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『静波の寄せる場所』  作者: 久遠 睦


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第15章 名前のある料理

七月に入ると、伊根の海は朝から強い光を返すようになった。

静波の厨房では、火を使うたびに室温が上がった。

水月は開店前から裏口を開け、海側の窓も細く開けていた。風が通る日は、それだけで幾分か楽になる。だが、風のない日は、焼き台の熱と鍋から上がる湯気が天井近くへ溜まり、調理着が肌へ張りついた。

午前十時。

水月は、届いた甘鯛の鱗を取っていた。

包丁を寝かせ、身を傷つけないように鱗を引く。魚を返し、腹側へ刃を入れる。

そのとき、カウンターへ置いていた携帯電話が震えた。

仕入れ先からの連絡かもしれない。

手を洗い、画面を確認する。

表示されていたのは、知らない番号ではなかった。

小川奈緒。

その名前を見た瞬間、水月の指が止まった。

連絡先から消してはいない。

消す必要がないほど長く、やり取りをしていなかった。

最後に会ったのは、水月が京都の料亭「佳月」を辞めた日だった。

水月は携帯電話を伏せた。

留守番電話へ切り替わるまで、呼び出しは続いた。

音が止んだあと、再び魚へ向き直る。

甘鯛の腹へ包丁を入れたが、刃先がわずかにずれた。

水月は手を止めた。

深く息を吐き、包丁をまな板へ置く。

無理に続ければ、身を傷める。

携帯電話がもう一度震えた。

今度は、短いメッセージだった。

〈突然ごめんなさい。静波の記事を読みました。水月が元気でいることを知りました。一度、会って謝りたいです〉

静波の記事とは、先月発売された京都北部の旅行雑誌のことだろう。

宮下から取材を受けてほしいと頼まれ、水月は迷った末に承諾した。

掲載されたのは、店の外観と、その日に出した料理の写真だった。水月自身の写真は、小さく一枚だけ載っている。

京都市内の料亭で修業したのち、三年前に伊根へ移り、地元の魚と野菜を使う店を開いた。

記事には、それだけが書かれていた。

佳月の名前は出していない。

長谷川修司のことも、自分が作った料理を奪われたことも書いていなかった。

それでも、奈緒は記事を見つけた。

水月はメッセージを削除しなかった。

返信もしなかった。

昼の営業が始まると、考える時間はなくなった。

最初の客は、美代と潮路へ泊まっている女性二人だった。

続いて、宮津から来た夫婦。

最後に、中村文子が一人で入ってきた。

「空いてる?」

「どうぞ」

「予約してないけど、ええ?」

「今日は大丈夫です」

水月はいつもの席へ中村を案内した。

その日の献立は、甘鯛の若狭焼き、焼き茄子と胡瓜の胡麻酢和え、南瓜の含め煮、冬瓜の吸い物だった。

料理を出し、器を下げ、次の魚を焼く。

一つずつ手を動かしている間は、携帯電話のことを考えずに済んだ。

最後の客を見送ったのは、午後二時過ぎだった。

暖簾を片づけ、戸を閉める。

厨房へ戻ると、急に音が減った。

水月は、洗い場へ積んだ器を一枚ずつ洗った。

泡を流し、布巾で拭き、棚へ戻す。

最後の器を置いたあとも、手を止められなかった。

まな板を洗う。

焼き台の受け皿を外す。

床を拭く。

翌日の出汁を取るため、昆布を水へ浸ける。

いつもなら夕方の仕込みへ移る時間だったが、その日は夜の営業を入れていなかった。

仕事は残っていない。

水月は手を拭き、携帯電話を開いた。

奈緒から新しい連絡はなかった。

〈会って、何を謝るのですか〉

そこまで入力した。

送らずに消す。

何を謝るのかは分かっている。

佳月で起きたことを知りながら、何も言わなかったこと。

水月が長谷川に問い詰められているとき、目を逸らしたこと。

辞める日に、水月へ「仕方なかった」と言ったこと。

あれから五年が過ぎている。

今さら謝られて、何が変わるのだろう。

水月は携帯電話を前掛けのポケットへ入れた。

戸締まりをして外へ出ると、道の向こうから海斗が歩いてきた。

仕事の昼休みなのだろう。

薄い青色のシャツに、黒いパンツを穿いている。片手には、商店の袋を提げていた。

