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『静波の寄せる場所』  作者: 久遠 睦


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12/31

第12章 満ち潮

水月と付き合い始めた翌朝、海斗はいつもより早く目を覚ました。

目覚ましが鳴る十五分前だった。

カーテンの隙間から、冬の淡い光が差し込んでいる。

窓際の棚では、ポトスの葉が静かに光を受けていた。

昨夜、水月と初めて電話で話した。

通話時間は八分四十二秒。

携帯電話の履歴に残った数字を、海斗は朝になってからも何度か見た。

特別な話をしたわけではない。

ポトスの土が湿っていること。

贈った万年筆を使ったこと。

水月が、白菜を塩へ漬けること。

それだけだった。

それでも、メールではなく、離れた場所から水月の声が聞こえた。

付き合うと決めたあとも、水月の話し方は大きく変わらなかった。丁寧で、少し硬く、言葉の前に短い間がある。

その変わらなさに、海斗は安心した。

関係に名前がついたからといって、急に別の人間になる必要はない。

海斗はベッドから起き上がり、台所へ向かった。

冷蔵庫を開ける。

卵が二つ。

納豆。

味噌。

半分残った長葱。

以前なら、朝食を食べるという選択肢はなかった。

今朝は味噌汁を作るほど時間がない。海斗は冷凍していたご飯を電子レンジで温め、納豆と一緒に食べた。

水月へ写真を送ろうとして、やめる。

食べたことを報告するのは義務ではない。

昨夜、二人で確かめたばかりだった。

代わりに、窓辺のポトスを一枚だけ撮った。

新しい葉が、前日より少し開いている。

〈おはようございます。

新しい葉が開きました。

これから仕事へ行きます。〉

送信する。

すぐには返ってこなかった。

水月は仕入れか、朝の仕込みをしている時間だろう。

海斗は携帯電話を鞄へ入れ、部屋を出た。

会社へ着くと、自分の机は休暇前と変わらない状態だった。

書類が積み上がっていることも、至急の付箋が貼られていることもない。

パソコンを開く。

引き継いだ仕事は、西田と佐伯によって予定どおり進められていた。

海斗宛ての連絡には、二人が必要な返事をしている。

未読の数は多かったが、すべてを自分が処理する必要はなかった。

「おはようございます」

西田が声をかけてきた。

「おはよう」

「旅行、どうでしたか」

「よかった」

「仕事のアプリ、見ませんでした?」

「削除したままだった」

「合格です」

「またそれ?」

「分かりやすいので」

西田は自分の机へ鞄を置いた。

「会いたい人には、会えたんですか」

「会えた」

「それだけではなさそうですね」

海斗は返事を迷った。

会社で詳しく話すつもりはない。

それでも、助けてもらった西田に隠し続ける必要もなかった。

「付き合うことになった」

西田は目を見開いた。

「本当に?」

「そんなに驚く?」

「驚きます。前回は、連絡先を聞くかどうかで迷っていたでしょう」

「そこまで話したかな」

「昼休みに、メールを送っていいか相談されました」

「忘れてた」

「おめでとうございます」

西田は笑った。

「でも、京都ですよね」

「伊根」

「遠いですね」

「うん」

「これから、どうするんですか」

「まだ決めてない。すぐに何かを変えるつもりはない」

「それがいいと思います」

西田は率直に言った。

「海斗さんは、決めたら一気に進めようとするところがありますから」

「そうかな」

「仕事でも、休日でも、回復でも。達成する日を先に決めたがります」

海斗は否定できなかった。

「今回は、急がないよ」

「そうしてください」

西田は席へ座り、パソコンを開いた。

「遠距離恋愛は、仕事の計画より相手の都合がありますから」

「経験があるの?」

「ありません」

「ないんだ」

「でも、海斗さんよりは冷静に見られます」

言い返せず、海斗は自分の画面へ向き直った。

午前十時過ぎ、水月から返信が届いた。

〈葉が増えましたね。

今日は水をあげなくてよいと思います。

こちらは朝から霙です。

お仕事、無理をしないでください。〉

最後の一文を読み、海斗は少し笑った。

水月の言葉は、以前と変わらない。

だが、「こちら」という言葉が、以前より近く感じられた。

その夜から、二人は週に二、三度、電話で話すようになった。

毎日ではなかった。

電話をする前には、必ずメールで都合を確かめた。

〈今夜、九時頃なら話せます〉

〈今日は仕込みが長引きそうです。明日でもよいですか〉

〈今、少しだけ話せますか〉

話せる時間は、十分の日もあれば、三十分を超える日もあった。

水月は、電話でも沈黙を恐れなかった。

話題が途切れると、無理に次の話を探さない。

電話の向こうから、水の流れる音や、器を重ねる音が聞こえる。

海斗が黙っていると、水月は尋ねた。

〈疲れていますか〉

「少し」

〈なら、今日は切りますか〉

「声を聞いていたい」

初めてそう答えたとき、水月はしばらく何も言わなかった。

海斗は、重い言い方だったかもしれないと思った。

やがて、水月が答えた。

〈では、片づけが終わるまででよければ〉

それから十分ほど、二人はほとんど話さなかった。

