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『静波の寄せる場所』  作者: 久遠 睦


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第19章 戻る道

二月の終わり、静波の厨房に、一通の封筒が届いた。

差出人は、京都料理文化振興会。

水月は仕込みの手を止め、封筒を裏返した。

見覚えのない団体ではなかった。京都市内の料理人や生産者を集め、年に一度、料理の実演と試食会を開いている。佳月に勤めていた頃、親方に同行して会場へ行ったことがあった。

若い料理人は、鍋や食材を運ぶだけだった。

壇上へ立つのは、店の名を背負った料理長たちだった。

自分が呼ばれる場所ではないと思っていた。

水月は包丁を置き、手を洗った。

封を切ると、厚手の案内状と依頼書が入っていた。

三月下旬に京都市内のホテルで開催される、「京と海の料理人」という催しへの出店依頼だった。府内各地で店を営む料理人が一品ずつ料理を出し、土地と料理の関係について話す。

水月には、焼き茄子と甘鯛の椀を実演してほしいと書かれていた。

〈相沢水月様が長年温めてこられた料理と、伊根での新たな歩みをご紹介いただきたく存じます〉

文章を二度読んだ。

長年温めてきた料理。

伊根での新たな歩み。

間違ったことは書かれていない。

それでも、胸の奥が落ち着かなかった。

依頼書の下には、当日の紹介文案が添えられていた。

〈京都の名店で修業中、自ら考案した料理を先輩料理人に奪われた相沢氏。その苦難を乗り越え、海の町・伊根で再生させた一椀を――〉

水月は、そこで紙を伏せた。

厨房の隅では、陸が大根の桂剥きをしていた。

冬の初めから週に二日、静波で働いている。最初は途中で厚さが変わっていた大根の帯も、今では向こう側の光が透けるほど薄くなった。

「水月さん」

陸が包丁を止めた。

「破れました」

まな板の上で、大根の帯が二つに切れていた。

「切れたところからやり直したらええ。厚くなったときに無理に戻そうとすると、余計に切れる」

「はい」

陸は短く答え、新しい大根を手に取った。

水月は伏せた依頼書を見た。

厚くなったものを、無理に薄く戻そうとしてはいけない。

料理の話として口にした言葉が、そのまま自分へ返ってきた。

「何かあったんですか」

陸が尋ねた。

「京都から、料理の催しに出てほしいと依頼が来た」

「京都の催し?」

「料理人が集まって、客の前で料理を作る」

陸の目が明るくなった。

「すごいじゃないですか」

水月は紹介文案を陸へ渡した。

「ここを読んでみて」

陸は手を拭き、紙を受け取った。

しばらく黙って読んでいたが、やがて眉を寄せた。

「料理の紹介というより、水月さんがひどい目に遭った話みたいですね」

「私もそう思う」

「断るんですか」

「まだ決めてない」

水月は依頼書を封筒へ戻した。

行きたくない理由なら、いくつもあった。

京都へ戻ること。

大勢の料理人の前へ立つこと。

あの椀について、知らない人間から質問されること。

過去の出来事を、客を集めるための話として使われること。

だが、出る理由もあった。

料理の名前を、自分の名前とともに人前へ出せる。

静波で作り直した椀を、伊根以外の人にも食べてもらえる。

そして何より、あの料理を語る言葉を、今度は自分で選べる。

昼の営業を終えたあと、水月は依頼書を家へ持ち帰った。

海斗は居間の机で、会社の予定表を開いていた。

画面には、色の違う予定が一週間分並んでいる。

「少し話せる?」

水月が声をかけると、海斗は画面を閉じた。

「うん。僕もちょうど話したいことがあった」

二人は向かい合って座った。

どちらから話すか迷い、水月が封筒を机へ置いた。

「京都の催しに呼ばれた」

海斗は案内状へ目を通した。

紹介文案を読むと、口元がわずかに固くなった。

「この書き方、水月は嫌なんじゃない?」

「嫌やね」

「だったら断る?」

「それも違う気がしてる」

水月は両手で湯飲みを包んだ。

「この文章のまま出るつもりはない。でも、紹介文を変えられるなら行ってもええかもしれんと思ってる」

「どう変えたい?」

「過去の話を隠したいわけじゃない。ただ、奪われた料理人として呼ばれるんじゃなくて、今、静波で料理を作っている人間として呼んでほしい」

海斗はうなずいた。

「それを条件にして返事をしたらいいと思う」

「向こうが受け入れなかったら?」

「断る」

海斗は迷わず答えた。

「出られなくなるのが惜しくない?」

「惜しいよ。でも、水月が自分の名前を取り戻すために動いたのに、今度は苦しんだ経験を勝手に使われるのは違う」

水月は湯飲みの中を見た。

海斗の言葉に安心した一方で、わずかな反発も感じた。

「決めるのは私やけど」

口にすると、海斗は一瞬黙った。

「そうだね。ごめん」

「謝らんでもええ。ただ、断るかどうかも私が決めたい」

「分かった」

