第21章 この家の先
六月の雨が三日続いた朝、玄関の天井から水が落ちた。
一滴目は、海斗の靴の爪先へ当たった。
出勤する必要はないが、朝の散歩へ出ようとして靴を履いたところだった。
海斗は足を引き、天井を見上げた。
白い漆喰に、薄い茶色の染みが広がっている。
次の一滴が、土間へ落ちた。
「水月」
呼ぶと、台所から足音がした。
「どうしたん?」
海斗が天井を指す。
水月は染みを見上げ、短く息を吐いた。
「また雨漏り?」
「この家では初めてだと思う」
「前の家ではあったね」
「僕が一人で借りてた方だね」
海斗は洗面所からバケツを持ってきた。
雨水は一定の間隔ではなく、忘れた頃に一滴ずつ落ちてくる。
水月は携帯電話を取り出し、家主へ連絡した。
二人が借りている家は、海沿いの道から一本山側へ入った場所にある。築四十年ほどの木造住宅で、二階建てだが、二階は六畳の部屋が一つあるだけだった。
一階には、居間と台所、それぞれが仕事に使っている二つの部屋がある。
水月の部屋には料理の本と帳簿が置かれ、海斗の部屋には仕事用の机とモニターが並んでいた。
結婚して一緒に暮らし始めるとき、二人で探した家だった。
広すぎず、狭すぎない。
静波まで歩いて十五分。
海が近いのに、台風のときは舟屋周辺より水が上がりにくい。
古い家だから、冬は寒い。
風の強い夜には窓が鳴る。
それでも、二人は少しずつ手を入れて暮らしてきた。
台所の棚は海斗が組み立てた。
居間のカーテンは水月が選んだ。
玄関脇には、二人の名前を書いた表札が掛かっている。
昼前、家主の松本が来た。
七十代の男性で、現在は宮津市内に住んでいる。以前はこの家で妻と暮らしていたが、妻が亡くなったあと、娘の家の近くへ移ったという。
松本は脚立へ上がり、天井裏を確認した。
「瓦が一枚ずれとるんやと思う。雨がやんだら、屋根屋に見てもらいます」
「修理はできますか」
海斗が尋ねる。
「できると思う。ただな」
松本は脚立から下りたあと、すぐには続けなかった。
居間へ移り、水月が出した茶を一口飲む。
「ちょうど、お二人に話そうと思っとったことがあるんです」
松本は湯飲みを両手で持った。
「この家を、売ろうと思ってます」
雨の音が、窓を細かく叩いていた。
「売る?」
水月が聞き返した。
「娘がな、空き家のまま残すより、今のうちに整理した方がええと言うて。わしも、いつまで管理できるか分からん」
「私たちは、いつまで住めますか」
「急に出ていってくれとは言いません。契約もあります。ただ、来年の春までには決めたいと思ってます」
海斗は水月を見た。
水月は松本から視線を外さなかった。
「誰か、買いたい人がいるんですか」
「まだ不動産屋には出してません」
松本は鞄から一枚の紙を出した。
「先に、お二人へ聞こうと思って。この家、買う気はありませんか」
紙には、不動産会社が出した簡単な査定額が書かれていた。
土地と建物を合わせた金額。
海斗が東京で借りていたワンルームの数年分の家賃に比べれば、手が届かない額ではない。
だが、数字だけでは判断できなかった。
屋根から水が落ちている家である。
築年数も長い。
海が近く、塩害や湿気の影響もある。
買えば、修理は自分たちの責任になる。
「すぐに返事をしなくて構いません」
松本は言った。
「ただ、九月頃までには、考えを聞かせてもらえると助かります」
「分かりました」
海斗が答えた。
水月は黙ったまま、査定の紙を見ていた。
松本が帰ったあとも、雨はやまなかった。
海斗は玄関のバケツへたまった水を捨て、新しい雑巾を敷いた。
居間へ戻ると、水月はまだ同じ場所へ座っていた。
「どう思う?」
海斗が尋ねる。
「買いたい」