「今日は早いね」

「昼だけだから」

「店、終わった?」

「今、閉めたところ」

海斗は水月の顔を見た。

「何かあった?」

「どうして」

「疲れている顔をしてる」

「暑いだけ」

水月が歩き出すと、海斗も隣へ並んだ。

「昼休みは?」

「あと二十分」

「家へ戻らなくていいの?」

「戻る途中」

静波と海斗の家の間にある細い路地を、二人で歩く。

道路から聞こえる車の音。軒先で鳴る風鈴。海鳥の声。

海斗は何度か水月へ視線を向けたが、それ以上は尋ねなかった。

海斗の家へ続く道の手前で、水月は立ち止まった。

「奈緒から連絡が来た」

海斗も足を止めた。

「奈緒さん?」

「佳月で一緒に働いていた人。前に話したでしょう」

「あのとき、何も言わなかった人?」

水月はうなずいた。

海斗は、すぐに何かを言おうとしてやめた。

「何て?」

「会って謝りたいって」

「会うの?」

「分からない」

「会いたくない?」

水月は海を見た。

会いたくない。

顔を見たくない。

なぜ五年も経ってから連絡をしてきたのか、聞きたくない。

けれど、奈緒が何を言うつもりなのかを知りたい気持ちもあった。

「今さら謝られても、困る」

「そうだね」

「会わなくてもいいと思う?」

海斗は少し考えた。

「僕が決めることじゃない」

「また、それ?」

「水月が前に言ったんだよ」

「意見を聞いてるの」

「僕なら、会わないかもしれない」

海斗は正直に答えた。

「でも、会わなかったことをあとで考え続けるなら、一度だけ会うと思う。謝しを受け入れるためじゃなくて、何を言いに来たのか聞くために」

「聞いたら、許さないといけない?」

「許さなくていい」

海斗の返事は早かった。

「謝るのは奈緒さんがすること。許すかどうかは水月が決めることだから、交換条件じゃない」

水月は海斗を見た。

彼の表情に迷いはなかった。

「海斗は、奈緒に腹が立たないの?」

「立つよ」

「会ったこともないのに?」

「水月が一人で辞めることになったとき、黙っていた人だから」

「なら、会わない方がいいと言わないの?」

「僕が腹を立てることと、水月が会うかどうかは別だから」

水月は息を吐いた。

海斗は腕時計を見た。

「仕事へ戻る」

「うん」

「今夜、電話する?」

「木曜日じゃないけど?」

「電話は木曜日以外でもいいだろ」

「疲れていなければ」

「九時頃にかける」

海斗は家へ向かった。

水月は静波へ戻り、もう一度携帯電話を開いた。

奈緒への返信欄に文字を入れる。

〈謝罪を受け入れるかどうかは分かりません。それでもよければ、一度だけ話を聞きます〉

今度は消さなかった。

送信すると、十分ほどで返信が届いた。

〈ありがとうございます。伊根へ伺います。水月の都合に合わせます〉

水月は翌週の月曜日、午後三時を指定した。

静波の定休日だった。

奈緒は、約束の十五分前に現れた。

紺色のワンピースに薄い上着を羽織り、肩から黒い鞄を提げていた。髪は佳月にいた頃より短くなり、顔には薄く疲れが出ていた。

戸の前に立った奈緒は、水月を見て足を止めた。

「久しぶり」

「どうぞ」

水月は挨拶を返さず、店へ招いた。

奈緒はカウンターへ座った。

水月は少し離れた席に、自分のための椅子を置いた。

厨房側には入らない。

客と店主として向かい合う位置にも座らない。

同じ床の上で、二人の間に距離を置いた。

「お茶、いただいてもいい?」

奈緒が尋ねた。

水月は一瞬迷い、冷たい麦茶を出した。

奈緒は湯飲みを両手で持ったまま、飲まなかった。

「記事を見たの」

「メッセージに書いてあった」

「元気そうで、よかった」

「その話をしに来たの?」

奈緒は首を振った。

鞄から、茶色い封筒を取り出す。

「これを渡したくて」

水月は受け取らなかった。

「何?」

「佳月にいた頃のもの。水月が作った料理の記録」

奈緒は封筒を机へ置いた。

中から、数枚の紙を出す。

一枚目は、厨房で撮った写真だった。

白い調理着を着た水月が、椀へ料理を盛りつけている。

今より髪が長く、顔つきも若い。

椀の中には、焼いた茄子を裏ごしした淡い灰紫色のすり流しと、皮目を炙った甘鯛が入っていた。上には、針生姜と青柚子が載っている。

