第17章 二人の名前
三月十五日の朝、海斗は婚姻届を食卓へ広げた。
用紙には、同じ姓が二つ並んでいた。
相沢海斗。
相沢水月。
「間違って、同じ人の名前を二回書いたみたい」
海斗が言うと、水月は台所から振り返った。
「名前が違うでしょう」
「窓口の人に、親戚かと聞かれるかな」
「同じ姓の人が結婚することくらい、あるでしょう」
水月は味噌汁の火を止め、食卓へ来た。
婚姻後に夫と妻のどちらの姓を名乗るかを選ぶ欄には、水月の方へ印がつけてある。
同じ相沢である以上、どちらを選んでも日常で使う姓は変わらない。
それでも、戸籍上は選ばなければならなかった。
最初に用紙を記入したとき、海斗は自分の姓を選ぼうとした。
水月も特に異論を言わなかった。
ところが、署名する直前になって、海斗が手を止めた。
「水月の方にしない?」
「どうして?」
「水月は、自分の名前を取り戻したばかりだから」
その言葉を聞き、水月はしばらく黙っていた。
相沢という姓が、長谷川に奪われたわけではない。
結婚しても名字は変わらない。
どちらの戸籍を選んだとしても、水月が作った料理の事実は失われない。
それでも海斗が、水月の名前を先に考えたことは嬉しかった。
同時に、過去の出来事を理由に譲られることへの抵抗もあった。
「同情で決めたくない」
水月が言うと、海斗は首を振った。
「同情ではない。どちらでも生活は変わらないなら、僕が水月の方へ入るのも同じだと思った」
「海斗のお母さんは?」
「聞いてみる」
海斗はその場で母親へ電話をかけた。
事情を説明すると、電話の向こうで母親は笑った。
〈二人とも相沢なのに、そんなことで悩んでいるの?〉
「書類では選ばないといけないんだよ」
〈二人が決めればいいでしょう。うちの相沢が一人減るわけでもないし〉
「戸籍上は、僕が抜けることになる」
〈あなたはどこへ入っても、私の息子です〉
母親の返事は簡単だった。
水月の方は、京都に住む母へ電話をした。
水月の母は、娘が伊根へ店を出すことへ最後まで賛成しなかった。
料理人を続けるなら京都に残るべきだ。
一人で店を始めても、身体を壊すだけだ。
佳月を辞めた理由を詳しく話さなかったため、母には、水月が我慢できずに職場を投げ出したように見えていた。
伊根へ移ったあとも、連絡は年に数回しかしていない。
結婚について伝えたとき、母は長い沈黙のあと、相手はどんな人かと尋ねた。
東京の会社を辞め、伊根へ移ってきた人。
今は遠隔勤務で働いている。
店の仕事には就いていない。
水月が説明すると、母は言った。
〈あなたを追いかけて仕事まで辞めたの?〉
「自分で次の仕事を決めてから来たの」
〈それでも、ずいぶん思い切った人ね〉
「無計画ではないよ」
〈あなたがそう言うなら、そうなんでしょう〉
納得した声ではなかった。
婚姻後の戸籍を水月の方へすることについては、さらに驚いた。
〈向こうのお母様は、本当にいいとおっしゃってるの?〉
「二人で決めればいいって」
〈そう〉
母はそれ以上、反対しなかった。
ただ、電話を切る前に言った。
〈結婚しても、何でも一人で抱え込むのはやめなさい〉
水月は、すぐには返事ができなかった。
母に自分の何が分かるのかと思う一方で、見抜かれていることもあった。
「分かってる」
ようやくそう答えた。
婚姻届には、水月の氏を選んだ。
証人欄は、美代と浜田に頼んだ。
美代は、依頼した翌日に記入を済ませてきた。
文字は大きく、迷いがない。
「こういうのは早い方がええ」
美代は言った。
「気が変わるかもしれないでしょう」
海斗が冗談を言うと、水月が横から答えた。