水月は迷わず答えた。
「もう決めたの?」
「この家を出たくない」
「気持ちは分かるけど、状態を調べないと決められないよ」
「調べたらええ。それでも、買いたい」
海斗は向かいへ座った。
「雨漏りだけじゃないかもしれない。基礎や柱に問題があれば、修理費がかなりかかる」
「払えん金額なら考える」
「住宅ローンを組むなら、僕の仕事が変わった場合のことも考えないといけない」
「海斗は、仕事を辞めるつもりなん?」
「今はない。でも、二十年先まで同じ会社にいるとは言えない」
水月の眉が動いた。
「二十年先まで、この町にいるとも言えんということ?」
「そういう話じゃない」
「同じやろ」
「同じじゃないよ」
海斗の声も強くなった。
「家を買うことと、一生どこにも移らないと約束することは違う」
水月は机の上の査定書をたたんだ。
「私は、ここに住み続けるつもりで店を始めた」
「僕だって、すぐに出ていくつもりはない」
「すぐ、ではなくて?」
海斗は答えに詰まった。
未来のことを確実に言えないのは、当然だと思っている。
病気になるかもしれない。
仕事がなくなるかもしれない。
親の事情で、別の土地に住む必要が生まれるかもしれない。
何も起きないと約束することはできない。
だが、水月が聞いているのは、未来を予測できるかどうかではなかった。
「水月は、僕がここを仮の住まいだと思ってると感じた?」
海斗が尋ねる。
水月はしばらく黙っていた。
「分からん」
「分からない?」
「東京へ出張したあと、海斗がまた東京で働きたいと思うかもしれんとは考えた」
「思ってないよ」
「今は、やろ」
「今の気持ちしか言えない」
海斗が答えると、水月は立ち上がった。
「店へ行く」
「今日は休みだよ」
「仕込みをしてくる」
「雨が強いから、少し待った方が――」
「一人で考えたい」
水月は鞄を持ち、玄関へ向かった。
バケツを避けて靴を履く。
海斗は止めなかった。
戸が閉まると、家の中に雨音だけが残った。
静波へ着いた水月は、店の電気をつけなかった。
窓から入る灰色の光だけで、カウンターと厨房の輪郭が見える。
水月は一番端の席へ座った。
店を開いたばかりの頃、この席から何度も六つの椅子を眺めた。
客が来なかった日。
初めて満席になった日。
海斗が一人で入ってきた夕方。
どれも、この店で起きた。
住んでいる家が変わっても、静波は残る。
それなのに、今の家を失うかもしれないと聞いた途端、足元を引かれたように感じた。
海斗と暮らす前、水月は店の二階にある小さな部屋で一人暮らしをしていた。
仕事と生活の境目がなく、夜中に目を覚ませば、翌日の仕込みを始めることもあった。
海斗が伊根へ移ってからも、しばらくは別々に暮らした。
一緒に暮らすと決めたとき、二人とも一人になれる部屋があることを条件にした。
今の家は、その条件を満たしていた。
朝、同じ台所へ立つ。
仕事が終われば、それぞれの部屋へ戻る日もある。
夜中に目を覚ませば、隣に相手がいる。
その暮らしが、いつの間にか当たり前になっていた。
家を失うことが怖いのではない。
この暮らしが、海斗にとって自分ほど確かなものではないかもしれないと考えたことが怖かった。
「水月さん?」
戸口から声がした。
振り向くと、佐知が傘をたたんでいた。
「今日、休みやけど」
「忘れ物を取りに来ました」
佐知は自分の包丁を入れた鞄を持ち上げた。
「家で研ごうと思って、昨日持って帰るのを忘れて」
店内の暗さに気づき、佐知は照明のスイッチへ手を伸ばしかけた。
「つけてもいいですか」
「うん」
明かりがつく。
水月は急に、隠れていたところを見つけられたような気がした。
「何かありました?」
「家が売られることになった」
