第14章 暮らす距離
五月三日の朝、東京は雨だった。
海斗は、何もなくなった部屋の中央に立っていた。
壁際に残っているのは、引っ越し業者が運び忘れたわけではない。長く置いていた棚の跡と、冷蔵庫の裏に溜まっていた薄い埃だけだった。
段ボールは前日にすべて運び出されている。
伊根の家へ届くのは、明日の午前中だった。
海斗が持っているのは、着替えと洗面道具、ノートパソコンを入れた鞄だけだった。仕事用の機器は、新しい会社から伊根の住所へ直接送られることになっている。
窓を閉め、鍵を回す。
玄関を出る前に、海斗はもう一度だけ振り返った。
この部屋へ越してきたとき、自分は三十歳だった。
今より少し広い部屋へ移るまでの仮住まいだと思っていた。休日には料理をし、友人を招き、仕事以外の時間も充実させるつもりだった。
けれど、実際には眠るために帰り、朝になると出ていく場所になった。
床へ置いたままの鞄。
開けないカーテン。
空の冷蔵庫。
仕事を休んだあと、ここから逃げるように東京駅へ向かった。
あの日の海斗は、京都までの切符を買うことしか決められなかった。
今は、伊根に借りた家の住所を知っている。
新しい会社へ入る日も決まっている。
それでも、これからの暮らしがどのようなものになるのかは分からなかった。
海斗は玄関の照明を消した。
扉を閉め、不動産会社へ返す鍵を封筒に入れた。
東京駅では、以前と同じように大勢の人が行き交っていた。
海斗は弁当売り場の前で足を止めた。
初めて伊根へ向かった日には、並んでいる商品を見ても、何を食べたいのか決められなかった。今は、焼き鮭の入った弁当と、温かい茶を選んだ。
新幹線が動き出してから、蓋を開ける。
鮭、卵焼き、煮物、漬物。
どれも特別な料理ではなかった。
それでも、窓の外を眺めながら一つずつ食べた。
急いで口へ運ぶ必要はない。机へ戻る時刻も、午後の会議もなかった。
食べ終えた容器を袋へ戻し、海斗は座席へ身体を預けた。
眠ろうとしたが、胸の奥が落ち着かなかった。
携帯電話を開く。
水月から、朝に届いたメッセージが残っていた。
〈今日は昼も夜も営業です。到着の時間には迎えに行けません。家の鍵は美代さんに預けています〉
海斗は、分かりました、と返信していた。
仕事なのだから当然だった。
水月には、移住のために店を休んでほしくないと自分から伝えている。
それなのに、到着する自分を待っていてほしかったという気持ちが、わずかに残っていた。
自分で望んだ距離と、相手に求める近さが、まだ一致していない。
海斗は携帯電話を伏せた。
午後四時前、伊根の停留所へ着いた。
空は東京より明るかったが、細かな雨が降っていた。
バスの荷物入れから鞄を受け取り、道路へ立つ。
旅行で訪れたときとは、目に入るものが違った。
店の看板より先に、ごみを出す場所が気になった。近くに郵便受けがあるか、夜道に街灯があるか、重い荷物を持って歩ける坂なのかを確かめる。
これまで海斗が見ていたのは、訪れる人間の景色だった。
今は、その中で生活するための道を探していた。
「海斗さん」
声の方を見ると、美代が大きな傘を差して立っていた。
「お帰りなさい、と言ってええのかな」
海斗は少し迷ってから答えた。
「ただいま、でいいんでしょうか」
「今日から住むんやったら、ええんと違う?」
美代は笑い、傘を海斗の方へ傾けた。
「鍵、預かってます。家まで一緒に行きましょう」
「場所は分かります」
「分かるのと、雨の中で荷物を持って歩くのは別やろ」
美代の軽自動車は、停留所の近くに止めてあった。
海斗が助手席へ乗ると、後部座席には灯油のポリタンクと、古い電気ケトルが置かれていた。
「それ、海斗さんの家へ持っていく分」
「用意してくれたんですか」
「ケトルは宿で余ってたもの。灯油は、夜に冷えるかもしれんから」
「お金を払います」
「灯油代はもらいます。ケトルはいらん」
美代はきっぱり言い、車を走らせた。
借りた家の前には、宮下と浜田がいた。
浜田は雨合羽を着て、玄関の引き戸を何度も動かしている。
「おう、来たか」
「どうして浜田さんが?」
「戸が重いって聞いたから見に来た。これでは毎朝、家から出るだけで疲れるぞ」
「自分で直そうと思っていました」
「何を使って?」
尋ねられ、海斗は答えられなかった。
工具は、明日届く段ボールの中にも入っていない。
浜田は呆れたように鼻を鳴らした。
「知らんことは、知ってる人間に頼めばええ」
どこかで聞いた言葉に似ていた。
海斗は礼を言い、浜田の作業を手伝おうとした。
「そこ持ってください」
「いや、僕がやります」
「海斗さん」
宮下が後ろから声をかけた。
「浜田さんが、そこを持ってと言っています」