海斗は案内状を水月へ返した。

「水月は、行きたい?」

水月はすぐには答えなかった。

行きたいと認めれば、怖さまで引き受けなければならない。

それでも、答えはすでにあった。

「行ってみたい」

「じゃあ、行くための条件を考えよう」

水月は小さく息を吐いた。

「海斗の話は?」

海斗は再びパソコンを開いた。

予定表の三月二十四日と二十五日に、薄い青色の枠が入っていた。

「東京出張を頼まれた」

水月は画面と海斗の顔を交互に見た。

「東京へ?」

「新しい取引先との打ち合わせがある。先方の技術担当へ説明できる人間に来てほしいって」

「断れない仕事?」

「断ることはできる。藤崎さんも、無理ならオンラインへ切り替えると言ってくれてる」

藤崎は、アトリオシステムズで海斗の直属の上司だった。

仕事を依頼するとき、必要な期限と理由を先に伝える。できない場合には、代案を一緒に考える。

海斗が以前の職場で知っていた管理職とは、仕事の渡し方が違った。

「海斗は、行きたいん?」

水月が尋ねると、海斗は机の端を指でなぞった。

「行った方が仕事の幅は広がると思う。画面越しだけで会っている人たちと、直接話してみたい気持ちもある」

「でも、東京やから迷ってる」

「うん」

海斗は正直にうなずいた。

「東京駅へ着いたときのことを考えるだけで、少し息が詰まる。前の会社の近くへ行く予定はないけど、同じ路線には乗る」

「私の催しと日が重なってる」

依頼書に書かれた開催日は、三月二十五日だった。

水月は京都市内へ前日から入る予定になる。海斗の東京出張も、一泊二日だった。

「同行はできんな」

「最初から頼むつもりはなかったよ」

海斗は言った。

言い方が少し強く聞こえたのか、すぐに続けた。

「一緒に来てほしくないという意味じゃない。水月がいないと東京へ行けないなら、僕はまだ行くべきじゃないと思ってる」

水月はその言葉を考えた。

自分も同じだった。

海斗に京都までついてきてもらえば、会場へ入る前の不安は軽くなるかもしれない。だが、海斗がいなければ壇上へ立てないのなら、その依頼を受ける時期ではない。

「別々に行くことになるな」

「そうだね」

「同じ日に、二人とも嫌な場所へ戻るんやね」

「嫌な場所って言い切るのも、少し違う気がする」

海斗は窓の外を見た。

暗い海の向こうに、舟の灯りが一つ見えた。

「東京には、好きだった場所もある。前の会社で楽しかった時期もあった。だから余計に、どう感じるのか分からない」

水月にも分かった。

京都には佳月だけがあるわけではない。

母と暮らした家があり、学校があり、料理人になると決めた店がある。奈緒と仕事のあとに麺を食べた夜も、初めて自分の出汁を褒められた朝も、京都にあった。

嫌いになれれば、戻るのはもっと簡単だったのかもしれない。

二日後、水月は振興会へ返信した。

出店を受けるための条件を、三つ書いた。

紹介文から、料理を奪われたという表現を外すこと。

当日の料理は、過去の再現ではなく、伊根へ移ってから作り直した現在の椀として紹介すること。

料理人名と店名を、すべての配布物へ明記すること。

送信する前に、何度も文章を読み返した。

相手を怒らせない言い方を探している自分に気づき、途中で書き直した。

〈ご検討いただければ幸いです〉ではなく、〈以上をお受けいただける場合に限り、出店をお引き受けします〉と結んだ。

翌日、主催者から電話があった。

「こちらの配慮が足りず、申し訳ございませんでした」

担当者の女性は、早口で謝った。

「相沢様のご経験を多くの方に知っていただくことに意味があると考えたのですが……」

「話さないとは言っていません」

水月は答えた。

「必要なら、当日の質問には自分で答えます。ただ、最初から人の興味を引くための言葉に使わないでください」

電話の向こうが静かになった。

「承知しました。紹介文は修正し、確認のため改めてお送りします」

二時間後、新しい文章が届いた。

〈伊根の舟屋で六席の店「静波」を営む相沢水月氏。京都で培った技術と、丹後の海で出会った食材から生まれた一椀をご紹介します〉

水月は最後まで読み、出店を承諾した。

「誰か、手伝いを一人連れてきてくださいって」

その日の夕方、陸へ言った。

「行きたいです」

陸は大根を持ったまま、即座に答えた。

「まだ誰に頼むか言ってない」

「でも、行きたいです」

「学校の準備は?」

「合格したら、入学は四月です。三月二十五日は空いてます」

陸は一月に、京都市内の調理師学校を受験していた。

結果は三月初めに届く予定だった。

「遊びに行くんやないよ」

「分かってます。荷物運びでも洗い物でも、何でもします」

「何でも、とは言わん方がええ」

水月は包丁を置いた。

「仕事は、内容を分かってから引き受ける。前にも話したやろ」

「はい」

「朝八時に会場入り。仕込み、器の準備、盛りつけの補助、片づけ。拘束は夕方六時まで。交通費と宿泊費は主催者持ち。静波からも日当を払う」

