海斗と水月は、バス停のベンチへ並んで座っていた。

海斗の足元には、旅行鞄が置かれている。

空は曇っているが、雨も雪も降っていない。

美代は宿の玄関で、またおいでと言って海斗を送り出した。

源治や文子たちは、バス停までは来なかった。

おそらく水月と二人にするためだろう。

「次は、いつ来られますか」

水月は尋ねた。

海斗は予定を確認するような仕草をしたが、携帯電話を取り出さなかった。

「まだ約束できません」

「そうですよね」

「来月か、再来月には来たいです」

「無理に休まないでください」

「無理ではなく、休める日を探します」

「私も、店を休める日を考えます」

水月は言った。

これまで、海斗が来ることを前提に店の予定を考えたことはなかった。

これからは、自分も東京へ行くことがあるかもしれない。

その考えが浮かび、自分で驚いた。

京都市内ならともかく、東京は遠い。

人も多い。

水月が避けてきたものが、いくつもある。

それでも、海斗が暮らしている場所を見たいと思った。

「次は、私が東京へ行くことも考えます」

水月が言うと、海斗が振り向いた。

「本当に?」

「まだ、考えるだけです」

「来てほしいです」

「店の予定があります」

「分かっています」

「人の多い場所は、得意ではありません」

「静かな場所を探します」

「海斗さんの部屋には行きません」

「まだ何も言っていません」

「先に言っておきます」

海斗は笑った。

「分かりました。無理に誘いません」

遠くにバスが見えた。

水月の胸が締めつけられる。

初めて海斗を見送ったときとは違う。

あのときは、また来るか分からなかった。

今は、付き合うと決めた。

電話番号も交換した。

それでも、離れることが寂しい。

「水月さん」

海斗が言った。

「はい」

「帰りたくない、と言ったら困りますか」

水月はバスへ目を向けたまま答えた。

「困ります」

「やはり」

「私も、帰ってほしくないと思ってしまうからです」

海斗が黙った。

水月は彼へ顔を向けた。

「でも、今日は帰ってください」

「はい」

「東京での生活を、途中にしたままにしないでください」

「分かっています」

「仕事のことも、体調のことも、きちんと考えてください」

「はい」

「そのうえで、また来てください」

海斗はうなずいた。

「必ず連絡します」

バスが停留所へ近づく。

海斗は鞄を持ち上げ、立ち上がった。

水月も立つ。

人目がある場所で手をつなぐことには、まだためらいがあった。

代わりに、水月は海斗のコートの袖をつかんだ。

海斗が、つかまれた袖を見る。

「水月さん」

「少しだけです」

海斗は鞄を反対の手へ持ち替えた。

空いた手で、水月の手を包む。

手袋越しだった。

それでも、海斗の指の形が分かった。

バスの扉が開く。

「行かないと」

水月が言った。

「はい」

海斗は手を離した。

一歩進み、また振り返る。

「好きです」

突然言われ、水月は周囲を見た。

運転手が待っている。

バスの中には数人の乗客がいる。

「今、言うんですか」

「離れる前に、もう一度伝えたくて」

水月は困った。

だが、嬉しかった。

「私もです」

海斗にだけ聞こえる声で答えた。

「気をつけて帰ってください」

「着いたら連絡します」

海斗はバスへ乗った。

扉が閉まり、車体が動き出す。

海斗は窓際の席から、水月へ手を上げた。

水月も、小さく手を振った。

バスが角を曲がり、見えなくなる。

停留所に一人残される。

海斗がいなくなったあと、町の音が急に大きく聞こえた。

家の前を掃く箒の音。

遠くの舟のエンジン。

軒先で鳴る風鈴。

どれも昨日までと同じだった。

だが、水月の右手には、海斗の手の感触が残っていた。

店へ戻る。

厨房には、洗うべき器が残っている。

水月は前掛けを締め、片づけを始めた。

寂しいからといって、何もできなくなるわけではない。

器を洗い、作業台を拭き、翌日の仕入れを確認する。

手を動かしながら、何度も携帯電話へ目を向けた。

午後四時過ぎ、海斗からメールが届いた。

〈天橋立駅へ着きました。

次の列車を待っています。

店の片づけは終わりましたか。〉

水月は返信した。

〈終わりました。

連絡ありがとうございます。

京都駅へ着いたら、何か食べてください。〉

数分後、返事が来る。

〈分かりました。

食べたら、また報告します。〉

水月は少し迷い、書いた。

〈義務にはしないでください。〉

海斗から届いたのは、短い一文だった。

〈食べたことを、水月さんに知らせたいです。〉

水月は、その言葉を読み返した。

報告と共有は、似ているようで違う。

見張られているから知らせるのではない。

相手が知れば安心すると思い、自分から伝える。

水月は、〈分かりました〉と返した。

午後七時。

海斗から、京都駅で買ったおにぎりと温かい茶の写真が届いた。

午後九時半には、東京へ着いたと連絡があった。

〈部屋へ戻りました。

ポトスは元気です。

土はまだ湿っているので、今日は水をやりません。〉

水月は、閉店後の静波でそのメールを読んだ。