水月が初めて自分で献立を考え、試作を重ねた料理だった。

次の紙には、試食会の日付と参加した料理人の名前が書かれている。

一番下には、奈緒の字で、

〈相沢さん試作。焼き茄子の香りが強いので、甘鯛の皮目をさらに焼く〉

と記されていた。

「どうして、これを持っていたの」

「試食会の記録を取るのが、私の役目だったから。写真も、自分の携帯電話で撮った」

「店へ提出したでしょう」

「同じものを、個人の記録として残していた」

奈緒は別の紙を出した。

佳月の厨房内で共有されていた献立表の写しだった。

試作した料理の欄には、相沢水月の名前がある。

水月は紙を見つめた。

あの日、これがあれば。

長谷川が、自分の料理だと言ったとき。

料理長が、水月に勘違いではないかと尋ねたとき。

奈緒がこの記録を見せていれば。

水月は佳月を辞めずに済んだかもしれない。

長谷川の言葉を信じかけた自分を、何年も責めずに済んだかもしれない。

「持っていたのに、出さなかったの」

声が、自分でも驚くほど低くなった。

奈緒は顔を上げられなかった。

「怖かった」

「何が?」

「長谷川さんに逆らうことが。料理長にも、店にも」

「私が辞めるより?」

奈緒の指が震えた。

「そのときは、自分のことしか考えられなかった」

「あなたは、私に仕方ないと言った」

「覚えてる」

「何が仕方なかったの?」

奈緒は答えなかった。

水月は立ち上がった。

座っていられなかった。

厨房へ入り、流し台へ手をつく。

奈緒の前で泣きたくなかった。

怒鳴ることもしたくなかった。

水を出す。

冷たい水へ指を当てる。

「水月」

「名前を呼ばないで」

背後で、奈緒が息を止めた。

水月は蛇口を閉めた。

「謝りたいと言ったね」

「うん」

「謝って、自分が楽になりたいの?」

「そう思われても仕方ない」

「また、仕方ない」

奈緒は唇を噛んだ。

「ごめんなさい。今の言い方も、逃げてた」

水月は振り返った。

奈緒の目から涙が落ちていた。

「私は、ずっと佳月に残った。水月が辞めたあとも、長谷川さんの下で働いた。あの料理が店の献立へ入って、長谷川さんが評価されるのも見てた」

「止めなかった」

「止めなかった」

奈緒は否定しなかった。

「水月が間違っていないことを知っていたのに、黙ってた。自分が辞めさせられるのが怖かった。料理の世界で働けなくなると思った」

「今は怖くないの?」

「怖い」

「なら、どうして来たの」

奈緒は鞄から一冊の雑誌を出した。

見覚えのある料理が、見開きで掲載されていた。

濃い色の器。

焼き茄子のすり流し。

甘鯛。

長谷川修司の名前。

記事の見出しには、〈修業時代に生み出した原点の椀〉と書かれている。

「先月出た料理雑誌」

奈緒が言った。

「水月の記事を見たのも、同じ頃だった。長谷川さんは、京都で自分の店を出してる。あの料理を、今も自分の代表作として出してる」

水月は記事を読んだ。

長谷川は、若い頃に焼き茄子の香りと甘鯛を合わせる発想を得たと語っている。

佳月で、何度も試作した。

料理長から厳しい意見を受けながら完成させた。

その経験が、料理人としての自信になった。

すべて、水月が経験したことだった。

文字を追ううちに、身体の奥が冷たくなった。

過去の一度だけではない。

長谷川は今も、水月の時間を自分の経歴として語っている。

「この記事を読んだとき、もう黙っていられないと思った」

奈緒が言った。

「遅すぎる」

「分かってる」

「分かっていない」

水月は雑誌を閉じた。

「あなたは五年間、これを持っていた。私は、自分の記憶しかなかった。誰も信じてくれなかったから、何度も、私の方が勘違いしていたのかもしれないと思った」

奈緒は何も言わなかった。

「料理を考えたことより、誰にも信じてもらえなかったことの方が苦しかった」

水月の声が震えた。

止めようとしても、言葉が出た。

「佳月を辞めたあと、しばらく料理ができなかった。何を作っても、また誰かに取られるような気がした。自分の名前を出すのが怖かった。店を開いてからも、取材を断った。料理を説明するたび、あのときのことを思い出した」