水月が布巾を絞る音。

戸棚を閉める音。

遠くで鳴る舟のエンジン。

海斗は自分の部屋で、味噌汁を飲みながら聞いていた。

何かを話し続けなくても、電話を切りたくない時間がある。

それを、水月も受け入れてくれた。

一方で、付き合い始めたからこそ生まれる難しさもあった。

一月中旬の水曜日。

二人は午後九時に電話をする約束をしていた。

海斗は朝のメールで、今日は七時までに仕事を終えると伝えた。

その日は、顧客へ新しい画面を見せる会議が入っていた。

午後四時に始まり、五時には終わる予定だった。

だが、顧客から追加の要望が出た。

「この項目を、一覧から直接変更できませんか」

担当者が画面を指しながら尋ねた。

「現在の仕様では、詳細画面を開く必要があります」

海斗は答えた。

「一覧から変更できた方が、現場では楽なんです」

「変更自体は可能ですが、誤操作を防ぐ確認画面が必要です。今日の打ち合わせだけでは、影響する範囲を判断できません」

以前の海斗なら、その場で実現すると約束したかもしれない。

今は、持ち帰って確認すると答えた。

それでも、会議は長引いた。

変更する場合の操作方法について、複数の案を求められた。

午後六時半を過ぎても終わらない。

海斗は時計を見た。

水月との電話は九時。

会社から自宅までは四十分ほどかかる。

まだ間に合う。

午後七時二十分、ようやく会議が終わった。

席へ戻ると、黒田が声をかけてきた。

「高瀬君、今日の要望、少し整理できる?」

「明日では駄目ですか」

「先方が明日の朝までに社内で検討したいらしい。簡単なものでいいから」

簡単なもの。

その言葉が、以前と同じ重さを持って海斗へ乗った。

断れば、黒田が作るのだろう。

あるいは西田へ回るかもしれない。

海斗は予定を確認した。

九時の電話。

水月には、七時までに終えると伝えている。

「八時半までならできます」

海斗は答えた。

「それ以降は予定があります」

黒田は少し驚いた顔をした。

「分かった。できる範囲でいい」

海斗は作業を始めた。

画面の案を三つ並べ、それぞれの利点と問題点を書く。

八時十五分。

予定より早く形になった。

黒田へ送ろうとしたとき、一つ目の案に不足があることへ気づいた。

修正する。

八時二十五分。

今度は二つ目の説明が分かりにくく思えた。

少しだけ直す。

八時三十二分。

携帯電話の画面が点灯した。

水月からメールが届いている。

〈今、片づけが終わりました。

九時にお電話します。〉

海斗の指が止まった。

会社を今出ても、自宅へ着くのは九時を過ぎる。

駅から電話することはできる。

だが、人の多い場所で話すのは落ち着かない。

〈すみません。

仕事が長引いています。

九時半でもよいですか。〉

すぐに返信する。

数分後、水月から返事が届いた。

〈分かりました。

九時半に。〉

海斗は資料を仕上げ、八時四十五分に会社を出た。

電車へ乗る。

事故の影響で、列車が途中の駅に止まった。

運転再開の時刻は分からないという案内が流れる。

時計は九時十五分。

海斗は車内から水月へメールを送った。

〈電車が止まりました。

何時に帰れるか分かりません。

今日は電話をやめてもよいでしょうか。〉

返事は、すぐには来なかった。

九時半を過ぎる。

列車は動かない。

水月は、電話を待っているだろう。

約束を二度変更した。

胸の奥に、焦りが広がった。

電話をかけようとして、やめる。

突然かけないという約束がある。

十時前、ようやく水月から返信が届いた。

〈分かりました。

気をつけて帰ってください。〉

短い文章だった。

怒っているようにも、疲れているだけのようにも読める。

海斗は何度も返信を書き直した。

〈ごめんなさい。〉

それだけでは、何について謝っているのか分からない。

〈仕事を断れず、約束を守れませんでした。〉

すべてを仕事のせいにしているように見える。

海斗は文章を消した。

列車が動き出したのは、十時二十分だった。

部屋へ着いたのは十一時を過ぎていた。

水月から新しいメールはない。

海斗は手を洗い、コートを脱いだ。

夕食は取っていない。

だが、今は水月とのことが気になった。

電話をかけたい。

声を聞き、謝りたい。

しかし、遅い時刻だった。

海斗はメールを書いた。

〈水月さん

今日は、待たせてしまい、すみませんでした。

仕事の依頼を八時半までと区切ったところまでは、自分で決めたことでした。

そのあと、資料を直し続けて会社を出るのが遅くなったのは、僕の判断です。

電車が止まったことは予想できませんでしたが、その前に約束の時刻へ間に合わない可能性を伝えられたと思います。

電話を楽しみにしていました。

だからこそ、守れなかったことを、仕方がなかっただけで終わらせたくありません。

明日、話せる時間があれば教えてください。

今夜は、もう休んでください。〉

送信する。

何か食べなければならない。

冷蔵庫には、作り置きのご飯と卵がある。

海斗は雑炊を作った。

火を止めてから卵を入れる。

以前より、柔らかく仕上がった。

食べ終えた頃、水月から返信が届いた。

〈帰れたようで、安心しました。

正直に言うと、九時半まで待っていました。

