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『静波の寄せる場所』  作者: 久遠 睦


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23/31

第23章 客として

西田真帆が伊根へ来る日は、朝から雪が降っていた。

屋根へ積もるほどではない。

細かな雪が海風に流され、空中で向きを変えている。海へ落ちたものは形を残さず、舟屋の屋根へ届いたものだけが、薄く白い跡を作っていた。

海斗は朝食を終えると、携帯電話で交通情報を確認した。

京都駅から天橋立までの列車は、予定どおり動いている。

天橋立から伊根へ向かうバスにも、運休の知らせはない。

十分後、もう一度同じ画面を開いた。

「さっきも見てなかった?」

台所で水月が言った。

「雪が強くなってきたから」

「真帆さんから連絡は?」

「京都駅を出たって」

「なら、何かあったら本人から来るやろ」

「バスが遅れたら、迎えに行った方がいいかもしれない」

「どこまで?」

「天橋立」

水月は包丁を止めた。

朝食に使った葱の残りを切っていた。

「真帆さんは、迎えに来てほしいと言うた?」

「言ってない」

「一人で来られると思って、切符も宿も取ったんやろ」

「分かってるよ」

海斗は携帯電話を伏せた。

西田が伊根へ来てもよいかと尋ねてから、一か月が経っていた。

宿は潮路へ自分で予約した。

静波の席も、自分で電話をかけて取った。

海斗がしたのは、京都から伊根までの移動方法を一度送ったことだけだった。

その後も、必要な持ち物や雪への備えを何度か伝えようとした。

長い上着。

滑りにくい靴。

現金。

バスの本数が少ないこと。

しかし、途中まで書いた文章を消した。

西田は二十八歳の社会人で、一人で出張にも旅行にも行く。

海斗が世話をしなければ、伊根へ来られない人ではない。

それでも、到着するまでは落ち着かなかった。

「今日は仕事、休みなん?」

水月が尋ねる。

「午後から休暇を取った」

「午前中は?」

「会議が一つだけ」

「終わったら、迎えに行く?」

「伊根のバス停まで」

「それは真帆さんも知ってる?」

「着いたら連絡することになってる」

水月は切った葱を保存容器へ入れた。

「なら、それまで仕事したらええ」

「分かってる」

海斗は書斎へ入った。

午前九時からの会議では、顧客データの移行結果を確認した。

三浦が中心になって進めた案件は、最終段階へ入っている。

移行できなかったデータの件数も、予定した範囲に収まっていた。

「来週、先方へ報告します」

三浦が画面を共有しながら言った。

「説明は三浦さんがする?」

海斗が尋ねる。

「相沢さんにお願いするつもりでした」

「ここまで担当したのは三浦さんだから、説明もしてみない?」

三浦は少し黙った。

「質問に答えられなかったら、代わってもらえますか」

「もちろん。ただし、最初から僕が横で全部答える形にはしない」

「分かりました」

三浦は報告資料の担当者欄へ、自分の名前を入力した。

「午後から休みですよね」

「うん」

「西田さんが来るんでしたっけ」

海斗は驚いた。

「どうして知ってるの?」

「前の会社の西田さんですよね。先週、相沢さんが会議の雑談で言ってました」

自分で話したことを忘れていた。

一瞬、記憶が抜けたのではないかと胸が固くなる。

だが、先週の会議内容を思い返すと、三浦が伊根の冬について尋ね、東京から知人が来ると答えたことを思い出した。

「そうだった」

「楽しんできてください」

