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『静波の寄せる場所』  作者: 久遠 睦


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第13章 海に向かいて

海斗は、ノートの最後に書いた一文を、三日間消せずにいた。

〈僕は、昇進したいのか。それとも、昇進を断れないだけなのか〉

答えは出ているようにも思えた。

管理職になりたいわけではない。

人を育てることが嫌なのではなかった。西田に技術を教え、佐伯の相談に乗る時間は好きだった。誰かができなかったことをできるようになる。その過程へ関われることには、今も喜びを感じる。

だが、黒田から示された役割は、それだけではなかった。

七人分の進捗を背負う。

顧客と納期を調整する。

障害が起きれば、夜間でも判断を求められる。

上から下りてきた期限と、現場で働く人間の限界の間に立つ。

以前の海斗なら、それも仕事の一部だと受け入れていただろう。

受け入れられることと、望んでいることを、同じものだと思っていた。

月曜日の午後、海斗は半休を取り、クリニックへ向かった。

待合室の窓際には、冬の陽が細長く落ちていた。暖房の風に揺れる観葉植物を眺めながら、膝の上のノートを開く。

質問を書いたページには、黒い文字が並んでいた。

管理職になると再び体調を崩すのか。

今の会社を辞めるべきなのか。

環境を変えることは逃げなのか。

伊根へ移ることを考えてよいのか。

最後の質問だけ、ほかより小さな字で書いてあった。

名前を呼ばれ、診察室へ入る。

医師は前回の受診以降の睡眠や食欲について尋ねた。

「眠れる日は増えました。食事も取れています」

「仕事中に文章が頭へ入らなくなることは?」

「今はほとんどありません。ただ、急な連絡が重なると、少し息苦しくなることがあります」

「そのときは、どうしていますか」

「一度、席を離れます。西田さんにも、声をかけてもらうようにしています」

医師は記録を取りながらうなずいた。

海斗はノートを開いたまま、切り出す機会を待った。

「ほかに、気になっていることがありますか」

尋ねられ、海斗は姿勢を正した。

「会社から、昇進の話を受けています」

「どんな役割ですか」

海斗は、黒田から聞いた内容を説明した。

七人ほどのグループをまとめること。顧客との調整や評価にも関わること。夜間の連絡を完全には避けられないこと。

「それを受けたら、また悪くなるでしょうか」

医師はすぐには答えなかった。

「昇進した人が体調を崩すとは限りません。役職の名前だけで判断はできないでしょう。業務量、裁量、支援する人がいるか、休める仕組みがあるか。そうした条件で負担は変わります」

「では、条件を整えれば受けてもいいんでしょうか」

「受けたいのですか」

海斗は言葉を止めた。

聞き返される可能性を、考えていなかった。

「評価されたことは、嬉しかったです」

「役割そのものをやりたいかではなく?」

「……分かりません」

医師は机の上で手を組んだ。

「昇進を断ると、何を失うと思いますか」

「期待でしょうか」

「誰からの?」

「上司や、会社からの」

「それを失うことが怖い?」

海斗はうなずいた。

昇進を受けなければ、自分は成長を望まない人間だと思われるかもしれない。体調を崩したために任せられない人間だと判断されるかもしれない。

同期や後輩に追い越される。

給与も、肩書も、会社の中での発言力も変わらない。

だが、七人をまとめる仕事をしている自分を想像すると、胸の奥が沈んだ。

「期待されることと、その仕事を望むことは別です」

医師が言った。

「断るか受けるかを、病気だけで決める必要はありません。体調を理由に避けるのではなく、自分がしたい仕事かどうかで考えてもいいと思います」

「したい仕事……」

「今の会社を続けるかどうかも同じです。辞めれば治る、残れば悪くなると単純には言えません。場所を変えても、同じ働き方を選べば、同じことが起きる可能性はあります」

海斗はノートへ目を落とした。

伊根へ行けば、すべてが変わるような気持ちが、どこかにあった。

朝には舟の音が聞こえ、温かい料理を作る人がいて、夜には海が暗くなる。

けれど、そこで東京と同じように仕事を抱え、断れず、眠る時間を削れば、住む場所が変わるだけだった。

「住む場所を変えることも考えています」

海斗は言った。

「交際している人が、京都の北にいます」

「その人と暮らすためですか」

「それは、まだ考えていません。向こうからも、僕のために仕事を辞めないでほしいと言われています」

「では、なぜ移りたいのでしょう」

海斗は返事を探した。

水月の近くにいたい。

それは間違いなかった。

毎晩ではなくても、同じ町の空を見て、一時間の通話ではなく、顔を見て話せる距離にいたい。

けれど、それだけではなかった。

東京へ戻ってから、海斗は以前と同じ景色を以前と同じようには見られなくなっていた。

人の流れに合わせて歩き、満員電車へ乗り、昼食を机で済ませる。一日は予定表の色で区切られ、空の明るさを知らないまま夜になる。

それが悪いのではない。

その暮らしを選び、充実している人もいる。

海斗自身も、長い間、その速さの中で生きることを望んでいた。

今は、違う場所で暮らしてみたいと思っていた。

海が見たいからではない。仕事を捨てたいからでもない。

自分の時間が、誰のものなのかを確かめられる生活がしたかった。

「その町で、自分がどう暮らすのかを考えたいんです」

海斗は答えた。

「彼女がいなかったとしても、同じ町を選ぶかは分かりません。でも、今の暮らしを続けたいとは思っていません」

「その二つは、分けて考えた方がよいでしょう」

医師は言った。

「誰かの近くへ行きたいという気持ちと、自分の生活を変えたいという気持ち。どちらも本当かもしれません。ただ、一つに重ねると、何かあったときに相手へ責任を負わせてしまいます」