九時半を過ぎてから、片づけの続きを始めました。

仕事や電車の事情があることは分かります。

でも、何時まで待てばよいのか分からないことが嫌でした。

明日は、夜の営業がありません。

八時なら話せます。〉

海斗は文章を読み、胸が痛んだ。

水月は「大丈夫です」とは書かなかった。

嫌だったことを、そのまま伝えている。

それは海斗にとって、ありがたいことでもあった。

翌日の午後八時。

海斗は机の前へ座り、水月からの着信を待った。

八時ちょうどに、携帯電話が鳴る。

「もしもし」

〈もしもし〉

水月の声は、普段より少し硬かった。

「昨日は、ごめんなさい」

〈メールを読みました〉

「待たせたことを、謝りたい」

〈はい〉

「次から、会社を出る時刻ではなく、帰宅できる時刻が分かってから約束します」

〈それでは、予定を立てにくくありませんか〉

「前日までに電話できそうな日を伝えて、当日は無理だと思った時点で早めに連絡する」

水月は少し黙った。

〈仕事が予定どおりに終わらない日は、またあると思います〉

「あると思う」

〈電話をできないことより、待っている時間の方が苦手です〉

「分かった」

海斗は答えた。

「次は、いつまでに連絡するか決めよう。例えば、約束の一時間前までに」

〈一時間前に分からなければ?〉

「分からないことを、その時点で伝える」

〈できますか〉

「すぐに完璧にはできないかもしれない。でも、やる」

水月が息を吐いた。

〈昨日、電話ができなかったからといって、付き合うことを後悔したわけではありません〉

「僕も、そこまでは思っていない」

海斗は答えたあと、正直に言い直した。

「少しだけ、不安になった」

〈何がですか〉

「水月さんが、また連絡をやめようとするかもしれないと思った」

電話の向こうが静かになった。

〈少し、考えました〉

海斗は言葉を失った。

水月は続けた。

〈でも、今回は、何も言わずにやめないと約束しました〉

「うん」

〈だから、嫌だったことを書きました〉

海斗は目を閉じた。

「ありがとう」

〈感謝されると、不思議です〉

「言ってくれないと、僕は大丈夫だったと思って、また同じことをするかもしれない」

〈では、次も言います〉

「僕も言う」

二人の間にあった硬さが、少しずつほどけた。

その夜の通話は、二十分ほど続いた。

最後には、水月が昼の客からもらった小さな蜜柑の話をし、海斗は会社の近くで鴉に弁当を奪われた人を見た話をした。

大きな答えを出したわけではない。

約束が破られない関係になったわけでもない。

ただ、一度守れなかったあとに、次の約束の仕方を二人で決めた。

一月の終わり、水月から思いがけないメールが届いた。

〈来週、東京へ行けるかもしれません。〉

海斗は昼休みの定食屋で、その文章を読んだ。

思わず立ち上がりかけ、膝をテーブルへぶつけた。

向かいに座っていた西田が驚く。

「どうしたんですか」

「水月さんが、東京へ来るかもしれない」

「よかったですね」

「いつだろう」

「返信すれば分かるでしょう」

海斗は急いで返信を書こうとした。

西田が箸を置く。

「落ち着いてください」

「落ち着いてる」

「顔が全然、落ち着いていません」

海斗は携帯電話を置き、一度水を飲んだ。

それから、返信した。

〈本当ですか。

日が決まっていたら教えてください。

会いたいです。〉

水月からは、夕方になって返事が届いた。

二月最初の月曜日と火曜日。

店の設備点検に合わせ、二日間休業するという。

月曜日の朝に伊根を出て、午後、東京へ着く。

火曜日の夕方には帰路へ就く。

宿は東京駅から少し離れた場所に、自分で予約していた。

海斗は予定表を確認した。

月曜日は仕事がある。

火曜日も休暇を取るのは難しい。

その場で、すべて休もうとはしなかった。

月曜日は定時で仕事を終え、水月と夕食を取る。

火曜日は午前休を申請し、昼まで一緒に過ごす。

自分の都合と水月の予定を、どちらも崩さないよう考えた。

〈月曜日は、六時半頃に会えます。

火曜日は午前中を休めるか、明日確認します。〉

送信すると、水月から返事が来た。

〈仕事を無理に休まなくて構いません。〉

海斗は短く返した。

〈無理ではありません。

僕が一緒に過ごしたいので、相談します。〉

火曜日の午前休は、すぐに承認された。

水月が東京へ来る日、海斗は朝から落ち着かなかった。

午後六時、予定どおり会社を出る。

東京駅ではなく、水月が宿を取ったホテルの最寄り駅で待ち合わせた。

改札の前には、帰宅する会社員が絶えず流れている。

海斗は人の間に、水月の姿を探した。

午後六時二十五分。

改札の向こうに、灰色のコートを着た女性が現れた。

水月だった。

小さな旅行鞄を引き、立ち止まって周囲を見回している。

海斗は手を上げた。

水月が気づく。

表情が、目に見えて緩んだ。

海斗は人の流れを避けながら、彼女のところへ向かった。

「お疲れさま」

「お疲れさまです」

水月は、伊根にいるときより顔がこわばっていた。

「人が多いですね」

「夕方だから」

「皆さん、歩くのが速いです」

「端を歩けば大丈夫」

海斗は水月の旅行鞄へ手を伸ばした。

「持つよ」

「自分で持てます」

「分かってる。でも、持ちたい」

水月は少し迷い、持ち手から手を離した。

