第20章 空いた場所
陸が京都へ発ってから最初の木曜日、水月はいつもの時刻に静波の戸を開けた。
厨房へ入り、換気扇を回す。
窓の外では、朝の光が水面に細く反射していた。対岸の山には薄い霧が残り、舟屋の間を抜けてきた風が、わずかに潮の匂いを運んでくる。
水月は冷蔵庫から魚を取り出し、まな板へ載せた。
鯵が八尾。
昨日、源治が持ってきたものだった。
包丁を入れ、一尾目を三枚におろす。二尾目へ移ろうとしたとき、流し台の脇に置かれた小さな籠が目に入った。
陸が使っていた籠だった。
皮をむいた野菜や、使う前の布巾を入れていた。本人が持っていくほどの物ではなく、水月も片づける理由を見つけられないまま、その場所へ残していた。
「水月さん、これ、どこへ置きます?」
陸の声が聞こえたような気がした。
水月は振り返った。
誰もいない。
厨房の奥では、出汁を取るための鍋が静かに湯気を上げている。
水月は籠を持ち上げた。
棚へ戻そうとして、手が止まる。
置く場所は決まっていたはずなのに、陸がいる間に場所が変わっていた。本人が使いやすいよう、流し台のそばへ移したのだった。
水月は籠を元の位置へ戻した。
必要がなくなったからといって、急いで消すこともない。
昼の営業には、予約が六人入っていた。
京都の催しが終わってから、予約の電話が増えている。
地元の客より、京都市内や大阪から来る客が多くなった。催しの会場で椀を食べた人や、紹介記事を読んだ人が、静波の名前を探して連絡してくる。
六席しかないと伝えると、驚かれることもあった。
「二週間先でも構いません」
「昼も夜も満席ですか」
「一人なら入れませんか」
断るたびに、水月の中へ小さな重さが残った。
以前なら、出せる数を越えてまで客を入れようとは思わなかった。
今も、その考えは変わっていない。
だが、静波へ来たいと言ってくれる人を断り続けることが、本当に店を守ることなのか、分からなくなっていた。
午前十一時、開店準備をしていると、戸口から声がした。
「おはようございます」
観光協会の宮下だった。
いつもの作業着ではなく、紺色の上着を着ている。脇には厚い書類を抱えていた。
「営業前にすみません。少しだけよろしいですか」
「十分くらいなら」
水月はカウンターの端を示した。
宮下は腰を下ろし、書類を広げた。
伊根町内の事業者を対象にした、小規模店舗改修の補助制度だった。
「京都の催し以降、静波さんへの問い合わせが観光協会にも増えていまして」
「協会へ?」
「予約方法が分からないとか、何人まで入れるのかとか。こちらから電話番号をお伝えしてよいか、毎回確認しています」
「すみません」
「苦情ではありません。むしろ、町としてはありがたい話です」
宮下は書類の一枚を水月の方へ向けた。
「もし席を増やすのであれば、厨房設備や客席の改修費用に補助が出ます。この建物の隣にある倉庫も、現在は空いていますよね。所有者の方は、条件次第では貸してもよいと」
水月は図面を見た。
現在の店と、隣の倉庫をつなげる案が、簡単な線で描かれている。
客席は六席から十四席へ。
厨房も広げ、調理台を一つ増やす。
従業員を二人雇えば、昼と夜の二回転も可能だと書かれていた。
「誰がこれを考えたんですか」
「私と、商工会の担当者です。もちろん、相沢さんが希望されるなら、という話です」
「私は、相談してません」
水月の声が少し低くなった。
宮下はすぐに書類を閉じた。
「先走りました。申し訳ありません」
水月は返事をしなかった。
頼んでいないのに、店の広さと客の数を決められたように感じた。
それは、自分の料理を他人の名前で出されたときとは違う。それでも、似た不快さがあった。
「静波さんが有名になれば、町へ来る人も増えます」
宮下は慎重に言葉を選んだ。
「ですが、町のために席を増やしてくださいと言うつもりはありません」
「この図面を見たら、そう言われているように見えます」
「そうですね」
宮下は言い訳をしなかった。
「相沢さんが何を困っているのか、先に聞くべきでした」
厨房の時計が十一時十分を示した。
水月は鍋の火を確認した。
「予約の電話が増えて、仕込み中に手を止めることが多くなりました」
「はい」
「陸が京都へ行ってから、一人で洗い物までしてます。そこは困ってます」