診察室を出たあと、海斗は近くの喫茶店へ入った。

窓際の席でコーヒーを頼み、ノートを開く。

新しいページを二つに分けた。

左側に、〈水月〉と書く。

右側に、〈自分の生活〉と書いた。

左側には、近くで暮らしたい、食事をしたい、会話を途中で切らずにいたい、と書いた。

右側には、通勤を減らしたい、開発の仕事を続けたい、夜間対応をしない、住む場所を自分で選びたい、生活費を下げたい、と書いた。

書き終えてから、両方の欄を見た。

水月がいなければ、伊根を選ばなかったかもしれない。

けれど、水月だけを理由に今の生活を手放すわけでもなかった。

その週の木曜日、海斗は黒田へ昇進について話す時間を求めた。

会議室へ入ると、黒田は資料を机へ置いた。

「結論は出た?」

「その前に、いくつか確認させてください」

海斗は用意してきた質問を一つずつ尋ねた。

夜間障害が発生した場合、管理職以外に判断を代行できる人はいるのか。

七人のうち複数が同時に休んだ場合、納期を変更する権限があるのか。

顧客から追加要望が出たとき、作業量に応じて公開日を調整できるのか。

管理職の平均残業時間はどの程度か。

黒田は最初、明確に答えようとしていた。

だが、質問が続くにつれて、言葉の間が長くなった。

「夜間については、当番制を整える予定だ。ただ、責任者には連絡が入ると思う」

「判断をほかの管理職へ任せることはできますか」

「状況による。担当サービスのことを一番知っている人間が判断するのが早いから」

「納期を変更する権限は?」

「顧客との契約がある。こちらだけでは決められない」

「現場の人数が足りない場合は?」

「増員を申請するか、優先順位を変える。ただ、すぐに人が入るとは限らない」

黒田は椅子の背へ身体を預けた。

「慎重になるのは分かる。以前と同じ働き方をさせるつもりはないよ」

「以前と同じにしないための仕組みは、ありますか」

黒田は黙った。

海斗は責めたいわけではなかった。

黒田も、会社の中で決められた納期と予算の間に立っている。人を増やしたくても承認が下りず、顧客へ延期を申し入れても受け入れられないことがある。

海斗が限界に達した夜、黒田が腕時計を見ながら話を聞いたことを、今も忘れてはいなかった。

だが、黒田一人を悪者にすることもできなかった。

誰かが無理をすれば間に合う仕組みを、全員が少しずつ受け入れてきた。

自分も、その一人だった。

「昇進のお話は、辞退します」

海斗は言った。

声は震えなかった。

「管理する仕事に自信がないからではありません。今の僕がやりたいのは、開発の仕事です。人の評価や顧客との調整を中心にする役割は、望んでいません」

黒田はしばらく海斗を見ていた。

「体調が理由ではない、と?」

「体調を崩したことで考えるきっかけにはなりました。でも、それだけではありません」

「給与も上がる。今後、別の役職を目指すときにも有利になる」

「分かっています」

「一度断れば、次に同じ話があるとは限らないよ」

その言葉を聞いた瞬間、海斗の胸が反応した。

断れば、次はない。

機会を逃す。

後悔するかもしれない。

喉の奥から、「もう一度考えます」という言葉が出かかった。

海斗は息を吐いた。

机の上へ置いた手を見た。

「それでも、辞退します」

黒田は小さく息をついた。

「分かった。無理に受けさせることはできない。今までどおり、開発担当として続けてもらう」

「ありがとうございます」

会議室を出ると、足から力が抜けた。

廊下の突き当たりにある非常階段へ入り、踊り場へ座る。

嬉しいのか、悲しいのか分からなかった。

以前の自分が欲しかったものを、自分の手で断った。

胸の奥には安堵があった。同時に、長い列から一人だけ外へ出たような心細さもあった。

携帯電話を取り出し、水月へ連絡しようとした。

だが、画面を開いたところでやめた。

昇進を断った報告をして、彼女から正しかったと言ってもらいたいのかもしれない。

自分で決めたはずなのに、すぐ誰かの承認を求めようとしている。

海斗は携帯電話をポケットへ戻した。

その夜、水月から電話がかかってきたとき、海斗はようやく話した。

〈昇進、断った〉

水月は数秒黙った。

〈そう〉

〈それだけ?〉