海斗は手を止めた。
頼まれたことと、自分がしようとしたことが違う。
「……はい」
指示された場所を押さえる。
浜田が戸車へ油を差し、歪んだ金具を調整した。戸は、以前より軽く動くようになった。
「しばらくこれで使える。夏までに戸車を替えた方がええな」
「ありがとうございます」
「礼は魚でいい」
「僕、魚を持っていません」
「水月に言ってるんだ」
浜田の視線の先を見ると、水月が路地を歩いてきていた。
紺色の前掛けを外し、白い調理着の上に薄い上着を羽織っている。片手には、蓋のついた鍋を提げていた。
「夜の仕込みは?」
浜田が尋ねる。
「一段落したので、十分だけ抜けてきました」
水月は海斗を見ると、短く言った。
「お疲れさま」
「ただいま」
海斗が答えると、水月の表情がわずかに変わった。
笑ったのか、困ったのか、海斗には分からなかった。
「これ、夜に食べて」
差し出された鍋を受け取る。
蓋の隙間から、生姜と醤油の香りがした。
「何?」
「鰯のつみれ汁。冷めたら温め直して」
「ありがとう」
「ご飯は?」
「まだ何もない」
美代が会話へ割り込んだ。
「うちから二合持ってきた。炊飯器は?」
「明日届きます」
「鍋で炊ける?」
海斗は水月を見た。
水月は眉を上げた。
「私が炊くと思ってる?」
「見ただけだよ」
「今夜は宿から、おにぎりを持ってきてあげる」
美代が言った。
「本当に大丈夫です。近くで何か買います」
「近くの店、もう閉まるよ」
また大丈夫と言いかけ、海斗は口を閉じた。
「お願いします。代金は払います」
「素直になったね」
美代は満足そうに笑った。
水月は腕時計を見た。
「店へ戻る」
「うん」
海斗は、もう少し話したかった。
家の中を一緒に見てほしい。東京から来た道のことを話したい。今夜、店が終わったあとに会えないかと聞きたい。
だが、水月には仕事がある。
「終わるのは何時頃?」
尋ねると、水月は少し考えた。
「片づけまで入れたら、九時半くらい」
「そのあと、来られる?」
水月の目が海斗へ向いた。
「今日は無理。明日の朝も早いから」
「そうだよね」
自分では普通に答えたつもりだった。
だが、水月は海斗の顔を見たまま動かなかった。
「来たばかりなのに、悪いけど」
「謝らなくていいよ。僕が店を休まなくていいと言ったんだから」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「なら、そんな顔をしないで」
どんな顔をしているのか、自分では分からなかった。
海斗は鍋を両手で持ち直した。
「期待していたんだと思う。水月が迎えに来てくれて、一緒に家へ入るところを」
水月は黙って聞いていた。
「でも、店があることも分かってた。勝手に期待して、勝手に残念に思っただけだから」
「そう」
「ごめん」
「謝らなくていい。言ってくれた方が分かる」
水月は家の玄関へ目を向けた。
「明日の夜なら、来られる」
「店は?」
「昼だけ」
「じゃあ、明日の夜」
「七時頃」
水月はそれだけ決めると、静波へ戻っていった。
浜田たちも帰り、家には海斗一人が残った。
鍵を閉めると、急に音がなくなった。
部屋の中には、備えつけられた照明と古い冷蔵庫しかない。
畳の上へ鞄を置き、窓を開ける。
家と家の隙間から、海が見えた。
雨粒が水面へ落ち、細かな輪を作っている。
遠くで舟のエンジンが鳴った。
海斗は、つみれ汁の鍋を台所へ運んだ。
荷物は明日届く。
今夜は布団もない。
寝袋を鞄へ入れてきたが、畳の上へ直接敷くしかなかった。
それも分かっていた。
分かって選んだはずなのに、東京の部屋を出てきた実感より先に、心細さが込み上げた。
水月は十五分の距離にいる。
それでも、会えない夜は会えない。
距離が短くなれば、寂しさまでなくなると思っていたわけではない。
けれど、少しは簡単になると考えていた。
美代が届けてくれたおにぎりと、水月のつみれ汁を食べた。
鰯のつみれには刻んだ葱と生姜が入っていた。汁の中には大根と牛蒡が沈んでいる。
温かいものを口へ入れると、張っていた気持ちが少し緩んだ。
食べ終えた鍋を洗う。
水月へ、おいしかった、と送ろうとしたが、営業中かもしれないと思ってやめた。
寝袋へ入り、照明を消す。
天井の木材が、気温の変化で時折、小さく鳴った。
風が窓を揺らす。
隣の家から、テレビの音がかすかに聞こえた。
伊根へ来た最初の夜、潮路では朝まで眠れた。
今夜は、自分の家であることがかえって落ち着かなかった。
寝返りを打ち、暗い天井を見る。
携帯電話の時刻は、午後十時十八分。
水月の店は、もう片づけを終えただろうか。
連絡しようと思えばできる。
けれど、明日会う約束をしている。
海斗は携帯電話を伏せた。