「では、お願いします」

海斗が鞄を引く。

大きくはないが、見た目より重い。

「何が入ってるの?」

「着替えと、海斗さんへのものです」

「何?」

「あとで渡します」

ホテルへ荷物を預けたあと、二人は近くの和食店へ入った。

海斗が以前、西田たちと昼食を取ったことのある店だった。

静波のような小さな店ではない。

客席は広く、仕事帰りの人たちで賑わっていた。

奥のテーブル席へ案内される。

水月は献立をじっくり見た。

「何を食べたい?」

海斗が尋ねる。

「海斗さんは、いつも何を食べますか」

「鯖の塩焼き定食」

「では、同じものを」

「東京まで来て、いつもの定食でいいの?」

「海斗さんが普段食べるものを、食べてみたいんです」

二人分の定食を注文した。

料理が運ばれてくる。

水月は、まず味噌汁を一口飲んだ。

「どう?」

「少し味が濃いです」

海斗は笑った。

「料理人に連れてくる店を間違えたかな」

「おいしくないとは言っていません」

水月は焼き鯖へ箸を入れた。

「脂があります。焼き方も悪くありません」

「評価されているみたいだ」

「食べた感想を言っただけです」

水月は、今度は少しだけ笑った。

海斗は、伊根で初めて水月の料理を食べたときのことを思い出した。

料理する水月を見て、自分の職場とは違うと思った。

今は、水月が海斗の日常の中へ来ている。

会社の近くではない。

部屋でもない。

それでも、東京で海斗が何度も食べた定食を、同じテーブルで口にしている。

「水月さん」

「はい」

「来てくれて、ありがとう」

「私が来たかったからです」

「それでも」

水月は箸を置いた。

「伊根へ来てくださったとき、海斗さんは同じことを言いました」

「そうだった?」

「はい。私のために休んだのかと聞いたら、自分で決めたと言いました」

「覚えてる」

「今回も、私が自分で来ると決めました」

水月は海斗をまっすぐ見た。

「だから、お礼を言われるより、会えて嬉しいと言われる方がよいです」

海斗は、少し姿勢を正した。

「会えて、嬉しい」

「私もです」

食事のあと、水月は海斗の住む町を見たいと言った。

「何もないよ」

「伊根へ来た人も、最初はそう言われます」

二人は電車へ乗り、海斗の最寄り駅で降りた。

駅前には、スーパー、薬局、飲食店が並んでいる。

伊根のような景色はない。

車の音と、人の話し声が途切れない。

「ここを、毎日歩くんですね」

水月が言った。

「会社へ行く日は」

「部屋は、どちらですか」

海斗は道路の先を示した。

「あの交差点を曲がって、十分くらい」

「ポトスがある部屋ですね」

「そう」

水月は少し黙った。

海斗は、彼女が以前、部屋には行かないと言ったことを覚えている。

「今日は案内しないよ」

海斗が言うと、水月は眉を寄せた。

「まだ何も言っていません」

「先に言っておく」

以前の会話を返すと、水月が笑った。

二人は海斗の部屋へは向かわず、近くの小さな神社まで歩いた。

住宅の間にある、古い境内だった。

海斗が昼休みに見つけ、以前、水月へ写真を送った場所である。

夜の境内には誰もいなかった。

鳥居の外では車が走っているが、中へ入ると音が少し遠くなる。

「あの写真の場所ですね」

水月が言った。

「覚えてた?」

「何度も見ました」

海斗は水月を見た。

「僕の写真も、何度も見てたんだ」

「風景の写真です」

「祭りの写真と同じだよ」

「違います」

「どう違う?」

水月は答えず、手水舎の前へ歩いた。

海斗は隣へ並ぶ。

「東京へ来て、どう?」

「思っていたより、疲れます」

水月は正直に言った。

「人が多く、音も多いです。駅の案内も、一度では読めませんでした」

「無理して来なくてもよかったのに」

言った瞬間、水月の表情が曇った。

海斗は自分の言葉を聞き直した。

「ごめん。違う」

「何が違うんですか」

「来てくれて嬉しい。でも、疲れているなら、明日の予定を減らそうと言いたかった」

水月はしばらく海斗を見た。

「最初から、そう言ってください」

「はい」

「来なくてもよかったと言われると、来たことを迷惑に思われたように聞こえます」

「迷惑ではない」

海斗ははっきり答えた。

「朝からずっと待ってた」

「仕事中でしょう」

「仕事はした。でも、何度も時計を見た」

水月の表情が、少し柔らかくなる。

「明日は、何か予定を考えていましたか」

「水月さんが行きたいところを聞いてから決めようと思ってた」

「では、人の少ないところがよいです」

「川沿いを歩こうか。平日の午前なら、それほど混まない」

「お願いします」

境内を出る。

ホテルの近くまで戻る電車の中で、二人は並んで座った。

人が乗り込むたび、肩が触れる。

水月は身体を固くしたが、海斗から離れなかった。

駅を降り、ホテルの前へ着く。

午後十時を少し過ぎていた。

水月は旅行鞄から、小さな包みを取り出した。

「これを」

海斗が受け取る。

中には、生成りの布で作られた鍋敷きが入っていた。

紺色の糸で、小さな四角が縫われている。

「水月さんが作ったの?」

「文子さんに教えてもらいました」

「料理だけじゃなく、裁縫もできるんだ」

「よく見てから言ってください」

水月が指差す。