「静波が?」
「住んでる方」
佐知はカウンターへ鞄を置いた。
「引っ越すんですか」
「買わないかと言われてる」
「買えるなら、いい話では?」
「海斗が迷ってる」
「相沢さんは?」
「買いたい」
佐知は包丁を確かめ、鞘へ戻した。
「海斗さんが買いたくない理由は?」
「二十年先の仕事が分からんから、簡単には決められんって」
「普通の理由に聞こえます」
水月は佐知を見た。
「普通?」
「家を買うなら、お金のことは考えると思います」
「ここに住み続けたいなら、買ったらええやろ」
「住み続けたい気持ちと、買えるかどうかは別では?」
佐知は言い切ったあと、少し気まずそうに目を伏せた。
「すみません。ご夫婦のことなのに」
「意見を聞いたのは私やから」
水月はカウンターへ視線を戻した。
海斗へ、未来の気持ちを証明してほしかった。
家を買うという形で。
だが、その証明のために何年も借金を負わせるのは違う。
「佐知さんは、家を買いたいと思う?」
「今は思いません」
「なぜ?」
「前のホテルを辞めるまで、自分が仕事を辞めるなんて考えていませんでした。今の私は、三年先にどこで働いているか分からないので」
「静波を辞めるつもり?」
「今はありません」
佐知は答えた。
「でも、今ないことと、絶対に辞めないことは同じではないです」
水月は苦笑した。
海斗と同じことを言われている。
「水月さんは、私にずっと静波で働いてほしいですか」
「働いてほしいとは思ってる」
「十年後も?」
「それは、佐知さんが決めることやろ」
「海斗さんのことも、同じでは?」
水月は返事をしなかった。
佐知は鞄を持った。
「包丁を取りに来ただけなので、帰ります」
「雨、まだ強いよ」
「車ですから」
戸口で靴を履き、佐知は振り返った。
「私は、静波を辞めたいと思ったら、先に相談します」
「今、言わんでもええよ」
「水月さんが不安そうだったので」
佐知はそう言って、店を出た。
水月はしばらく座ったあと、海斗へ短いメッセージを送った。
〈帰る。話の続きは、調べてからしたい〉
すぐに返信が来た。
〈分かった。迎えに行こうか〉
〈歩いて帰る〉
〈玄関が濡れているから、気をつけて〉
家へ戻ると、雨漏りは止まっていた。
海斗がバケツの位置を変え、濡れた床を拭いている。
「おかえり」
「ただいま」
二人はそれ以上話さなかった。
その夜は、別々の部屋で眠った。
翌朝、水月が台所へ行くと、机の上に一枚の紙が置かれていた。
海斗が書いた、家を買う前に確認したいことの一覧だった。
建物の状態。
修理費用。
水害と土砂災害の危険。
住宅ローンの条件。
二人の持ち分。
店の収入が減った場合。
海斗が働けなくなった場合。
将来、売る必要が生じた場合。
最後に、〈この家で続けたい暮らし〉と書かれていた。
水月は最後の項目を指でなぞった。
海斗が台所へ入ってきた。
「おはよう」
「これ、いつ書いたん?」
「昨夜」
「寝てない?」
「眠ったよ。十二時には」
海斗は冷蔵庫から卵を出した。
「昨日の言い方で、水月を不安にさせたと思う」
「私も、家を買うかどうかで、海斗の気持ちを確かめようとした」
「家を買わなくても、ここで暮らしたい気持ちは変わらない」
「買っても、何が起きるか分からんことも分かってる」
海斗は卵を割る手を止めた。
「僕は、ここを仮の場所だと思ってない」
「うん」
「ただ、絶対に何も変わらないとは言えない」
「言わんでええ」
水月は一覧の紙を持ち上げた。
「その代わり、今決められることは、一緒に決めて」
海斗はうなずいた。
「まず、家を調べよう」
二人は、建物の検査をする会社へ連絡した。
松本にも了承を取り、七月の初めに住宅診断が行われた。
