第26章 行き先のある旅
六月の営業予定を書き終えたところで、水月の手が止まった。
静波の入口に掛ける小さな黒板には、昼と夜の営業日、仕入れの都合による休み、予約で満席になっている日が、白い文字で並んでいる。
月末に、三日続けて何も書かれていない場所があった。
書き忘れではない。
水月は、その空白を見つめた。
「休み、ですよね」
背後から佐知が言った。
仕込み台では、下茹でした隠元豆が笊に上げられている。佐知は豆の水気を拭きながら、水月の手元を見ていた。
「分かってる」
「確認しただけです」
「三日も閉めるん、久しぶりやから」
「去年の台風のときは四日閉めました」
「あれは休みやない」
「店が開いていなかったという意味では同じです」
水月は振り返った。
佐知は何でもない顔で作業を続けている。
今の言葉に冗談が含まれていたのか、半分は本気なのか、水月には分からなかった。
「黒板に、臨時休業って書かんでええやろか」
「普通に店休日でいいと思います」
「三日も?」
「休む日数に普通も臨時もないでしょう」
佐知の言い方が、少し海斗に似てきた。
一緒に働く時間が長くなると、人は似た言葉を使うようになるのだろうか。それとも、二人が最初から水月へ同じことを言いたかっただけなのかもしれない。
水月は黒板へ向き直った。
空白の上に、白いチョークで書く。
二十六日から二十八日まで、お休みをいただきます。
三日とも、同じ線で囲んだ。
書いてしまうと、思っていたより目立った。
「予約の電話が来たら、どうする?」
「休みですと答えます」
「遠くから来る人やったら?」
「また営業日にお願いしますと伝えます」
「常連さんの記念日やったら?」
佐知は手を止めた。
「水月さん」
「分かってる」
「まだ何も言ってません」
「言おうとしたことは分かる」
水月はチョークを箱へ戻した。
店を始めた頃、休むことは怖くなかった。
一人で作れる数だけ作り、客が来なければ片づけて帰る。海が荒れれば献立を変え、身体が動かなければ店を閉める。
そう決めていたはずだった。
客が増え、予約が先まで埋まり、佐知が加わった。
嬉しいことだった。
同時に、閉めれば誰かをがっかりさせる日も増えた。
以前の水月なら、それでも構わないと思えた。ところが、守るものが増えるにつれて、自分の都合で休むことへ妙な後ろめたさを覚えるようになった。
佐知が布巾を洗い始めた。
「旅行中に、仕入れ先から連絡が来ても出ないでくださいね」
「緊急やったら出る」
「魚の緊急って何ですか」
「予定になかったええ魚が入ったとか」
「それは好機であって、緊急ではありません」
水月は返事をせず、黒板を入口へ運んだ。
外では、雨上がりの道が光っていた。屋根から落ちた雫が、水溜まりへ一定ではない輪を広げている。
三日間、静波を閉める。
災害でも、体調不良でも、修理でもない。
海斗と二人で東京へ行くためだった。
結婚してから二年が過ぎていた。
婚姻届を出した日も、その翌年の三月十五日も、二人は特別なことをしなかった。初めの年は静波の予約が入っていた。二年目は海斗が東京との遠隔会議を終えたあと、水月が家で鯛飯を炊いた。
不満はなかった。
祝うべき日を忘れていたわけでもない。
ただ、二人とも、何かを記念するために仕事を休むという考えがなかった。
それを指摘したのは、美代だった。
三週間ほど前、水月と海斗は潮路へ梅を届けに行った。
美代は青い梅を籠から取り出しながら、何気なく尋ねた。
「そういえば、あんたら新婚旅行はどこへ行ったんやった?」
水月と海斗は、同時に相手を見た。
「行ってません」
海斗が答えた。
「行ってない?」
美代の手が止まった。
「結婚して二年経ったんやろ」
「新婚旅行いう時期は、もう過ぎたな」
水月が言うと、美代は梅を籠へ戻した。
「名前なんてどうでもええ。二人でどっかへ遊びに行ったこと、あるん?」
京都へ行ったことはある。
水月の料理を出す催しに参加した日だった。海斗も東京へ行ったことがある。会社の仕事と、西田たちへ会うためだった。
二人で伊根の外へ出たこともある。
だが、調理器具を買うため、契約の相談へ行くため、病院へ行くため。
泊まりがけとなると、思い出せなかった。
「ないみたいです」
海斗が言った。
「休みの日は何してるん」
「家のこととか、買い出しとか」
「それは休みやなくて、店と暮らしを回す日や」
美代は呆れたように言い、帳場の下から古い菓子缶を取り出した。
中には、旅先で集めたらしい切符や入場券が入っていた。
「若い頃は、どこへ行っても店のことが気になったよ。帰ったら布団を何組干すとか、朝ご飯の魚が足りるかとか。せやけど、気にしながらでも行った方がええ。気にせんようになるまで待っとったら、たぶん一生行けん」
帰宅したあと、海斗が言った。
「行ってみる?」
「どこへ」
「旅行」
「行きたいとこあるん?」
海斗は少し考えた。
「東京は、どうかな」
