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『静波の寄せる場所』  作者: 久遠 睦


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第25章 選ぶ仕事

源治が怪我をしてから、一年が過ぎた。

右手首には、今も動かしにくさが残っている。

以前のように毎朝漁へ出ることはなくなった。

天候と身体の状態を見ながら、週に一度か二度だけ舟を出す。重い網を一人で引く漁はやめ、橋本や若い漁師と一緒に出るようになった。

静波へ魚を運ぶことも、ほとんどない。

水揚げされた魚は、漁協の担当者が一覧へ載せる。水月と佐知が必要な魚を申し込み、自分たちで港へ取りに行く。

源治の魚も、その中へ混じる。

名前が書かれているわけではない。

それでも、箱の中の鯛を見ると、水月には源治が獲ったものだと分かることがあった。

網の跡。

魚の並べ方。

鱗の残し方。

長く受け取ってきたため、言葉がなくても手の癖が見える。

ある朝、港で魚を選んでいると、背後から源治の声がした。

「その鯛は、身が薄い」

水月が振り返る。

源治は左手に魚箱を持ち、右手を添えるようにして立っていた。

「源治さんの?」

「違う」

「なら、なぜ分かるん?」

「見たら分かる」

源治は箱の奥にある別の鯛を指した。

「そっちにせえ。昨日、沖で獲れたやつや」

「同じ値段?」

「知らん。漁協に聞け」

水月は二尾を見比べた。

源治が示した方は、腹に厚みがある。

「今日は、こっちにする」

「最初からそうせえ」

源治は自分の魚箱を運び始めた。

以前より歩く速度は遅い。

水月が持とうとすると、睨まれることが分かっているため、手は出さなかった。

「無理してない?」

代わりに尋ねる。

「しとらん」

「痛みは?」

「ある」

源治は正直に答えた。

「痛いなら、休んだら?」

「今日は出たかった」

「誰かに言われた?」

「自分で決めた」

水月はそれ以上言わなかった。

店へ戻ると、佐知が出汁を引いていた。

静波で働き始めて、間もなく二年になる。

最初は週二日だった勤務が、今は週三日になっている。

火曜日と金曜日、それに隔週の日曜日。

試作の日や繁忙期には、本人と相談して一日追加することもある。

営業を任せる範囲も増えた。

水月が仕入れへ行っている間、佐知が開店準備を進める。

予約の確認もする。

自分で考案した料理なら、最初から最後まで担当する。

それでも、静波の席は六つのままだった。

営業日も、週四日を基本にしている。

京都の催しの直後ほど予約が集中することはなくなったが、二週間先まで埋まる日も多い。

魚のない日の献立を希望して来る客もいた。

店の売り上げは、急に増えてはいない。

大きく減ってもいない。

佐知へ賃金を払い、食材と光熱費を支払い、水月が生活費を家へ入れる。

六席の店として、無理なく続く範囲に落ち着いていた。

「今日の鯛、どちらの船ですか」

佐知が尋ねた。

「橋本さんのところ。源治さんに選ばれた」

「浜田さんは、今日出たんですか」

「出たみたい」

水月は鯛を調理台へ置いた。

「手は?」

「痛いと言うてた」

「それでも出た?」

「出たかったらしい」

佐知は鯛を確かめた。

「人に言われて休むことと、自分で休むことは違いますね」

「佐知さん、最近よく休んでる?」

「休みの日は休んでいます」

「ホテルにいた頃は?」

「休みの日も、昼まで寝て終わることが多かったです」

「今は?」

「洗濯をして、料理を作ります」

「休みの日にも?」

「自分で食べる料理です」

水月は鯛へ包丁を入れた。

佐知が家で何を作っているのか、水月は詳しく聞かなかった。

店へ出す料理ではない。