縫い目は、ところどころ曲がっていた。

一部は糸の間隔も揃っていない。

「水月さんにしては、不揃いだ」

「返してください」

「嫌です」

海斗は鍋敷きを胸元へ引いた。

「嬉しい」

「店で余った布です」

「それでも嬉しい」

水月は目を伏せた。

「万年筆のお返しではありません」

「うん」

「海斗さんが鍋を使うときに、敷くものがないと思ったからです」

「使うよ」

「汚れます」

「鍋敷きだからね」

「洗えます」

「大事に使う」

二人はホテルの入口の前で立っていた。

別れる時間だった。

明日の午前に、また会える。

それでも、海斗はこのまま帰りたくなかった。

水月も、すぐには中へ入らない。

「水月さん」

「はい」

「触れてもいい?」

水月の肩が、わずかに動いた。

海斗は続けた。

「手だけではなく」

水月は、海斗の目を見た。

意味は伝わっている。

周囲には、ホテルへ出入りする人がいる。明るい入口の前で話すことではなかったかもしれない。

「ここでは、嫌です」

水月が言った。

海斗はうなずいた。

「分かった」

「嫌というのは……」

水月は言葉を止めた。

「今は、という意味です」

海斗の胸が大きく鳴った。

「場所を変える?」

「海斗さんは、すぐに進めようとしますね」

「ごめん」

「謝らないでください」

水月はホテルの脇へ続く細い歩道を見た。

正面の入口より暗く、人通りは少ない。

自分から、そちらへ数歩進んだ。

海斗もついていく。

建物の灯りは届いているが、通りからは少し外れていた。

水月が足を止める。

海斗は彼女の前へ立った。

「もう一度、聞いてください」

水月が言った。

「触れてもいい?」

「どこに?」

海斗は答えに詰まった。

水月の口元がわずかに緩む。

「今度は、海斗さんが困る番ですね」

「頬に触れてもいいですか」

「はい」

海斗は手袋を外した。

右手を上げ、水月の頬へ触れる。

外気で冷えていた。

水月は逃げなかった。

海斗の手へ、自分の指を重ねる。

「冷たいですね」

「水月さんも」

「その先は?」

水月の声は小さかった。

海斗は息を整えた。

「キスをしてもいい?」

水月は一度、目を伏せた。

それから、小さくうなずいた。

海斗は顔を近づけた。

水月の呼吸が止まる。

急がず、唇を重ねる。

触れたのは、ほんの数秒だった。

離れたあとも、二人は近い距離にいた。

水月の頬は、先ほどより熱くなっている。

「大丈夫?」

海斗が尋ねる。

「その聞き方は、少し変です」

「嫌ではなかった?」

水月は海斗のコートの袖をつかんだ。

「嫌なら、ここへ来ません」

「もう一度は?」

「今日は、一度だけです」

「分かりました」

海斗は笑った。

「何ですか」

「一度は、いいんだと思って」

「明日も会います」

水月は袖から手を離した。

「遅いので、帰ってください」

「はい」

「部屋へ着いたら、連絡を」

「近いよ」

「それでも」

「分かりました」

水月はホテルの入口へ戻った。

自動扉の前で振り返る。

海斗も、その場に立っていた。

「おやすみなさい」

水月が言う。

「おやすみ」

扉が閉じ、水月の姿が見えなくなる。

海斗は自分の唇へ指を触れた。

それから、鍋敷きの入った包みをコートの内側へ入れ、駅へ向かった。

翌朝、二人は川沿いの遊歩道を歩いた。

冬の平日で、人は少なかった。

水月は前日より、少し東京の速さに慣れていた。

それでも、電車が混み始める前にホテルへ戻りたいと言った。

海斗は予定を増やさなかった。

川辺のベンチへ座り、温かい缶の茶を飲む。

水月は、伊根から見える海と、東京の川の違いについて話した。

海斗は、自分の会社が入るビルを遠くから示した。

「今日は行かなくてよいんですか」

「午後から行く」

「本当に、午前だけ休みましたか」

「一日休もうとしたけど、会議があった」

「無理に休まなくてよかったです」

「一緒に過ごしたかったから、午前は休んだ」

水月は缶を両手で包んだ。

「昨日も、そう言いましたね」

「何度でも言うよ」

「多すぎると、軽く聞こえます」

「気をつけます」

昼前、水月を東京駅まで送った。

改札の前で、海斗は次に会える日を尋ねなかった。

水月の店の予定も、海斗の仕事も、まだ分からない。

代わりに言った。

「帰ったら、昨日の写真を送って」

「何の写真ですか」

「水月さんの店。いつも見ているけど、今は見たい」

「分かりました」

「僕も、鍋敷きを使ったら送る」

「使わなくても構いません」

「使うよ」

「汚れても、文句を言わないでください」

「言わない」

新幹線の発車時刻が近づく。

水月は改札へ向かい、途中で振り返った。

人が多く、手を伸ばしても触れられない距離だった。

水月は、胸元で小さく手を振った。

海斗も手を上げた。

彼女の姿が人の向こうへ消えるまで、見送った。

水月の東京訪問から二週間が過ぎた。

海斗は仕事へ戻り、以前と同じ予定をこなしていた。

ただ、机の横の引き出しには、水月が作った鍋敷きの写真が入っている。

実物は、自宅の台所で使っていた。

最初に鍋を置いた日、味噌汁が少しこぼれ、布の端へ染みがついた。

海斗は慌てて洗った。

水月へ写真を送ると、〈使えば汚れます〉とだけ返ってきた。