水月は意外に思った。
海斗が東京へ戻ることは、今も彼にとって単純ではない。
以前の会社があった場所。眠れないまま通った道。休職しても休めなかった部屋。
転職後、仕事で何度か東京へ行けるようにはなった。けれど、いつも目的があった。会議があり、会う相手がおり、帰る時刻も決まっていた。
「東京へ、何しに行くん」
「何もしないために」
海斗はそう答えたあと、自分でも可笑しくなったらしく、小さく笑った。
「言い方がおかしいな」
「東京で何もせんの、難しそうやけど」
「だから試してみたい」
水月はすぐには答えなかった。
東京へは、料理の仕事で何度か行ったことがある。駅と会場と宿を移動し、終われば帰る。人の多さと建物の高さばかりが記憶に残っていた。
海斗が暮らしていた頃の東京を、水月は知らない。
彼が壊れかけた場所だけではなく、それより前に好きだった店や、休日に歩いた道もあるはずだった。
「西田さんにも会える?」
水月が尋ねると、海斗はうなずいた。
「聞いてみる」
それで行き先が決まった。
問題は、そのあとだった。
海斗は三日もしないうちに、旅行の予定表を作った。
一日目。
午前六時四十五分、家を出発。
七時二十分のバスで天橋立へ向かい、京都駅を経由して新幹線へ乗る。
東京到着後、荷物をホテルへ預ける。昼食候補が三軒。午後は海斗が以前住んでいた町を歩く。夕方に西田と会う。
二日目。
午前は庭園か美術館。雨天の場合の候補が二つ。昼は水月が興味を持ちそうな料理店。午後は調理道具の店が集まる通り。夕食候補が四軒。
三日目。
午前中は自由。午後の新幹線で京都へ戻り、その日のうちに伊根へ帰る。
水月は、食卓に置かれた紙を上から下まで読んだ。
「これ、旅行?」
「旅行の予定」
「仕事の進行表に見える」
海斗の表情が固まった。
「詰めすぎた?」
「朝、家を出る時刻が分刻みや」
「バスの時刻が決まってるから」
「昼ご飯が三十分しかない」
「店から次の場所まで、移動に二十分かかる」
「せやから、昼ご飯を三十分で食べるん?」
海斗は紙を引き寄せた。
自分で読み返し、しばらく黙った。
「嫌だった?」
「嫌というより、これを全部守らなあかんのかと思うと、行く前から疲れる」
「守らなくていい。目安だから」
「目安を作った人が、一番守ろうとするやろ」
言ったあと、水月は少し強すぎたかもしれないと思った。
海斗は反論しなかった。
予定表の端を、指で折っては戻している。
「予定がないと、不安になるんだ」
静かな声だった。
水月は海斗の顔を見た。
「どこへ行けばいいか分からないまま、人の多い場所にいるのが、今も少し怖い。次に何をするか決めてあると、動ける気がする」
それは、効率を求めているだけではなかった。
初めて伊根へ来た日、海斗は東京駅へ行くまで、どこへ向かうのか決められなかった。
自分が何を見たいかも、何を食べたいかも分からず、ただその場を離れようとした。
あのときの海斗にとって、予定がないことは自由ではなかった。
行き先を決める力さえ残っていないということだった。
水月は予定表をもう一度見た。
「ほな、決めるとこと、決めんとこを分けよ」
「どうやって?」
「宿と電車と、西田さんに会う時間。それだけ決める」
「食事は?」
「腹が減ってから考える」
「入れる店が見つからなかったら?」
「見つからんかったら、弁当でもパンでもええ」
海斗が眉を寄せた。
「水月がそれでいいの?」
「料理人かて、毎回ええ店で食べなあかん決まりはない」
「調理道具の店は?」
「行きたくなったら行く」
海斗は予定表へ線を引いた。
昼食候補を消す。
美術館の時刻を消す。
店から店までの移動時間も消した。
最後に残ったのは、往復の列車、ホテルの住所、西田と会う店の時刻だけだった。
紙の下半分が、ほとんど白くなった。
「これなら?」
「うん」
「少なすぎる気もする」
「足りんかったら、東京で足せばええ」
海斗はまだ不安そうだった。
水月は、消した予定の一つを指差した。
「ここ。あんたが前に住んでた町は、行きたい」
「いいの?」
「見たい。嫌になったら、途中で帰ろ」
海斗はしばらく考え、うなずいた。
それから二人は、それぞれの職場で休みを取った。
海斗は藤崎へ、三日間の有給休暇を申請した。
理由を書く欄には、私用とだけ入力した。
藤崎からは、すぐに承認が届いた。
〈了解です。業務用端末は置いていってください〉
続いて、三浦からも連絡が来た。
〈障害連絡の当番表、こちらで調整済みです。旅行中に確認しないでください〉
海斗は返信欄へ、何かあれば個人の携帯電話へ、と書きかけた。
途中で消した。
〈ありがとう。お願いします〉
それだけ送った。
静波では、水月が三日分の予約を入れないよう帳面へ線を引いた。
佐知はその期間、自分も休むと言った。
「店、開けてもええよ」
水月は言った。
「一人でできる献立にして、売上は佐知さんの分にしても」