「ありがとう」

会議を終え、仕事用のパソコンを閉じる。

西田からは、まだ新しい連絡がない。

海斗は交通情報を確認しそうになり、携帯電話を机へ置いた。

正午過ぎ、西田から写真が送られてきた。

バスの窓から撮った海だった。

〈海が見えました。予定より十分くらい遅れています〉

海斗は上着を着た。

〈伊根のバス停で待っています〉

外へ出ると、雪は朝より弱くなっていた。

道の端に積もった雪が、車のタイヤで灰色に変わっている。

バス停へ着き、時刻表を見る。

到着予定まで、二十分。

海斗は屋根の下へ立った。

十分ほどすると、一台のバスが曲がり角から現れた。

伊根行きではなかった。

次のバスを待つ。

携帯電話を見る。

新しい連絡はない。

さらに十五分経って、ようやく伊根方面からではなく天橋立方面からのバスが見えた。

バスが停まり、数人の乗客が降りる。

最後に、西田が姿を見せた。

灰色の上着を着て、小さな旅行鞄を持っている。髪には、溶けかけた雪がついていた。

「本当に来た」

海斗が言うと、西田は眉を上げた。

「呼んだのは海斗さんですよね」

「来てもいいとは言ったけど」

「途中で帰ると思ってました?」

「雪だから少し心配してた」

西田はバス停の屋根を見上げた。

「東京より寒いですね」

「海風があるから」

「それは教えてもらいました。靴も、防水のものを履いてきました」

西田は片足を上げて見せた。

海斗が送らずに消した内容を、自分で考えて準備している。

「宿へ行く?」

「その前に、海を見たいです」

「荷物は?」

「これくらい持てます」

海斗が旅行鞄へ手を伸ばしかけると、西田は身体を引いた。

「大丈夫です」

その言葉に、海斗は一瞬立ち止まった。

西田は気づき、笑った。

「本当に持てるという意味です」

「分かってる」

二人は舟屋の並ぶ道を歩いた。

西田は何度も足を止め、建物の間から海を見た。

「写真で見るより、家が海に近いですね」

「京都駅で僕もそう思った」

「ここへ来た日に?」

「うん」

海斗は、初めて伊根へ着いた午後を思い出した。

何も決めずに東京を出た。

宿を当日に取り、食べる店を探して歩いた。

自分が今、西田の隣でこの町を案内していることが不思議だった。

「静波は、あっち?」

西田が路地の先を指した。

紺色の暖簾が見える。

「今日は夕食の予約だけだから、まだ入らない方がいい」

「海斗さんでも、営業時間外は入らないんですか」

「必要がなければ」

「ちゃんと分けてるんですね」

西田の言い方に、以前の海斗を知る者の含みがあった。

「前よりは」

「前は、休日でも会社の連絡を見てましたから」

「西田さんも見てたよね」

「見てました」

二人は潮路へ向かった。

美代は帳場から顔を出すと、西田を迎えた。

「海斗さんの会社のお友達?」

「前の会社で一緒でした」

西田が答える。

「海斗さんが大変なときに助けてくれた人やね」

美代の言葉に、西田の表情が少し変わった。

「誰から聞いたんですか」

「海斗さんから、少しだけ」

「余計なことを言った?」

海斗が尋ねると、美代は笑った。

「何も詳しいことは聞いてへんよ。伊根へ来るよう背中を押してくれた人やと」

「押したつもりはありません」

西田は言った。

「休んでくださいとは言いましたけど、京都まで行けとは言っていません」

「結果として、ここへ来たんやね」

美代は宿帳を差し出した。

西田が住所と名前を書く。

「夕食は静波さん?」

「はい。自分で予約しました」

「それはよかった。海斗さんの名前を出したら、水月さん、かえって厳しくするから」