「勉強させてもらうのに、お金まで受け取るんですか」

「働くから払う」

「でも――」

「勉強になるかどうかと、仕事をしたかどうかは別の話」

陸はしばらく考えたあと、うなずいた。

「分かりました」

「それから、会場では知らない料理人にいろいろ言われるかもしれん。腹が立っても、その場で言い返す前に私へ知らせること」

「水月さんは言い返すんですか」

「必要なら」

陸が笑った。

「それなら安心です」

三月三日、浜田家へ合格通知が届いた。

陸は封筒を持ったまま、静波まで走ってきた。

店の戸を開けるなり、「受かりました」と言った。

息が切れ、額に汗が浮かんでいた。

水月は仕込み中の手を止めた。

「おめでとう」

その一言を口にした途端、陸の顔が崩れた。

笑っているのか泣いているのか、分からない顔だった。

「じいちゃんには?」

「最初に見せました」

「何て?」

「そうか、って」

「それだけ?」

「それだけです」

陸は封筒を見つめた。

「でも、朝から倉庫をずっと片づけてます。俺が使ってた釣り道具まで磨いてる」

水月は源治の姿を思い浮かべた。

孫の合格を喜んでいないはずはない。

ただ、喜び方が分からないのだろう。

「京都へ行くの、怖くない?」

水月が尋ねると、陸は少し驚いた顔をした。

「楽しみです」

「それだけ?」

「……怖いです」

陸はようやく認めた。

「伊根を出て暮らしたことがないし、周りは自分より料理ができる人ばかりかもしれない。学校へ行って、向いてないって分かったらどうしようとも思います」

「分かるかもしれんね」

「そこは、大丈夫って言ってくれないんですか」

「向いているかどうかは、今の私には決められん」

水月は鍋の火を弱めた。

「でも、向いてないと思う日が一日あったくらいで、すぐ答えを出さんでええ。料理がうまくできない日と、料理人になれないことは同じじゃない」

陸は黙って聞いていた。

「私も、京都へ行くのが怖い」

水月が言うと、陸は目を上げた。

「水月さんでも?」

「怖いよ」

「それでも行くんですね」

「行きたいから」

陸は合格通知を封筒へ戻した。

「じゃあ、俺も行きます」

海斗は出張を引き受ける前に、藤崎とオンラインで話した。

「東京へ行くこと自体はできます」

海斗は言った。

「ただ、いくつか確認したいことがあります」

「どうぞ」

「打ち合わせは、二十五日の午後五時までで終わりますか」

「先方にはその予定で伝えています。延長は受けません」

「夜の会食は?」

「ありません。設定もしません」

「僕一人で説明する形になりますか」

「営業の高瀬さんが同行します。技術的な質問へ答えるのは相沢さんですが、日程や費用に関する判断は高瀬さんがします」

海斗はメモを取った。

以前なら、確認するまでもなくすべてを引き受けていた。

技術の説明を頼まれれば、その場で納期も約束した。顧客が困っていると言えば、できるかどうかを確かめる前に、やりますと答えた。

「もう一つあります」

「はい」

「当日、体調が悪くなった場合は、高瀬さんに説明を代わってもらう可能性があります」

藤崎は少しも迷わなかった。

「その前提で資料を共有しておきましょう。出張中止の判断も、当日の朝まで相沢さんがして構いません」

「ありがとうございます」

「無理に行く必要はありませんよ」

「分かっています」

海斗は一度息を吸った。

「分かった上で、今回は行ってみたいです」

出張の一週間前から、海斗は眠りが浅くなった。

夜中に目を覚まし、枕元の時計を見る。

午前二時十二分。

その数字を見ると、赤い文字の流れるモニターが頭へ浮かんだ。

仕事用のパソコンは閉じてある。

通知も鳴っていない。

それでも心臓が速くなり、再び眠るまで時間がかかった。

水月は、海斗が起きていることに気づいても、すぐには声をかけなかった。

しばらくして、海斗の呼吸が整わないままだと分かると、暗闇の中で尋ねた。

「今、話した方がええ?」

「少しだけ」

海斗は天井を見たまま答えた。

「行くと決めたことが、間違いだった気がしてきた」

「やめてもええんやろ」

「うん」

「やめたい?」

「分からない」

水月は布団の中で身体の向きを変えた。

「今夜、決めんでもええんと違う?」

海斗はしばらく黙っていた。

「そうだね」

「朝になって、それでも行きたくなかったら考えたらええ」

「水月は、京都へ行くのをやめたいと思わない?」

「毎日思ってる」

海斗が小さく笑った。

「毎日?」

「紹介文を見た朝から、一日一回は思ってるよ」

「それでも準備してる」

「やめたいと思うことと、やめることは別やから」

暗い部屋に、水の音が届いていた。

しばらくすると、海斗の呼吸が少しずつ深くなった。

三月二十四日の朝、二人は同じ家から別々の荷物を持って出た。

水月と陸は、器と調理道具を積んだ車で京都へ向かう。

海斗は天橋立駅から列車を乗り継ぎ、東京へ向かう。

玄関の前で、水月は海斗の襟元を見た。

