第18章 静波
婚姻届を出してから、半年が過ぎた。
九月の朝、水月は静波の厨房で指輪を外した。
細い銀色の輪を、棚の上に置いた小さな器へ入れる。
京都で海斗と選んだ指輪だった。
装飾はなく、表面に浅い筋が一本だけ入っている。水月が調理中もつけられるものを探していると、店員から、塩や魚の脂が入り込むため外した方がよいと勧められた。
結局、静波へ着くと外し、営業を終えると指へ戻すことにした。
初めの頃は、家へ帰る途中で指輪を忘れたことに気づき、店まで戻る日があった。
今は、前掛けを外すのと同じように、指輪を戻すことが一日の手順に加わっている。
水月は窓を開けた。
湿った風が入り、出汁の香りを店の奥へ運ぶ。
海は穏やかだった。
沖では、浜田の舟が戻ってくるところだった。
空は晴れている。
だが、数日前から、南の海上に大きな台風が発生している。予報では、二日後から近畿北部にも強い風が吹く可能性があった。
水月は天気予報を確認し、静波の予約表を見た。
明日は昼に四名。
夜に二名。
明後日は昼に六名。
台風の進路によっては、明後日の営業を休まなければならない。
予約客の多くは、遠方から伊根を訪れる人だった。
早めに連絡した方がよい。
しかし、進路が変われば営業できるかもしれない。
判断を迷っていると、裏口が叩かれた。
「水月さん」
浜田の孫の陸が立っていた。
高校を卒業したばかりの十八歳だった。黒いTシャツに作業用のパンツを穿き、両手で魚箱を抱えている。
「今日の分です」
「ありがとう。そこへ置いて」
陸は魚箱を調理台の近くへ置いた。
中には、小さな鯛と鯵、魳が入っている。
予定より種類が多い。
「おじいさんは?」
「ほかの魚を市場へ運んでます。僕に、静波へ持っていけって」
「伝票は?」
「箱の横に入ってます」
以前の陸は、魚を届けるとすぐに帰った。
その日は、厨房の入口へ立ったまま動かなかった。
「何かあるの?」
水月が尋ねる。
陸は海側の窓へ目を向け、それから魚箱を見た。
「ここで働かせてもらえませんか」
突然の言葉だった。
「どうして?」
「料理をやりたいから」
「家で作っているの?」
「少しは。魚を焼いたり、煮たり」
「料理の学校へ行くの?」
陸は首を振った。
「来年、専門学校を受けたいと思ってます。でも、じいちゃんにはまだ言ってません」
「なぜ?」
「漁を継ぐと思ってるから」
浜田が陸を舟へ乗せている姿を、水月は何度も見ていた。
陸も魚が嫌いなわけではない。朝の漁を手伝い、網の修理をし、魚の種類や旬も知っている。
それでも、漁師になりたいことと、魚に関わることが好きなことは同じではない。
水月は、自分が佳月へ入る前のことを思い出した。
料理人になりたいと伝えたとき、母は反対した。
体力のいる仕事だ。
女性が長く続けるのは難しい。
安定した仕事を選んだ方がよい。
それでも、水月は料理の道へ進んだ。
その先で、長谷川と出会った。
若い人間が料理人を目指すと聞くと、応援したい気持ちより先に、不安が浮かんだ。
厨房は狭い。
刃物と火を使う。
客の食事へ責任を持つ。
興味があるだけで入れば、厳しさに耐えられないかもしれない。
だが、その考え方は、かつて水月へ向けられた言葉と似ていた。
「何ができる?」
水月は尋ねた。
「魚を捌けます」
「どの魚?」
「鯵、鯖、小さい鯛。烏賊も」
「出汁は?」
「取ったことないです」
「接客は?」
「苦手です」
「掃除は?」
「できます」
「朝は?」
「起きられます」
「おじいさんに起こされてるでしょう」
陸は黙った。
どうやら、自分で起きてはいないらしい。
「学校を受けるまで、ここで料理を教えてほしいということ?」
「はい」
水月はすぐに答えなかった。
静波は六席しかない。
一人で料理を作り、一人で客へ出すことを前提に整えた店だった。
人を雇えば、教える時間が必要になる。
陸が失敗すれば、水月が直す。
店の売上から給与も払わなければならない。
善意だけで受け入れることはできない。
「修業だから、給料はいりません」
陸が言った。
水月は眉を寄せた。
「働くなら、払います」
「でも、教えてもらうんだから」
「教わることと、無償で働くことは別です」
佳月では、若い料理人が開店前から深夜まで働いていた。
勉強させてもらっているのだから、長時間働くのは当然だと言われた。休みの日にも仕込みへ来る人間が評価された。
水月も、それを受け入れていた。
料理を覚えたい。
必要とされたい。
先輩に認められたい。
その気持ちを利用されているとは、当時は考えなかった。
「最初の一か月は、土曜日と日曜日の昼だけ」
水月は言った。
「午前九時から午後三時まで。休憩は三十分。最初は掃除と接客、洗い物。包丁を持つのは、私が見ているときだけ」
陸の顔が明るくなった。
「働けるんですか」
「試用期間です。給与は時給で払う。交通費は出ないけど、昼食はこちらで用意する」
「はい」
「返事をする前に、ご家族へ話して。浜田さんにも」
陸の表情が曇った。
「じいちゃん、反対すると思います」
「それでも、自分で話して」
「水月さんから言ってもらえませんか」
「私が先に言えば、浜田さんは、私に孫を取られたと思うかもしれない」
「そんなことは」
「自分の希望でしょう」
陸は唇を結んだ。
「はい」
「話したあと、もう一度来て」
陸はうなずいた。
店を出る前に、振り返る。
「台風の日、店は休みますか」
「まだ決めていない」
「舟は、今夜から陸へ上げます。じいちゃんが、今回は風が強いかもしれないって」
漁に関する浜田の判断は早い。
水月は予約表を見た。
「明後日は休みにする」
言葉へ出すと、迷いが消えた。
「明日の夜も、進路を見て決める」
陸が帰ったあと、水月は明後日の予約客へ電話をかけた。
台風接近のため、安全を優先して休業すること。
別の日へ変更できること。
すでに旅程の変更が難しい場合は、予約を取り消すこと。
六人のうち、四人は旅行そのものを中止すると言った。