「席を増やすことではなく?」
「今のところは」
宮下は閉じた書類を鞄へ戻した。
「では、予約の受け方と、短時間で働ける人を探す方法を調べます。必要なければ、そう言ってください」
「考えてから返事します」
「分かりました」
宮下が帰ったあと、水月は店の中を見回した。
六つの席は、まだ空いている。
客が座れば、隣の者の話し声が届く。厨房から料理を出すとき、一人ひとりの食べる速さが分かる。
この距離が、水月は好きだった。
十四席になった店を想像する。
見えない席ができる。
同じ料理を一度に何皿も仕上げ、食べる人の顔を見ないまま次の鍋へ向かう。
それが悪いわけではない。
京都の店では、もっと多くの客へ料理を出していた。
ただ、自分が静波で作りたい時間とは違った。
昼の営業を終えると、留守番電話に三件の予約希望が入っていた。
その中に、客ではない女性からの伝言があった。
〈先日の京都の催しで、相沢さんの実演を拝見しました。突然で申し訳ありません。静波で料理の仕事を募集される予定があれば、一度お話を伺いたいです〉
名は、川原佐知といった。
宮津市内のホテルで、五年間、調理の仕事をしていたという。
水月は伝言を二度聞いた。
働き手を探す話が出た日に、仕事を求める電話が入る。
あまりに都合がよく、すぐには返事をする気になれなかった。
その夜、海斗は仕事を終えても、書斎から出てこなかった。
午後七時を過ぎ、水月が戸を開けると、海斗は画面を見たまま考え込んでいた。
「まだ終わらん?」
声をかけると、海斗は顔を上げた。
「終わってる。仕事は」
「じゃあ、何してるん?」
「評価を書いてる」
「仕事やないの?」
「仕事だけど、今日中じゃなくていい」
海斗はパソコンを閉じた。
夕食は、鰆の照り焼きと筍の煮物だった。
二人で食卓へ座っても、海斗はしばらく黙っていた。
水月は照り焼きを一口食べ、尋ねた。
「誰の評価?」
「三浦さん。僕が技術リーダーになってから、初めて部下の評価を書くことになった」
三浦は、入社三年目のエンジニアだった。
仕事は丁寧だが、自分で判断する前に、海斗へ確認を求めることが多い。
海斗が忙しそうにしていると質問を後回しにし、期限の直前になって問題が見つかることもあった。
「悪い評価をつけるん?」
「悪いというほどじゃない。ただ、期待している水準には届いていないところがある」
「そのまま書いたらええんと違う?」
水月が言うと、海斗は箸を止めた。
「書くのは簡単なんだけど、伝え方が難しい」
「何が?」
「評価は、昇給にも関わる。僕の書き方次第で、三浦さんの生活にも影響する」
水月は筍を噛んだ。
「だから、できてることだけ書く?」
「そうしたいわけじゃない」
「でも、書けんのやろ」
「水月は簡単に言うね」
海斗の声に、少し苛立ちが混じった。
水月は箸を置いた。
「簡単やと思ってない。ただ、できてないことを、できてると書くのも違うと思っただけ」
「分かってるよ」
海斗はそう答え、味噌汁へ視線を落とした。
食卓の空気が固くなった。
水月は、自分も宮下の図面と佐知の電話について話すつもりだった。
だが、今口にすれば、海斗へ答えを求めているように聞こえる気がした。
二人は食事を終え、別々に皿を洗った。
寝る前、海斗が居間へいると、水月は湯飲みを二つ持ってきた。
「さっき、言い方がよくなかった」
「僕も」
海斗は湯飲みを受け取った。
「水月に、仕事の答えを出してほしかったわけじゃない」
「私は、聞くだけでよかった?」
「たぶん。話しているうちに考えたかった」
水月は自分の湯飲みへ茶を注いだ。
「最初に言って」
「何を?」
「聞いてほしいだけか、意見がほしいのか」
海斗は少し笑った。
「それ、水月にも使っていい?」
「私も何か言いたそうにしてた?」
「夕食の間、三回くらい口を開きかけてた」
水月は見られていたことに気づき、目を伏せた。
「意見がほしい。でも、決めるのは私」
「分かった」
水月は、宮下が持ってきた図面と、佐知からの電話について話した。
海斗は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「どう思う?」
水月が尋ねる。
「席は増やしたくないんだよね」
