第22章 止まる日
家を買った翌月から、海斗は毎朝、口座の残高を確認するようになった。
住宅ローンの返済日は月末だった。
返済額は、何度も計算した範囲に収まっている。屋根と床下の修理費も、見積もりから大きく増えてはいない。給湯器や外壁のために残した貯金もある。
確認したところで、数字が急に変わるわけではなかった。
それでも海斗は、朝食前に銀行の画面を開いた。
普通預金。
修理用の口座。
生活費の口座。
数字を一つずつ見てから、携帯電話を伏せる。
翌朝になると、同じ順番でもう一度確かめた。
十一月に入ると、アトリオシステムズでは、新しい案件が始まった。
東京出張で打ち合わせをした顧客から、正式な発注が決まったのだった。
既存の顧客データを新しいシステムへ移す作業も含まれている。
海斗がその場で納期を約束せず、持ち帰って調査した機能だった。
対象となるデータは、当初の説明より複雑だった。十年以上前の形式が残り、一部は必要な項目が欠けている。
海斗たちのチームは、移行できるものと、手作業で確認するものを分けた。
作業期間は四か月。
先方が希望していた期限より、一か月長い。
高瀬が顧客と調整し、了承を得た。
以前なら、海斗は期限を延ばせたことだけで安心しただろう。
だが、今回は自分が技術リーダーとして、作業を割り振る立場だった。
三浦に任せる部分。
別のエンジニアへ頼む部分。
海斗自身が確認する部分。
進捗表を作り、必要な時間を見積もる。
最初の二週間は、予定どおりに進んだ。
三週目、移行元のデータに新しい不整合が見つかった。
作業量を見直す必要がある。
三浦が連絡用のチャンネルへ書き込んだ。
〈追加調査に二日ほしいです。このまま実装へ進むと、変換漏れが出る可能性があります〉
海斗はすぐに返信した。
〈了解しました。実装開始を二日ずらします。調査結果を木曜午前に共有してください〉
正しい判断だと思った。
問題を早く共有した三浦も、以前より成長している。
それなのに海斗は、夜になってから三浦の調査内容を自分でも確かめた。
夕食後、書斎へ戻る。
三浦が調べているデータを手元へ落とし、同じ条件で確認する。
一時間だけのつもりだった。
水月が戸を開けたとき、時計は午後十一時を過ぎていた。
「まだ仕事?」
海斗は画面から目を離さなかった。
「確認だけ」
「仕事は終わったと言うてなかった?」
「三浦さんが見つけた問題が、ほかにもないか気になって」
「三浦さんが調べてるんやろ」
「うん。でも、明後日までに分からなかったら、全体の予定へ影響する」
水月は机の脇へ立った。
「海斗が今夜調べると、何が変わる?」
「早く分かる」
「明日では遅い?」
海斗は答えなかった。
明日の朝でも、仕事の期限には間に合う。
それでも、今分かることを明日まで残すのが落ち着かなかった。
「あと三十分で終わる」
「その言葉、前にも聞いた」
水月の声が固くなった。
海斗はようやく画面から顔を上げた。
「前とは違うよ」
「どこが?」
「毎日遅くまで働いてるわけじゃない。今夜だけだから」
「昨日も十時まで、この部屋にいた」
「昨日は資料をまとめてた」
「仕事やろ」
「必要な仕事だった」
水月は何か言いかけ、やめた。
「先に寝る」
戸が閉まったあと、海斗は画面を見た。
三浦がすでに確認した範囲へ、自分も同じ処理をかけている。
無駄だとは思わなかった。
二人で確認すれば、見落としが減る。
だが、三浦には任せると言った。
相談の基準を決め、確認する範囲も分けた。
海斗が今していることを三浦が知れば、任されたとは感じないだろう。
海斗は作業を止めた。
時計は十一時二十二分。
パソコンを閉じ、寝室へ向かった。
水月は背を向けて眠っていた。
布団へ入っても、頭の中ではデータの項目が並び続けた。
顧客番号。
住所。
契約日。
空欄になった項目。
どこかに見落としがある気がする。
目を閉じても眠れなかった。
午前二時十二分。
