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『静波の寄せる場所』  作者: 久遠 睦


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24/31

第24章 魚のない日

三月の朝、源治の舟が静波の前へ来なかった。

午前六時を過ぎても、海には薄い霧が残っていた。

水月は店の裏口を開け、何度も湾の方を見た。

いつもなら、五時半から六時の間に小型の漁船が近づいてくる。源治は舟を係留すると、自分で魚の入った箱を運び、裏口の前へ置く。

水月が魚を確かめ、その日の仕入れを決める。

多く獲れた日は、静波で使う分以外を市場へ回す。

漁が少ない日は、魚の種類を見て献立を変える。

二人の間に、長い相談は必要なかった。

「今日は鯛が二尾。鯵は小さい」

「鯛をください。鯵は?」

「つみれなら使える」

「では、全部」

そんな短いやり取りで終わる。

遅れる日もある。

漁場を変えた日や、網に思わぬものが掛かった日は、七時近くになることもあった。

だが、その場合は源治から連絡が入る。

今朝は、何もなかった。

水月は携帯電話を取り出した。

源治へかける。

呼び出し音が続き、留守番電話へ切り替わった。

もう一度かけようとしたとき、美代から着信があった。

「水月さん、源治さんが怪我した」

水月の手に力が入った。

「どこで?」

「舟の上で滑ったらしい。今、宮津の病院へ運ばれてる」

「意識は?」

「ある。頭は打ってないみたいやけど、右手が腫れてるって」

「誰がついてます?」

「漁協の橋本さん。私は今から行く」

「私も行きます」

電話を切ると、厨房へ戻った。

今日の予約は昼に六人。

冷蔵庫には、昨日仕入れた鰆が半身残っている。

六人分には足りない。

煮物と小鉢の仕込みは進んでいる。

魚だけがない。

水月は予約帳を見た。

客へ連絡するべきか。

ほかの漁師へ魚を頼むべきか。

店を閉めるべきか。

考えが一度に浮かび、どれから手をつけるか決められない。

戸口が開いた。

「おはようございます」

佐知が入ってきた。

水月の顔を見ると、すぐに足を止めた。

「何かありました?」

「源治さんが怪我した」

「状態は?」

「手を怪我したらしい。詳しいことは分からん」

「病院へ行くんですか」

「行きたい。でも、今日の予約がある」

佐知は時計を見た。

「お客様へ連絡しますか」

「まだ決めてない」

「魚は?」

「鰆が半身だけ」

佐知は冷蔵庫を開け、鰆を確認した。

「一人分を小さくすれば、六人分にできます」

「そんな出し方はせん」

「主菜ではなく、椀の具にすれば?」

水月は鰆を見た。

一人分ずつ切り分け、焼いて椀へ入れる。

炊いた蕪と合わせれば、量は足りる。

それでも、今日の献立として予約時に伝えたのは、焼き魚だった。

「客に先に説明する」

水月は言った。

「魚の仕入れが変わって、献立を変更する。嫌ならキャンセルしてもらう」

「電話は私がします」

「佐知さんは仕込みをして」

「病院へ行きたいんでしょう」

水月は返事をしなかった。

行きたい。

源治がどの程度の怪我をしたのか、自分で確かめたい。

だが、客への説明を佐知へ任せることに迷いがあった。

予約を受けたのは水月である。

献立を変える判断も、キャンセルへ対応する責任も自分にある。

「電話の内容を決めてください」

佐知は言った。

「私は、そのとおりに伝えます。判断が必要になったら、水月さんへ連絡します」

水月は予約帳を佐知へ渡した。

「今日入る予定だった魚が届かなくなったので、焼き魚を鰆と蕪の椀へ変更する。ほかの料理は予定どおり。変更が嫌なら、キャンセル料は取らない」

「分かりました」

「全員へ連絡できたら、結果を送って」

「はい」

水月は調理着を脱ぎ、上着を着た。

裏口を出る前に、振り返る。

佐知はすでに、一人目の客へ電話をかけていた。

病院へ向かう車の中で、水月は何度も携帯電話を見た。

佐知からの連絡はない。

源治の状態も分からない。

海斗へ電話をかけると、朝の会議前だった。

「源治さんが怪我した」

水月が伝える。

「どこで?」