「開けません」
「せっかく店が空いてるのに」
「私も休みます。友達と神戸へ行くので」
水月は驚いた。
「いつ決めたん?」
「水月さんが東京へ行くと決めた翌日です」
「早いな」
「先に言っておかないと、水月さんが私へ店を任せる予定を作りそうだったので」
読み切られていた。
佐知は神戸で菓子店を巡るという。仕事の参考ではなく、友人が甘いものを食べたいから付き合うのだと説明した。
「でも、食べたら勉強にはなるやろ」
水月が言うと、佐知はため息をついた。
「そういうことにしてしまうから、休めないんですよ」
出発の朝、水月は午前四時半に目を覚ました。
目覚ましは六時に設定してある。
隣では海斗が眠っていた。
水月は天井を見ながら、今日から三日間に必要な仕込みを頭の中で確かめた。
確かめるものはなかった。
店は閉まっている。
冷蔵庫には、戻った翌日の朝に使う昆布だけが入っている。魚は帰ってから仕入れる。野菜も佐知が手配している。
それでも、頭の中では包丁の位置や、戸締まりや、予約帳の記入が順に浮かんだ。
布団を抜けようとすると、海斗が目を開けた。
「何時?」
「四時半」
「まだ寝られるよ」
「目ぇ覚めた」
「店を見に行こうとしてる?」
水月は答えなかった。
海斗が枕へ顔を半分埋めたまま、こちらを見る。
「昨日、三回確認したよ」
「戸締まりは?」
「した」
「冷蔵庫は?」
「佐知さんと確認した」
「黒板は中に入れた?」
「入れた」
水月は布団へ戻った。
「旅行、向いてへんな」
「まだ家も出てないよ」
「せやからや」
海斗が笑った。
その声を聞いているうちに、水月はもう一度眠った。
次に目を覚ましたのは、目覚ましが鳴ったときだった。
家を出たのは、予定より十分遅かった。
海斗は何度か時計を見たが、急げとは言わなかった。
停留所まで歩く途中、水月が言った。
「間に合う?」
「間に合う。もともと一本早いバスにしてたから」
「予定表、消しても余裕は残してたんやな」
「そこまで消す勇気はなかった」
バスは定刻に来た。
朝の伊根湾は、薄い霧に覆われていた。舟屋の屋根が重なり、その向こうで小さな漁船が動いている。
源治の舟も見えた。
以前のように毎朝ではない。手首を痛めてから、海へ出る日は週に一度か二度になった。
源治は岸から二人に気づき、大きく手を振った。
水月も窓越しに手を上げる。
バスが曲がるまで、源治の姿は見えていた。
京都駅へ着いたのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。
新幹線の発車まで四十分ある。
海斗が尋ねた。
「何か買う?」
駅の売店には、弁当が並んでいた。
牛肉、鯖寿司、鶏の照り焼き、季節の炊き込みご飯。色鮮やかな包みが棚を埋め、客たちが次々に手を伸ばしている。
水月は一通り見て、鯖寿司を取った。
「早いね」
海斗が言った。
「鯖が食べたかったから」
海斗は棚の前に立ったまま動かなかった。
水月は急かさず、少し離れた場所で待った。
海斗は一つを手に取り、戻した。
別の弁当の表示を読む。
後ろへ客が並び始めると、端へ寄って道を空けた。
「決まらん?」
水月が尋ねた。
「どれでもいいと思うと、余計に決められない」
「食べたくないなら、買わんでもええよ」
その言葉に、海斗は棚から目を離した。
「買わなくてもいい?」
「車内で腹減ったら、私の分を少し食べたらええ」
海斗は水月の持つ鯖寿司を見た。
「それは、あまり分ける気のない量じゃない?」
「二切れまでやな」
「少ない」
海斗は笑い、それから鮭と出汁巻きの入った弁当を手に取った。
「これにする」
「鮭、好きやもんな」
「うん。今日は食べたいと思った」
新幹線が京都を離れると、二人は弁当を開いた。
水月は鯖寿司の断面を眺め、海斗は鮭を一口食べた。
「どう?」
水月が聞く。
「おいしい」
「もっと具体的に」
「仕事にせん約束やろ」
海斗が言った。
水月は箸を止めた。
「確かに」
二人はそれ以上、味を分析しなかった。
窓の外を流れる田畑を見ながら食べた。
東京が近づくにつれて、建物が増えていく。
海斗の口数が少なくなった。
水月は気づいていたが、すぐには声をかけなかった。
新横浜を過ぎた頃、海斗は空になった弁当箱を丁寧に畳み、紙袋へ戻した。
指先の動きが、少し硬かった。
「海斗」
「うん」
「しんどい?」
海斗は窓の外を見たまま、しばらく黙った。
「少し」
「降りたら、どうする?」
「ホテルまで行く」
「その前は?」
「その前?」
「駅で休んでもええ。水飲んでもええ。外へ出んでもええ」
海斗は息を吐いた。
「着いたら、十分座りたい」
「分かった」
「手、握ってもらってもいい?」
水月は自分の手を差し出した。
海斗が重ねる。
汗ばんでいた。
水月は強く握らなかった。
新幹線が東京駅へ滑り込むまで、二人はそのまま座っていた。
ホームへ降りると、人の流れが一斉に出口へ向かった。