枕元の時計を見た瞬間、胸の奥が強く脈打った。
海斗は目をそらした。
ただの時刻だ。
以前の会社ではない。
障害も起きていない。
仕事用の携帯電話は書斎に置いてある。
それでも呼吸が浅くなった。
水月を起こさないよう、音を立てずに布団を出た。
台所で水を飲む。
暗い窓へ、自分の顔が映った。
前と同じではない。
そう言い聞かせるほど、身体の中で以前の感覚が蘇った。
翌朝、水月が起きると、海斗は食卓へ座っていた。
目の下が少し暗い。
「眠れんかった?」
「途中で起きた」
「何時?」
海斗は茶を飲んだ。
「二時過ぎ」
「仕事のこと?」
「少し」
水月は海斗の向かいへ座った。
「今日は休めんの?」
「休むほどじゃない」
「どれくらいなら、休むほどになるん?」
「一日眠れなかっただけだよ」
海斗の声が強くなった。
水月は黙った。
海斗はすぐに後悔した。
「ごめん」
「謝るより、答えて」
「何を?」
「どこまで悪くなったら休むん?」
海斗は答えられなかった。
前回は、文字が読めなくなるまで働いた。
食事が取れず、立っていられなくなった。
そこまで行けば、休むしかない。
だが、水月が聞いているのは、その前にどこで止まるかだった。
「今日は、藤崎さんに話す」
海斗は言った。
「休むかどうかも?」
「相談する」
水月はうなずいた。
「分かった」
海斗は朝の会議前に、藤崎へ連絡した。
睡眠が乱れ始めていること。
仕事時間外に、任せた作業を自分で確認してしまったこと。
以前の体調悪化を思い出す時刻に、動悸があったこと。
文字にすると、思っていたより問題が大きく見えた。
送信をためらった。
数分後、藤崎から通話の提案が届いた。
画面に現れた藤崎は、いつもと同じ落ち着いた表情をしていた。
「今朝の状態はどうですか」
「眠いですが、仕事はできます」
「できるかどうかではなく、した方がよい状態かを確認したいです」
その言い方に、海斗は口を閉じた。
「今日、相沢さんが担当しなければ止まる仕事はありますか」
「ありません」
「三浦さんの調査は?」
「本人が進めています」
「では、今日は休んでください」
「でも、案件が始まったばかりで――」
「始まったばかりだからです」
藤崎は海斗の言葉を遮らなかったが、返答は変えなかった。
「今止まれば、一日の調整で済みます。体調を崩して数週間離れることになれば、相沢さんにもチームにも影響が大きい」
以前、西田に言われた言葉と似ていた。
限界まで働くことが、チームのためになるとは思えません。
あのときの海斗は、自分が抜ければ周囲の負担が増えると考えていた。
今も、同じ考えが頭にある。
「今日だけで戻れるとは限りません」
海斗は言った。
「そうですね」
藤崎は否定しなかった。
「明日も難しければ、明日も休みましょう。今日のうちに、以前受診した医療機関へ相談できますか」
「電話してみます」
「業務の引き継ぎは、私と三浦さんで確認します。相沢さんは、連絡用のアプリを閉じてください」
海斗は休暇の申請を出した。
パソコンを閉じる。
平日の朝に仕事をしないことへ、罪悪感があった。
居間へ行くと、水月はすでに静波へ向かったあとだった。
机の上には、おにぎりが二つ置かれていた。
小さな紙に、〈食べられる分だけ〉と書いてある。
海斗は一つを手に取った。
海苔は別に包まれている。
梅干しの入ったおにぎりを半分食べ、残りを皿へ戻した。
そのあと、以前通っていたクリニックへ電話をかけた。
診察の予約は、三日後に取れた。
受付の女性から、症状が急に強くなった場合には別の相談窓口も使うよう案内された。
電話を切ると、海斗は携帯電話の電源を完全に切った。
眠ろうとしたが、眠気は来なかった。
代わりに、銀行の残高を確認したくなった。
今月の返済。
修理用の貯金。
仕事を休んだことで、給与に影響が出るのか。
携帯電話は電源を切っている。
パソコンを開けば確認できる。
海斗は書斎の戸口まで行き、立ち止まった。