〈おめでとうと言った方がいい?〉

〈いや。僕も、めでたいのか分からない〉

〈なら、今は分からないままでいいんじゃない〉

海斗は笑った。

〈断って、少し安心した。でも、怖くもなった〉

〈何が?〉

〈このまま会社にいていいのか、分からなくなった〉

水月の声が少し低くなった。

〈昇進を断ったことと、会社を辞めることは別でしょう〉

〈分かってる〉

〈分かっている声に聞こえない〉

海斗は返事をしなかった。

水月は、その沈黙から何かを察したらしい。

〈伊根へ来ることを考えてる?〉

問いかけは、驚きより警戒に近かった。

〈考えてる〉

〈私のために?〉

〈それだけじゃない〉

〈それだけじゃない、は、それも入ってるということでしょう〉

〈入ってるよ〉

否定することはできなかった。

電話の向こうで、何かを置く音がした。水月は閉店後の店にいるらしい。

〈海斗〉

〈うん〉

〈前に約束したこと、覚えてる?〉

〈覚えてる。勢いで仕事を辞めない。伊根を逃げ場所にしない〉

〈今は、勢いじゃないの?〉

海斗は答えに詰まった。

昇進を断ったばかりだった。その日に移住の話をすれば、勢いだと思われても仕方がない。

〈だから、すぐには決めない。仕事も、住む場所も調べる〉

〈調べて、条件が揃ったら来るの?〉

〈まだ分からない〉

〈私は、喜んで待っていればいいの?〉

水月の声には、苛立ちが混じっていた。

海斗は思わず言った。

〈喜んでくれないの?〉

口にした瞬間、間違えたと分かった。

長い沈黙が落ちた。

〈そういう言い方をするなら、来てほしくない〉

「水月」

思わず、声に出た。

〈私が喜ぶから来るの? 私が喜ばなかったら来ないの?〉

〈違う〉

〈なら、私に答えを求めないで〉

通話が切れた。

海斗は暗くなった画面を見つめた。

水月の近くへ行きたいと伝えれば、彼女も同じように喜ぶと思っていた。

自分は東京から仕事を手放し、遠い町へ移る。

その大きな選択を、愛情の証明のように考えていたのかもしれない。

だが、それは受け取る側にとって、重さにもなる。

伊根での生活がうまくいかなければ。

仕事が続かなければ。

二人の関係が変われば。

海斗が捨てたものの責任を、水月が背負うことになる。

翌朝、海斗は水月へ短いメッセージを送った。

〈昨日はごめん。水月の反応を、僕の決断の正しさに使おうとした。調べて、自分で決める。決める前に、もう一度話をさせてください〉

返信は夕方に届いた。

〈分かりました。私も言い方が強かった。調べたことを聞かせてください〉

海斗はその文章を読み、ノートを開いた。

最初に書いたのは、現在の生活費だった。

手取り収入。

家賃。

光熱費。

食費。

通信費。

医療費。

保険料。

交通費。

自分が一か月にいくら使っているのか、正確に計算したのは初めてだった。

東京の部屋の家賃は、管理費を含めて十一万二千円。

食事の多くを外で済ませていた頃は、食費だけで月に七万円近く使っていた。休職後は減ったものの、家賃や光熱費を含めると、毎月二十三万円ほどかかっている。

預金口座と積立を合わせると、貯蓄は五百八十万円あった。

一年前なら、十分な金額だと思っただろう。

しかし、仕事を変え、引っ越しをするなら、安心できるほど多くはない。

海斗は求人情報を探し始めた。

条件は、完全な遠隔勤務が可能であること。

開発の仕事を続けられること。

夜間の障害対応が当番制で、頻度が明示されていること。

管理職を前提としないこと。

勤務時間と残業時間が公開されていること。

最初の数日は、条件に合う会社がいくつもあるように見えた。

だが、詳しく読むと、月に数回の東京出社が必要だったり、緊急時には深夜対応があったりした。完全な遠隔勤務と書かれていても、居住地域が首都圏に限られている会社もあった。

応募できそうな会社を見つけても、画面の前で手が止まった。

今の会社では十年近く働いている。

その経歴が、ほかの会社で通用するのか分からなかった。

履歴書には、携わったサービスや役割を書ける。だが、業務の多くは社内固有の仕組みに依存していた。自分が価値のある技術者なのではなく、長くいるために詳しいだけではないかという不安があった。