「そうなんですか」

「してないよ」

海斗が否定すると、美代は聞いていないふりをした。

部屋へ荷物を置いたあと、西田は少し休むと言った。

「夕方、迎えに来る」

「静波まで歩けます」

「暗くなると道が分かりにくいから」

「地図があります」

「雪も残ってる」

西田は海斗を見た。

「迎えに来たいんですか」

尋ねられ、海斗は黙った。

心配だから。

迷うかもしれないから。

転ぶかもしれないから。

いくつも理由は浮かんだ。

だが、西田の質問は、必要かどうかではなかった。

「迎えに来たい」

海斗は答えた。

「では、お願いします」

西田は笑った。

「必要だからではなく、海斗さんが来たいからということなら」

夕方、海斗は約束の時刻に潮路へ戻った。

西田はすでに玄関で待っていた。

二人で静波へ向かう。

店へ入ると、カウンターの端に一席だけ空いていた。

海斗の席はない。

西田が予約したのは、自分一人分だった。

「海斗さんも食べると思ってました?」

水月が厨房から尋ねた。

「思ってないよ」

「顔に出てる」

海斗はカウンターの空席を見た。

残りの五席には、ほかの客が座っている。

「家で食べる」

「鍋にあるから、帰ったら温めて」

「分かった」

西田が上着を脱ぎながら、二人を見ていた。

「僕は帰るね」

海斗が言うと、西田は少し驚いた。

「一緒に食べないんですか」

「予約してないから」

「一席、空いてますけど」

「そこは、当日のお客さんが来るかもしれない」

水月が答えた。

海斗が初めて静波へ入った日も、空いていた一席へ座った。

その席を、家族だからという理由で使うことはしなかった。

「では、食事が終わったら連絡します」

西田が言う。

「迎えに来なくても帰れますが、来たいなら」

「連絡して」

海斗は店を出た。

家へ戻り、鍋を開ける。

鰤と大根の煮物が入っていた。

一人分を温め、ご飯をよそう。

食卓へ座ると、静波で西田がどんな料理を食べているか気になった。

水月は、何を話すのだろう。

佐知は、西田を知っているのか。

自分の話が出るのか。

携帯電話へ手を伸ばし、やめた。

西田は客として静波へ行った。

海斗の過去を確認するためではない。

水月が西田へ何を出すかも、店で交わす会話も、海斗が管理することではなかった。

煮物を食べる。

鰤の脂が大根へ染みている。

一人で食べても、味は変わらなかった。

静波では、佐知が西田へ最初の椀を出していた。

蕪のすり流しだった。

白い汁の中に、焼いた帆立と細く切った柚子が浮かんでいる。

「お熱いうちにどうぞ」

「ありがとうございます」

西田は匙を取った。

一口飲む。

蕪の甘みのあとに、帆立の香りが広がった。

「おいしい」

佐知が短く頭を下げる。

厨房では、水月が別の客の魚を焼いていた。

「水月さんが作った料理ですか」

西田が尋ねると、佐知は答えた。

「すり流しの配合は水月さんです。焼いた帆立を合わせたのは、私です」

「では、二人の料理?」

「今日の献立札には、二人の名前が書いてあります」

西田は入口脇の札を見た。

〈蕪のすり流し 相沢水月/帆立の仕立て 川原佐知〉

「名前を書くんですね」

「誰が考えたか、分からなくならないように」

佐知の言葉に、水月が一瞬だけ手を止めた。

西田はそれ以上尋ねず、椀を食べた。

次に出たのは、甘鯛の塩焼きだった。

海斗が初めて静波で食べたものと同じ魚だが、冬の甘鯛は脂の乗りが違う。

皮が薄く持ち上がり、細かな鱗が香ばしく焼かれている。

「海斗さんも、これを食べたんですか」

西田が水月へ尋ねる。

