第16章 帰る場所
九月半ば、料理雑誌の編集部から封書が届いた。
水月は、静波の開店準備を終えたあと、一人で封を切った。
中には、次号へ掲載される訂正文の確認用紙が入っていた。
前年の記事において、長谷川修司が「修業時代に生み出した」と紹介した料理は、佳月に勤務していた相沢水月が考案し、試作と調整を行ったものである。
取材内容の確認が不十分であったことを、相沢水月氏と読者へお詫びする。
短い文章だった。
五年間の苦しさを説明するには、あまりに少ない。
水月が佳月を辞めたことも、その後しばらく料理ができなくなったことも書かれていない。奈緒が記録を残し、ようやく証言したことも、長谷川が訂正を拒み続けたことも、読む人には分からない。
それでも、料理を考案した人間として、水月の名前が記されていた。
同封された書面には、長谷川が今後、料理の由来を説明する際には水月の考案であることを明示すると約束した、とあった。
謝罪の言葉はなかった。
長谷川から届いた確認書にも、
〈当時の認識に相違が生じたことは遺憾に思います〉
としか書かれていなかった。
自分がしたことを、彼は最後まで盗用とは認めなかった。
水月は、確認用紙をカウンターへ置いた。
嬉しいかと問われれば、分からなかった。
怒りが消えたわけではない。
長谷川の名前を見れば、今も身体が硬くなる。
奈緒を許せたとも思わない。
ただ、自分の記憶だけではなくなった。
誰かに否定されれば揺らいでしまうものではなく、日付と記録と名前を持つ事実になった。
水月は確認欄へ署名した。
相沢水月。
書き終えた名前を、しばらく見つめる。
それから用紙を封筒へ戻し、編集部へ返送するための鞄へ入れた。
午前十一時半、静波の暖簾を出す。
入口の黒板には、その日の献立を書いた。
鰆の味噌幽庵焼き。
里芋と烏賊の煮物。
胡麻豆腐。
焼き茄子と甘鯛の椀。
料理名の下に、自分の名前は書かなかった。
毎回、示す必要はないと思った。
消したのではない。
誰の料理かを、自分が知っている。
必要なときには言葉にできる。
それで十分だった。
最初の客を迎えた直後、海斗からメッセージが届いた。
〈試用期間が終わりました。来月から正式採用です〉
水月は営業中だったため、すぐには返信しなかった。
昼の客を見送り、器を洗い終えてから、携帯電話を開いた。
〈おめでとう。今夜、何か食べたいものはありますか〉
十分ほどして、返信が届いた。
〈水月が作らないもの〉
意味が分からず、電話をかける。
海斗は、すぐに出た。
〈仕事中じゃない?〉
「昼休み。水月こそ、店は?」
「終わったところ。作らないものって何?」
〈今日は僕が作る。正式採用になったからって、水月の仕事を増やしたくない〉
「お祝いする側が作るの?」
〈自分の祝いだから、自分で作ってもいいだろ〉
「食べたいものは?」
〈餃子〉
水月は思わず笑った。
「静波では出さないね」
〈だから、僕が作る〉
「包めるの?」
〈たぶん〉
「何個作るつもり?」
〈二十個くらい〉
「二人で?」
〈余ったら冷凍する〉
以前の海斗なら、食べきれない数を作り、残すことを失敗だと考えただろう。
水月は答えた。
「七時に行く」
〈材料を買っておく〉
「手伝わないからね」
〈包むのは手伝って〉
「話が違う」
〈作るのは僕。手伝うのは水月〉
「都合がいいね」
電話を切ったあとも、水月の口元には笑みが残っていた。
海斗が伊根へ移って、四か月が過ぎた。
最初は、町で会うたびに特別な感じがした。
旅行者だった海斗が、商店の袋を持って歩いている。
自転車で坂を上っている。
ごみ出しの日を間違え、中村に呼び止められている。
浜田の家で、古いパソコンの設定をしている。
その姿を見るたび、本当に住んでいるのだと確かめていた。
今は、海斗が道を歩いていても驚かない。
姿が見えない日も、東京へ戻ったのではないかとは思わなくなった。
二人は木曜日の夜に食事をした。
毎週、必ず守れたわけではない。
水月に団体の予約が入った日もあれば、海斗が夜間当番になった日もある。
前日までに予定を変え、代わりの日を決める。
疲れているときは、食事を作らず、買ってきたパンとスープだけで済ませた。
一緒にいる時間を豪華にしなくてもよいと、少しずつ分かってきた。
その夜、海斗の家へ行くと、台所に刻んだキャベツと韮、豚挽き肉が並んでいた。
「もう混ぜたの?」
「今から」
海斗は調味料を一つずつ計っていた。
醤油。
酒。
胡麻油。