二月半ばの月曜日。

午前の会議を終えた海斗は、黒田から呼び止められた。

「高瀬君、午後に少し時間ある?」

「三時以降なら」

「三時半に会議室へ来てくれる?」

予定表には、三十分の面談が入れられた。

件名は、〈来期体制について〉。

海斗は画面を見つめた。

来期の担当変更かもしれない。

夜間対応へ戻る話なら、医師と相談する必要がある。

新しいプロジェクトへの異動も考えられる。

午後三時半。

海斗は、小さな会議室へ入った。

黒田はすでに席へ座り、数枚の資料を机へ置いていた。

「急に呼んで悪かったね」

「いえ」

海斗は向かいへ座った。

「体調はどう?」

「以前より安定しています。残業が続いた日は、眠りにくいことがあります」

「通院は?」

「続けています」

黒田はうなずいた。

「無理に聞くつもりはないけど、今の働き方は続けられそう?」

「夜間対応から外れていることと、遅い時間の会議が少ないことは助かっています」

「そうか」

黒田は資料の一枚を海斗の前へ置いた。

組織図だった。

現在の開発チームが、来期から二つのグループへ分かれている。

一方のグループの上に、海斗の名前があった。

「来期から、新しいグループのマネージャーを任せたいと思っている」

海斗は資料を見た。

自分の名前の下には、西田、佐伯を含む七人の名前が並んでいる。

「マネージャー、ですか」

「正式な管理職になる。給与等級も上がる」

黒田は別の書類を示した。

基本給の増額。

役職手当。

評価権限。

採用面接への参加。

部下との一対一の面談。

顧客との調整。

以前の海斗なら、迷わず受けたかもしれない。

三十歳になる前から、次の役職を意識していた。

同期の誰が先にリーダーになったか。

自分の評価が何番目か。

昇給額はいくらか。

人から必要とされていることを、役職や給与で確かめようとしていた。

「どうして、僕なんですか」

海斗は尋ねた。

黒田は少し驚いた顔をした。

「これまでの実績がある。技術面で頼られているし、顧客からの評価も高い」

「体調を崩しました」

「それだけで、これまでの評価がなくなるわけじゃない」

「今も、夜間対応には入れません」

「マネージャーが自分で夜間対応をする必要はない。担当者を決め、状況を管理する立場になる」

海斗は組織図を見た。

担当者を決める。

状況を管理する。

自分でコードを書く時間は減るだろう。

その代わり、チームの遅れや不具合、顧客への説明に責任を持つ。

「最近の高瀬君は、以前より仕事を人へ渡せるようになった」

黒田は言った。

「休暇前の引き継ぎ資料も分かりやすかった。西田さんたちへ任せ、問題なく戻ってきた。管理する側には、何でも自分で抱える人より、その方が向いている」

評価されている。

その言葉を聞けば、嬉しいはずだった。

実際、胸の一部は高揚していた。

自分の働き方を変えたことが、能力の低下ではなく、成長として見られている。

給与も上がる。

役職もつく。

母親へ話せば喜ぶだろう。

大学時代の友人にも、昇進したと言える。

だが、同時に、胃の奥が固くなった。

七人分の仕事を管理する。

顧客との調整が増える。

誰かが遅れれば、海斗が責任を問われる。

午後九時に水月と電話する約束をしていても、部下が困っていれば帰れないかもしれない。

「いつまでに返事が必要ですか」

海斗は尋ねた。

「今月中。できれば二週間以内に」

「役割について、もう少し詳しい資料はありますか」

「用意する」

「残業時間の見込みと、休日や夜間の連絡体制も知りたいです」

黒田の表情がわずかに変わった。

以前の海斗なら、条件を尋ねる前に受けていた。

「夜間連絡は、一次対応の担当から、必要な場合だけマネージャーへ上げる形になる」

「必要な場合の基準は?」

「そこも決める必要があるな」

「今のままでは、すべて僕に連絡が来る可能性があります」

「そうならないように設計する」

「決まってから判断したいです」

海斗は自分の声が震えていないことを確かめた。

「体調について、主治医にも相談します」

黒田は少し黙り、うなずいた。

「分かった。すぐに受けろとは言わない。ただ、会社としては期待している」

「ありがとうございます」

面談を終え、会議室を出る。

自分の席へ戻る途中、足元が少し浮いているように感じた。

昇進。

以前から欲しかったものだった。

逃せば、次はいつになるか分からない。

一度断った人間に、会社がもう一度声をかける保証はない。

受ければ、給与が上がる。

将来の選択肢も増える。

だが、体調を崩す前の働き方へ戻る入口にも見えた。

席へ座ると、西田が海斗の顔を見た。

「黒田部長と、何の話でした?」

「来期の体制」

「異動ですか」

「マネージャーをやらないかと言われた」

西田の手が止まった。

「海斗さんが?」

「そう」

「受けるんですか」

「まだ分からない」

「以前なら、即答していましたね」

「うん」

海斗は組織図を見せた。

西田は自分の名前を確認する。

「私たちの上司になるんですね」

「受ければ」

「嫌です」

海斗は顔を上げた。

西田はすぐに笑った。

「冗談です」

「本気にした」

「半分は本気です。前みたいに、全部自分で確認して、部下の仕事まで取り上げるなら困ります」