奈緒は顔を覆った。

「ごめんなさい」

「今は、その言葉を聞きたくない」

「うん」

「泣かないで。私が泣かせたみたいになる」

奈緒は手を下ろし、何度も息を整えた。

水月は椅子へ戻らなかった。

「この記録を、私に渡すためだけに来たの?」

「違う」

奈緒は涙を拭き、顔を上げた。

「必要なら、私が証言する。雑誌の編集部にも、佳月にも、長谷川さんにも。私の名前を出していい」

「仕事は?」

「去年、佳月を辞めた」

「なぜ」

「母が病気になって、実家へ戻った。今は宇治の店で働いてる」

「その店に迷惑がかかるかもしれない」

「店主には話した。自分が黙っていたことも、これから証言したいことも」

「何て言われたの」

「決めるのは私だと言われた」

水月は封筒へ目を向けた。

写真。

献立表。

試食の記録。

五年前に欲しかったものが、目の前に置かれている。

受け取れば、過去が正しくなるわけではない。

奈緒を許せるわけでもない。

失った時間も戻らない。

それでも、料理を作ったのは自分だったと示せる。

「これは受け取る」

水月は言った。

「でも、あなたを許したわけじゃない」

「分かってる」

「これから許すかどうかも、分からない」

「それでいい」

「あなたが決めないで」

奈緒は一瞬、口を閉じた。

「……分かりました」

今度の返事には、逃げる響きがなかった。

奈緒が帰ったあと、水月は店の戸を閉めた。

封筒を厨房へ持ち込むことはできず、カウンターの上へ置いた。

携帯電話を取り出し、海斗へ連絡する。

だが、発信する直前に思い出した。

その日は、海斗が新しい会社で初めて夜間当番を担当する日だった。

午後六時から翌朝六時まで。

通常の勤務を早めに終え、夕方から自宅で待機する。

監視会社が一次対応し、必要な場合だけ連絡が入る。

「何も起きないと思う」と海斗は言っていた。

けれど、水月から電話をかければ、彼は出るだろう。

仕事中だからと断ることは、まだ得意ではない。

水月は発信をやめた。

〈奈緒が来ました。証拠になる記録を受け取りました。今夜の当番が終わってから話したいです〉

メッセージだけを送った。

海斗からの返信は、すぐに届いた。

〈分かりました。朝六時を過ぎたら連絡します。今夜、苦しくなったら美代さんか、ほかの人に連絡してください。僕も緊急なら出ます〉

自分へ連絡するなとは書いていない。

それでも、今すぐ駆けつけるとも言わなかった。

水月は携帯電話を置いた。

静波に一人でいると、奈緒の言葉が何度も蘇った。

水月は厨房へ入った。

冷蔵庫を開ける。

朝に仕入れた甘鯛が残っている。

野菜籠には、片山から届いた茄子があった。

水月は一本を手に取った。

濃い紫色の皮に張りがあり、へたの棘が指へ触れた。

焼き台へ火を入れる。

茄子を載せ、皮が黒くなるまで焼く。

焦げる香りが厨房へ広がった。

あの料理を、佳月を辞めてから一度も作っていない。

静波の献立へ入れようと考えたこともなかった。

焼き茄子を見るだけで、長谷川の声が蘇った。

「君の試作を、僕が料理長へ出しておいた」

あの日、長谷川は悪びれずに言った。

「若い君の名前では、料理長も真剣に見ない。店の献立へ入れば、それでいいだろう」

水月が自分の料理だと伝えると、長谷川は笑った。

「発想だけで料理が完成すると思っているのか」

試作の調整も、器を決めたのも、水月だった。

それでも料理長は、長谷川の言葉を信じた。

長谷川が先輩だったから。

客から評価されていたから。

水月より、店に必要な人間だったから。

茄子の皮が弾けた。

水月は火から下ろし、熱いうちに皮を剥いた。

指先が熱い。

冷水へ入れれば簡単だったが、香りが逃げる。

布巾で持ち、丁寧に黒い皮を外す。

中の果肉を裏ごしし、出汁でのばす。

佳月で作ったときは白味噌をわずかに加えた。

今は、入れたくないと思った。