おろした生姜と大蒜。
水月が隣から覗く。
「味見は?」
「生肉だから、できない」
「少し焼けばいいでしょう」
「そこまで考えてなかった」
水月は小さなフライパンを出した。
海斗が混ぜた餡を、ひとつまみだけ焼く。
「どう?」
海斗が尋ねる。
「少し塩が足りない」
「醤油を増やす?」
「塩でいい。醤油を入れすぎると、水が出るから」
「手伝わないと言ってなかった?」
「意見を言っただけ」
「料理人は便利だな」
二人で餃子の皮を広げた。
海斗が包んだものは、餡の量が多く、縁が閉じなかった。二つ目は逆に少なすぎて、平たい形になった。
水月が包むと、同じ間隔で襞が並んだ。
「速い」
「毎日、包丁を使ってるから」
「餃子は出してないだろ」
「手を動かす仕事は同じ」
海斗は水月の指を見ながら、三つ目を包んだ。
今度は、先ほどより形が整った。
二十個作るつもりが、餡が余り、結局三十個になった。
十六個を焼き、残りは冷凍する。
焼き上がった餃子の一つは皮が破れ、肉汁がフライパンへ流れていた。いくつかは底が焦げている。
それでも、二人で食べるとおいしかった。
「正式採用、おめでとう」
水月が麦茶の入ったグラスを上げる。
海斗もグラスを重ねた。
「ありがとう」
「試用期間、長かった?」
「短かった。まだ分からないことが多い」
「仕事は続けられそう?」
「今は、続けたいと思ってる」
海斗は餃子を食べながら答えた。
「前の会社より給与は下がったけど、生活費も下がった。夜間当番も、一人で抱えなくていい。藤崎さんは、僕が作業を引き受けすぎると止める」
「いつまで止めてもらうつもり?」
水月が尋ねると、海斗は箸を止めた。
「厳しいな」
「誰かに止めてもらうだけでは、同じでしょう」
「分かってる。最近は、仕事を頼まれたとき、先に予定表を確認するようにしてる」
「できてる?」
「七割くらい」
「残りの三割は?」
「返事をしたあとに、予定を見る」
「順番が逆」
「だから、まだ七割なんだよ」
海斗は笑った。
以前なら、できていない部分を指摘されると、言い訳をしたかもしれない。
今は、自分の癖を欠点として隠そうとしなくなった。
「水月は?」
海斗が尋ね返す。
「何が?」
「団体の予約、断れてる?」
「出せる数を伝えてる」
「休みの日に仕込みをしてない?」
「……少しはする」
「何割?」
「料理は数字で決められない」
「ずるいな」
水月も笑った。
食後、正式採用の通知を見せてもらった。
画面には、海斗の働きについて、藤崎からの評価が書かれていた。
技術的な理解が早い。
問題を一人で解決せず、共有できるようになった。
資料が分かりやすく、ほかの社員の助けになっている。
一方で、抱え込みやすい傾向があるため、今後も作業量の確認を続ける。
よいことだけではなかった。
そのことが、かえって信用できた。
「正式採用になったから、もう東京へ戻らない?」
水月は尋ねた。
「戻ってほしい?」
「質問に質問で返さないで」
「今のところ、戻るつもりはない」
「今のところ?」
「一生のことを、今ここで決めたように言いたくない。会社の状況も変わるかもしれないし、僕の気持ちも変わるかもしれない」
水月の胸に、わずかな不安が生まれた。
それを隠さずに言う。
「変わったら、東京へ帰るの?」
「可能性はある」
海斗は水月の顔を見た。
「でも、水月に何も言わずに決めない。変わったときには、一緒に話す」
以前、海斗は水月の近くへ来るために、仕事と生活を大きく変えた。
もう離れないと約束してほしい気持ちは、どこかにあった。
けれど、変わらないことを約束させれば、二人のどちらかが苦しくなったとき、言えなくなる。
水月はうなずいた。
「私も、静波をずっと続けると言い切れない」
「辞めたいの?」
「今は続けたい。でも、身体が動かなくなる日も来る」
「そのときに考えよう」
簡単な言葉だった。
何十年先まで、同じ形でいることを約束するのではない。
変わったとき、話すことをやめない。
水月には、その方が信じられた。
十月の連休、海斗の母親が伊根を訪れた。
美代の宿へ一泊する予定だった。
海斗からは、何度も事前に連絡が来た。
〈母は食べられないものはありません〉
〈静波の予約は、ほかのお客さんと同じように入れてください〉
〈特別な料理は作らなくて大丈夫です〉
三度目のメッセージを受け取ったとき、水月は電話をかけた。
「何を心配しているの」
〈水月が、母のために無理をすること〉
「しない」