「舟の上。今、病院へ向かってる」

「水月が運転してる?」

「美代さん」

助手席から答える。

「僕も行こうか」

「仕事があるやろ」

「午前の会議は動かせる」

「まだ状態も分からん。私と美代さんがいるから、今は来んでええ」

海斗は少し黙った。

「分かった。必要になったら連絡して」

「うん」

「店は?」

「佐知さんに頼んだ」

「一人で?」

「昼の営業までには戻る」

「戻れなかったら?」

その質問に、水月はすぐ答えられなかった。

「そのとき考える」

「佐知さんと相談して」

「分かってる」

電話を切る。

美代は前を見たまま、短く言った。

「みんな、同じことを言うね」

「何が?」

「自分だけで決めずに相談せえって」

「海斗は、来たがってた」

「心配なんやろ」

美代は交差点で速度を落とした。

「源治さん、あの性格やから、怪我より舟の心配をしてると思うよ」

病院へ着くと、源治は処置室から出てきたところだった。

右腕に、肘の下まで固定具が巻かれている。

顔には擦り傷があったが、自分の足で歩いていた。

「何しに来た」

水月を見るなり言った。

「怪我したと聞いたから」

「見たら分かるやろ。折れた」

「どこの骨?」

「手首」

付き添っていた橋本が説明した。

港へ戻ったあと、濡れた甲板で足を滑らせた。

転ぶときに右手をつき、手首の骨を折ったという。

手術は必要ない見込みだが、少なくとも六週間は固定する。

漁へ出ることはできない。

「頭は?」

美代が尋ねる。

「打ってへん」

「本当に?」

「医者にも聞かれた」

「舟は?」

水月が尋ねると、源治は不機嫌そうに顔をそむけた。

「橋本が港へ戻した」

「今日の漁は?」

「箱に入ったままや。市場へ運んでもろた」

「静波の分は?」

源治は水月を見た。

「こんな日に店の魚の心配か」

「源治さんが先に舟の話をしたんやろ」

「わしは、舟の持ち主や」

水月は言い返しかけたが、源治の顔色が悪いことに気づいた。

痛み止めを飲んだばかりなのだろう。

額に汗が浮かんでいる。

「今日は家へ帰って休んで」

「言われんでも帰る」

「一人で大丈夫?」

「家まで橋本さんが送ってくれるよ」

美代が答えた。

「私は静波へ戻る」

「店、開けるんか」

源治が尋ねる。

「予約があるから」

「魚は?」

「昨日の鰆を椀にする」

「足らんやろ」

「足りる形に変える」

水月は源治の右腕を見た。

「明日からのことは、あとで考える」

源治は何も言わなかった。

病院を出ると、佐知からメッセージが届いていた。

〈六名全員へ連絡しました。四名は変更を了承。二名は別日へ変更を希望されています。本日は四名です〉

続いて、仕込み中の鍋の写真が送られてきた。

蕪はすでに炊き始めている。

水月は返信した。

〈十一時までに戻ります。ありがとう〉

静波へ戻ると、出汁の香りが店内へ満ちていた。

佐知は鰆を四人分に切り分けている。

「源治さんは?」

「右手首の骨折。六週間は漁に出られん」

「そうですか」

佐知は包丁を置いた。

「今日は四人になりました」

「聞いた」

「鰆は、この大きさで大丈夫ですか」

水月は切り身を確認した。

椀へ入れるには、少し大きい。

「半分にする」

「一人二切れ?」

「そう。炙ってから入れる」

二人で仕込みを進めた。

水月の頭には、翌日のことがあった。

明後日。

来週。

源治が漁へ出られない六週間。

すでに予約は入っている。

静波の献立は、仕入れを見て決める。

海の都合はこちらでは決められない。

何度も客へ話してきた。

だが、その言葉の裏には、源治が魚を持ってくるという前提があった。

漁が少ない日でも、何かは届く。

水月は、そのことを当たり前にしていた。

昼の営業では、客から源治のことを尋ねられた。

今日の献立変更について電話で説明した際、魚が届かない事情を佐知が伝えていた。

「漁師さん、大丈夫ですか」

京都から来た女性が心配そうに言った。

「手首の骨折です。しばらく漁は休みます」

「では、お店もお休みに?」

「まだ決めていません」

水月は椀を出した。

焼いた鰆と蕪。

出汁には、蕪の葉を細かく刻んで浮かべた。