「今は」
「だったら、増やさなくていいと思う」
「客を断り続けることになっても?」
「断ることが悪いとは思わない。でも、電話に出るために仕込みが止まるのは変えた方がいい」
「予約の仕組みを作れる?」
水月が尋ねると、海斗はすぐには答えなかった。
その沈黙で、水月は自分の言葉の意味に気づいた。
「海斗に作ってほしいってことじゃない」
「少し、そう聞こえた」
「ごめん」
「僕も、できるかどうか考え始めてた」
海斗は苦笑した。
「仕事でシステムを作ってるから、家でも頼まれたらできると思ってしまう」
「頼んでないよ」
「うん。でも、以前の僕なら、明日の朝には予約画面を作り始めてたと思う」
水月は図面をたたんだ。
「宮下さんに、使えるものを調べてもらう。店に合うかどうかは、そのあと決める」
「それがいいと思う」
「佐知さんには?」
「会ってみたい?」
「分からん」
水月は正直に言った。
「人手はほしい。でも、陸の代わりを探してるみたいで嫌なんかもしれん」
「代わりにはならないよ」
「分かってる」
「分かってるけど、そう感じる?」
水月はうなずいた。
陸がいた場所へ、別の誰かを入れる。
そう考えると、陸との時間が消えるような気がした。
だが、流し台の脇に残した籠を見ながら、一人で仕事を増やし続けることも違う。
「会うだけ会ってみる」
水月は言った。
「働いてもらうかは、それから決める」
翌日、水月は佐知へ電話をかけた。
佐知は二十九歳だった。
宮津市内のホテルを三か月前に辞め、現在は実家のある舞鶴へ戻っているという。
「静波では、今のところ正社員を募集していません」
水月は最初に伝えた。
「営業時間も席数も増やす予定はありません。お願いするとしても、週に二日か三日、仕込みと営業補助です」
「承知しています」
「料理を教えてほしいという目的だけなら、お断りします」
電話の向こうが静かになった。
言い方が厳しすぎたかもしれないと思った。
だが、佐知は落ち着いた声で答えた。
「働きたいです。教わることはあると思いますが、勉強させてもらう代わりに無給で構わないというつもりはありません」
水月はわずかに目を見開いた。
「ホテルでは、どんな仕事を?」
「最初の二年は宴会料理の仕込みです。その後は朝食の和食を担当していました。魚をおろすことと、煮物、出汁巻きはできます」
「辞めた理由を聞いても?」
佐知は少し間を置いた。
「自分が作りたい料理と違った、と言えば聞こえはいいですが、実際には体力が続かなかったからです」
「勤務時間が長かった?」
「朝食担当の日は午前四時から、宴会がある日は夜まで残りました。途中で担当を変えてほしいと相談しましたが、人がいないと言われて」
水月は、包丁を握ったまま動けなくなった頃の自分を思い出した。
「静波も、楽な仕事ではありません」
「分かっています」
「分からんと思います。店によって違うから」
佐知は黙った。
水月は続けた。
「だから、最初に見てもらいます。一日だけ、試しに働いてください。朝九時から午後三時まで。賃金と交通費は払います。そのあと、続けたいか考えてください。私も決めます」
「ありがとうございます」
「それから、過去の職場での事情は、採用の理由にはしません」
佐知の息遣いが、わずかに変わった。
「はい」
「かわいそうやから雇うのも、かわいそうやから断るのも、どっちも違うと思うから」
「分かりました」
試しに働く日は、翌週の火曜日に決まった。
佐知は約束の十五分前に店へ来た。
黒い髪を短く切り、白い調理着を入れた鞄を持っている。背は水月より少し高かった。
「川原佐知です。本日はよろしくお願いします」
「相沢水月です」
水月は店の中へ案内した。
最初に、勤務時間と休憩、賃金を書いた紙を渡した。
佐知は一つずつ目を通し、署名した。
「昼の営業は六人です。日替わりの献立だけ。今日は鰆の幽庵焼き、蕗と厚揚げの炊き合わせ、鯵のつみれ汁」
「はい」
「魚は私がします。佐知さんは蕗の下処理と、厚揚げを切ってください」
「魚もできます」
「今日は頼みません」
佐知の表情が一瞬固くなった。
「分かりました」
仕事は速かった。
蕗の皮をむく手つきにも迷いがない。
厚揚げの大きさも揃っている。