「海斗の欄だけ消して出す」
「一人では婚姻届にならないよ」
「知ってる」
浜田は、証人欄へ住所を書きながら何度も手を止めた。
「番地、これで合ってたか」
「自分の住所ですよね」
海斗が尋ねる。
「普段、書かんから忘れる」
「住民票を確認した方がいいんじゃないですか」
「家は逃げん」
「婚姻届が戻されたら困ります」
美代に叱られ、浜田は免許証を取り出した。
生年月日を書く欄では、今度は数字を一つ間違えた。
「浜田さん、二歳若くなっています」
水月が指摘すると、浜田は悪びれずに言った。
「そのままでええ」
「よくないです」
新しい用紙を用意し、最初から書き直してもらった。
食卓の上にあるのは、三枚目の婚姻届だった。
一枚目は、海斗が本籍を間違えた。
二枚目は、浜田が生年月日を間違えた。
三枚目は、すべて確認した。
「持ち物は?」
水月が尋ねる。
「婚姻届。本人確認書類。戸籍謄本は、今は必要ないはず」
「はず?」
「昨日、役場に確認した」
「なら、はずと言わないで」
「必要ありません」
海斗は封筒へ婚姻届を入れた。
水月は味噌汁を椀へよそった。
「先に食べよう。役場は逃げないから」
浜田と同じ言い方だった。
朝食は、ご飯と味噌汁、出汁巻き卵、前日の残りの煮物だった。
特別な日だからといって、水月は豪華なものを作らなかった。
海斗も、それを求めなかった。
食べ終えたあと、二人で食器を洗う。
海斗が洗い、水月が拭いた。
普段と同じ動きを終えてから、上着を着て家を出た。
三月半ばの空は薄く曇っていた。
雪はほとんど残っていない。
海沿いの道では、冬の間に外されていた網を舟へ積み直している人がいた。
「緊張してる?」
海斗が尋ねる。
「少し」
「僕も」
「書類を出すだけでしょう」
「それでも、戻されたらどうしようと思ってる」
「心配するところが違う」
役場の窓口で、封筒を差し出した。
担当者は用紙を確認し、二人の名前を見て顔を上げた。
「お二人とも、すでに相沢さんなんですね」
やはり言われた。
「はい」
海斗が答える。
「婚姻後も姓は変わりませんが、こちらの選択でお間違いありませんか」
「間違いありません」
水月が答えた。
担当者は証人欄と住所、本籍を一つずつ確認した。
海斗は、訂正を求められるのではないかと身構えていた。
だが、用紙はそのまま受理された。
「手続きが終わりましたら、受理証明書をご用意できます」
「お願いします」
海斗は答えた。
窓口を離れ、待合の長椅子へ座る。
ほかには、住民票を取りに来た男性と、子どもを連れた女性がいるだけだった。
音楽も、拍手もない。
水月は自分の左手を見た。
指輪は、まだ用意できていなかった。
冬の間に京都の店をいくつか見たが、二人とも気に入るものがなく、急いで買うのをやめた。
「何か変わった?」
水月が尋ねる。
海斗は自分の胸へ手を当てるような仕草をした。
「今のところ、何も」
「私も」
「実感がない?」
「一緒に住み始めた日の方が、変わった感じがした」
「僕もそう思う」
海斗は少し笑った。
「でも、嬉しい」
「うん」
水月も答えた。
海斗が長椅子の上で、水月の手を握った。
人がいるため、指を絡めることはしなかった。
手のひらだけを重ねる。
名前を呼ばれ、受理証明書を受け取った。
二人は役場を出た。
「これから、どうする?」
海斗が尋ねる。
「静波へ行く。昼の仕込みがあるから」
「今日は休みにしたんじゃなかった?」
「夜に、美代さんたちを呼んでいるでしょう。準備する」
その夜、静波で小さな食事会を開くことになっていた。