「曲がってる」

手を伸ばしかけ、途中で止めた。

「直してええ?」

「お願いします」

水月はシャツの襟を整えた。

海斗は、水月が持っている包丁用の鞄を見た。

「忘れ物は?」

「確認した」

「何回?」

「三回」

「僕は二回」

二人は顔を見合わせた。

「着いたら連絡する?」

海斗が尋ねた。

水月は少し考えた。

「できたらでええことにしよう。返事も急がん」

「分かった」

「何かあったら連絡する」

「僕も」

それだけ決め、二人は別々の方向へ歩き出した。

海斗が東京駅へ着いたのは、午後一時前だった。

新幹線の扉が開き、人の流れが一斉にホームへ出る。

海斗はすぐには立てなかった。

通路へ並ぶ人の背中を見ながら、座席で息を整えた。

急ぐ必要はない。

打ち合わせは翌日だった。

後ろから来た乗客がいなくなってから、鞄を持って立ち上がった。

改札へ向かう途中、弁当売り場が見えた。

色とりどりの箱が並び、店員が商品名を呼んでいる。

以前、この駅から京都へ向かった朝、海斗は売り場の前まで来て、何も選べなかった。食べたいものも、食べられるものも分からず、水だけを買った。

今も、商品が多すぎると頭が止まりそうになった。

海斗は売り場の端へ移動した。

すべてを見るのをやめ、一番手前にあった鮭の弁当を手に取った。

もっとよいものがあるかもしれない。

東京らしい弁当を選んだ方がよいかもしれない。

そんな考えが浮かんだが、戻さなかった。

会計を済ませ、駅の待合スペースへ座った。

蓋を開ける。

焼き鮭、卵焼き、煮物、白いご飯。

豪華ではない。

だが、自分で選んだ。

海斗は一口ずつ食べた。

半分ほどで腹が満ちたが、少し休んでから残りも食べた。

食べ終えた箱を捨て、携帯電話を取り出す。

〈東京に着きました。弁当も食べました〉

水月へ送ると、十分ほどして返事が来た。

〈京都に着いた。陸が車でずっとしゃべってた〉

続いて、陸が助手席で眠っている写真が届いた。

口を少し開け、腕を組んでいる。

海斗は笑い、携帯電話を鞄へ入れた。

駅からホテルへ向かうため、在来線のホームへ下りた。

電車が地下へ入ると、窓に自分の顔が映った。

次の駅名が放送される。

その音を聞いた途端、胸の奥が固くなった。

以前の会社へ通っていた路線だった。

朝は混雑した車内で、仕事用の携帯電話を確認した。夜は終電の時刻を気にしながら、まだ終わっていない作業を数えていた。

車内の広告も、ドアの開く音も、当時と大きく変わっていない。

呼吸が浅くなった。

海斗は次の駅で降りた。

ホテルの最寄り駅ではなかった。

ホームのベンチへ座り、膝の上へ鞄を置いた。

大丈夫、と自分へ言いそうになり、やめた。

大丈夫かどうかは、今決めなくていい。

苦しいことだけ認めればよい。

藤崎との打ち合わせで決めた連絡先を開き、高瀬へ短いメッセージを送った。

〈東京には到着しています。移動中に少し体調が悪くなったので、途中下車して休んでいます。明朝、改めて状態を連絡します〉

すぐに返信があった。

〈承知しました。今日の予定はありませんので、ゆっくり休んでください。明日難しければ私だけで伺います〉

責める言葉も、理由を尋ねる言葉もなかった。

海斗はベンチに座ったまま、何本かの電車を見送った。

十五分ほどしてから立ち上がり、次の電車へ乗った。

ホテルに着いた頃には、外が暗くなり始めていた。

部屋へ入り、上着を脱ぐ。

窓の向こうには、ビルの窓が並んでいた。残業している人の姿まで見える。

海斗はカーテンを閉めた。

夕食はホテルの近くで一人で取るつもりだった。

だが、西田から連絡が来ていた。

〈東京に来ていると佐伯さんから聞きました。もし負担でなければ、夕食どうですか。会社の近くではなく、東京駅周辺で〉

誰から聞いたのかと思ったが、アトリオの佐伯と前の会社の佐伯は別人ではない。連絡を取っていた西田に、海斗自身が数日前、出張の話をしていたことを思い出した。

〈一時間くらいなら〉

そう返すと、西田は駅に近い静かな店を選んだ。

西田は、以前より短く髪を切っていた。

「顔色、思っていたよりいいですね」

席へ着くなり、そう言った。

「思っていたより、って何」

「東京駅で倒れてないか心配してました」

「途中の駅では降りたけど」

海斗が正直に言うと、西田は笑わなかった。

「降りられたならよかったです」

二人は定食を頼んだ。

西田は現在、開発チームの主任になっていた。

海斗が抜けたあと、夜間対応は必ず二人体制になった。障害報告書の期限も、復旧直後ではなく翌営業日の午後へ変更されたという。

「黒田部長が決めたの?」

「最初は渋ってました。でも、海斗さんの件のあと、健康相談室からもかなり言われたみたいです」

「僕の件」

「言い方が悪かったですか」

「いや」

海斗は味噌汁の蓋を開けた。

湯気が顔へ届く。

「僕が休んだこと、みんなにどう説明されたのか、ずっと気になってた」