水月は横目で確認しながら、鰆を切り分けた。
「蕗、もう少し長さを揃えて」
水月が言うと、佐知は切ったものを見た。
「五センチで揃えています」
「端の二本が短い」
「これは曲がっていた部分なので、見た目の長さが違うだけです」
反論され、水月は佐知の手元を確かめた。
確かに、包丁を入れた長さは揃っていた。
「そうやね。私の見間違い」
「切り直しますか」
「そのままでええ」
水月は自分の作業へ戻った。
陸なら、何も言わずに切り直していただろう。
それがよかったわけではない。
指示をした側が間違っている場合もある。
午前十時半、水月は鯵のつみれを作るため、すり鉢を出した。
佐知が献立札を見た。
「浜田陸さんという方が考えた料理ですか」
「試作をした人」
「今は、いらっしゃらないんですか」
「京都の学校へ行った」
「では、私が同じように作れるようになった方がいいですか」
水月の手が止まった。
「同じように作る必要はない」
「でも、店の料理なら、誰が担当しても同じ味を出すべきでは?」
佐知の言うことには、筋が通っていた。
ホテルなら、担当者が変わって味が変わることは許されない。
静波でも、客へ出す以上、一定の味を守る必要がある。
それでも、水月は陸のつみれを、すぐに別の人へ作らせたくなかった。
「今日は私が作る」
「分かりました」
佐知はそれ以上尋ねなかった。
昼の営業が始まると、佐知は客席へ料理を運んだ。
空いた皿を下げ、湯飲みへ茶を足す。
動きは慣れていたが、客が食べ終わる前に次の皿を出そうとする癖があった。
「まだ待って」
水月は小声で止めた。
「でも、焼き物が冷めます」
「今の客は、話しながら食べてる。少し遅らせる」
「ホテルでは、提供時間が決まっていました」
「ここは決めてない」
佐知は盆を持ったまま、客席を見た。
吉岡夫婦が、蕗の炊き合わせを食べながら話している。
妻の方が箸を置き、夫の話へ笑っていた。
佐知は盆を厨房へ戻した。
「焼き直しますか」
「火を弱めて、もう少し置く」
二分後、吉岡夫婦が皿を空けた。
佐知は鰆を運んだ。
「お待たせしました」
吉岡の妻が湯気の立つ魚を見て、微笑んだ。
営業後、二人は向かい合って遅い昼食を取った。
客へ出したものと同じ献立だった。
「どうでしたか」
水月が尋ねる。
「席が少ない理由が分かった気がします」
「どんな理由?」
「料理を作るためではなく、お客様を見るためです」
水月はつみれ汁をすすった。
「それだけではないけどね」
「私は、次の料理を遅らせる判断ができませんでした」
「最初からできんでええ」
「覚えればできますか」
「分からん」
佐知は水月を見た。
「私を雇う気がないんですか」
「まだ決めてない」
「今日、魚を触らせてもらえなかったのも、私の腕を信用していないからですか」
水月は箸を置いた。
朝から感じていた固さが、佐知の声に表れていた。
「初日に魚を任せなかっただけ」
「履歴書には経験を書きました」
「書いてあることだけでは決められん」
「だったら、やらせて見た方が早いと思います」
水月は反射的に言い返しそうになった。
この店の魚を誰に触らせるかは、自分が決める。
初日に口を出すべきではない。
そんな言葉が浮かんだ。
佳月で、何度も聞いた言い方だった。
水月は息を吐いた。
「一つ聞いてええ?」
「はい」
「意見が違うたびに、前の店でもそうやって言ってた?」
佐知の表情が変わった。
「言いませんでした」
「なぜ?」
「言っても変わらないと思っていたからです」
「今日は言える?」
「相沢さんは、言っても怒鳴らないと思ったから」
水月は、まな板の方を見た。
佐知が使った包丁は洗われ、布巾の上へ置かれている。刃を傷めない向きで、きちんと並べてあった。
「魚を触らせなかったのは、佐知さんの腕だけが理由じゃない」
水月は言った。
「陸が京都へ行ったばかりで、陸のしてた仕事を誰かへ渡すことに、私が抵抗してる」
佐知は黙っていた。
「店側の事情で、佐知さんの経験を見る機会を作らんかった。それは公平やなかった」
「浜田さんの代わりを探しているんですか」
「違う人を探してるつもりやった。でも、私の方が切り替えられてなかった」
水月は立ち上がり、冷蔵庫から鯵を一尾取り出した。