診断士は床下へ潜り、屋根裏へ入り、外壁と基礎を一つずつ確認した。
水月と海斗は後ろをついて歩いた。
「この柱は、下の部分に湿気があります」
診断士が機械を当てながら言った。
「今すぐ交換が必要なほどではありませんが、防湿の工事はした方がいいでしょう」
屋根は、雨漏りした場所だけでなく、ほかにも瓦のずれが見つかった。
外壁には塩害による傷みがある。
給湯器も、数年以内に交換が必要だった。
一方で、基礎に大きなひびはなく、家の傾きも許容範囲だった。
「直せば住めますか」
水月が尋ねる。
「住めます。ただし、古い家ですから、今後も修理は出ます」
診断士ははっきり答えた。
「新築と同じ状態にはなりません」
報告書に記された修理費の概算は、二人が予想していたより大きかった。
家の購入額に加え、屋根、防湿、外壁、給湯器。
すべてを一度に直せば、貯金の多くがなくなる。
「これでも買いたい?」
海斗が尋ねる。
二人は居間の床へ報告書を広げていた。
「買いたい」
水月は答えた。
「でも、最初に思ってたのとは違う」
「どう違う?」
「この家を失いたくないから買うんじゃなくて、修理してでも住みたいかで考えてる」
「それで、住みたい?」
「うん」
水月は報告書の修理箇所を見た。
「海斗は?」
「僕も住みたい」
「ローンが組めるなら?」
「組めるから買う、ではなく、返せる範囲なら」
海斗は別の紙を出した。
会社の収入と水月の店の収入、毎月の生活費、修理の積立額を計算していた。
水月は数字を追った。
「私の収入を、少なく見積もってる」
「静波は、天候で仕入れも客数も変わるから」
「去年より増えてるよ」
「増えた状態がずっと続く前提にはしたくない」
「海斗の収入も、今のまま続くとは限らんやろ」
「そうだね」
海斗は自分の給与も、現在の八割に減った場合を書き加えた。
二人で計算し直す。
今の収入が減っても、生活を極端に切り詰めず返せる額。
緊急時の貯金を残すこと。
修理費をすべて最初に払わず、優先順位をつけること。
数字へ置き換えると、気持ちだけでは見えなかった限界が分かった。
同時に、できる範囲も見えてきた。
「屋根と床下は最初にする」
水月が言った。
「外壁は?」
「来年まで待てると書いてある」
「給湯器が先に壊れたら?」
「修理用の貯金から出す」
「店の売り上げが半分になったら?」
「私が家へ入れる金額を減らす。その分、持ち分も最初から海斗より少なくする」
海斗は首を振った。
「持ち分は、家へ入れる現金と返済額に合わせよう。店の売り上げが変わるたびに変えるのは難しい」
「では、最初に専門家へ相談する」
「そうしよう」
住宅ローンの相談では、海斗の勤務年数が短いことを指摘された。
転職してから、まだ二年に満たない。
水月は自営業で、収入の変動が大きい。
銀行の担当者は、共同で借りる方法と、海斗がローンを組み、水月が購入時の資金を出す方法を説明した。
「名義を一人にまとめる方が、手続は簡単です」
担当者は言った。
海斗は水月を見た。
「簡単かどうかより、実際に負担する割合に合わせたいです」
「税務上の扱いもありますので、司法書士と税理士へ確認された方がよいでしょう」
二人は紹介された専門家へ相談した。
家を買うだけで、これほど多くの人と話す必要があるとは思わなかった。
契約。
登記。
税金。
保険。
修理。
一つ決めるたびに、新しい確認事項が出てくる。
水月は途中で何度か嫌になった。
「料理なら、作って食べたら分かるのに」
書類を前にして言うと、海斗が笑った。
「家も、住んでるから分かることはあるよ」
「でも、登記の持ち分は住んでも分からん」
「それは専門家に聞こう」