招いたのは、海斗の母親、水月の母親、美代、浜田、宮下、片山、中村、吉岡夫婦、そして奈緒だった。
西田と佐伯、隆也は、仕事の都合で来られなかった。
代わりに、祝福の動画を送ってきている。
水月は最初、家族と美代たちだけでよいと思っていた。
だが、伊根で暮らすようになった海斗を支えてくれた人、水月が静波を続けるうえで助けられた人を一人ずつ挙げると、六席では足りなくなった。
静波の客席は六つしかない。
全員を一度に座らせることはできなかった。
宮下から、公民館を借りてはどうかと提案された。
水月は迷った。
静波で、自分が料理を作りたい。
だが、自分の婚姻を祝う日に、十人以上の料理を一人で用意すれば、客として座る時間がなくなる。
海斗は、仕出しを頼む方法を提案した。
美代は、皆で料理を持ち寄ればよいと言った。
結局、静波では水月が椀物と魚料理だけを作り、残りは一人一品ずつ持ち寄ることになった。
公民館へ料理を運び、長い机を囲む。
水月も席へ座る。
店主として全員をもてなすのではなく、祝われる側にいる。
それを受け入れるまで、水月には時間がかかった。
「椀物は、何にするの?」
役場から静波へ向かう途中、海斗が尋ねた。
「焼き茄子と甘鯛」
「季節が違う」
「茄子は使わない。焼いた蕪のすり流しにする」
「別の料理だね」
「同じものを出すとは言ってない」
「長谷川さんの記事の料理を出すのかと思った」
「もう、あの人のために作っていない」
水月は歩きながら答えた。
静波へ着くと、浜田が魚を届けに来た。
大きな鰆だった。
「祝いだから、一本持ってきた」
「代金は払います」
「今日くらい、受け取れ」
「店で使うものなので払います」
「頑固だな」
浜田はぶつぶつ言いながらも、いつもの価格より少し安く伝えた。
水月はその場で金額を記録した。
「結婚した日まで帳簿か」
「今日も仕入れは仕入れです」
浜田は海斗を見た。
「一緒に暮らすと大変だぞ」
「もう知っています」
海斗が答える。
「冷蔵庫のものを勝手に使うと、怒られます」
「当たり前でしょう」
水月が言うと、浜田は声を立てて笑った。
鰆を捌き、切り身へ分ける。
味噌、酒、味醂を合わせ、柚子の皮を加える。
夜まで漬け込み、焼く直前に味噌を拭う。
蕪は火を通し、出汁とともに裏ごしする。
公民館で温め直しても味が崩れないよう、普段より少し濃さを調整する。
海斗は、頼まれた器と盆を箱へ入れた。
料理には手を出さない。
水月が数を読み上げ、海斗が確認する。
「椀、十二」
「十二」
「蓋、十二」
「十二」
「椀台、十二」
「十……十一」
「足りない?」
「一つ、棚に残ってる」
海斗が見つけ、箱へ入れる。
二人で作業をしていると、結婚したという実感より、店の準備をしている感覚の方が強かった。
それが水月には心地よかった。
午後四時、水月の母が静波へ来た。
白髪を短く整え、濃い緑色のコートを着ている。
店へ入ると、母は厨房の中を見た。
「ここで一人で作っているの?」
「普段は」
「狭いわね」
最初に出た感想がそれだった。
「六席だから、これで足りる」
「もっと広い店にしようとは思わなかったの?」
「思わなかった」
母はカウンターへ手を触れた。
窓の向こうには海がある。
舟が通ると、建物へ小さな揺れが伝わった。
「冬は寒いでしょう」
「寒いよ」
「台風のときは?」
「営業を休む」
母は質問を重ねた。
水月は一つずつ答えた。
佳月を辞めてから、母とこれほど長く仕事の話をしたことはなかった。
母は記事の訂正についても知っていた。