何を確かめたいのか。
一日休んでも、家を失うことはない。
有給休暇も残っている。
数字は、昨日と変わっていない。
それでも不安は消えなかった。
海斗は書斎へ入らず、家の外へ出た。
空は曇っていた。
海沿いの道を、ゆっくり歩く。
静波の前まで来ると、暖簾が出ていた。
中へ入るつもりはなかった。
客として行けば、水月が心配する。
海斗は店の前を通り過ぎ、港まで歩いた。
源治が舟の上で網を直していた。
海斗へ気づくと、手を止めた。
「仕事は?」
「休みました」
「平日に?」
「体調が少しよくなくて」
源治はそれ以上聞かなかった。
「そこ、押さえてくれ」
海斗へ網の端を示した。
舟へ乗る必要はない。岸から手を伸ばせば届く場所だった。
海斗は網をつかんだ。
源治が切れた部分へ糸を通す。
規則的な作業だった。
網目を合わせ、糸を結ぶ。
海斗は言われた場所を押さえるだけだった。
「この網、いつから使ってるんですか」
「三年くらい」
「もっと長く使える?」
「切れたら直せばな」
源治は新しい結び目を引いた。
「全部切れたら?」
「替える」
当たり前の答えだった。
海斗は網を持ったまま、少し笑った。
「何や」
「いえ。何でも直して使い続けるわけではないんだと思って」
「直す方が高うつくなら替える。使えるなら直す」
源治は次の切れ目を探した。
「人は?」
海斗が尋ねると、源治の手が止まった。
「人を替える話か」
「違います。休む話です」
「知らん」
源治は再び網へ目を落とした。
「わしに聞くな。休まんで腰を悪うした人間や」
「そうなんですか」
「若い頃、痛いのを隠して舟へ乗っとった。ある朝、立てんようになった」
「どれくらい休んだんです?」
「二か月」
源治は不機嫌そうに答えた。
「陸には、話したことありますか」
「ない」
「どうして?」
「偉そうに言えることやない」
「失敗したから言えることもあると思います」
源治は海斗を見た。
「お前が言え」
「僕も失敗したので」
「ほな、二人で言え」
網の修理が終わると、源治は礼も言わず、代わりに小さな鯖を二尾くれた。
「静波へ持っていけ」
「僕が持っていくんですか」
「今から水月の店へ行くんやろ」
「行くとは言ってません」
「店の前を二回通った」
海斗は見られていたことに驚いた。
「一回です」
「戻るときも通る」
源治はそれだけ言い、舟の奥へ消えた。
海斗は鯖の入った袋を持ち、静波へ向かった。
昼の営業は終わっていた。
戸を開けると、水月と佐知が片づけをしている。
「どうしたん?」
水月が海斗の顔を見た。
「源治さんから」
鯖を差し出す。
「仕事は?」
「休んだ。藤崎さんと話して、病院も予約した」
水月の肩から、わずかに力が抜けた。
「そう」
「心配した?」
「した」
「連絡しなくてごめん」
「休むことが決まったなら、送ってほしかった」
海斗は携帯電話の電源を切ったことを思い出した。
「次から、休むと決めた時点で連絡する」
「うん」
佐知は二人のやり取りを聞かないよう、厨房の奥で鍋を洗っていた。
水月は鯖の袋を冷蔵庫へ入れた。
「家へ帰る?」
「帰る」
「私は、あと一時間くらい」
「先に帰ってる」
海斗が戸口へ向かうと、佐知が振り返った。
「お大事にしてください」
「ありがとうございます」
「家へ帰ったら、仕事をしないように」
佐知は水月ではなく、海斗へ言った。
海斗は苦笑した。
「気をつけます」
「気をつけるだけですか」
「しません」
「それなら」
佐知は鍋へ視線を戻した。
家へ戻った海斗は、残していたおにぎりの半分を食べた。
午後、少し眠った。
目を覚ましたのは夕方だった。
二時間近く眠っていた。
身体は重かったが、頭の奥で続いていた音が少し小さくなっていた。
水月が帰宅すると、海斗は台所で源治の鯖を見ていた。
「夕食、僕が作ろうか」
「休んでる人が?」
「料理くらいできる」
「作りたい?」
「何かしていたい」