隆也へ相談すると、その日の夜に電話がかかってきた。

〈履歴書、送ってみろよ〉

「まだ途中なんだ」

〈途中だから見るんだろ〉

海斗は作成中の書類を送った。

十分後、隆也から再び電話がかかってきた。

〈お前、何で全部“担当しました”で終わってるんだよ〉

「事実だから」

〈何人のチームで、何を改善して、結果がどうなったのかを書け。面接する側は、お前の会社の事情なんか知らないんだから〉

「数字を出せないものもある」

〈出せる範囲でいい。あと、後輩の育成も書け〉

「管理職にはなりたくないんだけど」

〈育成ができることと、管理職になりたいことは別だろ〉

医師と同じようなことを言われ、海斗は黙った。

隆也は続けた。

〈それで、伊根に引っ越すのか〉

「まだ決めてない」

〈水月さんと暮らす?〉

「暮らさない。少なくとも、最初は」

〈それは正解だと思う〉

「どうして」

〈東京の仕事を辞めて、知らない町へ移って、その日から同居まで始めたら、変わるものが多すぎる。何が原因で疲れてるのか分からなくなるぞ〉

海斗はノートへ、〈別居〉と書いた。

〈水月さんは、来てほしいって?〉

「簡単には言わない」

〈いい人だな〉

「普通、恋人が近くへ来るなら喜ばないか」

〈喜ぶのと、責任を持てるのは別だろ〉

隆也の言葉に、海斗は返せなかった。

海斗は履歴書を書き直し、四社へ応募した。

一社目は、書類で落ちた。

二社目は一次面接まで進んだが、月に二度の東京出社が必要だと分かった。伊根から毎月往復する交通費と時間を考え、海斗から辞退した。

三社目では、面接官から将来的な管理職への希望を尋ねられた。

「今は、専門職として開発へ関わりたいと考えています」

そう答えると、面接官は「年齢的には、次の段階も考えた方がいい」と言った。

数日後、不採用の通知が届いた。

四社目は、大阪に本社を置くアトリオシステムズという会社だった。

地方の企業向けに、在庫や物流を管理するサービスを開発している。社員の多くが遠隔勤務で、北海道や九州から働く人もいた。

一次面接で、採用担当者は海斗が休職した経緯を尋ねなかった。

代わりに、前の職場で困った仕事と、そのとき誰へ助けを求めたかを聞いた。

海斗は答えに迷った。

「以前は、助けを求めることが得意ではありませんでした」

「今はどうですか」

「自分だけで判断しないようにしています。期限と作業量を共有し、難しい場合は、早い段階で相談します」

「それは、何かきっかけがあったのでしょうか」

海斗は、深夜の障害対応について話した。

体調の詳細までは伝えなかったが、一人で抱えた結果、判断が遅れ、同僚に代わってもらったことを説明した。

「失敗した経験なんですね」

面接官が言った。

「はい」

「では、同じ状況になったら、今度はどうしますか」

「修正の前に、対応する人数を増やします。復旧時刻を自分だけで約束せず、分かっていることと分からないことを分けて伝えます」

答えながら、海斗はあの夜を思い出していた。

黒田へ三十分以内と送ったこと。

西田に助けられたこと。

失敗を隠さず話せるようになるまで、半年近くかかった。

二次面接では、開発責任者から夜間対応について説明があった。

障害当番は六週間に一度。

夜間に通知が入る可能性はあるが、一次対応は外部の監視会社が行う。担当者が一人で本番環境を変更することは禁止され、必ず二人以上で対応する。

月の平均残業時間は十二時間。

午前十時から午後三時までが共通勤務時間で、それ以外は調整できる。

試用期間は三か月。

年収は、現在より約百万円下がる。

最終面接の一週間後、採用通知が届いた。

海斗は画面に表示された条件を、何度も読み返した。

嬉しさより先に、不安が来た。

年収が下がる。

新しい人間関係になる。

試用期間中に合わないと判断されるかもしれない。

遠隔勤務ができても、伊根で通信環境が確保できるとは限らない。

海斗はすぐには承諾しなかった。

返答期限まで一週間あった。

まず、月ごとの収支を計算した。

提示された給与で、税金や社会保険を差し引いた手取りを概算する。伊根で家賃五万円程度の部屋を借りた場合、光熱費と食費を含めても、東京より毎月五万円ほど支出を抑えられる。

ただし、車が必要になる可能性がある。

中古車の購入費、保険、駐車場、燃料代。

引っ越し費用。

新しい部屋の敷金と家財。

仕事用の机と椅子。

インターネット回線の工事費。

すべてを加えると、最初の一年で百万円以上かかる可能性があった。

海斗は、生活費一年分として三百万円を残すと決めた。

引っ越しと車に使えるのは、百五十万円まで。

それを超えるなら、移住の時期を遅らせる。

計算をしたからといって、不安が消えるわけではなかった。

だが、分からないことの形は見えてきた。

次に、伊根で暮らすための条件を調べた。

買い物。

病院。

交通。

冬の雪。

暖房。

ごみの分別。

携帯電話の電波。

光回線を引ける地域。

宮下へ連絡すると、翌日、詳しい返信が届いた。

〈町内でも回線状況は場所によって違います。空き家はありますが、住める状態のものは少ないです。観光客として来るのと、暮らすのはかなり違います。一度、物件を見に来た方がいいと思います〉