水月が弁護士へ相談すると決めたあと、過去の経緯を初めて詳しく伝えた。
母は電話の向こうで泣いた。
なぜ、そのときに話さなかったのか。
自分は、娘が我慢できずに辞めたのだと思っていた。
水月は、信じてもらえないと思ったからだと答えた。
母は言葉を失った。
その日から、母との関係がすぐに変わったわけではない。
連絡が頻繁になったわけでもない。
ただ、以前より少しだけ、話を途中で終えなくなった。
「雑誌、見たよ」
母が言った。
「訂正文、小さかったね」
「うん」
「もっと大きく出せばいいのに」
「訂正されたから、それでいい」
「あなたがいいなら、いいけど」
母は厨房の奥へ目を向けた。
「手伝うことはある?」
「ない」
「何か運ぶくらいならできるよ」
水月は、断りかけた。
だが、公民館へ運ぶ布巾と箸が、まだ箱へ入っていない。
「では、これをお願い」
母へ箱を渡す。
母は少し驚き、それから受け取った。
「海斗さんは?」
「椀を運んでる」
「結婚した日に働かせているの?」
「私も働いてる」
「似た者同士なのね」
母はそう言いながら、箱を抱えて外へ出た。
夕方六時、公民館に人が集まった。
長い机には、片山が作った煮豆、美代のちらし寿司、中村の巻き寿司、吉岡夫婦が持ってきた菓子が並んだ。
「寿司が重なったね」
中村が美代の皿を見て言う。
「あなたが巻き寿司を持ってくるとは聞いてなかったもの」
「祝いといえば寿司やろ」
「ちらし寿司も寿司です」
二人が言い合う横で、浜田は鰆の焼き上がりを待っていた。
「まだか」
「今、焼いています」
水月が答える。
「魚を持ってきた人が一番先に急かさないでください」
「腹が減った」
「始まる前に食べてきたでしょう」
中村が言うと、浜田は聞こえないふりをした。
海斗の母と水月の母は、机の端で初めて挨拶を交わした。
同じ相沢姓になったため、互いを何と呼べばよいか迷っている。
「海斗の母です」
「水月の母です」
それが一番分かりやすかった。
奈緒は、予定より少し遅れて到着した。
入口で立ち止まり、中へ入ることをためらっているようだった。
水月は自分から声をかけた。
「来てくれて、ありがとう」
奈緒は頭を下げた。
「呼んでくれて、ありがとう」
二人の間には、まだ埋まっていない時間がある。
奈緒の謝罪を、すべて受け入れたわけではない。
それでも、水月は彼女を招くことを選んだ。
料理の記録を渡した人としてだけではなく、今、同じ席へ座るかどうかを自分で決めた。
「こちらへ」
水月は、空いている席を示した。
食事会が始まる前に、海斗が短く挨拶をした。
「今日は、来ていただいてありがとうございます」
用意していた文章があるらしく、紙を持っている。
だが、一行目を読んだところで、浜田が言った。
「長いのか」
「短いです」
「なら、紙はいらんやろ」
海斗は困った顔で、水月を見た。
「読めばいいでしょう」
水月が助けると、海斗は続けた。
「僕は一年前、仕事を休んで、行き先を決めずに東京を出ました。伊根へ来たのも、偶然でした」
静波で初めて食事をしたこと。
水月と何度も話すようになったこと。
仕事を変え、自分で伊根へ移ると決めたこと。
町で暮らし始め、美代や浜田たちに助けられたこと。
海斗は、ゆっくり話した。
「水月と結婚できたことは嬉しいです。でも、僕をここまで運んでくれたのは、水月一人ではありません。僕が一人で決めたことでもありません。助けを求めたときに手を貸してくれた皆さんと、無理をしているときに止めてくれた人たちのおかげです」
海斗は、机の上の携帯電話を示した。
画面には、西田と佐伯、隆也が映っている。