伊根の甘鯛には、焼いた皮の脂がある。

茄子と出汁だけの方が、魚の甘みを邪魔しない。

甘鯛の骨から取った出汁を合わせる。

薄口醤油を数滴。

塩をひとつまみ。

味を確かめる。

記憶の中の料理とは違っていた。

だが、違うことが怖くなかった。

水月は甘鯛の皮目へ細かく包丁を入れ、炭火で炙った。

椀へ焼き茄子のすり流しを張り、甘鯛を置く。

針生姜ではなく、青柚子の皮だけを削る。

湯気とともに、茄子の香りが立った。

一口味わう。

五年前より、出汁が軽い。

甘鯛の皮の香ばしさが、茄子の甘みと重なる。

自分の料理だと思った。

過去に作ったものの再現ではない。

今の自分が、この土地の魚と水で作った椀だった。

水月は残りをもう一つの椀へ盛った。

だが、海斗は仕事中だった。

誰かへ食べてもらいたい。

そのために作ったのではないはずなのに、一人で味わうだけでは終えたくなかった。

水月は美代へ電話をかけた。

「今、静波まで来られますか」

〈どうしたの。何かあった?〉

「食べてもらいたいものがあります」

十分ほどして、美代がやってきた。

「夜に呼び出すから、何事かと思ったよ」

水月は椀を温め直し、美代の前へ置いた。

「焼き茄子と甘鯛です」

美代は蓋を取った。

湯気の中で、甘鯛の皮が淡く光っている。

「きれいやね」

美代は出汁を一口飲んだ。

すぐには何も言わなかった。

甘鯛を箸で崩し、茄子のすり流しと一緒に口へ運ぶ。

「どうですか」

水月が尋ねると、美代は顔を上げた。

「おいしいよ」

「それだけ?」

「料理人に感想を求められると、困るね」

美代はもう一口食べた。

「茄子の味がする。でも、魚も負けてない。最初は薄いと思ったけど、あとから甘みが残る」

水月はうなずいた。

「昔、作った料理なんです」

「京都で?」

「はい」

水月は、奈緒が来たことを話した。

記録を持っていたこと。

長谷川が今も自分の料理として出していること。

証言すると言ったこと。

美代は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。

「どうしたいの」

尋ねられ、水月は答えられなかった。

長谷川へ謝らせたいのか。

料理雑誌へ訂正を求めたいのか。

佳月に、自分が正しかったと認めさせたいのか。

すべてを望んでいるようにも思えた。

同時に、再び京都の人間と関わることが怖かった。

「分かりません」

「なら、今夜決めんでもええ」

美代は椀を置いた。

「でも、この料理は店で出したらいい」

「なぜ?」

「おいしいから」

あまりに簡単な答えだった。

「誰が考えたか知らなくても、お客さんは食べるよ。でも、水月さんが作ったんやったら、水月さんの名前で出せばええ」

美代は最後の出汁まで飲んだ。

「ごちそうさま」

水月は空になった椀を見た。

五年前、料理長へ出すために作った椀ではない。

長谷川から取り戻すためだけの料理でもない。

目の前の人に食べてもらうための一品として、初めて器が空になった。

翌朝六時十二分、海斗から電話がかかってきた。

水月はほとんど眠っていなかった。

布団の中で、呼び出し音を聞く。

出ると、海斗の声にも疲れがあった。

〈起きてた?〉

「今、起きた」

〈当番、終わった〉

「何かあったの?」

〈二時頃に一件。僕だけでは判断できなかったから、当番のもう一人と藤崎さんを呼んだ。三人で対応した〉

「一人でやらなかったんだ」

〈決まりだから〉

「決まりがなければ?」

海斗は少し黙った。

〈呼ばなかったかもしれない〉

「正直ね」

〈今は、呼んでよかったと思ってる。僕が見落としていたところを、ほかの人が見つけた〉

「終わったなら、寝て」

〈水月の話を聞いてから〉

水月は起き上がり、窓を開けた。

朝の風が入る。

海の上では、小さな舟が港へ戻っていた。