眠りについたのは、日付が変わってからだった。
翌朝、玄関を叩く音で目を覚ました。
時計を見ると、午前七時十分だった。
寝袋から出て戸を開けると、浜田が立っていた。
「起きてたか」
「今、起きました」
「遅いな」
東京では、休日ならまだ眠っている時刻だった。
「何かありましたか」
「魚、食うか」
浜田が持っていた袋の中には、小さな鯵が五尾入っていた。
銀色の身体が、朝の光を反している。
「食べます。でも、こんなに?」
「昨日、戸を直した礼を水月からもらった。その分け前だ」
「僕がもらっていいんですか」
「いらんなら持って帰る」
「もらいます」
反射的に答えると、浜田は袋を渡した。
「捌けるか」
海斗は魚を見た。
料理は少しするようになったが、丸のままの魚を捌いた経験はなかった。
「できません」
「静波へ持っていくか?」
海斗は迷った。
水月へ頼めば、きれいに処理してくれるだろう。
けれど、開店前の忙しい時間に持ち込むことになる。
「教えてもらえますか」
浜田は海斗の顔を見た。
「今からか」
「時間がなければ、別の日でいいです」
浜田は腕時計を見た。
「三十分だけならええ。包丁は?」
「今日届きます」
「何もないな、お前の家」
「昨日、来たばかりですから」
浜田は自宅から出刃包丁とまな板を持ってきた。
台所へ立ち、鯵の頭を落とし、腹を開く。
海斗は隣で同じように手を動かした。
包丁の入れ方が浅く、内臓をうまく取り出せない。水で洗うと、身が崩れた。
「力を入れすぎだ」
「どのくらいですか」
「魚を切ろうとするな。骨へ刃を当てて、場所を探せ」
仕事で後輩へ説明するとき、自分も似たような言い方をしたことがある。
正解の手順を先に示すのではなく、どこを見ればよいかを伝える。
二尾目は、一尾目より形を保っていた。
三尾目になると、包丁が骨の位置を捉える感覚が少し分かった。
「残りは自分でやれ」
浜田は包丁を洗った。
「ありがとうございました」
「毎回は教えんぞ」
「はい」
「分からんときは、水月に聞け」
「忙しくない時間に聞きます」
浜田は一度うなずき、家を出た。
午前九時、引っ越し業者が到着した。
海斗は箱の数を確認し、置く部屋を指示した。
初めは、すべての箱を自分で開けようとしていた。
だが、机や棚の組み立てを含めると、一日では終わらない。
まず、仕事をする部屋を整える。
次に、寝る場所。
そのあと、台所。
順番を決めると、少し気持ちが楽になった。
昼過ぎ、仕事用の机を組み立てていると、美代が顔を出した。
「手伝おうか」
「大丈夫です」
口にしてから、海斗は笑った。
「今のは、本当に一人でできます」
「信用しときます」
美代は玄関から部屋の中を見た。
「思ったより荷物が少ないね」
「東京の部屋にあったものを、かなり処分しました」
「水月さんの店へ毎日食べに行くつもりで、台所のものを捨ててないでしょうね」
「鍋も、包丁もあります」
「なら、よろしい」
美代は帰り際、ごみの分別表を渡してくれた。
「東京と違うから、よく見て出してね。決まった日を間違えると、誰が出したかすぐ分かるよ」
脅すような言い方だったが、冗談ではないらしい。
紙には、燃やすごみ、容器包装、缶、瓶、粗大ごみの日が細かく書かれていた。
海斗は冷蔵庫の扉へ貼った。
夕方までに、机と椅子、寝具だけは使えるようになった。
台所には、まだ開けていない箱が三つ残っている。
七時少し前、水月がやってきた。
私服姿だった。
薄い灰色のシャツに、紺色のパンツを穿いている。髪は下ろさず、いつもと同じように低い位置で束ねていた。
手には、小さな紙袋を持っている。
「昨日の鍋」
海斗は洗って乾かした鍋を渡した。
「おいしかった。鰯のつみれに、生姜が入ってた」
「臭みが出やすいから」
水月は部屋を見回した。
「一日で、ずいぶん片づいたね」
「見えるところだけ。隣の部屋は箱だらけ」
「手伝う?」
尋ねられ、海斗は少し考えた。
「今日は、夕食を作りたい」
「海斗が?」
「鯵をもらったから」
台所には、浜田に教わって三枚におろした鯵が置いてあった。
一尾目の身はところどころ崩れ、二尾目も左右の厚さが違う。三尾目だけは、辛うじて同じ魚の片身に見えた。
水月は皿を覗き込んだ。
「誰に教わったの」
「浜田さん」
「源治さん、朝から来たの?」
「七時に」
「迷惑だった?」
「驚いたけど、教えてもらえてよかった」
水月は、崩れた身を指で示した。
「これは?」
「なめろうにしようと思う」
「考えたね」
褒められたようで、海斗は嬉しくなった。
鯵を細かく叩き、味噌と葱、生姜を混ぜる。形の整った身には薄く塩を振り、小麦粉をまぶして焼いた。
水月は手を出さなかった。