二人は、調べて分からないことを、自分たちだけで決めようとしなかった。
松本へ住宅診断の結果を見せ、修理費を考慮した価格を提示した。
松本は難しい顔をした。
「査定より、ずいぶん低いな」
「屋根と床下は、購入後すぐに工事が必要です」
海斗が説明する。
「雨漏りは、わしが直すつもりです」
「一か所だけ直しても、ほかの瓦もずれています」
水月は報告書を開いた。
「この家へ住み続けたいです。でも、言われた金額のままでは買えません」
松本は報告書を読み、すぐには答えなかった。
「ほかの人へ売るなら、もっと高く売れるかもしれん」
「そうかもしれません」
水月は言った。
「その場合は、別の家を探します」
言葉にすると、胸が痛んだ。
それでも、手放せない気持ちを理由に、無理な条件を受け入れるわけにはいかなかった。
松本は一週間考えた。
その間に、夏休みへ入った陸が京都から戻ってきた。
髪が少し伸び、以前より細くなっていた。
大きな鞄と包丁ケースを抱え、静波の戸口へ立つ。
「ただいま戻りました」
水月は魚をおろしていた手を止めた。
「おかえり」
陸は厨房の中を見回した。
流し台の脇には、二つの籠が並んでいる。
佐知の籠と、陸の籠。
自分の場所が残っていることに安心したようにも、新しい籠があることに戸惑ったようにも見えた。
「佐知さんは?」
「今日は昼から」
「俺、何をしたらいいですか」
「その前に、雇用の話」
水月は手を洗い、陸をカウンターへ座らせた。
「夏休みの間、何日働きたい?」
「毎日でも」
「静波は毎日開けてない」
「開いている日は全部」
「学校の課題は?」
陸は目をそらした。
「あります」
「いつするん?」
「夜に」
「朝から働いて、夜に課題をして、次の日も来る?」
「できます」
「できるかどうかではなく、続けられる働き方を決める」
陸は口を閉じた。
「週三日。佐知さんと重なる日は二日。勤務は九時から四時。試作の日は別に相談する」
「前より少ないです」
「学校へ行く前は週二日やったよ」
「でも、京都で習ったことを試したいです」
「試作と営業は別。まず、店の今の流れを見て」
陸は納得していない顔をした。
それでも、勤務条件の紙へ目を通し、署名した。
午後、佐知が店へ来た。
陸と顔を合わせるのは、京都の催し以来だった。
「お久しぶりです」
佐知が言う。
「よろしくお願いします」
陸は頭を下げた。
二人とも丁寧だった。
だが、厨房へ入ると、互いの動きが気になっていることが伝わった。
佐知が魚をおろせば、陸が手元を見る。
陸が野菜を切れば、佐知が切り方を確認する。
「陸、その胡瓜、もう少し厚く」
水月が言う前に、佐知が声をかけた。
陸の包丁が止まった。
「水月さんからは、この厚さで教わりました」
「今の献立では、食感を残すために厚くしています」
「前は違ったんですか」
「春から変えました」
陸は水月を見た。
「変えたんですか」
「変えた」
「俺には何も聞かずに?」
水月は眉を寄せた。
「胡瓜の厚さを変えるのに、京都へ確認せんよ」
「そういう意味じゃなくて」
陸は切りかけの胡瓜を見た。
「俺がいない間に、静波のやり方が全部変わったみたいで」
「全部は変わってない」
「でも、つみれも少し変わってました」
「食べた?」
「昨日、じいちゃんが持って帰ってきたのを」
「どこが違った?」
「紫蘇が少なかったです」
佐知が口を開いた。
「あの日の紫蘇は、香りが強かったので減らしました」
「俺が考えた料理です」
「献立札に名前は残っています」
「名前が残っていれば、味を変えていいんですか」
佐知の表情も固くなった。
「毎回、同じ強さの紫蘇が入るわけではありません」
「それは分かってます」