残る二人は、翌月へ予約を移した。
相手は怒らなかった。
「早めに連絡してもらえてよかったです」と言った。
電話を切ったあと、水月は黒板へ休業の札を準備した。
以前なら、当日の朝まで天候を見たかもしれない。
仕入れた食材を無駄にしたくない。
せっかくの予約を失いたくない。
営業できる可能性が少しでもあるなら、店を開けたい。
そう考えただろう。
今は、海の都合を待つだけではなく、自分で閉める日を決められた。
午前九時前、家では海斗が仕事を始める準備をしていた。
仕事部屋の机には、会社から送られた二台のモニターが並んでいる。
画面の横へ、一日の予定を書いた紙を貼る。
午前九時半、朝会。
十時、設計確認。
正午、昼休憩。
午後二時、取引先との打ち合わせ。
午後四時、三浦との面談。
午後六時、終業。
数か月前、藤崎から新しい物流管理サービスの改修を任された。
四人の開発者が関わる仕事だった。
海斗は、技術面をまとめる責任者になっている。
管理職ではない。
社員の評価も、顧客との契約交渉も担当しない。
それでも、設計の方向を決め、作業を分け、問題が起きたときには全体を確認する役割だった。
話を受けたとき、海斗はすぐに承諾しなかった。
担当する人数。
作業の期間。
夜間対応の有無。
自分が休んだ場合に代わる人。
期限を変更する権限。
藤崎へ一つずつ確認した。
海斗と同じ権限を持つ副担当として、福岡に住む高瀬が入る。
深夜対応が必要な場合は、通常の当番担当と藤崎が判断する。
海斗一人で顧客へ復旧時刻を約束しない。
作業量が増えた場合は、納期か機能のどちらかを調整する。
条件を書面にしてもらったうえで、三か月の試行として引き受けた。
以前の職場で昇進を断ったとき、海斗は人をまとめる役割そのものを避けたいと思っていた。
だが、すべての責任を一人で背負わず、技術の仕事を続けながら支える方法もあると知った。
その日は、入社して間もない三浦との面談が入っていた。
三浦は二十五歳だった。
質問が少なく、頼んだ作業は期限までに終わらせる。
一見すると、問題はない。
だが、作業記録を見ると、深夜に更新されている日が続いていた。
午後四時、オンライン会議へ三浦が入ってきた。
画面の中の顔には、疲れが出ている。
「最近、夜に作業してる?」
海斗は尋ねた。
「少しだけです」
その返事に、胸が止まるような感覚があった。
自分も、同じ言葉を使っていた。
「少しというのは、何時間?」
三浦は目を逸らした。
「一時間くらいです」
「毎日?」
「今週は」
「勤務記録に入っていないよね」
「時間内に終わらなかったので、自分の勉強としてやりました」
自分の勉強。
誰かに命じられたわけではない。
だから、働いた時間ではない。
海斗にも覚えがあった。
「今、担当している作業の見積もりは、僕が確認した」
海斗は言った。
「時間内に終わらないなら、見積もりか作業量が間違っている。三浦さんの能力だけの問題ではない」
「でも、ほかの人なら終わると思います」
「ほかの人が終わるかどうかではなく、今、担当している人がどのくらいかかるかで考える」
三浦は黙っていた。
「僕も、前の会社で同じ働き方をしていた」
海斗は続けた。
「仕事が終わらないと、自分の力が足りないと思った。人に聞くより、自分で調べた方が早いと考えた。その結果、身体を壊した」
三浦が顔を上げた。
海斗は、自分の休職についてチーム全員へ詳しく話してはいなかった。
隠しているわけでもない。
話す必要があるときに、自分で範囲を決めて伝える。
「今日から、勤務時間外に仕事をしないでください」
海斗は言った。
「今週の作業は、僕と高瀬さんで分け直します。これまでの時間も、勤務として申請してください」
「迷惑をかけます」
「すでに一人で抱える方が、あとで大きな迷惑になる」
かつて西田から言われた言葉だった。
今なら、その意味が分かる。
「分からないところを、明日の朝に一覧にして。全部を説明できなくてもいい。どこから分からないのかを書いてください」
「はい」
「今夜は、仕事用パソコンを閉じるところまで確認します」
「そこまでですか」
「信用していないわけではなく、仕組みにします。僕も最初、上司に確認されていました」
三浦は、ようやく少し笑った。
「分かりました」
会議を終えると、海斗は自分の勤務記録を見た。
三浦へ話した手前、自分が残業を隠すわけにはいかない。
予定外に三十分かかった面談時間を記録する。
その分、翌朝の始業を遅らせることを藤崎へ申請した。
午後六時、仕事用パソコンを閉じる。
廊下へ出ると、水月が帰ってきたところだった。
調理着から私服へ着替えている。片手には、売れ残った食材の入った袋を持っていた。
「お帰り」
「ただいま」
水月は玄関で靴を脱ぎ、冷蔵庫へ袋を入れた。
下段の赤い札がついた場所へ収める。
「台風の日、店を休む」
「明後日?」
「うん。明日の夜も、風が強くなる前に閉めるかもしれない」
「予約は?」
「連絡した」
「怒られなかった?」
「早く決めてよかったと言われた」
海斗はうなずいた。
「家の方は、何かした方がいいかな」
「宮下さんから、雨戸を閉めるように連絡が来た。庭に置いているものも中へ入れる」
「仕事が終わったから、今からやろう」
二人で外へ出た。
物干し竿を外し、植木鉢を物置へ移す。
雨戸が固く、途中で動かなくなった。
海斗が力を入れて引こうとすると、水月が止めた。
「壊れる」
「もう少しで動く」
「力を入れて、戸の方が外れたら困る」
「浜田さんに聞く?」
「今は舟を上げてる。明日、宮下さんに見てもらう」
以前の海斗なら、自分で解決できないことが悔しかっただろう。
今は、戸を元の位置へ戻した。
「では、ここは明日」
「うん」
家へ入ると、水月の携帯電話が鳴った。
浜田からだった。
陸が料理の学校へ行きたいと言った。
静波で働かせてほしいとも聞いた。
電話の向こうから、浜田の大きな声が漏れている。
水月は台所から少し離れた。
「私が勧めたわけではありません」