〈本当に?〉
「海斗のお母さんだからといって、営業時間も席数も変えない」
〈怒ってる?〉
「少し」
〈ごめん〉
「謝るくらいなら、信じて」
水月は、ほかの客と同じように二名分の席を取り、その日の仕入れに合わせて献立を決めた。
特別にしたのは、甘味を一品加えたことだけだった。
自分がそうしたかった。
海斗の母親は、約束の十分前に現れた。
小柄な女性だった。
髪には白いものが混じり、紺色の上着を着ていた。海斗と並ぶと、目元がよく似ている。
「初めまして。海斗の母です」
「相沢水月です。遠いところ、ありがとうございます」
母親は静波の中を見回した。
「本当に海の上にあるみたいですね」
「舟屋なので、下は海につながっています」
水月は二人をカウンターへ案内した。
海斗は何度も母親の様子を気にしていた。
茶は熱くないか。
椅子は座りにくくないか。
魚の骨は大丈夫か。
母親は、三度目に尋ねられたところで言った。
「海斗、静かに食べなさい」
「心配だから」
「子どもじゃないんだから、自分で言います」
水月は、笑いそうになるのを堪えた。
料理を出す。
秋鯖の味噌煮。
柿と春菊の白和え。
蕪の含め煮。
甘鯛と焼き茄子の椀。
海斗の母親は、一口ずつ時間をかけて食べた。
椀を出したとき、水月の手元を見た。
「これが、雑誌に載ったお料理ですか」
水月は驚いた。
「ご存じなんですか」
「海斗から聞きました。勝手に話してはいけないことだった?」
海斗の顔を見る。
「訂正が出たあとに話した」
母親が言った。
「心配しなくても、誰かに話したりしません」
「もう、隠してはいません」
水月は答えた。
母親は椀の出汁を一口飲んだ。
「おいしいですね」
「ありがとうございます」
「海斗がこちらへ来た理由が、少し分かった気がします」
水月の手が止まる。
母親は続けた。
「料理がおいしいから、ということではなくて。海斗が、自分の食べているものをちゃんと見ているから」
海斗は黙っていた。
「東京にいた頃は、何を食べたか聞いても、覚えていないことが多かったんです。今は電話で、鯵を捌いたとか、野菜を煮たとか、そんな話をします」
水月は、海斗が初めて静波へ来た日を思い出した。
冬瓜を口へ入れたあと、箸を止めた。
自分がどれほど空腹だったのか、食べてから気づいた顔。
あの日から、一年も経っていない。
「私が変えたわけではありません」
水月は言った。
「分かっています」
母親はうなずいた。
「海斗が自分で選んだことです。だからこそ、あなたにお礼を言うのも違うと思っていました」
水月は、海斗を見た。
彼は少し気まずそうに、鯖の骨を外していた。
「でも、近くにいてくれて安心しています」
母親はそう言ったあと、すぐに付け加えた。
「海斗の面倒を見てほしいという意味ではありません」
「分かっています」
今度は、水月も素直に答えられた。
食後、美代の宿まで三人で歩いた。
途中、海斗の母親が先に美代と話しながら進み、水月と海斗は少し後ろを歩いた。
「母さん、変なことを言わなかった?」
「海斗より、話が早い」
「どういう意味?」
「私に面倒を見ろと言わなかった」
「僕も言ってないだろ」
「言葉ではね」
「また厳しい」
水月は海斗の腕へ、自分の腕を軽く当てた。
海斗が笑う。
宿へ着く前、母親が振り返った。
「二人とも、いつ結婚するの?」
海斗が足を止めた。
水月も言葉を失った。
「母さん」
「聞いてはいけなかった?」
「初対面で聞くことじゃないだろ」
「町の人には、もう何度も聞かれているんでしょう」
水月は海斗を見た。
誰が話したのだろう。
美代は顔を逸らし、何も知らないふりをした。
「決まっていません」
水月が答える。
「そう。なら、決まったら教えてください」
母親はそれ以上、追及しなかった。
だが、その日の夜から、結婚という言葉が水月の中に残った。
海斗と結婚したくないわけではない。
むしろ、彼が伊根へ移ってから、いつかは同じ家で暮らすのかもしれないと考えるようになっていた。
ただ、口にすれば、すぐ形を決めなければならない気がした。
結婚する日。
住む家。
静波をどうするか。
姓を変えるのか。
家計を一つにするのか。
子どもを望むのか。
答えのないものが、一度に押し寄せる。
海斗も同じなのか、その話題を出さなかった。
冬が近づくにつれ、伊根の風は冷たくなった。
十一月の終わり、海斗の家の屋根から雨が漏れた。
最初は、窓際の畳へ小さな染みができただけだった。