「体調不良で休職、だけです。詳しいことは話されていません」

「迷惑をかけたと思われてなかった?」

「思った人はいたかもしれません」

西田は箸を置いた。

「でも、少なくとも私は思ってません。海斗さんが抜けたから大変になったんじゃなくて、一人抜けただけで大変になる状態にしていた会社の問題です」

海斗は返事をしなかった。

あの頃、その言葉を聞いても受け入れられなかっただろう。

今でも、すべて納得できるわけではない。

自分が引き受けた仕事があり、自分の判断で後回しにしたこともあった。他人へ頼まず、抱え込んだことも事実だった。

「僕にも責任はあったと思う」

「はい」

西田は否定しなかった。

「でも、全部ではないです」

「うん」

それなら受け取れる気がした。

食事の終わり頃、西田が言った。

「黒田部長から、伝言を預かってます」

海斗の手が止まった。

「会いたいと言われたの?」

「いえ。会うかどうかは海斗さんに決めてほしいって。伝言だけです」

西田は携帯電話を開いたが、画面は見ずに言った。

「当時、止めるべきだった。管理する立場なのに、君ならできると思って仕事を渡し続けた。申し訳なかった、だそうです」

海斗は水を一口飲んだ。

謝罪を聞けば、何かが大きく変わると思っていた時期があった。

黒田が非を認めれば、自分の苦しさが正しかったと証明されるような気がしていた。

しかし、実際に言葉を受け取っても、過去は変わらなかった。

眠れなかった夜も、食べられなかった日も、なかったことにはならない。

それでも、何も感じないわけではなかった。

「分かった」

海斗は言った。

「返事は、それだけで?」

「今は」

「伝えておきます」

店を出ると、西田は改札の前で立ち止まった。

「明日、頑張ってくださいとは言いません」

「じゃあ、何て言うの」

「終わったら帰ってください」

海斗は笑った。

「そうする」

京都のホテルでは、水月が厨房の下見をしていた。

会場は百人ほど入る宴会場だった。

中央に実演用の調理台があり、その後ろへ大きな画面が設置されている。手元の動きが、客席へ映し出される仕組みだった。

静波の六席とは違う。

一つの動作を、百人に見られる。

水月は調理台へ手を置いた。

ステンレスの冷たさが掌へ伝わる。

佳月の厨房も、同じような業務用の調理台だった。背後から長谷川の声が聞こえる気がした。

遅い。

それでは客へ出せない。

誰に教わった。

料理人なら、結果だけを見ろ。

水月は手を離した。

「水月さん?」

陸が器の箱を抱えて立っていた。

「どこへ運べばいいですか」

「控えの台へ。割れ物やから、一箱ずつ」

「はい」

陸は箱を運んでいった。

主催者の担当者が近づいてきた。

「相沢様、明日の進行について、一点ご相談がございます」

差し出された台本には、水月の紹介のあと、司会者が過去の騒動について質問すると書かれていた。

「この質問は、事前にお願いした条件と違います」

水月は言った。

「ただ、相沢様の料理を理解していただく上で、避けて通れない部分かと」

「避けません。質問されたら、自分の言葉で答えると言いました」

「はい。ですので、司会からきっかけを――」

「そのきっかけを、そちらで作らないでください」

担当者は台本へ目を落とした。

「会場には、経緯をご存じない方も多くいらっしゃいます」

「知らないまま椀を食べてもらって構いません」

水月は調理台の上へ置かれた器を見た。

「料理を食べる前に、私が被害を受けた人間だと知る必要はありません」

離れた場所で、陸が手を止めていた。

聞いていないふりをしているが、耳はこちらへ向いている。

「では、この項目は削除します」

担当者はようやく言った。

「修正した台本を、今夜中にお送りします」

「お願いします」

水月が頭を下げると、担当者も深く頭を下げた。

控室へ戻る途中、陸が追いついてきた。

「すごいですね」

「何が?」

「ああいう人にも、はっきり言えるところ」

「言うまで、ずっと手が震えてたよ」

水月は右手を開いて見せた。

今も指先がわずかに震えている。

陸は驚いたように見た。

「全然分かりませんでした」

「分からんようにしてたから」

「怖くなくなったわけじゃないんですね」

「ならんよ」

水月は手を握った。

「怖くても、言わんと伝わらんことがあるだけ」

翌朝、水月と陸は午前七時半に会場へ入った。

伊根から運んだ甘鯛を確認し、鱗と内臓を取る。

茄子は京都の農家から届いたものだった。

水月は茄子を火へ載せ、表面が黒くなるまで焼いた。皮をむくと、白い湯気とともに甘い香りが立った。

陸は出汁を漉し、器を並べた。

「布、二重ですか」

「今日は一度目をこれで漉して、最後にもう一度」

「静波では一回ですよね」

「会場の水は、店の水と違う。昨日、出汁を引いてみたら少し匂いが残った」

陸は鍋へ顔を近づけた。

「俺には分かりません」

「今はそれでええ。違うかもしれんと思ったことは覚えといて」