海斗は水月の少し前を歩いた。足取りは速くない。案内表示を見上げ、進む方向を確かめている。
改札を出たあと、二人は広い通路の端にあるベンチへ座った。
目の前を、大勢の人が通り過ぎていく。
スーツ姿の会社員、修学旅行の生徒、子どもの手を引く親、土産物の袋を下げた旅行者。
誰も海斗を見ていない。
誰も、彼が以前ここで立ち尽くし、行き先を決められなかったことを知らない。
十分ほどして、水月が尋ねた。
「動けそう?」
海斗はうなずいた。
「もう少し座ってもいいけど」
「いや、大丈夫」
言った直後、海斗は首を振った。
「今の大丈夫は、たぶん昔の癖だ」
水月は何も言わず、続きを待った。
「動ける。でも、急ぎたくない」
「ほな、ゆっくり行こ」
ホテルへ荷物を預けたあと、二人は海斗が以前住んでいた町へ向かった。
電車を降りると、駅前には低い商店街が続いていた。
東京の中心部ほど人は多くない。それでも車と自転車が絶えず行き交い、店先から音楽や呼び込みの声が流れてくる。
「もっと高い建物ばかりのところに住んでたんかと思ってた」
水月が言った。
「家賃が高いから。会社から四十分くらいの場所を選んだ」
「毎日、そこから通ってたんやな」
「うん。乗り換えがうまくいかない日は、もう少しかかったけど」
海斗は駅前の道を指した。
「こっち」
海斗が暮らしていたアパートは、駅から十分ほど歩いた場所にあった。
途中に、古い書店と惣菜屋がある。
コインランドリーの隣には、小さな喫茶店が残っていた。
「ここ、よく来た」
海斗が足を止める。
店の窓には、色褪せた紙で、ブレンドコーヒー四百五十円と書かれている。
「入る?」
「まだあると思わなかった」
「閉まってる?」
「いや、開いてる」
海斗は入口の前で迷った。
中には数人の客がいる。奥から食器の触れ合う音が聞こえた。
「昔の店主と違ったら、どうする?」
「コーヒー飲む」
「味が変わってたら?」
「それでも飲む」
水月が答えると、海斗は戸を開けた。
店内は狭く、壁際に四人掛けの席が三つ並んでいた。
カウンターの中にいたのは、白髪の男性だった。
海斗を見ると、わずかに目を細めた。
「久しぶりだね」
海斗が驚いた。
「覚えてるんですか」
「端の席で、いつもパソコン開いてた人やろ」
店主は、窓際の二人席を示した。
「今日はパソコンなし?」
「はい。置いてきました」
「そりゃ、ええことや」
水月と海斗は向かい合って座った。
海斗はブレンドコーヒー、水月は冷たいミルクコーヒーを頼んだ。
「ここでも仕事してたん?」
「最初は、本を読んでた」
「何の本?」
「小説とか、技術と関係ないもの」
「最初は?」
海斗はテーブルの木目を見た。
「仕事が増えてからは、休日にもパソコンを持ってきた。部屋だと何もしないまま一日が終わりそうで、不安だったから」
「何もせん日が怖かった?」
「うん。その頃は、休んだら遅れると思ってた」
店主が飲み物を運んできた。
コーヒーの香りが上がる。
水月は一口飲んだ。
甘く、少し薄かった。
店で出すなら、氷の量を減らすだろう。牛乳をもう少し濃いものへ変えたいとも思った。
考え始めたところで、佐知の言葉を思い出す。
そういうことにしてしまうから、休めない。
水月は評価するのをやめ、もう一口飲んだ。
冷たくて、甘い。
それで十分だった。
喫茶店を出て、海斗の住んでいたアパートへ向かった。
建物は残っていた。
灰色の外壁。狭いベランダ。入口脇に並ぶ自転車。
海斗は道路の反対側から、三階の角部屋を見上げた。
「カーテン、変わってる」
「今は別の人が住んでるんやな」
「当たり前なんだけど、不思議だ」
「入りたい?」
「それは不審者だよ」
「外から見るだけでええ?」
海斗はうなずいた。
しばらく、二人で建物を眺めた。
あの部屋の冷蔵庫には、水と缶ビールと賞味期限の切れたヨーグルトしかなかった。
床には通販の段ボールが積まれ、仕事用の携帯電話が鳴っていなくても、海斗には通知音が聞こえていた。
「ここから出た朝、駅までどう歩いたか、あまり覚えてない」
海斗が言った。
「東京駅へ行った日?」
「うん。何かを決めたというより、部屋にいられなくなっただけだった」
「それでも、出たんやろ」
「出た」
「ほんで、伊根まで来た」
海斗は笑わなかった。
「もし、あのとき静波が満席だったら、どうなってたかな」
「別の店で食べたかもしれん」
「全部閉まってたら?」
「美代さんが何か作ったやろ」
「それもなかったら?」
水月は考えた。
「腹を減らしたまま寝て、次の日に何か食べたんちゃう」
海斗は、水月の方を見た。
「それだけ?」
「それだけや。あの日、静波へ来んかったとしても、あんたの人生がそこで終わったわけやない」
水月は、アパートの三階へ目を戻した。
「うちが助けたみたいに思うんは、違うで」
「分かってるつもりだけど」