本人が食べるための料理なら、報告する必要はない。

午前十時過ぎ、静波の戸が開いた。

陸が入ってきた。

春休みには、まだ少し早い。

「今日、学校は?」

水月が尋ねる。

「休みです。卒業制作の翌日なので」

陸は二十歳になっていた。

背が伸びたようには見えない。

だが、顔つきが変わっている。

調理師学校の実習と、京都市内の店での研修を重ね、手には細かな火傷の跡が増えた。

「昨日が卒業制作?」

「はい」

「何を作った?」

「鰆と蕪の椀です。蕪は焼いて、鰆は低い温度で火を入れました」

「評価は?」

「悪くなかったです」

「悪くなかった?」

「上から三番目でした」

佐知が振り返った。

「十分、よい評価では?」

「一番を取りたかったので」

陸は鞄をカウンターへ置いた。

「今日、話したいことがあります」

水月は包丁を止めた。

「今?」

「営業後でいいです」

「大事な話?」

「大事です」

水月は時計を見た。

仕込みには、まだ余裕がある。

「十分なら、今聞く」

陸はカウンターへ座った。

緊張しているのか、両手を膝へ置いている。

「三月で学校を卒業します」

「うん」

「卒業したあと、静波で働かせてください」

水月はすぐに返事をしなかった。

予想していなかったわけではない。

陸は長期休暇のたびに静波へ戻り、働いてきた。

自分が試作した料理も残っている。

流し台の脇には、今も陸の籠が置かれている。

それでも、卒業後の進路について、本人から具体的な話を聞いたことはなかった。

「正社員として?」

「はい」

「週に何日働きたい?」

「店が開いている日は全部。仕込みの日も」

「給料は、いくら必要?」

陸は口を開きかけ、止まった。

「相場が分かりません」

「家は?」

「じいちゃんの家から通います」

「社会保険は?」

「……考えてませんでした」

水月は鯛から手を離した。

「静波では、今、正社員を募集してない」

陸の表情が固まった。

「でも、俺はずっとここで働いてきました」

「休みの間だけ」

「料理も残っています」

「それと、雇えるかは別」

「一度も、卒業したら雇わないと言われませんでした」

「雇うとも言ってない」

水月の声が、思ったより冷たく響いた。

佐知は鍋の前で、動きを止めている。

陸は水月を見た。

「俺が必要ないんですか」

「必要かどうかで雇うんじゃない」

「では、何で決めるんですか」

「仕事があるか。給料を払い続けられるか。今いる人の勤務がどうなるか」

水月は帳簿を置いている棚を見た。

「静波に、三人が常勤で働く仕事はない」

「席を増やせば?」

「増やすつもりはない」

「営業日を増やしたら?」

「私が増やしたくない」

「俺が働きたいと言っても?」

「陸を雇うために、店の形を変えるつもりはない」

陸の顔から血の気が引いた。

水月の中にも痛みがあった。

だが、期待を持たせる言葉は言えなかった。

「分かりました」

陸は立ち上がった。

「卒業制作の料理を見てもらおうと思って、材料も持ってきましたけど、今日は帰ります」

「料理と仕事の話は別やろ」

「俺には別に思えません」

陸は鞄を持ち、店を出た。

戸が閉まる。

厨房に、鍋の沸く音だけが残った。

佐知は火を弱めた。

「追いかけなくていいんですか」

「今は、何を言っても同じやと思う」

「私が辞めれば、陸さんを雇えますか」

水月は佐知を見た。

「なぜ、佐知さんが辞める話になるん?」

「三人分の仕事がないなら」

「ないよ。でも、先に働いてる人が辞めれば解決する話にはせん」

「私は正社員ではありません」

「だから?」

「陸さんは、ここで育った人です」

「佐知さんも、ここで二年働いてる」

「同じではありません」

「同じにする必要はない」

水月は包丁を握り直した。