〈分かっとる。あいつが勝手に決めた〉
「勝手ではなく、自分で考えたんだと思います」
〈漁を嫌がってるようには見えんかった〉
「魚が好きでも、漁師になりたいとは限りません」
浜田は黙った。
〈料理人になれると思うか〉
「まだ分かりません。私は、陸が料理しているところを見たことがほとんどありません」
〈なら、断ればええ〉
「一か月、働いてもらおうと思っています」
〈水月さんまで、あいつを甘やかすのか〉
水月の中に反発が生まれた。
だが、怒りに任せて答えれば、陸の話から離れてしまう。
「給与を払います。時間も決めます。遅刻や無断欠勤をすれば辞めてもらいます。刃物や火を扱う仕事なので、甘くするつもりはありません」
〈学校へ行く金は、どうする〉
「それは、ご家族で話してください」
〈あいつは、続かんかもしれん〉
「続かないかもしれません」
水月は否定しなかった。
「一か月で辞めるかもしれない。学校へ行ってから、別の仕事を選ぶかもしれない。それでも、一度やってみなければ、陸には分からないと思います」
電話の向こうで、浜田が息を吐いた。
〈明日、陸を連れていく〉
「台風の準備があるので、話は短くします」
〈分かった〉
通話が終わる。
海斗は、少し離れた場所で聞いていた。
「浜田さん、反対してた?」
「心配してるんだと思う」
「水月は、陸君を雇いたい?」
「分からない」
「分からないまま、受けるの?」
「試す期間を決める。私だけではなく、陸も静波で働きたいか確かめる」
水月は冷蔵庫を開け、夕食の材料を出した。
「人へ教えるのが怖い」
「どうして?」
「佳月の人たちと、同じことをするかもしれないから」
水月は料理の世界で、厳しさを当然とする人を何人も見た。
できない方が悪い。
見て覚えろ。
何度も聞くな。
若いうちは、休みより経験を優先しろ。
自分も、陸が遅ければ苛立つかもしれない。
何度教えてもできなければ、強い言葉を使うかもしれない。
「同じことをしそうになったら、止めて」
水月が言う。
「僕が?」
「店のことへ口を出すなと言ったけど、陸への教え方については聞いてほしい」
海斗は少し考えた。
「陸君から相談があれば聞く。でも、水月に隠れて陸君の味方をするようなことはしない。問題があれば三人で話す」
「うん」
「僕が見て、水月が無理な働かせ方をしていたら言う」
「私も、海斗が三浦さんという人へ同じことをしていたら言う」
「名前、聞こえてた?」
「廊下まで声が聞こえた」
「機密の話はしてなかった?」
「詳しい内容は分からなかった。仕事をする時間の話だけ」
仕事部屋の防音について、もう一度考えた方がよさそうだった。
台風は、予報より早く進んだ。
翌日の昼前から、海は細かく波立った。
静波では、予定していた四人の客のうち二人が旅行を中止した。残る二人も早めに帰りたいと言ったため、水月は料理を出す時刻を少し早めた。
午後一時半、最後の客を見送る。
夜の予約客へ連絡し、営業を取りやめた。
食材は、保存できるものと、近所へ分けるものに分ける。
浜田と陸が来たのは、午後二時だった。
二人とも雨合羽を着ていた。
浜田は店へ入るなり、水月へ言った。
「陸を一か月、預ける」
陸が横から言う。
「預けられるんじゃない。働くんだ」
「口だけは一人前だ」
「浜田さん」
水月が止める。
「条件を確認します」
水月は書面を出した。
勤務日。
勤務時間。
時給。
休憩。
仕事内容。
試用期間。
遅刻や欠勤の連絡方法。
作業中に考えた料理や手順を、誰の名前で記録するか。
最後の項目を見て、陸が尋ねた。
「これは何ですか」
「静波で新しい料理を考えたとき、誰がどこまで考えたか残します」
「僕が考えることもあるんですか」
「今は分からない。でも、魚のことは私より知っているでしょう」
浜田が書面を覗き込んだ。
「名前まで残す必要があるのか」
「あります」
水月は答えた。
「店で出す料理は、静波の料理です。でも、考えた人の名前までなくす必要はありません」
長谷川のことは話さなかった。
浜田も尋ねなかった。
陸は書面を読み、署名した。
まだ未成年ではないため、本人の契約で働ける。だが、浜田にも内容を確認してもらった。
「初日は、台風が過ぎた次の土曜日」
水月が言う。
「午前九時に来て」
「分かりました」
「自分で起きて」
浜田が笑った。
「そこが一番難しいぞ」
「起きる」
陸は顔を赤くした。
二人が帰ったあと、水月は店の雨戸を閉めた。
海側の窓には、補強の板を当てる必要がある。
一人では持ち上げられない。
宮下へ連絡すると、片山の家を回ってから来ると返事があった。
海斗へ頼むことも考えた。
だが、その日は仕事中だった。
仕事部屋の戸を閉めている時間は、緊急でない限り声をかけないと決めている。
水月は宮下を待った。
三十分後、宮下と美代が来た。
「海斗さんは?」
美代が尋ねる。
「仕事中です」
「呼ばなくていいの?」
「宮下さんが来てくれたから」
三人で板を持ち上げ、金具へ固定した。
入口には土嚢を積む。
床から水が上がるほどの高潮になる可能性は低いが、舟屋は海と直接つながっている。
できることはしておく。
作業を終えた頃には、雨が強くなっていた。
「今夜、潮路へ泊まる?」
美代が尋ねた。
「家へ帰ります」
「道が危なくなる前に帰った方がええよ」
水月は厨房と冷蔵庫を確認し、午後四時に静波を出た。
家へ着くと、海斗の仕事部屋の戸が開いていた。
「もう終わった?」
水月が尋ねる。
海斗は廊下へ出てきた。
「今、休憩。七時までに確認する作業がある」
「残業?」
「台風で、取引先の倉庫が早く閉まることになった。予定していた確認を前倒ししてる。藤崎さんと高瀬さんも入ってる」
「夕食は?」
「六時に休む」
「作っておく」
「静波は?」
「閉めた。宮下さんと美代さんに手伝ってもらった」
海斗の顔に、一瞬、複雑な表情が浮かんだ。
自分へ連絡してほしかったのかもしれない。
「呼ばなくて、ごめん」