水月は奈緒との会話を話した。

記録の内容。

長谷川の記事。

奈緒を許せなかったこと。

美代へ料理を出したこと。

海斗は、途中で質問しなかった。

〈水月は、どうしたい?〉

話し終えたあと、やはり同じことを尋ねた。

「雑誌へ訂正を求めたい」

口にすると、胸が強く打った。

「長谷川に、あれは自分一人で考えた料理ではないと認めてほしい。私が作ったことを、名前を出して訂正してほしい」

〈うん〉

「でも、怖い」

〈何が?〉

「信じてもらえないこと。長谷川が否定すること。料理人の間で、面倒な人だと思われること。静波の名前まで出ること」

〈静波へ影響が出る可能性はあるね〉

海斗は、簡単に大丈夫とは言わなかった。

「店へ嫌がらせが来るかもしれない」

〈証拠を先に整理した方がいい。原本を触らず、全部複製して、いつ誰から受け取ったか記録する。奈緒さんの証言も、口頭だけではなく文章にしてもらう〉

海斗の声が、仕事のときのように変わった。

水月は苦笑した。

「急に詳しくなるね」

〈ごめん。勝手に進めた〉

「いい。今は、方法を聞きたい」

〈弁護士へ一度相談した方がいいと思う。いきなり長谷川さんへ連絡する前に、何を求めるのかを決める。謝罪なのか、記事の訂正なのか、料理名の使用をやめさせたいのか〉

「料理を出すなとは思わない」

水月は自分の気持ちを確かめながら言った。

「料理は、作れば変わる。同じ材料でも、作る人で違う。長谷川が今、どう作っているかまでは知らない。でも、自分が生み出したと語るのはやめてほしい」

〈なら、それを伝える〉

「海斗も一緒に来る?」

尋ねてから、自分でも驚いた。

長谷川と会うなら、一人では怖い。

海斗に隣にいてほしい。

だが、海斗はすぐには答えなかった。

〈水月が望むなら行く。でも、僕がいることで話しにくくならない?〉

「分からない」

〈奈緒さんは?〉

「証言すると言ってる」

〈まず、弁護士へ相談して、奈緒さんと一緒に行く方法もある。僕は店の外で待つこともできる〉

水月は目を閉じた。

海斗が代わりに長谷川を責めれば、一時的には楽かもしれない。

けれど、これは水月自身が伝えるべきことだった。

「奈緒と行く」

水月は答えた。

「海斗は、帰ってきたときに話を聞いて」

〈分かった〉

「それでいいの?」

〈腹は立つよ。僕が長谷川さんに言いたいこともある。でも、僕が怒る場じゃない〉

「ありがとう」

〈終わったら迎えに行く〉

「京都まで?」

〈天橋立までなら〉

「遠いよ」

〈僕が行きたい〉

今度は、水月がすぐに答えなかった。

「じゃあ、お願い」

通話を終えたあと、水月は奈緒へ連絡した。

二人で弁護士へ相談すること。

記録の提供経緯を文章にしてほしいこと。

必要であれば、長谷川へ会いに行くこと。

奈緒からは、承知しました、と返ってきた。

それからの三週間、水月は営業を続けながら準備をした。

京都市内の弁護士へ相談し、記録を確認してもらう。

奈緒は、当時見聞きしたことを日付とともに書面へまとめた。

佳月へも、試食会の記録が残っていないか照会した。

最初の返事は、古い資料のため確認できない、というものだった。

しかし、弁護士を通して再度求めると、当時の献立会議の予定表と、仕入れ記録の写しが送られてきた。

水月が茄子と甘鯛を試作のために発注した日付が残っていた。

料理雑誌の編集部へは、記事の訂正を求める書面を送った。

返事はすぐには来なかった。

一週間後、編集部から確認の連絡があった。

長谷川にも取材内容を確認する。

双方の主張が異なる場合、訂正できない可能性がある。

掲載から時間が経っているため、次号での訂正は難しい。

慎重な言葉が並んでいた。

水月は、また誰にも信じてもらえないのではないかと思った。

店へ立っていても、手が止まることがあった。

甘鯛を見るたび、長谷川の記事を思い出した。