「陸には陸の仕事があった。佐知さんには佐知さんの仕事がある。どちらかが相手へ場所を譲る話ではない」

「でも、陸さんは傷ついていました」

「分かってる」

「水月さんも、つらそうです」

「それも、雇う理由にはならん」

水月は鯛へ刃を入れた。

手元へ集中しようとしても、陸の表情が浮かぶ。

ずっとここで働いてきた。

料理も残っている。

雇わないとは言われなかった。

陸にとって、静波は卒業後に戻る場所になっていたのだろう。

水月は、そう考えたことがなかった。

長期休暇に働く日を決める。

賃金を払う。

試作した料理に名前を残す。

それだけで十分だと思っていた。

だが、籠を置いたままにし、帰るたびに仕事を渡した。

陸が、その先も自分の場所があると考える余地はあった。

昼の営業を終えたあと、水月は帳簿を開いた。

佐知も隣へ座る。

「陸さんを雇う場合の計算ですか」

「一応」

水月は、三人分の勤務時間を仮に書いた。

現在の売り上げから、食材費と経費を引く。

水月の生活費。

佐知の賃金。

そこへ陸の月給と保険料を加える。

数字は、すぐに赤字になった。

営業日を一日増やした場合。

夜営業を週三回へ増やした場合。

席を八席へ増やした場合。

いずれも、売り上げが予定どおり増える前提なら、陸を雇うことはできる。

だが、魚が入らない日や客が少ない月を考えると、余裕がなくなる。

水月か佐知が休めば、営業を維持するために陸が長く働くことになる。

「店を大きくしたくないのは、陸さんを雇えないほど大事ですか」

佐知が尋ねた。

責める声ではなかった。

水月自身も、同じことを考えていた。

六席を守るために、陸の希望を断る。

それは、自分のこだわりを誰かへ押しつけることではないか。

「分からん」

水月は答えた。

「前は、六席より増やしたくないとはっきり思ってた」

「今は?」

「陸に言われたから増やすなら、違うと思う」

「では、陸さんが言わなかったら?」

水月は六つの椅子を見た。

忙しい日でも、客一人ひとりの様子が見える。

佐知が加わり、二人で料理を出すようになっても、その距離は変わっていない。

営業日を増やしすぎたとき、水月は判断を誤りかけた。

休むために、週四日へ戻した。

店を大きくすれば、売り上げも仕事も増える。

だが、自分が作りたい料理と暮らしが守れるとは限らない。

「陸が言わなくても、今は増やしたくない」

水月は言った。

「なら、答えは変わりませんね」

「変わらん」

「でも、伝え方は変えられるかもしれません」

佐知の言葉に、水月は帳簿を閉じた。

その夜、水月は陸へ電話をかけた。

出なかった。

短いメッセージを送る。

〈今日の話を、もう一度したい。雇用の返事は変わらないけれど、説明が足りなかった〉

既読はつかなかった。

家へ帰ると、海斗も仕事の資料を食卓へ広げていた。

「何かあった?」

水月の顔を見て尋ねる。

「陸に、卒業したら静波で働きたいと言われた」

「どう答えた?」

「正社員は募集してない。三人分の仕事もないと」

「陸は?」

「怒って帰った」

水月は上着を脱ぎ、椅子へ座った。

「私が、帰る場所があると思わせたんかもしれん」

「働く約束をした?」

「してない」

「なら、水月だけの責任ではないと思う」

「でも、卒業後にどうするか、一度も聞かなかった」

水月は手を組んだ。

「長期休みに戻ってくるたび、次も来ると思ってた。陸がどこで働きたいか、何を考えてるか、聞かんかった」

「陸も言わなかった」

「言わなくても、私は雇う側やった」

海斗は紙を片づけた。

「意見がほしい?」

「ほしい」

「正社員として雇えないなら、それは変えなくていいと思う」

水月は黙って聞いた。

「ただ、静波で働けないことと、陸の料理人としての価値は別だと伝えた方がいい」