「最初の日は、塩焼きでした」

「何か話しました?」

「魚が毎日変わるのか聞かれました」

「海斗さんらしいですね。決まっていないことが苦手だから」

水月は焼き台から魚を下ろした。

「今も苦手やと思います」

「少しは変わりました?」

「変わったところもあるし、変わらんところもあります」

水月は新しい魚を焼き台へ載せた。

「この前も、仕事を休むまで何日かかかりました」

「聞きました」

「真帆さんには、自分から?」

「連絡が来ました。以前の症状が少し出たと」

水月は西田を見た。

「海斗が自分から言うたんですね」

「はい」

「前は、真帆さんが気づいた」

「そうでした」

西田は箸を置いた。

「そのとき、私は怒っていました」

水月は何も言わず、次の料理の準備を続けた。

西田も、すぐには続きを話さなかった。

ほかの客の会話が店内へ流れる。

夫婦で来ている客が、明日の天気について話している。

一人の客は、黙って酒を飲んでいる。

西田は甘鯛を一口食べた。

「海斗さんが倒れそうになったことに、ではなくて、そこまで何も言わなかったことに怒っていました」

「本人には?」

「言いませんでした。言える状態ではなかったから」

「今は?」

西田は魚の骨を避けた。

「まだ、ちゃんと言っていません」

水月は、西田の湯飲みへ茶を足した。

「私は、海斗の代わりに聞かんよ」

「分かっています」

「話したいなら、本人に話して」

「そのつもりです」

水月はうなずき、厨房へ戻った。

それ以上、西田の気持ちを慰めなかった。

海斗を弁護することもしなかった。

西田には、その距離がありがたかった。

食事が終わる頃、外の雪はやんでいた。

西田は一人で潮路へ帰れると言った。

それでも、海斗へ連絡した。

〈終わりました。歩けますが、来たいならどうぞ〉

海斗は十分ほどで現れた。

「早いですね」

「家から近いから」

「待ってたんですか」

「食器を洗ってた」

「本当に?」

「本当」

二人は雪の残る道を歩き始めた。

西田は静波の料理について話した。

蕪のすり流し。

甘鯛。

佐知が作った小鉢。

海斗は一つずつ聞いた。

「水月とは、何を話した?」

「海斗さんのことも、少し」

「何て?」

「本人に言うように言われました」

海斗は歩く速度を落とした。

「何を?」

西田はすぐには答えなかった。

潮路へ戻らず、海の見える場所まで歩いた。

雪雲の隙間から月が見える。

水面には、家々の明かりが細く揺れていた。

「海斗さんが休んだあと、私は怒っていました」

西田が言った。

海斗は黙った。

「前にも話したように、海斗さんの担当していた仕事を、残った人たちで分けました。私も引き受けました」

「うん」

「大変だったけど、それだけなら会社の問題です。海斗さんのせいだとは思っていません」

西田は上着のポケットへ手を入れた。

「でも、私が何度も休んだ方がいいと言ったとき、海斗さんは大丈夫だと言いました」

「……そうだった」

「今日だけだから。忙しい時期だから。ここを越えれば落ち着くから。何度も同じことを言いました」

海斗は当時の自分を思い出した。

西田の言葉を、心配しすぎだと思った。

自分の状態は自分が一番分かっていると考えていた。

仕事を引き受けることで、チームを助けているつもりだった。

「私を信用していないんだと思いました」

西田の声は落ち着いていた。

「そんなつもりはなかった」

「分かっています。でも、結果として、私は海斗さんの大丈夫という言葉を信じて、同じ量の仕事を任せ続けました」

海斗の胸が重くなった。

「ごめん」