「今は、そうしない」

「本当に?」

「たぶん」

「たぶんですか」

「絶対とは言えない」

西田は組織図を机へ置いた。

「でも、今の海斗さんなら、前よりは向いているかもしれません」

「そう思う?」

「断れるようになりましたから」

「まだ失敗するよ」

「マネージャーが失敗しないと思っている方が危ないです」

西田は画面へ視線を戻した。

「ただ、体調のことは、よく考えてください。私たちのために受ける必要はありません」

「分かってる」

「断っても、私たちは海斗さんを責めません」

海斗は答えられなかった。

責められないと分かっても、自分で自分を責める可能性がある。

午後七時、海斗は会社を出た。

水月との電話の約束は、九時だった。

帰宅し、夕食を作る。

片手鍋で白菜と豆腐を煮た。

鍋敷きの上へ置き、食べる。

九時になる前に、水月からメールが届いた。

〈今、話せます。〉

海斗は電話をかけた。

「もしもし」

〈もしもし〉

水月の声の向こうで、風の音がした。

「外にいる?」

〈店の戸締まりをしたところです。今、二階へ上がります〉

階段を上る足音が聞こえる。

やがて、戸が閉まる音がした。

〈お待たせしました〉

「ううん」

〈今日は、何かありましたか〉

水月は、海斗の声から違いを感じたらしい。

「どうして?」

〈少し、話し方が硬いです〉

海斗は鍋敷きへ目を向けた。

「昇進の話をされた」

電話の向こうが静かになった。

〈昇進ですか〉

「来期から、七人のグループのマネージャーにならないかって」

〈おめでとうございます〉

反射的な言葉に聞こえた。

水月自身も、すぐに言い直した。

〈まだ、受けると決めていないんですね〉

「うん」

〈では、おめでとうと言うのは早かったですね〉

「打診されたことは、嬉しい」

海斗は正直に答えた。

「前の僕なら、ずっと望んでいたことだから」

〈今の海斗さんは?〉

「分からない」

海斗は机の上の資料を見た。

「給与は上がる。役職もつく。技術者としても、次の段階だと思う」

〈断ったら、後悔しますか〉

「するかもしれない」

〈受けたら?〉

「それも、後悔するかもしれない」

水月は答えを急がなかった。

海斗は、電話の向こうの静けさを待った。

〈怖いのは、何ですか〉

やがて水月が尋ねた。

「また、眠れなくなること」

海斗は言った。

「七人の仕事に責任を持ったら、誰かが困るたびに、自分が何とかしなければならないと思うかもしれない」

〈今も、そう思いますか〉

「思う。でも、前よりは人へ任せられる」

〈なら、受けたい気持ちもあるんですね〉

「ある」

認めた瞬間、胸が苦しくなった。

「受けたいと思う自分が、怖い」

〈どうして?〉

「また、同じことを繰り返すかもしれないから」

水月はしばらく黙った。

〈私は、料理を続けたいと思うことが、怖かったです〉

「料亭を辞めたあと?」

〈はい。また誰かに取られるかもしれない。自分の味が分からなくなるかもしれない。それでも、料理をしたいと思いました〉

水月の声は静かだった。

〈怖いことと、したくないことは、同じではありませんでした〉

海斗は、その言葉を聞いた。

すぐに自分の答えへ当てはめそうになり、やめる。

水月も、同じ選択を勧めているわけではない。

「水月さんは、受けた方がいいと思う?」

〈私に決めさせないでください〉

即座に返され、海斗は息を止めた。

〈受けてほしいと言えば、苦しくなったとき、私が勧めたからだと思うかもしれません〉

「そんなことは」

〈絶対に思わないと言えますか〉

海斗は言葉を失った。

自分では責任を押しつけないつもりでも、弱ったときに、あの人が勧めたからと考えるかもしれない。

「言えない」

〈私も、断ってほしいとは言いません〉

水月は続けた。

〈昇進すれば、今より会う時間が減るかもしれません。電話の約束を守れない日も増えるかもしれない。それは嫌です〉

水月が、嫌だとはっきり言った。

海斗は胸が痛みながらも、その正直さに安堵した。

〈でも、私と会う時間を作るためだけに断られるのも、嫌です〉

「分かった」

〈本当に?〉

「完全には分からない。でも、水月さんに答えを出してもらおうとしたことは分かった」

海斗は資料の端へ手を置いた。

「ごめん」

〈はい〉

水月は謝罪をそのまま受け取った。

〈仕事の内容を、詳しく聞いてもよいですか〉

「うん」

海斗は、黒田から渡された資料を見ながら説明した。

七人の部下。

顧客との調整。

評価面談。

採用。

夜間連絡の可能性。

給与の増額。

まだ決まっていない部分。

水月は、途中で結論を言わなかった。

〈今の仕事で、好きな部分は何ですか〉

「問題の原因を見つけること。誰かが困っていることを、仕組みで解決すること」

〈管理する仕事になっても、できますか〉

「できると思う。でも、自分で作る時間は減る」

〈嫌な部分は?〉

「期限を守るために、現場の負担を見えないことにするところ」

〈海斗さんがマネージャーになれば、変えられますか〉

海斗は考えた。

「少しは。でも、会社全体を変えられるわけではない」

〈少しを変えたいですか〉

「分からない」

今夜、何度目かの言葉だった。

水月は、分からないことを責めなかった。