開場時刻が近づくと、厨房の周囲が慌ただしくなった。

ほかの料理人たちが挨拶に来た。

名刺を差し出す者もいれば、椀の経緯を知っていると小声で伝える者もいた。

「大変でしたな」

「よう声を上げられました」

そう言われるたび、水月は礼だけを返した。

中には、悪意なく尋ねる者もいた。

「実際、どこからどこまでが相沢さんの料理なんです?」

白い調理着を着た年配の料理人だった。

水月は手を止めなかった。

「最初の試作記録と写真は、私の手元にあります。構成を決め、最初に作ったのは私です」

「長谷川さんから助言はなかった?」

「試食した際の意見はありました。ですが、それで考案者が変わるとは思っていません」

年配の料理人は、気まずそうに口を閉じた。

水月は甘鯛へ塩を振った。

「今日お出しする椀は、当時のものと同じではありません。伊根の甘鯛に合わせて出汁を変え、茄子の扱いも変えました」

「なるほど」

「それから、今日の木の芽油は、浜田陸が試作したものを調整しています」

突然名前を出され、陸が顔を上げた。

「俺ですか」

「そうやろ」

「でも、油に木の芽を入れただけです」

「温度と時間を何度も変えた」

水月は年配の料理人へ向き直った。

「そういう料理です」

壇上へ上がる直前、客席の後ろに奈緒の姿が見えた。

紺色の服を着て、一人で座っている。

目が合うと、奈緒は小さくうなずいた。

水月も同じように返した。

司会者が紹介文を読み上げた。

「伊根の舟屋で六席の店、静波を営む料理人、相沢水月さんです」

自分の名前が、広い会場へ響いた。

拍手が起きる。

水月は調理台の前へ立った。

照明が眩しく、客席の顔はよく見えない。

手元の画面だけが大きく映し出されている。

包丁を握った瞬間、佳月の厨房が頭へ浮かんだ。

だが、目の前にあるのは、あの頃の茄子ではない。

伊根から運んだ甘鯛と、今朝引いた出汁だった。

隣には、静波の前掛けを締めた陸がいる。

「この椀を最初に考えたのは、京都で働いていた頃です」

水月は話し始めた。

「その後、長い間、作りませんでした。伊根へ移り、店を始めても、献立へ入れることはありませんでした」

会場は静かだった。

「もう一度作ろうと思ったのは、過去と同じものを取り戻したかったからではありません。伊根の甘鯛を見て、この魚なら今の自分が作れると思ったからです」

甘鯛の身を椀へ入れる。

焼いた茄子を重ね、出汁を注ぐ。

最後に、陸が作った木の芽油を一滴落とした。

薄い緑色が、出汁の表面へ広がる。

「料理は、作った場所や人と一緒に変わります。けれど、変わることと、誰が作ったか分からなくなることは違います」

水月は客席を見た。

「今日の椀は、静波の相沢水月が作りました。木の芽油の試作は、浜田陸です」

隣で、陸が息を呑む音がした。

「どうぞ、料理として食べてください」

実演が終わり、試食用の椀が配られた。

客席から、出汁をすする音が聞こえる。

水月の手の震えは、いつの間にか止まっていた。

東京での打ち合わせは、予定どおり午後二時に始まった。

海斗は高瀬と並び、取引先の会議室へ入った。

昨夜は何度か目を覚ましたが、朝食は食べられた。

高瀬には、打ち合わせ前に状態を伝えた。

「説明はできます。ただ、途中で休憩をお願いするかもしれません」

「分かりました。私から最初に、一時間ごとに休憩を取ると伝えます」

会議室には、先方の担当者が六人いた。

海斗は資料を画面へ映し、システムの構成と今後の開発方針を説明した。

最初の十分は、自分の声が遠く聞こえた。

手のひらに汗が滲み、喉が乾く。

それでも、話している内容は頭へ入っていた。

質問を受け、考え、答える。

分からないことには、確認して後日回答すると伝えた。

以前のように、その場で正解を作ろうとはしなかった。

後半、先方の責任者が言った。

「追加で、既存の顧客データも自動移行できるようにしたいんです。来月末までに対応できますか」

海斗の中に、古い反応が蘇った。

できます。

方法を考えます。

何とかします。

喉まで出かかった言葉を飲み込む。

高瀬を見ると、彼は何も言わず、海斗の返事を待っていた。

「今の時点では、お約束できません」

海斗は答えた。

責任者の眉が上がった。

「難しいということですか」

「難易度も、必要な期間も、移行するデータの状態によって変わります。確認せずに可能だとお答えする方が、御社にとって危険です」

会議室が静かになった。

「まず、対象データの形式と件数を確認させてください。その上で、来月末までにできる範囲と、それ以降になる範囲を分けてご提案します」

責任者はしばらく考えたあと、うなずいた。

「分かりました。資料を送ります」

高瀬が引き取り、提出期限を翌週に決めた。

午後四時四十分、打ち合わせは終わった。

会議室を出ると、高瀬が言った。

「はっきり言ってもらえて助かりました」

「断ったように聞こえませんでしたか」

「できるか分からないことを、できると言わなかっただけです」