翌日の夜、強い風雨になると、天井から水滴が落ち始めた。
海斗は水月へ連絡せず、洗面器と鍋を並べた。
貸主と宮下へ連絡し、翌朝見に来てもらう予定を決めた。
夜十一時過ぎ、水月から電話がかかってきた。
〈そっち、雨は大丈夫?〉
「大丈夫」
答えた直後、鍋へ水滴が落ちた。
金属音が電話にも届いた。
〈今の音、何?〉
「雨漏り」
〈大丈夫じゃないでしょう〉
「寝る部屋は濡れてない。明日、見てもらう」
〈今から行く〉
「風が強いから危ない」
〈海斗が来て〉
「水月の家へ?」
〈ほかにどこへ行くの〉
海斗は、並べた鍋を見た。
一晩くらいなら眠れる。
家を空ける方が心配だった。
「本当に大丈夫だから」
〈また、それを言うの?〉
水月の声が硬くなった。
海斗は口を閉じた。
大丈夫という言葉を、身体が先に選んでいた。
「行ってもいい?」
言い直す。
〈最初から、そう聞いて〉
海斗は仕事用のパソコンを防水の鞄へ入れ、着替えを持って家を出た。
傘は、風で何度も裏返りそうになった。
水月の家へ着くと、玄関の照明がついていた。
戸を開けた水月は、寝間着の上に厚い羽織を着ている。
髪は下ろしていた。
「濡れてる」
「風が強い」
「先にお風呂へ入って」
「仕事用のパソコンだけ、乾いた場所に置きたい」
「そのあと」
海斗は鞄を奥の部屋へ運んだ。
風呂から上がると、水月は温かいほうじ茶を用意していた。
「明日、何時から仕事?」
「九時半」
「ここでできる?」
「回線は?」
「店の予約を確認するために引いてる。速度は分からないけど」
海斗は携帯電話で確かめた。
オンライン会議には十分だった。
水月は居間へ布団を敷いた。
「私は奥で寝るから」
「一緒じゃないの?」
海斗が尋ねると、水月は眉を上げた。
「明日、仕事でしょう」
「仕事じゃなければ?」
「今、考えること?」
「聞いただけ」
「雨漏りの家へ帰すよ」
海斗は黙って布団へ入った。
翌朝、海斗は水月の家で仕事をした。
台所の隣にある小さな部屋へ机を借り、ノートパソコンとモニターを置く。
水月は静波へ出かける前に、おにぎりと味噌汁を用意した。
「昼に食べて」
「ありがとう」
「食べたかどうかは確認しない」
「食べます」
「終わったら、仕事道具を片づけて。ここは私が帳簿を書く場所だから」
「分かった」
水月が出たあと、海斗は一人で仕事を始めた。
窓の外には、海ではなく、隣家の白い壁が見える。
机の引き出しには、静波の領収書や仕入れの記録が入っていた。
自分の家ではないことを、細かなものから感じた。
昼になり、仕事を保存する。
水月が作ったおにぎりを食べ、味噌汁を温める。
水月の家で食べる食事は、これまで何度もあった。
だが、彼女がいない家で一人、昼食を取るのは初めてだった。
帰りを待つ人の家へ、自分だけがいる。
不思議な感覚だった。
雨漏りの修理には、一週間かかることになった。
屋根瓦の一部がずれ、下地も傷んでいる。
貸主は修理費を負担してくれたが、工事の間、海斗は水月の家へ泊まることになった。
初めの二日は、居間へ布団を敷いた。
三日目の夜、水月が言った。
「毎朝、布団を片づけるのが面倒」
「僕がやるよ」
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味?」
「奥の部屋で寝ればいいでしょう」
海斗は水月を見た。
「一緒に?」
「嫌なら、居間でいい」
「嫌じゃない」
「なら、早く布団を持ってきて」
奥の部屋に、二人分の布団を並べた。
同じ家で朝を迎える。
水月は午前五時半に起きた。
海斗は七時まで眠る。
水月が目覚ましを止め、布団を出る気配で、海斗も一度目を覚ました。もう少し眠っていると伝え、再び目を閉じる。
台所から、湯を沸かす音が聞こえる。
玄関の戸が閉まり、水月が仕入れへ出る。
七時、海斗が起きる頃には、家に一人だった。
夜は、水月の方が遅く帰る日があった。
海斗が先に食事を作る。
水月が帰ると、二人で食べる。
同じ家で暮らすことは、会う時間が増えるだけではなかった。
洗濯物が混ざる。
洗面台に置くものが増える。
風呂へ入る順番を決める。
海斗が使った湯飲みを、水月が洗う。
水月が脱いだ上着を、海斗が椅子から移す。
小さなことが、相手の生活へ触れていく。
四日目、水月が台所で声を上げた。
「海斗」
「何?」
仕事部屋から出ると、水月が出汁の入った容器を持っていた。
「これ、使った?」
「昨日の味噌汁に少し」