客は一口飲み、うなずいた。

「焼き魚ではなくなったと聞いて、少し残念だと思ったんです」

水月は黙って続きを待った。

「でも、これもおいしいです」

「ありがとうございます」

客の言葉に安堵した自分がいた。

四人が帰ったあと、水月は予約帳を開いた。

明日は休業日。

次の営業日は、昼に六人。

翌日は夜に五人。

魚がなければ、同じ説明をする必要がある。

「ほかの漁師さんに頼めませんか」

佐知が尋ねた。

「聞いてみる」

水月は源治以外の漁師へ、順番に電話をかけた。

一人目は、すでに市場と旅館へ卸す分で余裕がなかった。

二人目は、小さな店へ必要な量だけ分けるのが難しいと答えた。

三人目は、魚種を選ばないなら余った分を回せるが、毎回の約束はできないと言った。

それは当然だった。

漁師には、それぞれの取引先がある。

静波のためだけに、販売の流れを変える理由はない。

「金額を上げたら?」

佐知が尋ねる。

「それだけの話ではない。市場へ出す箱から、静波の分を分けて量を量り、店まで運ぶ手間が増える」

「私たちが港へ取りに行けば?」

「水揚げの時間が毎日違う」

水月は電話のメモを見た。

「源治さんが、店に合わせすぎてくれてたんやと思う」

必要な魚だけを分ける。

店の裏まで運ぶ。

海が荒れた日は、早めに連絡する。

静波の客数に合わせて、量を調整する。

源治は口数が少なく、恩に着せることもしなかった。

だから水月は、それが取引の一部だと思っていた。

「代金は払ってたんですよね」

佐知が尋ねる。

「払ってた」

「運ぶ分も?」

水月は黙った。

魚の価格は、その日の市場価格を見ながら決めていた。

運搬や小分けの手間を、別に払ったことはない。

源治も求めなかった。

「最初に店を始めた頃、客が少なかったから」

水月は言った。

「仕入れすぎんよう、必要な分だけ持ってきてくれた」

「善意だった?」

「たぶん」

「今も?」

「私が、善意のまま続けてもらってた」

水月は帳簿を開いた。

仕入れの記録には、魚の種類と重さ、代金しか書かれていない。

源治が何時に運んだか。

どれだけ手間をかけたか。

その記録はなかった。

翌日、水月と海斗は源治の家を訪ねた。

源治は居間で、右腕を胸の前へ固定していた。

左手で茶を飲もうとして、湯飲みを危うく倒しかける。

水月が手を伸ばすと、源治は睨んだ。

「自分でできる」

「こぼれそうやった」

「こぼれてへん」

海斗は二人の向かいへ座った。

「痛みは?」

「薬が切れたら痛い」

「眠れました?」

「少し」

源治は海斗へ答えたあと、水月を見た。

「店はどうした」

「昨日は開けた。今日は休み」

「明日は?」

「まだ決めてない」

「ほかから魚を買え」

「電話した。毎日は難しい」

「当たり前や。みんな売り先がある」

「分かってる」

水月は帳簿の写しを机へ置いた。

「これまで、店まで運んでもらう手間を、仕入れ代と別に払ってなかった」

源治は紙を見ようともしなかった。

「今、その話か」

「今までの分も払う」

「いらん」

「いる」

「わしが勝手に運んどっただけや」

「私が頼ってた」

「店が始まった頃に、細かい金を取ったら続かんと思っただけや」

「今は客も増えた」

「知ってる」

源治は左手で湯飲みを持った。

「せやから、魚の値段は上げた」

「運ぶ分は?」

「ついでや」

「源治さんにとっては、ついでも仕事やろ」

源治は不機嫌そうに茶を飲んだ。

海斗は口を挟まず、二人のやり取りを聞いていた。

「これからは、運ぶ分も払う」

水月が言う。

「怪我が治って、また漁へ出るなら」

「わしが出る前提で話すな」

源治の声が低くなった。

水月は言葉を止めた。

「六週間で骨がついても、前と同じように右手が動くか分からん。網を引けるかも、魚箱を持てるかも分からん」

源治は固定された腕を見た。

「医者から、そう言われた?」

「年も考えろと言われた」

源治は六十二歳だった。

町には、もっと年上で漁へ出る者もいる。

だが、年齢だけで身体の状態は決まらない。

「漁をやめるん?」

水月が尋ねる。

「今決められるか」

源治は苛立った。