「謝ってほしい話もあります」

西田は言った。

「でも、謝って終わりにしたいわけではありません」

「どうしてほしい?」

「今度、同じ兆候が出たときは、近くにいる人の言葉を、自分の判断より少しだけ重く考えてください」

海斗はすぐには答えなかった。

自分の身体のことを、他人の判断へ委ねるつもりはない。

しかし、自分が兆候を認められない時期があることも知っている。

「少しだけ?」

「全部従えとは言いません。私も間違うので」

「分かった」

海斗はうなずいた。

「今回、水月に言われて、藤崎さんへ話した」

「聞きました」

「前よりは早かったと思う」

「はい」

「でも、一度は前と違うと言い返した」

「それも聞きました」

「水月、そこまで話したの?」

「本人が言ってました」

海斗はため息をついた。

「ほかに、怒っていたことは?」

「あります」

西田は即答した。

「まだある?」

「海斗さんが休んだ直後、私に謝りましたよね」

「仕事を任せることになったから」

「私は、謝ってほしいんじゃないと言いました」

「覚えてる」

「それでも、何度もありがとうと謝罪を送りました。返信はいらないと書いたのに」

「一度だけだと思う」

「一度だけです。でも、返信を考える負担がありました」

海斗は苦笑した。

「それは、ごめんと言ったらまた怒られる?」

「今のは、謝ってください」

「ごめん」

「受け取ります」

二人は少し笑った。

そのあと、また静かになった。

「今、昇進の話が出ています」

西田が言った。

「主任になったんじゃなかった?」

「次は、課長代理です」

「ずいぶん早いね」

「黒田部長が、別の部署へ異動することになりました」

海斗は足を止めた。

「異動?」

「本人の希望もあったと聞いています。健康管理の問題だけが理由ではありません」

「後任が西田さん?」

「候補の一人です」

西田は海へ視線を向けた。

「引き受けるか、迷っています」

海斗の頭の中に、すぐに条件が浮かんだ。

権限。

部下の人数。

夜間対応。

業務量。

昇給額。

黒田と同じ立場へ入るなら、事前に確認するべきことがある。

「まず――」

言いかけて、海斗は止まった。

「何ですか」

「意見がほしい?」

西田は少し驚いた顔をした。

「聞いてほしいだけか、意見がほしいか、という確認ですか」

「うん」

「水月さんとの決まり?」

「決まりというほどではないけど」

西田は考えた。

「今夜は、聞いてほしいです」

「分かった」

二人は歩き出した。

西田は、課長代理へ推薦された経緯を話した。

海斗が休職したあと、チームの仕事を整理する役目を担った。

夜間対応を二人体制に変える提案もした。

障害報告書の期限を見直し、休暇中の社員へ連絡しない基準も作った。

黒田は最初、変更へ慎重だったが、会社の健康相談室と人事が間に入った。

少しずつ、働き方は変わった。

「変えたのは西田さんだね」

海斗が言う。

「私一人ではありません」

「それでも、中心にいた」

「だから、次もできると思われています」

西田は足元の雪を避けた。

「でも、管理する側になったら、いつか黒田部長と同じことをするかもしれない」

「そう思ってるんだ」

「忙しくなれば、現場へ無理を言うこともあります。顧客の要望を断れないこともある。私も、納期を守るために後輩へ残業を頼んだことがあります」

海斗は口を挟まずに聞いた。

「課長代理になれば、残業代の扱いも変わります。今より会議が増えて、コードを書く時間は減る。私は管理職になりたいのか、断ったら評価が下がるのが怖いだけなのか、まだ分かりません」