そんな日は、料理を献立へ入れなかった。

無理に作れば、過去へ引き戻されるだけだった。

八月初め、長谷川から直接電話がかかってきた。

水月は出なかった。

留守番電話には、穏やかな声が残されていた。

〈久しぶり。雑誌の件で連絡をもらった。誤解があるようなので、一度話したい〉

誤解。

その一言を聞いた瞬間、水月は携帯電話を投げそうになった。

弁護士へ連絡し、今後の連絡は代理人を通すよう伝えてもらった。

それでも、数日後に長谷川から手紙が届いた。

封筒には、京都の店の名前が印刷されていた。

水月は、一人で開けることができなかった。

木曜日の夜、海斗の家へ持っていく。

「読んでほしい?」

海斗が尋ねた。

「隣にいて」

海斗はうなずいた。

水月は自分で封を切った。

手紙には、長谷川の考えが丁寧な字で書かれていた。

若い料理人同士で意見を出し合う中から生まれた料理だった。

水月の発想が一部含まれていたことは認める。

しかし、店の献立として完成させたのは長谷川であり、誰か一人の料理とは言えない。

当時の行き違いによって水月が傷ついたことは残念に思う。

今後、共同で考案した料理だと説明することは検討する。

読み終えた水月は、紙をテーブルへ置いた。

「共同で考案したことにしたいんだね」

海斗が言った。

「私は、長谷川と一緒に考えていない」

「うん」

「私が作った試作を、勝手に料理長へ出した。それを共同と言われたら、また同じになる」

「どう返す?」

「受け入れない」

水月はすぐに答えた。

「発想の一部ではない。試作も、調整も、私がした。長谷川が料理長へ出す前に、料理は完成していた」

海斗は手紙へ触れなかった。

「そのまま弁護士へ伝えればいい」

「長谷川は、認めないかもしれない」

「認めなくても、水月が要求を変える必要はない」

「訂正されなかったら?」

海斗は少し考えた。

「静波で、水月の名前で出す」

水月は顔を上げた。

「雑誌が訂正しなくても、長谷川さんが認めなくても、水月が作ったものだと知っている人はいる。記録もある。奈緒さんも証言する。それに、今の料理は水月が作っている」

「それだけでいいと思う?」

「水月が、それだけでは足りないと思うなら、訂正を求め続ければいい。店で出すことと、諦めることは同じじゃない」

海斗の言葉を聞き、水月は手紙を封筒へ戻した。

弁護士を通じて、長谷川の提案を拒否した。

水月が考案した事実を明記すること。

記事の電子版を訂正すること。

次号に訂正文を掲載すること。

今後、長谷川が料理の由来を説明する際、水月の名を伏せて自作だと語らないこと。

求める内容は変えなかった。

さらに二週間が過ぎた。

編集部から、電子版の記事を一時的に非公開にしたと連絡があった。

長谷川との協議には、まだ時間がかかっている。

完全な訂正ではない。

それでも、彼の言葉だけが事実として掲載され続ける状態は止まった。

八月最後の日曜日。

水月は、静波の入口へ黒板を出した。

その日の献立を、白いチョークで書く。

鯵の梅肉焼き。

万願寺唐辛子とじゃこの炊いたもの。

南瓜の冷やし鉢。

最後の一行を書く前に、手が止まった。

焼き茄子と甘鯛の椀。

料理名の下へ、小さく添える。

〈料理人 相沢水月〉

店の献立へ自分の名を書くのは、初めてだった。

大げさに見えるかもしれない。

客から理由を尋ねられるかもしれない。

それでも、消さなかった。

最初の客は吉岡夫婦だった。

黒板を見た妻が、不思議そうに尋ねた。

「今日は、水月さんの名前が書いてあるのね」

「昔、私が考えた料理なんです」

水月は答えた。

声は震えなかった。

「そうなの。楽しみ」

妻はそれ以上聞かなかった。

夫婦がカウンターへ座り、続いて中村が入ってきた。

最後の席には、海斗が予約をしていた。

「客として来ました」

「分かっています」

水月は四人分の椀を用意した。