「お前ら、人には急いで決めるなと言うくせに、わしにはすぐ先のことを聞くんやな」

水月は口を閉じた。

その通りだった。

怪我をした翌日に、仕事を続けるか尋ねている。

自分の店の仕入れが不安だから。

「ごめん」

「謝らんでええ」

「今は、治すことだけ考えて」

「それも人に言われたない」

源治は顔をそむけた。

水月は海斗を見た。

海斗はわずかに首を振った。

今は、続きを話すときではない。

二人が帰ろうとすると、源治が呼び止めた。

「陸には言うな」

「もう誰かから聞いてるかもしれんよ」

「わしから言う」

「いつ?」

「今日」

「本当に?」

「電話くらいできる」

右手は使えない。

それでも左手で操作できると言いたいのだろう。

「分かった」

水月は答えた。

その日の夕方、陸から水月へ電話があった。

「じいちゃんが怪我したって」

「聞いた?」

「本人から」

陸の声は強張っていた。

「手首の骨折。手術はせんでええらしい」

「漁は?」

「少なくとも六週間は無理」

「そのあと戻れますか」

「分からん」

電話の向こうが静かになった。

「俺、学校を休みます」

「なぜ?」

「じいちゃん一人で生活できないでしょう」

「美代さんと橋本さんが、交代で様子を見てる。食事も届いてる」

「でも、家族は俺です」

「だから、学校を休む?」

「退学も考えます」

水月は携帯電話を握り直した。

「陸、今どこにいる?」

「寮です」

「今日は授業あった?」

「ありました」

「行った?」

「午前だけ」

「午後は?」

「先生に相談しました」

「何て?」

「家の事情で辞めるかもしれないと」

水月は息を吐いた。

源治が怪我をしてから、まだ一日しか経っていない。

「明日、授業へ行って」

「水月さんに決められたくありません」

「決めてない。今夜、退学を決めるなと言うてる」

「じいちゃんが漁へ戻れなかったら、誰が舟に乗るんですか」

「陸が乗るの?」

「そのために帰ります」

「料理は?」

陸は答えなかった。

「じいちゃんの仕事を継ぐために、料理をやめる?」

「ほかに誰がいるんですか」

「誰がいるかと、陸がしたいかは別やろ」

「したいことだけ選べないときもあります」

その言葉に、水月は胸を突かれた。

陸は子どもではない。

家族の暮らしを考え、自分の選択をしようとしている。

水月が一方的に学校へ残れと言うこともできない。

「退学するなら、必要なことを全部確認してからにして」

水月は言った。

「休学できるか。学費がどうなるか。源治さんが生活で何を必要としてるか。漁協が舟をどうするか。陸が漁へ出る資格や経験が足りてるか」

「経験は、子どもの頃からあります」

「一人で舟を出し、漁をして、魚を売って生活できる?」

陸は黙った。

「帰って手伝うことと、学校を辞めて漁師になることを一緒にせんで」

「じゃあ、どうすればいいんですか」

「今すぐ答えを出さん」

「水月さんは、店の魚がなくても、そう言えますか」

鋭い言葉だった。

水月は返事をしなかった。

静波の魚がなくなることを恐れ、源治へ今後の漁を尋ねたばかりである。

「言えんかった」

水月は認めた。

「今日、源治さんに、漁へ戻るのか聞いて怒られた」

「じいちゃんに?」

「店のことが不安やったから」

「では、俺が戻れば――」

「陸が戻っても、明日から源治さんと同じ漁はできん。それに、静波のために学校を辞めてほしいとは思ってない」

水月は店の六席を見た。

「私も、店をどうするか考える。陸は、明日の授業へ行って、先生に休学の制度を聞いて。それから、週末に帰ってきて」

「じいちゃんは、一人で――」

「今夜は橋本さんが泊まる。美代さんから聞いた」

陸はしばらく黙ったあと、分かりましたと答えた。

翌日の静波は、休業した。

魚が確保できなかったためだった。

入口へ札を出す。

〈本日は仕入れの都合により休業します〉

水月は店の中で、次の営業日の献立を考えた。

魚がない。

正確には、新鮮な魚がない。

棚には、冬に作った鯖のへしこがある。

冷凍庫には、出汁用に焼いた鯛の骨が残っている。

乾燥させた若布。

海苔。

片山澄江から届いた大根、里芋、葱。

卵。

豆腐。