「店で使う分だったの」
「冷蔵庫に入っていたから」
「蓋に書いてあるでしょう」
見ると、小さな紙に〈静波・明日〉と書かれていた。
「気づかなかった。ごめん」
「勝手に使わないで」
水月の声は強かった。
海斗にも、腹立たしさが生まれた。
「家の冷蔵庫にあるものを、毎回確認しないといけないの?」
「仕事のものも入れてるから」
「それなら、分けておいてほしい」
「店の冷蔵庫に入りきらないときがあるの」
「僕には分からないよ」
「書いてある」
「小さすぎて見えなかった」
互いの声が大きくなった。
水月は容器を調理台へ置いた。
「もういい。店で取り直す」
「そうやって全部、自分でやるんだ」
「海斗が使ったからでしょう」
「謝っただろ」
「謝れば、出汁が戻るの?」
海斗は黙った。
何か言い返そうとしたが、言葉を飲み込んだ。
自分が確認せず使ったことは事実だった。
ただ、水月の家で生活しているのに、触れてよいものと悪いものが分からない状態には疲れていた。
「出汁のことは、僕が悪かった」
海斗は言った。
「でも、この家で一緒に生活するなら、仕事のものと生活のものは分けたい。水月だけが分かる決まりで怒られるのは嫌だ」
水月は反論しかけ、口を閉じた。
「……分かった」
「取り直すの、手伝える?」
「店の仕事は頼まない」
「出汁を使った分を戻したいだけ」
「それを始めると、どこまでが手伝いか分からなくなる」
二人の間に沈黙が落ちた。
水月の言うことも分かった。
一度だけのつもりが、静波を手伝うことを当然にしてしまう可能性がある。
「材料代を払う」
海斗は言った。
「昆布と、甘鯛の骨の分。時間までは戻せないけど」
「お金がほしいわけじゃない」
「分かってる。でも、仕事のものを使った責任は取りたい」
水月はしばらく考えた。
「材料代だけ、もらう」
「うん」
「明日から、店のものは下の段へ入れる。赤い札をつける」
「生活用は上?」
「そうする」
「僕が買ったものにも名前を書く?」
「そこまではいらない」
「牛乳は?」
「飲んでいい」
「卵は?」
「最後の一個を使う前に聞いて」
細かな決まりを話しているうちに、二人とも少しずつ落ち着いた。
翌日、水月は赤い札を買ってきた。
冷蔵庫の下段へ、静波で使うものをまとめる。
海斗は上段の容器に、作った日付を書いた。
一週間の仮住まいは、楽しいだけではなかった。
だが、海斗は自分の家へ戻る前日、寂しいと感じた。
水月も、畳んだ布団を見ながら言った。
「明日から、また一人か」
「寂しい?」
「少しは」
「僕も」
それ以上は話さなかった。
修理の終わった家へ戻ると、畳は乾き、天井の染みも直されていた。
机。
台所。
二つの青い器。
白い目覚まし時計。
東京から運んだものが、そのまま置かれている。
以前は自分の生活を作れたことが嬉しかった。
今も、この家は大切だった。
けれど、部屋の広さが以前より目についた。
水月の湯飲みがない。
朝、台所から音がしない。
誰にも気を使わず過ごせる一方で、誰の生活にも触れない。
海斗は、同居について初めて具体的に考えた。
水月の家へ入るのか。
自分の家へ来てもらうのか。
新しい家を探すのか。
家賃。
仕事部屋。
静波の道具。
それぞれの時間。
結婚。
海斗は、以前ならすぐに結論を出そうとしただろう。
今回は、ノートへ考えを書き出したあと、水月へ尋ねた。
「一緒に暮らすことを考えたい。今度の木曜日、話せる?」
水月は驚いた顔をした。
「雨漏りしたから?」
「それだけじゃない」
「私の家が便利だった?」
「便利ではなかった。出汁を勝手に使って怒られたし」
「根に持ってる?」
「持ってない。でも、生活すれば、また違うことで喧嘩すると思う」
「それでも一緒に住みたいの?」
「住みたいかどうかを、一緒に考えたい」
水月はしばらく黙り、うなずいた。
木曜日の夜、二人は海斗の家で話した。
食卓には、料理ではなく、紙とペンを置いた。
水月が最初に言った。
「私の家へ海斗が来る形は、嫌」
海斗は少し傷ついた。
「どうして?」
「海斗が、私の生活へ入ることになるから。家具も、台所の使い方も、全部私が決めたもの。海斗が自分の居場所を作りにくい」
「僕の家は?」
「仕事部屋を取ったら、狭い。静波のものを置く場所もない」
「では、新しい家?」
「空いていれば」
海斗は宮下から聞いた物件を思い出した。
少し離れた場所に、以前教師をしていた夫婦が住んでいた家がある。三部屋と台所があり、持ち主は町外へ移っている。今は空き家になっていた。