オンラインでつないでいた。
「聞こえてますよ」
西田の声が、公民館へ響いた。
「海斗さん、話が長いです」
「短くしたつもりなんだけど」
「黒田部長の挨拶よりは短いです」
画面の向こうで笑いが起きた。
水月は、黒田がこの場にいないことを少し残念に思った。
海斗の身体を壊す働き方へ追い込んだ一人ではある。
同時に、休みたいと伝えた海斗を、最後には止めなかった人でもあった。
海斗は紙を置いた。
「これからも、二人で決められないことは、皆さんへ相談すると思います。そのときは、できる範囲で力を貸してください」
浜田が言った。
「魚のことなら聞け。夫婦喧嘩は知らん」
「浜田さんが一番、口を出しそう」
美代が言う。
笑い声が広がった。
次に、水月が立った。
挨拶の文章は用意していない。
「私は、海斗のように長く話せません」
「それでいい」
中村が言った。
「海斗が来てから、私は何度も腹を立てました」
「そこから?」
海斗が小声で言う。
水月は無視した。
「仕事のことへ口を出されたり、約束の時間に遅れたり、店で使う出汁を勝手に使われたりしました」
「皆さんの前で言う?」
海斗の母親が笑っている。
「でも、腹が立ったときに、それを言える相手でした」
水月は海斗を見た。
「言わなくても分かってくれる人ではありません。私も、海斗が言わなくても分かる人ではありません。だから、これからも話します。話したくない日は、話したくないと言います。それでも、同じ家へ帰ります」
水月は一度、頭を下げた。
「今日は、ありがとうございます。料理が冷めるので、食べてください」
浜田が最初に箸を取った。
「それが一番だ」
食事が始まった。
水月は全員の反応を見ようとした。
椀の温度は下がっていないか。
鰆の焼き加減はどうか。
足りない料理はないか。
立ち上がろうとしたとき、海斗が袖を引いた。
「座って」
「椀が足りているか見ないと」
「皆、自分で言うよ」
「でも」
「今日は、僕たちも食べる」
海斗が自分の隣の席を示した。
水月は座った。
目の前には、自分の分の椀がある。
蓋を開ける。
焼いた蕪の香りと、甘鯛の出汁が上がる。
自分で作った料理を、客と同じ席で食べることはほとんどなかった。
出汁を一口飲む。
少し冷めている。
静波のカウンターで出す温度とは違う。
それでも、まずくはなかった。
隣では海斗が、浜田に鰆の骨の外し方を教えられている。
水月の母は、美代のちらし寿司の作り方を聞いていた。
奈緒は片山と、野菜の話をしている。
誰か一人が場を整えているのではない。
それぞれが話し、食べ、足りない皿を隣へ回している。
水月は、自分の椀を最後まで食べた。
食事会のあと、片づけも全員で行った。
海斗の母と水月の母は、潮路へ泊まる。
奈緒は天橋立近くの宿を取っていた。
美代たちを見送ったあと、水月と海斗は、静波へ器を戻した。
時刻は、午後十時を過ぎていた。
二人とも疲れていた。
「家へ帰ったら、何もしない」
水月が言う。
「風呂は?」
「明日の朝」
「僕も」
「服は脱いだら籠へ入れて」
「分かってる」
「食器は?」
「明日」
「仕事は?」
「しない」
確認しながら、暗い道を歩く。
家へ着くと、玄関の横にある郵便受けへ、白い封筒が入っていた。
役場からの書類だった。
海斗が取り出し、表を確認する。
「相沢様、だけだ」
「どちら宛てか分からないね」
「家の表札も、相沢だけだから」
玄関には、以前の持ち主が使っていた表札の跡がある。
二人が入居したあと、小さな木の板へ〈相沢〉とだけ書いて掛けていた。