静波で料理を作れないわけではない。

ただ、客が期待する魚料理を出せない。

「漁がない日の献立を作りませんか」

佐知が言った。

「魚なしで?」

「魚を主菜にしない献立です」

「静波へ来る客は、魚を食べに来る」

「全員がそうですか」

「多くは」

「では、先に伝えて選んでもらえばいいと思います」

佐知は食材を調理台へ並べた。

里芋。

大根。

豆腐。

若布。

へしこ。

「へしこは魚やけど」

「新鮮な魚ではありません」

佐知は里芋を持ち上げた。

「これを焼いて、若布の餡をかける。豆腐は揚げて、葱味噌を載せる。へしこは薄く切り、ご飯へ少しだけ」

「旅館の朝食みたいになる」

「それでは駄目ですか」

水月は答えられなかった。

静波らしさとは何か。

新鮮な魚か。

伊根の海か。

自分の出汁か。

六席の客を見ながら料理を出すことか。

一つだけでは決められない。

「試作しよう」

二人で料理を作った。

里芋は皮ごと蒸してから、表面を焼く。

若布を細かく刻み、昆布と干し椎茸の出汁へ加える。

豆腐には重しをして水分を抜き、片栗粉を薄くまぶして揚げる。

葱味噌は佐知が作った。

水月は最初、味噌が強いと言った。

佐知は、ご飯と食べるならこのくらい必要だと答えた。

二人で味を見ながら、砂糖を減らし、柚子の皮を加えた。

料理が並ぶ。

焼いた里芋の若布餡。

揚げ豆腐の葱味噌。

大根とへしこの炊き込みご飯。

卵と海苔の吸い物。

水月は一品ずつ食べた。

魚が主菜ではない。

だが、物足りなくはなかった。

海の香りもある。

「出せる」

水月は言った。

「献立の名前は?」

佐知が尋ねる。

「名前?」

「魚がないことを、どう伝えますか」

水月は黒板を見た。

〈漁のない日の献立〉

そう書こうとして、手が止まった。

源治が怪我をしたから、漁がないわけではない。

ほかの漁師は、今朝も海へ出ている。

静波へ届く魚がないだけだった。

「魚のない日の献立」

水月は書いた。

その下へ、料理を一つずつ記す。

さらに、小さな紙へ説明を書いた。

〈本日は新鮮な魚の入荷がありません。野菜、海藻、保存した魚を使った献立です。ご希望に合わない場合は、ご予約を別の日へ変更できます〉

翌週の予約客へ、一人ずつ連絡した。

六人のうち、二人は魚が入る日へ変更を希望した。

一人はキャンセルした。

三人は、そのまま食べてみたいと答えた。

水月は、その三人のために店を開けることにした。

海斗は、魚の仕入れについて宮下へ相談した。

観光協会には、静波以外の飲食店や宿からも、同じ悩みが届いていた。

漁師ごとに連絡方法が違う。

店側は、誰がどの魚を持っているか分からない。

漁師側は、小口の注文へ一件ずつ対応する時間がない。

「一覧で見られる仕組みを作れませんか」

宮下が尋ねた。

「作ること自体はできます」

海斗は答えた。

「ただ、漁師さんが毎朝入力する前提なら、使われないと思います」

「では、どうすれば?」

「先に、誰が入力するのかを決める必要があります。漁師さんへ新しい作業を増やすなら、その分の対価も」

宮下は少し困った顔をした。

「町のために協力してもらう、という形では難しいでしょうか」

「毎朝続ける仕事を、協力だけで頼むのは難しいと思います」

海斗は、静波へ魚を運んでいた源治のことを考えた。

善意で始めたことが、いつの間にか当然になる。

仕組みを作っても、誰かの無償の手間でしか動かないなら、同じことが起きる。

「僕が一度、漁師さんと店の人へ話を聞きます」

海斗は言った。

「ただし、仕事として依頼してください」

宮下は目を瞬かせた。

「費用が必要ですか」

「話を聞き、必要な形を整理する時間に対してです。システムを作るかどうかは、そのあと決めます」

「相沢さんは、会社員ですよね」

「副業の許可が必要なので、会社にも確認します。難しければ、別の人を紹介します」

宮下は考えたあと、見積もりを出してほしいと答えた。

海斗は家へ戻り、藤崎へ相談した。

地域の小規模な業務整理を手伝うこと。

本業の時間外に、月数時間だけ行うこと。

アトリオシステムズの顧客とは関係がないこと。

藤崎は、会社の規則を確認するよう伝えた。

「体調はどうですか」