水月は鞄を置いた。
「それなら、一緒にしよう」
鯖は塩焼きにした。
水月が魚を開き、海斗が大根をおろす。
食卓へ二人分を並べる。
「明日も休む?」
水月が尋ねた。
「朝の状態を藤崎さんへ連絡して決める」
「私は明日、夜も営業する」
「予約が入ってる?」
「八人」
海斗は顔を上げた。
「六席じゃなかった?」
「昼と夜で四人ずつ」
「佐知さんも?」
「昼だけ。夜は私一人」
「一人で大丈夫?」
「大丈夫」
水月は反射的に答えた。
海斗は黙った。
水月も、自分の言葉に気づいた。
「何?」
「大丈夫という言葉、僕には使わないように言うのに」
「店の営業と、海斗の体調は違う」
「違うけど、一人で八人分を仕込むんだよね」
「別々の時間やから、八人同時ではない」
「営業日を増やしてる?」
水月は鯖の身を箸で取った。
京都の催し以降、予約は増え続けている。
家を買うことが決まってから、水月は以前断っていた日にも予約を入れるようになった。
週四日だった営業を、五日にする週が増えた。
昼だけの予定だった日に、夜の客を受けることもある。
佐知の勤務日を増やさず、自分一人で対応した。
「今月だけ」
水月は言った。
「修理費を少しでも戻しておきたいから」
「僕が昨夜言ったのと同じだ」
「何が?」
「今だけ。必要な仕事だから」
水月は言い返せなかった。
「私は眠れてる」
「身体は?」
「疲れてはいる」
「どれくらい?」
「仕事のあとに疲れるのは普通やろ」
「どこまで疲れたら休む?」
朝、水月が海斗へした質問だった。
自分へ向けられると、答えが見つからなかった。
「明日の予約は受けてる。今から断れん」
「明日のことは、そうかもしれない。でも、その先は?」
水月は箸を置いた。
「海斗に言われたくない」
「どうして?」
「今日休んだばかりやから」
「休んだ人間には言う資格がない?」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、何?」
「私まで休んだら、家の支払いはどうするん?」
声が大きくなった。
海斗は驚いたように水月を見た。
「一日店を閉めても、ローンは払えるよ」
「一日で済むとは限らん」
「何が?」
「客が来てくれてるときに断り続けたら、来なくなるかもしれん」
水月は胸の内にあった不安を、初めて言葉にした。
京都の催しで、静波を知る人が増えた。
今は予約が入っている。
だが、いつまで続くかは分からない。
海が荒れれば魚が入らない。
観光客が減れば、店の売り上げも落ちる。
佐知の賃金も払う必要がある。
家の修理費も、今後の返済もある。
稼げるときに稼がなければならない。
「だから、店の収入を少なめに見積もった」
海斗は言った。
「客が減った場合でも払えるように、二人で計算したよね」
「計算は計算やろ」
「そのために貯金も残した」
「貯金を減らしたくない」
「何のための貯金?」
水月は答えられなかった。
問題が起きたときのために残した。
だが、使えば減る。
減れば不安になる。
だから、使わないように働く。
海斗が毎朝、口座の残高を確認している理由と同じだった。
「僕も、家を買ってから毎朝残高を見てる」
海斗は言った。
水月は顔を上げた。
「毎朝?」
「うん。今日も見たくなった」
「そんなに減ってる?」
「減ってない」
「なら、なぜ?」
「不安だから」
二人の間へ、焼いた鯖の匂いが漂っていた。
「私たち、家を買うのが早かった?」
水月が尋ねた。
海斗はすぐに否定しなかった。
「今は、そう決めたくない」
「後悔してる?」
「後悔してるかどうかも、体調が悪い日に決めたくない」
水月は少し息を吐いた。
それは、以前なら海斗が言えなかった言葉だった。
不安なときに、将来の結論を出さない。
今夜できることだけを決める。
「明日の営業はする」
水月は言った。
「うん」
「でも、来週の夜営業は断る」
「予約が入ってる?」
「問い合わせだけ。まだ返事してない」