海斗は肩の力を抜いた。

当たり前のことだった。

だが、その当たり前を守るために、以前の自分は何度も失敗した。

東京駅へ戻る途中、電車の窓から、前の会社が入っていたビルが見えた。

ほんの数秒だった。

夜中まで明かりの消えなかった階は、ほかの階と区別がつかない。

海斗は、胸が痛むのを感じた。

懐かしさもあった。

悔しさもあった。

戻りたいとは思わなかった。

壊してしまいたいとも思わなかった。

ただ、自分が確かにあの場所で働いていたことだけが残った。

東京駅で、高瀬と別れた。

「直帰で大丈夫です。報告は明日以降で」

「明日は休暇を取っています」

「では、明後日で」

高瀬はそう言い、別の改札へ向かった。

海斗は新幹線の切符を確認した。

京都への到着は、午後七時過ぎだった。

水月の催しも、その頃には終わっているはずだ。

携帯電話を見ると、写真が一枚届いていた。

大きな会場の壇上で、水月と陸が並んでいる。

画面の下には、料理名と二人の名前が表示されていた。

〈終わった。椀は全部なくなった〉

海斗は写真を拡大した。

水月は緊張した顔をしていた。

それでも、まっすぐ前を見ていた。

〈僕も終わりました。納期は持ち帰りました〉

送信すると、すぐに返事が来た。

〈京都駅で待ってる〉

海斗が京都駅へ着くと、水月は中央改札の近くに立っていた。

調理道具の入った鞄を足元へ置き、紙袋を提げている。

陸の姿はなかった。

「陸は?」

「学校の寮を見に行った。今夜は源治さんと京都に泊まる」

「源治さんも来たの?」

「催しには来んかった。終わった頃に車で迎えに来た」

水月は少し笑った。

「陸に、包丁を一本買うてやるらしい」

「合格祝い?」

「本人は、漁師が魚を渡す相手の包丁が悪かったら困るからやって」

「素直じゃないね」

「似た者同士やろ」

水月は海斗の顔を見た。

「東京、どうやった?」

「疲れた」

「それだけ?」

「途中で電車を降りた。前の会社のビルも見た。打ち合わせでは、できるか分からない仕事を持ち帰った」

「食べた?」

「東京駅で弁当を買った」

「選べたん?」

「鮭の弁当」

水月は小さくうなずいた。

「京都は?」

海斗が尋ねると、水月は紙袋を持ち直した。

「会場の厨房へ入ったら、手が震えた。紹介の仕方で、主催者ともまた話した」

「変えてもらえた?」

「うん」

「椀は?」

「百食、全部出た」

「食べた人の反応は?」

「おいしいと言うてくれた」

水月はそこで一度言葉を切った。

「奈緒も来てた」

「話した?」

「少しだけ。終わったあと、ありがとうって言われた」

「水月が?」

「料理を作り続けてくれて、って」

水月は遠くの案内板を見た。

「何て返したらええか分からんかったから、来てくれてありがとうって言うた」

二人は京都丹後鉄道の乗り場へ向かった。

発車まで少し時間があった。

水月が提げていた紙袋を開く。

中には、二つの折詰が入っていた。

「会場でもらった。料理人の弁当」

「今から食べる?」

「私は昼から、味見しかしてない」

「僕も夕食はまだ」

二人は待合室の端へ座った。

弁当には、筍の炊き込みご飯、鰆の西京焼き、菜の花の辛子和えが入っていた。

水月は一口食べ、しばらく黙って噛んだ。

「どう?」

海斗が尋ねる。

「おいしい」

「料理人の感想として、それだけ?」

「今は客やから、それでええ」

海斗も箸を取った。

二人とも疲れていて、会話は長く続かなかった。

だが、沈黙を埋める必要はなかった。

列車へ乗ると、水月は窓際へ座り、海斗は隣へ腰を下ろした。

京都の明かりが後ろへ流れていく。

やがて建物が減り、窓の外が暗くなった。

「戻ってきた、って感じた?」

水月が尋ねた。

「東京へ?」

「うん」

海斗は考えた。

「戻ったというより、通った感じがする」

「通った?」

「前は、東京を出ることしか考えられなかった。今日は、用事があって行って、終わったから帰る。それだけだった」

「怖くなかった?」

「怖かったよ」

海斗は座席へ背を預けた。

「でも、怖くなったら途中で降りられた。誰かに知らせてもよかった。前は、一度乗ったら会社まで行くしかないと思ってた」

水月は暗い窓へ視線を戻した。

「私は、京都へ戻った気がした」

「どんなふうに?」

「昔いた場所へ、今の自分で入った」

水月は両手を膝の上で組んだ。

「佳月にいた頃の私は、言われたことを断れんかった。自分の料理やと言うこともできんかった。今日も怖かったけど、嫌なことは嫌やと言えた」

「うん」

「陸の名前も出せた」

水月の声に、わずかな満足が混じった。

「それが一番よかったかもしれん」

列車は長いトンネルへ入った。

窓に、二人の姿が映る。

肩は触れていなかった。

手もつないでいない。

それぞれが自分の席へ座り、自分の荷物を持っている。

それでも、同じ方向へ帰っていた。

伊根へ戻った翌々日、陸は新しい包丁を持って静波へ来た。