〈返事は、いつまでですか〉

「二週間以内」

〈なら、今夜決めなくてもよいのではありませんか〉

「そうだね」

〈主治医の先生にも、相談するのでしょう〉

「うん」

〈仕事内容の詳しい資料も、まだない〉

「そう」

〈では、今夜できることは、夕食を食べて寝ることです〉

海斗は、鍋敷きの上の空になった鍋を見た。

「もう食べた」

〈何を?〉

「白菜と豆腐を煮た。水月さんの鍋敷きを使った」

〈汚れましたか〉

「少し」

〈なら、きちんと使っていますね〉

水月の声が、少し柔らかくなった。

「水月さん」

〈はい〉

「会いたい」

言葉が自然に出た。

〈私もです〉

「今すぐ伊根へ行きたい」

〈それは困ります〉

水月は答えた。

〈明日は仕事でしょう〉

「分かってる」

〈それに、今来ても、昇進の答えは出ません〉

「答えを出すために会いたいんじゃない」

〈では、何のためですか〉

「顔を見たい。手をつなぎたい」

電話の向こうが静かになる。

海斗は、言いすぎたかと思った。

やがて、水月が小さく言った。

〈私も、同じです〉

その一言で、海斗の肩から力が抜けた。

〈でも、今夜は来ないでください〉

「行かないよ」

〈次に会える日を、明日から考えましょう〉

「うん」

〈昇進のこととは、分けて考えてください〉

「分かった」

通話を終えたあと、海斗は机の上の組織図を見た。

自分の名前の下に、七人の名前が並んでいる。

以前なら、その図を成功の証明として見ただろう。

今は、七人それぞれの仕事と生活があることを考えた。

西田には、西田の予定がある。

佐伯にも、会社を出たあとに戻る場所がある。

海斗が管理するのは、彼らの時間すべてではない。

同時に、海斗の時間すべてが会社のものになるわけでもない。

その働き方を、本当にこの会社で作れるのか。

答えは、まだ出なかった。

翌日、黒田から新しい資料が届いた。

予定される会議。

月ごとの管理業務。

夜間連絡の基準案。

年間の評価目標。

海斗は一つずつ読み始めた。

資料の最後に、想定される労働時間が記されている。

月平均二十時間程度の残業。

繁忙期は四十五時間以内。

休日対応は、四半期に一、二回。

数字だけを見れば、以前より少ない。

だが、海斗は、自分が倒れる前にも似た数字を見たことを思い出した。

予定と、実際に起きることは違う。

海斗は新しいノートを開いた。

受ける理由。

断る理由。

確認すること。

三つの欄を作る。

受ける理由には、給与、経験、チームの働き方を変えられる可能性と書いた。

断る理由には、再発への不安、管理業務への関心がまだ分からないこと、長時間労働へ戻る可能性と書いた。

確認することには、夜間連絡の上限、代行者の配置、休暇中の連絡ルール、管理職になったあとの通院継続と書いた。

最後の欄へ、もう一つ加える。

自分が本当に続けたい仕事は何か。

書いたあと、海斗は万年筆を置いた。

水月から届いた朝の写真を開く。

冬の海は、前日より水位が高かった。

岸壁近くまで水が届き、係留された舟がゆっくり持ち上がっている。

〈今日は満潮が近く、水が高いです。

風はありません。

昨日の話は、急いで決めなくてよいと思います。〉

海斗は写真を拡大した。

水が増えても、舟屋は同じ場所に立っている。

だが、舟と岸との高さは変わっている。

海斗は返信した。

〈資料を読み、受ける理由と断る理由を書き出しました。

まだ答えは出ていません。

今夜は、決めません。〉

水月から返事が来た。

〈分かりました。

決めていないことを、決めていないまま知らせてくださって、ありがとうございます。〉

海斗は、その一文を読んだ。

以前なら、途中の状態を誰かへ見せることはなかった。

答えが出てから報告した。

迷っている姿を見せれば、能力がないと思われる気がした。

今は、決めていないと言える相手がいる。

それは答えを与えてもらうこととは違う。

迷っている時間を、一人で隠さなくてもよいということだった。

海斗はノートを閉じた。

二週間後、どちらを選ぶのかは、まだ分からない。

ただ、昇進を受けることが前進で、断ることが後退だとは、もう思わなかった。

自分がどこで、何をして、どのように暮らしたいのか。

役職の名前より先に、考えなければならないことがあった。

窓際のポトスを見る。

新しく開いた葉は、古い葉より色が薄い。

柔らかく、まだ形も整っていない。

海斗は土へ指を入れた。

表面は乾いているが、少し下には湿り気が残っていた。

水差しへ手を伸ばさず、そのままにする。

机の上には、黒田から渡された昇進の資料がある。

その隣には、水月が縫った不揃いな鍋敷きが置いてある。

どちらも、海斗のこれからに関わるものだった。

一方を選べば、もう一方を失うとは限らない。

だが、何も失わず、何も変えずに、すべてを手に入れられるわけでもない。

海斗は椅子へ座り直し、ノートをもう一度開いた。

新しい頁の最初に、問いを書いた。

〈僕は、昇進したいのか。それとも、昇進を断れないだけなのか。〉

書いた文字を、長い間見つめた。

答えはまだ、空白のままだった。


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