海斗が調味料を探して戸棚を開けても、黙って椅子に座っている。
見られていると緊張した。
「何か言いたそう」
「言わない方がいいと思って」
「失敗しそう?」
「油が少し多い」
海斗はフライパンを見た。
「もう入れたあとだけど」
「だから、言わなかった」
二人分の食事が整うまで、一時間近くかかった。
鯵の焼き物。
なめろう。
豆腐と若布の味噌汁。
炊いたご飯。
二枚の皿へ料理を盛り、向かい合って座る。
水月が箸を取った。
「いただきます」
海斗も続いた。
焼いた鯵は、端が少し硬くなっていた。塩にもばらつきがある。
水月は何も言わず、一口ずつ食べた。
「どう?」
海斗が我慢できずに尋ねる。
「油が多い」
「やっぱり」
「でも、身は崩れてない」
「味は?」
「ちゃんと鯵の味がする」
料理人からの感想として、それが褒め言葉なのかは分からなかった。
「おいしくない?」
「おいしいよ」
水月はなめろうを少しご飯へ載せた。
「海斗が作ったから、ではなくて?」
「それを除いても」
「なら、よかった」
二人で食べる。
静波で水月の料理を食べるときとは違い、海斗が席を立って茶を入れ、空いた皿を下げた。
食後、水月は紙袋を差し出した。
中には、小さな青い器が二つ入っていた。
「開店した頃、仕入れたもの。少し形が不揃いで、店では使わなくなったから」
「もらっていいの?」
「捨てるよりは」
器の縁には、薄い藍色の線が入っていた。
並べて置くと、片方がわずかに高い。
「二つあるんだね」
海斗が言うと、水月は器を見た。
「一人でも、器は二つあっていいでしょう」
東京から持ってきた皿も、二枚だった。
海斗は器を戸棚へ入れた。
水月はその夜、九時前に帰った。
泊まってほしいとは言わなかった。
水月も、泊まるとは言わなかった。
玄関で手を握り、短く口づけを交わした。
外へ出ていく背中を見送る。
家へ戻ると、一人分の静けさが残った。
だが、前日の夜とは違った。
食卓には、二人で使った箸がある。
流し台には、洗う前の器が二つ並んでいた。
海斗はそれを一つずつ洗った。
新しい会社への入社日は、五月十五日だった。
それまでの十日あまりで、海斗は生活に必要な場所を覚えた。
最寄りの商店。
郵便局。
診療所。
バス停。
ごみ置き場。
灯油を買える店。
大きな買い物をするには、宮津まで出なければならない。
自転車を買ったが、坂道が多く、東京で乗るより身体を使った。
買ったばかりの食パンを籠へ入れ、雨に降られたこともある。風が強い日に帽子を飛ばし、近所の子どもに拾ってもらった。
玄関先で会った人から、何度も尋ねられた。
「東京から来た人やね」
「水月さんの知り合い?」
「静波で働くの?」
「いつ結婚するの?」
最初のうち、海斗は一つずつ説明していた。
遠隔勤務の会社で働くこと。
静波の従業員ではないこと。
水月とは別の家に住んでいること。
結婚は決まっていないこと。
だが、数日すると、同じ説明をすることに疲れた。
水月にその話をすると、彼女は驚かなかった。
「町の人にとっては、知らない人が一人増えるだけで大きなことだから」
「水月も、移ってきたときは聞かれた?」
「毎日。どうして一人なのか。結婚しているのか。店はいつまで続けるのか」
「嫌じゃなかった?」
「嫌だったよ」
水月は平然と答えた。
「でも、知ろうとして聞いている人と、ただ話の種にしたい人は、だんだん分かるようになる」
「見分け方は?」
「同じことを何度も聞く人には、答えない」
海斗は、その方法を使うことにした。
「静波で働くのか」と二度目に聞かれたときには、「水月に聞いてください」と答えた。
その日の夕方、水月から電話がかかってきた。
〈中村さんから、海斗を雇うのかと聞かれた〉
「ごめん」
〈どうして私に回したの〉
「同じ説明を何度もする人には答えなくていいって、水月が言ったから」
〈私に答えさせていいとは言ってない〉
「確かに」
〈次からは、“働きません”で終わらせて〉
「分かりました」
〈それから、中村さんには、結婚の予定まで聞かれた〉
「何て答えた?」
〈海斗に聞いてください、と〉
「仕返し?」
〈同じ説明を何度もする人には答えなくていいから〉
水月の声が少し笑っていた。
入社前日、アトリオシステムズから、仕事用のパソコンとモニターが届いた。
海斗は机へ機器を並べ、接続を確認した。
光回線の速度は十分だった。
オンライン会議の音声も途切れない。
椅子へ座ると、窓の向こうに家の壁と、細く切り取られた海が見える。
翌朝、海斗は午前七時に目を覚ました。
始業は九時半だった。
通勤時間はない。
朝食を食べ、洗濯をし、それでも時間が余った。