源治が買った出刃包丁だった。

「じいちゃんが、魚を百尾捌いてから学校へ持っていけって」

陸は困った顔で言った。

「百尾、数えるん?」

「じいちゃんが帳面につけるそうです」

水月は包丁を鞘から抜いた。

刃の厚みを確かめ、柄を握る。

「手に合ってる」

「水月さんもそう思いますか」

「源治さん、ちゃんと見てたんやね」

陸は嬉しそうに包丁を受け取った。

その日の仕込みは、鯵だった。

陸は一尾ずつ頭を落とし、腹を開き、骨に沿って包丁を入れた。

最初の一尾は、骨に身が多く残った。

二尾目は、腹を傷つけた。

三尾目で、ようやく形が整った。

「あと九十七尾です」

陸が言った。

「今日だけで終わらせんでええよ」

「分かってます」

「学校へ行ったら、静波のやり方と違うことも教わる」

「はい」

「どっちが正しいか、すぐ決めんでええ。理由を聞いて、自分で試して」

「はい」

「それから、無給で働かせようとする店があったら――」

「勉強と仕事は別、ですよね」

陸が先に答えた。

水月はうなずいた。

「困ったら連絡して」

「水月さんに?」

「私でも、源治さんでも、美代さんでもええ。一人で決めんこと」

陸は四尾目の鯵をまな板へ置いた。

「春休みには戻ってきます」

「戻らんでもええよ」

陸の手が止まった。

「帰ってくるなってことですか」

「帰りたいときに帰ったらええ。戻らないと悪いと思って帰る必要はない」

「でも、静波でまた働きたいです」

「そのときは、空きがあるか聞いて」

「予約制ですか」

「仕事やからね」

陸は笑った。

「じゃあ、早めに連絡します」

三月の終わり、陸は京都へ発った。

源治はバス停まで見送りに来たが、出発時刻が近づくほど無口になった。

陸が荷物を積み、バスへ乗り込む。

扉が閉まる直前、源治が窓越しに声を上げた。

「魚を雑に扱うなよ」

陸は窓を開けた。

「料理の心配だけ?」

「金が足りんかったら言え」

源治は海の方を見たまま言った。

陸は何度もうなずいた。

バスが動き出す。

水月と海斗は、源治の少し後ろで手を振った。

陸の姿が見えなくなると、源治は咳払いをした。

「朝飯、食ってへん」

「静波で食べます?」

水月が尋ねる。

「客に出す残りでええ」

「残りものは出さんよ」

「何でもええ」

三人で店へ戻った。

水月は出汁を温め、鯵のつみれを入れた。

陸が試作した料理だった。

紫蘇を刻み、味噌を少し加え、丸めて焼いてから椀へ入れる。

献立札には、今も名前が残っている。

〈鯵と紫蘇の焼きつみれ 試作・浜田陸/調整・相沢水月〉

源治は札を見ても、何も言わなかった。

椀が出ると、汁を一口すすった。

「紫蘇が多い」

「前は少ないと言うてたやろ」

「今日は多い」

水月は言い返そうとしたが、源治が二口目をすぐに食べたため、黙った。

海斗は隣で笑いをこらえていた。

「何や」

源治が睨む。

「いえ。おいしそうに食べるなと思って」

「腹が減ってるだけや」

源治は最後まで椀を空にした。

朝食を終えると、海斗は仕事のため家へ戻った。

水月は店の戸を開け、暖簾を出した。

京都の催しで使った名札は、厨房の棚へ置いてある。

白い紙に、相沢水月、静波と印刷されている。

特別に飾るつもりはなかった。

だが、捨てる気にもなれなかった。

東京出張の翌日、海斗は次の出張について藤崎へ相談していた。

頻繁には行かない。

必要がある場合だけ、事前に日程と役割を確認する。

体調が悪いときは変更する。

一度行けたからといって、次も必ず行けるとは限らない。

水月も、京都から届いた新しい依頼をすぐには受けなかった。

店の営業を減らさずに行けるのか。

料理をどう紹介されるのか。

陸がいない状態で、誰へ補助を頼むのか。

一つずつ確かめてから決めることにした。

戻れた場所が、いつでも平気な場所へ変わったわけではない。

東京の駅名を聞けば、海斗の胸はまだ固くなる。

京都の業務用厨房へ入れば、水月の手は震える。

それでも、以前とは違った。

苦しくなったときに立ち止まる場所を、二人は知っていた。

助けを求める相手もいた。

帰る方向を、自分で決めることができた。

その夜、二人は家の台所で、陸が残していった鯵のつみれを焼いた。

水月が焼き台を見ている間に、海斗が大根をおろす。

「多すぎる?」

海斗が大根おろしの入った器を見せた。

「少し」

「戻せないよ」

「明日の味噌汁に入れたらええ」

水月は焼けたつみれを皿へ載せた。

二人分には、一つ多かった。

海斗が皿を見て言った。

「三つずつにする?」

「一つは明日の朝」

「分かった」

余った一つを小さな器へ移し、冷蔵庫へ入れる。

すべてを今夜のうちに片づけなくてもよかった。

明日の分は、明日食べればよい。

窓の外では、春を待つ海が静かに揺れていた。


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