その末尾には、候補となる家が二軒あると書かれていた。

一軒は、静波から歩いて十五分ほどの場所にある二間の家。

もう一軒は、伊根から離れた地区にある集合住宅だった。

海斗は資料を印刷し、机へ並べた。

その夜、水月へ電話をかけた。

〈今、話せる?〉

〈大丈夫〉

声は普段どおりだった。

海斗は、昇進を断ったあとに行ったことを順番に話した。

求人を探したこと。

四社へ応募し、二社から断られ、一社を辞退したこと。

遠隔勤務ができる会社から採用通知を受けたこと。

給与が下がること。

貯蓄と生活費を計算したこと。

別の家を借りるつもりであること。

水月は、途中で口を挟まなかった。

話し終えると、尋ねた。

〈その会社に決めたの?〉

〈まだ返事はしてない〉

〈今の会社に残る選択は?〉

〈ある。昇進を断っても、開発担当として続けられる〉

〈それでも辞めたい?〉

海斗はノートを見た。

そこには、今の会社へ残る場合の利点も書いてあった。

慣れた仕事。

高い給与。

知っている同僚。

安定した立場。

退職金。

それらを失うことは、怖かった。

「辞めたい」

口に出すと、自分の声が部屋へ落ちた。

〈どうして?〉

「今の会社が嫌いだからじゃない。助けてもらったし、学んだことも多い。でも、あの会社で働き続けると、僕はまた期待に応えようとする。今度は断れるかもしれないけど、同じ速さの中に戻りたいとは思わない」

〈新しい会社なら、同じことをしないと言い切れる?〉

「言い切れない」

〈伊根へ来たら変われる?〉

「それも、分からない」

〈分からないことばかりね〉

「うん」

海斗は一度、息を吐いた。

「だから、水月に約束してほしいことがある」

〈私に?〉

「僕が無理をしていたら、止めてほしい、じゃない」

水月は黙って続きを待った。

「僕が伊根へ移っても、静波の仕事を手伝う前提にしないでほしい。忙しそうでも、頼まれていないことを勝手にやらない。水月も、僕が近くにいるから頼らなきゃいけないと思わないでほしい」

〈それは、私より海斗の方が守れなさそう〉

「そう思う」

〈思うだけ?〉

「紙に書いておく」

電話の向こうで、水月が少し笑った。

海斗は続けた。

「一緒には住まない。まず、自分の家を借りる。生活費も別にする」

〈私がそうしてほしいと言ったら、傷つく?〉

「少しは」

〈正直ね〉

「でも、その方がいいと思ってる。引っ越してすぐ、仕事も町も生活も全部一緒にしたくない」

水月の呼吸が、受話器越しに聞こえた。

〈もし、私たちが別れたら?〉

尋ねられると分かっていた。

それでも、胸の奥が痛んだ。

「その可能性も考えた」

〈考えて、どうしたの〉

「別れても、移ったことを水月のせいにはしない。新しい会社の仕事を続けられるなら、伊根に残るか、別の町へ移るか、自分で決める。僕が辞める会社も、選ぶ仕事も、借りる家も、全部僕の責任にする」

〈言葉で言うのは簡単よ〉

「分かってる」

〈本当に?〉

水月の声は厳しかった。

〈冬は暗くなるのが早い。風が強い日は、外へ出るのも嫌になる。店は早く閉まるし、欲しいものがすぐに買えるわけでもない。病院へ行くにも時間がかかる。町の人は親切だけど、誰がどこから来たか、すぐに知られる。海斗が思っているほど、きれいなことばかりじゃない〉