「宮下さんに聞いてみる」
「まだ、住むと決めてない」
「そうだった」
海斗はペンを置いた。
「水月は、一緒に住みたい?」
水月は紙の端を見た。
「一週間、一緒にいて、疲れた」
「正直だね」
「海斗が嫌だからではない。自分の家なのに、一人になれないことに慣れなかった」
「僕も、気を使った」
「でも、帰ったら海斗がいるのは嬉しかった」
海斗は、黙って続きを待った。
「食事を作れない日も、責められなかった。朝早く起きても、海斗は文句を言わなかった。出汁のことで喧嘩しても、次の日に話せた」
水月は顔を上げた。
「一人になれる部屋があるなら、一緒に暮らしてみたい」
「僕も、自分の仕事部屋がほしい。仕事が終わったら閉められる部屋」
「台所は?」
「一緒に使う。静波のものを置く場所は分ける」
「家賃は?」
「半分ずつ」
「収入は海斗の方が多いでしょう」
「水月の収入を、正確には知らない」
「私も海斗の手取りを知らない」
二人は互いの月収と支出を、初めて具体的に話した。
水月の収入は、月によって変わる。
観光客が多い時期は増えるが、冬や休業が続く月は少ない。店の修繕費や調理器具の買い替えも必要になる。
海斗の給与は一定だったが、以前より下がっている。車を買うための積立もしていた。
家賃と光熱費は、基本的に半分ずつ。
食費は毎月同じ額を共通の口座へ入れる。
静波の仕入れは、水月の仕事の支出。
仕事用の通信費と機器は、海斗が負担する。
残りのお金は、それぞれが管理する。
「結婚したら、変える?」
水月が尋ねた。
海斗の手が止まった。
「結婚するなら?」
「一緒に暮らす話をしているのに、そこだけ避けるの?」
「避けてたわけじゃない。今、言おうと思ってた」
「何を?」
海斗は紙を見た。
家賃。
部屋。
食費。
冷蔵庫。
生活の細かなことを先に並べた。
水月には、それが必要だった。
自分にも必要だった。
けれど、一番伝えたいことを、条件のあとへ隠している。
「結婚したい」
海斗は言った。
水月の表情が動かなかった。
「一緒に暮らすために?」
「違う」
「家賃を半分にするため?」
「それも違う」
「なら、どうして?」
海斗は言葉を探した。
幸せにする。
守る。
一生、愛する。
どれも、今の自分には大きすぎるように感じた。
約束できないからではない。
その言葉だけで、これから起きることを覆いたくなかった。
「同じ家へ帰りたい」
海斗は答えた。
「水月が店を続けることと、僕が仕事を続けることを、どちらもやめずにいたい。疲れた日は一人の部屋へ入って、話せる日は一緒に食事をしたい。喧嘩したら、どちらかが出ていくのではなく、次の日に話したい」
水月の目に涙が浮かんだ。
「それだけ?」
海斗は戸惑った。
「足りない?」
「好きとは言わないの?」
「あ……」
水月が笑った。
涙を拭きながら、声を立てて笑う。
「海斗らしいけど、大事なところが抜けてる」
「ごめん」
「そこで謝らないで」
海斗は息を整えた。
水月の手を取る。
「水月が好きです」
今度は、目を逸らさなかった。
「一緒にいると、楽なことばかりではない。東京にいた頃より、言い合うことも増えた。それでも、言わなくていい相手ではなく、何でも言える相手になりたい。僕と結婚してください」
水月は、握られた手を見た。
すぐには答えなかった。
海斗は待った。
胸の音が、耳の近くで聞こえる。
やがて、水月が言った。
「一つ、聞いていい?」
「うん」
「子どものこと、考えたことある?」
海斗は答えを急がなかった。
「ある。でも、二人で話したことはなかった」
「私は、欲しくないわけではない。でも、絶対に欲しいとも言えない。店を続けながら育てられるかも分からない。年齢のこともある」
「僕も、必ず欲しいとは思っていない。結婚したら当然に子どもを持つとも考えてない」
「あとで欲しくなったら?」
「そのときに話す。水月の身体のことだから、僕が決めることではない。でも、僕の希望も黙らずに伝える」
水月はうなずいた。
「姓は?」
「水月は相沢のままでいい」
「海斗も相沢でしょう」
二人は顔を見合わせた。
同じ姓であることを、普段は意識していなかった。
「結婚しても、呼び方は変わらないね」
海斗が言う。
「外からは、どちらの相沢か分からなくなる」
「静波の相沢と、東京から来た相沢」
「もう東京から来た人ではないでしょう」
「まだ言われるよ」