「捌いてみて」
「今からですか」
「時間は勤務に入れる」
佐知は調理台へ立った。
自分の包丁を出し、鯵の頭を落とす。
腹を開き、内臓を取り、骨に沿って刃を進めた。
動きは速すぎず、身を傷めない。
三枚におろされた鯵には、骨へ残った身がほとんどなかった。
「きれい」
水月は言った。
「ありがとうございます」
「ただ、腹骨をすくうとき、刃を寝かせすぎてる。この鯵は身が柔らかいから、もう少し立てた方が崩れん」
佐知は包丁を置いた。
「やって見せてもらえますか」
水月はもう一尾を取り出した。
同じ工程を、少しゆっくり行う。
佐知は水月の手元を見ていた。
「分かりました」
「次、やって」
二人で鯵を捌き終えた頃には、午後四時を過ぎていた。
佐知は調理着を着替え、店の前で頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「続けたい?」
水月が尋ねる。
佐知はすぐに答えなかった。
「考えてから連絡してもいいですか」
「もちろん」
「いつまでに?」
「三日後。私も同じ日までに決める」
「分かりました」
佐知が帰ったあと、水月は流し台の脇にある籠を見た。
籠を持ち上げ、棚へ戻した。
空いた場所には、何も置かなかった。
その夜、海斗は三浦との評価面談を控えていた。
評価表には、三浦の長所と改善点を分けて書いた。
作業が丁寧で、試験項目の抜けが少ないこと。
利用者からの問い合わせへ、分かりやすい文章で答えられること。
一方で、判断を先送りし、問題の共有が遅くなることがあること。
次の半年では、小規模な機能の進行管理を一人で担当してほしいこと。
何度読み返しても、厳しすぎるように感じた。
海斗は文章を柔らかく書き直した。
〈問題の共有が遅くなることがある〉を、〈より早い段階での共有を期待する〉へ変えた。
さらに読み返し、元へ戻した。
言葉を柔らかくすることで、何が問題なのか分からなくなるなら、伝える意味がない。
面談が始まると、三浦は画面の向こうで緊張していた。
「最初に、自己評価を聞かせてもらえますか」
海斗が尋ねる。
三浦は用意していた資料を開いた。
「担当した改修は、すべて期限内に終わりました。大きな障害もありませんでした」
「うん。品質は安定していたと思う」
三浦の表情が少し緩んだ。
「ただ、確認したいことがあります。六月の権限設定の改修で、仕様の曖昧な部分に気づいてから、僕へ相談するまで三日空いていました」
「相沢さんが忙しそうだったので」
「それは、相談を遅らせた理由?」
「はい」
「僕が忙しいとき、問題を共有しない方がチームのためになると思った?」
三浦は黙った。
「責めるために聞いてるわけじゃない。どう考えたのか知りたい」
「自分で解決できると思いました。でも、途中から分からなくなって……その時点で相談すると、最初から聞けばよかったと言われる気がしました」
海斗は胸の奥が痛んだ。
自分が三浦へ、そう思わせていたのかもしれない。
質問へ答えるとき、忙しさを隠せていなかった。
一度説明した内容を再び尋ねられ、声が固くなったこともあった。
「僕の対応で、相談しにくいと感じたことはある?」
三浦はすぐには答えなかった。
「あります」
「どんなとき?」
「相沢さんは、自分で調べてから質問してほしいと前に言いました」
「言ったね」
「どこまで調べれば十分なのか分かりません。調べすぎると遅くなるし、早く聞くと、もう少し考えてと言われるので」
海斗は評価表を見た。
問題の共有が遅い。
それは三浦だけの課題として書かれている。
だが、共有の時期を判断する基準を、海斗は渡していなかった。
「そこは、僕の指示が曖昧だった」
海斗は言った。
「今後は、三十分調べても方向が見えない場合と、期限や品質に影響する可能性が出た場合には、その時点で共有してほしい。僕が会議中なら、連絡用のチャンネルへ書いておいてください」
「はい」
「ただし、今回の評価では、共有が遅れたことは改善点として書いています」
三浦の顔が固くなった。
「僕の指示に問題があったから、三浦さんの課題を消す、ということにはしません。判断に迷った時点で、迷っていると伝えることはできたと思う」
「分かりました」