水月が言うと、海斗は首を振った。
「僕は仕事中だった。二人に頼めたなら、それでいい」
「店の板を一人では上げられなかった」
「一人でやらなくてよかった」
二人とも、以前とは違う言葉を選べた。
午後六時、海斗は予定どおり仕事部屋から出てきた。
水月が作ったのは、簡単なうどんだった。
出汁に、静波で余った葱と蒲鉾を入れた。
食卓へ向かい合って座る。
外では、雨戸が風に鳴っている。
「怖くない?」
海斗が尋ねる。
「音は怖い。でも、店の準備はした」
「家は?」
「宮下さんが、今のところ大丈夫だと言ってた」
「避難の連絡が出たら、すぐ行こう」
「仕事中でも?」
海斗は一瞬、黙った。
「避難は仕事より先」
「分かった」
食べ終えると、海斗は食器を流し台へ運んだ。
「洗うのはあとにする」
「仕事へ戻って」
「九時までには終わると思う」
「思う、ね」
「終わらない場合は、交代する。高瀬さんが九時から入る」
海斗は仕事部屋へ戻った。
水月は居間で、町からの防災情報を確認した。
雨量。
風速。
避難所の場所。
海面の高さ。
携帯電話へ通知が入るたび、胸が強く打った。
午後八時四十分、海斗が部屋から出てきた。
「終わった?」
「予定していた確認は終わった。ただ、接続が不安定な倉庫がある。高瀬さんへ引き継いだ」
「海斗は?」
「当番ではないから、いったん休む。問題が出たら藤崎さんから連絡が来る」
海斗は仕事用パソコンを棚へ入れず、机へ置いたままにした。
その夜は、すぐ対応できる状態にする必要がある。
二人は居間で、防災情報を見た。
午後十時、町の一部に避難準備の情報が出た。
水月たちの地区は対象外だった。
海斗が窓の様子を見に行く。
「雨戸、持ってる」
「庭は?」
「物置も大丈夫そう」
十一時過ぎ、二人は布団へ入った。
眠れるとは思えなかった。
風が家の周囲を回り、屋根の上で何かが転がる音がする。
水月は目を閉じたまま、海斗の手を探した。
海斗の指が触れる。
「起きてる?」
「うん」
「静波、大丈夫かな」
「宮下さんが補強してくれた」
「海の水が上がったら?」
「店へは行かない」
水月は自分へ言い聞かせるように答えた。
静波が心配だった。
料理道具。
器。
冷蔵庫。
カウンター。
三年前、一人で店を開いたときから積み上げてきたものがある。
今から見に行けば、何かできるような気がした。
だが、暗い道を風雨の中で歩く方が危険だった。
自分が店へ行けば、海斗もついてくる。
誰かへ心配を増やすだけになる。
「朝まで待つ」
水月は言った。
海斗が手を握り返した。
午前一時十八分。
仕事部屋から通知音が聞こえた。
海斗が起き上がる。
「仕事?」
「たぶん」
廊下の照明をつけ、仕事部屋へ入る。
水月も布団から出た。
「私も起きる」
「寝ていていい」
「眠れない」
海斗はパソコンを開いた。
画面には、複数の連絡が届いていた。
取引先の倉庫へ接続できない。
配送情報の一部が送信されず、処理が止まっている。
藤崎と高瀬、当番担当がすでに対応を始めていた。
海斗は通話へ入った。
「相沢です。状況を確認します」
声の調子が変わる。
水月は邪魔をしないよう、台所へ移った。
湯を沸かす。
海斗が飲むか分からない。
自分のためにほうじ茶を淹れた。
仕事部屋から、海斗の声が聞こえる。
「復旧時刻は、まだ伝えないでください」
「接続が戻っても、未送信データの確認が必要です」
「僕が処理の一覧を見ます。高瀬さんは、二重送信の可能性を確認してください」
「変更は、一人で入れないでください。当番担当と二人で確認します」
午前二時十二分。
水月は時計を見た。
海斗が東京で動けなくなった夜と、同じ時刻だった。
本人は気づいていないだろう。
あの夜、海斗は一人で期限を決めた。
三十分以内に修正版を反映すると約束し、身体が動かなくなった。
今は、画面の向こうに何人もいる。
海斗一人の声だけではない。
高瀬らしい男性の声。
藤崎の落ち着いた声。
女性の担当者が、未送信の件数を読み上げる声。
海斗は椅子から立ち上がらない。
呼吸も乱れていない。
それでも、肩には力が入っていた。
水月は、仕事部屋へ入らず、戸口を軽く叩いた。
海斗が振り向く。
水月は、湯飲みを一つ見せた。
海斗はうなずき、マイクを切った。
「ありがとう。そこへ置いて」
「呼吸、浅くなってる」
海斗は一度、息を吐いた。
「分かった」
「私は居間にいる」
「うん」
水月はそれ以上、口を出さなかった。
午前三時過ぎ、倉庫との接続が戻った。
だが、止まっていた情報を一度に送れば、同じ処理が重なる可能性がある。
一件ずつ確認し、順番を決めて送る。
海斗は、処理の一覧を画面へ表示した。
「全部、今夜中に送る必要はありません」
取引先の担当者が、朝の出荷に間に合わないと言った。
「優先する配送を決めてください。全件を急げば、確認できません」
以前の海斗なら、すべてを間に合わせる方法を探しただろう。
人を増やせばできる。
自分が残ればできる。
一時的に確認を省けば間に合う。
だが、その方法が次の障害を生むことを知っていた。
取引先と相談し、朝一番の配送に必要な情報だけを先に送る。
残りは、午前中に確認してから処理する。
復旧見込みではなく、現在できる範囲を伝える。
午前四時二十分、優先分の送信が終わった。
藤崎が言った。
〈相沢さんは、ここで抜けてください。次の確認は朝の担当へ引き継ぎます〉
「記録をまとめます」
〈記録は高瀬さんが残しています〉
「僕が確認した方が」
〈相沢さん〉
藤崎の声が強くなった。
〈役割を終えてください〉
海斗は口を閉じた。
画面には、高瀬からのメッセージが表示された。
〈引き継ぎます。休んでください〉
「分かりました」
海斗は通話を抜けた。
パソコンを閉じる。
椅子へ座ったまま、しばらく動かなかった。
水月は戸口から声をかけた。
「終わった?」
「僕の分は」
「ほかの人が続けてる?」
「うん」
「それでいい?」
海斗は苦笑した。
「少し気になる。でも、いい」