「私の料理を食べて眠れたんは、ほんまや。でも、休みたいって言うたんも、病院へ行ったんも、東京駅へ来たんも、伊根まで移動したんも、あんたや」
海斗は黙って聞いていた。
「偶然会えたんは嬉しい。せやけど、会えんかったらあかんかった、とは思わん」
風が通り抜け、街路樹の葉が揺れた。
アパートの一室で、布団を干している人がいた。
誰かの生活が、海斗のいた部屋で続いている。
「そうだね」
海斗が言った。
「そう思える方が、嬉しいかもしれない」
二人は駅へ戻った。
夕方、西田と待ち合わせた店へ向かった。
駅近くの小さな居酒屋だった。
西田は先に着いていた。
水月と海斗が入ると、立ち上がって手を振った。
「水月さん、お久しぶりです」
「お久しぶりです」
「海斗さん、ちゃんとパソコン置いてきました?」
挨拶より先に確認された。
海斗は両手を見せた。
「持ってない」
「鞄の中は?」
「疑いすぎじゃない?」
「前科がありますから」
三人で席へ座った。
西田はビール、水月は日本酒、海斗は炭酸水を頼んだ。
料理は、冷やしトマト、焼き鳥、鯵のなめろう、揚げ出し豆腐を順に注文した。
「水月さん、味の感想を聞かせてください」
なめろうを一口食べた西田が言った。
「今日は客やから、言わん」
「そんな日もあるんですか」
「作る人の前で言わんだけで、頭の中では考えてしまうけど」
「海斗さんと同じですね」
「僕は料理の分析はしないよ」
「仕事の仕組みを分析するでしょう。さっきも注文を取りに来る間隔を見てました」
海斗は否定できず、炭酸水を飲んだ。
西田は以前より髪が短くなっていた。
目の下に疲れは見えるが、海斗と同じ会社にいた頃より、表情に余裕があるようにも見えた。
「課長代理の話、受けたんです」
料理が一段落したところで、西田が言った。
「そうなんだ」
「条件付きですけど」
「どんな条件?」
「半年ごとに続けるか見直す。自分が夜間対応の固定要員にならない。人が足りないまま案件を受けた場合、納期の調整を要求する。無理なら役職を返す」
西田は指を折りながら数えた。
「全部、書面にしてもらいました」
「黒田部長が認めたの?」
「最初は、信頼関係の話だから書面まで要らないって言われました」
「それで?」
「信頼しているから、書けますよねと言いました」
水月は笑った。
「強いな」
「怖かったですよ。言う前の日、ほとんど眠れませんでした」
西田はビールのグラスを両手で包んだ。
「受けない方が楽だったかもしれません。でも、役職を断るだけだと、あの頃と同じ働き方をする人がまた出る気がして。権限を持つなら、変えられることもあるかなと思いました」
「西田さんなら、できるよ」
海斗が言った。
西田はすぐに首を振った。
「そういう期待のかけ方、禁止です」
海斗は口を閉じた。
「できなかったとき、逃げられなくなるので」
「ああ……ごめん」
「謝らなくていいです。代わりに、こう言ってください」
西田は少し考えた。
「うまくいかなかったら、辞めてもいいって」
海斗はうなずいた。
「うまくいかなかったら、辞めてもいい」
「はい。そっちの方が安心します」
水月は二人のやり取りを見ていた。
以前の海斗なら、西田の条件を聞き、さらに足りない点を探したかもしれない。考えられる問題を並べ、自分が手伝える方法を提示しただろう。
今は、何も付け加えなかった。
西田も、助言を求めなかった。
「海斗さんは、技術職の道、どうなりました?」
西田が尋ねた。
「来月から、専門職の等級が試験的に作られる。僕は最初の対象者になる」
「管理職にならずに?」
「うん。人事評価は持たない。技術判断と、複数チームの設計支援が仕事になる」
「責任だけ増えて、給料は据え置きじゃないでしょうね」
「そこは交渉した」
「いくら上がるんですか」
海斗が水月を見た。
「聞いてないん?」
西田が驚いた。
「聞いたけど、覚えてへん」
「家のローンがあるのに?」
「払えることは確認した」
西田が声を立てて笑った。
海斗も笑った。
周囲の客の話し声と、焼き台から上がる音が混じっている。
水月は日本酒を一口飲んだ。
海のそばではない店で、誰かが選んだ魚を食べる。調理場へ立たず、皿が空けば下げてもらう。
それだけのことが、妙に落ち着かなかった。
同時に、少し楽しかった。
三人は二時間ほど話した。
仕事のことだけではなかった。
西田が最近始めた陶芸教室の話。海斗が家の庭で育てている大葉を、虫に食べられた話。水月が源治から貰った苗を植える場所を間違え、通路を塞いだ話。
店を出ると、雨が降っていた。
西田は鞄から折り畳み傘を出した。
「明日、何するんですか」
「決めてない」
海斗が答える。
「海斗さんが?」
「旅行中だから」
西田は水月を見た。
「何かありました?」
「予定を削った」
「なるほど」
西田は納得したようにうなずいた。
駅の入口で別れる。
「また伊根へ行きます」
西田が言った。
「今度は休みを取って」
「お待ちしてます」
水月が答える。