「うん」

〈車がなければ不便よ〉

「買う費用を計算した」

〈雪道を運転したことは?〉

「ない」

〈魚が好きでも、毎日魚を食べるわけじゃない〉

「それは分かってる」

〈分かってない顔が浮かぶ〉

海斗は苦笑した。

「来月、家を見に行く。仕事をする時間帯の通信速度も確かめる。買い物と病院への道も見てくる。無理だと思ったら、伊根の外も探す」

〈そこまでしても、来たい?〉

「来たい」

今度は迷わなかった。

「水月の近くにいたい。でも、それだけじゃなくて、そこで暮らすことを自分で選んでみたい」

水月は長い間、何も言わなかった。

やがて、小さな声が返ってきた。

〈私は、まだ歓迎すると言えない〉

海斗の胸が沈んだ。

〈海斗が来たら嬉しい。でも、嬉しいと言ったせいで、あなたが無理をするのが怖い〉

「分かった」

〈それでも来ると決めたら、そのときは教えて〉

「うん」

〈決める前に、家を見に来て〉

「行く」

通話を終えたあと、海斗は採用通知の画面を開いた。

返答欄へ指を置く。

すぐには押さなかった。

もう一度、給与と勤務条件を読む。

試用期間。

遠隔勤務。

夜間当番。

入社予定日。

今の会社を辞めるための期間。

すべてを確認してから、承諾のボタンを押した。

画面に、〈ご回答を受け付けました〉と表示された。

大きな音はしなかった。

部屋も、景色も変わらなかった。

それでも、海斗はしばらく椅子から立てなかった。

三月半ば、海斗は再び伊根を訪れた。

観光ではなく、住む場所を見るために降りた停留所は、以前より小さく見えた。

空は曇り、海は鉛色だった。

風が強く、舟屋の間を抜けるたびに、鞄が身体へぶつかった。道の端には、先週降った雪が黒く固まって残っている。

晴れた日の写真とは、まるで違う町だった。

宮下が軽自動車で迎えに来た。

「寒かったでしょう」

「思っていたより風が強いです」

「今日はまだましですよ」

宮下は笑い、最初の物件へ案内した。

静波から歩いて十五分ほどの二間の家は、海へ続く細い路地の途中にあった。

持ち主は高齢の女性で、今は宮津に住む娘の家へ移っているという。

玄関の引き戸は重く、宮下が肩を入れるようにして開けた。

中には、畳の部屋が二つと、小さな台所があった。

風呂は新しくなっていたが、脱衣所は狭い。窓の隙間から冷気が入り、床板を踏むと少し沈んだ。

「暖房は、これだけですか」

海斗が古いエアコンを指すと、宮下は首を振った。

「冬は灯油のストーブがないと厳しいです。結露もします」

「光回線は?」

「前の方は使っていませんでした。道路までは来ているので、工事ができるか確認中です」

海斗は携帯電話を取り出し、電波の強さを見た。

窓際ではつながるが、奥の部屋では弱くなる。

家賃は四万八千円。

駐車場は、少し離れた場所に月三千円で借りられる。

「静波から近いですね」

宮下が言った。

「はい」

近い。

それが魅力であり、同時に不安でもあった。

歩けば十五分で会える。

だからこそ、毎日行ってしまうかもしれない。

水月の仕事と、自分の暮らしの境目を守れるのか。

二軒目は、車で二十分ほど離れた地区にある集合住宅だった。

築年数は浅く、光回線も引かれている。家賃は五万六千円。スーパーと診療所へは一軒目より近い。

だが、窓から海は見えなかった。

伊根の中心部へ出るには、車が必要になる。

海斗は部屋の中央に立ち、仕事をする自分を想像した。

どちらにも、よいところと不便なところがあった。

昼過ぎ、水月が仕事を終えて合流した。

白い調理着ではなく、黒い上着を着ていた。髪は風に乱れ、頬が冷たさで赤くなっている。

「どうだった?」

「一軒目は寒い。二軒目は便利だけど、伊根から少し遠い」

「迷ってる?」

「うん」

水月は、一軒目をもう一度見たいと言った。

二人で路地を歩く。

宮下は気を利かせたのか、車で待っていた。

家へ入り、水月は台所の蛇口をひねった。水の出方を確かめ、戸棚の中を見て、窓の鍵を動かす。

「ここ、夏は湿気がひどいと思う」

「やっぱり?」

「海に近い家は、何でも傷むのが早い。服も、道具も」

「仕事用のパソコンも?」

「置き方を考えた方がいい」

水月は奥の部屋へ入り、窓を開けた。

細い路地の先に、海が見えた。

大きくはない。

家と家の隙間に、灰色の水面が切り取られている。

「水月は、どっちがいいと思う?」

海斗が尋ねると、水月は窓を閉めた。

「私が決めることじゃない」

「意見を聞いてるだけだよ」

「私なら、仕事のしやすい方を選ぶ。でも、海斗が何を優先するかは分からない」

以前なら、突き放されたように感じただろう。

今は、水月が決断を奪わないようにしているのだと分かった。

海斗は台所へ戻った。

小さな流し台の横に、二口のガス台を置ける場所がある。窓辺には、細長い棚があった。

東京の部屋にある鉢植えを置けそうだった。

仕事机は奥の部屋。

寝るのは手前の部屋。

寒さと湿気への対策が必要になる。

回線工事ができなければ、この家は選べない。

「ここにする」

海斗は言った。

水月が振り返った。

「回線の確認は?」

「工事ができる場合だけ契約する。できなければ二軒目にする」

「静波に近いから?」

「それもある」

水月の表情が曇ったため、海斗は続けた。

「でも、近いから毎日行くとは決めない。仕事の日は仕事をする。水月が営業中のときは、客として予約した日だけ入る」

「そんなに決めなくても」

「最初は決めた方がいいと思う」

水月はしばらく海斗を見ていた。

「面倒な人ね」

「知ってる」

「知っているなら、少しは直して」

「努力します」