「言うたつもりやった」

「伝わってない」

「どう言えばええ?」

「僕が文章を作る話ではないよ」

「分かってる」

水月は少し苛立った。

海斗はそれ以上続けず、湯を沸かした。

茶を二つ置いてから、自分の資料を水月へ見せた。

「僕も今日、仕事の話をされた」

「何の?」

「エンジニアリングマネージャーにならないかって」

「今より上の役職?」

「役職としては」

「引き受けるん?」

「まだ返事してない」

資料には、新しい役割の説明があった。

十人ほどの技術者をまとめる。

採用面接。

評価。

複数案件の人員配置。

顧客との予算調整。

コードを書く時間は、今の三分の一ほどになる。

「給料は上がる?」

「上がる」

「したい仕事?」

「分からない」

「三浦さんの評価もしてるやろ」

「一人や二人なら、今の仕事の中でできる。でも、十人の評価と配置が中心になると、技術の仕事から離れる」

「前の会社でも、昇進の話を断ったね」

「うん」

「今回も、断りたいだけ?」

「前と同じ理由なのか、自信がない」

海斗は湯飲みへ口をつけた。

「体調を理由に、新しい仕事から逃げてるのかもしれないと思う」

「逃げたらあかんの?」

「したいのに怖くて断るなら、あとで後悔するかもしれない」

「したくないなら?」

「断っていいと思う」

水月は資料を読んだ。

「海斗は、人の仕事を決めたい?」

「決めたいとは思わない」

「人を育てたい?」

「一緒に仕事をして、できることが増えるのを見るのは嬉しい」

「管理だけするのは?」

「たぶん、したくない」

「なら、答えは出てるんと違う?」

「技術の仕事だけを続けると、この先、昇給の幅が小さくなる」

「家のローン?」

「それも少しある」

水月は資料を机へ戻した。

家を買ったあと、二人は働きすぎた。

止まることを覚えたはずだった。

それでも、収入が増える話を前にすると、断ってよいのか迷う。

「私も、店を広げたら陸を雇える」

水月は言った。

「でも、広げたいからではなく、陸を断りたくないから考えた」

「僕も、管理職をしたいからではなく、断って収入が増えないことが怖い」

「似てるね」

「似てる」

二人はしばらく黙った。

「海斗は、誰かに条件を相談する?」

水月が尋ねる。

「藤崎さんに、管理職ではない昇進の道があるか聞く」

「そんなものがあるん?」

「専門職として役割を上げる制度を、会社が検討してると聞いたことがある」

「まだ決まってない?」

「決まってない」

「なら、聞いてみたら」

「水月は?」

「陸が働ける店を探す」

海斗が眉を寄せた。

「陸に頼まれてないよね」

「そうやね」

「先に、本人が何をしたいか聞いた方がいい」

「静波で働きたいと言うた」

「静波でしか働きたくないのか。伊根へ戻りたいのか。水月から学びたいのか。それぞれ違う」

水月は陸との会話を思い返した。

働かせてください。

それ以上、理由を聞かなかった。

雇えるかどうかだけを考えた。

「明日、もう一回連絡する」

「出なかったら?」

「待つ」

翌朝、陸から返信が届いた。

〈明日の午後なら話せます。静波へ行きます〉

水月は短く、分かったと返した。

翌日、陸は約束の時刻に来た。

前回持ってきた鞄も一緒だった。

「この前は、途中で帰ってすみませんでした」

「私も、言い方が悪かった」

二人はカウンターを挟まず、窓際の席へ向かい合って座った。

佐知は休みだった。

「雇えないという返事は変わらん」

水月は最初に言った。

陸の顔が固くなる。

「でも、理由を説明したい」

水月は帳簿から写した数字を見せた。

店の売り上げ。

営業日。

佐知の勤務。

新しく正社員を一人雇った場合の費用。

陸は黙って数字を追った。