水月はもう一度、手元を見た。
「指輪は?」
「まだ買ってない」
「よかった」
「用意した方がよかった?」
「勝手に選ばれたくない。一緒に見たい」
「では、返事は?」
水月は海斗の手を握り返した。
「結婚します」
海斗の肩から力が抜けた。
「本当に?」
「今さら聞かないで」
「確認したかった」
「返事を変えようか?」
「変えないで」
水月は笑った。
二人はすぐに入籍日を決めなかった。
翌週、宮下へ空き家について尋ねた。
教師夫婦が住んでいた家は、静波から歩いて二十分、海斗の今の家からは十分ほどの場所にあった。
三つの和室と、小さな洋室。
洋室には光回線を引ける。
台所は二人で立てる広さがあり、裏には物置があった。静波で一時的に使う道具を置くこともできる。
家賃は六万八千円。
庭の手入れは借主が行う。
冬は一階が冷えるため、灯油のストーブが必要。
屋根と水回りは、入居前に貸主が修理する。
二人は別々に部屋を見た。
水月は台所の収納を確認した。
海斗は洋室の電源と通信環境を確かめた。
奥の和室は寝室。
手前の和室は居間。
残る一室は、どちらかが一人になりたいときに使う。
「客間ではないの?」
宮下が尋ねる。
「客が来たら、そこを使ってもらいます」
水月が答えた。
「でも、普段は一人になる部屋です」
宮下は少し不思議そうな顔をしたが、うなずいた。
「二人で住むからって、ずっと同じ部屋にいる必要はないですからね」
家を借りることを決めた。
契約開始は、翌年三月一日。
海斗の現在の家と、水月の家は、三月末で解約する。
引っ越しまでに、必要な家具を二人で選ぶ。
持っているものをすべて新居へ入れると多すぎるため、食器棚や机、布団を一つずつ確認した。
水月の鍋。
海斗の皿。
二つの青い器。
白い目覚まし時計。
不揃いな鍋敷き。
水月が海斗からもらった濃紺の万年筆。
それぞれの家にあったものが、少しずつ新しい生活の持ち物へ変わっていった。
婚姻届を出す日は、三月十五日に決めた。
理由は、静波の開店日と重ならず、海斗の仕事の繁忙期も避けられるからだった。
記念日らしい意味はなかった。
「忘れそう」
海斗が言う。
「予定表に入れるでしょう」
「水月も入れて」
「海斗が入れたなら、私は覚えなくていい?」
「二人とも忘れたら困る」
「提出する日を忘れるだけで、結婚がなくなるわけじゃない」
水月の言い方に、海斗は笑った。
冬の間も、二人は別々の家で暮らした。
木曜日に会う。
泊まる日もあれば、帰る日もある。
一緒に暮らすことを決めたからといって、残りの日々を急いで重ねなかった。
海斗は新しい会社で、後から入った社員の相談役を頼まれた。
管理職ではない。
作業の進め方や、資料の場所を教える役目だった。
依頼を受ける前に、自分の担当作業との時間を確認し、週に二時間までならできると答えた。
藤崎は、その条件で了承した。
以前なら、頼られた嬉しさから、必要以上に引き受けていただろう。
今は、できる範囲を伝えることも仕事の一部だと考えられた。
水月は、静波の営業日を一日減らした。
婚姻の準備のためではない。
秋から冬にかけて、右手首に痛みが出たためだった。
医師からは、使いすぎだと言われた。
以前の水月なら、客の予約がある限り営業を続けただろう。
今は、一週間に二日休むことを黒板へ書いた。
客が減る不安はあった。
だが、閉めた日に仕込みを詰め込まず、完全に厨房へ入らない日も作った。
浜田から魚を受け取るときも、必要な数だけを伝える。
片山から野菜が多く届いたときは、無理に献立へ入れず、美代や中村へ分けた。
出せるものを、出せる数だけ。
海の都合と、自分の都合。
どちらも、無視しなくなった。
三月一日、二人は新しい家へ荷物を運んだ。
浜田と宮下、美代が手伝いに来た。
中村も現れたが、荷物を持つより、どの家具をどこへ置くか口を出す時間の方が長かった。
「食卓は窓の近くがええ」
「仕事部屋と離した方が、海斗さんも休めるで」
「食器棚は台所の右やろ」
水月が言った。
「私たちで決めます」
中村は不満そうだったが、「あとで使いにくくても知らんよ」と言い残し、茶を淹れる役へ回った。
夕方までに、大きな家具の配置が終わった。
浜田たちが帰り、家には二人だけが残った。
段ボールは、まだ開いていないものが多い。
食卓の上には、美代が持ってきたおにぎりと、漬物が置かれている。
「最初の日も、美代さんのおにぎりだった」
海斗が言った。
「伊根へ移った日?」