海斗が帰った部屋を想像する。

窓際にポトスがあり、台所には小さな片手鍋がある。

もう、知らない場所ではなかった。

写真や言葉を通して、少しずつ輪郭を持ち始めている。

水月は返信を書いた。

〈無事に着いて、安心しました。

今日は早く休んでください。〉

送信してから、電話番号を交換したことを思い出した。

まだ、一度も声を聞いていない。

通話したいと思った。

だが、自分から電話をかけることには、ためらいがある。

水月は新しいメールを開いた。

〈今、少しだけ話せますか。〉

送信する。

一分もたたないうちに、携帯電話が鳴った。

画面には、〈海斗〉と表示されている。

水月は一度息を吸い、通話ボタンを押した。

「もしもし」

自分の声が、少し硬い。

〈もしもし。水月さん?〉

電話から聞こえる海斗の声は、店で聞くより近かった。

周囲の音がないため、呼吸まで伝わってくる。

「はい」

〈本当に電話してよかったですか〉

「私が、話せるかと聞きました」

〈そうでした〉

短い沈黙が続く。

会いたいと思っていたときには、言葉がいくらでも浮かんだ。

実際に声がつながると、何から話せばよいのか分からない。

「ポトスは、本当に元気ですか」

水月は尋ねた。

〈元気です。少し葉が増えました〉

「水をあげすぎていませんか」

〈土を見ています〉

「なら、大丈夫です」

再び沈黙が落ちる。

海斗が、電話の向こうで小さく笑った。

「何ですか」

〈付き合い始めて最初の電話が、ポトスの確認なんですね〉

「大事なことです」

〈そうですね〉

水月も笑った。

〈万年筆は、使ってもらえましたか〉

海斗が尋ねる。

「今朝、使いました」

〈何を書いたんですか〉

「仕入れの記録です」

〈それだけ?〉

水月は閉じた帳面へ目を向けた。

海斗さん、と試し書きした行が残っている。

「ほかにも、少し」

〈何ですか〉

「教えません」

〈分かりました。いつか教えてください〉

「気が向いたら」

電話の向こうから、海斗の呼吸が聞こえる。

姿は見えない。

表情も分からない。

それでも、同じ時間に互いの声を聞いている。

「海斗さん」

〈はい〉

「今日は、ありがとうございました」

〈こちらこそ〉

「遠くから来てくださったことも、話してくださったことも」

〈水月さん〉

「はい」

〈付き合ってくれて、ありがとうございます〉

水月は、静かな店内を見回した。

六つの席。

磨かれた作業台。

窓の外の暗い海。

すべて、昨日までと同じ場所にある。

だが、自分はもう、誰も待たない人間ではなかった。

「私も、同じ気持ちです」

水月は答えた。

「これから、よろしくお願いします」

〈はい。よろしくお願いします〉

「もう遅いので、寝てください」

〈水月さんも〉

「私は、明日の仕込みが少し残っています」

〈今から?〉

海斗の声が、心配そうに変わる。

水月は思わず笑った。

「三十分で終わります」

〈本当に?〉

「白菜を塩へ漬け、昆布を水へ入れるだけです」

〈分かりました〉

「止めないんですね」

〈必要な仕事かどうかを、先に聞く約束でしたから〉

「覚えていたんですね」

〈忘れません〉

水月は、電話を持つ手へ少し力を入れた。

「では、終わったら寝ます」

〈はい〉

「おやすみなさい、海斗さん」

〈おやすみなさい、水月さん〉

通話が切れる。

画面には、通話時間が表示されていた。

八分四十二秒。

長くはない。

それでも、メールでは埋まらなかった距離が、少しだけ近づいたように感じられた。

水月は携帯電話を作業台へ置いた。

白菜へ塩を振り、重石を載せる。

昆布を水へ浸す。

本当に三十分もかからなかった。

最後に、朝使った帳面を開いた。

仕入れの記録の下に、試し書きした文字がある。

海斗さん。

水月は、その文字を指先でなぞった。

消さなかったことを、もう恥ずかしいとは思わなかった。

帳面を閉じ、照明を消す。

二階へ上がる前に、携帯電話の画面をもう一度確認した。

海斗から、新しいメールは来ていない。

必要もなかった。

今夜は、声を聞いた。

明日になれば、海斗は東京で仕事へ戻り、水月は静波を開ける。

離れた場所で、それぞれの一日が始まる。

付き合うと決めたからといって、距離がなくなるわけではない。

仕事も、過去も、身体の不調も消えない。

それでも、何かが起きたときに、伝えたい相手がいる。

返事がすぐに来なくても、言葉を置いておける場所がある。

水月は階段を上った。

窓の外では、対岸の明かりが一つずつ消えていく。

明日の海がどんな色になるのかは、まだ分からない。

それでも朝になれば、水月は自分の目で確かめる。

そして、海斗へ知らせたいと思ったなら、写真を送るだろう。

義務ではなく、自分が見せたいから。

その夜、水月は枕元へ携帯電話を置いた。

音が鳴るのを待つためではなかった。

遠くにいる海斗と、必要なときには声を交わせる。

その事実を、手の届く場所に置いて眠りたかった。


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