海斗は一瞬、いつでも来て、と言いかけた。
だが、少し考えてから言った。
「静波の営業日を確認してから来てね」
「成長しましたね」
西田は笑い、改札へ向かった。
翌朝も、雨は続いていた。
ホテルの窓を細い雨粒が流れている。
海斗は七時に目を覚まし、携帯電話で天気を確認した。
水月はまだ眠っている。
朝食は九時半まで。
そのあと、どこへ行くかは決まっていない。
海斗は検索画面を開いた。
雨の日の東京。
観光。
混雑しない場所。
入力して、検索する前に止めた。
隣で水月が寝返りを打つ。
海斗は携帯電話を伏せ、もう一度枕へ頭を載せた。
八時過ぎに二人で起きた。
朝食会場へ降り、パンと卵、スープを取る。
水月は小さなクロワッサンを二つ食べた。
「今日、どうする?」
海斗が尋ねた。
「外は雨やな」
「美術館なら、いくつか候補がある」
「行きたい?」
「分からない」
「ほな、分かるまで部屋におる?」
「ホテルへ泊まりに来たみたいになるよ」
「泊まりに来たんやろ」
水月はコーヒーを飲み、窓の外を見た。
傘を差した人たちが、足早に駅へ向かっている。
「歩いてみよか」
「雨の中を?」
「嫌になったら戻る」
部屋へ戻り、傘を持って外へ出た。
行き先は決めなかった。
ホテルの前の道を右へ曲がり、次の角を左へ進む。
大通りから一本外れると、小さな店と住宅が並んでいた。
軒先に鉢植えを並べた家がある。クリーニング店の中では、店員が白いシャツへ透明な袋を掛けていた。
水月は歩きながら、ときどき店先を覗いた。
古書店で足を止める。
料理の本が並ぶ棚を見つけ、古い家庭料理の本を一冊手に取った。
「買う?」
海斗が尋ねる。
「迷ってる」
「仕事になるから?」
「それもある」
「欲しいなら、買えばいいと思う」
「欲しいかどうか、分からん」
水月は本を棚へ戻した。
「戻していいの?」
「買わんでも、また欲しくなったら探せる」
店を出たあとも、水月は振り返らなかった。
しばらく歩くと、雨が強くなった。
二人は近くにあった蕎麦屋へ入った。
昼にはまだ早く、客は一組しかいない。
水月は温かい山菜蕎麦、海斗は鴨南蛮を頼んだ。
蕎麦が運ばれてくると、水月はまず出汁を飲んだ。
「今日は客やろ」
海斗が言った。
「何も言ってへん」
「顔が考えてる」
「そっちも、店員さんの動線見てたやろ」
二人は目を合わせた。
「やめられへんな」
水月が言う。
「完全には無理かもしれない」
「ほな、考えてもええことにする?」
「でも、口には出さない」
「それは苦しい」
「一つずつなら言っていいことにする?」
水月は考えた。
「褒めるとこ、一つだけ」
「改善点じゃなくて?」
「休みに、人の店の改善点を探さんでええ」
海斗は鴨南蛮を一口食べた。
「葱がおいしい」
水月も山菜を噛んだ。
「出汁が温かい」
「それ、褒めてる?」
「今はそれが一番ええ」
店を出る頃には、雨が弱くなっていた。
川沿いへ出た。
濡れた欄干の向こうで、水面が細かく揺れている。
伊根の海とは違う色だった。雨水と土を含み、灰色がかった流れが橋の下を通っていく。
二人は並んで歩いた。
観光地らしい場所には、まだ一つも行っていない。
写真も撮っていなかった。
それでも海斗は、朝より身体が軽いと感じた。
途中の公園で、雨が止んだ。
ベンチへ座ると、木の葉から雫が落ちてきた。
遊具の近くでは、長靴を履いた子どもが水溜まりを踏んでいる。母親が止めるたび、子どもは別の水溜まりへ向かった。
水月が笑った。
「陸も、あれくらいの頃はあんなんやったんかな」
「源治さんが止めても、聞かなそうだね」
「今もあんまり聞かへんけど」
陸は京都の季彩堂で働き始めて、二か月が経っていた。
最初の一週間は、毎晩のように水月へ連絡を寄こした。
包丁を握らせてもらえない。
出汁を引くところも見せてもらえない。
朝から筍の皮を剥き、掃除をして、一日が終わる。
水月は、辞めるなとも、我慢しろとも言わなかった。
何を教わるための仕事なのか、店へ確認するよう伝えた。
陸は料理長へ尋ねた。
翌月から、賄いの汁物を交代で任せてもらえることになったらしい。
連絡の回数は減った。
昨夜は、昆布を焦がしたと短いメッセージが来ていた。
「陸、今日は休みやったな」
水月が言った。
「会おうと思えば会えるけど」
海斗は携帯電話を取り出しかけた。
「会いたい?」
「いや」
「ほな、連絡せんでええ」
「東京にいるって伝えなくていいのかな」
「伝える必要があったら、向こうから聞く」
海斗は携帯電話をポケットへ戻した。
「前は、会える人には会っておかないと、もったいないと思ってた」
「今は?」
「会わない時間も、その人の休みなんだと思う」
水月は木の枝から落ちる雫を目で追った。
「佐知さん、今頃神戸やな」
「連絡しないでね」
「してへん」
「今、しようと思った?」
「菓子の写真くらい送ってくれてもええのに、とは思った」