町の人からは、どちらの相沢か分かりにくいと言われていた。
「名前も書く?」
海斗が尋ねる。
「明日、書こう」
「今、書かない?」
「疲れているんでしょう」
「五分でできる」
海斗は玄関の棚から、黒い油性ペンを出した。
水月は呆れながらも、表札を外す。
「海斗が先?」
「水月の氏を選んだから、水月が先」
「そこまで決めなくていい」
二人で木の板を見た。
姓は同じ。
どちらか一方だけを書けば、もう一人が見えなくなる。
水月は万年筆ではなく、油性ペンを取った。
相沢の下へ、自分の名前を書く。
水月。
海斗へペンを渡す。
その隣に、海斗が自分の名前を書いた。
字の大きさが揃わなかった。
水月の方が少し小さい。
「書き直す?」
海斗が尋ねる。
「読めるからいい」
「水月の名前が小さい」
「海斗の字が大きいの」
「では、僕の方を小さくする」
「書き直さなくていい」
水月は表札を玄関へ戻した。
〈相沢 水月・海斗〉
明かりの下で、二人の名前が並んでいる。
家へ入り、戸を閉める。
食卓には、朝のうちに片づけ忘れた湯飲みが一つ残っていた。
水月が手を伸ばすと、海斗が止めた。
「明日にするんじゃなかった?」
「一つだけだから」
「一つが、二つになる」
「どういう意味?」
「分からないけど、今日は座って」
海斗は冷蔵庫から水を出し、二つの青い器へ注いだ。
二人で食卓へ座る。
結婚した日の夜に飲むものが、水であることがおかしくなり、水月は笑った。
「何?」
海斗が尋ねる。
「何でもない」
「言って」
「祝いの日なのに、水しかない」
「公民館で、たくさん食べただろ」
「海斗はお酒を飲まなかったね」
「帰りに荷物を持つから」
「もう帰ってきたよ」
海斗は少し考えた。
「今から飲む?」
「水でいい」
器を重ねる。
小さな音がした。
水月は一口飲んだ。
「海斗」
「うん」
「今日から夫婦だね」
「今、実感した?」
「表札を見て、少し」
「役場では?」
「書類を出しただけだった」
「食事会では?」
「料理の温度が気になってた」
「水を飲んで、やっと?」
「悪い?」
「水月らしいと思う」
水月は器を置いた。
「海斗は、いつ実感したの?」
「婚姻届の氏を、水月の方へ選んだとき」
「ずいぶん前だね」
「それから毎日、少しずつ」
海斗が手を伸ばし、水月の指へ触れた。
まだ指輪はない。
何も飾られていない左手だった。
それでも、触れられた場所が温かくなった。
「指輪、来月見に行こう」
海斗が言う。
「仕事は?」
「休みを取る」
「静波も休む」
「営業日にしない?」
「自分の指輪を選ぶのも、店を休む理由になるでしょう」
海斗は笑った。
「なるよ」
「なら、休む」
水月は予定表へ、来月の休業日を書くことを考えた。
理由は黒板へ書かない。
店を休む。
二人で京都へ行く。
指輪を選ぶ。
帰りの時間が遅くなれば、外で食事をする。
決まっているのは、それだけだった。
海斗が青い器を台所へ運んだ。
水月は、出しっぱなしになっていたペンを棚へ戻す。
寝室へ向かう前に、玄関の戸を少し開けた。
外の表札を、もう一度見る。
二つの名前が、夜の明かりの中に並んでいた。
水月は戸を閉め、鍵をかけた。
「おやすみ」
海斗が奥の部屋から言う。
「まだ歯を磨いてない」
「では、歯を磨いてから、おやすみ」
「海斗も」
「今、行く」
洗面台には、二本の歯ブラシが立っていた。
水月は自分のものを取り、隣を海斗へ空ける。
少し遅れて、海斗が入ってきた。
肩が触れ、どちらからともなく半歩ずつずれる。
二人で鏡の前に並んだ。
同じ名字になった顔が、そこに映っていた。