水月は仕事部屋へ入り、海斗の肩へ手を置いた。
「お疲れさま」
「静波のこと、考えなかった」
海斗が言った。
「仕事中だったから」
「水月が不安なのは分かってたのに」
「私には、私の不安を一緒に持ってくれる人がいた。美代さんも、宮下さんも連絡をくれた」
「僕がいなくても?」
「海斗がいなくても、ではない。海斗だけではない」
水月は答えた。
「海斗も、一人ではなかったでしょう」
海斗はうなずいた。
二人は寝室へ戻った。
風はまだ強かったが、先ほどより雨音が弱くなっていた。
海斗は午前九時まで休むよう、藤崎から指示されている。
目覚まし時計を止め、携帯電話の電源も切った。
水月は、静波へ行きたい気持ちを抑えた。
明るくなってから、宮下と一緒に確認する。
そう決め、美代へメッセージを送った。
〈朝七時に、店の前で待ち合わせてもいいですか〉
すぐに返信が来た。
〈七時半にしましょう。今は寝なさい〉
水月は画面を見て、少し笑った。
「何?」
海斗が尋ねる。
「寝なさいって言われた」
「誰に?」
「美代さん」
「では、寝よう」
二人はもう一度、布団へ入った。
朝七時半、風は残っていたが、雨はほとんど止んでいた。
海斗は眠っている。
水月は静かに着替え、家を出た。
美代と宮下が、道の角で待っていた。
三人で静波へ向かう。
海沿いの道には、折れた枝や、飛ばされた発泡箱が散らばっていた。
屋根瓦が数枚落ちている家もある。
静波の前へ着くと、土嚢は崩れていなかった。
入口の板戸も残っている。
宮下が海側へ回り、補強板を確認した。
「一本、金具が外れています。でも、窓は割れていません」
水月は鍵を開けた。
店内へ入る。
床の一部が濡れていた。
舟屋側から、海水が少し上がったらしい。
カウンターや厨房に被害はない。
棚の器も落ちていなかった。
水月は息を吐いた。
完全に無事ではない。
床を乾かし、外れた金具を直し、濡れた木材の状態を確かめる必要がある。
それでも、店は残っていた。
「今日は営業しないでね」
美代が言った。
「予約はありません」
「予約がなくても、片づけを一人で終わらせようとするでしょう」
「宮下さんがいます」
宮下が困った顔をした。
「僕を数に入れる前に、聞いてください」
「あ……すみません」
水月は自分が勝手に頼ったことに気づいた。
「午前中、時間はありますか」
「十一時までなら」
「床の水を出すのを手伝ってください。金具の修理は、別の日で大丈夫です」
「分かりました」
美代は雑巾とバケツを取りに潮路へ戻った。
水月は前掛けをつけようとして、やめた。
今日は料理をする日ではない。
厨房へ入る必要もない。
午前九時頃、浜田と陸が来た。
浜田は静波を見るなり、海側へ回った。
「舟屋の柱は大丈夫そうだ」
「床だけ濡れました」
「この程度なら、乾かせばええ」
陸は黙って箒を取り、店の前へ流れ着いた葉やごみを集め始めた。
「今日は勤務日ではないよ」
水月が言う。
「分かってます。手伝いです」
「給与は出さない」
「今日は、じいちゃんと来ただけだから」
水月は、受け入れるべきか迷った。
働くことと、近所の手伝いの境界は曖昧になる。
「十一時までに終える」
水月は言った。
「それを過ぎるなら、仕事として頼みます」
「はい」
陸はうなずいた。
午前十時、海斗から電話がかかってきた。
〈店、どうだった?〉
「床が少し濡れた。窓と厨房は大丈夫」
〈今、そっちへ行く〉
「寝た?」
〈四時間くらい〉
「会社は?」
〈午後一時から勤務する。午前中は休み〉
「午前中は休む時間でしょう」
〈店の片づけをする〉
水月は、以前なら来てほしいと言ったかもしれない。
「今、美代さんと宮下さん、浜田さん、陸がいる」
〈僕だけ何もしないの?〉
「海斗は、夜に仕事をした」
〈でも〉
「来たいなら、昼に食べるものを作って。皆の分」
電話の向こうで、海斗が黙った。
〈何人?〉
「六人。海斗を入れて七人」
〈分かった。家にあるもので作る。十一時半に持っていく〉
「無理に凝らなくていい」
〈おにぎりと味噌汁にする〉
「それでいい」
電話を切る。
海斗が店へ来て力仕事をすれば、助かる。
だが、今必要なのは、人手だけではない。
作業を終えたあと、皆が食べるものも必要だった。
役割は、一つではなかった。
十一時前、床の水を出し終えた。
窓を開け、風を通す。
濡れた部分には扇風機を当てる。
外れた金具は、宮下が応急処置をした。
本格的な修理は、業者に頼むことになった。
水月は、店の修繕用に積み立てている口座を確認した。
費用は払える。
自分の店を守るための金を、営業を増やしてすぐ取り戻そうとは考えなかった。
必要な修理をし、そのあとの営業を続ける。
十一時半、海斗が大きな鍋と、おにぎりの入った箱を持ってきた。
顔には眠気が残っていた。
「持ってきた」
「ありがとう」
「味噌汁、味が薄いかもしれない」
「私に聞かないで。皆に食べてもらって」
公民館を借りるほどではない。
静波のカウンターと窓際へ分かれて座った。
海斗がおにぎりを配る。
具は、梅干しと昆布。
味噌汁には、家にあった大根と油揚げが入っていた。
水月も客席へ座った。
「おいしい」
美代が言った。
「夜中まで仕事して、朝からこれを作ったん?」
浜田が尋ねる。
「水月に、店へ来るなら食事を作ってと言われました」
「厳しい嫁だな」
「寝不足で力仕事をさせる方が危ないでしょう」
水月が答える。
宮下が味噌汁を飲み、うなずいた。
「少し薄いけど、作業のあとにはちょうどいいです」
海斗は水月を見た。
「やっぱり薄かった?」
「おいしいよ」
「料理人として?」
「一緒に片づけた人として」
海斗は、それ以上尋ねなかった。
台風から一週間後、陸の勤務が始まった。
午前八時五十五分、陸は静波へ来た。
自分で起きたらしい。
「おはようございます」
「おはよう。着替えて」
水月は、新しい前掛けを渡した。
調理着ではない。
最初の仕事は、客席と入口の掃除だった。