「店を広げれば、可能性はある」

水月は言った。

「でも、私は今、店を広げたいと思ってない。陸を雇うためだけに席と営業日を増やせば、その負担が陸へも行く」

「忙しくても働きます」

「何時間?」

「必要なら」

「その答えでは雇えん」

陸は水月を見た。

「働く時間も、給料も、休みも分からんまま、必要なら働くと言う人を雇ったら、私が止めん限り働き続ける」

「料理人なら、忙しい時期はあります」

「ある。でも、終わる時期も決めずに続けるのは違う」

水月は以前の海斗を思い出した。

忙しい時期だから。

ここを越えれば落ち着くから。

終わりのない言葉だった。

「陸に聞きたい」

水月は数字の紙を脇へ置いた。

「なぜ静波で働きたい?」

「水月さんから、もっと料理を教わりたいからです」

「それだけ?」

陸は考えた。

「自分の料理が、ここにあるから」

「つみれ?」

「はい」

「料理があるから、働く場所もあると思った?」

「思いました」

「そこは、私が先に話しておくべきやった。料理に名前を残すことは、雇用の約束ではない」

「分かりました」

陸は苦しそうに答えた。

「ほかには?」

水月は待った。

陸は窓の外へ視線を向けた。

「じいちゃんの近くにいたいです」

「漁を手伝うため?」

「それもあります。でも、怪我をしてから、いつまで元気か分からないと思うようになりました」

「京都にいたら、心配?」

「はい」

「伊根へ戻れば、料理人として何をしたい?」

陸は答えに詰まった。

静波で働くこと以外、具体的に考えていなかったのだろう。

「学校から、就職先の紹介は?」

「二つあります」

「どこ?」

「一つは京都の料亭。もう一つは、宮津のホテルです」

「研修へ行った店は?」

「京都の料亭です。季彩堂という店です」

「誘われた?」

「卒業後に来ないかと言われました」

「断った?」

「まだです」

「なぜ私に言わなかった?」

陸は俯いた。

「静波へ戻るつもりだったから」

「季彩堂では、何を任される?」

「最初は仕込みです。魚の下処理と、野菜の掃除。勤務は朝八時から夜八時までですが、途中に休憩があります」

「休みは?」

「月八日」

「給料は?」

陸は金額を答えた。

高くはない。

だが、住居手当と食事がつく。

残業代についても説明を受けているという。

「働きたい?」

水月が尋ねる。

「研修は楽しかったです」

「つらかったことは?」

「同じ仕込みを何日もしました。自分で料理を作る時間はほとんどありません」

「それでも?」

「魚の扱いは、もっと覚えたいです」

水月はうなずいた。

「季彩堂へ行けとは言わん。静波へ戻るなとも言わん」

「でも、働けないんですよね」

「今は正社員としては雇えん」

「今は?」

陸が顔を上げた。

その言葉へ希望を見つけようとしている。

水月は、曖昧にしてはいけないと思った。

「何年後なら雇う、とも約束できん。店の状態も、佐知さんの仕事も、陸の考えも変わるから」

陸の表情が再び曇った。

「戻ってきたら、そのとき話す。仕事があれば条件を出す。なければ断る」

「厳しいですね」

「約束できんことを、できると言うよりはええ」

陸はしばらく黙った。

「卒業制作の料理、食べてもらえますか」

「もちろん」

陸は鞄を開いた。

中には、下処理した鰆と蕪、昆布、調味料が入っていた。

「厨房を借ります」

「勤務ではないよ」

「分かっています。今日は、自分の料理を食べてもらうために来ました」

水月は厨房を明け渡した。

陸は調理着へ着替え、手を洗った。

蕪を厚く切り、炭火で焼く。

表面へ焦げ目をつけ、昆布出汁で柔らかくなるまで炊く。

鰆には薄く塩を振り、低い温度の油で火を入れた。

以前の陸なら、魚を中心に据えただろう。