以前なら、会社へ着く頃にはすでに疲れている日があった。満員電車の中で通知を確認し、駅から歩きながら会議の内容を考えていた。
今は、机へ向かうまで十歩もない。
九時二十分、パソコンの電源を入れる。
画面には、入社を歓迎するメッセージがいくつも届いていた。
オンラインの朝会で、開発責任者の藤崎から紹介される。
「今日から加わる相沢海斗さんです。京都府北部から勤務されます」
画面には、北海道、愛知、大阪、福岡など、それぞれ異なる場所から参加している社員が並んでいた。
海斗は挨拶をした。
以前の職場で行っていた業務。
担当する予定のサービス。
遠隔勤務には慣れていないこと。
分からないことは早めに確認したいこと。
言い終えると、数人が拍手の反応を送ってくれた。
初日は、社内の仕組みを覚えるだけで終わった。
二日目から、小さな修正作業を任された。
三日目には、動作確認の環境を作った。
新しい会社のコードは、見慣れない書き方が多かった。設計の考え方も、前の職場とは違う。
海斗は夢中で読み進めた。
分からない箇所を調べ、関連する資料を開き、動きを確かめる。
気づくと、午後一時を過ぎていた。
昼食を取っていない。
台所へ行けば、前日に作ったおにぎりがある。
しかし、あと少しで処理の流れを理解できそうだった。
海斗は、そのまま作業を続けた。
午後二時、藤崎からメッセージが届いた。
〈昼休憩、取っていますか〉
海斗は、キーボードの上で手を止めた。
〈まだです。区切りのよいところまで進めてから取ります〉
すぐに返信が来た。
〈区切りは自分で作らないと来ません。今、休んでください〉
西田と同じようなことを言われた。
海斗は作業を保存し、パソコンから離れた。
台所でおにぎりを食べる。
窓の外では、隣の家の人が洗濯物を取り込んでいた。
十五分で食べ終わり、すぐ仕事へ戻ろうとした。
だが、藤崎からは、昼休憩は最低四十五分取るように言われている。
海斗は玄関を出た。
海沿いを少し歩く。
戻ってきたとき、頭の中で絡まっていた処理の流れが、先ほどより見えやすくなっていた。
それでも、以前の癖は簡単には消えなかった。
新しい会社では、自分の実力をまだ誰も知らない。
給与は下がったが、期待まで低くなったわけではない。
試用期間に、使えない人間だと思われたくなかった。
始業前に資料を読み、終業後も少しだけ作業を続ける。
少しだけのつもりが、一時間になる日もあった。
勤務記録には、パソコンを閉じた時刻を入力していた。
だが、夕食後に自分のノートパソコンで技術資料を読む時間は、仕事へ含めなかった。
水月と会える距離に住んでいるのに、入社後の一週間は一度も会わなかった。
水月も忙しかった。
連休明けは観光客が減ると思っていたが、雑誌で舟屋が紹介されたため、昼の予約が続いていた。
電話では、互いに「忙しい」と言った。
それ以上を尋ねないまま、通話を終える夜が増えた。
金曜日、水月からメッセージが届いた。
〈明日の夜、食事をしませんか〉
海斗はすぐ、行きたい、と返した。
水月の家で、午後七時に会うことになった。
ところが土曜日の午後、担当している修正で問題が見つかった。
正式な勤務日ではなかったが、週明けまでに原因を把握しておきたいと思った。
一時間だけ確認する。
そう決めて、パソコンを開いた。
午後六時になっても、原因は分からなかった。
水月の家までは歩いて二十分ほどかかる。
今から閉じれば、間に合う。
海斗は画面を見た。
あと一つ、確認したい箇所がある。
六時十五分、水月へ連絡した。
〈少し遅れるかもしれない。七時半でもいい?〉
返信はなかった。
作業を続ける。
原因を見つけたのは、午後七時二十分だった。
急いで保存し、立ち上がる。
そのとき、水月から届いたメッセージに気づいた。
〈今日はやめましょう。料理は明日、店で使います〉
海斗はすぐ電話をかけた。
呼び出し音が続き、留守番電話へ切り替わる。
もう一度かけたが、水月は出なかった。
上着を着て、家を出る。
雨が降り始めていた。
傘を差し、暗い道を急ぐ。
水月の家へ着いたのは、午後七時五十分だった。
窓には明かりがついている。
玄関を叩くと、しばらくして水月が出た。
「今日はやめると送ったでしょう」
「ごめん。話したくて」
「電話でいい」
「出なかったから」
「出たくなかった」
水月は玄関を開けたまま、海斗を見た。
家へ入れるつもりはないらしい。
「仕事だったの?」
「月曜日に確認する修正で、問題が見つかって」
「今日は休みでしょう」
「そうだけど、原因だけでも知っておきたかった」
「私との約束より?」
「比べたわけじゃない」
「結果として、そうなったでしょう」
雨が傘へ当たる音が大きくなった。
海斗は言葉を探した。