「今は、通常の勤務へ戻っています」

「副業を始めることで、勤務時間が増えすぎませんか」

「一か月だけ、調査と提案までにします。開発は、その後改めて判断します」

「相沢さんが自分で開発まで引き受けない可能性も残してください」

「はい」

許可は、条件付きで下りた。

本業の勤務時間外に行う。

週の合計時間を記録する。

夜間や休日に長時間続けない。

体調が悪化した場合は中止する。

海斗は観光協会へ、調査と提案の見積もりを出した。

宮下から正式な依頼書が届く。

町のためだから無料でよいと言わずに済んだことへ、海斗は安堵した。

同時に、金額に見合う仕事をしなければならないという緊張もあった。

「無料の方が、気楽だった?」

水月が尋ねた。

「失敗しても、善意だからと言えるからね」

「でも、頼む側は、無料なら余計に言いにくい」

「うん。だから、仕事にした」

海斗は漁師と飲食店への聞き取りを始めた。

源治も対象に入れた。

「怪我人に仕事の話を聞くんか」

源治は不満そうだった。

「漁へ出られないときに、何を共有できると助かるかを聞きたいんです」

「何もない」

「魚がなくても?」

「魚がなければ、ないと言うだけや」

「誰に?」

「買いに来た人に」

「その人が来る前に分かる方法があれば?」

源治は黙った。

海斗は質問を変えた。

「毎朝、携帯電話へ魚の種類を入力できますか」

「せん」

「電話なら?」

「忙しい」

「漁協の人へ、紙へ書いて渡すのは?」

「水揚げの記録は、もともと出してる」

「その記録から、少量で販売できる魚だけ分けてもらうことは?」

「誰が分ける」

「その作業をする人へ、店側が手数料を払う」

源治は固定具の巻かれた腕を見た。

「それなら、若い者の仕事になるかもしれんな」

海斗はメモを取った。

ほかの漁師からも話を聞いた。

新しいアプリは使いたくない。

海の上で入力する時間はない。

魚種や量を正確に約束できない。

水揚げ後なら、漁協へ提出する記録がある。

小口販売のために箱を分ける作業が負担になる。

代金回収を一件ずつするのも手間だった。

飲食店側からは、毎日同じ魚を求めていないという意見が出た。

余った魚があるなら使いたい。

量が少なくても構わない。

ただし、受け取り可能な時刻と価格を先に知りたい。

海斗は、複雑な仕組みを作らない方がよいと判断した。

漁協の担当者が、水揚げ後に販売可能な魚を一つの表へ入力する。

店は、決められた時刻までに希望を出す。

分配は先着順ではなく、必要量とこれまでの購入量を見て担当者が決める。

店は港へ受け取りに行く。

代金は月末にまとめ、仕分け手数料も加える。

スマートフォンを使えない店には、観光協会が電話で伝える。

海斗が提案を説明すると、宮下は驚いた。

「アプリを作るのではないんですね」

「今ある連絡手段と表で足ります」

「もっと便利なものが必要かと思っていました」

「便利なものを増やすと、覚えることも増えます。毎朝続けられる方が大事です」

漁協と参加する店が、一か月だけ試すことになった。

静波も登録した。

最初の日、水月の携帯電話へ、午前七時過ぎに一覧が届いた。

鯵、三キロ。

小鯛、五尾。

鰆、一尾。

水月は小鯛を二尾希望すると入力した。

二十分後、一尾だけなら分けられると返事が来た。

以前なら、二尾必要だからと別の魚を探したかもしれない。

今は、一尾で作れる献立を考えた。

小鯛は身を蒸し、六人分の椀へ少しずつ入れる。

主菜は、佐知の揚げ豆腐と葱味噌にする。

魚が届いたから、魚を中心に戻すのではない。

手に入った量を、その日の料理へ加える。

港へ魚を受け取りに行くのは、佐知が担当した。

「受け取りの時間も勤務に入りますよね」

出発前に確認する。

「入る。車の燃料代も払う」

「分かりました」

佐知が出ていったあと、水月は仕込みを続けた。

源治の舟が来ない裏口は、まだ寂しかった。

だが、店は開けられる。

源治の代わりになる漁師を一人探したわけではない。

複数の人が、それぞれ無理のない量を出す。

静波も、魚がある日だけ受け取る。

その関係は、以前より手間がかかる。

価格も少し高くなった。