「佐知さんにも相談したら?」
「私の店やから、私が決める」
海斗は何も言わなかった。
水月はすぐに続けた。
「でも、働く時間に関わるから話す」
翌日、海斗はもう一日休んだ。
朝、藤崎へ状態を連絡し、業務から離れた。
水月は予定どおり静波を開けた。
昼の客を送り出し、夜の仕込みへ移る。
佐知は午後四時までの勤務だった。
「来週の夜営業を断ろうと思ってる」
水月が伝えると、佐知は意外そうに見た。
「予約が入っているんですか」
「問い合わせだけ」
「理由は?」
「働きすぎてるかもしれんから」
佐知は手を止めた。
「海斗さんに言われました?」
「言われた。でも、決めたのは私」
「私も、言おうと思っていました」
「何を?」
「最近、水月さんの確認が増えています」
「確認?」
「私が仕込んだ出汁を、味見したあとにもう一度温め直していました。盛りつけた皿も、何度も動かしています」
水月には自覚がなかった。
「失敗が増えてる?」
「失敗はしていません。ただ、迷う時間が増えています」
佐知は帳面を取り出した。
「先週、仕入れた蕪の数を二回書いていました。昨日は、同じお客様へ予約確認の電話を二度かけています」
水月は帳面を受け取った。
同じ日付に、蕪十二個と二度書かれている。
予約欄には、確認済みの印が重なっていた。
海斗が同じ会議の日程を三回尋ねたことを、西田が指摘した場面が蘇った。
「なぜ、早く言わなかったん?」
「忙しいだけかもしれないと思ったので」
「海斗と同じやね」
「何がですか」
「どこまで悪くなったら言うか、決めてなかった」
水月は帳面を閉じた。
「これから、同じ確認を二回したら言って」
「二回で?」
「一回は忘れることもある。二回続いたら、私へ確認する」
「怒りませんか」
「たぶん怒る」
佐知の眉が上がった。
「でも、言って」
「分かりました」
「怒ったら、それもあとで言って」
「それは難しいです」
「私も直す」
佐知は少し笑った。
夜の営業は、水月一人で行った。
四人の客へ、ゆっくり料理を出す。
焼き台の火を見ながら、目の奥に重さを感じた。
最後の一皿を盛るとき、手元の器を取り違えた。
客へ出す前に気づいた。
料理に問題はない。
だが、水月は器を持ったまま、しばらく動けなかった。
以前なら、その程度の間違いを気にせず直しただろう。
今日は、違った。
判断が少しずつ遅くなっている。
佐知の言葉が、ようやく身体の感覚とつながった。
営業を終えたあと、水月は翌週の予約希望者へ電話をかけた。
「申し訳ありません。その日は店を休みます」
電話の向こうから、別の日は空いているかと尋ねられた。
水月は予約帳を見た。
二週間後の昼に、二席空いている。
「その日でしたら、お受けできます」
客は、ではその日にと答えた。
一度断ったら、二度と来ないわけではなかった。
もちろん、別の店を選ぶ人もいるだろう。
それでも、すべての客を受けることはできない。
店を続けるために断る日があってよい。
診察の日、海斗は一人でクリニックへ行った。
水月は同行を申し出なかった。
海斗も頼まなかった。
診察室で、最近の睡眠と動悸について話す。
家を買ったこと。
仕事の責任が増えたこと。
住宅ローンへの不安から、口座を毎日確認していること。
医師は一つずつ聞いた。
「以前の状態へ完全に戻ったわけではありません」
医師は言った。
「ただ、同じ方向へ進み始めている兆候はあります」
海斗は膝の上で手を組んだ。
「仕事を辞めた方がいいですか」
「今、その判断をする必要はないでしょう」
医師の答えに、海斗は少し安堵した。
「まず、睡眠を戻すことです。勤務時間を減らし、業務時間外の確認をやめる。体調の記録も、細かくしすぎない範囲でつけてください」
「細かくしすぎない?」
「記録することが新しい仕事にならないように、眠れたか、食べられたか、動悸があったか。その三つ程度で構いません」
海斗はうなずいた。