「新しい会社で、まだ何もできていないから」
「入って一週間でしょう」
「だから、早く覚えないと」
「誰に言われたの」
「言われてない」
「なら、自分で決めたのね」
水月の声は低く、平らだった。
責められていると感じ、海斗の中に反発が生まれた。
「水月だって、休みの日に仕込みをすることがあるだろ」
水月の目が変わった。
「今、その話をするの?」
「同じじゃないかと言ってるだけだよ」
「同じなら、海斗が約束を破ってもいいの?」
「そういう意味じゃない」
「私の悪いところを出せば、自分のしたことが軽くなると思ってる?」
海斗は黙った。
そのとおりだった。
自分だけを責められることに耐えられず、水月も同じだと言い返した。
「今日は帰って」
水月が言った。
「料理を無駄にしたくないから、明日、店で出す。心配しなくていい」
「水月」
「今は話したくない」
玄関が閉まった。
海斗はしばらく、その場から動けなかった。
帰り道、雨が靴の中へ入った。
家へ戻ると、机の上には仕事用のパソコンが開いたままになっていた。
原因を特定した画面が表示されている。
本来なら、達成感があるはずだった。
だが、見ているだけで胸が重くなった。
海斗はパソコンを閉じた。
冷蔵庫には、夕食になるものがほとんどなかった。
食事を作る気力もなく、乾麺を茹でた。
何も載せず、つゆだけで食べる。
初めて伊根へ来る前の自分に戻ったような気がした。
場所を変えた。
会社も変えた。
水月との距離も変わった。
それでも、自分の中にあるものは、そのまま残っている。
翌朝、海斗は藤崎へ連絡した。
休日に仕事をしたこと。
作業時間を記録していなかったこと。
月曜日まで待てない理由はなかったこと。
返信は昼前に届いた。
〈報告ありがとうございます。休日の作業時間は勤務として申請してください。明日はその分、午後から勤務にしましょう〉
続けて、オンラインで話せるかと尋ねられた。
海斗は承諾した。
画面に現れた藤崎は、自宅らしい部屋にいた。後ろの棚には、子どもの描いた絵が貼られている。
「問題を早く見つけたことは助かります」
藤崎は言った。
「ただ、休日に作業をする必要はありませんでした」
「試用期間なので、早く仕事を覚えたいと思って」
「相沢さんは、三か月で会社のすべてを覚える必要はありません」
「でも、期待された仕事ができなければ」
「今、期待しているのは、分からないことを共有することです。一人で週末まで使って解決することではありません」
海斗は、画面の中の自分を見た。
顔には疲れが出ていた。
「前の会社で、無理をして体調を崩しました」
海斗は初めて、はっきり話した。
「同じことをしないつもりで転職したのに、また始めています」
藤崎は驚いた様子を見せなかった。
「同じことに気づけたなら、ここで止められます」
「止められるでしょうか」
「相沢さん一人では難しいかもしれません。だから、こちらでも確認します」
藤崎は、いくつかの方法を提案した。
始業前と終業後は、仕事用パソコンを収納する。
昼休憩の時間を予定表へ入れる。
担当作業の見積もりを、一人で確定しない。
予定外の作業を始める前に、チームの連絡欄へ書く。
休日に気になることがあれば、月曜日の作業一覧へ記録し、パソコンは開かない。
「面倒に感じると思います」
藤崎が言った。
「はい」
「でも、習慣は意思より仕組みで変えた方がいい」
また、西田の言葉が蘇った。
海斗はうなずいた。
「やります」
通話のあと、仕事用パソコンを机から外した。
使っていない棚の中へ入れる。
扉を閉めると、仕事をする部屋から、黒い画面が消えた。
水月へ謝りに行こうと思った。
だが、昨日、今は話したくないと言われた。
自分が楽になるために、すぐ謝罪を受け取ってもらおうとしてはいけない。
海斗はメッセージを送った。
〈昨日は約束を破ってごめん。水月も同じだと言ったのは、自分だけを責められたくなかったからです。今日、上司に休日作業のことを話しました。仕事の仕方を見直します。返事は急がなくて大丈夫です〉
夕方になっても、返信はなかった。
海斗は台所へ立った。
冷蔵庫にある野菜で、煮物を作る。
出汁を取り、火を弱め、時間をかけて煮る。
料理をしたからといって、水月との関係が元に戻るわけではない。
それでも、夕食を作り、座って食べた。
夜八時過ぎ、玄関を叩く音がした。
戸を開けると、水月がいた。
手には何も持っていなかった。
「入ってもいい?」
「もちろん」
水月は居間へ入り、座った。
海斗は茶を出した。
二人の間に、湯気が上がる。
「昨日は、ごめん」
海斗が言った。
「メッセージで読んだ」
「直接も言いたかった」
水月は湯飲みへ手を添えた。
「私も、怒りすぎた」