「帰ってから見せてもらえばいい」
「分かってる」
水月は少し不満そうに言った。
海斗は笑った。
午後は、偶然見つけた小さな展示室へ入った。
名前も知らない写真家が撮った、町の台所の写真が並んでいた。
使い込まれた鍋。
窓際へ吊るされた笊。
磨り減ったまな板。
誰も写っていないのに、その場所で料理する人の姿が見えるようだった。
水月は一枚ずつ、時間をかけて見た。
海斗は先へ進まず、水月の横に立っていた。
出口で小さな図録を買う。
古書店では本を買わなかった水月が、今度は迷わなかった。
「欲しかった?」
海斗が尋ねる。
「うん」
「仕事のためじゃなく?」
「店に置くかもしれん」
「それは仕事では?」
水月は図録の入った袋を見た。
「家で見る。店に置きたくなったら、そのとき考える」
ホテルへ戻ったのは、夕方五時だった。
二人とも疲れていた。
夕食へ出るつもりだったが、ベッドへ腰を下ろすと動けなくなった。
「何か食べる?」
海斗が尋ねた。
「さっきの蕎麦、まだ残ってる」
「僕は少し空腹かもしれない」
「一人で行ってきてもええよ」
「水月は?」
「部屋におる」
海斗は迷った。
二人の旅行なのだから、一緒に食べるべきではないかと思った。
けれど、水月はすでに靴を脱ぎ、ベッドへ横になっている。
「近くで何か買ってくる。欲しくなったときの分も買っていい?」
「おにぎり一個」
「中身は?」
「海斗が選んで」
海斗は一人で外へ出た。
雨は上がっていた。
夕方の街を、仕事帰りの人たちが駅へ向かっている。
海斗は流れと逆の方向へ歩いた。
以前なら、自分だけが立ち止まっているように感じただろう。
今も、少しだけ胸がざわついた。
それでも、急ぐ必要はなかった。
近くの惣菜店へ入り、自分には鶏肉と野菜の弁当、水月には梅のおにぎりを一つ買った。
会計の前で、卵焼きが目に入った。
水月は要らないと言うかもしれない。
海斗は少し考え、小さなパックを籠へ入れた。
ホテルへ戻ると、水月は窓際の椅子へ移り、買った図録を見ていた。
「ただいま」
「おかえり」
海斗はテーブルへ食べ物を並べた。
「卵焼きも買った」
「頼んでへん」
「僕が食べる」
水月は図録を閉じた。
海斗が弁当を食べ始めると、向かい側へ座る。
梅のおにぎりを半分食べ、卵焼きへ箸を伸ばした。
「それ、僕のじゃなかった?」
「一個もろたらあかん?」
「いいけど」
水月は卵焼きを食べた。
「甘い」
「嫌だった?」
「別に」
もう一つ取った。
「旅行、楽しい?」
海斗が尋ねた。
水月はすぐに答えなかった。
「疲れる」
「うん」
「人、多いし、音も多い」
「うん」
「店のことも考える」
「うん」
水月は残りのおにぎりを食べた。
「でも、来てよかった」
海斗は箸を置いた。
「どうして?」
「知らん道を、行き先決めんと歩いたん、初めてやった」
「伊根でもできるよ」
「伊根は、どこを歩いても知ってる人に会う」
「確かに」
「海斗が住んでた町も見られた。西田さんとも話せた。知らん人の蕎麦食べて、知らん人の写真見た」
水月は窓の外を見た。
ビルの窓に、いくつもの明かりがついている。
「ああいう一日もあるんやなと思った」
海斗は弁当を食べ終えた。
「僕も、楽しいかどうかをずっと確認してた」
「誰に?」
「自分に。せっかく休んで来たんだから、楽しまないといけないと思って」
「また仕事にしてたんやな」
「そうみたい」
水月は最後の卵焼きを半分に割り、海斗の弁当箱へ戻した。
「楽しくない時間があってもええやろ」
「うん」
「しんどかったら、しんどかったでええ。帰りたくなったら、帰ればええ」
「それで旅行になる?」
「家を出て、帰ったら旅行や」
海斗は半分の卵焼きを食べた。
甘かった。
三日目の朝、二人はゆっくり起きた。
チェックアウトまで、特に何もしなかった。
水月は図録を見返し、海斗は窓の外を眺めた。
仕事用の端末は伊根に置いてある。
連絡が来ているかどうかも分からない。
海斗は、その分からなさを以前ほど怖いと思わなかった。
ホテルを出たあと、東京駅へ向かった。
帰りの新幹線までは、一時間ほどある。
土産物店を見て回り、美代には小さな羊羹、源治には海苔の佃煮、佐知には焼き菓子を買った。
陸への土産を探しながら、水月が言った。
「京都で買えばええか」
「東京へ来たのに?」
「同じもん、持って帰るの面倒やろ」
「それを言ったら、今買ったものも全部そうだよ」
「確かに」
結局、陸には東京の老舗が作った小さな包丁拭きを選んだ。
売り場を出たところで、海斗は弁当店の前に立ち止まった。
色とりどりの箱が、棚いっぱいに並んでいる。
東京を離れた最初の日、海斗はこの駅で弁当を選べなかった。
どれを見ても食べたいと思えず、水だけを買って新幹線へ乗った。
その記憶は、鮮明ではない。
売り場の形も、店員の顔も覚えていなかった。ただ、決められないまま人の流れを邪魔しているように感じたことだけが残っている。