潮路の明かりが見えてきた。

西田は話し終えたようだった。

「今日は、ここまででいい?」

海斗が尋ねる。

「はい」

「明日、意見がほしくなったら言って」

「そのために来たわけではありません」

西田は笑った。

「でも、話すかもしれません」

翌朝、西田は一人で町を歩いた。

海斗は仕事だった。

水月も、静波で仕込みをしている。

西田は海沿いの道を進み、舟を整える漁師たちを見た。

土産物店へ入り、小さな干物を買う。

観光案内所で、遊覧船の運航時刻を確かめた。

誰にも案内されず、自分の歩きたい方へ歩いた。

昼前、海斗へ写真を送った。

雪の残る舟屋と、軒下で眠る猫。

〈一人で歩いています。迷っていません〉

会議の合間に写真を見た海斗は、笑った。

〈了解しました〉

それだけ返した。

午後、仕事を終えた海斗が潮路へ行くと、西田は帳場で美代と茶を飲んでいた。

「海斗さん、ここへ来たとき、ずいぶん顔色が悪かったんやよ」

美代が話している。

「美代さん」

海斗が止める。

「詳しいことは言うてへんよ」

「顔色の話をしてる」

「本当のことやろ」

西田は湯飲みを持ったまま、海斗を見た。

「今の方が、少し丸くなりましたね」

「太った?」

「顔つきが」

「それ、どういう意味?」

「前は、話しかけたら壊れそうでした」

海斗は返事に困った。

美代が茶を足した。

「今日は、お二人で夕食?」

「家で食べます」

海斗が答える。

西田は潮路へ夕食を頼んでいなかった。

静波は休業日だった。

「水月も待ってる」

二人で家へ向かった。

西田が玄関の表札を見た。

「本当に家を買ったんですね」

「修理したばかり」

「中を見ても?」

「もちろん」

家へ入る。

水月は台所で鍋を見ていた。

「おかえりなさい」

西田へ向かって言う。

「お邪魔します」

食卓には、三人分の皿が並んでいた。

静波の料理ではない。

鶏肉と根菜の煮物、ほうれん草の胡麻和え、味噌汁。

水月が家で作る、普段の夕食だった。

「店の料理を期待してた?」

水月が尋ねる。

「少し」

西田は正直に答えた。

「今日は休みやから、店の料理は作らんよ」

「残念ですが、分かりました」

三人で食卓へ座った。

西田は煮物を食べた。

「これも、おいしいです」

「店では出さん料理やけどね」

「なぜ?」

「家で食べる味やから」

西田はもう一口食べた。

海斗が茶を注ぐ。

食事の途中、西田が水月へ尋ねた。

「海斗さんが休んだとき、怖くなかったですか」

「怖かったよ」

「また、前と同じになると思いました?」

「思った」

水月は煮物の人参を箸で取った。

「でも、私が海斗を治すことはできんから」

「それは分かっていても、何かしたくなりませんか」

「なる。仕事用のパソコンを隠したくなった」

海斗が顔を上げた。

「初めて聞いた」

「せんかったから言わんかった」

「隠されたら、探してたと思う」

「そうやろ。だから、藤崎さんと医師へ話すよう言うた」

水月は西田へ視線を戻した。

「真帆さんも、海斗が休んだとき、何とかしようとした?」

「しました」

「できた?」

「できませんでした」

西田は認めた。

「それで、怒った?」

「たぶん」

水月はうなずいた。

「私も、できんことに腹が立つときがある」

海斗は二人の会話を黙って聞いていた。

自分を支えた二人が、何も迷わず正しいことをしたわけではない。

怒りながら、怖がりながら、できる範囲を探していた。

「僕は、助けられた側だから」

海斗は言った。

「二人が迷ったことまで考えてなかった」

「それでいいんです」

西田が答えた。

「そのときは、自分のことで精いっぱいだったでしょうから」

「でも、今は聞ける」

「では、今度から聞いてください」

「何を?」

「助けてくれてありがとう、だけで終わらずに、大変じゃなかったかを」

海斗はうなずいた。

「分かった」

食後、三人で皿を洗った。

台所は広くない。

水月が洗い、海斗がすすぎ、西田が拭く。

「普段も、こうしてるんですか」

西田が尋ねる。

「毎日ではないよ」

海斗が答えた。

「水月が一人で洗う日もあるし、僕が全部する日もある」

「どちらがするか、決めていないんですか」

「その日の仕事と気分」

水月が答える。

「決めてないこともある」

西田は皿を棚へ戻した。

「海斗さん、決まっていないことに慣れましたね」

「少しだけ」

皿を片づけたあと、三人は居間へ移った。

西田が鞄から紙を一枚出した。

課長代理を引き受ける場合に、会社へ確認したいことを書いていた。

「意見がほしいです」

海斗は紙を受け取った。

「今は?」

「はい。聞いてもらったので、次は一緒に見てください」

条件は五つあった。

課長代理として決定できる範囲。

夜間対応への参加頻度。

現在担当している開発業務を、どこまで手放すのか。

部下が休職した場合の支援体制。