「怒っていいことだったと思う」
「そういう言い方をされると、私が正しくて、海斗が間違っているだけになる」
「違うの?」
「違わないけど、それだけでもない」
水月は言葉を選ぶように、少しずつ話した。
「海斗が遅れると分かったとき、東京にいた頃と何も変わっていないと思った。私の近くへ来ても、仕事の方を選ぶんだって」
「ごめん」
「最後まで聞いて」
海斗は口を閉じた。
「でも、私も料理を作りすぎた。海斗が来るからって、昼の営業が終わってから何品も作った。疲れていたのに、休まなかった。海斗に喜んでほしくて作ったのに、待っている間に腹が立った」
「何を作ったの?」
「今は聞くところじゃない」
「ごめん」
水月は一瞬、呆れた顔をした。
「鯛の炊き込みご飯と、蛸の柔らか煮。あとは、あなたが前においしいと言った冬瓜」
海斗の胸が痛んだ。
「食べたかった」
「そう言われると、また作りたくなる」
「作らなくていい」
「それも腹が立つ」
二人は顔を見合わせた。
水月の口元がわずかに緩み、海斗も笑った。
張っていたものが、少しだけほどけた。
「毎日会える距離になったら、電話の約束より簡単だと思ってた」
海斗が言った。
「私も」
「近いから、あとで会えると思ってしまう」
「そのあとが、来ないこともある」
「うん」
水月は茶を一口飲んだ。
「会う日を決めない?」
「毎週?」
「毎日顔を出されるのは困る」
「出さないよ」
「今のところは」
海斗は反論できなかった。
二人で予定を確認し、木曜日の夜を一緒に食事する日にした。
静波が夜営業をしない日。
海斗も原則として残業を入れない。
どちらかが疲れていれば、食事を作らず、茶だけでもよい。
中止するときは、できるだけ前日までに伝える。
当日に仕事を増やして約束を変えない。
決まりごとが多いようにも思えた。
だが、海斗と水月には、言わなくても分かるはずだと期待するより、言葉へ置いた方がよかった。
「それから」
水月が言った。
「仕事を始めたら、昼を食べたか教えて」
「毎日?」
「毎日は嫌。私が確認する仕事になるから」
「じゃあ、どうする?」
「木曜日に、一週間で何回抜いたか報告して」
「一回でも抜いたら?」
「叱る」
「厳しいな」
「嫌なら、自分で食べて」
海斗は笑った。
「食べます」
水月が帰ったあと、海斗は冷蔵庫へ予定表を貼った。
木曜日の欄に、小さな丸をつける。
恋人同士なのだから、自由に会えばよい。
そう考える人もいるだろう。
だが、自由に会えることと、互いの時間を当然のように使うことは違う。
近くに住み始めたからこそ、会わない時間も必要だった。
翌週から、海斗は決めた方法で働いた。
午前九時二十分に仕事用パソコンを棚から出す。
正午になると、作業の途中でも保存する。
台所で食事を取り、十五分だけ外を歩く。
午後六時を過ぎたら、その日の作業を一覧へ記録し、パソコンを棚へ戻す。
初めは、扉を閉めたあとも仕事のことが頭から離れなかった。
確認し忘れた箇所。
返信していない連絡。
翌日に試したい方法。
ノートへ書き、翌朝まで置いておく。
夜の間に問題が大きくなることはなかった。
自分が画面を見ていない時間にも、会社は動いていた。
同僚が対応することもあれば、翌日に持ち越されることもある。
すべてをその日のうちに終える必要はなかった。
伊根での暮らしにも、少しずつ役割が増えた。
浜田から、漁協の集まりで使う資料を印刷したいと頼まれた。
中村からは、携帯電話の写真を家族へ送りたいと言われた。
美代からは、潮路の予約表を見やすくできないかと相談された。
海斗は、以前ならすべてその場で引き受けていただろう。
最初の浜田の依頼には、「今日の夕方、一時間ならできます」と答えた。
中村には、翌週の木曜日まで待ってもらった。
美代には、予約管理の方法を変える前に、何に困っているのか聞いた。
「東京から来た人は、機械に詳しい」という評判が広がりかけていることには不安があった。
それでも、何でもできる人間として必要とされようとはしなかった。
できること。
できないこと。
今できること。
あとならできること。
言葉にすると、相手は思っていたより簡単に受け入れた。
断ったために嫌われたと感じる日は、今のところなかった。
六月初めの木曜日、海斗は水月の家で夕食を取った。
食卓には、鯛の炊き込みご飯と蛸の柔らか煮、冬瓜の含め煮が並んでいた。
「あの日に作ったものと同じ?」
海斗が尋ねる。
「同じではない。あの日の蛸は、もう食べたから」
「一人で?」
「翌日、店で出したと言ったでしょう」
「誰が食べたんだろう」
「お客様」
「分かってる」
水月は炊き込みご飯を茶碗へよそった。
「昼、何回抜いた?」