「納得できないところがあれば、言ってください」
三浦は評価表を読み返した。
「次の半年、小規模な機能の進行管理を担当する、とあります」
「やりたくない?」
「逆です。やってみたいです。でも、相沢さんが最後には全部確認するなら、自分が担当する意味があるのかと思って」
海斗は言葉を失った。
これまで三浦へ任せた仕事も、最後には海斗が細部まで確認していた。
間違いを防ぐためだった。
責任者として当然だと思っていた。
だが、三浦には、自分が信用されていないように見えていた。
「全部は確認しない」
海斗は答えた。
「最初に確認する範囲を決めよう。設計と公開前の判断は僕も見る。それ以外は三浦さんが決める」
「失敗したら?」
「影響が出る前に共有してくれたら、一緒に直す」
「相沢さんの評価も下がりませんか」
「下がるかもしれない」
海斗は正直に言った。
「でも、誰にも任せないまま僕一人で仕事を抱える方が、チームとしては問題だと思う」
三浦は少しだけ笑った。
「相沢さんが、それを言うんですね」
「僕も、そう思う」
面談は予定より二十分長くなった。
終了後、海斗は評価表へ一文を加えた。
〈管理者として、相談の基準と任せる範囲を明確にする〉
それは三浦の評価ではなく、自分の記録として別の欄へ書いた。
三日後、水月と佐知は、ほぼ同じ時刻に連絡を取ろうとしていた。
水月が電話をかけると、話し中になった。
すぐに佐知から着信が入る。
「川原です」
「相沢です」
二人とも一度黙った。
「先にどうぞ」
佐知が言った。
「週二日でよければ、働いてほしいと思ってます」
水月は伝えた。
「最初の一か月は、火曜と金曜。午前九時から午後四時まで。仕事内容は仕込み、接客、片づけ。魚も担当してもらいます」
「ありがとうございます」
「ただ、静波のやり方に全部合わせてほしいとは思ってない。違うと思ったら、理由を聞いて」
「意見を言ってもいいんですか」
「私が間違うこともあるから」
電話の向こうで、佐知が息を吐くのが聞こえた。
「私も、働きたいとお伝えするつもりでした」
「条件を聞いてから決めてもええよ」
「確認したいことがあります」
「どうぞ」
「残業はありますか」
「基本はありません。営業が延びた場合は、その分を払います。帰らないといけない時間があるなら、先に言ってください」
「急な予約で、出勤日が増えることは?」
「頼むことはあるかもしれん。でも、断っても勤務評価には影響させません」
「分かりました」
「ほかには?」
佐知は少し迷ってから尋ねた。
「自分の料理を試作する時間を、いつかもらえますか」
水月はすぐに答えなかった。
陸のときは、働き始めてから時間をかけて、少しずつ試作を任せた。
佐知はすでに五年の経験がある。
同じ順番にする理由はなかった。
「一か月働いて、店の流れを知ってから」
「はい」
「月に一度、営業しない午後を作る。その時間に、私も一緒に試作する」
「勤務時間として?」
「もちろん」
佐知の声が少し明るくなった。
「よろしくお願いします」
佐知が働き始めることを海斗へ伝えると、彼はまず「おめでとう」と言い、そのあとで尋ねた。
「嬉しい?」
「まだ分からん」
「不安?」
「それもある」
水月は佐知の雇用条件を書いた紙を、食卓の上へ置いた。
「人に教えるのが怖い」
「陸にも教えてたよ」
「陸は、私の言うことを聞いてた」
「佐知さんは聞かない?」
「聞くけど、違うと思ったら言う」
「それは困る?」
水月は考えた。
「困る。でも、必要やと思う」
海斗は評価面談で三浦から言われたことを、水月へ話した。
全部確認されるなら、任される意味がない。
その言葉を聞き、水月は雇用条件の紙を見た。
「私も、佐知さんの仕事を全部確認すると思う」
「最初は必要なんじゃない?」
「いつまで?」
「それを先に決めたら?」
水月は紙の余白へ、一か月後に担当範囲を見直すと書き加えた。
「海斗は、三浦さんに任せられそう?」
「分からない」
「失敗したら?」
「困る」
「それでも任せる?」
「任せる範囲を決める」
海斗は答えた。
「全部を任せるか、全部を自分でやるかの二つじゃないから」
水月は、その言葉を覚えておこうと思った。
四月の最初の火曜日、佐知は静波へ出勤した。