「買う?」
水月が尋ねた。
「うん」
海斗は棚を見た。
鮭、牛肉、深川飯、鶏そぼろ、幕の内。
最初に鮭の弁当へ手を伸ばした。
京都から来るときも、鮭を選んだ。
同じものなら間違いないと思った。
指が箱へ触れる直前で止まる。
「どうしたん?」
「やっぱり、別のにしてもいいかな」
「好きにしたらええ」
海斗は鮭を戻し、深川飯の弁当を取った。
「あさり?」
「うん。食べたことがないから」
水月は鶏そぼろの弁当を選んだ。
会計を済ませ、新幹線へ乗る。
列車が動き出してから、二人は弁当を開いた。
海斗は深川飯を一口食べた。
甘辛く煮たあさりの味が、ご飯へ染みていた。
「どう?」
水月が尋ねる。
海斗は少し考えた。
「鮭でもよかったかもしれない」
水月が笑った。
「失敗した?」
「失敗というほどじゃない。おいしいけど、次は鮭にする」
「ほな、食べた意味あったな」
海斗も笑った。
窓の外で、東京の建物が後ろへ流れていく。
以前ここを離れたとき、海斗は戻る日を決めていなかった。
仕事へ戻れるかも、元の生活へ戻りたいのかも分からなかった。
今は、帰る場所が決まっている。
伊根の家。
水月の部屋と、自分の仕事部屋。
少し傾いた廊下。
庭で虫に食べられた大葉。
静波の六つの席。
けれど、帰る場所があるからといって、東京を拒む必要はなかった。
ここには、苦しかった時間だけではなく、本を読んだ喫茶店や、西田と笑った夜もある。
すべてを好きになる必要はない。
すべてを克服したことにする必要もない。
海斗は弁当を食べながら、窓の外を見た。
途中で眠り、目を覚ましたときには京都が近づいていた。
その日の夜、二人は伊根へ戻った。
家の戸を開けると、閉め切っていた空気がこもっていた。
水月は窓を開けた。
海から入る風が、部屋を通り抜ける。
荷物を廊下へ置いたまま、二人は畳へ座った。
「帰ったな」
水月が言った。
「うん」
「店、見に行かんでええ?」
海斗が尋ねる。
水月は少し迷った。
「明日の朝にする」
「冷蔵庫が止まってたら?」
「昆布しか入ってへん」
「戸が壊れてたら?」
「佐知さんから連絡来てる」
水月は携帯電話を取り出した。
佐知から、数時間前に写真が届いていた。
神戸の喫茶店らしい。
大きなガラス皿に、苺のパフェが載っている。
〈仕事の参考ではありません〉
その一文が添えられていた。
水月は海斗へ画面を見せた。
「楽しそうだね」
「こんな大きいの、よう食べたな」
返信を入力する。
〈おいしそう。こっちも帰りました〉
送信してから、店の状態を尋ねそうになった。
文字を打ち、消す。
代わりに、東京で買った焼き菓子の写真を送った。
〈土産あります〉
すぐに既読がついた。
〈明後日、受け取ります。明日はまだ休みです〉
水月は笑った。
「釘刺された」
「休みを一日残しておいてよかったね」
東京から戻った翌日も、静波は休みだった。
水月は最初、移動日を含めて二日だけ閉めるつもりだった。
海斗と佐知が、帰宅した翌日まで休みにするよう言った。
疲れた身体で仕入れをして、翌朝から店を開けば、旅の最後が仕込みになるからだった。
「明日、何する?」
海斗が尋ねた。
「洗濯」
「それ以外」
「荷物片づける」
「それ以外」
水月は考えた。
思いつかなかった。
海斗も黙っている。
壁に掛けた予定表には、明日の欄だけ何も書かれていなかった。
店休日とも、家事とも、仕入れとも書いていない。
「何もせん?」
水月が言った。
「できるかな」
「朝になってから決めよ」
海斗はうなずいた。
二人は荷物を廊下へ置いたまま、台所へ立った。
夕食を作るほどの材料はない。
冷蔵庫に残っていた卵を二つ割り、海斗が焼いた。水月は即席の味噌汁へ乾燥わかめを入れた。
東京で買った佃煮も少し開ける。
誰かへ渡すための土産だったが、味見をしてからでもよいことにした。
卵は少し焦げていた。
水月は一口食べた。
「東京の卵焼きより、こっちの方がええ」
「甘くないから?」
「焦げてるから」
「褒めてないよね」
「一つだけ褒める約束やったな」
水月はもう一口食べた。
「温かい」
海斗は笑った。
窓の外から、波の音が聞こえる。
東京の道路を走る車の音とは違う。
けれど、東京で聞いた雨も、川の音も、店の中のざわめきも、もう遠ざけなくてよかった。
海斗は味噌汁を飲んだ。
水月が作ったものではない。
湯を注いだだけの味だった。
それでも、帰ってきた夜に二人で食べるには、十分だった。
食事を終えても、荷物は片づけなかった。
明日の予定も決めなかった。
壁の予定表には、一日分の白い場所が残っている。
海斗はその空白を見た。
以前なら、何かを書かなければ落ち着かなかっただろう。
水月も、休みと書いて囲みたくなったかもしれない。
二人とも、何も書かなかった。
窓から入った風で、予定表の端が小さく揺れた。
その白い一日は、まだ何にもなっていなかった。