水月の口元が緩んだ。

家を出たあと、二人は海沿いの道を歩いた。

風で話し声が流されるため、自然と距離が近くなった。

水月が手を出した。

海斗はその手を握った。

手袋越しで、温かさはほとんど分からなかった。それでも、離さずに歩いた。

「会社には、いつ話すの」

水月が尋ねた。

「東京へ戻ったら」

「怖い?」

「怖い」

「引き止められたら?」

「条件は聞く。でも、決めたことは変えない」

「本当に?」

「たぶん」

水月は足を止めた。

「たぶん?」

「……変えない」

「よろしい」

海斗は笑った。

翌週、海斗は黒田へ退職の意思を伝えた。

会議室の机には、昇進を断った日と同じ傷があった。

「急だな」

黒田は言った。

「申し訳ありません」

「昇進の話が負担だった?」

「それがきっかけではあります。でも、辞める理由は別です」

「別の会社は決まっているのか」

「はい。遠隔勤務の会社です」

「給与は?」

海斗が答えると、黒田は眉を上げた。

「下がるじゃないか」

「承知しています」

「うちでも遠隔勤務の日を増やすことはできる。今の業務に慣れているし、待遇も悪くない。辞める必要があるのか?」

海斗の中で、迷いが動いた。

今の会社が、遠隔勤務を認めてくれる。

給与も下がらない。

知っている仕事を続けられる。

移住だけが目的なら、それが一番安全な選択に見えた。

「完全な遠隔勤務にできますか」

「毎日は難しい。月に何度かは出社が必要だ」

「夜間対応は?」

「担当から外すことは考えられる」

「期限と人員が合わないとき、公開日の変更を判断できますか」

黒田は答えなかった。

海斗はその沈黙を見た。

黒田の提案が嘘だとは思わない。

できる範囲で引き止めようとしてくれている。

だが、仕組みそのものは変わらない。

「四月末で退職させてください」

海斗は言った。

「有給休暇を使い、五月の初めに引っ越します。引き継ぎは、それまでに終えます」

黒田は長く息を吐いた。

「君には、まだ残ってもらいたかった」

その言葉に、胸が痛んだ。

かつての海斗なら、必要とされていると感じた瞬間に、決意を変えていただろう。

「ありがとうございます」

海斗は頭を下げた。

「そう言っていただけたことは、嬉しいです。それでも、退職します」

黒田は椅子の背へもたれ、天井を見た。

「分かった。退職日は人事と調整する。引き継ぎ先は西田を中心に考えよう」

会議室を出たあと、海斗は西田へ声をかけた。

小さな打ち合わせスペースへ移り、向かいに座る。

「四月末で、会社を辞めることになった」

西田は瞬きをした。

「辞めるんですか」

「うん」

「休職して、戻ってきて、今度は辞めるんですね」

声が硬かった。

海斗は、予想していなかった反応に戸惑った。

「西田さんには、迷惑をかけると思う」

「迷惑の話じゃないです」

「じゃあ……」

「私たちが、海斗さんが戻れるように仕事を分けて、夜間対応も外して、少しずつ調整してきたことは、意味がなかったんですか」

海斗は何も言えなかった。

西田の目が赤くなっていた。

「すみません。困らせたいわけじゃないんです」

彼女は顔を背けた。

「ただ、やっと元に戻ってきたと思っていたから」

「元には、戻らないんだと思う」

西田が海斗を見る。

「前と同じように働けるようになることが、回復だと思ってた。でも、僕は前と同じには戻りたくない」

西田は唇を結んだ。

海斗は続けた。

「休んでいる間、仕事を引き受けてくれたことも、戻ってから支えてくれたことも、なくならない。あれがなければ、次のことを考える余裕もなかった」

「だったら、残ってくださいと言いたいです」

「うん」

「でも、言っても残らないんですよね」

「ごめん」

西田は目元を手で押さえた。

「また謝る」

「ほかに何と言えばいいか分からない」

「ありがとうって言えばいいんです」

海斗は息を止めた。

西田は鼻をすすり、少し笑った。

「前に私が言ったことです。謝ってほしいんじゃないって」

海斗も笑った。

「ありがとう。助けてくれて」

「どういたしまして」

西田は机の上のティッシュを一枚取り、目元を拭いた。

「次は、どこで働くんですか」

「大阪に本社がある会社。仕事は遠隔でできる」

「東京を出るんですか」

「伊根へ移る」

「本当に?」

西田の目が大きくなった。

「水月さんのところですか」

「水月の家じゃないよ。別の家を借りる」

「そこはちゃんとしてるんですね」

「みんな同じことを言う」

「みんな、海斗さんが勢いで何でも一つにしそうだと思ってるんですよ」

否定できなかった。

西田は少し考えてから言った。

「引き継ぎ、一覧にしてください。一人に集めないで、佐伯さんと私と、ほかの人にも分けます」

「分かった」

「夜間対応の手順も、海斗さんしか知らないところがあります」

「今週中に書く」

「今週中じゃなくて、来週の水曜までにしてください。無理な予定を自分で作らない」

海斗はうなずいた。

「水曜までにします」

退職が決まると、日々は急に具体的になった。

人事との面談。

退職届。

健康保険の切り替え。

住民票。

税金。

引っ越し業者の見積もり。

新しい会社から送られてくる書類。

伊根の家は、光回線の工事が可能だと分かった。

海斗は契約書へ署名した。

家賃四万八千円。

敷金二か月分。

契約開始は五月一日。

暖房器具は自分で用意する。

壁や床の修繕については、入居前に貸主が確認する。

車はすぐに買わず、最初の一か月は地域のバスと自転車で暮らしてみることにした。必要性が分かってから、中古車を探す。