評価期間と、正式な課長になるかを断れる時期。

海斗は一つずつ読んだ。

「足した方がいいと思うのは、相談相手かな」

「相談相手?」

「自分の上司が誰になるのか。判断に迷ったとき、一人で抱えないために」

西田は紙へ書き加えた。

「ほかには?」

「今のまま続けたい仕事は?」

「コードも書きたいです」

「どれくらい?」

「週の半分は」

「その時間を確保できるか、聞いた方がいい」

西田は、開発業務へ使う時間を週の半分と書いた。

「海斗さんなら、引き受けますか」

「僕の答えは参考にならないと思う」

「なぜ?」

「西田さんと僕では、したい仕事も、身体の状態も違うから」

「逃げています?」

「少し」

海斗は正直に答えた。

「無責任に、やった方がいいとも、断った方がいいとも言いたくない」

西田は紙を見た。

「私は、引き受けたいと思っています」

その言葉を口にしたあと、自分で驚いたようだった。

「怖いけれど?」

水月が尋ねる。

「はい」

「条件が受け入れられなかったら?」

「断ります」

「評価が下がるかもしれんよ」

「その会社で、管理職を断っただけで評価が下がるなら、長く働けないと思います」

西田の声は、少しずつ確かになった。

「黒田部長と同じことをするのが怖い気持ちは、なくなりません。でも、怖いと思っていることは、忘れない方がいい気もします」

海斗は紙を返した。

「答えは出た?」

「まだです。会社へ聞いてから決めます」

「それでいいと思う」

夜九時前、西田は潮路へ戻った。

翌朝のバスで、東京へ帰る。

玄関で靴を履き、西田は表札を振り返った。

「海斗さんが伊根に住んでいるのを見ても、まだ少し不思議です」

「僕も、ときどきそう思う」

「東京へ戻りたいと思うことは?」

「会いたい人はいる。行きたい場所もある」

海斗は答えた。

「でも、住みたいとは今は思わない」

「そうですか」

「次は、僕が東京へ会いに行く」

「仕事ではなく?」

「仕事じゃなく」

「無理はしないでください」

「行きたいと思ったら」

「それなら、待っています」

翌朝、海斗と水月は西田をバス停まで見送った。

西田は自分で鞄を持っている。

海斗は手を出さなかった。

「帰ったら、会社へ条件を確認します」

西田が言った。

「返事は急がなくていいんだよね」

「一週間もらっています」

「十分?」

「足りなければ、延ばしてもらいます」

水月がうなずいた。

「それでええと思う」

バスが到着した。

西田は乗り込む前に、二人を見た。

「ありがとうございました」

「また来て」

海斗が言う。

「静波の予約は、自分で取ります」

「それがええ」

水月が答えた。

西田は笑い、バスへ乗った。

窓際の席へ座る。

バスが動き出すと、西田は一度だけ手を振った。

海斗も手を上げた。

水月は隣で見送っている。

バスが見えなくなってから、二人は静波へ向かった。

今日は昼の営業がある。

佐知が先に店へ入り、仕込みを始めているはずだった。

静波へ着くと、入口の前に一人の女性が立っていた。

三十代半ばほどに見える。

旅行鞄を足元へ置き、店の黒板を見ている。

予約の客ではなかった。

水月が声をかけようとすると、戸が内側から開いた。

佐知が立っていた。

白い調理着に、静波の前掛けを締めている。

「ご予約のお客様ですか」

女性は首を振った。

「予約はしていません。食事ができる店を探していて」

佐知は店内を振り返った。

昼の予約は五人だった。

一席だけ空いている。

「本日は日替わりの献立だけですが、それでもよろしければご案内できます」

女性の顔に、安堵が浮かんだ。

「お願いします」

佐知は戸を大きく開けた。

「どうぞ」

水月と海斗は、少し離れた場所からそのやり取りを見ていた。

佐知が二人へ気づく。

一瞬、判断を確認するように水月を見た。

水月は何も言わず、うなずいた。

佐知は客を店内へ案内した。

海斗は、初めて静波へ入った日のことを思い出した。

戸の前で迷い、帰る理由ばかり考えていた自分。

暖簾の内側から現れた水月。

一つだけ空いていた席。

だが、目の前の女性は海斗ではない。

戸を開けたのも、水月ではなかった。

同じ場面が繰り返されたのではない。

この店で、新しい一日が始まっただけだった。

「海斗、仕事は?」

水月が尋ねる。

「午後から」

「じゃあ、家へ戻る?」

「うん」

「昼は?」

「自分で食べる」

水月は静波の戸口へ向かった。

海斗は一人で家へ戻る道を歩き始めた。

振り返らなかった。

店の中には水月と佐知がいて、一人の客を迎えている。

自分のいない場所で、静波の昼が進んでいく。

海斗にも、午後から自分の仕事がある。

それぞれの一日が、同じ町の中で別々に動き始めていた。



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