「奥から入口へ向かって掃いて」
水月が言う。
陸は箒を持ち、床を掃き始めた。
だが、窓際にある椅子を動かさず、その周囲だけを掃いた。
水月は言いかけた。
見れば分かるでしょう。
椅子の下に埃が残っているのだから、動かすのは当然だ。
その言葉を飲み込む。
「椅子を一度、カウンター側へ動かして」
「はい」
「脚の下にごみが溜まりやすいから、そこも見て」
陸は椅子を持ち上げた。
床には、小さな砂と魚の鱗が落ちていた。
「毎日、ここまで掃くんですか」
「客席だから」
「見えないところなのに」
「椅子を引いたら見える」
陸は納得したようにうなずいた。
開店前、茶の出し方を教える。
湯飲みを置く位置。
客の前へ手を伸ばしすぎないこと。
声をかける時機。
料理を運ぶ順番。
陸は、魚の扱いより接客に苦労した。
最初の客へ茶を出したとき、湯飲みを強く置き、茶が少しこぼれた。
「すみません」
客へ言った声が小さすぎて、聞こえていなかった。
水月が布巾で拭き、あとで陸を厨房の端へ呼んだ。
「失敗したときは、相手に聞こえる声で謝る」
「はい」
「顔を見る」
「苦手です」
「苦手でも、客の前に出るなら必要です」
陸の表情が硬くなった。
水月は、言葉を続けた。
「私も得意ではない。でも、料理を出すだけでは、店はできない」
「料理だけをしたいです」
「それなら、大きな店で分業する方法もある。でも、静波では接客も仕事です」
陸は黙っていた。
「一か月働いたあと、厨房の仕事だけを学びたいと思うなら、別の店を探すことも考えて」
突き放したつもりはなかった。
だが、陸にはそう聞こえたのかもしれない。
昼休憩のとき、ほとんど話さなかった。
営業後、陸は洗い物をした。
一枚の小鉢を持ち上げたとき、手が滑った。
器が床へ落ち、割れた。
水月の身体が反応した。
「何をしてるの」
声が強くなった。
陸が動きを止める。
「すみません」
「持ち方を見れば、落とすと分かるでしょう」
言った瞬間、水月は気づいた。
見れば分かる。
佳月で、何度も聞いた言葉だった。
なぜ分からない。
一度で覚えろ。
失敗する前に考えろ。
陸の顔から、表情が消えている。
「触らないで」
水月は言った。
陸の肩がさらに縮む。
「違う。破片で手を切るから、動かないで」
水月は箒とちり取りを持ってきた。
大きな破片を拾い、細かな欠片を掃く。
濡れた布で床を拭き、欠片が残っていないか確認する。
「怪我は?」
「ありません」
「手を見せて」
陸の指先に傷はなかった。
水月は息を吐いた。
「今の言い方は、よくなかった。ごめんなさい」
陸が驚いて顔を上げた。
「僕が割ったんです」
「器を割ったことと、私の言い方は別です」
水月は、割れた小鉢を見た。
開店した頃に揃えたものだった。
気に入っていた。
だからこそ、怒りが先に出た。
「洗うときは、器を一枚ずつ持つ。濡れた手で重ねない。次から気をつけて」
「弁償します」
「仕事中の失敗なので、弁償しなくていい」
「でも」
「同じことを繰り返せば、洗い物の方法を変える。今は、それで終わり」
陸は、しばらく割れた器を見ていた。
「料理人も、器を割りますか」
「割るよ」
「水月さんも?」
「佳月に入った最初の月、蓋物を三つ割った」
「怒られました?」
「ひどく」
「辞めようと思いました?」
水月は思い出した。
料理長の前で、何度も頭を下げた。
器の値段を告げられ、自分の一か月分の給与より高いと言われた。
「辞めようとは思わなかった。でも、しばらく器を持つのが怖かった」
「今は?」
「今も、落としそうになることはある」
陸は小さくうなずいた。
勤務を終え、陸が帰ったあと、水月はその日の記録を書いた。
陸が覚えたこと。
できなかったこと。
次回、説明すること。
最後に、自分の教え方についても書く。
〈器を割った際、強い言葉を使った。怪我の確認を先にする。注意は作業を止めてから伝える〉
誰かへ見せるためではない。
自分が忘れないための記録だった。
十月に入る頃、陸は客の顔を見て挨拶できるようになった。
茶を置く音も小さくなった。
魚を捌く仕事は、まだ一日一尾だけだった。
浜田が持ってきた小鯵を三枚におろす。
最初は身が骨へ多く残った。
水月は、自分で捌き直さなかった。
「この骨に残った身を、どうする?」
陸へ尋ねる。
「捨てます」
「食べられるところが残ってる」
「スプーンで取りますか」
「それで何を作る?」
陸は考えた。
「なめろう」
「味噌を入れすぎると、少ない身の味が消える。量を測って試して」
陸は骨から身を掻き取り、味噌、生姜、葱と合わせた。
味を見る。
「味噌が多いです」
「自分で分かったなら、次は減らして」
二度目は、味噌を半分にした。
今度は魚の味が残った。
「これ、焼いてもいいですか」
陸が尋ねた。
「なぜ?」
「じいちゃんが、漁のときに食べる味噌を焼いたおにぎりを作るから。魚を入れたら、おかずにもなると思って」
水月は、陸の作ったなめろうを小さく丸め、焼き台へ載せた。
表面へ薄く焦げ目がつく。
香りが立った。
食べると、外側は香ばしく、中には鯵の脂が残っている。
「紫蘇を入れたいです」
陸が言った。
「片山さんの畑に、まだあるか聞いてみる」
「店で出せますか」
「今のままでは小さい。椀へ入れるか、野菜と合わせるか考える」
水月は試作記録を開いた。
日付を書く。
使用した魚。
調味料の量。
焼いた時間。
考案者の欄へ、〈浜田陸〉と記入した。
陸がそれを見ていた。
「僕の名前?」
「最初に、焼くことを考えたのは陸でしょう」
「水月さんが、味を直したのに」
「調整した人の欄に、私の名前も書く」
水月は、〈調整・相沢水月〉と書き加えた。
「店で出すときも、僕の名前を書くんですか」
「献立に入る形までできたら、書く」
「恥ずかしいです」
「嫌なら、出す前に言って」
「嫌ではないです」
陸は、記録に書かれた自分の名前を何度も見ていた。
その夜、水月は家へ記録の写しを持ち帰った。
海斗は仕事を終え、夕食を作っていた。