「口座の確認は?」
「確認する日を決めてはどうですか」
「見ないと不安になります」
「見ても、不安はなくなっていないのでしょう」
その通りだった。
残高を確認した瞬間だけ、少し安心する。
数時間経てば、また気になる。
翌朝には、もう一度見なければ落ち着かない。
「週に一度、水月さんと一緒に確認します」
海斗は言った。
「それで生活に支障がなければ、十分だと思います」
医師からは、一週間の休養を勧められた。
その後、短い時間から仕事へ戻す。
海斗は診察室を出たあと、藤崎へ連絡した。
一週間休むこと。
復帰後の二週間は、残業と夜間対応をしないこと。
医師からの助言を伝える。
藤崎からは、手続に必要な書類と、引き継ぎは済んでいるという返事が来た。
三浦からも、短いメッセージが届いた。
〈案件はこちらで進めています。調査結果は藤崎さんへ共有しました。返信不要です〉
西田が以前送ってくれた言葉と同じだった。
返信不要。
海斗は、ありがとうと入力しかけた。
今回は送らなかった。
返信しないことも、相手の言葉を受け取る方法だと思えた。
帰宅すると、水月が居間にいた。
平日の午後だった。
「店は?」
「休みにした」
「今日、予約があったんじゃない?」
「なかった。仕込みをするつもりやったけど、やめた」
「佐知さんは?」
「休み」
水月は机の上へ、自分の予約帳を置いた。
海斗も医師から受け取った紙を出した。
「一週間休むことになった」
「分かった」
「そのあとも、しばらく残業しない」
「うん」
「水月は?」
「来月から、営業を週四日に戻す。夜は週二回まで」
「収入は?」
「減る」
水月ははっきり答えた。
「佐知さんの勤務は減らす?」
「本人と話した。今の週二日は変えない。私の一人営業を減らす」
「大丈夫?」
海斗が尋ねた。
水月は眉を上げた。
「その言葉、使う?」
「払えるかどうかを聞きたかった」
「計算した。払える」
水月は別の紙を出した。
静波の売り上げと仕入れ、佐知の賃金、家へ入れる金額が書かれている。
営業日を減らしても、赤字にはならない。
修理費を戻す速度は遅くなる。
それだけだった。
「僕も、口座を見るのは週に一度にする」
「いつ?」
「日曜日の午前中。一緒に見てほしい」
「日曜に仕事の数字を見るの?」
「五分だけ」
「十五分までにしよう」
「増えたね」
「家の修理費も確認するから」
二人は、日曜日の朝食後に確認すると決めた。
それ以外の日に見たくなった場合は、紙へ理由を書くだけにする。
我慢できなければ見てもよい。
見たことを隠さない。
完全に守るための規則ではなかった。
不安が強くなったことへ、二人が気づくための目印だった。
休養の三日目、海斗は朝から落ち着かなかった。
仕事用の携帯電話は藤崎の指示で電源を切っている。
それでも、案件の進み具合が気になる。
三浦の調査結果。
顧客への連絡。
予定の遅れ。
海斗は書斎の前を何度も通った。
水月は何も言わなかった。
台所で蕪の皮をむいている。
昼前、海斗は自分から言った。
「仕事を見たい」
水月は包丁を置いた。
「見たいだけ?」
「確認したい」
「見たら、安心する?」
「少し」
「そのあと、もっと見たくならん?」
「なると思う」
海斗は椅子へ座った。
「何かしてないと、休んでることが怖い」
「私も」
水月は蕪を水へさらした。
「店を休んだ日は、予約の電話が鳴る気がする」
「実際に鳴った?」
「二回。留守番電話に任せた」
「折り返した?」
「翌日に」
「怒ってた?」
「一人は別の日に予約してくれた。一人は、また連絡すると」
二人は、それぞれの不安を言葉にした。
仕事へ戻りたいわけではない。
必要とされなくなることが怖い。
収入が減ることが怖い。
止まっている間に、ほかの誰かが自分の仕事をできるようになることも怖い。
「三浦さんが、僕なしで案件を進められたら」
海斗は言った。
「うん」