それでも、誰か一人の善意だけへ乗り続けるよりよかった。

週末、陸が伊根へ戻ってきた。

学校を辞める手続はしていなかった。

休学制度と学費について、教員から説明を受けたという。

源治の家へ行く前に、静波へ顔を出した。

「店、開けてるんですね」

「今日は昼だけ」

水月は、魚のない日の献立札と、新しい仕入れの記録を見せた。

陸は一つずつ読んだ。

「じいちゃんがいなくても、魚が入る」

「毎日ではないよ」

「俺が戻らなくても?」

「陸が漁をするために戻ってくる必要はない」

陸は記録帳を閉じた。

「じいちゃんに、学校を辞めると言ったら怒鳴られました」

「何て?」

「俺の舟を勝手に継ぐなって」

水月は源治らしいと思った。

「漁師になってほしくないんですかね」

「それは、本人に聞いて」

「聞いても答えません」

「何回か聞いたら」

「水月さんは聞いてくれないんですか」

「聞かん」

水月ははっきり答えた。

「陸と源治さんの話やから」

陸は不満そうに口を閉じた。

「今夜、もう一回聞きます」

「うん」

「休学はしないことにしました」

「決めた?」

「じいちゃんの生活は、今のところ一人でも大丈夫だと聞きました。美代さんたちもいるし、必要なら週末に帰れます」

「学校は?」

「続けたいです」

陸は自分の意思として言った。

「それなら続けたらええ」

「もし、じいちゃんが漁をやめたら?」

「そのとき、また考える」

「静波は?」

「そのときの仕入れで料理を作る」

陸は厨房の中を見た。

流し台の脇には、陸の籠が残っている。

「春休みに働けますか」

「日程を先に送って。佐知さんとも調整する」

「はい」

「学校の課題は?」

「あります」

「終わらせてから」

「分かってます」

陸は笑った。

その夜、源治と陸は長く話した。

翌朝、陸が海斗へ内容を話した。

源治は、漁師になること自体を反対しているわけではなかった。

ただし、料理をやめる理由として、自分の怪我を使うなと言った。

「漁師になるなら、俺が怪我したからではなく、自分で決めてなれって」

陸は言った。

「それから、舟はすぐに渡さないそうです」

「どうして?」

「俺一人で漁に出せる状態ではないから。漁協で働きながら覚える方法もあるって」

「料理は?」

「学校を出てから考えろと言われました」

陸は海を見た。

「何でも、すぐ決めるなって言われます」

海斗は笑った。

「みんなに同じことを言われるね」

「でも、先延ばしとは違うんですよね」

「何も調べずに待つのは、先延ばしかもしれない。調べている途中なら、まだ決めていないだけだと思う」

陸はその言葉を考えた。

「海斗さんは、東京へ戻るか決めるのに、どれくらいかかりました?」

「戻るかではなく、辞めるかを決めるのに?」

「はい」

「何か月かかったかな」

「長いですね」

「もっとかかってもよかったと思う」

海斗は、初めて伊根へ来た頃を思い出した。

すぐに仕事を辞めて、この町へ移りたいと考えた。

水月に、逃げるために来るなと言われた。

あのときは厳しいと思った。

今なら、止めてもらった意味が分かる。

三月の終わり、源治の固定具が外れた。

手首はまだ固く、重いものは持てない。

週に二度、病院で動かす練習をする。

源治は、港まで歩くようになった。

舟へ乗ろうとすると、橋本から止められた。

「見るだけや」

「乗ったら網を触るやろ」

「触らん」

「信用できん」

二人の言い合いを、水月と海斗は少し離れた場所から見ていた。

源治は結局、岸から舟を眺めた。

「店はどうや」

水月へ尋ねる。

「開けてる」

「魚は?」

「今日は鯵が入った」

「いくらやった」

水月が価格を答えると、源治は鼻を鳴らした。

「高い」

「仕分けと受け取りの手間も入ってる」

「わしから買うより高いやろ」

「源治さんにも、次から運ぶ手間を払う」

「まだ戻ると決めてへん」

「戻ったら、の話」

源治は海を見た。

「週に二日くらいなら、出るかもしれん」

「医者は?」

「まだあかんと言うとる」

「なら、今は出んといて」

「お前に決められたない」

「決めてへん。医者の話を聞けと言うてる」

源治は返事をしなかった。

海斗が尋ねた。