鍋の中で、鶏肉と大根が煮えている。
「お帰り」
「ただいま」
水月は静波で外していた指輪を、左手へ戻した。
「陸の試作」
記録を海斗へ渡す。
海斗は火を弱めてから、紙を読んだ。
「浜田陸。調整、相沢水月」
「鯵の身を味噌と合わせて焼いたもの。まだ料理にはなっていない」
「食べてみたい」
「完成したら」
「客として予約する?」
「出す日が決まったら」
海斗は記録を返した。
「三浦さんは?」
水月が尋ねる。
「今週は、勤務時間内に仕事を終えてる」
「海斗が仕事を減らしたの?」
「作業を小さく分けた。分からないところを聞けるように、毎朝十五分だけ一緒に確認してる」
「海斗の仕事は増えてない?」
「その十五分を、ほかの会議から減らした」
「なら、いい」
水月は椅子へ座った。
「今日、陸に強く言った」
器を割ったときのことを話す。
海斗は鍋の蓋を閉め、向かいへ座った。
「謝った?」
「謝った」
「陸君は?」
「次から気をつけると言った」
「なら、今日はそれでいいんじゃない」
「また同じことを言うかもしれない」
「言ったら、また直す。僕も三浦さんへ、何で早く言わなかったのかと言いそうになった」
「言わなかった?」
「途中まで言った。三浦さんに、言いにくかったからですと返された」
海斗は苦笑した。
「僕が言いやすい人間なら、もっと早く相談していたはずなんだ」
「陸も、私が怖ければ、分からなくても聞かなくなるね」
「優しくすればいい、というだけではないと思う。できていないことは伝えないといけないから」
「どう言えばいいんだろう」
「僕も分からない」
二人は同じ食卓で、それぞれの教え方について考えた。
すぐに答えは出なかった。
水月は、分からないままで話せることに安堵した。
翌週の土曜日。
静波の黒板へ、新しい献立が加わった。
鯵と紫蘇の焼きつみれ。
その下に、小さく書く。
〈試作 浜田陸/調整 相沢水月〉
陸は黒板を見ると、顔を赤くした。
「本当に書いたんですか」
「記録どおりです」
「じいちゃんが見ます」
「見てもらえばいいでしょう」
「何か言われます」
「言われたら、自分で答えて」
昼の最初の客は、美代と浜田だった。
水月が頼んだわけではない。
陸が、前日の夜に二人へ話したらしい。
浜田は黒板の前で、長い間、孫の名前を見ていた。
「字が小さい」
「料理名より大きく書くものではありません」
水月が言う。
浜田は何も答えず、カウンターへ座った。
陸が茶を出す。
湯飲みを置く手は、わずかに震えていた。
「もっと静かに置け」
浜田が言う。
「置けてる」
「茶が揺れた」
「浜田さん」
水月が止めた。
「今日は、客として来てください」
浜田は不満そうに口を閉じた。
鯵と紫蘇の焼きつみれは、蕪のすり流しと合わせた。
味噌の香ばしさ。
鯵の脂。
紫蘇の香り。
蕪の甘み。
水月が料理を出す。
「お熱いうちにどうぞ」
陸は厨房の端に立っていた。
浜田が椀を取る。
出汁を飲み、つみれを箸で割った。
一口食べる。
表情は変わらなかった。
陸が待ちきれずに尋ねる。
「どう?」
「客に感想を急かすな」
「じいちゃんだから聞いてる」
「店では客だ」
美代が横から言った。
「おいしいって顔をしてるよ」
「してない」
浜田は否定した。
だが、最後まで残さず食べた。
会計を済ませ、店を出る前に、陸へ言った。
「魚の骨へ、身を残しすぎだ」
「見てないだろ」
「魚を持てば分かる」
「今度は、もっときれいに取る」
「そうせえ」
それだけ言って、浜田は外へ出た。
美代が水月へ小声で言った。
「あれで、喜んでるんよ」
「分かりにくいですね」
「浜田さんやからね」
営業後、陸は自分から試作記録を開いた。
〈骨に身が多く残った。次回は、包丁を骨に沿わせる〉
そう書いた。
水月は隣に、客の反応と、味の調整について記録した。
同じ紙へ、二人の字が並んだ。
十一月の初め、海斗が担当する改修作業が一区切りついた。
当初の予定より一週間遅れた。
途中で取引先から追加要望が出たため、すべてを期限へ入れるのではなく、一部を次の段階へ回した。
以前の海斗なら、遅れたことだけを失敗と考えただろう。
今は、無理な作業を押し込まず、障害を起こさず公開できたことを評価できた。
藤崎との面談で、正式に技術責任者を続けないかと提案された。
「次も、同じ条件ですか」
海斗は尋ねた。
「夜間当番は、通常の頻度。副担当を置く。人事評価は私が担当します」
「作業量が増えたときは?」
「納期か範囲を調整する」
「三浦さんの支援時間を、予定へ入れたいです」
「週にどのくらい必要ですか」
「今は一時間半です。来月、もう一度見直します」
条件を確認し、海斗は受けた。
管理職になることを断ったあの日、成長する機会を自分で閉じたような不安があった。
今は、肩書ではなく、働き方と役割を選べる。
求められることを、すべて受け入れる必要はない。
やりたいことまで、恐れて断る必要もない。
その夜、海斗は水月へ伝えた。
「続けることにした」
「何を?」
「技術責任者」
「受けたの?」
水月は意外そうな顔をした。
「前なら、また抱え込むと思って断ったかもしれない。でも、今回は条件を決めた」
海斗は、藤崎と確認した内容を話した。
水月は最後まで聞き、尋ねた。
「やりたいの?」
「やりたい」
その答えを口にすると、胸の奥が軽くなった。
役割を引き受ける理由が、断れないからではない。
自分が望んでいる。
「なら、やってみたらいい」
水月は答えた。
「無理になったら?」
「条件を変えてもらう。それでも無理なら、降りる」
「私にも言って」
「言う」
「黙って顔色だけ悪くするのは、なし」
「分かりました」
海斗は笑った。
「水月は、陸君を続けて雇う?」
「本人に聞く」
一か月の試用期間が終わる日、水月は陸と面談した。
営業後、カウンターを挟まず、客席に向かい合って座る。
「一か月、どうだった?」
「思ってたより、料理をする時間が少なかったです」
「嫌だった?」