「なら、量を変える理由も分かると思います」
二人の声が少しずつ強くなる。
水月は間へ入った。
「陸。京都で習ったことを試したいと言うてたね」
「はい」
「学校で作った料理を、一度完成させたら、食材が変わっても分量を変えんの?」
陸は黙った。
「変えます」
「静波でも同じ。名前があるから、誰も触ったらあかん料理にはしてない」
「でも、相談してほしかったです」
陸の声は小さくなった。
「俺がいなくなった途端に変えられたら、もう必要ないと言われたみたいで」
水月は陸の顔を見た。
怒っているのではない。
帰ってきた場所に、自分の知らない時間が流れていたことを怖がっている。
「佐知さん」
水月が呼ぶと、佐知も手を止めた。
「つみれを変えたとき、献立の記録へ理由を書いた?」
「書いていません」
「なぜ?」
「紫蘇の状態に合わせただけなので、書くほどではないと思いました」
「名前を出してる料理やから、変えた理由は残して。陸の許可を毎回取る必要はない。でも、あとで本人が見ても分かるようにする」
「分かりました」
水月は陸へ向き直った。
「陸も、静波の料理が、陸がいない間ずっと同じままやと思わんで」
「はい」
「帰ってくる場所と、何も変わらない場所は違う」
陸は胡瓜を見た。
「俺の籠が残ってたから、前と同じだと思いました」
水月は流し台の脇を見た。
二つの籠が並んでいる。
「場所は残してた。でも、店は動いてた」
佐知が陸へ言った。
「あなたの代わりになろうと思って働いているわけではありません」
陸は顔を上げた。
「分かってます」
「分かっていないように見えました」
「佐知さんも、俺に取られると思ってませんか」
今度は佐知が黙った。
陸は続けた。
「俺が魚をおろすとき、ずっと見てました」
「学校で習ってきた方法が、静波と違ったからです」
「自分のやり方に直させたい?」
「知りたかっただけです」
水月は二人を見比べた。
「今、営業前やから、続きはあと」
その日の昼は満席だった。
陸と佐知は必要な言葉だけを交わし、料理を運んだ。
ぎこちなさはあったが、仕事は止まらなかった。
最後の客が帰ったあと、水月は鯵を六尾、調理台へ並べた。
「三人で、二尾ずつおろす」
「試験ですか」
陸が尋ねる。
「違う。やり方を見る」
最初に陸が包丁を持った。
学校で習った方法は、以前より手数が少なかった。頭を落とす角度が変わり、腹を開くときも刃先だけを使っている。
身がきれいに残った。
次に佐知が同じ作業をした。
速さは陸より少し遅いが、刃の動きが安定している。
最後に水月が二尾をおろした。
三人の方法は、少しずつ違った。
「どれが正しいですか」
陸が尋ねる。
水月は三枚におろされた身を並べた。
「食べる料理による」
「同じ刺身にするなら?」
「この三つなら、どれでも出せる」
「では、店のやり方へ統一しないんですか」
佐知が尋ねた。
「守るところは決める。骨を残さない。身を水っぽくしない。魚を温めない。そこが同じなら、包丁の入れ方まで一つにせんでもええ」
陸は佐知がおろした鯵を見た。
「この腹骨の取り方、どうしてるんですか」
「身が柔らかいときは、刃先を立てています」
「やってみてもいいですか」
「どうぞ」
佐知は陸へ包丁の角度を見せた。
水月は少し離れた場所から、二人を見ていた。
自分が間へ入らなくても、話が進んでいる。
寂しさはなかった。
むしろ、肩の力が抜けた。
数日後、松本から連絡があった。
二人が提示した金額で、家を売ってもよいという。
「わしが直すつもりやった雨漏りの分は、最初の金額から引きます」
松本は電話で言った。
「ただ、これ以上は下げられません」
海斗と水月は、もう一度計算した。