流し台の脇には、何も置かれていない場所があった。
「道具は、どこへ置けばいいですか」
佐知が尋ねる。
水月は棚から新しい籠を出した。
陸が使っていたものと同じ形だが、少し色が違う。
「ここを使って」
水月は空いていた場所へ籠を置いた。
佐知は自分の布巾と小さな手帳を入れた。
陸の籠を戻すのではなかった。
空いた場所へ、別の人の道具が置かれた。
それで陸のいた時間が消えるわけではない。
午前の仕込みで、佐知は鯛を一尾おろした。
水月は横から見ていたが、途中で手を出さなかった。
腹骨をすくうとき、佐知の包丁がわずかに寝た。
それでも、身は崩れなかった。
「前より刃を立てました」
佐知が言った。
「うん」
「どうですか」
「大丈夫」
「直すところは?」
「今はない」
水月が答えると、佐知は少し驚いた顔をした。
「ないときも、ないと言うんですね」
「何か言わんと教えたことにならんと思ってた時期もあった」
「今は違うんですか」
「できてるものを、無理に直す必要はないから」
佐知は鯛の身を盆へ並べた。
「では、次も同じようにします」
昼の営業には、中村文子と吉岡夫婦、それに京都から来た三人組が座った。
佐知は客の食べる速さを見ながら、次の皿を出した。
一度、水月より先に判断して、焼き物を三分遅らせた。
「遅らせました」
厨房へ戻ってから報告した。
「理由は?」
「窓際のお客様が、まだ刺身を半分残していたので」
「分かった」
水月はそれ以上確認しなかった。
営業後、佐知がまかないを食べながら言った。
「思っていたより、疲れます」
「ホテルより?」
「身体はホテルの方が疲れました。でも、今日はずっとお客様を見ていたので、頭が疲れました」
「続けられそう?」
「まだ一日目です」
「そうやね」
二人は鯛のあら汁をすすった。
店の外から、海斗の声がした。
「入っていい?」
仕事の昼休みに、散歩へ出たらしい。
水月がうなずくと、海斗は戸を開けた。
佐知とは採用前に一度だけ挨拶していた。
「お疲れさまです」
海斗が言う。
「ありがとうございます」
佐知は立ち上がりかけたが、水月が止めた。
「休憩中やから、座ってて」
海斗はカウンターの端へ腰を下ろした。
「仕事は?」
「午前の会議が終わった。午後は三浦さんに任せてる」
「気にならん?」
「気になるよ」
海斗は携帯電話を見せた。
画面は伏せられている。
「十分おきに確認したくなる」
「確認したらええんと違いますか」
佐知が言った。
海斗は少し驚き、佐知の方を見た。
「緊急の連絡なら音が鳴るようにしています。鳴っていないのに見たら、任せたことにならない気がして」
「難しいですね」
「難しいです」
佐知は水月を見た。
「相沢さんも、私の魚をずっと見ていました」
「見てたね」
「手は出しませんでしたけど」
「出したかった」
水月が言うと、三人とも少し笑った。
その日の夜、三浦が担当した作業には、一つだけ小さな不備が見つかった。
設定項目の説明が、利用者向けの資料から抜けていた。
三浦は自分で気づき、公開前に修正した。
海斗へ報告が届いたのは、修正したあとだった。
〈影響はありません。次回から確認項目へ追加します〉
海斗は返信欄へ、細かな質問を書きかけた。
なぜ抜けたのか。
誰が確認したのか。
ほかに漏れはないか。
途中まで入力し、すべて消した。
〈確認しました。次回の確認項目への追加をお願いします〉
それだけ送った。
不安は残った。
だが、不安がなくなるまで確認を続ければ、任せる日は来ない。
一か月後、静波は初めて、平日の午後を試作のために休業した。
入口には、臨時休業ではなく、仕込みと研修のため休みますと書いた札を出した。
佐知は、鰆と新玉葱を使った料理を作った。
薄く切った新玉葱を出汁で煮て、焼いた鰆を重ねる。上から木の芽味噌をかけた。
水月は一口食べた。
味噌が強く、鰆の香りが消えている。
「どうですか」
佐知が尋ねる。
「味噌が多い」
「減らした方がいいですか」
「私はそう思う」
佐知も自分の料理を食べた。
「私は、これくらいあった方が好きです」
水月はもう一口食べた。
「静波の客には強いかもしれん」
「では、静波では出せない?」
「今のままなら」
佐知の顔が曇った。
「水月さんの味に変えないと、店では出せないんですね」