「最初は。でも、客に出すまでが店だと分かりました」
「接客は?」
「まだ苦手です」
「続けたい?」
陸は、すぐにうなずいた。
「続けたいです。専門学校も受けます」
「浜田さんとは?」
「話しました。受かってから考えろと言われました」
「反対ではない?」
「反対だと思います。でも、受験料を出してくれると言いました」
水月は、浜田らしいと思った。
「静波では、学校へ入るまで働けます。週二日。試験の前は休んでいい」
「料理も教えてくれますか」
「店の仕事を覚えながら。陸が覚えたいことを、先に言って」
「魚の出汁を取りたいです」
「次の土曜日にする」
「ありがとうございます」
「それから、私の言い方が強いときは言って」
陸は困った顔をした。
「言えません」
「なぜ?」
「水月さん、怖いから」
率直な返事だった。
水月は、少し傷ついた。
だが、怒らずに聞く。
「どんなときに怖い?」
「忙しいとき。返事をしても、聞こえてないことがある。もう一度聞くと、さっき言ったって言われる」
水月には覚えがあった。
魚を焼き、出汁を見て、客へ料理を出す時間が重なると、陸の質問を後回しにすることがある。
自分では返事をしたつもりでも、陸には聞こえていない。
「分かった。忙しいときの質問は、この紙に書いて」
水月は小さな伝言板を出した。
「急ぐことなら、“今、聞きたいです”と言って」
「言ったら、怒りませんか」
「怒るかもしれない」
「そこは怒らないと言うところでしょう」
「できない約束はしない。でも、怒ったら、あとで謝る」
陸は笑った。
「分かりました」
その日から、静波の厨房に小さな伝言板が置かれた。
〈器の場所〉
〈出汁を止める時間〉
〈次の魚は、どこまで捌くか〉
陸の字が増える。
水月は空いた時間に返事を書く。
〈棚の二段目〉
〈沸く直前〉
〈頭と内臓まで〉
一度で伝わらなければ、書き直す。
分からないまま作業を進めさせない。
水月自身も、教えることで、普段の動きを言葉へ置き換えるようになった。
なぜ、その順番なのか。
なぜ、その温度なのか。
なぜ、その器を選ぶのか。
感覚だけで行っていたことを説明すると、自分の料理を改めて見直せた。
十二月のある日、一人の男性が静波の前で立ち止まった。
大きな鞄を持ち、黒板を見ている。
予約客ではなかった。
昼の席は、五つ埋まっている。
残るのは、カウンターの端だけだった。
男性は戸を開けるか迷っているようだった。
水月は、入口へ向かった。
戸を内側から開ける。
男性が驚いた顔をした。
三十代後半に見えた。
顔色が悪く、目の下に疲れが出ている。
「ご予約のお客様ですか」
水月は尋ねた。
男性は首を振った。
「予約はしていません。食事ができる店を探していて」
いつか聞いたのと同じ言葉だった。
水月は店内を振り返った。
一席、空いている。
「本日は、日替わりの献立だけです。それでもよろしければ、ご案内できます」
男性は、少し安心したようにうなずいた。
「お願いします」
水月は戸を大きく開けた。
「どうぞ」
男性が店へ入る。
カウンターの端へ案内する。
陸が茶を運んだ。
湯飲みを静かに置き、客の顔を見る。
「お茶です。熱いので、お気をつけください」
声は、相手に届く大きさだった。
水月は厨房へ戻った。
その日の最初の料理は、蕪の含め煮だった。
薄い出汁の中に、柔らかく煮た蕪を入れ、柚子を載せる。
器を温める。
陸が尋ねた。
「次、僕が出してもいいですか」
「説明できる?」
「蕪は片山さんの畑。出汁は鯛の骨と昆布。柚子は美代さんの家でもらったもの」
「全部は言わなくていい。聞かれたら答えて」
「はい」
水月は器を陸へ渡した。
陸が客の前へ運ぶ。
「お熱いうちにどうぞ」
男性は箸を取り、蕪を口へ入れた。
しばらく動かなかった。
陸が不安そうに水月を見る。
水月は、何も言わず待つよう、目で伝えた。
やがて男性は、もう一口食べた。
「おいしいです」
小さな声だった。
陸の肩から力が抜けた。
「ありがとうございます」
陸は頭を下げ、厨房へ戻った。
「今、すぐ感想を聞きそうになりました」
「顔に出てた」
「我慢しました」
「できてたよ」
水月は次の魚を焼き台へ載せた。
窓の外では、冬の海が光っている。
営業を終えたあと、水月は家へ帰った。
玄関の表札には、二人の名前が並んでいる。
戸を開ける。
「ただいま」
仕事部屋から海斗の声がした。
「お帰り。今、終わる」
水月は調理着の入った袋を置き、台所へ入った。
鍋から、煮物の匂いがする。
海斗が夕食を作っていた。
冷蔵庫の下段には、赤い札のついた静波の食材。
上段には、二人の夕食に使うもの。
水月は左手へ指輪を戻した。
海斗が仕事部屋から出てくる。
「今日はどうだった?」
「予約なしのお客さんが一人来た」
「入れた?」
「一席空いてたから」
「食べられた?」
「全部、きれいに」
「よかった」
水月は食卓へ座った。
「海斗は?」
「三浦さんが、一人で調べすぎて作業が遅れた」
「海斗は何て言ったの?」
「相談してほしいと言った。僕も、もっと早く気づけなかったことを謝った」
「怒らなかった?」
「少しは。でも、顔には出さなかったつもり」
「三浦さんに聞かないと分からないね」
「今度、聞いてみる」
海斗は鍋の蓋を開けた。
鶏肉と大根、里芋が煮えている。
味噌汁は、少し薄いかもしれないと言った。
水月は味見をした。
「ちょうどいい」
「料理人として?」
「妻として」
「その違いは?」
「今日は説明しない」
海斗が笑った。
二人分の料理を器へ盛る。
青い器。
東京から持ってきた皿。
静波では使わなくなった小鉢。
違う場所から来たものが、同じ食卓へ並んでいる。
窓の外から、海の音が聞こえた。
強い日もあれば、ほとんど聞こえない日もある。
二人は向かい合って座った。
「いただきます」
声が重なる。
水月は箸を取り、大根を一口食べた。
海斗も同じ鍋から盛った料理を食べる。
二つの椀から、同じ湯気が上がっていた。