母親へ話したのは、契約書へ署名する前だった。

電話では伝えきれないと思い、週末に実家へ帰った。

母親は話を聞き終えると、しばらく黙っていた。

「その人と結婚するの?」

「まだ、そういう話はしてない」

「なのに、近くへ引っ越すの?」

「同じ家には住まない」

「会社まで辞めて?」

予想していた質問だった。

海斗は、新しい会社の条件と、収入、貯蓄、家賃について説明した。

数字を書いた紙も持ってきていた。

母親はそれを見て、呆れたように言った。

「こういうところは、昔から変わらないね」

「何が?」

「遠足へ行く前みたいに、全部表にするところ」

「心配すると思ったから」

「心配はするよ。表があっても」

母親は紙をテーブルへ置いた。

「その人とうまくいかなかったら、どうするの」

「そのときは、自分で次を決める」

「戻ってきてもいいんだからね」

海斗は顔を上げた。

母親は湯飲みを持ったまま、海斗を見ていた。

「失敗したときに、恥ずかしいと思って黙るのだけはやめなさい。仕事を休んだことも、あとから聞いたでしょう」

「ごめん」

「また謝る」

西田と同じことを言われた。

海斗は苦笑した。

「今度は、ちゃんと話す」

「水月さんという人にも、会わせて」

「いつか」

「いつかじゃ分からない」

「予定が決まったら連絡する」

母親はようやくうなずいた。

東京の部屋で、海斗は少しずつ荷物を箱へ詰めた。

着ていない服。

読まなくなった本。

壊れたまま置いていた電気ケトル。

引っ越したときの箱から一度も出していない食器。

必要なものと、捨てるものを分ける作業は、思ったより時間がかかった。

物を手に取るたび、いつ買ったのかを思い出した。

仕事が落ち着いたら読むつもりだった本。

休日に料理をするために買った鍋。

友人を招くつもりで揃えた、四枚の皿。

先延ばしにしていた生活が、部屋の中へ積もっていた。

鍋は持っていくことにした。

皿は二枚だけ残した。

伊根で誰と食卓を囲むのかは分からない。

それでも、一枚だけにする必要はないと思った。

四月最後の出勤日、西田と佐伯たちは、海斗へ小さな送別会を開いた。

大げさなものではなかった。

会議室の机へ菓子と飲み物を並べ、仕事が終わった人間から顔を出した。

佐伯が紙袋を差し出した。

中には、厚手の靴下と手袋が入っていた。

「京都の北、寒いんですよね」

「たぶん、東京よりは」

「たぶんで移住するんですか」

「そこ、みんなに聞かれる」

西田は、小さな目覚まし時計を渡した。

「携帯電話を目覚ましにすると、寝る前に仕事の連絡を見るでしょうから」

「新しい会社では、夜に見ないようにするよ」

「信用していません」

「厳しいな」

「海斗さんが教えたんですよ。仕組みで防げって」

海斗は時計を受け取った。

白い文字盤に、黒い針がついている。

秒針の音は、ほとんど聞こえなかった。

黒田も途中で顔を出した。

「向こうで困ったら、連絡してくれ」

「ありがとうございます」

「戻りたくなったときも」

冗談のような口調だったが、目は笑っていなかった。

海斗は頭を下げた。

「お世話になりました」

最後に、自分の机を片づけた。

何年も使ったキーボードを備品棚へ戻す。引き出しには、乾いたボールペンと、期限の切れた栄養補助食品が残っていた。

机の上が空になると、自分がいた痕跡は簡単に消えた。

以前なら、それを寂しいと思っただろう。

今も寂しさはあった。

だが、自分の居場所が、机一つだけで決まるわけではないことも分かっていた。

西田と佐伯に見送られ、会社を出る。

夜の街には、仕事を終えた人々が行き交っていた。

海斗は駅へ向かわず、少し遠回りして歩いた。

ビルの窓には、まだ多くの明かりがついている。

自分も、あの光の一つだった。

長い間、あそこにいることが、自分の役目だと思っていた。

携帯電話が震えた。

水月からだった。

〈お疲れさまでした〉

海斗は立ち止まり、返信した。

〈終わりました。五月三日に伊根へ移ります〉

文字を打ってから、一度消した。

もう一度、書き直す。

〈五月三日に、伊根の自分の家へ移ります。静波の手伝いをするためでも、水月に養ってもらうためでもありません。僕が選んだ仕事をして、僕の生活を作ります。そのうえで、近くにいたいです〉

送信すると、すぐには既読がつかなかった。

海斗は携帯電話をポケットへ入れ、再び歩き始めた。

駅へ着く前に、短く震えた。

〈分かりました〉

そのあとに、もう一つ届いた。

〈歓迎すると言うのは、まだ少し怖いです。でも、来る日を待っています〉

海斗は歩道の端で、その文章を読んだ。

〈ありがとう〉

そう返した。

東京の部屋へ戻ると、床の大半が段ボールで埋まっていた。

海斗は上着を脱ぎ、最後まで残していた台所用品を箱へ入れた。

鍋。

包丁。

二枚の皿。

二つの湯飲み。

水月からもらった、不揃いな形の鍋敷き。

箱の蓋を閉じ、太いペンで〈台所〉と書く。

窓の外では、終電へ向かう電車の音がした。

海斗は携帯電話の予定表を開いた。

五月三日。

引っ越し。

その下には、到着時刻も、静波へ行く予定も入れなかった。

荷物を運び終えたあと、何をするのかは決めていない。

新しい家の窓を開けるかもしれない。

足りないものを買いに行くかもしれない。

疲れて、そのまま床へ座り込むかもしれない。

それでよかった。

海斗は予定表を閉じた。

部屋の隅で、白い目覚まし時計の針が進んでいた。

五月三日まで、あと四日だった。


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