今日は、椀の底へ蕪を置き、その上へ鰆を重ねている。

出汁を注ぐ。

最後に、刻んだ蕪の葉を散らした。

「どうぞ」

水月は椀を持った。

最初に出汁を飲む。

昆布の味が柔らかい。

蕪には焼いた香りが残り、鰆の脂が出汁へ溶けている。

「魚の火入れ、習ったん?」

「季彩堂で」

「蕪を焼くのは?」

「静波の魚のない日の献立を思い出しました」

水月は鰆を食べた。

身は崩れず、中心まで温かい。

「おいしい」

「直すところは?」

「出汁が少し弱い」

陸の顔が固くなりかける。

水月は続けた。

「でも、学校の先生が何を意図してこの濃さにしたのか、聞きたい」

「鰆の脂を重くしないためです」

「なら、この濃さでもええ。ただ、蕪の甘さが強いから、椀の後半で味がぼやける」

「どうすれば?」

「私なら、蕪の葉を塩漬けにして、少しだけ塩気を足す」

陸は自分でも食べた。

「試していいですか」

「自分で決めて」

陸は残った蕪の葉へ塩を振った。

二つ目の椀を作る。

味が締まった。

「こっちの方がいいです」

陸が言う。

「うん」

「この料理、静波で出せますか」

「今日は出さん。予約の客はいないから」

「今後は?」

水月はすぐに答えなかった。

「陸が、どこで出したいか決めて」

「季彩堂へ行ったら、自分の料理はすぐに出せません」

「静波へ戻っても、必ず出せるとは限らん」

「では、どこで?」

「それを探すのが、仕事を選ぶことやと思う」

陸は二つの椀を見た。

「静波で働けないなら、この料理を作った意味がないと思っていました」

「作ったことは残る」

「どこに?」

「陸の手に」

水月は答えた。

「店へ名前を書かれんでも、次に作るとき、今日の火入れと味は残る」

陸は、自分の手を見た。

「料理の名前を残すことと、店に残ることは同じじゃないんですね」

「同じではない」

「少し寂しいです」

「私も」

水月は正直に言った。

「雇えないと言うのは、寂しい」

陸は目を伏せた。

「それなら、雇ってくれたらいいのに」

「それはできん」

二人は、少しだけ笑った。

海斗は藤崎へ、管理職の打診について話した。

「人の評価や支援をしたくないわけではありません」

海斗は言った。

「ただ、それだけを中心にする仕事は、今の自分が続けたい役割ではありません」

「では、断りますか」

「条件を変えられるなら、検討したいです」

藤崎は海斗の言葉を待った。

「技術の仕事を半分以上残したいです。評価する人数は、最初は四人まで。採用や予算の責任は、今すぐには持ちたくありません」

「会社が想定している管理職とは、少し違いますね」

「分かっています」

「給与の上がり幅も、小さくなる可能性があります」

「それでも構いません」

口にすると、不安はあった。

住宅ローン。

修理費。

将来の生活。

収入は多い方がよい。

だが、身体を崩さず働き続けられなければ、金額だけ上がっても意味がない。

「会社では、専門職の等級を作る話も進んでいます」

藤崎は言った。

「まだ正式ではありませんが、技術リードとして複数チームを支援する役割です。部下の評価は持たず、設計と育成を担当する」

「いつ決まりますか」

「早くて半年後です」

「それまで、今の役割を続けられますか」

「管理職の打診を断るなら、続けられます」

海斗はその場で返事をしなかった。

一週間、考える時間をもらった。

西田へ相談しようとも思った。

だが、彼女ならどうするかを聞いても、自分の答えにはならない。

水月にも、すでに話した。

最後は、自分で決める必要がある。

海斗は、管理職の打診を断った。

同時に、専門職の制度ができた場合には、候補として検討してほしいと伝えた。

藤崎は了承した。

「断って、どうですか」

面談の最後に尋ねる。

「少し不安です」