「漁へ戻るとしても、前と同じ量ではなく?」

「右手が動くようになってからや」

「静波へ運ぶのは?」

「港へ取りに来い」

水月はうなずいた。

「そうする」

「運び賃は、いらん」

「運ばないなら払わん」

源治が水月を見る。

二人とも少し笑った。

四月の最初の木曜日、静波には新鮮な魚が入らなかった。

一覧には、店へ分けられる魚が一つもなかった。

水月は店を閉めなかった。

予約していた四人へ連絡する。

魚のない日の献立になると説明する。

一組の夫婦は、そのまま食べたいと答えた。

もう一組も、変更しなくてよいと言った。

昼、六席のうち四席へ客が座った。

水月と佐知は、里芋を焼き、豆腐を揚げる。

海苔と卵の吸い物を作る。

へしこは、ご飯へ少しだけ混ぜた。

「今日、お魚は本当にないんですね」

客の一人が言った。

「はい。新鮮な魚の入荷はありません」

水月は答えた。

「海の町なのに、そういう日もあるんですか」

「あります」

「残念ではないと言えば嘘になります」

客は笑った。

「でも、来る前に聞いていたので。今日は、こういう日だと思って来ました」

佐知が焼き里芋の若布餡を出した。

客は箸を入れる。

里芋の表面は香ばしく、中は柔らかい。

若布の香りが出汁へ広がっている。

「魚がなくても、海の匂いがしますね」

佐知は短く頭を下げた。

厨房へ戻ると、水月が次の皿を渡した。

「今の料理、佐知さんが運んで」

「私が?」

「試作したのは佐知さんやから」

献立札には、名前が書いてある。

〈焼き里芋の若布餡 考案・川原佐知/調整・相沢水月〉

佐知は皿を受け取った。

客席へ出る。

水月は、その背中を見送った。

源治の魚がない日。

陸がいない日。

海斗が店にいない日。

それでも静波は開いている。

一人で続いているのではない。

佐知がいる。

漁協で魚を分ける者がいる。

片山が野菜を届ける。

宮下が電話を受ける。

客が、魚のない献立を選んで来る。

誰かが欠けても何も変わらない店ではない。

欠ければ、確かに変わる。

献立も変わる。

仕事の分け方も変わる。

それでも、その日の材料と、その日にいる人で、出せる料理を考える。

営業後、水月は黒板を拭いた。

〈魚のない日の献立〉という文字が、布巾の下で少しずつ消えていく。

明日は、鯵が入る予定だった。

だが、海が荒れれば変わる。

予定どおり届くかは、朝にならなければ分からない。

水月は、翌日の魚料理を黒板へ書かなかった。

代わりに、小さく一文だけ残した。

〈献立は、朝の海と畑を見て決めます〉

佐知がその文字を見た。

「予約のお客様から、料理を聞かれませんか」

「聞かれると思う」

「何と答えます?」

「決まってないと答える」

「不安になりませんか」

「なる人もいる」

水月は黒板を店の前へ戻した。

「決まった料理が食べたい人には、合わん店かもしれん」

「それでもいい?」

水月は少し考えた。

「合わない人を増やしたいわけじゃない。でも、できない約束はせん」

戸を閉めると、外は夕暮れだった。

海斗が店の前で待っている。

「終わった?」

「今」

「今日、魚なしだったんだよね」

「うん」

「どうだった?」

「全部食べてもらえた」

二人は家へ向かって歩いた。

港の方を見ると、源治が橋本と並んで舟を見ている。

右手は、まだ胸の前へ置かれていた。

完全に元へ戻ったわけではない。

漁へ戻るかも決まっていない。

海斗が関わった仕入れの仕組みも、試行期間が終われば見直される。

静波の魚のない献立が、客へ定着するかも分からない。

決まっていないことが、いくつもあった。

「明日は何が入る?」

海斗が尋ねる。

「鯵の予定」

「予定?」

「入らんかもしれん」

「そのときは?」

「今日の残りの里芋がある」

「同じ料理?」

「少し変える」

「どう変えるの?」

「朝、考える」

水月はそう答え、海斗より半歩先を歩いた。

風は冷たかったが、春の匂いが混じり始めていた。

海は、誰の予定にも従わず、暮れかけた空の色を映していた。


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