茄子を焼き、皮を剥き、裏ごしする。

甘鯛の骨から取った出汁でのばす。

皮目を炙った身を、温めた椀へ置く。

青柚子を削る。

蓋を閉じ、一人ずつの前へ運ぶ。

海斗は蓋を取ったあと、湯気の向こうにある料理を見た。

すぐに箸をつけなかった。

「どうかしましたか」

水月が客に尋ねる口調で言う。

「名前を見てから食べようと思って」

海斗は入口の黒板へ目を向けた。

水月も、同じ方を見る。

白い文字は、外から入る風に消されることなく残っていた。

「お熱いうちにどうぞ」

水月が言うと、海斗はうなずいた。

出汁を一口飲む。

甘鯛を崩し、焼き茄子と一緒に食べる。

「おいしい」

海斗は、それだけ言った。

吉岡夫婦も、中村も、黙って箸を進めている。

誰も、長谷川を知らない。

佳月で何があったのかも知らない。

水月が五年間、この料理を作れなかったことも知らない。

それでよかった。

料理は、目の前の客へ出すためにある。

水月は厨房へ戻り、次の器を用意した。

営業を終えたあと、海斗だけが残った。

「片づけ、手伝おうか」

「今日はいい」

「待ってる」

海斗はカウンターに座り、水月が器を洗い終えるまで待った。

最後の椀を棚へ戻す。

水月は黒板を店の中へ入れた。

自分の名前が書かれた部分へ、指先で触れる。

「消さないの?」

海斗が尋ねた。

「明日は別の献立だから消す」

「写真、撮っておけば?」

水月は迷った。

以前なら、料理の写真を残すことにも抵抗があった。

誰かに見せれば、また奪われるような気がした。

今は、黒板を壁へ立てかけ、携帯電話を取り出した。

料理名と、自分の名前が画面へ収まるように撮る。

一枚目は少し傾いた。

もう一度撮る。

今度は、文字がまっすぐ入った。

「送って」

海斗が言った。

「何に使うの」

「保存するだけ」

水月は写真を送った。

海斗の携帯電話が、カウンターの上で短く震えた。

「奈緒さんにも送る?」

尋ねられ、水月は考えた。

奈緒を許したわけではない。

これから親しくするつもりも、まだなかった。

けれど、彼女が持っていた記録がなければ、今日、自分の名を書くことはできなかったかもしれない。

水月は奈緒への連絡画面を開いた。

写真を添付する。

〈今日、静波で出しました〉

それだけ送った。

返信は、店の戸締まりをしている間に届いた。

〈見せてくれて、ありがとうございます〉

謝罪の言葉はなかった。

許しを求める言葉もなかった。

水月は携帯電話を閉じた。

外へ出ると、夏の終わりの風が吹いていた。

昼間の暑さが残る道を、海斗と並んで歩く。

「長谷川から訂正が出ても、出なくても、この料理は続ける?」

海斗が尋ねた。

「毎日は出さない。甘鯛と茄子がいい日にだけ」

「食べたいからって、頼んでも?」

「材料がなければ作らない」

「海の都合?」

「それと、私の都合」

水月は答えた。

海斗が笑う。

水月も、少しだけ笑った。

静波の黒板には、明日の朝になれば別の献立を書く。

今日の文字は消える。

それでも、写真は残っている。

料理を食べた人もいる。

何より、水月自身が、自分の名前を消さずに一日を終えた。

二人は海沿いの道を歩いた。

水月は途中で立ち止まり、暗い水面へ目を向けた。

「海斗」

「うん」

「今日は、一人で帰りたくない」

海斗は理由を尋ねなかった。

「僕の家へ行く?」

水月は首を振った。

「私の家に来て」

「分かった」

海斗の手が伸びる。

水月はその手を握った。

過去がなくなったわけではない。

奈緒を許したわけでも、長谷川との話が終わったわけでもない。

それでも今夜は、自分で行き先を選べた。

水月は海斗の手を離さず、自分の家へ続く道を歩いた。



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