「後悔?」

「今は、違います」

「半年後、制度ができなかったら?」

「そのとき、また考えます」

面談を終えたあと、海斗は水月へ連絡した。

〈管理職は断りました。今の技術リードを続けます〉

水月から返事が来た。

〈分かった。今日は鰆と蕪の椀がある〉

〈新しい献立?〉

〈陸の卒業制作〉

〈食べていいの?〉

〈本人に聞いて〉

その夜、陸は海斗のために、もう一度椀を作った。

蕪の葉の塩漬けを加えた方だった。

海斗は出汁を飲み、鰆を食べた。

「おいしい」

「それ以外の感想は?」

陸が尋ねる。

「水月にも同じことを聞いた?」

「聞きました」

「僕は料理人じゃないから、客としてしか言えない」

海斗はもう一口飲んだ。

「また食べたいと思う」

陸の表情が少し緩んだ。

三人は家の食卓へ座っていた。

静波ではなく、海斗と水月の家だった。

佐知も呼びたかったが、今日は都合が合わなかった。

「就職、どうするの?」

海斗が尋ねる。

「季彩堂へ、もう一度話を聞きに行きます」

「聞くことは決めてる?」

陸は手帳を出した。

勤務時間。

残業。

休日。

最初の一年で任される仕事。

自分の料理を試作する機会。

寮の費用。

研修期間。

辞める場合の手続。

「ずいぶん増えたね」

「水月さんに聞かれたことを、全部書きました」

「源治さんは?」

「京都へ行けと言ってます」

「寂しいとは?」

「言いません」

「聞いた?」

「聞きました」

陸は苦笑した。

「寂しいけど、帰ってくるなと言われました」

水月が尋ねる。

「帰ってくるな?」

「三年は、簡単に戻るなって。嫌なことがあった日だけで辞めるな。でも、身体を壊す前には帰れ、だそうです」

「難しい注文やね」

「はい。どこが境目か分かりません」

海斗は言った。

「一人で決めないことじゃないかな」

「誰に相談すれば?」

「学校の先生。店の先輩。水月。源治さん。相談する相手は、一人でなくていい」

陸は手帳へ書き加えた。

〈相談相手を決める〉

「そこまで書く?」

水月が言う。

「忘れるので」

海斗は笑った。

数日後、陸は季彩堂を訪れた。

店主と料理長へ、自分が確認したい条件を一つずつ尋ねた。

自分の料理をすぐに出すことはできない。

最初の一年は、仕込みと焼き場の補助が中心。

ただし、月に一度、若手が試作を出す時間がある。

勤務は早番と遅番に分かれ、通しで十二時間働くのは月に数回。

残業代は記録する。

休日は月八日。

体調が悪いときの連絡先も決まっていた。

すべてが陸の希望どおりではない。

それでも、曖昧なままではなかった。

陸は、季彩堂で働くことを決めた。

契約は、まず二年間。

その先は、働きながら考える。

水月へ電話で伝えると、彼女は「分かった」とだけ答えた。

「それだけですか」

陸が不満そうに言う。

「おめでとうと言うところ?」

「普通は」

「まだ働いてないやろ」

「決めたことに対しては?」

水月は少し考えた。

「自分で条件を聞いて決められたのは、よかったと思う」

「ありがとうございます」

陸の声が明るくなった。

「卒業したら、静波で一日だけ働けますか」

「仕事?」

「はい。給料もください」

「いつ?」

日程を決めた。

卒業式の三日後。

午前九時から午後四時。

料理は、陸の鰆と蕪の椀を出す。

献立札には、陸の名前を記す。

その日は六席すべてが予約で埋まった。

客は、源治と美代、片山、宮下、吉岡夫婦だった。

身内の祝いだけにはしない。

全員、料理の代金を払う客として座った。

源治は一番端の席へ座り、右手で湯飲みを持っている。

以前より動くようになったが、手首を完全には曲げられない。

陸は厨房で鰆を扱った。

水月は口を出さない。

佐知が蕪の下処理を手伝う。