「そうは言ってない」
「でも、味噌を減らしたら、私が作りたい味ではなくなります」
水月は箸を置いた。
以前なら、店の味に合わせるのは当然だと言っただろう。
店主が決めた味に従えないなら、献立には入れられない。
それも一つの考え方だった。
だが、佐知の名を出して料理を出すなら、水月の好みだけへ変えることも違う。
「誰に食べてもらいたい料理?」
水月は尋ねた。
佐知は少し考えた。
「魚を食べ慣れていない人です。鰆の匂いが苦手でも、味噌があれば食べやすいと思って」
「それなら、味噌を減らすだけでは目的から外れるね」
「はい」
「鰆を小さくする?」
「それだと、主菜に見えません」
「玉葱の甘さを強くして、味噌を少し伸ばす方法もある」
二人で調味料の割合を変えた。
味噌を減らすのではなく、出汁と玉葱のすり流しで伸ばす。香りは残り、塩気が柔らかくなった。
三度目の試作を、水月は口へ入れた。
「これなら出せる」
佐知も食べた。
「私が最初に作ったものより、おいしいです」
「おいしいかどうかだけで決めなくてええ。作りたかった料理になってる?」
佐知は目を閉じ、味を確かめた。
「なっています」
翌週、静波の献立札へ新しい料理が加わった。
〈鰆と新玉葱の木の芽味噌仕立て 考案・川原佐知/調整・川原佐知、相沢水月〉
最初に料理を注文したのは、中村文子だった。
「新しい人の料理?」
「はい」
佐知が答えた。
「では、その人に持ってきてもらおうかね」
佐知は厨房から皿を運んだ。
文子は一口食べ、しばらく黙っていた。
佐知の顔が緊張する。
「おいしいよ」
文子は言った。
「味噌がしっかりしてるから、ご飯が進むね」
佐知は深く頭を下げた。
厨房へ戻ると、目の周りが少し赤くなっていた。
水月は何も言わず、次の皿を渡した。
その日の営業を終えたあと、水月は流し台の脇を見た。
二つの籠が並んでいる。
一つは、佐知のもの。
もう一つは、陸が京都から送り返してきたものだった。
荷物に入れるのを忘れたから、夏休みまで置いてほしいと手紙が添えられていた。
水月は二つの籠を無理に重ねなかった。
場所を少し広げ、隣り合わせに置いた。
夕方、海斗が仕事を終えて静波へ来た。
「今日、三浦さんから評価面談をされた」
水月は皿を拭きながら振り返った。
「海斗がされる側?」
「リーダーについての意見を、メンバーから集める制度が始まった」
「何て言われた?」
「説明は分かりやすい。でも、心配になると仕事を取り戻そうとする、って」
水月は笑いそうになったが、海斗の表情を見てやめた。
「当たってる?」
「当たってる」
「嫌やった?」
「少し」
「直す?」
「全部は直せないと思う」
海斗はカウンターへ座った。
「確認が必要な仕事もある。でも、自分が安心するためだけの確認は減らしたい」
水月は拭き終えた皿を棚へ置いた。
「私は今日、佐知さんの料理を出した」
「どうだった?」
「売り切れた」
「水月が作った?」
「最後の二皿だけ手伝った」
「取り戻さなかった?」
「少しだけ」
「少し?」
「盛りつけの木の芽を、勝手に置き直した」
海斗が笑った。
「佐知さんは?」
「元へ戻した」
「強いね」
「うん」
水月も笑った。
閉店後、二人は佐知の料理の残りを一皿だけ持ち帰った。
家で半分ずつ分ける。
海斗は鰆を口へ入れ、味噌の香りを確かめた。
「静波の料理だけど、水月の料理とは違うね」
「違う」
「それでいい?」
水月は自分の皿を見た。
「まだ慣れん。でも、悪くない」
窓の外には、夕暮れの海が見えた。
誰かがいなくなった場所へ、同じ形の誰かを入れることはできない。
新しく来た者に、前にいた者の役目をそのまま渡すこともできない。
空いた場所は、急いで埋めなくてもよかった。
広さを測り、何を置くかを話し、置いたあとで違えば動かせばよい。
二人は一皿の料理を食べ終えた。
水月が皿を持って立ち上がる。
海斗も続こうとしたが、水月は首を振った。
「今日は私が洗う」
「じゃあ、明日のご飯を研ぐ」
「お願い」
台所には、二人が別々に動く音が重なった。
水の流れる音。
米を量る音。
皿が棚へ戻る音。
どちらかが相手の仕事を奪うことなく、同じ夜の中で、それぞれの手を動かしていた。