「嬉しいはずなのに、自分がいらないような気もする」
「佐知さんが、私なしで営業できたら、私もそう思うかもしれん」
「でも、できてほしい?」
「できてほしい。私が倒れたら店を開けてほしいという意味ではなく、佐知さんが自分の料理人として仕事ができるようになってほしい」
「三浦さんにも、そうなってほしい」
海斗は、自分の手を見た。
「誰かができるようになることと、自分がいらなくなることは同じじゃないね」
「たぶん」
「たぶん?」
「私も、まだ分からんから」
水月は蕪を鍋へ入れた。
「昼、食べる?」
「食べる」
「蕪の煮物だけやけど」
「十分」
海斗は食卓へ箸を並べた。
休んでいる間に、二人は何か特別なことをしなかった。
観光にも行かなかった。
回復するための予定表も作らなかった。
海斗は昼に眠くなれば眠った。
水月は店へ行かない日にも、料理を作りたくなれば台所へ立った。ただし、売り物にはしなかった。
二人で散歩する日もあれば、それぞれの部屋で過ごす日もあった。
会話をしない午後もあった。
五日目の夜、海斗は午前二時十二分に目を覚ました。
時計の数字を見ても、前ほど胸は速くならなかった。
隣で水月が眠っている。
海斗は水を飲みに起きるか迷った。
喉は渇いていない。
仕事の確認をしたい気持ちも、少しだけ残っている。
だが、今できる仕事はない。
海斗は布団の中で息を吐いた。
眠らなければならないと思うと、身体が固くなる。
眠れなくても、横になっていればよい。
しばらく雨の音を聞いた。
いつの間にか、再び眠っていた。
一週間後、海斗は午前中だけ仕事へ戻った。
藤崎と三浦との会議から始める。
画面に現れた三浦は、少し緊張していた。
「おかえりなさい」
「ただいま。迷惑をかけました」
海斗が言うと、藤崎が首を振った。
「休むことを迷惑として始めないでください」
海斗は言い直した。
「休んでいる間、ありがとうございました」
「それなら受け取れます」
藤崎が答えた。
三浦が、案件の進捗を説明した。
調査は終わり、実装へ進んでいる。
予定は一日だけ遅れているが、後半の余裕で吸収できる範囲だった。
「僕が確認するものは?」
海斗が尋ねる。
三浦は一覧を画面へ出した。
「設計の変更点と、顧客へ確認が必要な二項目です。それ以外は、僕と藤崎さんで確認しました」
以前の海斗なら、すべてを見せてほしいと言ったかもしれない。
「分かりました。その二つを午前中に見ます」
海斗は答えた。
仕事を終えたのは正午だった。
パソコンを閉じても、午後まで続けたい気持ちがあった。
少しだけなら。
遅れを取り戻すために。
しかし、復帰初日は午前だけと決めている。
海斗は連絡用のアプリからログアウトした。
居間へ行く。
水月は静波にいる。
机の上には何も置かれていなかった。
おにぎりも、注意書きもない。
海斗は自分で冷蔵庫を開けた。
昨夜の味噌汁と、ご飯が残っている。
温め、茶碗へよそう。
自分のために昼食を用意し、座って食べた。
同じ頃、静波では、佐知が一人で出汁巻きを焼いていた。
水月は隣で魚を焼いている。
「少し火が強いです」
佐知が言った。
「私の?」
「はい。皮が先に焦げます」
水月は焼き台を見た。
確かに火が強い。
「ありがとう」
火を弱める。
以前なら、自分で気づけなかったことが悔しかったかもしれない。
今も、少し悔しい。
だが、魚を焦がすよりよい。
昼の営業を終えると、佐知が予約帳を見た。
「明日は休みですね」
「うん」
「仕込みへ来ますか」
「行かん」
「本当に?」
「家にいる」
「では、鍵は私が持ち帰ります」
佐知は静波の合鍵を持っていた。
「なぜ?」
「水月さんが仕込みへ来られないように」
「店主から鍵を取り上げるん?」
「予備は家にあるでしょう」
「あるよ」
「では、意味はないですね」
二人は顔を見合わせ、笑った。
佐知は鍵をいつもの場所へ戻した。
「来てもいいです。ただし、来たら記録に残してください」