修理費を加えても、決めた上限の範囲に収まる。
緊急時の貯金も残せる。
二人は購入する意向を伝えた。
契約の日、松本は古い鍵を机へ置いた。
「この鍵は、今も使っているものと同じですが、売買が済んだら、お二人の家です」
水月は鍵を見た。
毎日使っている形なのに、違うもののように見えた。
契約書の説明を受け、一枚ずつ署名する。
海斗が先に名前を書き、水月が隣へ書いた。
相沢海斗。
相沢水月。
持ち分は、二人が実際に出す資金とローンの負担に合わせた。
どちらか一方の家ではない。
半分ずつでもない。
違う割合で、二人のものだった。
契約を終えた帰り道、水月は封筒へ入れた書類を抱えて歩いた。
「嬉しい?」
海斗が尋ねる。
「まだ、怖い」
「僕も」
「ローン?」
「それもある。家を買ったこと自体が」
「後悔してる?」
「してない」
海斗は少し考えた。
「今まで、いつでもやめられる状態を残しておくことが、自分を守ることだと思ってた」
「仕事も?」
「うん。家も、人との関係も」
二人は海沿いの道で立ち止まった。
夏の海は、陽を受けて白く光っていた。
「でも、やめられないようにするために買ったわけじゃない」
海斗は続けた。
「続けたい暮らしへ、できる範囲で責任を持つために買った」
水月は書類の入った封筒を抱き直した。
「私も、海斗が離れない証明にしたかったわけじゃない」
「最初は少し、そうだった?」
「少しではない」
水月が答えると、海斗は笑った。
「正直だね」
「途中で変わった」
「どう変わった?」
「離れない約束がほしいんじゃなくて、離れたくなったときも、先に話してほしいと思った」
「分かった」
「海斗も、私に言って」
「うん」
家の修理は、九月から始まった。
最初に屋根の瓦を外し、傷んだ下地を取り替えた。
工事中は、二人とも潮路の一室を借りた。
美代は、以前海斗が初めて泊まった部屋を用意した。
「懐かしいやろ」
窓から家々の屋根越しに海が見える。
海斗は畳へ荷物を置いた。
「あのときと同じ部屋ですか」
「そうやよ。ちょうど空いてたから」
水月は窓のそばへ立った。
「ここから静波へ食べに来たんやね」
「うん」
「何も決めずに」
「京都駅で伊根へ行くと決めた」
「その前は?」
「東京駅で京都までの切符を買っただけ」
海斗は畳へ座った。
「あのとき、この町に住むとは思ってなかった」
「私も、あの日来た客と家を買うとは思ってなかった」
水月も隣へ座った。
二人が出会ったとき、海斗は帰る場所から逃げるように旅へ出た。
水月は自分の店から、外へ出ようとしていなかった。
今は、同じ家の修理を待っている。
それでも、何もかもが一つになったわけではない。
海斗の仕事は海斗のものだった。
静波は水月の店であり、佐知と陸がそれぞれの手で関わる場所になっている。
同じ家に戻っても、一人になるための部屋は残す。
翌朝、海斗は潮路の小さな机で仕事を始めた。
水月は静波へ向かった。
陸は夏休みの終わりが近づき、京都へ戻る準備をしていた。
最後の勤務日、佐知と二人で鯵のつみれを作った。
陸が紫蘇を刻み、佐知が魚の身をたたく。
「今日は紫蘇、多くないですか」
佐知が尋ねる。
陸は葉を一枚、指でつぶして香りを確かめた。
「香りが弱いので、これくらいでいいと思います」
佐知も同じように香りを嗅いだ。
「では、その量で」
二人は水月を見なかった。
自分たちで決めた。
焼き上がったつみれを、水月が味見する。
紫蘇の香りが、噛んだあとに穏やかに広がった。
「どうですか」
陸が尋ねる。
「おいしい」
「直すところは?」
「ない」
佐知が笑った。
「本当にないときは、ないと言う人です」
陸も笑った。
献立の記録には、二人の名前が書かれた。