「うん。水月がつみれ汁を持ってきた」
「十五分しかいなかった」
「本当は、もっといてほしかった」
「あとから聞いた」
二人でおにぎりを食べた。
料理を作る道具は、まだ箱の中だった。
紙の皿を使い、湯飲みだけは二つの青い器で代用した。
「これから毎日、一緒なんだね」
海斗が言う。
「仕事の日は、昼まで会わないでしょう」
「同じ家にはいる」
「会議中に話しかけないで」
「静波の仕込み中に話しかけないで」
「家へ持ち込まない」
「持ち込んだときは、赤い札をつける」
「冷蔵庫の下の段」
二人は、これまで決めたことを確認した。
完璧に守れるとは思っていない。
暮らしが変われば、決まりも変わる。
合わなければ、また話せばよい。
食後、段ボールを一つだけ開けた。
海斗が〈台所〉と書いた箱だった。
中から、鍋、包丁、二枚の皿、二つの湯飲み、不揃いな鍋敷きを取り出す。
水月は鍋敷きを見て言った。
「まだ使ってたんだ」
「使ってるよ」
「形、悪いでしょう」
「鍋を置けば分からない」
「そういう問題?」
海斗は鍋敷きを、食卓の中央へ置いた。
次に、白い目覚まし時計を出す。
「これは、仕事部屋?」
水月が尋ねる。
「寝室。携帯電話を目覚ましにしないためにもらったから」
「五時半に鳴らしたら、海斗も起きるよ」
「僕は七時」
「二つ置く?」
「朝から二回鳴ることになる」
「海斗の目覚ましを、仕事部屋へ置けば?」
「起きられない」
二人で考えた末、水月は腕時計の振動で起き、海斗が白い目覚まし時計を使うことになった。
小さなことを決めるだけで、時間が過ぎる。
夜十時、二人は奥の部屋へ布団を敷いた。
新しい畳の匂いがした。
窓の外から、海の音がかすかに届く。
静波ほど近くはない。
海斗の前の家よりも遠い。
それでも、風向きによっては、家の間を抜けて聞こえた。
海斗は布団へ入ったあと、天井を見た。
「眠れない?」
水月が尋ねる。
「少し緊張してる」
「引っ越した最初の日みたい?」
「あの日よりはいい。水月がいるから」
水月は照明を消した。
暗闇の中で、海斗の手を探す。
指先が触れ、手のひらが重なった。
「海斗」
「うん」
「結婚しても、無理なときは無理と言って」
「水月も」
「店を閉めたくなったら、相談する」
「会社を辞めたくなったら、相談する」
「一人になりたくなったら?」
「隣の部屋へ行く」
「私が先に使っていたら?」
「予約する」
水月は小さく笑った。
「家の中でも予約が必要なの?」
「六席しかない店よりは、空いてると思う」
「一席しかないよ」
「では、順番を待つ」
二人の声が、暗い部屋へ落ちた。
翌朝、水月は腕時計の振動で目を覚ました。
隣では、海斗が眠っている。
布団から出て、台所へ向かう。
窓を開けると、冷たい空気が入った。
湯を沸かし、米を研ぐ。
今日は静波の営業日だった。
海斗は九時半から仕事をする。
それぞれの一日が始まる。
水月が朝食を用意していると、背後で戸が開いた。
「おはよう」
海斗が眠そうな声で言う。
「まだ六時前だよ」
「音が聞こえた」
「起こした?」
「違う。目が覚めた」
海斗は台所へ入り、湯飲みを二つ出した。
水月が茶を淹れる。
二人で食卓へ座った。
窓の外が、少しずつ明るくなる。
「今日は何を作るの?」
海斗が尋ねる。
「浜田さんから魚を見てから決める」
「僕は、午後に新しい人との面談がある」
「頼まれすぎてない?」
「週二時間まで」
「昼は?」
「昨日のおにぎりが残ってる」
「一つでは足りないでしょう」
「あとで何か作る」
水月は立ち上がり、冷蔵庫から卵を出した。
「出汁巻き、持っていく?」
「作ってくれるの?」
「私の分も作るから」
「なら、お願い」
水月は卵を割った。
海斗は隣で、弁当箱を用意する。
どちらかが一方のためだけに無理をするのではなく、同じ朝の中で、できることを分ける。
卵液を流した鍋から、出汁の香りが立った。
海斗が窓を少し開ける。
遠くで舟のエンジンが鳴った。
「今日は海、どうかな」
海斗が言う。
水月は鍋の火を弱めた。
「まだ分からない」
朝の海は、家々の向こうで淡く光っていた。
その日の魚も、仕事も、店へ来る客も、まだ決まっていないことが多い。
水月は卵を巻き、形を整える。
海斗は二つの弁当箱を並べた。
二人はそれぞれの場所へ出ていく。
夕方になれば、同じ戸を開けて帰ってくる。
水月は焼き上がった出汁巻きを切り、海斗の弁当箱と自分の弁当箱へ、同じ数ずつ詰めた。