「何の記録?」
「休業日に働いた時間です。働いたら、次の営業日を短くする」
「佐知さんが決めることではない」
「提案です」
水月は少し考えた。
「分かった。来たら書く」
「来ない方がいいです」
「それは私が決める」
翌朝、水月は店へ行かなかった。
海斗の仕事も午後まで休みだった。
二人は朝食後、家の口座を確認した。
約束した日曜日だった。
住宅ローンは予定どおり引き落とされている。
修理用の貯金は、先週と同じ。
生活費も、予算の範囲内だった。
「五分経った」
水月が時計を見る。
「まだ、静波の収支を見てない」
「それは店の時間にしたら?」
「今日は休み」
「明日見る」
海斗は画面を閉じた。
確認にかかった時間は、七分だった。
不安が完全に消えたわけではない。
だが、次に見る日が決まっている。
それまでは、数字を変えるために働くのではなく、決めた時間だけ仕事をする。
昼前、二人は港まで歩いた。
空気が冷たく、海面には細かな波が立っている。
源治は舟の上にいなかった。
美代から、腰が痛むため今日は家で休んでいると聞いた。
「休んでるんや」
水月が言う。
「海斗が話したから?」
「僕は何も言ってない」
「陸から言われたんかもしれんね」
二人は堤防の端へ座った。
冬の海を見ながら、水月が尋ねた。
「休んで、どうやった?」
「怖かった」
海斗は答えた。
「水月は?」
「店を閉める電話をしたとき、手が震えた」
「それでも閉めた」
「うん」
「僕も、休暇を申請した」
二人とも、自分ができたことを大きく見せなかった。
一度止まれたからといって、次も必ず止まれるとは限らない。
また忙しさの中で、兆候を見落とすかもしれない。
互いの言葉へ腹を立てる日もある。
それでも、今回、限界まで進まずに済んだ。
理由は一つではなかった。
藤崎が休むよう言った。
三浦が仕事を引き受けた。
佐知が水月の重複した確認に気づいた。
医師が判断を急がなくてよいと伝えた。
源治は網を持たせた。
自分たちだけで止まったわけではない。
「私たち、二人で何とかできたと思わん方がええね」
水月が言った。
「うん。何人にも止めてもらった」
「次も、早めに言わんと」
「誰に?」
「そのとき、近くにいる人に」
海斗は海を見た。
仕事の不安は、藤崎や三浦へ。
店の違和感は、佐知へ。
身体のことは、医師へ。
家のことは、水月と話す。
一人の相手へ、すべてを支えてもらう必要はなかった。
風が強くなり、水月が立ち上がった。
「帰ろう。寒い」
「昼、何を食べる?」
「昨日の鯖がある」
「源治さんからもらったもの?」
「味噌煮にした」
二人は家へ向かって歩いた。
新しく直した屋根が、道の先に見える。
玄関へ入ると、表札の文字は潮風に耐え、まだ濃く残っていた。
台所で鍋を温める。
海斗がご飯をよそい、水月が鯖を皿へ移す。
食卓へ座る前に、海斗の携帯電話が振動した。
仕事用ではない。
西田からだった。
〈今度、伊根へ行ってもいいですか。静波の予約は、自分で取ります〉
海斗は水月へ画面を見せた。
「来たいって」
「いつ?」
「来月」
「静波の予約は、自分で取るって」
「それがええ」
「席、空いてる?」
「予約帳を見んと分からん」
水月はすぐに確認しようと立ち上がりかけた。
途中で止まり、椅子へ座り直す。
「今日は休みやった」
「明日返事する?」
「そうする」
海斗も携帯電話を伏せた。
「西田さんにも、明日確認するとだけ送る」
「それは今送ってええんと違う?」
「返信不要って書いてないから」
海斗は短く返事をした。
〈ありがとう。水月が明日、予約を確認します〉
送信後、携帯電話を机の端へ置く。
二人は温かい鯖の味噌煮を食べた。
午後には何の予定もなかった。
仕事を進める必要もない。
休んだ分を取り戻す必要もない。
家の中には、時計の針が進む音と、食器に箸が触れる音だけがあった。
止まっているように見えても、時間は静かに流れていた。