「一回も」
「本当に?」
「藤崎さんにも確認されるから」
「私より、上司の方が効くのね」
「どちらも効いています」
水月は納得していない顔をしたが、それ以上は言わなかった。
食事の途中、静波の予約について話した。
雑誌を見た団体から、二十人分の昼食を依頼されたという。
静波の席は六つしかない。
時間を分けても、一人で二十人分を用意すれば、以前の弁当のときと同じことになる。
「断るの?」
海斗は尋ねた。
「迷ってる」
「どうしたい?」
「受ければ、店のことを知ってもらえる。売上にもなる」
「作れる?」
「作ろうと思えば」
海斗は、以前ならすぐ「無理だ」と言っただろう。
あるいは、自分が手伝うと申し出たかもしれない。
今は、箸を置いて水月の言葉を待った。
「でも、受けたくない」
水月が言った。
「二十人分を同じ時刻に出すなら、料理を変えないといけない。今の静波で出しているものとは違う」
「なら、断る?」
「六人ずつなら受けられると伝える。日を分けてもらう」
「相手が断ったら?」
「縁がなかったと思う」
水月はそう言ったが、声には迷いが残っていた。
海斗は尋ねた。
「返事を書くのを手伝おうか」
「文章だけ見てほしい」
「分かった」
「店の方針は、私が決める」
「分かってる」
水月は海斗を見た。
以前なら、その確認に寂しさを感じたかもしれない。
今は、自分にも同じものがあると思えた。
仕事用の机。
閉じる棚。
一人で眠る家。
互いに相手の生活へ入るためには、戸を叩く必要がある。
翌日、水月は団体客へ条件を伝えた。
先方は、二日に分けて六人ずつ訪れることを選んだ。全員を受けることはできなかったが、水月は十二人分の予約を、自分が出せる料理の形で受けた。
海斗は、店の手伝いをしなかった。
予約の日も、仕事を終えてから静波の前を通っただけだった。
窓の中では、水月が客へ料理を出していた。
動きには無駄がなく、顔には疲れも見えた。
入って、洗い物だけでもしたいと思った。
だが、頼まれていない。
海斗は店の前を通り過ぎ、自分の家へ帰った。
夕食を作り、食べ終えた頃、水月からメッセージが届いた。
〈終わりました。無理なく出せました〉
海斗は、よかった、と返信した。
しばらくして、もう一つ届いた。
〈手伝いに来なかったね〉
責められているのかと思い、海斗は文章を読み返した。
〈行った方がよかった?〉
〈来なくてよかった。少しだけ、来るかもしれないと思っていた〉
海斗は笑った。
〈行きたかった。でも、頼まれていなかったから帰りました〉
〈合格です〉
西田が以前送った言葉と同じだった。
〈今から、顔を見に行ってもいい?〉
今度は、水月の返信を待った。
〈片づけが終わる九時半なら〉
〈九時半に行きます〉
海斗は食器を洗い、家を出た。
六月の夜は、五月より暖かかった。
家々の間から、海の匂いが流れてくる。
静波へ着くと、暖簾はすでに片づけられていた。
海斗は勝手に戸を開けず、外から声をかけた。
「水月」
少しして、内側から戸が開いた。
水月は調理着の袖を肘まで上げ、濡れた手を布巾で拭いていた。
「まだ洗い物が残ってる」
「待ってる」
「中で?」
「入っていいなら」
水月は戸を大きく開けた。
「どうぞ」
初めて静波へ入った日と同じ言葉だった。
海斗はカウンターの端へ座った。
手を出さず、水月が作業を終えるのを待つ。
皿を洗う音。
湯が流れる音。
木の壁の向こうで、水が舟へ触れる音。
水月は最後の器を棚へ戻し、照明を一つ消した。
それから海斗の隣へ座った。
「疲れた?」
海斗が尋ねる。
「少し」
「昼、食べた?」
「食べた」
「本当に?」
「海斗よりは信用できる」
水月が肩を海斗の腕へ預けた。
海斗はその重さを受け止めた。
何かをしてあげなければと思わなかった。
言葉で励ます必要もない。
ただ、離れるまで隣にいればよかった。
やがて水月が顔を上げた。
「海斗の家へ行ってもいい?」
「もちろん」
「泊まるとは言ってない」
「分かってる」
「明日の朝、早いから」
「分かってる」
「本当に?」
海斗は笑った。
「帰ると言ったら、送るよ」
水月は少し考えたあと、海斗の手を握った。
二人で静波を出る。
海斗が伊根へ移って、一か月が過ぎていた。
同じ町に住んでも、毎日会うわけではない。
近くにいても、相手の考えが分からない日はある。
仕事へ逃げそうになることも、期待した言葉が返ってこないこともあった。
それでも、会いたいときには尋ねられる。
今は話したくないときには、そう伝えられる。
戸を叩き、返事を待ち、開いた分だけ中へ入る。
二人は手をつないだまま、海斗の家へ続く道を歩いた。
暗い海の上を、一艘の舟がゆっくり横切っていった。