〈鯵と紫蘇の焼きつみれ 試作・浜田陸/本日の調整・浜田陸、川原佐知〉
京都へ戻る朝、陸は自分の籠を持っていかなかった。
「置いていくん?」
水月が尋ねる。
「冬休みに使います」
「帰る日、まだ決まってないやろ」
「決まったら連絡します。空きがあるか聞いてから」
陸は、以前水月に言われた言葉を覚えていた。
「分かった。仕事があるかは、そのとき返事する」
「はい」
陸は佐知へ頭を下げた。
「つみれ、お願いします」
「あなたの料理だけど、私も作ります」
「変えたら記録してください」
「分かっています」
二人は握手をするでもなく、それぞれの包丁を片づけた。
陸が出ていったあと、佐知は二つの籠を見た。
「また一つ、空きますね」
「置いていくって」
「中は空です」
水月は陸の籠を持ち上げた。
本当に何も入っていなかった。
「空でも、使う人は決まってる」
「では、このまま?」
「しばらくは」
水月は籠を元の位置へ戻した。
場所があるから帰ってくるのではない。
帰ってきたとき、また使いたいと言えるように残しておく。
その違いを、水月は少しずつ分かるようになっていた。
十月の初め、家の修理が終わった。
新しい屋根瓦は、以前より少し濃い灰色だった。
床下には防湿工事が施され、玄関の天井もきれいに張り替えられた。
二人は潮路から荷物を運び戻した。
玄関脇の表札を、一度外す。
雨と潮風で、文字が少し薄くなっていた。
海斗が紙やすりをかけ、水月が新しい塗料を塗った。
乾くまで、二人の名前は玄関の中へ置かれた。
「家を買ったんやから、もっと立派な表札にする?」
水月が尋ねる。
「これがいい」
「理由は?」
「二人で暮らし始めた日に掛けたものだから」
水月は刷毛を動かした。
「海斗、そういうこと言うようになったね」
「嫌だった?」
「いや」
塗料が乾くまでの間、二人はそれぞれの部屋を整えた。
水月の部屋には、京都の催しで使った名札と料理の記録がある。
海斗の部屋には、仕事用の机と、東京出張で使った鞄がある。
居間には二人で選んだ机。
台所には、それぞれが使う大きさの違う茶碗。
家を買っても、暮らしの形が急に変わるわけではなかった。
夕方、塗料の乾いた表札を玄関へ掛け直した。
相沢 水月・海斗。
海斗が少し離れ、傾きを見る。
「右が下がってる」
「海斗の名前の方?」
「板全体」
水月が左側を少し上げた。
「これで?」
「まだ少し」
「細かいね」
「気になるから」
二人で何度か直し、ようやく水平になった。
その夜、屋根を打つ雨の音で、海斗は一度目を覚ました。
時計は午前二時を過ぎていた。
天井を見上げる。
染みはない。
水が落ちる音もない。
隣では、水月が眠っている。
海斗は起き上がらず、雨音を聞いた。
この家で、何年暮らすのかは分からない。
二十年かもしれない。
もっと長いかもしれない。
事情が変わり、手放す日が来るかもしれない。
それでも今夜は、二人で選び、直した屋根の下にいる。
海斗は目を閉じた。
朝になると、雨はやんでいた。
水月が先に起き、玄関を確かめている。
「漏れてない」
居間へ戻ってきた水月が言った。
「よかった」
「バケツ、片づける?」
玄関の隅には、修理前から置いたままの青いバケツがあった。
海斗は少し考えた。
「洗って、物置へ入れよう」
水月はバケツを持ち上げた。
底には、乾いた水滴の跡が残っている。
二人で外へ出て、朝の水道で洗った。
水月が水を流し、海斗が布で拭く。
乾いたバケツを物置へ入れ、戸を閉めた。
必要になれば、また取り出せる。
出番がないことを願いながら、それでも捨てずに置いておく。
玄関へ戻ると、新しく塗り直した二人の名前が、朝の光を受けていた。