「火入れ、八分ですか」

佐知が尋ねる。

「今日の鰆は厚いので、九分にします」

「温度は?」

「昨日と同じ」

「分かりました」

二人のやり取りを、水月は出汁を引きながら聞いていた。

椀が完成する。

鰆と、焼いた蕪。

蕪の葉の塩漬け。

透明な出汁。

陸が一人ずつ客へ運んだ。

最後に、源治の前へ置く。

「鰆と蕪の椀です」

源治は椀を見た。

「魚が小さい」

「蕪と一緒に食べる料理やから」

「鰆を食べに来た」

「今日は、これです」

陸は水月が客へ言うような口調で答えた。

源治は蓋を取り、出汁を飲んだ。

何も言わない。

鰆を食べる。

蕪を食べる。

「どう?」

陸が尋ねる。

「客に味を聞くな」

「今日だけ」

源治はもう一口出汁を飲んだ。

「悪くない」

「それだけ?」

「塩が少し強い」

陸の顔が曇る。

源治は続けた。

「でも、海へ出た日の朝には、これくらいでええ」

陸は一瞬黙り、頭を下げた。

「ありがとうございます」

献立札には、こう書かれていた。

〈鰆と焼き蕪の椀 考案・浜田陸/助言・相沢水月/調理補助・川原佐知〉

客が帰ったあと、三人で厨房を片づけた。

陸の勤務は午後四時までだった。

時間になると、水月が賃金の入った封筒を渡した。

「今日の分」

陸は中を確認した。

「交通費も入ってます」

「京都から来たから」

「卒業祝いでは?」

「仕事の金」

陸は封筒を鞄へ入れた。

流し台の脇にある籠を持ち上げる。

二年前、京都の学校へ行くときは、置いていった。

今回は、中へ布巾と手帳を入れる。

「持っていくん?」

水月が尋ねる。

「季彩堂で使います」

「静波へ戻ったときは?」

「空いている籠を借ります」

「陸の場所がなくなると思わん?」

陸は少し考えた。

「籠がなくても、戻りたいときは連絡します」

「仕事があるかは、そのとき返事するよ」

「分かってます」

「客として来てもええ」

「予約します」

陸は籠を持ち、店の外へ出た。

水月と佐知は、戸口で見送った。

源治が少し離れた場所で待っている。

二人は並んで家へ帰っていく。

源治は陸の荷物を持たなかった。

陸も頼まなかった。

歩く速さだけを、源治に合わせていた。

その夜、水月が家へ戻ると、海斗は書斎で仕事を終えるところだった。

「陸、帰った?」

「うん。籠も持っていった」

「寂しい?」

「少し」

「店は?」

「明日は佐知さんと二人」

海斗はパソコンを閉じた。

「僕も、明日から今の役割のまま」

「寂しい?」

「少し」

「昇進を断ったのに?」

「選ばなかった仕事にも、できたかもしれないことは残るから」

水月はうなずいた。

陸を雇わなかった静波にも、別の形があったかもしれない。

席を増やし、三人で料理を作る店。

営業日を増やし、もっと多くの客を迎える店。

それが間違いだったとは思わない。

ただ、水月は選ばなかった。

海斗も、管理職になる道を選ばなかった。

選ばなかったものが価値を失うわけではない。

選んだものだけが正解になるわけでもない。

「夕食、何がある?」

海斗が尋ねる。

「陸の椀の出汁が少し残ってる」

「鰆は?」

「ない」

「蕪は?」

「ある」

「じゃあ、蕪だけ?」

「卵を落とそうか」

二人は台所へ移った。

鍋へ出汁を入れ、焼いた蕪を温める。

最後に卵を割り入れた。

陸の料理とは違う。

静波へ出す料理でもない。

家で二人が食べるための椀だった。

海斗が蓋を開ける。

湯気の中に、昆布と蕪の香りが立つ。

「おいしそう」

「食べてみんと分からんよ」

水月も椀を持った。

二人は向かい合って座り、同時に箸を取った。


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